昨年7月、伊丹市立博物館友の会に入会いたしました。月に一度の例会、古文書を読む会、随時の街道を歩く会、座学講座等に参加させていただいております。コロナ感染問題により、活動が休止されたこともありますが、何とか続けてまいりました。
『友の会だより』には、これまで三回、拙文を掲載していただきました。最新号の第66号(令和3年(2021年)10月30日発行)には、「伊丹と島本ーむかしのくらし展を機縁として」が掲載されています(pp.10-12)。
紙面の都合上、元原稿にあった注が削除されておりますので、写真を除き、ここに全文を投稿いたします。
なお、拙稿をまとめる上で、大阪府三島郡島本町と京都府乙訓郡大山崎町の各資料館から発行された参考資料が大変役立ちました。この場を借りて、感謝申し上げます。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
「伊丹と島本-むかしのくらし展を機縁として」
キーワード:西国街道・摂津国・近衛文麿の揮毫・谷崎潤一郎の小説・戦前と戦後
昨秋、博物館友の会は第45回学習参考展「むかしのくらし」の映像作製を試み(1) 、令和3年1月9日から3月7日まで博物館内で上映された。近隣都市でも似たようなテーマの催しが開かれていることをチラシで知ったので、かつて暮らしていた大阪府三島郡島本町にある町立歴史文化資料館(以下「資料館」)では、どのような様子だろうかと興味がわき、去る2月28日の午後、立ち寄ってみた。1時間ぐらい見学した後、20分ほど学芸員の方からお話を伺うことができたので、その状況を記してみたい。
(1) 企画の来歴比較-建物と展示学習-
資料館は、JR京都線の島本駅から徒歩1分ほどに位置する。駅構内には「むかしの道具展~暖まる~」と題したポスターが貼ってあり【写真a】、令和3年2月3日から3月14日まで町内から寄贈された農作業の道具類や生活用品のみならず、雛人形の展示もあるとの説明付きだった。
この木造平屋建の建物は、『太平記』の記述に因み、大正10年(1921年)3月に大阪府初の国史跡に指定された「櫻井驛址」の記念館として、昭和16年(1941年)に大阪財界人で三和銀行元取締役だった一瀬粂吉(くめきち)氏が建設した(2) 【写真b】。近衛文麿の揮毫で「麗天館」の扁額が正面玄関に掲げられていたという(3) 【写真c】。戦後になり、昭和44年(1969年)からは、大阪府立青年の家の講堂として長らく使用されていた(4) 。平成16年(2004年)4月1日に、島本町が大阪府から無償譲渡されて、条例制定により、「町立歴史文化資料館」として設置することとなった(5) 。当時の外観のまま、正式に開設されたのは、JR島本駅の開業のほぼ一か月後の平成20年(2008年)4月12日のことである(6) 。
町内には計4校の小学校があるが、今年のコロナ対策として、資料館に最も近い第三小学校のみが、展示を直接見に来て学ぶプログラムを組んでいたらしい。その他は、週末等を利用して親子で自由に各自資料館を訪問することにしたという。従って、学習状況や来館人数等の把握は、訪問時には明らかではなかった。
翻って伊丹市では、昭和47年(1972年)7月22日に博物館が設立された5年後から「むかしのくらし展」内が開かれるようになり(7) 、友の会が展示解説の活動を始めたのは、平成10年(1998年)からだという(8) 。現在では、市内にある計17校の小学三年生の社会科学習と連携しているが、昨年来の新型コロナウィルス感染症対策を講じた結果、今年度は、参加校が10校、来場8校、博物館からの出張2校、教師を含む総数1111人が参加したと報告された(9) 。
この対比には、人口と土地面積の違いもさることながら、宅地化が先に進んだのは阪神間モダニズムに触発された伊丹だったという背景を考慮すべきである。また、平成7年1月の阪神淡路大震災が、都市再構築と過去の記憶の風化防止を促したという心理的な側面も看過できないだろう。
