放送大学大学院の話は続く

(https://twitter.com/ituna4011/status/1316945861943898112)
Lily2@ituna4011
まだ諸手続きも荷物の整理も終わっていないので、この半年は院の科目等履修生として6科目受講している。 難易度は…..ノーコメント。自分の本来の専門とは全く違うが、毎回の小テストは、慣れれば十数秒で満点が取れる。 しかし、その知識を有しているかどうかが、現場では大きく物を言うのだろう。
12:35 PM · Oct 16, 2020

(https://twitter.com/ituna4011/status/1398162886866862087)
Lily2@ituna4011
昨年秋から、放送大学院で医療看護学の基礎を学んでいる。 1. 旧約聖書にも、鬱病に関する記載があること。 2. 気分障害について、従来は自責感が中心だったが、最近では、他罰的で自己中心型が増加していること。 興味深い。
3:23 PM · May 28, 2021

(https://twitter.com/ituna4011/status/1398165693170798603)
Lily2@ituna4011
オンライン講座なので、パネルをノートに書き写し、看護師の国家試験用の分厚い本で、該当箇所を読み重ねる。 小テストを受ける。 この繰り返し。 看護師さん達には、主人がとてもお世話になった。昔とかなり印象が変わったことから、医療看護に関心を持つに至った。
3:34 PM · May 28, 2021

(https://twitter.com/ituna4011/status/1552163908701782016)
Lily2@ituna4011
全科目、一回45分の講義だが、集中して話が進むし、途中で止めてメモを取り、聴き直ししなければならないこともある。 実際、各課毎の考察課題や参考文献を真面目にやろうとしたら、とても時間が足りない。 要領良く単位を揃えて、 放送大学はレベルが低い、簡単だ、世間では評価されない、
2:28 PM · Jul 27, 2022

(https://twitter.com/ituna4011/status/1618142153502527488)
Lily2@ituna4011
今後は論文のみに集中しようと決めていたが、また一つ、同じプログラム内部で新たな関連科目を見つけてしまい、オンラインで受講することに。今しかできないかもしれないから、機を逃さす、やってみよう!
4:02 PM · Jan 25, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1643574329433792512)
Lily2@ituna4011
今日の午前10時ジャストに始まった。 結構おもしろくて、お昼前と、午後外出から戻って来てからの2回に分けて、次々とオンライン講義を視聴。講義ノートは全課分、印字した。 早々とアンケートに答えて送信。誤字ミス通報も送った。 参考文献一冊を古本で注文した。
8:20 PM · Apr 5, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1643574820054142978)
Lily2@ituna4011
我ながらやる気満々。 ずっとこの調子でいけるといいな。
8:22 PM · Apr 5, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1643746039462240256)
Lily2@ituna4011
今回、受講したオンラインの1科目では、早速、担当の先生お二人が、「放送大学は知識の取得だけですからね」と不足を明確にご指摘。 つまり、現場での実践につなげて初めてモノをいう、と。 毎課の小テストと最終テストだけかと思っていたら、この科目では毎回のレポートが課題。 結構ハード。
7:42 AM · Apr 6, 2023

(http://twitter.com/ituna4011/status/1643760342680616960)
Lily2@ituna4011
「誤記等指摘フォーム」というものがあり、昨夕送信したところ、直後に放送大学担当課より、メール連絡があった。その約2時間後には、担当教員から修正連絡が入った。 迅速な対応だが、疑問も残る。 このオンライン講義は2016年開講。つまり、今年で7年目。 今まで誰も指摘しなかったのだろうか?
8:39 AM · Apr 6, 2023

(2023年4月6日転載終)
…………..
2023年4月8日追記

(https://twitter.com/ituna4011/status/1643887897853190145)
Lily2@ituna4011
ビデオ講義の中で、二十歳前後の私に顔や髪型や雰囲気がそっくりな若い女性が出演している。何だか昔の自分を見ているようで楽しい!若いって、本当にお肌がぴちぴちして瑞々しくて綺麗なんですね。
5:06 PM · Apr 6, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1643889352538456064)
Lily2@ituna4011
似ていると思ったのは見た目のみ。その女性が喋り始めたら、話し方も声も全然違っていた! 楽しい毎日だねぇ….
5:12 PM · Apr 6, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1643892398513348609)
Lily2@ituna4011
私の母校の一般教養の化学の教授の昔話。 その教授は何と、世界的な学会で凄い賞を受けられた力量の持ち主。 文系だったから、教える講義の専門性はそれほど高くはない。講義の楽しみは、従って、教室の中の一番かわいらしい女子学生を標的に、彼女が理解してくれるように念入りに準備したことらしい。
5:24 PM · Apr 6, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1643892723697737728)
Lily2@ituna4011
振り返れば、何と楽しい日々だったことか! フェミニストの罪悪は、こんなささやかな夢を潰したことにある。
5:25 PM · Apr 6, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1643898792226463747)
Lily2@ituna4011
彼女が笑ったり、うなづいたり、一生懸命にメモを取ったりしてくれる姿が、その教授には生きがいとなり、励みになったらしい。益々張り切って、化学の基礎を熱心に伝えようと準備に励まれたそうな。生きる躍動感あふれる逸話ではないか?
5:49 PM · Apr 6, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1643898792226463747)
Lily2@ituna4011
確かに、箸が転んでもおかしい妙齢の女性達。自分のつまらないダジャレにも素直に笑ってくれると嬉しいよね?今の世の中がつまらないのは、そういう単純さを理詰めと法的縛りで窒息させているからでは?
6:20 PM · Apr 6, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1643899230795485184)
Lily2@ituna4011
インターネット講義を受講しながら、講師の先生が嬉しそうな顔をして、ぴちぴち肌の若い女性4人を並べて楽しそうに講義している様子を見て、つい思い出してしまいました。勉強に戻ります。終わり。
5:51 PM · Apr 6, 2023

(2023年4月8日転載終)
………..
2023年4月20日追記

(https://twitter.com/ituna4011/status/1649024408210767875)
Lily2@ituna4011
今回のオンライン科目は、開講直後から毎日のように受講。講義ノートを全部印刷して、毎課のミニテストとレポートを除いて全部済ませた。ところが、3つの課で誤植ミスが発覚。結構大切なポイント事項なので、ミニテストを受ける前に「誤記等指摘フォーム」に3回送信。4月6日と8日に質問して回答待ち。
9:17 PM · Apr 20, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1649024942674173952)
Lily2@ituna4011
初回は翌日に回答があったが、二回目と三回目の質問は今日まで無言。今朝になって、ようやく二回目の回答があった。 国民に膾炙した「ご指摘に感謝いたします」風。 しかし、二週間は長いなぁ。やる気が削がれて、そのままにしてある。三回目の回答は、担当講師が別の課なので、これまた…..
9:19 PM · Apr 20, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1649025454857392128)
Lily2@ituna4011
2016年開講の講義ならば、修正してから受講を呼びかけていただきたいところだ。 お互いの時間の節約のためにも…..。 気持ちを切り替え、課毎のレポートとミニテストを頑張ろう!
9:21 PM · Apr 20, 2023

(2023年4月20日転載終)
………….
2023年5月15日追記

(https://twitter.com/ituna4011/status/1657897719216893952)
Lily2@ituna4011
放送大学大学院の今期のオンライン科目、開講直後の4月上旬に早々と8課の講義ノートを印刷して聴講。だが、2016年開講の科目なのに、3課分に致命的なミスがあり、誤植申請フォームで質問しても、2つの質問には回答待ちが続いた。 最終的に担当講師以外の方によるメール返信に偶然気づいたのが昨日。
8:56 AM · May 15, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1657898985359802369)
Lily2@ituna4011
本部に電話して問い合わせもしたら、事務の方は驚き、私の訴えに同意された。だが、その後、返事も修正も遅過ぎた。催促の質問もしたぐらい。 従って、各課の小テストとレポートが溜まりに溜まった。医療分野なので、このようなミスには信用をなくし、やる気も削がれて時間が無駄に。
9:01 AM · May 15, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1657899641323806720)
Lily2@ituna4011
問い合わせフォームの番号によると、どうやら同じような質問をしている受講生が多かった模様。
9:04 AM · May 15, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1657905010850820096)
Lily2@ituna4011
そのせいかどうか、今朝方の夢では、練習を全くしていないのに、ピアノ伴奏を引き受けてしまい、本番当日には、直前にメガネを忘れて見えないまま、会場に行こうとして迷い、広く立派な部屋をウロウロとしていた自分を見た。
9:25 AM · May 15, 2023

(2023年5月15日転載終)

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ある学術出版社の消滅

2023年3月23日付ブログ「春のお彼岸」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=4299&action)では、以下のようにツィッターからの転載を記した。

・名古屋の鶴舞中央図書館を26年ぶりに利用した。

・名古屋市内の図書館で、摂津国の歌枕について調べて、コピーを取る醍醐味。昔は想像もしていなかった。

結婚前には頻繁に利用していた名古屋市立鶴舞中央図書館。懐かしい3階の開架式書架まで上がっていくと、吉原栄徳和歌の歌枕・地名大辞典株式会社おうふう平成20年5月20日発行)という10センチ程の厚さの本が目に留まった。

1997年11月に結婚して以来、ずっと旧摂津国(大阪府三島郡島本町と兵庫県伊丹市)に暮らしてきた者として、心当たりの地名を探ってみると、馴染みの場所が歌枕として頻出しているではないか!

つい夢中になって、複写時間を含めて、ギリギリ45分間も費やしてしまった。これ以上になると、一ヶ月前に予約しておいた帰りの名古屋発新大阪行の新幹線に間に合わない。

というわけで、ひたすら必死で作業をした。

自宅に帰り、ほっと一息ついてから、蛍光ペン片手にラインマーカーを引きつつコピーを読み進めていくと、何と記述にミスが見つかった。自分が20年以上も暮らしてきた土地の地名が間違っていたのだ。しかも、二ヶ所である。

そこで、ごく気楽に葉書で質問を書いてポストに投函した。それは以下の通りである。
。。。。。

・p.1624
「水無瀬」「水無瀬(の)川」の項で、上段と下段の二ヶ所につき、「三島郡島本町」とすべきところを、「島上郡島本町」と記載されています。これは何か意味があってのことでしょうか。

・p.1625
上段「水無瀬の里」の「地理」の項で、「(旧水無瀬庄)」とありますが、これは「荘」とどのように違うのでしょうか。

。。。。。
投函したのは、3月27日の夕方、自宅近くのポストである。それが、今日4月4日になって「神田」郵便局の印で「あて所に尋ねあたりません RETURN UNKNOWN」と押した葉書が返送されて届いたのだ。

上記の辞典が出版された奥付も複写しておいたので、そこに送ったのだが、もしかして会社の住所が今は違うのだろうか、と思って調べてみたところ、驚愕することが!
。。。。。。
(http://bungaku-report.com/blog/2020/03/post-706.html)

おうふう、廃業。
投稿日: 2020年3月5日

おうふうが「廃業」した模様です。
2月に取次店を通して書店には伝えられており(2月末で「廃業」、事務所も閉鎖)、その情報が次第に広がり始めたところでした。
3月に入り、電話が通じなくなり、公式サイト(http://www.ohfu.co.jp/)もアクセスできなくなっております。

(転載終)
。。。。。
え?何のこと?
今風に「おうふう」と平仮名表記の社名になっている。だが、1980年代半ばの国文学科の学生だった者として、講義用のテキストでも演習発表の準備でも長らくお世話になって来た堅実な出版社である「桜楓社」だ。その筋であれば誰でもピンとくるはずだ。
。。。。。。。
ウィキペディア(http://ja.wikipedia.org/wiki/おうふう)によると、以下の様である。

・株式会社おうふうは、東京都千代田区にかつて存在した出版社。学術出版社で、国語学や国文学などに関する著作を刊行していた。旧社名の桜楓社でも知られていた。桜楓社という社名は、日本大学の国文学者・鈴木知太郎がつけた。

・創業者は及川篤二(2010年没)。國學院大學出身で、学生時代に南雲堂桜楓社として創業、のちに桜楓社として独立。

・創業期に、中西進著『万葉集の比較文学的研究』を刊行、1970年に学士院賞を受賞した。資料集的のような書籍を出すことよりも、学者の研究成果を研究書として世に出すことを大きな柱としていた。及川に勧められて単著を書き上げ、それが評価された学者は多い。

・2020年3月初めに何の予告なく廃業したことが3月5日確認され、さらに同月18日には東京地方裁判所から破産開始決定を受けた。負債総額は4億7000万円に上る。 おうふうは、2021年3月12日に法人格が消滅した。

・所在地:東京都千代田区神田神保町1-54 英光ビル201
資本金:4,900万円

•1956年:創設
•1993年:「桜楓社」から「おうふう」に改称
•2020年3月18日:東京地方裁判所から破産手続開始決定を受ける
•2021年3月12日: 法人格消滅
•歴代社長:及川久子、古賀真利子、廃業時は坂倉良一

(転載終)
。。。。。。。
発行された書物には、以下のようなものがある。大学や公立の図書館所蔵用に出版されたものらしい。

日本民俗語大辞典』『和歌文学辞典』『古事記事典』『上代文学研究事典』『近代作家研究事典』『都道府県別 祭礼行事』(全47巻)『都道府県別 祭礼事典』(全47巻)『源氏物語別本集成』『源氏物語別本集成 続』『源氏物語古注集成 源氏釈』『講座源氏物語研究 源氏物語の注釈史

吉田精一著作集』(全25巻・別巻2)等は、学部生時代にお世話になったことがある。

こういう本を作るには、時間もかかり、大変な作業。だが、出版されれば絶対に長らく残るものなのに、一体全体、どうしたことか?

但し、私が閉鎖倒産に気づかなかったのは、その当時、主人が入院中だったからである。それに、私が質問葉書を送った該当辞典は、「東京都千代田区猿楽町1-3-1」の所在地だった。

著者の吉原栄徳氏は、昭和8年奈良県生まれで、関西大学大学院修士課程を修了後、30年以上、尼崎市の園田学園女子大学で契沖について研究。出版当時の現住所は大阪府豊中市ということになっていた。

いかにもいかにも、今の私と接点があるのに、何とも惜しいことを…..。尼崎に勤務され、受賞もたくさんあるのに、上記の誤植について、正誤表も出されなかったのだろうか?
。。。。。。。
図書館所蔵向け出版物が主力ということで、旧摂津国の大阪府三島郡島本町と兵庫県伊丹市の公立図書館に、この出版社がどのぐらい関与してきたかを検索してみた。
以下はその結果。

1)島本町立図書館

桜楓社(2件)おうふう(6件)

2)伊丹市立図書館

桜楓社(186件)おうふう(45件)

(2023年4月4日記)

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摂津 国人 三宅氏

(http://www.kdt.ne.jp/miyake/)

史料に見る三宅氏

1.三宅氏の荘園侵入

応仁・文明の大乱で守護が上洛、守護代の領国支配が不安定の中、三宅氏は、国人として在来の荘園支配のなかに侵入し、荘園制的村落秩序を破壊していった。

7月27日付河内守護高師秀宛・妙心寺文書

観応3年(1352年)三宅左衛門尉が河内国下仁和寺を押領した

8月24日付摂津守護赤松光範宛・実相院文書

観応3年(1352年)三宅出羽左衛門尉ならびに芥河右馬允らが園城実相院領摂津国新御位田領を濫妨した
中世における国人・土豪層の荘園侵入の実態を明らかにしてくれる春日社領垂水西牧に関する史料(豊中市・今西春定文書)に三宅氏の名がある
この荘園制的村落秩序の破壊は、守護大名にとっては危機をもたらすのもであり、文明9年(1477年)の乱終結で幕府は、荘園還付を行った。これに摂津の国人は反発し、既得権益の維持のため畠山義就と結託し国一揆を文明14年(1482年)に起こした。
これに対して、管領畠山政長・摂津守護細川政元の大連合軍は、畠山義就を打つため、国一揆の拠点である三宅城を文明14年に落し(「後法興院政家記」)、7月茨木城、吹田城を陥れ、苛烈な国人粛清を展開した。

翌年8月、吹田、池田両氏と共に淀川対岸の千丁之鼻(守口市)に城を構え、そこから50丁ばかりの地点で堤を切り、流れの水を氾濫させて細川政長軍を壊滅的な打撃を与えた(「大乗院寺社雑事記」)。

その後の国人懐柔策により、三宅五郎左衛門は延徳2年(1490年)12月に細川政元より「摂州少郡代に任命された(「蓮成院記録」1)
応仁の乱以後、国人層の社領介入が激化した春日社にとって御供米を確保するためには守護勢力の関与が必要となり、守護細川氏の被管三宅氏が徴納を請負い三宅一族がその任にあたったとみられる。(今西春定文書)

2.細川被官としての三宅氏

応仁の乱における三宅氏の動向(「応仁記」より)

東軍(細川方):畠山政長、斯波義敏ら総勢約16万
西軍(山名方):畠山義就、斯波義廉ら総勢約11万6千

摂津の国衆は、摂津守護であった細川勝元に組し、応仁元年(1467年)5月26日の早朝、次のように配置された。
先大手ノ口ノ北ヲ薬師寺ノ与一兄弟、摂州衆相副。大和衆ヲ加勢二加エ。大田垣ガ前ヘ被レ向。(中略)百々の透ヲバ三宅。吹田。茨木。芥川等ノ諸侍二仰セテ。能成寺ヲ南ヘ。平賀ガ所ヲ責ラルル也。

戦いは大手の口から火ぶたを切ったが薬師寺与一の率いる摂津国人衆の突撃が11年間にわたる戦乱の幕を切って落とした。
西軍の局面打開のための山口 大内政弘軍の上洛を摂津国でとどめようと東軍は摂津守護代秋庭備中守元明を急派したが、三宅三郎は戦死し、池田氏と共に大内氏へ降った。
文明元年(1469年)7月摂津地方が戦場になり、この時には、東軍に帰参し、山名是豊が大内勢を追って兵庫より山崎へ向かうが途中山田庄三宅館に陣を構えた(野田弾正忠泰忠の軍忠状)

細川澄元・高国の争いにおける三宅氏の動向

永正4年(1509年)、三宅氏は高国方に属し、摂津の国衆伊丹・河原林と共に細川尹賢を大将にして池田城を攻め落城させた(「細川大心院記」)。
永正8年、高国は摂津の国衆池田・三宅・茨木・安威・福井・太田・入江・高槻を堺にさしむけたが、和泉の深井(堺市)の合戦で負け(「瓦林政頼記」)、この時、三宅和泉守は戦死したと思われる。
同年、摂津国芦屋の戦いにも澄元軍が勝利をおさめ、澄元方諸将が上洛した時、摂津より「三宅出羽守・入江九郎兵衛尉・山中新右衛門尉・其外諸浪人数千人」(「瓦林政頼記」)が上洛したとある。

細川高国・晴元の争いにおける三宅氏の動向

大永6年(1526年)、摂津国衆の池田氏・三宅氏・吹田氏は今度は晴元方として立ち上がり、吹田に陣取って高国方の伊丹国扶ら伊丹衆と一戦を交えた(「細川両家記」)。

翌年2月、丹波の柳本軍が高国方の有力部将薬師寺氏の守る山崎の城を攻め落とすと「摂州上群芥川城、太田城、茨木城、安威城、福井城、三宅城ことごとく」(「細川両家記」)晴元方に服し、同12日、桂川の合戦で三好元長・柳本賢治の連合軍は高国を破って近江に走らせた。

一向一揆における三宅氏の動向

三宅氏一向宗門徒になる:初期の戦いには、三宅氏の動きはあらわれていなが、「私心記」の天文3年(1534年)には、「2月11日、三宅、御門徒ニ可成由、申候」とある、これは、細川被官であった三宅氏が門徒になったのである。この地方は本願寺勢力が大きいので、みづから有力門徒化した方が、農民支配をより強力にし、国人としての立場を有利にすると考えたのであろう。要するに三宅氏自身の政治的・社会的地位保全策として門徒化の道を選んだのである。
三宅氏両軍の仲介役となる:天文4年(1535年)6月、本願寺は晴元方と戦い、一揆数百人が討死した。その9月和議のため両軍の仲介役として三宅国村が選ばれた(「私心記」)。そして、天文6年(1537年)、「12月27日、三宅出羽守方へ、先年の右京兆(晴元)の和与の礼として、書状をもって鳥目50貫を遣わす」(「証如上人日記」)とあるのは、国村のこのときの功績をさしている。

三宅氏の寝返り:細川晴元を攻略して、細川高国の実弟晴国が管領細川氏の主になれば、三宅氏は、国人衆から大きく上昇することができると思い、三宅国村は、晴国をかついで大将にした。しかし、天文4年中嶋一揆の敗北の結果、一揆軍の敗北を見るやいなや、自分の身を守り細川晴元に帰参するために、自軍の将の細川晴国を自殺させた(天文4年(1535年)8月25日の「重編応仁記」)。これは、離合離散が常であった戦国の世の習いである。また、「細川両家記」では、この事件を長田忠致に裏切られた源義朝の故事に託して『昔義朝待賢門の夜いくさにかけまけさせ給。尾張国へ御腹めさるゝ事今更思ひ出られ。一入哀也ける。 』

三宅氏再度、故高国側につく:天文10年(1541年)9月、細川高国の妹婿である塩川政年が一庫城(川西市)で兵を挙げると、木沢長政・三宅氏・伊丹氏は、晴元に抗して塩川についた(「証如上人日記」)。

三宅氏再々寝返り:天文10年(1541年)11月、木沢軍が原田城(豊中市)を攻撃中に、三宅国村が細川晴元側で帰参するとのうわさがあり、孤立を恐れた木沢軍はあわてて陣をとき河内で帰った。事実、12月三宅国村は細川晴元軍に帰参した(「細川両家記」)。この三宅氏の帰参は、細川晴国の一件が高く評価されすぐに帰参を許されたが、同様に帰参を願い出た伊丹氏は、翌年の6月まで帰参を許されなかった。
天文11年(1542年)3月、木沢長政は河内で畠山稙長に攻め殺された。その27日には、細川晴元が摂津国から帰洛したが、三宅国村は騎馬で意気揚々と晴元に従っていた(「言継卿記」)。

