伊丹市立図書館の書庫に所蔵されている小冊子『静かな平和を祈って』陸上自衛隊中部方面総監部(昭和37年度)を複写したのが、今年の2月7日。
姫路駐屯地における自衛官候補生入隊式にご招待をいただき、出席の返答をしたのが、3月4日。
そして、4月11日の昨日は再び姫路に赴き、一日中「姫路デー」を過ごした。生起した出来事を巡る雑感及び今後の展望について、若干記してみたい。
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昨年度の自衛官候補生入隊式には、先約が二つ重なっていたので、私は欠席とした。その前後の広報陸曹とのやり取りは、既に書いた。
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2024年4月1日「4月からの計画」
《すっかり忘れた頃になって、姫路駐屯地の広報係から電話がかかってきた。それも1月8日、放送大学大学院の修士論文の口頭試問の日だった。東京から帰宅すると、留守電のランプが光っており、何やら聞き取りにくい声で重要な要件が流れて来た。折り返し電話すると、「他の応募者は、あれから住所が変わったり、連絡が取れなくなったりした人が何人か出たので、今のところ、ユーリさんを内定候補者として考えております。千僧駐屯地にも近いですし」と。「但し、今回が防衛モニター経験が初めてだということなので、姫路駐屯地に来てもらいます。それでもいいですか?」とのこと。》
《その後は、1月1日に発生した能登半島の地震のために救援活動に赴くということで、連絡はメールや郵送が中心となった。早速、求めに応じて、ワードに作成してある履歴書を抜粋した簡単な履歴書と写真を送ったところ、「こんなに多彩な経歴を持った方が応募されるなんて、光栄です!上に報告し、第一候補者として推薦します」との電話もあった。》
《防衛モニターの業務は、特定テーマに関する定期報告、自由テーマに関する随時報告、姫路駐屯地における各種行事への参加であり、日本国籍を有することが条件である。》
《防衛事務次官から委嘱状、中部方面総監からはモニター証明書が発行される由。》
《(2024年8月16日後注:実は、私の方に先約があったため、4月の自衛官候補生の入隊式には、やむを得ず欠席することになった。すると、担当の広報官から「数日後には届くよう、委嘱状を郵送する」と電話で伝えられたが、昨今では郵便事情が悪化したためか、4月末までに届かなかった。そこで、5月半ばに、招待された近隣の千僧駐屯地の式典に出席した後、千僧の自衛官に「あれから連絡がないんですけど、姫路の方はどうなったのですか」と尋ねると、「こちらから必ず連絡しますので」と。翌日、WACと呼ばれる若い女性自衛官さんから電話連絡があり、「姫路の広報官と連絡が取れました。数日内にはユーリさんに電話するとのことです。(ユーリさんは)前向きな方なので、と伝えておきました」。実際には、防衛事務次官発行の委嘱状というものは、郵送で簡便に済ますべきものではないと私は思っていたが、やはりそうだったらしい。その後、6月21日に招待された自衛官候補生の修了式前には、たった私一人のモニターのために、駐屯地内の一室で、きれいに準備された5分程のミニ式典が一室で開かれ、恐らくは二等佐官に相当するのであろう(甘いマスクのハンサムな)副連隊長氏から、うやうやしく委嘱状を受け取った。また、同室には4名程の冬の制服姿の自衛官が、それぞれ所定の位置に立って‘ミニ式典’を見守り、記念写真まで装丁していただいた。)》
《うちの弟も高校3年生の頃、防衛大学校にも合格しており、自宅にいた私宛に電話がかかってきて「〇〇君は、家庭環境もいいし、将来的には幹部候補生として教育していきたいので、お姉さんからも説得してください」というキビキビした話を受けた。(当時の世相の影響もあり、私自身が却下してしまっていた。)その時の償いの意味もある。》
(転載終)
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2024年5月20日付「千僧駐屯地の記念行事」
《広報担当のこの姫路の自衛官さん、人は良さそうなのだが、多分まだお若いのだろうか、もう少し連絡を早めに緻密に伝える必要があると思う。もしかしたら、上官によく注意され、叱られながら成長中なのかもしれない。》
(転載終)
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2024年6月22日「姫路駐屯地と髙橋洋一氏講演会」
《今回、上述の広報担当官と初めてお会いしてみて、私の方に誤解が多々あったことに気づいたからだ。気さくで親切だが、「お若い方」というよりは、来年定年を迎える方だと知った。また、駐屯地内のお住まいではなく、一戸建ての自宅をお持ちだとのこと。「家族あっての自衛隊ですから」という言葉は、事実であり実感であり、有無を言わせぬ説得力に満ちていた。》
《駅まで車で迎えに来てくださり、帰りも送ってくださった。質問攻めみたいな私だったのに、どの問いかけに対しても、やや早口で流暢に答えられたので、こちらとしては全て納得。》