ところで、島本町には「東大寺」地区がある。これは、奈良の東大寺正倉院文書の絵図「摂津職嶋上郡水無瀬荘図」から、天平勝宝8年(756年)12月に聖武天皇ゆかりの東大寺の荘園として水無瀬荘が施入されたことを示唆する(10) 。既に機械化されていたとはいえ、私が暮らしていた頃もまだ水田が広がっていたことを思えば、農作業の光景が日常に溶け込んでいて、資料館が正式に開かれるまでは、わざわざ道具を展示して意識化して学ぶまでもなかったのであろうか。
(2) 展示物の比較-島本の場合-
農具に関しては、伊丹と重複するものもあったが、大八車、藁打ち機、縄綯機(なわないき)、踏車、籾摺臼、馬鍬、苗代ごて、風呂鍬、鋤簾(じょれん)、肥桶、雁爪、田打ち車、押切、一斗枡(ます)、耘爪(うんそう)、藁沓(わらぐつ)など、島本の方が遥かに種類も多く、保存状態が良好で、大切に使われてきた様子がうかがえる【写真d】【写真e】。パネル解説は四季区分されていた。さらに、スペースの関係からか、館外の軒下にまで道具類が並べてあった。
(3) 伊丹と島本の共通項-近衛文麿の揮毫-
西国街道で結ばれた摂津国の伊丹と島本において、近衛文麿の揮毫という共通項は見逃せない。
江戸時代に伊丹郷町が近衛家領であったこともあり、近衛家第三十代当主で元首相の近衛文麿(1891-1945)は、伊丹へ二度来訪されている(11) 。現在、目にすることのできる猪名野神社の鳥居の扁額が近衛文麿によるものであることは、伊丹でよく知られている。
島本の「麗天館」扁額のみならず、資料館の真向かいの公園(通称「楠公さん」)にある楠木正成・正行父子の忠孝を示す「楠公父子別れの石像」の台座の刻字「滅私奉公」も、同じく近衛文麿公爵による【写真f】。建立は、昭和16年(1941年)4月である(12) 。
(4) 伊丹と島本を結ぶもの-『桜井周辺図』-
資料館の館内には、「大正の広重」と呼ばれた吉田初三郎(1884-1955)という絵師が皇紀二千六百一年春に描いた鳥瞰図がある(13) 【写真g】。これは、資料館のパンフレットの表紙にも図柄が用いられている。桜井周辺を中心に据えており、北北西方面に「伊丹」の地名が記されている【写真h】。昭和15年から16年頃の島本の様子を伝える貴重な資料であるが、現在、この鳥瞰図は、カラー刷りの絵葉書になって、白黒の旧麗天館の写真絵葉書等を含めて、館内販売されている(4枚一組で100円)。
(5) 島本を舞台にした小説に伊丹が登場
古くは水無瀬野と呼ばれた島本を描いた小説に、谷崎潤一郎(1886-1965)の『蘆刈』という作品がある(14) 。初出は改造社の『改造』(昭和7年(1932年)11月/12月号)だが、筑摩書房、中央公論社、河出書房新社、岩波文庫、小学館等から発行され続けており、伊丹市のことば蔵にも10件以上所蔵されている。
私は、島本町に住み始めてまもない平成10年頃、町立図書館でこの小説を借りて読んだ。当時は、「もとより気の利いた料理屋などのある町ではない」と記された一文が妙に印象に残った。今回、再読してみたところ、懐かしい水無瀬殿や後鳥羽院の典雅で幽玄な話に交じって、何と「伊丹」が登場していることを「再発見」したのだった。
(前略)このさいごくかいどうを西へあるいてみるのは始めて(ママ)なので
ある。すこしゆくとみちがふたつにわかれて右手へ曲ってゆく方のかどに古ぼ
けた石の道標が立っている。それは芥川から池田を経て伊丹の方へ出るみちで
あった。荒木村重や池田勝入斎や、あの信長記にある戦争の記憶をおもえばそう
いうせんごくの武将どもが活躍したのは、その、いたみ、あくたがわ、やまざき
をつなぐ線に沿うた地方であっていにしえはおそらくそちらの方が本道であり、
(後略) (15)
この箇所は、もし島本に住み続けていたならば、読み過ごしてしまったことだろう。だが、伊丹について、博物館友の会の活動で多くを学ばせていただく中で、ふと読み返してみたところ、俄然、光彩を放って迫ってきたのである。
戦後の都市開発の流れで、兵庫県と大阪府という行政区間で表面のみを眺めるならば、伊丹と島本には連関がさほどないように見えるかもしれない。だが、西国街道を通して戦前の歴史観を辿るならば、このように摂津国の深いつながりにおのずと合点がいく。