三宅氏再々々寝返り:天文12年(1543年)7月、もと細川高国に属した浪人たちが、高国の跡目と称して細川尹賢の子氏綱をかついで兵を挙げ、晴元方と和泉で戦った。

三宅出羽守は、先には晴国をかついだ(「続応仁後記」)が、今度は細川氏綱にその夢を託したのである。
天文16年(1547年)になって、晴元方は総力をあげて摂津の攻略をはかり、原田城を落とした後、2月25日に三宅城を囲んだ。
「3月15日に外城責落さるゝ也。然ば城内より詫言して、同22日に本城も明渡す也。双方共悦也。」(細川両家記)
かくて三宅城は落ちた。この三宅城攻めにさいして、本願寺証如は、3月8・10・13日、それに落城後の24日、晴元および包囲中の各将へ、さらに三宅国村へも書状と品を贈っている(「証如上人日記」)。

江口の合戦(三好長慶 VS.細川晴元、三好政長)

天文17年(1548年)、細川晴元の執事三好長慶と晴元および三好政長との対立が深まった。長慶側は、三宅氏をはじめ芥川・茨木・安威・池田・原田・河原林・有馬氏などで、晴元・政長側は、伊丹・塩川氏であった(「足利季世記」・「陰徳太平記」)。
天文18年(1549年)3月1日長慶は伊丹城を攻めて城下に放火し、3月1日には中嶋を取り、榎並城に迫っていたが、同じころ三宅城は晴元側の香西元成に攻撃され、短時日のうちに落城した(「万松院殿穴太記」)。この時地元には「異伝」がある。

この後、三宅城は香西元成の拠るところとなったて、5月には細川晴元、三好政長も入城して、晴元方の要衝となった。6月17日に三好政長は、三宅城を出て江口に布陣したが、三好長慶は三宅城と江口の連絡を絶ったうえ、6月24日に江口で3000対3000人の激戦を展開し880人が討死し、ついに三好政長を敗死させた。そこで、細川晴元も三宅城を棄てて、近江の東坂本に逃れた。ここで三宅城には再び三宅国村らが戻った。
この戦いで明応2(1493年)以来続いた細川惣領家による「京兆専制」は消滅し、三好長慶が細川氏綱のもと、管領代として畿内の実権を掌握した。

その後の三宅氏

天文21年(1552年)正月に、三好長慶は将軍足利義輝を京都に迎え、2月に細川氏綱を管領とした。ところが天文22年(1553年)3月、将軍足利義輝は細川晴元を召し返そうとしたため、三好長慶の怒りにふれて追い出された。4月、三好長慶は芥川城を攻め、9月3日には、丹波攻めの軍を仕立てるが、三宅国村もその中にあり、三宅城で留守を守った一族の三宅村良は香西元成・三好政勝の大軍に攻められて戦死した(岡藩「諸士系譜」)。
その後、三好長慶は絶頂期を迎え、河内守護畠山高政と対立し永録5年(1562年)5月教興寺(八尾市)の一戦で三好長慶は、大勝した。この時三宅出羽守は畠山方へ一味して同月「摂州豊嶋群十里計放火共候つれば。此如成行候条。則晩景より我城を明。浪人にて候。」(「細川両家記」)とある。捲土重来を期した出羽守であったが、戦い利あらず遂に浪人となったのである。

その後、三宅氏は中川氏(茨木城)の家臣となり、文録3年(1594年)中川家の豊後岡藩(大分県竹田市)への転封で三宅氏も岡へ移り、その地で明治維新を迎えるにいたる。

このように、三宅氏は摂津の要衝にあって、いかなる陣営からも重要視される特異な存在であり、三宅氏自身も目まぐるしく揺れ動く戦乱の世にあって、権謀に身を処すことを保身の術として動乱に生き抜いた一族であった。

抽稿
「摂津国人三宅氏の出自と後裔」(大阪成蹊女子短期大学研究紀要 第16号)
「摂津国人三宅氏の動向」(大阪成蹊女子短期大学研究紀要 第14号)
________________________________________
最終更新日: 01/29/05

(2023年4月3日無断転載終)

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引きこもり現象と少子化問題

2022年3月27日付ブログ「春のお彼岸 in 名古屋」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=2273&action)

《その後は、スクールカウンセラーとして、引きこもりの親子の相談に従事されていたとのことである。(ちなみに、引きこもりは親に原因がある、とのことだった。)》
。。。。。。。
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20140324)

《今の若い神学生達が、れっきとしたキリスト教系大学で牧師資格か博士号か何かを取得して教会に赴任しても、鬱病のようになっている事例が目に付くと話してくれたのだった。しかも、「年収が200万から300万円ですって?」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131103)と尋ねた私に、「いえ、そんなにありません。100万から200万円がそこそこで、だから奥さんが福祉の仕事をしたり、学校の先生をしたりして家計を助けているのです」と。》

《彼女の場合は、高校が進学校だったらしいが、人生に思うところあって、一時期引きこもりのような時を過ごしたそうで、その経験あってこそ、その鬱病になっている牧師の卵クン達にも叱咤できるのだということだった。「そんな、親に何百万円も出してもらって大学院出ても、世の中を甘く考え過ぎだ。教会のこと何もわかっていないのに、資格(学位)だけでやっていけると思う方が間違っている」と。》
。。。。。。
朝日新聞(https://www.asahi.com/articles/ASR306SRQR3YUTFL00N.html)

「ひきこもり」全国146万人、5人に1人がコロナ理由 内閣府調査
石川友恵
2023年3月31日

15~64歳でひきこもり状態にある人は全国で推計146万人いることがわかった。内閣府が31日、調査結果を公表した。子どもから中高年までの全世代の推計が明らかになるのは初めて。約5人に1人は理由の一つに「新型コロナウイルスの流行」をあげており、コロナ禍の影響も色濃く反映された。
 調査は2022年11月、全国で無作為に抽出した15~64歳の計約1万1300人が回答した。146万人という推計値は、15~64歳のうち約50人に1人がひきこもり状態に該当することになる。ただ、一部にはコロナの感染を恐れて外出を控えている人も含まれている可能性があると内閣府は説明する。
146万人のうち男性が約6割を占め、女性は約4割だった。ひきこもりとなった主な理由(複数回答)では、若年層の15~39歳で最も多かったのは「退職」の21・5%。次いで「新型コロナの流行」が18・1%だった。40~69歳では「退職」が44・5%、次いで「新型コロナの流行」が20・6%だった。
 ひきこもり期間は、15~39歳では6カ月~1年未満が21・5%、3~5年未満が17・4%だった。40~69歳では、2~3年未満が21・9%、次いで3~5年未満が16・1%だった。30年以上の人は1・9%いた。

(2023年4月1日転載終)
………..
2023年4月29日追記

(https://twitter.com/ituna4011/status/1652122728101728256)
Lily2@ituna4011
国内初の飲む中絶薬、厚労省が承認 WHO推奨の選択肢 – 日本経済新聞 https://nikkei.com/article/DGXZQOUE28CSZ0Y3A420C2000000/…
⇦ およっ?少子化対策は?
10:28 AM · Apr 29, 2023

(2023年4月29日転載終)

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東郷平八郎提督

国際派日本人養成講座(http://jog-memo.seesaa.net/article/jog400.html)

2005年06月26日
No.0400 東郷平八郎 ~ 寡黙なる提督(下)日本海海戦に向かう東郷提督の静かなる闘志

H17.06.26 ■■ 33,177 Copies ■■ 1,663,812 Views■

★400号到達の御礼 本誌編集長・伊勢雅臣★
 平成9年9月の創刊以来、7年8ヶ月にして400号発信にまでこぎ着けました。
 我が国の歴史と文化の地層の分厚さは大変なもので、書けば書くほど、取り上げたい偉人や事績が見つかってきます。

■1.敵を待つ■

 明治38(1905)年5月22日、2隻のロシア軍艦が九州南端の沖を北北西に向けて進んでいるのを発見したとの報告が、連合艦隊旗艦・三笠にもたらされた。幕僚の中には「敵艦隊は津軽海峡か宗谷海峡に向かうのでしょう。その作戦と思われます」と会議で主張する者もいた。
 東郷は「陽動作戦である。たいして気にとめぬがよい」と静かな口調で言った。またウラジオストックの敵艦2隻が出撃したなどとの報告が届いたが、東郷はこれも敵の牽制作戦とみて動かなかった。
 バルチック艦隊が対馬海峡を通過するとすれば、その速度から推定して、25日あたりには姿を現すはずであった。ところがいっこうに敵は姿を見せない。
 実はバルチック艦隊は艦隊速度を落として、水雷艇の攻撃を避ける練習をしたりしていたのだったが、そんな事は知るよしもなく、東郷と連合艦隊はひたすらに敵を待った。

■2.「本日天気晴朗なれども波高し」■

 5月27日午前4時45分、五島列島の近海から「敵の艦隊発見」の無電が届いた。バルチック艦隊は東北東に針路をとり、対馬東水道に向けて進行中であった。ただちに大本営向けに最初の報告文が打電された。
__________
 敵艦見ゆとの報に接し、連合艦隊は直ちに出動。之を撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 艦隊はウラジオストックまで追跡するのに必要な石炭を甲板に積んでいたが、東郷の指示で海中に投げ捨てた。その後、乗組員は石炭投棄で汚れた体を洗い清め、清潔な下着と軍服に着替えた。負傷した時に、黴菌に冒される恐れを少なくするためである。また砲弾発射の煙から目を守るための硼(ほう)酸水と、鼓膜を守るための耳栓が配られた。まるで戦国武将が静かに戦支度を整えているかのようである。
 これに対して、バルチック艦隊の各艦は、ウラジオストックにたどり着くのに必要な量の3倍以上の石炭を甲板上にまで積み込んでいた。このために運動速度の低下を来たし、さらに日本艦隊の命中弾を受けた際に激しい火災に見舞われることになった。また日本艦隊が待ち受けていると予想される対馬海峡に進入した際にも、なお平時における密集縦隊のままであって、戦闘隊形をとっていなかった。バルチック艦隊の戦闘意思はいささか散漫だった。
 午後1時37分、北東に進むバルチック艦隊の姿が見えた。1時55分、東郷は旗艦・三笠のマストにZ旗を掲げさせた。
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皇国の興廃此の一戦に在り各員一層奮励努力せよ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 この時、東郷は最上艦橋に立ち、右手には大きな双眼鏡を持って胸のあたりに置き、左手は長剣の柄を握りしめ、静かに敵を睨みつけていた。この敵を撃滅しなければ祖国の明日はない。東郷の静かな、しかし断固たる戦闘意思が連合艦隊の一人一人に伝わった。

■3.敵前回頭■

 このままでは西に向かう連合艦隊は北東に進むバルチック艦隊と、すれ違ってしまう。その際に撃ち合っても、撃ち漏らした敵には、その後で反転しても追いつけない。
 連合艦隊が敵の前面を横切った所で、幕僚の一人が怒鳴るように言った。「(敵の旗艦)スウォーロフは(距離)8千。どちらの側で戦をなさるのですか」
 その時、東郷の右手がさっと左方に半円を描いた。東郷と顔を見合わせて頷いた加藤参謀長の甲高い声が響いた。「艦長、取舵一杯に」 伊地知・三笠艦長が「え、取舵になさるのですか」と聞くと、参謀長が「左様、取り舵だ」
 三笠は艦首を左に急転し、180度反転して、今度は敵の先頭を左から横切ろうとした。これを見たあるロシア将校は「自分の眼を信ずることができなかった」と手記に書いている。回頭点では砲撃の静止目標となるからである。
 この時とばかり、ロシア艦隊は先頭の三笠に射撃を集中した。数分の間に300発以上の砲弾が三笠の周辺に降りそそいだが、一発も当たらなかった。東郷はこれまでの海戦で、ロシア側の射撃能力では8千メートルの距離からでは命中しないことを知っていたのである。
 三笠が回頭を終え、敵の進路を塞ぐ位置についた。ロシア艦隊との距離は6千4百メートルにまで縮まっていた。「撃ち方始め!」の号令がかかり、右舷の諸砲がいっせいに火をふいた。

■4.戦闘■

 旗艦スワロフの状況が次のようにロシア側に記録されている。
__________
 スワロフはもっとも優勢な戦艦六隻の標的となった。その砲弾はまるで烈しい霰のように落下した。砲弾は榴弾で、これが炸裂すると、何千というこまかな破片になって飛び散り、物凄く大きな火焔と、息も詰まるような黒色か淡黄色の煙の渦巻がパッとひろがったかと思うと、可燃物という可燃物は総なめで、鉄板に塗ったペンキさえ、みるみる燃えてしまった。・・・
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ロシア艦隊の砲弾は、装甲部を貫いて一定の深さまで到達しなければ炸裂しなかったが、連合艦隊の使用した砲弾は強力な下瀬火薬を充填してあり、当たりさえすれば瞬間的に火災を起こして、敵艦の戦闘能力を奪ってしまうのである。
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 こんどは司令塔ののぞき孔で敵弾が炸裂した。・・・司令塔内にいた人々の一部は即死し、残りは全部が負傷した。提督も負傷した。飛んできた弾片で、頭を割られたのだ。舵輪も被害をまぬがれなかった。操縦する者のないスワロフは、盲人みたいにぐっと横にそれて、戦列をはなれてしまった。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 こうしてバルチック艦隊の艦船は次々に集中砲火を浴び、同様の運命をたどった。隊形は乱れ、各艦はバラバラに潰走を始めた。それをさらに連合艦隊の駆逐艦、水雷艇が肉薄して魚雷攻撃をか、次々と沈めていった。沈没した艦船から海上に脱出した多くのロシア将兵は、日本の艦船がボートで救助した。

 昼間の戦いを終えて、東郷が最上艦橋を離れるとき、立っていた足あとだけがくっきりと激浪の飛沫にぬれずに残っていた。

■5.「とても人間業とは思えません」■

 負傷したロジェストウェンスキー中将から、艦隊指揮権を任されたネボガトフ少将は、翌日、わずかに残った数隻の艦船とともに、降伏信号を掲げた。ネボガトフとその幕僚は旗艦・三笠の将官室で降伏協定を結び、ともに杯をあげて戦闘の終了を祝しあった。一段落したあと、ネボガトフは東郷にこう聞いた。
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 貴官は、どうして、わが艦隊が宗谷とか津軽海峡を選ばずに、朝鮮海峡を通ると判断されたのですか? とても人間業とは思えません。教えてください、その判断の根拠を!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ロシア側は、日本艦隊の全勢力が対馬海峡の一点に集中しているとは、まったく想像もしていなかったのである。東郷は、口許に苦笑を浮かべてこう答えただけであった。
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 そう信じたまでです。
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 なおも首をかしげているネボガトフに、東郷はこう言った。
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 よくもはるばる1万5千海里を航破してここまで来られましたな。その勇気と技倆には、敬服のほかはありません。
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 結局、バルチック艦隊の38隻のうち、撃沈19隻、捕獲5隻。マニラや上海に逃げ込んで、武装解除されたもの6隻。遠く本国に逃げ帰ったもの1隻。目的地たるウラジオストックに逃げ込めたのは3隻だけだった。バルチック艦隊は東郷が約束した通り「撃滅」された。世界海戦史上に残る大勝利であった。

■6.「敗れたからといって、恥ずる必要はないと思います」■

 重傷を負ったロジェストウェンスキー中将を乗せた駆逐艦ベドウイも白旗を掲げて降伏した。中将は汽船で佐世保の海軍病院に運ばれて、手当を受けた。
 6月3日夕刻、東郷は花束を持って、海軍病院に見舞いに出かけた。ロジェストウェンスキーは、頭に包帯を巻き、血の気のなくなった顔に微笑を浮かべて、半身を起こして東郷を迎えた。東郷はベッドに近づき、その手を握ってこう言った。
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 勝敗は軍人を志した者にはつねにつきまとって離れないものです。敗れたからといって、恥ずる必要はないと思います。要は本分をつくしたか否かにかかっています。貴官は有史以来、前例のない1万数千海里に及ぶ航海を大艦隊をひきつれて遠征してこられました。しかも今日の海戦で貴艦隊の将兵は、実によく勇戦され、感心しております。

 貴官が重傷を負ってまで敢然として大任を尽くされたのに、小官は心から敬意を表します。当病院は俘虜収容所ではありません。諸事不自由でしょうが、どうか、自重自愛されて、一日も早く速やかに快癒されるよう祈ります。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ロジェストウェンスキーは感激して、もう一度、東郷に握手を求め、うつむき加減に涙をこらえながら言った。
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 名誉の高い貴官の鄭重な訪問に接したのを光栄に思います。貴官の温情は、小官をして負傷の苦痛を忘れさせたほどです。感極まって、言葉も出ないくらいであります。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 両眼に涙をため、ふかくうなだれたロジェストウェンスキーは、神への感謝を込めて、十字を切った。

■7.「武人として、この上もない幸せ」■

 明治38(1905)年12月20日、連合艦隊の戦時編制が解かれ、その解散式で東郷は解散の辞を読み上げた。原文は秋山参謀の起草になる格調高い漢文調であるが、その一部を現代文に要約してみよう。
__________
 過去1年半、風波と戦い、寒暑を冒し、しばしば強敵とまみえて生死の間に出入りしたことは、容易な業ではなかったが、考えてみると、これまた、長期の一大演習であって、これに参加し、多くを学ぶことができたのは、武人として、この上もない幸せであった。・・・
 翻って、西洋史を見るに、19世紀の初め、ナイル及びトラファルガー等の海戦に勝ちたる英国海軍は祖国を泰山の安きに置きたるのみならず、それ以後の後進は、よくその武力を保有し世運の進歩に後れなかったので、今に至る迄永くその国益を擁護し、国権を伸張するを得た。・・・
 我ら戦後の軍人は深くこれらの事例に鑑(かんが)み、今までの練磨に加うるに戦役の実体験を以ってし、更に将来の進歩を図りて時勢の発展に遅れないよう期すべきである。・・・
 神明はただ平素の鍛練に努め、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者よりただちにこれを奪う。
 古人曰く勝って兜の緒を締めよ・・・と
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 英国海軍を例に挙げているのは、英国に留学して、その海軍に学んだ東郷の若き日の思いからであろう。その英国海軍のように、厳しい平時の訓練と絶えざる技術の進歩によって、護国の大任を果たすことが、軍人としての使命であり、また幸福でもあった。

■8.ルーズベルト大統領の注目■

 米国ルーズベルト大統領は、この辞を読んで、次のような書簡を海軍長官あてに送った。
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アドミラル東郷は古今の偉大な海の闘将の一人に仲間入りした。戦いが終わり、彼が指揮した連合艦隊が解散されるに当たって、東郷の行った訓示は、わが海軍省の一般命令にもこれを挿入すべきであると、余をして考えさせたほど、注目すべきものであった。海上であれ、陸上であれ、強い軍人を作る根本、すなわち強い陸海軍を作る根本はいえずれの国においても皆同じである。[2,p382]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ルーズベルト大統領の命令で、米海軍内で日本海軍の研究が始まった。当時下級士官であったチェスター・ニミッツは、その研究を通じて、最高指揮官としての模範を東郷に見いだし、その神髄を学び取っていた。ニミッツは、昭和9(1934)年、東郷の国葬の時にも、米国アジア艦隊司令長官の乗り込む旗艦オーガスタの艦長として、来日した。
 後にニミッツは米・大平洋艦隊司令長官となって、日本海軍を撃破し、昭和20(1945)年9月2日、アメリカ合衆国の全権の一人としてミズーリ艦上で日本降伏受託書に署名した。

■9.『三笠と私』■

 ニミッツは、横須賀に係留されていた戦艦・三笠が戦争中は真鍮や銅の付属品を軍需資材として持ち去られ、戦後はダンスホールに使われているのを知り、『文藝春秋』昭和33年2月号に『三笠と私』と題する一文を発表した。
__________
 この有名な軍艦がダンスホールに使用されたとは嘆かわしい・・・
 どういう処置をとれと差出がましいことはいえないが、日本国民と政府が全世界の海軍々人に賞賛されている東郷提督の思い出をながらえるため、適切な方法を講ずることを希望する・・・
 この一文が原稿料に価するならば、その全額を東郷元帥記念保存基金に私の名で寄付させてほしい・・・[a]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 これを機に日本人の間にも三笠保存の動きが急速に盛りあがった。ニミッツの意を受けた米海軍は横須賀にあった廃艦一隻を日本に贈与し、スクラップにして得られた約3千万円を三笠の復元に充てさせた。ニミッツのお陰で「記念艦三笠」は復元され、今も当時の勇姿を見せている。
 艦内には当時の遺品、記念品が多数展示されているが、その一つに東郷を中心として海軍幹部たちが並んだ写真があった。まるで青年のように気概に溢れた凛々しい表情に、筆者はしばし見入った事を記憶している。

(文責:伊勢雅臣)

1. 下村寅太郎『東郷平八郎』講談社学術文庫、S56
2. 真木洋三『東郷平八郎 下』文春文庫、S63

(2023年4月2日無断転載終)

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乃木希典大将

国際派日本人養成講座(http://jog-memo.seesaa.net/article/498223597.htm)

2001年12月2日
No.218 Father Nogi
Japan On the Globe(218)

人物探訪: Father Nogi

アメリカ人青年記者が敬愛を込めて描いた乃木大将の実像

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■1.”Father Nogi”■

1913(大正2)年2月、ニューヨークで “NOGI”と題する本が出版された。そのわずか5ヶ月前、明治天皇の崩御とともに、自刃した乃木大将を描いた本である。 自刃と共に、一気に書き上げ、急いで出版したものである。

著者はスタンレー・ウォシュバン。日露戦争中、シカゴ・ニ ュースの記者として乃木大将の第3軍に付き添った人物である。乃木大将の参謀長を務めた一戸少将は後にこの本の存在を知って、涙を流さんばかりに喜んで、こう語ったという。

ウォシュバンという男は当時27,8歳の愉快な青年であった。非常に乃木さんを崇拝したばかりでない。Father Nogi と呼んで、父のごとくに思っていたようだが、果たしてこういうものを書いていてくれたか。

後に軍神として祀られた乃木大将は、米国青年の眼にどう写ったのだろうか?