《今回は、今年4月に入隊した自衛官候補生の計23名が、3ヶ月間の厳しい訓練を無事終えて、6月21日(金)の午前10時半から50分間の修了式が挙行されるとのことで、私もお呼ばれに与り、体育館内の壇上に席を設けていただいた。その前に、「防衛モニター委嘱状授与式」の時間が設けられており、たった私一人のために、数名の自衛官の方々が細やかに役割をテキパキとこなされ、写真撮影までしていただいた。》
《予習をしておいた他の駐屯地の防衛モニターさんのブログやお話によれば、モニターは一つの駐屯地につき大抵二人。モニター同士でお互いに打ち合わせの上、活動に参加されているようだった。てっきり、私にも相棒がいるものと思い込んでいたら、実は今回の姫路駐屯地では私だけだったとのこと。但し、来年も継続するならば、任期が重なるためにモニターは二人になるかもしれない(らしい)。》
《式典において、日の丸と君が代が尊重されていることは、千僧駐屯地と全く同じで、小学校から高校までの学校時代を思い出し、気持ちが落ち着く。また、壇上の来賓が一人ずつ名前を呼ばれ、起立して「本日はおめでとうございます」と述べるのだが、私も同様にしたところ、同じく候補生23名から一斉に「ありがとうございます!」と大声で応答唱和。しみじみ自衛隊だなぁ、と。》
《式典中、赤ちゃんの声が聞こえたが、候補生のご家族だとのこと。この辺りも、何ともほのぼのとして、いい感じだった。》
《式典の間に記念撮影がきれいに製本され、委嘱状も額に入れていただき、その他にボールペンやCD-ROM等のお土産も、至れり尽くせりだった。冊子も何冊か受け取り、わかりやすく説明されていると感じた。(2024年6月28日修正:「ボールペン」ではなく「シャープペンシル」)
(転載終)
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上述の印象深い広報陸曹氏は、6月20日の自衛官候補生修了式の時には定年退職後で、もう駐屯地にはいらっしゃらない、とのことで、昨日が事実上、最後のお別れを兼ねていた。
考えてみれば、昨年の今頃は何も知らなかった。あと一年は続けることになるだろうと覚悟していた修論に対して、二つ目の修士号を何とか授与された解放感から、しばらくは横に関心を広げてみたい、新しいことに挑戦してみたい、という高揚感が先立っていた。
あれから一年。さまざまな自衛官さん達とも少しずつ顔見知りになり、家族会や自衛隊応援団のような方々と何度か顔合わせをして話をするようになると、『朝雲新聞』や『MAMOR』のおかげもあり、徐々に馴染んでいく自分を見出した。
最初は、正直なところ、姫路駐屯地も自衛官も、まるで異文化世界だった。自衛隊を支援されている方々も、それまで私が暮らしていた時空間とは異なったタイプが多く、「この歳にして初めて知る日本社会の現実」といった感じだった。
恐らく、上記の広報陸曹氏にとっても、辞退者や連絡が取れなくなったモニター応募者が出たために、繰り上げ当選のような形で私を採用してはみたものの、多分、小うるさそうな、やりにくい異人種のように想像されていたかもしれない。
だからこそ、初回の昨年6月に、正面切ってストレートに何でも質問してみたことは、一期一会、その後の展開にとって有益だったのではないか、と私自身は思っている。
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昨年度は、姫路も遠ければ、防衛モニターもたった一人。若年から壮年にかけての男社会の陸上自衛隊駐屯地に、公的な務めとはいえ、何のつてもないのに果敢に出かけて行った私。(よくやったなぁ)と、我ながら感じるところだ。
しかし、あくまで外部者としての印象では、播磨国の播州姫路の広報室の自衛官さん達は、全体として親しみやすく親切なものの、摂津国の伊丹や千僧と比べて、おっとりのんびりしていて、連絡や通知のやり方が遅かったり、いささか齟齬が見られたりする。競争的な民間社会とは違って、「上から言われた通り、自分のやることをやっていればいい」という国家公務員式の自衛隊文化に染まっているのかもしれない。あるいは、好意的に見るならば、昨今の急激な国際情勢の変化に伴う緊急訓練や山林火災が発生しており、人員不足で困っているからなのかもしれない。
今回も、せっかくフレッシュな30名の自衛官候補生との集合記念撮影だったのに、式典後に私が尋ねた若い女性自衛官さんの認識が甘く、「来賓者名が記されていないから、関係ないですね」と言われて、結局は逃してしまった。本当に残念で、帰宅後も気になって仕方がなかった。
尤も、広報室の幹部氏は、低頭マーク付きで謝ってくださり、今後は気をつけるとのことだった。
ただ、上述の定年退官予定氏に言わせると、「そんなもん、担当者がちゃんとやっとらんからだわさ」みたいに、まるで他人事のような言葉を発していた。
あの~、ベテランの先輩自衛官さんなんだから、前任者として、若い人にもすみずみまで周知してあげなければ…..。と思った私は、うるさ型で細かいのだろうか?