■2.毎朝手元に届けられる死傷者の名簿■

明治37年8月19日、乃木希典大将率いる第3軍は、旅順要塞への総攻撃を開始した。バルチック艦隊が到着する前に、港内に逃げ込んだ敵艦を撃滅しなければならない。しかし最新の技術をもって築城した要塞は、第3軍決死の総攻撃にもびくともせず、戦死者累々の有様であった。この時の乃木大将の様子をウォシュバンは次のように描く。

しかし毎朝手元に届けられる死傷者の名簿を見て、将軍がどれ程心胸の疵を深めたかは疑うべくもない。
一週は一週、一月は一月と、この恐怖の月日が長引いて行く間に、将軍の変化は非常なものであつた。心労痛苦の皺が、縫い目のように顔面に刻まれ、気色悠揚とした時でも、新しい皺が創痕のように深く目立っていた。

・・・新任長官として第九師団を編成した時には、下士官の姓名までいちいち覚えてしまったという人である。手ずから撫育して多年統率の任に当っていた、我が児のごと
き第九師団は、今や旅順ロ攻撃軍の中心となって、難戦苦闘を極めた点においては、出征軍中恐らくその右に出づるものはあるまい。

 乃木の長男・勝典は第2軍に属し、5月27日、遼東半島上陸直後の戦いで戦死。次男・保典も11月30日、第3軍の歩兵少尉として戦死してしまった。

■3.祝賀の陰の涙■

旅順要塞が陥落したのは、ようやく翌38年1月1日であった。日本軍の犠牲は死者1万5千、負傷者4万4千人に上った。

将軍はたちまち全世界の視聴を一身に集める人となった。文明国民として、将軍に賛美を呈せぬものはなく、新聞という新聞は、ことごとく将軍の肖像を掲げ、でたらめの伝記までも書き立てた。ドイツ皇帝は祝電を送り、勲章を贈った。

しかし、乃木大将はこれにどう応えたか。一副官はウォシュバンにこう語った。

旅順口が陥落して、私たち幕僚が皆祝賀に耽っていると、いつの間にか閣下の姿が見えない。もう退席してしまわれたのだ。行って見ると、小舎の中の薄暗いランプの前に、両手で額を覆うて、独り腰かけて居られた。閣下の頬には涙が見えた。そして私を見るとこういわれた。

今は喜んでいる時ではない、お互いにあんな大きな犠牲を払ったではないか。

降将ステッセルとの水師営の会見は有名である。各国特派員が写真撮影を求めたが、敵将に恥をかかせることは日本の武士道が許さないとして、「会見後、我々が既に友
人となって同列に並んだ所を一枚だけ許そう」といい、ステッセル以下と肩を並べて写真に収まった。

■4.「午後は少し忙しい。」■

 5月、第3軍は満洲に進出し、司令部は人口5万の町・法庫門に居を構えた。従軍記者はウォシュバンを含め、3名に減っていた。石と泥土で建てられた、何の飾りもない小さな家を乃木大将は住居としており、門に歩哨が立っているのと、将軍達がときおり内庭を行き来しているのを除けば、他の同じような住宅と区別はつかなかった。

ある日の午後、ウォシュバンはコリヤズ週刊新聞記者のバリーとともに乃木大将の住居を訪れた。いつものように閑談を伺ったり、一服の茶をふるまってもらうためであった。将軍は大長靴を脱ぎ、大きな腕椅子に正座して、茶をすすり煙草を喫して、法庫門の生活などを4,50分ほど語り合った。ウォシュバンには、この時ほど、将軍がくつろいで見えた時はなかった。

やがて、将軍はこう言った。「今日はこれで失礼します。午後は少し忙しい。ミスチェンコの兵が、我が軍の連絡を絶つために、襲撃しようとしていますから。」

ウォシュバンが後で知ったことだが、この時、わずか1千人しか防御のいない第3軍司令部にミスチェンコ少将率いるコサック騎兵約1万が接近していた。乃木大将が「少し忙しい」と言ったのは、大至急、味方の兵力を集めることであった。夕刻には万全の準備が整った。

私たち二人が乃木大将の許に悠々と茶を喫していた時は、あに図らん、ちょうどこの戦闘準備の最中であったのだ。

■5.忘れてならぬことは、敵が大不幸をみたことである。■

東郷提督率いる連合艦隊がバルチック艦隊を撃滅した翌日、夕刻7時に司令部において祝杯を上げることとなり、ウォシュバンも招待された。乃木大将が「万歳」を叫ぶと、満座これに応じて、たちまち野砲斉発のような轟きとなって、「万歳」の声が四壁を揺るがした。
 

乃木大将は微笑を浮べて冷ややかに見渡す。その微笑もやがては消えて、なかば厳粛になかば悲痛の面持となる。将軍は右手を挙げる。満堂再び沈静する。一同体を傾けて将軍の一語をも聴き漏らさじとする。将軍の言葉は、翻訳によると大要左のごとくである。

 我が聯合艦隊のため、我が勇敢な海軍軍人と、東郷提督のために、祝盃を挙げるのはこの上ないことだ。天皇陛下の御稜威によって、我が海軍は大勝を得た。しかし忘れてならぬことは、敵が大不幸をみたことである。我が戦勝を祝すると同時に、又我々は敵軍の苦境に在るのを忘れないようにしたい。彼らは強いて不義の戦をさせられて死に就いた、りっばな敵であることを認めてやらねばならない。それから更に我が軍の戦死者に敬意を表し、敵軍の戦死者に同情を表して、盃を重ねることとしよう。

乃木大将の本色実にここに在る。・・・

■6.乃木大将のアキレス腱■

ウォシュバンらが、乃木大将の戦功を語るにシーザーやナポレオンなど歴史上の偉人に比較しようとすると、将軍はいつも迷惑そうな面持ちで、「アメリカの諸君は大変お上手だから」と言って、直ちに話題を転じてしまうのが常であった。

しかし、遂に乃木大将のアキレス腱を見つけた。それは詩歌であった。バリーは、通訳が英語に訳した将軍の詩歌の詩情と典雅な表現に動かされて、適当な英語の韻律を与えようと、苦心を続けた。

 他の手段によってその名誉心に訴えようとしても、将軍は毫しも動ずることがないが、作詩の讃評を聞く時のみは、小児のように夢中になっていた。バリー君が翻訳して、しかも佳作となったものを齎して、原詩の情調に適する韻律選択の苦心を語る時、恍惚として両眼を閉じて傾聴する将軍の面影が、髣髴として今なお眼前に浮んでくる。バリー君は将軍の著想を表すのに、シェークスピアの韻律が適するか、又はスウィンバンのが適するか、それを決めるのが困難だと言って説明した。・・・そして彼が将軍の作品を論評する時、将軍は始終ポンチ(漫画)人形のように嬉しそうに見えた。

■7.暁天の星■

9月、日露講和が成立してウォシュバンらは帰国することとなった。出発の前夜、送別の小宴が開かれた。乃木大将は体調が悪く、欠席とのことであった。

宴が終りに近づいた時、にわかに入ロの戸が開いた。一同起立して不動の姿勢をとったと思うと、戸ロの方に乃木大将が立っている。

 

覆いがたい憂愁に打ち曇ったその時の顔色は、忘れようとしても忘れることはできない。・・・将軍は微笑だにも漏らさず、しずしずと食卓の上座まで来て、私たちと握手を交換し、切れるような日本語で従卒を呼んでシャンペンの盃を取った。再ぴ私たちに向って、淋しいながらも温和な色を浮べて、左のような意味を述べた。

 「・・・今諸君の我が軍を去られるに当って、一言を呈せずにはいられない。しかし訣別の辞を呈しようとするのではない。願わくはお互いの友情を、永久に黎明(夜明け)の空に消ゆる星のごとくにあらしめたい。暁天(夜明けの空)の星は次第に眼には見えなくなる。しかし消えてなくなることはない。我々は諸君に会わず、諸君も我々に逢うことがないにしても、各々何処かに健在して、互いに思いを馳せることであろう」

 

言い終って将軍は盃を揚げる。一同もまた黙々として盃を揚げた。やがて将軍は幕僚をふり返って、少しく意気を起して「万歳」を叫んだ。人々例によってこれに応じた。この懐かしい叫びは三度鳴り渡った。将軍は再び握手を交換して、またしずしずと入口の方へ去った。振り返って一座を見渡し、微笑を浮べて型のごとき挙手を行い、急に転じて出て行ってしまった。

 これが我々の親愛なる老将軍乃木の見納めであった。

■8.別れ■

翌朝、ウォシュバンらは、一戸少将以下、6名の幕僚に見送られて、法庫門を出発した。行くこと一マイル、郊外に出ると、一戸少将は馬を停め、こう言った。

「日本人は、友人と袂を分かつことを好まない。私も今告別の詞などは申さない。ただ私たちは此処に馬を駐めているから、諸君は途の曲るところまで行ったら、振り返ってこちらを見て下さい。私が手をふったら諸君も手をふって下さい。それをお互いの別れとしましょう」

 

私たちはそのまま馬を進めたが、胸迫って涙を抑えることができなかつた。永い間生活を共にしてきた軍人たち、今は友愛の情切なるものもできているのである。法庫門からの奉天街道が、渓の細路に通ずる地点に達するまで一マイルは十分あって、そこから細路が東へ東ヘと迂回して行く。その地点に達した時、かねての注意に随って振り返って見た。遥か彼方に騎馬の群が見えていた。私たちは手をふった。肥えた黒馬に跨った姿に白くひらめくものが見える。それは一戸老の手巾を振っているのである。

 これがいよいよ日本帝国の第三軍との別れとなったのだ。

■9.過去数百年伝来した理想の実現のために生きた人■

明治天皇崩御の後を追って、乃木大将自刃の報がアメリカに達した時、この事件がアメリカの国民の間で実にわけの解らぬ事件とされているのを見て、ウォシュバンは憤り、一気呵成にこの本を書き上げた。
 

吾人遠く欧米に在るものよりみれば、這般(このたび)の行為は聞いてだに戦慄すべきことであろう。しかし乃木大将を知って、いささか将軍の理想を解し、先帝(明治天皇)に対する崇拝の赤心を解するものよりみれば、何ら怪しむべきことに非ず、ほとんど自然の進退とするほかはない。

乃木大将にとっては、天皇は日本帝国の権化(象徴)であり、最後に生命を天皇に捧げるのは、すなわち、日本帝国に捧げることであった。将軍既に自己の事業の終われるを感じ、疾くにも平安静寂の境に入るべきことであったとして、その機会を熱望していたのである。

見地かくのごとしとすれば、必ずまず将軍の絶対無二の立脚地を認めなければならぬ。そは、旅順口の戦勝者としてに非ず、奉天戦の英雄としてでもない。ただ本務遂行のために生き、過去数百年伝来した理想の実現のために生きた、単なる人としてである。

乃木大将はかくのごとき人であった。

(文責:伊勢雅臣)

1. S.ウォシュバン、「乃木大将と日本人」講談社学術文庫、S55
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(http://jog-memo.seesaa.net/article/201301article_5.html)

2013年1月26日
No.783 水師営の会見 ~ 乃木将軍とステッセル将軍
 
敵将に対する仁愛と礼節にあふれた武士道精神は世界に感銘を与えた。

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1.日露友好の写真

 不思議な一葉の写真がある。日露戦争中、日本軍とロシア軍の幹部が仲良く肩寄せ合って並んだ記念撮影である。あまりにも自然に親しげにしているので、あたかも同盟国どうしの軍事演習での記念写真かのように見えるが、それは違う。

 これは両軍合わせて約8万7千人もの死傷者を出した旅順攻囲戦でロシア軍が降伏した後の水師営の会見での記念写真である。通常、降伏した側は帯剣は許されないが、明治天皇からの「武士の名誉を保たしむべき」との聖旨を受けて、ステッセル将軍以下、軍装の上、勲章をつけ帯剣していた。

 同地にはアメリカの従軍映画技師もいて、この会見を映画撮影したいと申し入れていた。しかし、乃木希典将軍は敗軍の将にいささかも恥辱を与えてはならないとこれを許さず、この一枚の記念写真だけを認めたのである。

 会見の模様は、この写真とともに全世界に報道された。武士道精神に基づく乃木のステッセルへの仁愛と礼節にあふれた態度は、世界を感銘させた。世界はわずか5ヶ月での旅順要塞の陥落に驚愕し、またこの会見に感嘆した。

 この6年後、乃木はイギリス国王戴冠式に参列される東伏見宮依仁親王に東郷平八郎とともに随行してイギリスを訪問したが、イギリスの一新聞は「各国より多数の知名の士参列すべきも、誰か東郷、乃木両大将とその光輝を争いうる者があろう」と報じている。

 その後、乃木はフランス、ドイツ、オーストリア、ルーマニア、トルコなどを歴訪したが、ある欧州人は「彼がほとんど全欧州諸国より受けた王侯に対するがごとき尊敬と希にみる所の賞賛」と形容している。

■2.「いかなる敵を引き受けても3年は支えることができる」

 明治37年2月、ロシアが満洲を蚕食し、さらに朝鮮半島にまで侵出する野望をあらわにすると、日本政府はこれ以上は座視できぬと国交を断絶した。

 5月、乃木は第三軍司令官に任ぜられた。3年前に師団長をしている際に、部下が不祥事を起こしたために、潔癖な乃木は自ら休職していたのだが、国家の非常時に、乃木ほどの人材を野に置いておく余裕はなかった。

 ロシアは長年の夢である不凍港を旅順に獲得し、そこに難攻不落の要塞を築いていた。この旅順攻略を、第三軍は命ぜられた。

 しかし、ロシア側は旅順要塞の防備について、徹底して秘密保持に努めたので、参謀本部にもその内情は分からなかった。情報不足のまま、参謀本部は旅順の敵兵力を約1万5千、火砲約2百門と見積もり、第三軍は総兵力約5万と3倍以上なので、一気呵成に攻略できるものと信じて疑わなかった。

 しかし、実際にはロシア軍は総兵力4万7千、火砲約500門を備えていた。しかも、ロシア側は6年もかけて近代的な大要塞を築いていた。旅順港を二重、三重に取り囲む100mから200m級のほとんど樹木のないはげ山の上に、強固なコンクリート壁に覆われた大小の堡塁と砲台をびっしりと並べた。

 堡塁は厚さ1~2mのコンクリートで固められ、その前には幅6~12m、深さ7~9mの壕が掘られている。さらにその外側には電流を通じた鉄条網が張り巡らされ、地雷まで埋められていた。

 クロパトキン陸相は「いかなる敵を引き受けても断じて3年は支えることができる」と自負したが、それも当然の大要塞であった。

■3.正攻法への転換

 要塞攻略には正攻法と強襲法がある。正攻法は時間をかけて要塞の近くまで塹壕を掘り進め、じっくり攻めていく。強襲法は塹壕など掘らずに、犠牲を覚悟で一気に攻める。

 大本営は第三軍が速やかに旅順を攻略し、満洲の主戦場に駆けつけることを命じていたので、第三軍は強襲法をとらざるをえなかった。

 明治37(1904)年8月19日、第1回総攻撃が開始された。2日間、200余門で砲撃を行ったが、堡塁はほとんど無傷であった。最も大きな砲が口径15センチだったが、その弾は1~2mの厚さのコンクリートに空しく跳ね返された。

 3日目には砲弾が不足してきた。大本営は要塞攻撃に十分な砲弾を第三軍に供給できていなかったのである。その中でも第三軍は突撃を繰り返し、主要な二つの堡塁を落とした。しかし、24日、とうとう砲弾が底をついて、乃木は涙をのんで、攻撃中止を命じた。総兵力5万中、約1万6千人の死傷者を出した。

 これを見て、乃木はほとんどの部下の反対を押し切って、断然、正攻法に切り替えた。堡塁の近くまで塹壕を掘り進め、そこから攻撃する。局地的攻撃では4つの攻撃目標のうち、3つの堡塁を落とした。

 9月14日には、28センチ榴弾砲が到着した。占領した堡塁を大本営の技術関係者が研究して、1~2メートルのコンクリート壁を打ち破るには、これしかないと、結論を出したのである。

 10月26日、第二回総攻撃が行われた。28センチ砲18門が約2千発の砲弾を叩き込んだが、命中率はそれほど高くはなかった。31日にはまた砲弾不足に陥り、乃木はまたしても攻撃中止を命ぜざるを得なかった。

 しかし、この攻撃で新たに二つの主要堡塁を落とし、包囲網を狭めた。また日本側は死傷者3800人と大幅に減り、ロシア側は4500人と日本側より損害が大きかった。乃木の戦略転換は確実に効果をあげていた。

■4.激戦につぐ激戦

 11月26日、第三回総攻撃が開始された。今回は地下道を掘って堡塁の地下から爆破する戦法が初めて試みられた。日本側は爆破口より突進したが、ロシア軍の反撃も凄まじかった。

 同日夜、目印として白襷をかけた3千人の白襷隊が、夜襲をかけた。ロシア軍も機関銃、手榴弾などで必死に抗戦し、これを退けた。しかし白襷を血染めにして抜刀して襲ってくる姿に、ロシア側は「(精神的に)屈服した」と記録に残している。

 乃木は翌27日正面攻撃の中止を命ずるとともに、203高地の攻略に転じた。同高地からは旅順港内が見渡せ、そこに逃げ込んだままの太平洋艦隊を砲撃できる。バルチック艦隊がやってくる前に、太平洋艦隊を撃滅しなければ海戦での勝ち目はなかった。

 海軍から矢のような催促があったのだが、大山、児玉の満洲軍総司令部も旅順要塞そのものを落とさねば、第三軍を満洲の主戦場に呼び寄せることはできないので、あくまで要塞攻略を主眼としていたのである。

 しかし、旅順要塞が容易に落ちないまま、203高地奪取のタイムリミットである12月初旬が近づいている。満州軍総司令部の許可を得ぬままに、そちらに主目標を切り替える、という戦略転換を乃木は行った。

 ロシア軍も乃木の戦略転換を読み取り、203高地をめぐる9日間の戦いは、旅順攻囲戦での最大の激戦となった。日本側が突撃につぐ突撃で一角を落としても、ロシア側が熾烈な逆襲で奪い返すということが繰り返された。

 12月5日、ようやく203高地を奪取し、ただちに観測所を設けて、8日までに旅順港内に砲撃し、太平洋艦隊を全滅させた。

 しかし、それでも旅順要塞は降伏せず、第三軍がさらに1ヶ月近くかけて主要な堡塁を占領し終わった後、明くる1月1日にようやくステッセル司令官は降伏を申し出たのである。

■5.乃木愚将論の過ち

 司馬遼太郎の『坂の上の雲』では、乃木を無謀な突撃を強いるだけの愚将として描いている。そして、児玉源太郎がやってきて、28センチ砲を使って203高地をあっという間に落とさせた、としているが、これは史実を曲げた記述である。

 乃木は児玉が到着する12月1日の前に203高地への戦略に転換しているし、28センチ砲は9月から使われていた。

 そもそも約6万人もの死傷者を出しながら、第三軍将兵が終始激烈に戦い抜いたのは、司令官としての乃木に信服していたからである。この結果、ロシア側が「3年は支えることができる」とした大要塞を約5ヶ月で陥落させることができた。

 第三軍はその後、すぐに満洲の主戦場に赴き、そこでもロシア軍に攻め込む中心的な働きをした。日本海海戦の東郷とともに、乃木が陸戦における中心人物として世界から称賛されたのも当然であった。

 日本側は死傷者約6万を出したが、その数をもって乃木を愚将とするのは正当ではない。ロシア側も2万7千人と、半数以上の死傷者を出している。

 この12年後、第一次大戦でドイツとフランスの要塞攻防戦であった「ヴェルダンの戦い」では、両軍合わせて70万人以上の死傷者を出した。旅順の戦いは、こうした膨大な犠牲者を生み出す近代戦の先例と位置づけるべきだろう。

 ただし、乃木自身はこれほどの死傷者を出したことを自らの大罪と受けとめ、この後は自らは質素な生活をしながら、俸給の大半を戦死者遺族の救済や傷病兵の医療に費やしている。

■6.「武士の名誉を保たしむべき」

 ステッセルの降伏が報ぜられると、明治天皇は深く喜ばれ、1月2日、山形参謀長を通じて、次の聖旨を送らせた。
__________
 陛下には、将官ステッセルが祖国のため尽くせし苦節を嘉したまい、武士の名誉を保たしむべきことを望ませらる。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 乃木はすぐにステッセルに特使を送ってこれを伝えた。翌日は、再度特使を送って、2両の輜重車に野菜を満載して、鶏、ブドウ酒と一緒に送った。ロシア軍が野菜不足で苦しんでいる、と特使から聞いたからである。

 こうして1月5日、名高い水師営の会見が行われた。乃木は挨拶の後、姿勢を改めて明治天皇の聖旨を伝えた。ステッセルは慇懃なる態度で「貴国の皇帝陛下よりかくのごとき厚遇を蒙ることは、私にとって無上の名誉であります」と答えた。

 その後、二人は席につき、なごやかな雰囲気のもとに語り合った。それはあたかも旧知の友のようであった。ステッセルは日本軍の不屈不撓の勇武を天下に比類なきものと賛嘆を惜しまなかった。乃木はロシア軍の守備の頑強さを称えた。

■7.「昨日の敵は今日の友」

 そのあとステッセルは容を改めて、乃木がこの戦いで二子を喪ったことを慰めた。乃木は微笑を湛えつつ、答えた。
__________
 私は二子が武門の家に生れ、軍人としてその死所を得たることを悦んでおります。長子は南山に斃れ、次子は203高地において戦死しました。
かく彼ら両人がともに国家の犠牲となったことは、ひとり私が満足するばかりではなく、彼ら自身も多分満足して瞑目しているであろうと思います。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 いかにも古武士らしき乃木の言葉に、ステッセルは愕然として、「閣下は真に天下の偉人であります。私らの遠く及ぶところではありません」と感嘆おくあたわざる面持ちであった。

 さらに乃木が、諸処に散在しているロシア軍の死没者の墳墓を一カ所に集め、その所在氏名を明らかにしたい、と述べると、ステッセルは驚きと喜びを溢れさせて言った。
__________
 閣下は実に死者のことまで注意されるか。厚意は謝するに言葉がありません。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 この会見の後、双方は日本側の用意した昼食をとった。そこには5ヶ月にわたって凄惨な戦いを繰り広げた仇敵同士ではなく、まさに「昨日の敵は今日の友」との和気藹々とした空気が流れていた。

 そして、この後に、冒頭で紹介した両者対等に入り交じった記念撮影が行われたのである。

■8.「武士の情け」

 乃木のステッセルに対する「武士の情け」は、この後も続く。日露戦争後、ステッセルは旅順開城の責任を追及されて、重罪に処せられんとした。それを知った乃木は、当時パリにいた元第三軍参謀・津野田是重少佐に対して、ステッセルを弁護するよう依頼した。

 少佐は仏、英、独の新聞に投書して、開城はやむを得ざるものであり、ステッセルは立派に戦い抜いたことを詳しく述べた。これが奏功して、ステッセルは死刑の判決を特赦によって許され、モスクワ近郊の農村で静かに余生を送った。

 出獄したステッセルは一時、生活に困窮したが、それを知った乃木は名前を伏せて、しばしば少なくない金額を送った。逆に、乃木が明治天皇崩御の後に殉死した際、ステッセルは皇室の御下賜金に次ぐ多額の弔慰金を「モスクワの一僧侶」とだけ記して送った。

 ステッセルは晩年、「自分は乃木大将のような名将と戦って敗れたのだから悔いはない」と繰り返し語っていた。

(文責:伊勢雅臣)

1. 岡田幹彦『乃木希典―高貴なる明治』展転社 H13
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2021年03月28日
No.1209 司馬遼太郎が描き損なった「和の武人」乃木希典
■■ Japan On the Globe(1209)■■ 国際派日本人養成講座 ■■

人物探訪: 司馬遼太郎が描き損なった「和の武人」乃木希典

『坂の上の雲』は「乃木愚将論」に固執することで、世界の称賛を浴びた「和の武人」を描き損なった。
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■1.「祖母から乃木大将の話や歌を教えてもらいました」

 以前、ある講演で乃木希典大将のお話をした際に、熱心な感想を多数いただきました。その中で乃木大将の事を祖父母から聞いていた、というお便りが2件ありました。
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(Emiさん) 小さい時、祖母から乃木大将の話や歌を教えてもらいました。思い出しながら拝聴しておりました。今も頭に流れています。
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(一視聴者さん) 私の祖父母は明治32・36年生まれで、英雄といえば乃木大将でした。私も小さい頃は乃木大将は古いなーとしか感じておらず、中学の時に先生から「金州場外の作ー乃木希典」という詩吟を教わったのですが暗い印象しかなかったです。
しかし、海外では乃木大将は日本の誇る英雄であり、敗者のロシアの将軍にも敬意をもって接した武士道が世界に評価されたこと、そしてそれが明治天皇からの命令であったことを知り、日本の教育はどうしてこういう大事なことを教えないのかと感じました。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 乃木大将は戦前の「英雄」から、戦後は無視、あるいは「愚将」と180度評価が変わっています。そこに現在の教育問題が窺えるのです。
以下、この点を見ていきましょう。

■2.「児玉は、成功した」という「真っ赤な嘘」

 現在の歴史教科書では乃木大将も登場しませんから、乃木将軍を知っていても、愚将であるかのように捉えている人が多いのは、司馬遼太郎氏の総発行部数2千万部という超ベストセラー『坂の上の雲』の影響でしょう。

 司馬氏の作品群が幕末から明治にかけての自虐史観を払拭したことは大きな功績ですが、時々、その作品を面白くするがために偏った人物描写をしており、それによる歪んだ史観も広まってしまいました。その最たる例が乃木大将です。

『坂の上の雲』では、「無能な乃木大将」に任せていては将兵がムダに死んでしまうだけで203高地は一向に落ちず、それでは旅順港内に逃げ込んでいる旅順艦隊は壊滅できず、やがてバルチック艦隊がやってくれば、日本海軍も二倍の相手に負けてしまい、その結果、満洲に進攻している日本陸軍も補給を受けられず、全滅してしまう、と、当時の日本が直面していた危機を描きます。

 そこで児玉源太郎総参謀長が乃木の司令部にやってきて、乃木大将から指揮権を一時的に取り上げて、作戦変更し、それが功を奏して203高地が落ちた、という筋書きになっています。作戦変更を命ずるシーンは次のように描かれています。
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 児玉は(JOG注: 命令に反対する砲兵少佐の)奈良をおさえ、
『命令。二十四時間以内に重砲の陣地転換を完了せよ』と、大声でどなった。結果からいえば、児玉の命令どおり、二十四時間以内に重砲は二〇三高地の正面に移されたのである。[司馬、1143]
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 そして、この結果をこう描いています。
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 児玉は、成功した。
 かれは砲兵陣地を大転換することによって歩兵の突撃を容易ならしめ、六千二百の日本兵を殺した二〇三高地の西南角を一時間二十分で占領し、さらにその東北角をわずか三十分で占領した。明治三十七年十二月五日である。[司馬、1440]
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 しかし、陸軍士官学校卒で大東亜戦争では砲兵中隊長として従軍し、戦後は自衛隊で陸将補まで務められた桑原嶽氏は著書で、こう批判しています。
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 しかし、これは真っ赤な嘘である。
 実際に陣地変換した火砲は前述したように十二サンチ榴弾砲・一五門、九サンチ臼砲・一二門だけである。当時の第三軍の全火砲・三百数十門の数パーセントに過ぎない数である。
 (JOG:攻略の中心となった)二十八サンチ榴弾砲のごとき陣地変換など全然していない。はじめからできるはずがないのである。[桑原、3253]
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 司馬氏は「砲兵陣地を大転換」して「児玉は、成功した」と描きましたが、その「大転換」とはわずか砲数の「数パーセント」に過ぎず、「真っ赤な嘘」だというのです。

 203高地への攻撃目標転換も、重砲の布陣も児玉が到着する前に、乃木軍がすでに行っていたことでした。その上で、総参謀長のような高官が「数パーセントの重砲」の配置というような下級参謀が担当するような細かな戦術に口を出すとも思えません。たとえそれが事実だとしても、それが203高地攻略の大きな成功要因になったはずはありません。

「児玉は、成功した」というわずか8文字に、司馬氏の作り話ぶりが如実に表れているのです。

■3.児玉総参謀長は何をしに来たのか?

 それなら、何のために児玉は総参謀長の重要な仕事を投げ出して、乃木軍の戦いに馳せ参じたのでしょうか? 桑原氏はこう推測しています。

 乃木大将が、203高地の攻略に集中するという決心をしたのは、11月27日朝でした。前日に乾坤一擲の第三回総攻撃を始め、ロシア側の頑強な抵抗に阻まれて難航していました。桑原氏はこう記しています。
__________
しかし、この決心の変更は乃木にとっては最後の賭けである。おそらくこの時、乃木は死を覚悟したことであろう。この決心の変更は直ちに満洲軍総司令部に報告された。この報告に接した大山も児玉も、多分、乃木の死を直感したのだろう。
 盟友乃木を殺してはならぬ。児玉はそう覚悟したに違いない。
 十一月二十九日午後八時、烟台の総司令部を出発し、児玉は急遽旅順に向かう。[桑原、3156]
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 かつての西南の役では、乃木は部下の過失から天皇からいただいた軍旗を失う、という失態の責任をとって自刃しようとしました。隣室で密かにその気配を察していた児玉が、その瞬間に飛び込んで、「過失(あやまち)を償うだけの働きをしてから死んでも遅くはあるまい、それが真の武士道だ」と説いて、乃木を思いとどまらせました。

 乃木と児玉はこのように深く結ばれた盟友だったのです。その二人の絆を考えれば、児玉総参謀長は、乃木の自刃を防ごうとやってきた、という解釈は、ごく自然に思えます。

■4.「乃木を替えることはならん!」と言われた明治天皇

 児玉総参謀長が何としても乃木大将の自刃を止めようとやって来た、という解釈は、それまでの旅順攻囲戦の経緯を知れば、さらに説得力を増します。

 乃木大将は第三回の総攻撃の直前、11月22日に明治天皇から激励の勅語を賜っています。「成功ヲ望ムノ情甚ダ切ナリ 爾等将卒夫レ 自愛努力セヨ」という、まさに切々たる御心の籠もったお言葉です。「攻撃開始前に勅語を賜るとは前代未聞」と桑原氏は記されています。

 第三軍将兵は勅語に深く感激し、乃木大将は「将卒一般 深ク聖旨ヲ奉体シ 誓ツテ速カニ軍ノ任務ヲ遂行セムコトヲ期ス」と奉答しています。「任務ヲ遂行」という言葉に注意しましょう。成功するかどうかは分からない、ただ身命を賭して旅順要塞攻略という「任務」に向かうのみ、という覚悟が窺われます。

 乃木大将に随行したアメリカの従軍記者スタンレー・ウォッシュバンは「多くの死傷者を出したにもかかわらず、最後まで指揮の乱れや士気の低下が見られなかった」と述べています。乃木大将配下の将兵たちは、同僚を次々と失いながらも、乃木の采配に決然と従って、死地に赴いたのです。

 大本営では、膨大な死傷者を出している乃木の更迭案も出しましたが、明治天皇は「乃木を替えることはならん!」と断乎許されませんでした。乃木だからこそ、将兵たちが決死の覚悟で戦うのであって、乃木以外の人間にこの死地で従うとは考えられなかったでしょう。そして、それでは旅順要塞は落とせないのです。

 また、乃木大将を替えたら、大将は生きていなかったでしょう。それでは乃木大将のためならと死んでいった多くの将兵たちも浮かばれません。そのような追い詰められた状況の中で、唯一の出口は乃木大将以下将兵たちの必死の奮戦で、活路を開いて貰うしかない。そういう切羽詰まったお気持ちで、明治天皇は異例の勅語を出されたものと拝察します。

■5.乃木の自刃を止めるために

 また、乃木大将は次のエピソードからも窺えるように、多くの部下を死なせてしまったことに深い責任を感じていました。

 旅順攻囲戦の後、将官たちが祝賀の宴を張っていた晩、途中で乃木大将の姿が見えなくなりました。大将の副官が宿舎まで探しにいくと、こんな光景を目にしました。
__________
 小舎の中の薄暗いランプの前に、両手で額を覆うて、独り腰かけて居られた。閣下の頬には涙が見えた。そして私を見るとこういわれた。今は喜んでいる時ではない、お互いにあんな大きな犠牲を払ったではないか。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 こういう部下思いの将軍が、心を鬼にして、旅順要塞に立ち向かっていたのです。乃木大将の人柄から見れば、もし最後の203高地総攻撃が失敗したら、明治天皇、亡くなった将兵たち、それに日本国に対して申し訳ないと、文字通り腹を切って自決することは、十二分にありうることでした。

 児玉参謀総長からすれば、個人的な盟友を失うのみならず、旅順攻略の責任者が自決してしまったら、国際社会に対しても、日本の敗色濃厚である事を知らしめることになってしまうわけで、何としても止めなければならないことでした。

■6. 「乃木愚将論」で失われた人間性の真実

 旅順に出発する前に、児玉総参謀長は大山元帥から「第三軍の指揮権移譲」に関する書類を貰っていた、と秘書官の一人が語っており、司馬氏はこれを、乃木から指揮権を奪うため、と解釈しています。

 桑原氏は、そもそもこれが事実かどうかについて非常な疑問を持ちつつも、百歩譲って事実だとしたら、児玉総参謀長は乃木の自刃を止められなかった場合、自分が第三軍の指揮を執るつもりで、大山元帥からその承認を得たのではないか、と推察されています。

 もし乃木が亡くなったら、ルール上は部下の師団長級が代行することになりますが、それで乃木自刃の全軍及び国際的な衝撃を抑えられるはずもありません。
 その場合は、総参謀長の自分が替わってなんとかするしかない、と考え、そのために、大山元帥の一筆を事前に貰っていた。天才軍略家の児玉源太郎なら、そこまで用意周到に準備していたとしても、不思議はありません。

 結局、司馬氏は「乃木愚将論」という嘘を描くために、乃木の成功を「天才軍略家」児玉に帰するという嘘を重ねざるを得ませんでした。さらに、そのためには乃木の指揮権を奪う冷徹な「天才軍略家」に、児玉参謀長を貶めてしまったのです。

 国家と天皇と将兵のために自決まで覚悟した乃木大将、その乃木を殺してはならないと駆けつける児玉総参謀長、二人の深い絆をきちんと描けば、自ずから日本国史上の名場面として、国民の心に永く訴えるドラマになっていたはずです。司馬氏は「乃木愚将論」に執着することで、それを単なる「愚将」と「天才軍略家」の物語にしてしまったのです。

■7.世界から「尊敬と希にみる所の賞賛」を受けた「和の精神」

 もう一つ、司馬氏の偏向記述は、ロシア軍降伏後のステッセル司令官との会見にも現れています。そこでは会見後の両軍相まみえての写真撮影のことが触れられていないのです。日本軍とロシア軍の将官たちが入り交じり、肩を並べて、あたかも同盟軍の軍事演習の記念写真であるかのように見える、有名な一葉です。

この写真が世界に報道され、乃木の武士道に基づく「和の精神」は、世界に感銘を与えました。乃木はこの6年後に欧州各国を歴訪しますが、ある欧州人は「彼がほとんど全欧州諸国より受けた王侯に対するがごとき尊敬と希にみる所の賞賛」と形容した歓迎を受けたのです。

 戦前の小学唱歌『水師営の会見』は、この情景を歌ったものです。
__________
昨日の敵は今日の友 語ることばうちとけて 我はたたえつ かの防備 かれはたたえつ 我が武勇
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 という一節などは、冒頭のEmiさんが「小さい時、祖母から乃木大将の話や歌を教えてもらいました」と言われた一部でしょう。こういう歌から、乃木大将の「和の精神」を教わることは、司馬氏の「乃木愚将論」を読むよりも、よほど深い人間教育になるはずです。

 戦前において、日本国民に「和の精神」を具体的な態度で示し、また世界から「尊敬と希にみる所の賞賛」を受けた「和の武人」を我々は忘れ去ってしまったのです。戦前の「軍国主義」を敵視する余りに、こういう歪んだ歴史を教えるという事は、なんと愚かな、罪深いことかと思わざるをえません。

(文責 伊勢雅臣)

(2023年3月31日転載終)

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高橋是清とヤーコブ・シフ

国際派日本人養成講座 (seesaa.net)
(http://jog-memo.seesaa.net/article/495398683.html)

2003年5月4日
No.0291 高橋是清 ~ 日露戦争を支えた外債募集
 莫大な戦費の不足を補うために欧米市場で資金を調達す
る、との使命を帯びて、是清は出発した。

■■■■ H15.05.04 ■■ 38,111 Copies ■■ 800,955 Views ■■

■1.金がなければ戦もできない■

 明治37(1904)年2月24日、日銀副総裁・高橋是清は横浜出帆の汽船でアメリカに向かった。すでに同月8日には連合艦隊主力は旅順港外でロシア艦隊を攻撃し、陸軍の先遣部隊も仁川に上陸を開始して、日露戦争が勃発していた。

 是清の役割は欧米で外債を募集し、戦費を調達することであった。政府はとりあえず1年分の戦費を4億5千万円と見積もり、そのうち1億5千万円が海外に流出するとの予想を立てた。しかし日銀所有の正貨(金と交換しうる貨幣)余力は約5千万円程度しかなく、不足分の1億円を何としても外債で調達しなければならなかった。当時の国家予算・約6億8千万円と比較してみれば、その規模が想像できよう。

 是清はアメリカに着くとニューヨークに直行して、数人の銀行家に外債募集の可能性を諮ったが、「豪胆な子供が力の強い巨人にとびかかった」と日本国民の勇気を嘆賞しつつも、米国自体が産業発展のために外国資本を誘致しなければならない状態で、とうてい起債は無理だとの事であった。

 アメリカがだめならロンドンで起債を考えなければならない。おりしも外国為替を担当する横浜正金銀行のロンドン支店長・山川勇木からは「ロンドンでは外債募集の見込みはない。今日正金銀行のごときはびた一文の信用もない」との電報を送ってきていた。それには構わず、是清はすぐに英国に向かった。
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 天は自ら扶くる者を扶くというではないか。国家の危急にのぞみ、全力を尽くすばかりだ。
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■2.浮きつ沈みつ■

 是清は安政元(1854)年、江戸で幕府絵師の家に生まれ、すぐに江戸詰めの仙台藩足軽・高橋是唯の養子に出された。12歳にして横浜の英人宅のボーイを務めながら英語を習った。14歳で仙台藩の留学生として渡米したが、米人に騙されて奴隷として売られ、カリフォルニア州オークランドで家事奉公をする。

 仙台藩からの別の留学生に救われて、ようやく帰国した後は大学南校(後の東京大学)の英語教官手伝いを命ぜられたが、今度は悪友に騙されて250両の借金を押しつけられ、日本橋の売れっ子芸者の家に居候して、三味線持ちの手伝いをしていた。

 見かねた友人の紹介で唐津の英語校で教え始めると、教育や学校経営でたちまち成果をあげた。その後、農商務省に引き抜かれて特許や商標制度の確立という業績を残したが、ペルーの銀山経営というペテン話に引っかかり、関係者の救済のために全財産を投じて無一文に戻った。その後、是清の力量を見込んだ日銀総裁・川田小一郎に拾われ、一介の事務主任から始めて、持ち前のやる気と能力でたちまち抜擢されて、ついには45歳にして副総裁となった。

■3.「困った境遇」■

 是清は後年、この浮き沈みの激しい前半生をこう振り返っている。
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 私も今日までには、ずいぶんひどく困った境遇に陥ったことも一度や二度ならずあるのだが、しかも、食うに困るから助けてくださいと、人に頼みにいったことは一度もない。
 いかなる場合でも、何か食うだけの仕事はかならず授かるものである。その授かった仕事が何であろうと、常にそれに満足して一生懸命にやるなら、衣食は足りるのだ。
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 ロンドンでの外債募集に向かうというのも「困った境遇」だったが、それ以上に大国ロシアとの戦いを始めた日本帝国全体が「ひどく困った境遇」にあった。しかし是清も日本も「助けてください」と外国に頼みはしなかった。欧米の資本家に対し、わが国に金を貸せば得をする、と説得にかかったのである。

■4.ロンドンの銀行家たちの躊躇■

 ロンドン市場では日本公債に対する人気は非常に悪かった。4パーセントの利付きポンド建て公債の価格は80ポンドだったのが、戦争が始まるやたちまち60ポンドまで値下がりしてしまい、所有者に大損害を与えていた。一方、ロシア政府の方は同盟国フランスの銀行家の後援を受けて、その公債の価格はむしろ上昇気味だった。

 この状態で新たに日本公債を発行しても、応募者が集まらず失敗に終わる可能性が高い。それは日本帝国が欧米金融市場からも見放された事を全世界に知らしめてしまう。そうなれば日本軍の軍費はたちまち底をつき、敗戦は火を見るよりも明らかになる。

 是清は毎日のように英国の銀行家と話をしているうちに、彼らが日本公債引受けに躊躇している理由が分かってきた。一つには兵力からしても日本に勝ち目はないと見ていることだった。日本が敗戦したら、その公債は紙くずになってしまう恐れがある。そこで是清はまず日本にも勝ち目がある事を理解させようとした。

 すなわちこのたびの戦争は、日本としては国家生存のため、自衛上已むを得ずして起ったのであって、日本国民は二千五百年来、上に戴き来った万世一系の皇室を中心とし、老若男女結束して一団となり、最後の一人まで戦わざれば已まぬ覚悟である、というような説明をすると、日本の事情に疎い銀行家たちは非常な興味をもって聞き入った。

 もう一つの躊躇の理由は、英国は日本の同盟国ではあるが建前としては局外中立の立場にあり、公債引受けによって軍費を提供する事は中立違反となるのではないか、という点だった。これについては是清はアメリカの南北戦争中に中立国が公債を引き受けた事例などを引き、法律家や歴史学者の意見も確かめて問題ないことを明らかにした。

■5.日本政府は元金利払い共に一厘たりとも怠ったことはない■

 是清の説得が徐々に浸透して、1ヶ月もすると銀行家たちが相談の上、公債引受けの条件をまとめてきた。ポンド建て、利子年6分、期限5カ年、発行限度3百万ポンド、額面100ポンドで発行価額92ポンド、日本の関税収入を抵当とする、というものであった。

 関税を抵当とする以上、支那の税関に英国人管理人をおいているように日本にも派遣すべし、という意見が強かったが、是清は頑として聞かなかった。
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 一体、貴君らが日本と支那とを同一に見ることが間違っている。日本政府は従来外債に対して元金利払い共に一厘たりとも怠ったことはない。ただに外債のみならず、内国債でも未だかつて元利払いを怠ったことはない。それを支那と同一視されては甚だ迷惑である。
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 是清がこう強く言い張ったので、銀行家たちもとうとう管理人派遣をあきらめた。また是清は他の条件についても、発行金額を日本政府の希望1千万ポンドの半額5百万ポンドに、期限5ヶ年を7ヶ年に、発行価額92ポンドを93ポンドに、と主張して譲らず、これらを英国銀行家たちに呑ませることに成功した。

■6.天佑■

 ようやく銀行家たちとの話はまとまったが、まだ必要額1億円の半分である。そこに幸運が訪れた。是清と日本で知り合っていたイギリス人の友人が、銀行家たちとの話がまとまった事を喜んで晩餐会に招待してくれた。そこに居合わせたのが、ニューヨークのクーンロエプ商会代表者シフであった。

 是清の隣に座ったシフはしきりに日本の経済や生産状況、開戦後の人心動向などについて聞いてくる。是清は一つ一つ丁寧に答えた。

 翌日、シフが人を介して、残りの5百万ポンドを自分が引き受けて米国で発行したいと言ってきたのには、是清も驚いた。シフもクーンロエプ商会も昨晩初めて耳にしたばかりである。英国の銀行家たちがまとまってようやく引き受けられるほどの金額を、一人で処理できるのだろうか。

 調べてみると、シフは世界的な大富豪である事が分かった。またロンドンの銀行家たちも、シフの申し出を非常に喜んだ。英国とロシアの王室は親戚同士であり、また同じ白人国家である。一人英国のみ日本に肩入れするのは心苦しいという後ろめたさがあったのだが、米国も加わったということでそれが一掃された。

 シフとの相談は人を介してトントン拍子に進み、米英で同時に合計1千万ポンドの発行ができることとなった。是清は、これこそ天佑だと大いに喜んだ。

 シフは契約がまとまった段階でアメリカに帰ることになり、もう一度是清に会いたいと言ってきた。しかし是清は「シフにはひたすら感謝し、敬意を表しているが、私は一国を代表してきている。私に会いたければ、シフの方から訪ねてくればよい」と答えた。公債引受けは援助ではなく、あくまで対等のビジネスだという筋を通したのであろう。