こういう点が、千僧や伊丹とは全く違って、おっとりしていると感じられる。千僧や伊丹では、防衛モニターとして、どのように振舞えばいいのか、どこに着席すればよいのか、全くわからない私であっても、そばの若い自衛官さんに尋ねると、即座に「担当者を呼んできます」。そして、若くてもキリッと目元に力の漲った担当者が1,2分で到着し、すぐにテキパキと誘導してくださる。
だから、千僧や伊丹では安心して困ったことがなかった。そればかりか、たった2分程の会話だったのに、今年3月2日の音楽会では、先方から私の名前を呼びかけてくださったのだ。よく覚えていらっしゃると感心した。
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2025年3月4日「第三師団定期演奏会」
《これまでは各駐屯地を並行に見て、専ら地理的な距離感を中心に考えてきたが、武装組織における「隷下」という序列表現の意味と位置づけが、ようやくわかりかけたところである。やはり、駐屯地モニターは1年の任期であっても、防衛モニターには2年間が必要だと改めて思った。一通りの年間行事経験のみでは、到底、何が何だかわからないままに、受け身で参加するのが精一杯だからである。》
(転載終)
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参考までに、今回の式典では、2月のヘリ体験時の若手2曹自衛官「テへへ君」が、カメラマンとしてかいがいしくテキパキと動き回っていた。表面的にはクールそうだが、負けず嫌いな面がありそうで、今後、順調に行くならば、結構、いい所まで行けそうだ。
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2025年2月10日「姫路の一日」
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定年退職する自衛官氏とは、実質1年4ヶ月という短期間ではあったが、最初から実に印象的で、なかなか得難く濃厚なやり取りが続いた。
昨日は、後任の担当官が「ユーリさんとお話したい」とのことで、1月17日に神戸でご一緒した元駐屯地モニター女性ら数名と共に、しばらく話が弾んだ。
後任氏は結婚指輪をされており、にこにこと愛想よく、左胸につけている徽章下の色リボンも多彩。様々な任務を経て自信に満ちた前向きな態度でいらした。昔風に言えばいわゆる「砲兵」の野戦特科だったと自己紹介され、名刺もくださった。(同じく野戦特科だったという退職予定氏は、名刺を「持っていない」とのことだった。)
もっと時間があれば、自衛隊に関していろいろと尋ねたいことがあったのに、残念ながら、退職予定氏は「伊丹には行かない」とのこと。また、恐らくプライベートでは相互接点がないだろうと、どこか遠慮みたいなものがあるらしい。例えば、私が送るメッセージの文章も、あれこれ調べたりして、返答に苦労されていたようだ。
でも、私の妹と同じ3歳年下なのに、1980年代半ばのあの時代に、よく自衛隊に入隊する決心をされたものだ。正真正銘、心底、称賛したい。
私自身、自衛隊に入るならば、高卒か専門学校卒ぐらいが頭も体も心も一番柔軟で鍛えがいがあり、自衛隊文化にも順応しやすいということで、よき戦力になるはずだと思っている。だから、何も卑下することはないのに、どういうわけか、レンジャー徽章も「30過ぎると体力が落ちるから」と自分で外してしまったようだ。「あと一年、定年を延ばしたら?」という私の提案にも、即座に拒否を示された。
昨年の最初の面会時も、『防衛白書』と私が言及しただけで、すぐに「読まない!」と。他の自衛官さんならば、「あ~、僕よりもよく知っていますね?」みたいなお世辞で軽く済ませるところだが、恐らくは真っ直ぐな人柄なのだろう、個性的ではある。
とにもかくにも、自分が与り知らぬところで、こういう人にずっと守ってもらっていたんだなぁ、とつくづく思う。存在そのものが、抑止力の第一歩だからだ。
防衛モニターになるまで、私が自衛隊に関して知る源泉は、元陸将や海将や空将あるいは将補の立場にあった方々の講演や書き物だった。インテリジェンスや情報工作のような話は、10年ぐらい前から、パイプス訳文をきっかけに英語と日本語の本を次々に読み進め、今も読み終わったばかりの本が一冊ある。