 シフは気を悪くすることもなく、是清が泊まっている三流商人宿を訪ねてきた。その後、是清が返礼にシフを訪ねると、こちらは各国の王侯クラスが泊まるロンドンでも第一流のホテルであった。シフは相変わらず誠意あふれる態度で接してくれたが、是清はさすがに「宿替えをせねば、体面にかかわるなあ」ともらした。

■7.シフの志■

 5月11日から、米英両国で公債の募集を開始した。おりしも5月1日には日本軍が朝鮮と満洲の境をなす鴨緑江の渡河作戦でロシア軍を圧倒し、大勝を博したとのニュースが流れたため、日本公債の人気は急上昇した。是清が発行銀行の様子を見に行くと、申込人の列が3百メートルも続き、発行当日の午後3時には締め切ったほどだった。5千万円の募集に対し応募高は、ニューヨークでは2億5千万円、ロンドンでは実に15億円に達した。

 それまで「正価の流出が予想よりはるかに早いので一日も早く募債を成功させよ」と日銀総裁から繰り返し窮状を訴えられていたのが、日本公債の人気ぶりが世界に伝わると、正価の流出はピタリと止まった。

 その後、是清はシフとの交際を深めていく過程で、彼がなぜ積極的に日本公債を引受けたのかが明らかになった。かねてからロシアではユダヤ人が虐待されており、海外のユダヤ人はロシア政府を援助することによって、同胞の待遇を改善しようとしていたが、ロシア政府は金を借りるときだけ都合の良い事を言って、一向に約束を守らない。

 シフは米国のユダヤ人の会長であり、ロシア政府に対して憤慨していた。そのロシアに戦いを挑んだ日本の兵は訓練が行き届いて強いということを知り、これを財政的に助けて、よしんば日本が勝利を得なくとも、ロシアの政変にでもつながれば、ユダヤ同胞はその虐政から救われるだろう、と考えたのであった。

■8.償金の有無は主要の問題ではない■

 その後、是清は英国銀行団やシフの協力を得て、第2次・2億円、第3次・3億円、第4次・3億円と矢継ぎ早に公債募集を成功させていった。是清が戦況と市況を睨みつつ、的確に募債条件を設定し、新聞を通じて投資家たちにきちんと説明を行い、さらにドイツやフランス市場にも募集を拡げていった成果であった。ニューヨークでは、巨額の起債にも関わらず金融市場を乱さないよう深甚の注意を払ってくれたと、投資家たちから賛辞を寄せられた。

 日露57万の兵力が激突した奉天会戦、バルチック艦隊を撃滅した日本海海戦を経て、明治38(1905)年9月5日、講和条約が調印された。償金は要求せず、南樺太のみ割譲という日本側が大幅に譲歩した条件であった。

 ロシアから莫大な償金をとれなかった日本政府は資金に窮して、再度公債募集を図るのでは、という観測が欧米市場に流れ、日本公債の人気がにわかに消沈した。是清はインタビューを求めてきたロイター通信などの記者にこう語った。

 軍隊の引き揚げ等、戦争の後始末に要する費用は現在の資金にて十分であり、もし今後、外債を起こすことがあれば、従来の高利公債を整理するためにほかならない。この際、平和の成立は満足すべきことであって償金の有無は主要の問題ではない。

 この発言が各新聞に掲載されると、投資家たちは好感して、日本国債の人気は再び盛り上がった。

■9.金銭と独立心■

 是清は60歳まで日銀総裁を務めたが、その後、7度も大蔵大臣に任ぜられ、さらに総理大臣、農商務大臣、商工大臣、農林大臣を歴任した。

 昭和9(1934)年には81歳にして7度目の蔵相就任。満洲事変以来、軍事予算は膨張を続け、昭和10年度予算では歳出総額の45%にも達していた。是清は軍事予算の抑制につとめ、そのために歯に衣着せぬ軍部批判を議会や閣議で行った。政治家が次々とテロの標的となる時代だったが、是清はもはや身の危険を顧みなかった。それがたたってついに昭和11(1936)年2月26日、二二六事件の凶弾に倒れた。

 日銀、大蔵省と長らく金融・財政畑を歩んだ是清だったが、金のみがすべてであるという世相を批判して、こう述べている。
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 元来、米国人が金銭を尊ぶのは、私の見るところによれば、金銭それ自体を尊ぶというのではなく、かの民族特有の、きわめて強い個人的独立心からきているもののように思われる。この点に十分注意してもらいたい。・・・

 友人や知己をたずねて、困るから何とかしれくれないか、とすがりつくが如きが、人間一生の大恥辱となっているから、決してそんなことはしない。どうしても、自分の始末は、自分一個の腕でやっていかねばならぬ。
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 蓄財の目的は、金を貯める事自体ではなく、独立心を磨き、一身、ひいては、国民全体の品性を高めるにある、と是清は説いた。そのような品性と独立心とを、日露戦争を戦った頃の日本と、その資金調達を支えた是清は豊かに持っていた。

(文責:伊勢雅臣)

(2023年3月31日転載終) 

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ノーベル賞の田中耕一氏その後

朝日新聞(http://www.asahi.com/articles/ASR3Q3GVMR3FPLBJ002.html?linkType)

ノーベル賞の田中耕一さん流「夢のかなえ方」 第一志望外れ続けても
聞き手・瀬川茂子 写真・筋野健太
2023年3月26日

2002年にノーベル化学賞を受賞した島津製作所エグゼクティブ・リサーチフェローの田中耕一さん(63)は、その後も100本を超す論文を発表。今も作業服で1万歩近く社内を歩き、一線で研究を続けている。どんな思いなのか、聞いた。

――毎日、研究所に?

やりたいことを好き勝手にやらせてもらっています。朝7時前に会社に来ています。部下からの問い合わせがない8時過ぎぐらいまではゴールデンタイム。いろいろ調べたり、論文を読んだり、実験をしたり。そして6時前後に帰ります。

――実験も?

アイデアを持っている若い人が、時間がないと言うと、代わりに実験をやってあげるよと。喜々として部下の下請けをしています。自分の目で結果を確かめたいですし……。

管理とかマネジメントはほぼできていない状況で、部下に任せている。そのかわり、用もないのにあちこち歩いて雑談し、その時々の課題を聞き、私自身が解決できないにしても、誰かにつなげる。自分で「徘徊老人」といっています。私の肩書はでかいけれど、相談しやすいように、私から話しかけます。この建物には500人以上の研究開発スタッフがいて、1階はサロンのようになっています。社外の方々も訪れ、産学官連携に取り組むきっかけができることもあります。

――ノーベル化学賞受賞から20年あまりたちました。

最初は(受賞者として)扱われるのはつらいので、元首相のように「元受賞者」という立場にできないか、現役を引退して肩の荷をおろしたいと思いました。幸い、その後たくさん受賞者が出て、私1人で担う役割はかなり少なくなりました。

ノーベル賞受賞者が増えたことはうれしいけれど、「十分でなかった部分がある」という田中さん。成功の秘けつや今後、やりたいことについても聞きました。

こういう賞を受けていながら、私自身は化学の専門家だと思っていない。部下の方が化学の知識があります。

(後略)
。。。。
うちの主人が、田中耕一さんのノーベル賞受賞の報道に対して、「企業研究所に勤務する者としても、エンジニアとしても、気持ちがよくわかる」と喜んでいたことを思い出す。2002年は、まだ薬で一見何とかなっていた頃だったので、夜遅くまで研究開発グループで特許論文を書いたり、実験室にこもったりして、働いていた。ついこの間のことのようだ。

田中さんの奥様が同志社出身で、ごく普通の地味な感じの女性。あまり表に出てこないところも好感が持てた。懐かしい!

JR京都駅に降り立つ度に、今でも時々、田中さんを出迎える人々の「やらせびっくり撮影」を思い出す。

養子として引き取り、我が子同然に田中さんを育てたお母様は、その後どうされたかしら?
。。。。。。
(https://twitter.com/ituna4011/status/1641286218687320065)
Lily2@ituna4011
核融合発電、カギ握る高出力レーザー開発 大阪大学など – 日本経済新聞 https://nikkei.com/article/DGXZQOCD230GW0T20C23A3000000/…
⇦ うちの主人の所属でした。
12:48 PM · Mar 30, 2023

(2023年3月31日記)
………….
2023年4月1日追記1

本当に久しぶりに田中さんの話が出てきたので、しばし思い出を振り返る。当時は全くわかっていなかった田中さんの業績が、実は主人の神経難病の治療開発にも関係があることを知った今、ウィキペディアを部分転載することにした。

田中耕一(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%80%95%E4%B8%80)

・1959年8月3日(63歳) 富山県富山市生まれ
・島津製作所クラトスグループ シマヅ・リサーチ・ラボラトリー・ヨーロッパ
・東北大学工学部電気工学科卒業
・指導教員:澤柿教誠・安達三郎
・主な業績:生体高分子の同定と構造解析・ソフトレーザー脱離イオン化法・血液一滴による病気早期診断
・影響を受けた人物:窪寺俊也・松尾清・ロバート・J・コッター
・主な受賞歴:日本質量分析学会奨励賞・ノーベル化学賞(2002年)・日本質量分析学会特別賞

・日本の化学者、技術者。ソフトレーザーによる質量分析技術の開発によりノーベル化学賞受賞。株式会社島津製作所シニアフェロー、田中耕一記念質量分析研究所所長、田中最先端研究所所長。東京大学医科学研究所客員教授などにも就任している。東北大学名誉博士。文化功労者、文化勲章受章者、日本学士院会員。

・学位は工学士(東北大学・1983年)であり、学士で唯一のノーベル化学賞受賞者。ノーベル賞を受賞して以降も、血液一滴で病気の早期発見ができる技術の実用化に向けて活躍中である。

・1959年(昭和34年)に富山県富山市に生まれる。富山市立八人町小学校(現・富山市立芝園小学校)において、4 – 6年次の担任である澤柿教誠から将来の基礎を育む理科教育を受ける。富山市立芝園中学校、富山県立富山中部高等学校卒業。東北大学工学部電気工学科に入学する。入学時に取り寄せた戸籍抄本で自身が養子であることを知り、そのショックも手伝って教養課程在籍時にいくつかの単位を取得できず1年間の留年生活を送った。しかし、前倒しで専門の勉強に励んだため、卒業する頃には学科で上位1割の成績になっていた。卒業研究の指導教官は安達三郎(現・東北大学名誉教授)で、電磁波やアンテナ工学を専攻した。

・大学卒業後は大学院に進学せずソニーの入社試験を受けるも不合格。最初の面接失敗後に相談した安達の勧めで京都の島津製作所の入社試験を受け合格した。1983年3月東北大学卒業。

・2002年10月11日、総理大臣官邸にて東京大学名誉教授小柴昌俊(左)、内閣総理大臣小泉純一郎(中央)と【写真】
・2003年2月7日、総理大臣官邸にて東京大学名誉教授小柴昌俊(左)と共に内閣総理大臣小泉純一郎(右)から内閣総理大臣感謝状を受領【写真】

・1983年4月に島津製作所入社した後は技術研究本部中央研究所に配属され化学分野の技術研究に従事する。1985年(昭和60年)にタンパク質などの質量分析を行う「ソフトレーザー脱着法」を開発。この研究開発が後のノーベル化学賞受賞に繋がる。20回以上の見合いの後、1995年に富山の同じ高校出身の女性と見合い結婚する。英国クレイ
トスグループ、島津リサーチラボ出向を経て、2002年(平成14年)に島津製作所ライフサイエンス研究所主任。

・2002年ノーベル化学賞受賞。受賞理由は「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発」。同年(平成14年)文化勲章受章、文化功労者となる。富山県名誉県民、京都市名誉市民、東北大学名誉博士などの称号も贈られた。受賞当時は島津製作所に勤める会社員であり、「現役サラリーマン初のノーベル賞受賞」として日本国内で大きな話題となった。その後、同社のフェロー、田中耕一記念質量分析研究所所長に就任。

・2009年からFIRSTプログラム(最先端研究開発支援プログラム)プログラム「次世代質量分析システム開発と創薬・診断への貢献」に採択され、中心研究者として活躍。2013年の講演では「血液1滴から病気を早期発見できるようにするのが、私の実現可能な夢だ」と語っている。2011年には島津製作所の田中最先端研究所所長も兼任し、2013年には同社シニアフェローとなる。

【レーザーイオン化質量分析技術】

タンパク質を質量分析にかける場合、タンパク質を気化させ、かつイオン化させる必要がある。しかし、タンパク質は気化しにくい物質であるため、イオン化の際は高エネルギーが必要である。しかし、高エネルギーを掛けるとタンパク質は気化ではなく分解してしまうため、特に高分子量のタンパク質をイオン化することは困難であった。
そこで、グリセロールとコバルトの混合物(マトリックス。(en) matrix)を熱エネルギー緩衝材として使用したところ、レーザーによりタンパク質を気化、検出することに世界で初めて成功した。なお「間違えて」グリセロールとコバルトを混ぜてしまい、「どうせ捨てるのも何だし」と実験したところ、見事に成功した。この「レーザーイオン化質量分析計用試料作成方法」は、1985年(昭和60年)に特許申請された。
現在、生命科学分野で広く利用されている「MALDI-TOF MS」は、田中らの発表とほぼ同時期にドイツ人化学者のフランツ・ヒレンカンプ (Franz Hillenkamp) とミヒャエル・カラス (Michael Karas) により発表された方法である。MALDI-TOF MS は、低分子化合物をマトリックスとして用いる点が田中らの方法と異なっており、より高感度にタンパク質を解析することができる。

上記の功績が評価され、田中の開発した方法を「ソフトレーザー脱離イオン化法」として、ノーベル化学賞を2002年に受賞する。貢献度は4分の1であった。

・なお、ノーベル賞受賞決定にあたり、何故ヒレンカンプやカラスではないのかという疑問の声が上がり、田中自身も自分が受賞するのを信じられなかった原因に挙げている。経緯として、英語論文発表はヒレンカンプとカラスが早かったが、2人はそれ以前に田中が日本で行った学会発表を参考にしたと書いてあったため、田中の貢献が先と認められた。

・体内では、侵入した抗原(タンパク質)と結合して抗体(免疫物質)が作られる。抗体はY字形をしており、2本の腕のうち1本で抗原と結合する。この構造を人工的に改変し、根本部分にポリエチレングリコールという弾力性を有する高分子化合物を挿入した。抗体の腕はこれをバネのようにして動き、2本同時に抗原と結合できるようにした。アルツハイマー病に関係する蛋白質の断片に対して実験したところ、通常の抗体より100倍以上強力に抗原をつかまえることができた。その後、糖鎖の状態を簡単に分析できるようになり、ペプチドを選別することなくごく微量の混合物の状態から糖鎖の状態を調べられるようになる。1mLの血液からアルツハイマー病の原因となる蛋白質を検出することに成功。未知の関連物質を8種類見つけることにもつながった。この技術はアルツハイマー病や前立腺がん等、様々な病気の早期発見に貢献することが期待されている。

・2002年にノーベル賞を受賞したが、当初の技術は医療に役立つには感度が十分ではなかった。2009年からFIRSTプログラム「次世代質量分析システム開発と創薬・診断への貢献」に採択され、5年間で約40億円の研究費を得て実用化に向けて大きく動き出した。約60人の体制で研究開発に取り組み、1年程で画期的な分析手法を開発、感度を最高1万倍にまで高めることに成功した。2011年11月の取材では「病気の早期診断や、抗体を用いた薬開発に結びつく技術」と答え、成果を2011年11月11日には日本学士院発行の英文ジャーナルの電子版に発表。2012年8月23日には、田中が客員教授を務める東京大学医科学研究所教授の清木元治らと、米科学誌プロス・ワンに発表した。2014年には血液からアルツハイマー病の原因物質を検出できる段階に達しており。2014年4月からは、新たな態勢で実用化を目指している。

・会社で電話により受賞の報が伝えられたとき、「Nobel」「Congratulation」という単語を聞きながらも似たような海外の賞と思ったり、同僚による「ドッキリ」(ドッキリカメラの意)と思っていたりしていた。その後会社の隔離室に移動させられ、午後9時から報道陣が大挙して押し寄せた会見に臨むことになった。急な話だったので、背広の用意もヒゲを剃ることもできなかった。なお、普段から白髪を染めていたが、受賞発表の1週間程前に理髪店で染め直していた。

・田中は鉄道好きで、電車(京福電鉄嵐山線(嵐電))の運転席を眺めながら通勤することを日課としていたが、その晩は家に帰れず、タクシーでホテルに向かった。受賞を実感したのは翌日の新聞で自分の顔を見てからと語っている。また、ノーベル賞受賞後の出張時には、島津製作所からの出張費の関係で乗車できなかった500系新幹線のグリーン車に乗れて嬉しいと記者団に答えた。

・多くの講演やインタビューを受け、研究や技術者としてのあり方について自身の経験と持論を語った。内閣府の総合科学技術会議にも参加し、日本の科学政策に影響を与える存在にまでなっている。なお、ノーベル賞の授賞式の後は単独でマスメディアに出ることはほとんどなかったが、2010年(平成22年)10月6日に鈴木章・根岸英一のノーベル化学賞受賞が決まった際には勤務先で会見に応じ、発表の生中継を見ていたことを明かした上で、「受賞から8年経ち、次々と受賞者が出てきて、私自身、肩の荷を下ろすことができるのかと思う」と述べた。

・ノーベル賞受賞時、田中耕一の七三分けの髪型に作業服という外見、一介のサラリーマンでお見合い結婚という経歴、穏やかで朴訥とした言動は非常に多くの日本人の共感を呼んだ。この年はNHK から紅白歌合戦に審査員として出演依頼されたが「私は芸能人でも博士でもありません。」と辞退した。一介のサラリーマンがノーベル賞という世界最高権威を授賞したこともさることながら、職人気質で謙虚な人間性も好意的に受け止められた。温厚な人柄で「善人の代名詞」とまでマスメディアは持ち上げたが、連日連夜の記者の追いかけと、一人歩きする聖人のようなイメージに悩んだと打ち明けている。高輝度青色発光ダイオードを発明した中村修二と日亜化学工業の訴訟については、田中耕一が引き合いに出されて、中村修二は貪欲であるという非難がなされたが、これについて田中耕一は、「自分の発明は会社の売り上げにあまり貢献しなかった」と状況が全く違うとして、中村を擁護する発言をした。なお、島津製作所からの特許報酬自体は1万円程度であったが、技術貢献に対する社内表彰はあり数十万円相当の報酬は受けた。

・1978年(昭和53年)3月 – 東北大学工学部入学。ドイツ語の単位を落として1年留年
・1995年(平成7年) 5月 – 富山県出身の女性と見合い結婚
・2003年(平成15年)1月 – 田中耕一記念質量分析研究所長(執行役員待遇)就任
・2005年(平成17年)5月 – とやま科学技術大使
・2006年(平成18年)12月12日 – 日本学士院会員
・2009年(平成21年)6月 – 東京大学医科学研究所客員教授(疾患プロテオミクスラボラトリー顧問)
・2010年(平成22年)3月 – 田中最先端研究所 所長(兼任)
・2011年(平成23年)12月 – 東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)委員
・2012年(平成24年)6月 – 島津製作所 シニアフェロー就任

・東京大学医科学研究所(2009年(平成21年)6月 – )

・愛媛大学 無細胞生命科学工学研究センター・筑波大学 先端学際領域研究センター・京都大学 国際融合創造センター( – 2008年(平成20年)3月)・東北大学大学院工学研究科(2013年(平成25年)11月の時点)

・日本学術会議 連携会員

・文科省 科学技術・学術審議会 臨時委員

• 1989年(平成元年)5月 – 日本質量分析学会 奨励賞
• 2002年(平成14年)11月 – 文化勲章
• 2002年 (平成14年)12月 – ノーベル化学賞
• 2002年(平成14年) – 文化功労者
• 2002年(平成14年) – 東北大学名誉博士
• 2003年(平成15年)3月 – 富山県名誉県民
• 2003年(平成15年) – 日本質量分析学会 特別賞

• 田中耕一(他)「レーザー脱離TOF質量分析法による高質量分子イオンの検出」『質量分析』第36巻第2号、1988年、59‐69、doi:10.5702/massspec.36.59。
• 田中耕一(他)「傾斜電界型イオンリフレクタによるTOF質量分析計の分解能の改善」Journal of the Mass Spectrometry Society of Japan. 1988年 36巻 2号 p.49-58, doi:10.5702/massspec.36.49
• 田中耕一「マトリックス支援レーザー脱離イオン化質量分析法」『ぶんせき』第256巻、1996年4月5日、253-261頁、NAID 10001778161。
• 田中耕一(他)「質量分析」『日本質量分析学会』 1997年 45巻 1号 p.113-121
• 田中耕一「良いスペクトルを得るために MALDI-TOFMS」『質量分析』第45巻第1号、1997年2月1日、113-121頁、NAID 10016280870。
• 田中耕一「私のノーベル賞くたくた日記」『文藝春秋』第81巻第2号、2003年2月、112-124頁、NAID 40005620427
• 田中耕一 『生涯最高の失敗』朝日新聞社、2003年9月25日
• 田中耕一 『質量分析:異分野と若手の力が活きている』(プレスリリース)2014年3月3日

・特許1769145(特許出願 昭60-183298、特許公開 昭62-043562、特許公告 平04-050982)発明者:吉田多見男、田中耕一、出願日:1985年8月21日)

(以上、部分抜粋転載終。一部順序を並べ替えた。)

(2023年4月1日転載終)
………
2023年4月1日追記2

(https://plaza.rakuten.co.jp/tomojohn/17003/)

読売新聞』[10月10日3時3分更新]

「ドッキリかと思った」田中耕一さん

《無名だった若きサラリーマン研究者が、一夜にして世界のトップに躍り出た。9日夜、ノーベル化学賞の栄誉に輝き、会社の作業着姿のまま記者会見に臨んだ島津製作所主任の田中耕一さん(43)(京都市)は「寝耳に水」「ドッキリかと思った」と驚き、照れたような笑顔で喜びを語った。同僚をはじめ、長引く不況に苦しむサラリーマンたちからも「我々の誇りだ」と次々に祝福の声が上がる。》

《記者会見は9日午後9時から、京都市の島津製作所本社研修センターで始まった。集まった100人以上の報道陣を前に田中さんは、頭を2、3度下げながら、落ち着いた表情でカメラマンの求めに応じ笑顔を見せた。》

《田中さんによると、受賞を知らせる電話は、突然かかってきた。「あなたがコウイチ・タナカですか」と英語で聞かれ、「はい、そうです」と答えると、「あなたを含め、3人の方が受賞される。おめでとう」と言われた。「ノーベル」という言葉は聞き取れたが、まさか自分がノーベル賞を受賞するとも思えなかったので、スウェーデンで似たような賞があるのかと思い、とりあえず「ありがとうございます」と言って電話を切った。》

《その後、「おめでとう」という電話がどんどんかかり、同僚たちが騒ぎ出した。田中さんは「初めは何かのドッキリかと思った。夢にも思いませんでした」と満面の笑みで振り返った。》

《会見途中、田中さんの携帯電話が鳴り、「まだ取材が続いているから」「こんな機会はめったにないからね」とやや話し込んでから電話を切った。そして「妻からでした」と一言。会見場は爆笑に包まれた。》

《今回の授賞理由となった研究は28歳の時のものだが、そのきっかけは、一つの失敗からだった。田中さんの研究は様々な材料を使い、たんぱく質の質量を計測するが、偶然、グリセリンをコバルトに落としたところ、授賞理由となったレーザー光を異常に吸収する物質が生まれた。》

《田中さんは「間違ったことで、世界が驚くような発明をしたことは本当は話したくないのだが」と笑いながら、「ある拍子に本来混ぜるつもりのなかった一つの溶液を別の溶液の中に落としてしまった。失敗は成功のもとと言うが、後から思えばコロンブスの卵のようなもの」と苦笑混じりに裏話を明かした。》

《田中さんの妻裕子さん(37)は9日午後8時ごろ、親族の葬儀に出席するため、富山市内の実家に戻った。受賞を知ったのは、富山駅から乗ったタクシーの中。ラジオから流れるニュース速報で、「最初に富山県出身と聞き、次に名前、そして年も主人と一緒で、『もしかしたら』と思った」。それが確信に変わったのは、実家に到着してから。多くの報道陣が家の前に詰めかけているのを見て、「受賞したんだ」と思ったという。》

《家族思いの誠実な人柄と、研究に打ち込むため昇任試験を拒む一徹さ――。田中さんを知る人たちは、偉業を成し遂げたサラリーマン研究者の人柄を、親しみを込めて口々に語った。》

《田中さんは男3人、女1人の4人きょうだいの末っ子。神戸市に住む姉の恒田康子さん(54)によると、小さいころから、手先が器用で、小学校時代には、ボール紙で天守閣の扉がすべて開閉する精巧な富山城を作り、担任の先生を驚かせるなど、将来につながる片鱗を見せていた。康子さんは子供のころ、田中さんと一緒に歩いていて「スクールゾーンじゃない所は通っちゃだめ」と怒られたことも。「それほどきまじめできちょうめんな性格が、今の研究に結びついたのでは」と振り返った。》

《95年にお見合い結婚した妻の裕子さん(37)の印象は「イノシシ生まれだけあって、猪突猛進。研究熱心でまじめ」。高校時代には、クラスメートから「耕一君」と呼ばれて親しまれた。勉強はできたが、ガリ勉タイプではない。》

《誠実な人柄は社会に出ても変わらなかった。島津製作所の同僚によると、田中さんは一線で研究を続けたくて昇任試験を拒み続け、主任にとどまっていることでも知られていた。同僚たちは「地道な研究にこつこつ取り組む、職人肌の人」と口をそろえる。》

《15年来の研究仲間でサントリー生物有機科学研究所の益田勝吉さん(42)は今年7月、新幹線に田中さんと乗っていて、台風の影響で車内に閉じこめられた。「『あれを見つけた』『これを見つけた』と研究のことばかり話し続けた。私は疲れていたから、頭をたたいて、『黙れ』と言ったけど、もうそんなことができなくなった」と、友人ならではの言い回しで喜んだ。》

《田中さんは5月に開かれた専門家の討論会で、参加者の1人に「海外の子会社への出向が長く、島流しにされていましたが、ようやく刑期が終わりました」と笑ったという。》  

《世界的快挙につながる研究の成果を生んだのは母の死だった。「医学に役立つ測定器を開発したい」。83年に島津製作所に入社した時、配属先で上司に何をしたいのか聞かれた田中さんは「自分の研究で人の命を救いたい」と答えた。》

《東北大時代、実母が幼いころ病死したことを聞かされ、ショックを受けて以来、抱き続けていた夢だった。実母は田中さんを生んでから1か月足らずで死亡。富山市に住む実父の弟、光利さんに預けられた。実父も84年に亡くなった。》

《化学賞の田中耕一さん(43)。ほとんど無名の「主任さん」。87年、島津製作所に入社して5年目の田中さんはたんぱく質などの質量を精密に計測できる新手法を開発。》

(部分抜粋転載終)
。。。。。
(https://plaza.rakuten.co.jp/tomojohn/17003/)

毎日新聞』[10月10日15時31分更新]

田中:私が5年間日本にいなかったので、存じ上げない。名前も今回初めて知った。しかし、格が違いすぎる。私はラッキーな形で受賞し、気がひける。同じ年に日本から2人のノーベル賞受賞者が出たが、米国ならもっと多くいる。日本は日の目を見ない研究者がたくさんいる。もっと掘り起こしていけば、今後珍しいことではなくなるだろう。

田中:本当に苦しんでいる人に言うのも失礼かもしれないが、苦しい時こそチャンス。研究費がたくさんある時もいい研究ができるが、逆に切羽詰まって「これしかない」という時にいいものが生まれる。(日本人には)ピンチをチャンスに変える素地がたくさんあると思う。(若い世代の中には)一生懸命やらず、途中でやめてしまっている人もいる。一生懸命やってもだめな場合はあるが、やめてしまっては何も生まれない。

田中:英国に行っていた5年間で、日本は「産官学」の垣根がなくなってきていると思う。大学の先生方と気楽に話し、意見交換できるようになったのはうれしい。

田中:失敗すると意気消沈し、そのことに触れたくないが、なぜ失敗したのかを追究しないといけない。同じ失敗を繰り返したり、異常な計測値が出てもその裏に新しい発見があるかもしれない。いつも自分に言い聞かせていることだが、失敗は次の段階への手がかりだ。

田中:高校時代は勉強した。大学の教養課程時代は遊んでいて留年した。これはいけないと思い、奮起した。興味を持っている工学の専門課程では、楽しみながら勉強できたと思う。周囲に西沢潤一さん(東北大元学長)ら頑張っている人がいたので、やる気が出た。(日本の学校教育については)あまりにも高尚な話。わざわざ述べるようなことは頭の中にない。

田中:最近は論文ばかり読んでいて、好きな本はない。大学生のころは(日本人で初めてノーベル物理学賞を受賞した)湯川秀樹さんの本をよく読んだ。著名な方でも普通の考えを持っていると思った。

田中:妻には怒られるかもしれないが、仕事がおもしろい。「常識にとらわれるな」というモットーを大切にしている。

(部分抜粋転載終)

(2023年4月1日記)
。。。。。。。
京都新聞(https://www.kyoto-np.co.jp/articles/amp/947646)

「ノーベル賞会社員、田中耕一さんが語る受賞後の20年「僕は成功者じゃない」」
2023年1月3日

2002年に日本の会社員エンジニアとして初めてノーベル化学賞を受賞した島津製作所の田中耕一さん(63)。学術界もメディアも田中さんの受賞は当時全くの予想外で、前代未聞の「サプライズ受賞」となったが、実直でちゃめっ気もある人柄が好感され、一躍人気者となった。あれから20年。還暦を過ぎた今も一人の企業人として歩み続ける田中さんが、もがき続けたという受賞後の20年を語った。これまでに経験した数々の「失敗」を赤裸々に明かし、そこから発想を切り替えることの重要性も説いた。

 ― ノーベル化学賞の受賞から20年がたちました。

 「受賞の知らせを聞いた時は、腰を抜かしました。最初の1、2年は、なぜ評価してもらえたのか分からないまま右往左往していました。そのうちに一人で処理できないほど共同研究の依頼が舞い込みました。試行錯誤を繰り返しつつ、自分が何をやれば良いかが少しずつ見えてきました」

 ― 現在地までどんな道をたどったのでしょう。

 「もがきながら、回り道をしてきました。質量分析技術が病気の診断や予防にも役立つと考え、アルツハイマー病の根本治療薬の共同研究に加わりましたが、残念ながら途中で止まってしまった。でもそこで、薬が難しいなら病気の早期診断や早期検出を目指そうと方向性を変えたのです」

 ― 一本道ではなかったのですね。

「私を成功者と思ってほしくありません。実に多くの失敗を重ね、発想を転換してここまで来たのです。裏返せば、見方を変えれば道は開けるということです。自分のことを悲観的な性格だと思っていたのですが、深刻には考えすぎませんでした。立ち止まって視点や考えを切り替えてみると、いろんな道があることに気付くと思います」

 ― これまでどんな失敗を経験したのでしょうか。

 「大学ではドイツ語の単位を取れず留年しました。研究室を選ぶ時も、華々しい半導体の領域に応募しましたが、あみだくじで外れた。仕方なくアンテナ工学に入りましたが、そこで学んだことがノーベル賞につながる発見に生かされました。就職では希望した家電メーカーの試験に落ちました。島津製作所に入社した時も…。(後略)

(2023年4月2日転載終)
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2023年4月4日追記

ほぼ20年ぶりに、田中耕一さんの話が出てきたので、主人との思い出を辿る意味で『生涯最高の失敗朝日新聞社2003年9月)を古本で注文したところ、今日とてもきれいな状態で届いた。

227ページのツーショットの写真は、実のところ、我々夫婦と風貌や雰囲気が似ている。奥さんの眼鏡顔や、御主人の髪型や身長差、等。

どうぞ末永くお元気でいらしてくださいね。

(2023年4月4日記)
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2023年4月5日追記

(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)
2023年4月5日投稿

ここ数日でようやく、田中耕一氏の業績の医療面における貢献が理解できるように。

《アルツハイマー病の原因物質と考えられるアミロイドβの脳内蓄積状況を血液でみるという研究》

(2023年4月5日転載終)
。。。。。。
(https://www.shimadzu.co.jp/boomerang/43/01.html)

島津製作所ぶーめらん』VOL.43

ライフサイエンスをも加速化させた質量分析装置を島津製作所が発売して50年となる今年、当社エグゼクティブ・リサーチフェローで、田中耕一記念質量分析研究所所長でもある田中耕一に改めて、科学技術と人類の未来について聞いた。

長足の進歩を遂げた質量分析

私は1983年の入社以来、島津製作所で一貫して質量分析法という分析技術の研究開発に携わってきました

質量分析とは試料をイオン化してその重さを測ることで、どんな物質がどれくらい含まれているのかを見ることができる方法です。この質量分析法が誕生したとされるのが1919年。100年前のことです。

島津はそれから50年後の1970年に、世界初の量産型ガスクロマトグラフ質量分析計を製造したスウェーデンのLKB社と提携してLKB-9000を日本に導入しました。今年はそれからちょうど50年という節目の年にあたり、私も大きな感慨を覚えています。

入社した当初、当社では、オリジナルのガスクロマトグラフ質量分析計を主力製品としていましたが、当時の装置は、部屋を埋め尽くすほどの大きさでした。それがいまや電子レンジほどのサイズのものまで登場しています。感度は1億倍以上になりました。分子の重さを見分ける分解能も、当時とは比べものにならないくらい向上しています。その進歩は、さまざまな分野で応用され、環境中の微量な汚染物質を分析することで公害の克服に貢献したり、薬品成分の体内変化を解析して、効果的な薬の開発に貢献したり、あるいはまだ原因がよくわかっていない病気のメカニズムの解明にも役立てられたりしています。

また、私の失敗を参考に大いに発展したMALDI-MS(マトリックス支援レーザー脱離イオン化質量分析法)によって、それまで分析が不可能だったタンパク質のような巨大な分子を壊すことなくイオン化して、計測できるようになりました。

私たちの研究所では、アルツハイマー病の原因物質と考えられるアミロイドβの脳内蓄積状況を血液でみるという研究に取り組みましたが、国の最先端研究開発支援プログラム(FIRST: 2010年3月~2014年3月)の30テーマの一つに採択されたことがきっかけの一つでした。

当初は絶対に無理だと言われていたのですが、国立長寿医療研究センターをはじめ、さまざまな最先端機関との連携のなか、所員と一緒に諦めることなく一つひとつ実績を積み上げ、2018年にはネイチャー誌で発表することができました。

しかし、発表して終わりではありません。まだまだやらなければならないことがたくさんあります。分析の自動化、一日の検体数を増やすことなど、現場で使っていただくための研究開発を、産学官連携のもと多くの方々といまも進めています。

いま注目されている感染症においても、微生物については、以前からレーザーイオン化法の応用として研究してきました。感染症検査に質量分析を用いれば、従来よりも早く原因を突き止めることができます。その分、重症化する前に適切な治療をすすめられますし、感染拡大を防ぐことにつながります。特に細菌については、すでに世界中で質量分析による判定が導入されています。

残念ながら、新たな感染症は次々に現れるでしょう。今後はウイルスについても質量分析によって判定する方法がないか、会社の中でもいくつもの関係部門と連携しながら検討しているところです。

「役に立つ」という意味

これに限らず、私たち人類は、科学技術によって見えないものを見えるようにしたり、その応用として健康で安全な社会を生み出してきました。にも関わらず、「科学は役に立たない」という論調があることに懸念を抱いています。

原理を応用して製品化を目指す技術開発に比べて、ノーベル賞などにつながる基礎研究を行う科学は、すぐには経済的効果を生まない、だから科学は「役に立たないもの」というレッテルを貼っているのだと思います。本当にそうなのか。

科学も技術も、私はどちらも役に立っていると考えています。人が人として存在し続けるために、科学技術は必要不可欠な要素なのです。たしかに技術は、実社会に便利なものを届けようとして進歩するものですから、役に立っていることが分かりやすい。それに対し科学は、深く根ざした部分で役に立っていると私は思うのです。

科学は、まだ人が知らないものを知りたいという、いわば「好奇心」に導かれて進歩する。それに対して、技術は人の役に立ちたいという「公共心」に導かれている。
私自身もそういう思いを抱いて実験に臨んできました。「好奇心」と「公共心」、日本語での発音はよく似ていますね。

そしてこの2つは、他の動物と比べると人間が明らかに多く持っています。そのおかげで人間は地球上でこんなに繁栄してこられたのです。この2つは人間の発展を支える両輪であって、どちらが欠けてもだめなのです。つまり、人であり続けることに科学は役に立っている、と思うんです。

人類におごりはないか

少し前に“地球に優しい”という言葉が流行りました。それがいまはSDGsに大いに進化したのですが、それに人間のおごりがまだあるように思えます。それよりももっとマクロな視点、長い歴史を踏まえた視点を持つべきだと考えています。

SDGsを日本語に訳すと、“持続可能な開発目標”。これには主語がありませんが、人類を指すのでしょう。人類が世代を重ね、地球で末永く暮らし続けられるように、地球環境を「守り」ながら開発するという目標です。

“地球に優しい”も地球から見れば、人間が「優しく」しようがしまいが 関係ない。地球にとっては、人間の活動は、宇宙という大きな流れの、ほんの一コマにしかすぎないのです。太古の地球、シアノバクテリアが酸素を大量に放ち、それまでの生物を全滅させた、と聞いていますが、それでも地球は続きました。人類やいまの生物が繁栄できたのは、隕石の衝突で恐竜が滅びたからだと言われていますが、長い長い地球の歴史のほんの一部なのです。

SDGsの考え方を進める場合、人と自然を切り離して考えるよりも、人類の存在自身、その文明さえも、地球が生み出した広い意味での“自然現象”であり、人は自然の一部である、という日本や東洋の文化として馴染みのある考えを参考に、SDGsの理念のさらに先の目標・到達点を見出していけたらよいと思っています。

いま、「何をすればよいか」を自分ごととして、自分の頭で考えて進められるようになれる方がよいと思うのです。

今回の新型コロナウイルスへの対応でも、こうした視点は持っておくべきでしょう。いま克服を目指して世界中が力を合わせていますが、消滅させてしまうことはできません。

人類はこれまでも、多くの感染症を経験してきました。それは、消滅させたのではなく、私たちの遺伝子の中に、細菌やウイルスの一部を取り込むなどして共存してきた部分もあります。

今回も「withコロナ」という言葉が生まれているように、できるかぎり危険を避けて長く付き合うという視点も持ったほうがよいと思います。

イノベーションは異分野の出会い、異なる視点から

私自身もそうですが、人間、一人だけで何ができるかというと、まったく知恵が足りません。だからこそ、大切なのが異分野融合、異業種連携です。
実際、新型コロナウイルスが蔓延して以来、これまで医療や創薬には携わってこなかった企業や個人が、続々とアイデアを出し、製薬会社や我々のようなメーカーとの間で協業し、思ってもみなかった工夫、製品が次々と誕生しています。

いままで出会うことがなかった人が出会い、想像することもできなかった意見に触れることで、イノベーションが生まれやすくなったと思います。技術革新と訳されたイノベーションの元来の定義は「新結合、新しい捉え方・活用法」ですので、当然の流れとも言えます。

いま私がいる昨年できたばかりの建物には、1階にサロンのような空間がつくられています。社外の方も訪れてくださっていて、ここでの議論を、「じゃ、ちょっと試しましょうか」と研究室で早速テストしてみる、なんていうスタイルが生まれています。

さらに、離れた棟にいた他の技術や研究部隊の多くが、ここに集まっています。当社が発売した迅速PCR検査キットのチームも、訪ねるのに15分ほど歩かなければならなかったのに、いまは1分もかかりません。そういう人たちが机を並べて研究できるようになりました。

私はいつも、あえて会社の中を歩くようにしているのですが、この建屋に引っ越してくるまで、せいぜい一日4~5千歩程度でした。しかし、いまは1万歩を超えています。場所が近くなったら歩かなくてよくなるはずなのに、なぜか増えている。つまりそれだけいろいろな人と会う機会が増えているということなんですね。おそらく他の人も同じことになっていると思います。この先、これがどういう結果につながるか、かなり期待しています。

若手が勝手に育つ環境とは

私は17年前からいまの研究所を、そしてある期間、国の最先端研究開発支援プログラムで所長を任せてもらいましたが、リーダーとしては本当に至らないことだらけです。
やってきたことといえば、メンバーの研究を見て、「それ、おもしろいね。続けてみたら」と後押ししたり、「それ、失敗に見えるかもしれないけど、こうやってみたら別に活かせるんじゃないかな」といった見方を示すことくらいです。

私自身、20代は口下手で赤面症で、人前でうまく表現できませんでした。それでも上司や先輩方が良いところを見つけ、褒めて育ててくださいました。
月一回の研究所内の発表会で褒めてもらい、年一回の社内発表会で自信をつけ、学会参加へと発展し、そこでの恩師との出会いから結果的に世界につながったという経験が、いまの私へと導いてくれました。

ですので、若手には、失敗を恐れずおもしろがってほしいと思っています。それがもしかしたら世界初の発見につながるかもしれない。
私は昔からあまのじゃくで、「人と同じことを考えても天才には追い付けない」と考えていました。ですから、メンバーが失敗して目標から少しずれてしまったとしても、私から見て良いと思ったものは素直に伝えています。

そんな私のようなリーダーの下でも、研究所として15年目には、100を超える論文を発表できたことは、それなりに意義のあることだったのではと思っています。

課題解決先進国へ

この「ちょっと違う視点で見てみる」というのは、実はとても重要なことだと思います。
私は試料に混ぜる混合物の材料を間違い、もったいないと試したことから、タンパク質をイオン化する方法を発見しました。
私は大学では電気を専攻していました。もし私が化学をしっかり学び、知識を十分に持ち合わせていたら、間違った混合物を使ってみるなんてことはしなかったと思います。
裏を返せば、私が門外漢だったからこそたどり着けた成果でした。これも異分野が垣根を超えて交わった結果の一つと言えるでしょう。
日本は、少子高齢化をはじめ、いくつもの課題がある課題先進国と呼ばれています。一方で、災害復興や公害など数々の課題を先人たちが解決してきた課題解決先進国でもあります。
その歴史を受け継ぎ、いま現在も、目の前の多くの課題を解決するために、あらゆる分野の方々が枠を超えて連携し、知恵を出し合い、汗を流しています。私たちはこの素晴らしい事実を改めて認識し、そして大いに自信を持ってよいと思うのです。

課題解決に向けたこうした知恵や努力は、将来、世界に届けられて役に立つことになるはずです。微力ながら、私もそこに連なるいち研究者として、これからも力を注いでいきます。

2003年  田中耕一記念質量分析研究所 始動
2014年  アルツハイマー病の血液バイオマーカーを発見
国立長寿医療研究センターとの共同研究で、アルツハイマー病の原因物質アミロイドβの脳内蓄積を血液で推定できるバイオマーカーを質量分析システムを用いて発見した。
2018年  論文が100本超に
現旧所員が筆頭著者または共著者となった論文数が研究所創設以降、累計100本を超えた。
2018年  アルツハイマー病変の早期検出法を血液検査で確立
2014年に発見した血液バイオマーカーを発展させ、その有効性を国内外の多検体を用いて検証した。

(2023年4月5日部分抜粋転載終)
。。。。。。。
日経ビジネス(https://business.nikkei.com/atcl/report/16/070600229/072000006/?n_cid=nbponb_twbn)

ノーベル賞田中氏「肩肘張らずに異分野に飛べ」
古い知識や技術でもイノベーションは創出できる
2018年7月23日
朝香 湧

田中さんは2002年に「高分子のソフトレーザー脱離イオン化法」でノーベル化学賞を受賞しました。同技術を発展させ、今年2月にはアルツハイマー病変の早期検出技術を発表するなど、イノベーションを起こし続けています。田中さんは「イノベーション」についてどうお考えですか。