だが、本当に自衛隊を支えているのは、「司令官や先頭切って戦う戦闘部隊ではなく、実は後方支援部隊である」と言われるように、各駐屯地でも、表に見えないところで、一生懸命にそれぞれの役目を果たそうと努力してきた人々なのだ、と痛感する。
退職予定氏には、私のようなこむつかしい者に忍耐強く応対してくださった感謝と共に、今後の人生が幸い多きものであるよう、心から祈る次第である。そして、「僕は自衛官」から始まった若く瑞々しい日々を振り返り、「自衛官になってよかった」と満足して、退官の日を迎えていただきたいと切に願う。
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「自衛官の心がまえ」
一、使命の自覚
(一)祖先より受けつぎ、これを充実発展せしめて次の世代に伝える日本の国、その国民と国土を外部の侵略から守る。
(二)自由と責任の上に築かれる国民生活の平和と秩序を守る。
二、個人の充実
(一)積極的でかたよらない立派な社会人としての性格の形成に努め、正しい判断力を養う。
(二)知性、自発率先、信頼性及び体力等の諸要素について、ひろく調和のとれた個性を伸展する。
三、責任の遂行
(一)勇気と忍耐をもって、責任の命ずるところ、身をていして任務を遂行する。
(二)僚友互に真愛の情をもって結び、公に奉ずる心を基として、その持場を守りぬく。
四、規律の厳守
(一)規律を部隊の生命とし法令の遵守と命令に対する服従は、誠実厳正に行う。
(二)命令を適切にするとともに、自覚に基づく積極的な服従の習性を育成する。
五、団結の強化
(一)卓越した統率と情味ある結合のなかに、苦難と試練に耐える集団としての確信をつちかう。
(二)陸、海、空、心を一にして精強に励み、祖国と民族の存在のため、全力をつくしてその負託にこたえる。
(『静かな平和を祈って』p.2)
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「座談会:“僕は自衛官”」
*自衛隊創立十二周年にあたって
昭和37年9月8日
中部方面総監部
・叔父が元海軍軍人。叔父に、自衛隊へ入って団体生活をやり、精神や体力を鍛えてこいと勧められ
・度胸だめしの積りで少年自衛官の試験を受けたところ、合格したので、自衛官を決心して入隊
・自衛隊に入るとスポーツなどをやる機会が多いと聞いたので入隊した
・私は入隊する前にいろいろと自衛隊に対する批判を聞いていた。隊員になって見たら(ママ)大変民主的で、訓練も無理な事ではなく規律正しい若人のピチピチした快適な生活でした
・学生生活からすぐに部隊の生活に飛びこんだので、規律ある日々は全く身の引きしまる感じがしました
・私は自衛隊での規律正しい生活に一番魅力を感じています。また厳正な規律の中にも上下の親密感が存在している生活です
・私は夕食後伊丹市立の定時制高校に通学しております
・夜間大学へ入学しようと思っています。目下受験準備のため予備校へ通っております
・たまたま老婆が作業するわれわれの後姿に手を合わせて感謝しているのを目撃しました。これには疲れが一ぺんに吹きとんで一日も早く工事を完成しなければならないというファイトがわいて来ました
・まず幹部候補生の受験をめざして努力し、勤務においても我が国の防衛にあたる崇高な使命に誇りをもって誠心誠意努力したい
・私は現状に甘んぜず、一歩一歩前進向上をめざして努力したい
・国民から信頼され敬愛される自衛官になるよう努力したい
(『静かな平和を祈って』抜粋終)
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「陸上自衛隊にもの申す」今東光
・台風があるたびに自衛隊が敢然として出て行って誰にもできないような救援や復旧作業をやる
・「自衛隊は有難い」
・自衛隊の災害地における粉骨砕心(ママ)の活躍を直接見たりして今までの考え方、見方が間違いであった事を心から判った
・実際その恩恵に浴した事により、自衛隊に関する認識が深まっていく
・いざと言う時だまって実力をあらわす
・本来の任務は何といっても国土防衛、治安の維持
・もっともっと積極的に如何に国防というものが危険に瀕しているか国を自衛する自衛隊の必要性が如何に大きいか又その力の近代化が如何に重要であるかというようなことを国民に知らしめるべきだと思う
・日本の独立を危うくするような飛行機を撃ち落とそうという気持にならせなかったらこれは意味がない
(『静かな平和を祈って』抜粋終)
(2025年4月12日記)(2025年4月13日一部修正)