田中耕一・島津製作所シニアフェロー(以下、田中氏):イノベーションは「技術革新」と訳されたためか、今までとは全く違ったことをやらなければいけない、と思われがちです。しかし、私はそんなに難しく考えなくてもいいんじゃないかと思っています。今までにあった古い知識や技術でも、新しい捉え方ができればイノベーションにつながるはずです。
 イノベーションを定義したヨーゼフ・シュンペーターによると、従来からあった要素を新結合させたり、新しい捉え方・活用法を見出したりすることをイノベーションとしています。
 これまで蓄えてきた知見を生かせばいいのに、レガシー(古い資産)は足かせになるから捨て去るべき、という先入観こそが良くありません。イノベーションには「技術革新」というイメージがありますが、そういう狭い範囲で捉えてしまうと、ある意味で手足を縛ってしまうのです。
 イノベーションを起こすために、新しく特別な場所を設ける必要が本当にあるでしょうか。イノベーションに必死になるあまり、呪縛のようなものにとらわれると、今まで蓄積してきた価値のあるものを生かすチャンスを自ら失ってしまいます。

これまで蓄積してきた技術や知識を生かすために、企業には何ができるでしょうか。

田中氏:特別な場所ではなく、気張らずに意見交換できる場所を用意すればいいんです。むしろ正式な会議にすると固まった思考になってしまいます。ちょっとコーヒーを飲んでリラックスした時に「最近、仕事でこういったことに悩んでいるんだ」と他部署の人に打ち明けられるような場所ならどこでもいい。
 文系、理系を問わず様々なバックグラウンドを持つ人たちが率直に意見を交換できれば、凡人や素人であっても、イノベーションは起こせます。
 重要なのは、様々な視点を持つ人たちによる「異分野融合」です。例えば今、家電メーカーなどが介護サービス事業に進出しています。島津製作所もアルツハイマー病変の早期検出法を確立しましたが、介護業界の人たちと一緒になれば、重度の要介護状態を防ぐためにはどんなことができるだろうかといった課題に対しても、意見が出てくるはずです。
 残念ながら日本の企業では、2つの部署がほんの数十メートルしか離れてないのに、没交渉というケースは少なくないと思います。

必要なのは日本の自信回復だ

なぜ異分野融合が起こらず、没交渉になってしまうのでしょうか。

田中氏:日本には、自信が欠けているからだと思います。これまでアジアで自分たちだけが優等生だったのに、日本よりも成績の良い国が隣にいくつか出てきた途端、相対的に落ちてきて自信をなくしてしまっています。
 自信を失っているからこそ、従来の研究、技術に一生懸命取り組んでいる人たちが口を閉ざしてしまい、一層イノベーションを起こしにくい環境になっていると私は思います。
 実際に私たちは戦後、例えば製造業の現場でずっとイノベーションを起こしてきたのです。当たり前のようにやってきたことは、イノベーションだったんですよと、声に出して言う必要があるのではないでしょうか。そうしなければ、「日本が行ってきた今までのやり方は、イノベーションじゃなかったんだ」というふうに、ますます自信を失ってしまうからです。

日本の自信欠如が異分野融合を阻んでいるということですね。

田中氏:なぜ欧米が上手くいっているかというと、何かの目的に向かって、分野を超えて、場合によっては国境さえも越えて色々な人が集まるからです。質量分析の学会を例に挙げますが、米国では医学とか薬学、それから物理、化学、様々なバックグラウンドを持った人たちが大学の壁を越えて、1つの目的のために集まっているわけです。
 そういったことは日本でもできると思います。日本には本来、チームワークを重視するというメンタル的な素地はあるんじゃないでしょうか。特に製造業の現場では、1つの目的のために人が集まるということが、自然発生的に起こっていると思います。
 革新的なイノベーションを起こすんだと肩肘を張らず、今手元にあるものを、別の方法で展開してみる、あるいは課題を変えてみる、新しい分野に行ってみる……。そんなことを考えれば、今まで何をやっていたんだと思えるような成果が出てくるんじゃないかなと思います。

(2023年4月5日転載終)
。。。。。。。
文春(https://bunshun.jp/articles/-/11145?utm_source=twitter.com&utm_medium=social&utm_campaign=socialLink)

「ノーベル賞がつらかった」田中耕一が初めて明かした16年間の“苦闘”
NHK「平成史スクープドキュメント」がスクープした思いとは
木内 岳志
2019年3月26日

あと1ヶ月ほどで、「平成」が幕を閉じる。平成とは私たちにとってどのような時代だったのか、さまざまな事件・出来事から激動の30年を見つめる「NHKスペシャル」のシリーズ「平成史スクープドキュメント」。第5回は、平成を彩ったノーベル賞に焦点を当てた。

 平成に入って、自然科学系ノーベル賞を受賞したのは18人(アメリカ国籍取得者含む)。その中でも世界を驚かせたのが、2002年(平成14年)にノーベル化学賞を受賞した田中耕一だ。いち民間企業のエンジニア、修士号すら持たない研究者に化学賞が贈られたのは、世界で初めてのことだった。バブル崩壊の後遺症に苦しみ、「失われた20年」と言われた時代。中年サラリーマンの快挙に、日本中が沸いた。

ところが、時代の寵児となった田中は、こつ然とテレビの画面から姿を消す。その後、16年間、メディアを遠ざけ続けてきた。再び表舞台に登場したのは去年。発症30年前にアルツハイマー病の診断につながる技術を開発し、科学誌ネイチャーに掲載されたのだ。この間の田中の知られざる苦闘。これこそが番組の命題である「平成のスクープ」となった。

ノーベル賞は苦痛でしかたなかった

 実は田中は、この16年間、サインを求められても、一度として応じることがなかった。人前では握手すら断っていた。ノーベルメダルは、自宅の押し入れにしまったまま。田中は科学界、最高の栄誉が与えられたことが苦痛でしかたなかったという。

「ノーベル賞に値することをやっていたとは、私自身思っていなかった。周りの人もそう思っていた。受賞する人たちの功績を見ると、最初に発見をしたこと、かつそれを育てていったこと、ペアでやっている方が多い。私はあくまで発見しただけで、何か大きなことを成し遂げた気持ちになれなかった」

田中が自分の業績に自信が持てなかったのは、“世界的な発見”に至る過程にあった。大学では電気工学の専門だった田中だが、島津製作所に入社後、化学の研究を命じられる。課題はレーザーを用いてタンパク質を分析する方法の開発だった。
 人体の15%を占め、生命活動に重要な役割をするタンパク質。さまざまな病気の解明の鍵を握ると思われていた。だが、いくつものアミノ酸が連なり、複雑な構造を持つタンパク質を壊さずに分析することには、世界で誰も成功していなかった。

「自分は何かを成し遂げたのか」と自問

 田中はレーザーを当ててもタンパク質が壊れない、「緩衝材」の作成に取りかかった。入社2年目の冬、田中は、試薬にグリセリンを誤って混ぜてしまう。以前の実験で、グリセリン単体では緩衝材として効果がないことを確認していたが、それでも敢えて実験してみることにした。すると、タンパク質の反応が現れたのだ。このとき、田中は25歳だった。

 それからおよそ20年。突如、ノーベル賞授賞の知らせが届いた。田中の人生は一夜にして変わった。一歩外へ出れば人々に囲まれ、「先生」と呼ばれるようになった。受賞当時、田中はまだ43歳。「次はどんな大発見をするのか」と、周囲の期待は膨れあがっていった。一方、学術界の一部からは「偶然、発見をしただけだ」「研究を発展させた科学者のほうが受賞にふさわしい」といった批判的な声が聞こえてきた。「自分は本当に何かを成し遂げたのか」。「自分は受賞に値する科学者なのか」。田中は自問自答を続けた。

血液一滴で病気を診断する方法を開発する

 メディアから距離をとるようになった田中。自分を見失いそうになるなかで、ある目標を立てた。タンパク質を分析する技術を発展させ、「血液一滴で病気を診断する方法を開発する」というものだった。幼いころ病気で母を亡くした田中は、「人々の役に立つ研究をしたい」という入社当時の志に、立ち返ろうと考えたのだ。
田中は社長らに決意を語って説得し、年間1億円の予算と研究環境を得た。しかし、道のりは困難を極めた。例えば、ガンなど様々な病気に関連する「糖鎖」の構造は、1500万通り以上の組み合わせがあるとされる。思うように研究は進まなかった。責任を果たせない不甲斐なさを抱えながら、苦悶する日々が7年、続いた。

 そんな状況を打開する転機が訪れる。2009年(平成21年)、世界最先端の研究に資金を補助する国のプログラムに選ばれ、5年で35億円という多額の研究資金を得ることができたのだ。田中は若手スタッフを雇うなどして、研究を一気に加速させた。

 もっとも力を入れたのが、認知症の約7割を占めるアルツハイマー病。アミロイドβというタンパク質が脳内に蓄積し、神経細胞を傷つけることで病気が発症するとされている。蓄積が始まるのは発症30年前。血液中に微量しか含まれないアミロイドβだが、血液検査で捉えることができれば、早期発見や治療薬の開発に役立てられるのではと考えた。

実験結果が医学界の常識を覆すことになった

 研究開始から2年。ひとりの若手スタッフがアミロイドβの検出に成功する。田中は天にも昇る心地で、この成果を認知症の専門家に持ち込んだ。ところが、意外にも反応は冷ややかだった。血液中のアミロイドβは、その日の体調などにより量が増減する。そのため、アミロイドβが検出できても、病気を診断することはできないというのが“医学界の常識”だったからだ。実は医療の専門家でない田中は、このことをまったく知らず、研究を進めていたのだった。
 しかし、田中が示した別の実験結果が医学界の常識を覆すことになった。それはアミロイドβとはわずかに構造が異なる「未知のタンパク質」のデータ。学界では、理論上、存在が否定されていたが、今回の実験の過程で偶然、田中たちは検出に成功していた。

「偶然は、強い意志がもたらす必然」

 認知症研究の第一人者である柳澤勝彦(国立長寿医療研究センター)。当初「正直、何が新しいのか分からなかった」と言うが、田中たちと議論を重ねるうち、この未知のタンパク質が早期診断の鍵を握っているのではないかと考えるようになった。そして、柳澤は脳内で病気の異変が起きている人と、起きていない人の血液を分析することにした。すると、驚きの結果が出た。

 異変が起きていない人の血液では、アミロイドβは未知のタンパク質より多かった。かたや、異変が起きている人では、その逆。アミロイドβは未知のタンパク質より少なかった。ふたつのタンパク質の比率に注目することにより、認知症を発症するリスクを診断できる可能性があることを突き止めた。

 若き日、田中は化学薬品を誤って混ぜたことで、タンパク質の分析方法を発見。ノーベル賞を受賞した。そして今回、田中は「常識」を知らないまま研究に挑み、さらに副産物として未知のタンパク質を発見したことで、認知症の早期診断に扉を開いた。2度の発見はラッキーパンチだったのだろうか。私はそうは思わない。常識を打ち破る科学的発見は、偶然から導かれることが少なくない。だが、その偶然を生み出すには、失敗を恐れずにチャレンジし続ける、不断の努力で裏打ちされているものだ。「偶然は、強い意志がもたらす必然である」。

インタビューでは終始謙遜していたが……

 受賞から16年、ノーベル賞の呪縛から解き放たれた田中。「もがいて進んできた」経験を伝えたいと、私たちの取材に応じることも決断してくれた。
「例えば化学の実験で、これは間違っているからやめておこうということも、私たちは深い専門知識がないためにやってしまう。天才だったらこんなことしないだろう。でも、こういうふうに解釈したら、別の分野の考え方で捉えたらうまくいくことがいくつかできたために、発展ができた」
「失敗を恐れて取り組まないと、結果として何もできないということになる。もっと色んな可能性というものにチャレンジというか、失敗してもいいから、私も失敗ばかりしていますから、チャレンジしてほしい」

 インタビューでは終始、謙遜していた田中だが、一つ一つの言葉は自らの手で掴んだ確信から絞り出されたもののように思われた。

(2023年4月5日転載終)
。。。。。。。
読売新聞(https://www.yomiuri.co.jp/economy/20201105-OYT1T50191/)

ノーベル賞受賞者も在籍、「無理を聞いてくれる」企業に生き続ける「挑戦するDNA」
2020年11月7日

島津製作所はノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏が在籍することで知られ、新型コロナウイルス感染症のPCR検査用試薬でも注目を集める。上田輝久社長に、研究開発型企業のかじ取りを聞いた。(聞き手・三宅隆政 写真・土屋功)

<最短約1時間で新型コロナへの感染の有無が分かるPCR検査用の試薬を4月に発売した。6月には、この試薬を使えば、唾液でも鼻の奥を拭った液と同等の精度を得られることがわかった>
 検査試薬は、食中毒の原因となるウイルスの試薬をベースにしました。技術的な基盤があったので、短期間での開発が可能でした。
 10月には東北大と共同で、呼気から感染の確認ができる検査方法を発表しました。まだ研究段階ですが、数年内の実用化を目指しています。現状ではウイルスの有無を検査し、感染が判明すれば隔離するだけです。今後は重症化リスクなど病気の診断、さらには治療や栄養管理にも協力したいと考えています。
 がんや認知症、うつ病などの診断レベルの向上にも貢献したいと考えています。

(2023年4月5日部分抜粋転載終)
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読売新聞(https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/feature/CO049294/20221122-OYTAT50047/)

ノーベル受賞 歩んだ10年、20年 田中耕一さん、山中伸弥さん特別対談
2022年11月22日

ノーベル化学賞の受賞から今年12月で20年を迎える島津製作所(本社・京都市)の田中耕一さん(63)と、生理学・医学賞受賞から10年になる京都大の山中伸弥さん(60)は、ともに関西・京都を研究拠点とし、60代になった今も一線で活躍する。節目の年に特別対談し、科学界への提言、人生100年時代の生き方や、若者への期待を語ってもらった。

◆突然の知らせ

田中:2002年10月9日は残業のない水曜日で帰ろうとしていたら、同僚が私に電話を取り次いでくれ、それが最初でした。「ノーベル何とか賞を授与したいから受けるか?」というふうなことを多分言われ、よくわからないまま「イエス」と答えたら、30分後には会社中の電話が鳴り出し、3時間後に記者会見でした。後に聞いた話では、その年の1~3月頃にノーベル賞関係のイベントで来日したスウェーデンの方が「島津製作所を見たい」と京都へ来ていたらしいのですが、全く知りませんでした。

山中:受賞の数年前から、発表日のたびに大学本部の人がカメラを持って目の前で電話がかかってくるのを待っていました。他にも多くの人が待機してくれているのが申し訳なくて、これが毎年ずっと続くのかと思うと、本当に 憂鬱でした。ところが10年前は体育の日で大学が休みだったので、自宅で気楽に過ごしていたら、突然、電話がかかってきたのでびっくりしました。

 ―― 受賞後、田中さんは100本を超える論文を出され、山中さんはiPS細胞の医療応用の実現に注力してこられましたね。

田中:論文の多くは、私よりも若手や中堅が頑張ってくれた成果です。日本では研究者の6割、約50万人が企業人です。以前は企業研究者が受賞するなど想像もされていませんでしたが、私の受賞後は「あの田中にできるんなら、何か新しいことをやってみる価値はある」と思われるようになりましたね。もちろん失敗の方が圧倒的に多いんですが、新しいことをやろうと思ってもらうきっかけになれたのかな、と思っています。

山中:iPS細胞の医療応用は、多くのプロジェクトで治験や臨床研究の段階まできました。マラソンに例えれば中間点を過ぎたあたりでしょうか。ここからが大変ですが、一方で、私たちアカデミア(大学などの研究機関)にできることは限られてきました。医療応用の実現に向けた後半は企業が主体となり、バトンタッチの時期に差し掛かっています。マラソンと言うより駅伝ですね。

◆新たな展開

 ―― アカデミアと企業の研究の違いは。

山中:研究には「大航海型」と「捜査型」があると思います。海の向こうには何があるかわからないけど行ってみよう、という大航海型は、成果が予想できません。逆に捜査型はゴールが明確で、いかに速く到達できるかです。どちらも大切ですが、例えば国からの研究費を得やすいのは、短期間で成果が出る可能性が高い捜査型。でも、世の中を大きく変えるような成果が得られるのは大航海型だと思います。捜査型の研究では、目的以外の結果が出たら、それを楽しんでいる余裕はありません。こうした傾向は企業に多い。7、8年前から製薬企業と大型の共同研究を進めていますが、驚いたのは、企業にとって重要な決断とは「いかにやめるか」「いつやめるか」なんですね。「え、ここでやめるの」と思うことがよくあります。

田中:企業は利潤を上げなければいけませんから。しかし、その点では島津という会社はあきらめの悪い会社なんですね(笑)。儲からないのに、ずっと続けている研究もあります。その一つが新型コロナウイルス感染症の検査で必要になったPCR技術でした。検体に不純物が混じっていても検査できるPCR技術の研究は、長らく収益につながっていませんでした。けれど、こうした知的財産という蓄えがあったおかげで、必要な試薬の開発を2か月で終え、出荷できました。コロナ禍では様々な技術を持つ企業が、それまで思ってもみなかった分野で貢献したと思います。

 ―― 科学技術の地盤沈下が指摘されていますが、イノベーション(技術革新)を起こすにはどうすれば。

山中:大学の研究者が企業に飛び込んで、5年、10年の単位で社員と一緒に取り組む形の共同研究がもっと増えればいいですね。例えば有望な新薬候補でも1万人に1人、肝障害や腎障害が出たら企業は開発から撤退することがありますが、iPS細胞を使った試験でリスクを早期に予測できれば、多くの人にはすごく良い薬になるかもしれません。

田中:そうした共同研究がなかなか進まないのは、どこかにまだすれ違いがあるのでしょう。アカデミアと企業では研究の切り口が違います。両方がうまく成り立つような組み合わせを、日本ではまだ探しきれていない。海外との共同研究の例は増えているので、次第にノウハウができてくるんじゃないかな。

◆60歳超えて

 ―― 人生100年時代を迎え、今後の目標は。
 
田中:若い人の下請けのような仕事を、生涯現役でやっていけたらと考えています。受賞後の20年間もたくさん失敗し、その上で失敗したら違う道を進めばいい、という考え方を共有するようにしてきました。
 
山中:元気だった親友の医師が、外来診療でコロナに感染して50代で亡くなりました。自分の人生も、いつ終わるかわからない。逆にあと40年あるかもしれない。どちらに転んでも後悔しないよう、できることは何かと考えたら、やはり基礎研究。4月から一研究者に戻り、25年前から続けている遺伝子の研究に改めて取り組んでいます。

◆若い人へ

山中:若い人には、どんなことでも一生懸命やってほしい。私も若い頃は柔道やラグビーに打ち込み、そのことが、結果として今の自分につながっています。
 また、今の若い人たちは、自分が生まれた国に対する評価が低すぎるように思う。これほど安全で、みんなが親切で優しく、助け合って病気になったらすぐに診てもらえるような国は他にありません。日本に生まれたのは幸運で、もっと誇りに思っていい。海外で過ごす時間が長くなるほど、その良さがわかります。

田中:日本人は自信を失っていると言われますが、日本には米国にもない、文化的な蓄積があります。もう一つ強調したいのは、人として生まれたからには人間らしく生きたい。そのために科学、技術は欠かせないということです。人が他の動物と違うのは好奇心。わからないものをわかりたい。わかったらうれしい、楽しい、という好奇心は科学と結びついています。それに対し、技術は公共心。みんなのために役立つことがうれしい、楽しい、という人の基礎的な能力だと思うのです。このことを多くの人たちに伝え、理解してもらいたいですね。

(2023年4月5日転載終)
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日経新聞(https://www.nikkei-science.com/page/magazine/0212/tanaka.html)

ノーベル化学賞 田中耕一 島津製作所ライフサイエンス研究所主任
小さな発見にひそむ大きな重み
田中耕一氏 

1959年8月3日富山市生まれ。83年東北大学工学部電気工学科卒業,島津製作所入社。中央研究所,計測事業本部,英国の関連会社への出向などを経て,2002年に分析計測事業部ライフサイエンス研究所主任。入社5年目の87年に今回の受賞理由となった「ソフトレーザー脱離法」を発表,タンパク質など生体高分子の精密な質量分析に道を開いた。

田中氏らノーベル化学賞3氏の受賞理由は「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発」。ヒトを含め多くの生物のゲノムが解読されたいま,生命科学の焦点はプロテオーム(生物がもつタンパク質の全体像)に移ってきた。遺伝子が作り出すタンパク質の姿と働きを明らかにし,生命の実像に迫る。研究は画期的な新薬開発につながり,私たちの健康に貢献する。経済的インパクトも大きい。

3氏がそれぞれ開発したのは,こうしたプロテオミクス研究を支える分析手段だ。田中氏のソフトレーザー脱離法と,フェン教授のエレクトロスプレーイオン化法は,壊れやすいタンパク質分子を質量分析計で解析するための新技術。ビュートリッヒ教授は化学分析に広く利用されている核磁気共鳴(NMR)法を改良し,タンパク質に適用できるようにした。

タンパク質を壊さずイオン化

田中氏が開発した手法は現在,「マトリックス支援レーザー脱離イオン化法」(MALDI;Matrix Assisted Laser Desorption/Ionization)として実用化している。
質量分析計は原子・分子のイオンを電場や磁場の中に通し,その軌道や移動速度をもとに質量を割り出す仕組みだ。試料をイオンの状態にする必要があるが,タンパク質などの生体高分子の場合,これが難しかった。試料にレーザーを当ててイオン化する「レーザー脱離法」が知られていたが,タンパク質に適用すると分子そのものが分解して壊れてしまう。この壁を打開したのが田中氏の功績だ。

きっかけは1985年の「偶然の発見」だった。田中氏は当時,島津製作所中央研究所の研究員として,先輩研究員の吉田佳一氏(現在はマイクロ化学プロセス技術研究組合に出向中)とともに,高分子試料に別の物質を混ぜたうえでレーザーを当てる実験に取り組んでいた。レーザーを効果的に吸収する媒質(マトリックス)の中にタンパク質を分散しておけば,マトリックスが急速に加熱されてタンパク質分子もろとも気化,タンパク質分子そのものは無傷のままイオン化する可能性があると考えた。

「まったくの偶然」

マトリックス材として金属の微粉末や有機物などを試したが,いずれもうまくいかなかった。ところが,コバルトの微粉末に誤ってグリセリンをたらし,これをマトリックスとして使ったところ,うまくイオン化した。「まったくの偶然で,まさに瓢箪から駒」と田中氏は述懐している。
こうして分子量4万8000程度のタンパク質分子の分析が可能になり,1987年に学会発表。当初はそれほど注目されなかったが,米国の研究者が強い関心を寄せ,翌年の論文発表につながったという。

一方ではこの手法を組み合わせた質量分析計の開発を並行して進めた。イオンを電界で加速し,検出器に達するまでの時間をもとに質量を割り出す飛行時間型質量分析法(TOFMS)というタイプで,1988年に製品化。1990年に米国のシティーオブホープ・メディカルセンターに納入された。

田中氏が先鞭をつけたイオン化手法そのものは,その後,ミュンスター大学(ドイツ)のフランツ・ヒーレンカンプ教授が発展させた。マトリックス材から金属微粉末を除き,有機分子だけを利用する方法を使い,分子量10万程度のさらに大きなタンパク質のイオン化に成功(1988年)。現在ではマトリックスとしてグリセリンのほかニコチン酸やコハク酸など,数十種類の物質が知られるようになり,MALDI法として定着した。

ペプチドからタンパク質,多糖類まで,どんな物質を分析するにはどのようなマトリックス材が適しているかも,しだいにはっきりしてきた。マトリックス材に応じてレーザーの波長も選ぶ必要があり,紫外域や遠赤外域のレーザーが使われている。

分析対象試料の溶液とマトリックス材の溶液を混ぜ,基板に塗って乾燥させる。マトリックス材がモル比で試料の100倍から1万倍になるように調整し,1ナノ秒(ナノは10億分の1)程度のレーザーパルスを照射して瞬間的に加熱するのが一般的だ。分析対象の分子が中性のまま気化しても,同時にできたマトリックス材や不純物のイオンと作用することによって,イオン化が進むことも判明してきた。

一方,共同受賞者のフェン教授によるエレクトロスプレーイオン化法は1988年に発表されている。こちらはタンパク質の溶液を小さな液滴にしたうえで帯電させるのがポイント。水が蒸発するにつれて液滴が縮み,最終的にはイオンが残る。MALDI法と並んで,現在では広く利用されている。

突破口を開くことの重さ

こうして経緯を振り返ってみると,田中氏の功績はMALDI法の開発に突破口を開いた点にあることがわかる。ただ,田中氏によるとマトリックス材を混ぜるというアイデアは吉田氏の発案で,「私だけが受賞するのはアンフェアだと思う」とまでいう。とすれば,ポイントは1985年の「偶然の発見」に尽きることになる。

金属微粉末と有機材料を意図して混ぜたわけではなかった。「捨てるのももったいないと思ったので実験してみただけ」と田中氏はいう。大学で学んだのが化学ではなく電気工学で,「(化学の)専門知識にとらわれずにやったのが良かったのかもしれない」。

2001年に化学賞を受賞した白川英樹氏の場合も,よく似たエピソードがあった。大学院生が触媒の調合比率を間違えた結果,予想外に導電性の大きな高分子ができたという。白川氏はこれを見逃さず,後の研究につなげた。

科学史をひもとけば,偶然の発見が成功に結びついた例はほかにもたくさんあるだろう。科学研究でも技術開発でも,いわゆるセレンディピティーが重要な役割を演じている(池内了「今こそ知の基盤確立を」12ページ)。

田中氏のケースでは,ソフトなイオン化法を探るという目的は明確だったものの,実験は文字通りの手探り。また,後にヒーレンカンプ教授が金属微粉末を使わないやり方を完成させており,1985年の発見も“完全回答”からは少しズレたものだった。その意味でも,「小さな発見」だったといえるだろう。

もしコバルトにグリセリンをたらすという偶然がなかったら,どうなっていたのだろう?

また,田中氏の発見がなくても,ヒーレンカンプ教授はいずれMALDI法の開発に成功したのだろうか?こうした問いにはもはやあまり意味はなさそうだ。確かなのは,ヒーレンカンプ教授自らが1988年の論文で田中氏の発見を引用し,その重要性を認めている点だ。

田中氏の「小さな発見」が突破口になったという事実は動かしがたい。「私だけが受賞するのはアンフェアだと思う」という発言は田中氏の謙虚な人柄から来ている部分も多分にあるに違いない。こうした「小さな発見」がきっかけとなって研究が進み,いかに大きな重みを持つようになりうるか,その劇的な実例が田中氏の化学賞受賞だといえそうだ。

(2023年4月5日転載終)

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タフ・ネゴシエーター

最近のメーリングリストから転載を。

小松正之劣勢を逆転する交渉力

小松氏の米欧豪の反捕鯨包囲網に挑み続けた13年の記録。国際会議の現場で培ったノウハウを全公開。

・私は20年も長きにわたり国際交渉のただ中にあって、その前線で仕事をしてきた。多くの上司に恵まれてきた。1985年から、私はアメリカとの日米漁業交渉の担当になった。水産庁長官や水産庁次長といった当時の百戦錬磨の諸先輩方の交渉ぶりを見たり、同席したりして、私は国際交渉のやり方を実地に身につけた。

・日々の仕事の中で、私は国際交渉の基本から国内折衝のしかたまでを学んだ。英語での交渉のやり方はもちろん、国内でも官邸や他省庁、水産業界との折衝や対話を通じて、どのように自分の考えを出し、省庁として、国としての方針をまとめ上げるのか、そのためのリーダーシップを誰がどのように発揮したのかを目の当たりにした。

・ローマでの仕事を終えて帰国した私は、1991年から捕鯨交渉に携わることになった。「クジラを殺すな」という国際世論に押されて、日本の捕鯨の火が今まさに消えようとしていたころである。

・ここでも多くの諸先輩方の指導を得た。どこの交渉に行くにも、自分はその上司の交渉ぶりを見て学び、また直接レクチャーを受けた。何ものにも代えがたい貴重な体験だった。

・私の時代には、OJTが機能していた。私は外国政府関係者とメディアから「タフ・ネゴシエイター」といわれた。それは戦後の混乱期から水産庁で受け継がれてきた交渉人の系譜が、そうさせたのであった。一緒に、「切った張った」の修羅場をくぐり抜けてきた先輩たちの姿をこの目に焼き付けてきたからである。

・私が携わってきたのは、農林水産関係という限られた分野であったが、20年もの間、国際交渉の前線で仕事をしてきた。その過程で、真の交渉力とは何か、リーダーシップとは何かをいろいろな局面で考えさせられ、実地に体験してきた。

・交渉の目的は合意ではない。

・捕鯨は文化であり、伝統である。

・交渉相手の批判は「宝の山」である。批判されてこそ次の手が見えてくる。

・批判に応え、さらなる批判を封じ込める。相手の批判に真面目に応えるだけで、相手にダメージを与えられる。

・誰よりも早く発言して議論を引っ張る。

・議長になって会議を仕切る。誰に話を聞くかで流れが変わる。

・日本人スタッフの地位向上をはかる。分担金の大きさと比べて圧倒的に少ない日本人職員。

・国際交渉の表舞台が会議であるとすれば、それを支えるのは事務局のスタッフである。国連機関の職員は、みずから情報を収集分析するとともに、会議の運営を側面からサポートしている。そこに日本人が多くいれば、当然日本の影響力は高くなる。各国もそれがわかっているから、自国の人間を事務局に送り込もうと、あの手この手を使ってくる。

・同じ話を何度もされるとプレッシャーになる。私がどうやって日本人スタッフの地位向上をはかったかというと、特別なことは何もしていない。そのスタッフの上司のところへ行って、四方山話をする。そして、日本人スタッフの評価を聞いて、昇格の検討を要請する。

・特別なことはいらない、ただ続けるだけ。こういうことは、続けることに意味がある。大事なのは、その案件をつねに相手に意識させることだ。そのために、定期的に会いに行くのである。私の交渉術というのは術と呼ぶほどのものではなく、当たり前のことを当たり前にやること、淡々とやり続けること。それに尽きるのではないかと思う。

・交渉は会議の前からはじまっている。会議資料の作り方と事前の根回し。交渉の成否は事前準備にかかっている。

・資料づくりのコツは、一つは簡潔にまとめること。もう一つは相手の目線に合わせること、である。

・事前の対話を通じて味方を増やす。会議に至るまでの準備期間でどれだけ濃密なコミュニケーションができたか、それによってその国の投票行動が決まるといっても過言ではない。

・交渉力はどれだけ場数を踏んだかで決まる。こちらが出さなければ相手の情報が使われる。

・大事なのは、淡々と事実を提供するという姿勢を貫くことだ。事実をありのままに提供すれば、こちらの意図を曲解されることなく、一般の国民に伝達してもらえる可能性が高い。要するに、特別なことは何もしていないが、原理原則にのっとって幅広くやるから、仕事量が膨大になる。

(2023年3月31日記)

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論点ずらし

イスラエルは大変なことになっている。こんな見出しがついていた。

(https://www.timesofisrael.com/)

‘My home is being undone’: Alarmed by Israel’s direction, more citizens weigh leaving
‘Who am I to fight against what the majority has accepted?’ asks one, as coalition’s judicial overhaul advances; emigration facilitator sees 4-fold inquiry increase over last year

by Deborah Danan
21 March 2023
。。。。。。
それに対するパイプス氏のコメント2件。

Daniel Pipes
Increasing numbers among the Jewish Israeli Left abandon Israel for Europe.
I wonder how that will turn out.

(https://www.facebook.com/daniel.pipes.official)

Daniel Pipes
28 March 2023

My sense of the crisis in #Israel:
– It is very serious, concerning profound issues of government
– The sides will reach a compromise
– There will be no civil war nor a foreign policy rupture
– The episode will quickly pass. By late 2023, it will be nearly forgotten, a bad dream

(2023年3月29日転載終)
。。。。。。
多分、私も最後の一文が実現するのではないだろうか、と感じている。というよりも、パイプス流の希求か?

(https://twitter.com/ituna4011/status/1640677214827220992)
Lily2@ituna4011
イスラエルはデモでも秩序立っている、等と書いているツィートがあるが、イスラエルは国民皆兵ではなかったか?つまり、軍隊での階級により人生が決定される。日本が見習うべきは、軍事訓練を民間レベルで全国民の義務とするかどうかという点。兵役拒否権はなし、ということで。
8:28 PM · Mar 28, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1640830874500616193)
Lily2@ituna4011
それは、私が実際に当事者や関係者から直接聞いた話です。 また、そのような話を2010年代に読んだこともあります。 根拠なしに書いたのではありません。 多分、指導者層レベルの話だったと思います。
6:39 AM · Mar 29, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1640933908572442625)
Lily2@ituna4011
私が書いた文意は、日本の民間レベルの国防意識の話です。論点をよく踏まえてくださいね。お願いいたします。
1:28 PM · Mar 29, 2023

(2023年3月29日転載終)
。。。。。。。
上記のツィートは、イスラエル在住の日本人女性が、私のコメントを勝手に読み違えて(?)、デモにも参加したのであろう自己の経験から、論点ずらしの発話をしていたことによる。

こういうことは、時々、海外在住の日本人女性に見られる現象。どういうわけか、こちらの発言に首を突っ込むように意見を出してくる。「アメリカでは」「イスラエルでは」と、海外事情の理解修正を求めてくるようである。私は、あくまで報道から知り得た海外事例を基に教訓を引き出して、我々日本側の話をしているつもりなのに。
いくら海外在住が長くとも、現地語の暮らしをしていると、どこかで日本語感覚がずれてくる。それなのに、もっともらしく、高みから日本語で意見を述べ立ててくるので、非常に厄介である。

言語感覚、だいじょうぶでしょうか?本当のバイリンガルとは、国際結婚か混血出生等に基づく生活経験で得られるものではなく、あくまで専門的な厳しい訓練による。二言語通訳者は寿命が短くなる、とも聞いたことがある。いくら自分では両言語ができるつもりでも、歴史的な蓄積に基づく非可視化された状況の読み取りは、居住環境のために片方は落ちる。落ちないと思うなら、それだけ感覚が鈍っているということだ。

「軍隊の階級で交際範囲や職業の方向性がある程度決まる」とは、日本イスラエル親善団体の冊子か何かで読んだことがある。また、日本側のユダヤ教かイスラエル研究者の本でも読んだ。イスラエルの現地で、ガイドさんか旅団の方から話を直接聞いたこともある。もっとも、それは2010年代のことで、現在は流動性があるだろう。

とはいえ、軍隊暮らしとは、どこの国、いつの時代でも、大概、そういうものではないだろうか?日本軍だって、だからこそ「戦友会」が昭和時代には盛んだった。「同じ釜の飯を食った」者同士で、生死を分ける戦いを共にした苦労人同士だから、独特の人脈と感情が付着しているだろう。

ともかく、私の書いたツィートは、日本の国防の話。現在は日本に住んでいるのではなさそうなのに、どうして突然、よそから割り込んで、勝手に読み違えて、一方的に講釈を垂れているのだろうか?日本生まれの日本育ちで日本国籍の日本国民として、自分の国に責任と義務があるから、発言したのに。

論点ずらしをしないでくださいな。時間の無駄。暇そうに見えても、こちらは忙しいのです。

(2023年3月29日記)
。。。。。。。。
(https://www.facebook.com/JonathanSTobincolumnist)

Jewish News Syndicate(jns.org/opinion/)

by Jonathan S. Tobin is editor-in-chief of JNS (Jewish News Syndicate).

A ‘resistance’ coup just defeated Israeli democracy

A false narrative about Netanyahu’s “judicial coup” may achieve its goal of toppling him. But more than that, the consequences for future governments and U.S.-Israel relations are ominous.

(March 27, 2023 / JNS) After months of increasingly strident mass protests against his government’s plans to reform Israel’s out-of-control and highly partisan judicial system, Prime Minister Benjamin Netanyahu appears to have given in to the pressure. He said he was going to be “delaying judicial reform to give real dialogue a chance.” But it’s highly doubtful that this will merely be a timeout that will help his supporters regroup and enable opponents to calm down and accept a compromise on the issue.

On the contrary, Netanyahu is waving the white flag on judicial reform—and everyone knows it. And since the ultimate goal of the protests was not just preventing legislation from being passed but to topple the government, it’s far from clear whether the prime minister can long stay in power after this humiliation since his allies are shaken and his opponents won’t be satisfied until he’s ejected from office.

Whether that will happen remains to be seen. But the one thing that is clear is that the consequences of the events of the last months go far beyond the future of the Israeli legal system.

Netanyahu’s announcement is leading to celebrations on the Israeli left as well as among their foreign supporters, especially in the Biden administration and liberal Jewish groups. And they have good reason to celebrate. The anti-Bibi resistance was able to sell the world a false narrative about their efforts being nothing more than a successful effort to defend democracy against the efforts of would-be authoritarians who wanted to create a fascist theocratic state.

But the notion that an uprising of the “people” has stopped a “coup” by Netanyahu and his allies is pure projection. What the world has just witnessed was itself a soft coup. Fueled by contempt for the nationalist and religious voters whose ballots gave Netanyahu’s coalition a clear Knesset majority in November and imputing to them their own desire for crushing political opponents, the cultural left has shown that it has an effective veto over the results of a democratic election.

In exercising that veto, they have given Israel’s enemies, who don’t care how much power the courts have or who the prime minister of the Jewish state is, ammunition that will make their international campaign to isolate their country more effective.

More importantly, they’ve broken rules and set precedents that will impact future Israeli governments no matter who is leading them. They’ve shown that not even an election can be allowed to break the left’s stranglehold on effective power via a system of courts and legal advisors that have effectively made Israel a juristocracy rather than a country ruled by the representatives of the people. That sends a dangerous message to the people whose votes determined the outcome of the election—that their views don’t matter and that they should lose faith in the ability of political action to have an impact on society.

The opposition didn’t play by the rules

Netanyahu and his fellow coalition members made a lot of mistakes in the last few months. The prime minister was inhibited by an outrageous ruling from the attorney general that effectively silenced him on the most important issue facing his country. Still, by concentrating most of his efforts on trying to rally reluctant Western nations to face up to the threat of Iran, he was distracted from what was going on at home.

He had been criticized for trying to force fundamental change to the justice system via a relatively narrow partisan majority without a national consensus. But those who say this are hypocrites. A left-wing Israeli government forced the disastrous Oslo Accords with an even narrower majority. Democrats like President Joe Biden, who make the same claim, also seem to be forgetting that the Obama administration he served did the same thing with health care despite the lack of a consensus or even making minimal gestures towards compromise.

Given the way his opponents have been willing to go to any length to defame or delegitimize him and even to drag him into court on trumped up flimsy charges of corruption, Netanyahu underestimating his opponents is hard to fathom. Having broken a three-year-long political stalemate by gaining 64 seats in the Knesset to form the first clear majority since he won in 2015, the prime minister somehow thought his foes would play by the rules and let him govern.

He failed to understand that—like the willingness of the American political left to do anything to defeat former President Donald Trump, even if meant dragging the country through three years dominated by the Russia collusion hoax—his opponents were prepared to set the country on fire, destabilize its economy and even weaken its national defense to throw him out. The notion that restraining the power of the court—something that opposition leader Yair Lapid used to support before he realized that latching on to the resistance would give him a chance to erase his defeat last year—was the point of the protests was always false. The same could be said of the claim that preventing the courts from selectively exercising unaccountable power without any basis in law was the end of democracy or the first step towards the creation of a theocratic state.

With the chaos in the streets—with the financial, legal, cultural, media and academic establishments joining with the left-wing opposition—the prime minister already had his back to the wall. But the widespread refusal of many reservists, especially among those with skilled positions such as pilots, to refuse to report for reserve duty threatened the country’s national security. Along with general strikes that forced closures at airports and shutdowns of medical services, that proved to be the last straw and led already shaky members of the coalition to lose heart.

The coalition was slow to mobilize its own voters, who, after all, did outnumber the opposition in the recent election. The government’s supporters were forced to watch impotently as their leaders faltered, feuded among themselves and failed to act decisively to fight the battle for public opinion.

Going forward in the face of a resistance that was ready to trash even the most sacred of Israeli civic traditions involving national defense in order to gain a political victory became impossible. And with his own party losing discipline, and the U.S. government and many leading institutions of American Jewish life similarly backing the opposition, Netanyahu had no choice but to try and prevent any further damage.

Netanyahu has made a career out of repeatedly proving wrong those who have written his political obituary. Still, if the protests continue—and there is no reason to believe they will fully stop until a new election date is set—the government can try to reset the debate as being one about the left’s appetite for power and not their supposed devotion to democracy.

Whether they succeed is not as important as the implications of a political battle in which large numbers of people were prepared to sabotage the country in order to preserve the establishment’s power to determine policy regardless of who wins elections.

Implications for the future

Will that happen every time the right wins an election from now on? Probably. That means not only will the juristocracy defend its power, but its supporters are permanently committed to thwarting the will of voters who may continue to outnumber them in the future.

And how will a theoretical government of the left—assuming, as many now do, that Lapid and his allies can win the next election—react if large numbers of right-wing opponents try to play the same game? If the debate over the disastrous Oslo Accords and the 2005 Gaza withdrawal are any gauge of their behavior, they will crack down on their opponents in ways that Netanyahu hesitated to do this year with widespread jailing of dissidents. Dismissals from the army of those who refuse orders rather than the gentle lectures the anti-Bibi refuseniks got will also be likely.

While the left threatened violence against their opponents and even civil war if they didn’t get their way about judicial reform, who really believes they will hesitate to initiate one if they are in power and the right rises up in the streets the way we’ve just witnessed?

Similarly, the implications for Israel’s foreign relations are equally ominous. The opposition has essentially legitimized American involvement in Israel’s domestic politics even on an issue that had nothing to do with the questions of territory and peace. That weakens the country’s independence at a dangerous time when, as Netanyahu has been trying to point out, the threat from Iran is growing.

What’s more, Netanyahu’s opponents have (whether they realize it or not) also legitimized arguments aimed at denying that Israel is a democracy. While his foes think that this will only apply to times when the right wins elections, they may come to realize that to the antisemites who assail the Jewish state in international forums and in American politics where the intersectional left is increasingly influential, that will also apply to governments led by parties not named Likud.

Ultimately, Israel’s citizens—whether through democratic elections or mob actions that break governments and Knesset majorities—will determine their own fate. And those who look on from abroad must accept the outcome of these struggles and continue to support the Jewish state against its enemies.

Yet far from defending Israel from authoritarian forces, the protesters have established a precedent that will haunt future governments of all kinds and shake the foundation of its democracy. Whether that damage can be undone remains an open question.

(End)
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2023年3月31日追記

・先ず行為は何のために行われるかを明らかにする。それは自己の人格成長のためである、自己の利のためではない。
・次に誰のために行うかを明らかにする
・補完のためにいかなる条件を供与したらよいかということになる。

・これに答えるのは、哲学と科学(自然科学と社会科学)である。
・永い経験の結晶たる慣習、道徳的意見、法律の規定である。これを一言で社会的命令(規範)という。
・反省し批判することの必要が起る。再検討を試みるのである。

(河合栄治郎『学生に与う(全)』現代教養文庫67(昭和30年8月初版1刷・昭和40年7月3版15刷)p.290)

(2023年3月31日記)
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2023年4月3日追記

ダニエル・パイプス氏が、ご両親の出身地ルーツの関係でポーランド国籍も有しているため、早速冒頭の話題に関して、ポーランドのテレビに出演。

(https://www.danielpipes.org/21740/israel-judicial-reform-crisis#.ZCnSOW_-sQc.twitter)

お元気ですね?また、歳を忘れて(?)いつまでも前向きに果敢に言論活動に勤しむ点、我々日本側も模範とすべきなのかもしれません。

11年前の今頃、パイプス訳業を開始して、その論旨の明快さ、視野の広さ、イデオロギーバトルの淵源に、もやもやしていた思考がパッと明るくなり、すぐに夢中になりました。それからの丸6年、主人の病状が徐々に進行しつつあったため、パイプス氏の強気の姿勢には、かえってこちらが励まされ、支えられていた面が大きかったと思います。

(2023年4月3日記)
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2023年8月10日追記

(https://twitter.com/ituna4011/status/1689206652111925248)
Lily2@ituna4011
令和4年の外国資本による森林取得の事例は、一道一府四県の計14件、計41ヘクタール。 米国、香港、シンガポール、中華人民共和国の各個人、そして、英領バージン諸島の法人等。 平成18年から令和4年の事例の累計は、320件、計2732ヘクタール。 外資系企業の取得累計は、302件で6734ヘクタール。
6:27 PM · Aug 9, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1689206999752572928)
Lily2@ituna4011
以上、出典は 令和5年8月7日の神社新報 第3645号 でした。
6:28 PM · Aug 9, 2023

(2023年8月10日転載終)

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