「むかしのくらし」展が機縁となり、このような再発見の旅へといざなわれたことを感謝申し上げます。
《脚注》
(1)『友の会だより』第64号(令和3年2月27日発行)pp.13-16,18。
(2) 館内の「島本の文化財」と題した資料館発行の紙資料(平成27年10月第7号-2)には、「昭和15年(1940)に建設」と書かれている(http://www.shimamotocho.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/11/No.7-2%20rekishibunkashiryokan.pdf)。入母屋造桟瓦葺に裳階を廻らせた社寺建築風の意匠で、折上格天井を張っている。
(3) 現在は、館内の壇上に置かれている。
(4) 館内のパネル解説による。
(5) 島本町ホームページ「島本町立歴史文化資料館(旧麗天館)の概要」(www.shimamotocho.jp/gyousei/kakuka/kyouikukodomobu/shougaigakushuuka/rekishi_bunkazai/rekishibunkashiryokan/1619510759692.html)
(6) 『町制施行80周年記念 しまもとの記録と記憶-昭和から平成そして令和へ』島本町教育委員会(令和2年12月発行)p.5。平成27年8月4日、文化庁から国登録有形文化財(第27-0636号)に認定された。なお、麗天館所蔵の資料一覧については、『大山崎町歴史資料館 館報 第10号』大山崎町歴史資料館(2003年)pp.17-20。
(7) 伊丹市立博物館『学習参考展 むかしのくらし1989』「ごあいさつ」。
(8) 『地域研究いたみ』第45号(平成28年3月発行)p.91。
(9) 令和3年3月27日友の会例会より。
(10) 館内のパネル解説および『町制施行80周年記念』p.6。
(11) 『地域研究いたみ』第50号(令和3年3月発行)p.113。
(12) 『史跡をたずねて(改訂版)』島本町教育委員会(平成18年3月発行)pp.137-138。
(13) パンフレットによると、昭和天皇が皇太子でいらした頃の行啓の折、吉田の処女作をお土産に求められたことから、その作風が一躍有名になったとされる。この鳥瞰図の詳細は、『大山崎町歴史資料館 館報 第9号』大山崎町歴史資料館(2002年)pp.18-20。
(14) 水無瀬忠寿『水無瀬神宮物語』水無瀬神宮社務所(平成4年10月12日発行)pp.136-141。
(15) 谷崎潤一郎『蘆刈・卍』中公文庫/中央公論社(昭和60年9月10日発行)pp.9-10。
(以上 掲載終わり)
2022年1月3日追記:
上記脚注部分で、画面アップで表示される行替えが乱れております。元は正しく表記されておりますので、何卒ご海容の程お願い申し上げます。
………..
2022年12月23日追記:
伊丹と島本の驚くべき繋がりをまた一つ発見した。
伊丹市史編纂専門委員会『伊丹市史第4巻 史料編1』(昭和43年3月1日発行)を眺めていたところ、「近世編」に以下の文書の翻刻が掲載されていたのだ(pp.284-285)。
【月賄金につき水無瀬家請書】
小西新右衛門文書
覚
一 水無瀬家勝手向近来不繰合ニ付、種々勘弁仕候得
共、行届兼、無拠
御宮御差支ニ可相成儀も難斗奉存候ニ付、此度格
別之倹約取締、月賄仕法書之通手堅ク相定、各様
方迄及御示談候所、
御宮御差支之儀は其儘難差置被思召、私共願之通
水無瀬家年々収納米四百石宛差出、年々ニ遂決算
月々年末賄仕送等之儀御家領伊丹表役人衆より窺
之趣共御取調之上、今般御聞届被成下候段難有奉
存候、右ニ付三位殿(水無瀬)よりも聊無相違状別紙被差出
候、然ル上は猶亦別紙領分庄屋・年寄共(摂津国島上郡広瀬村)よりも御
請書奉指上候通、年々出来米拵次第豊凶ニ不拘得
と吟味仕精米ヲ撰立、時節不過差出可申候、尤指
出来四百石之儀ニ付外より妨等之儀ハ毛頭無御座
候、右之外臨時入用之儀は決而申間敷候、仍而奉
指上候御請書如件、
水無瀬殿家
西田半右衛門 判
文政七甲甲年八月 井上内記 判
小泉長門守 判
星坂左近将棋監落 印
関東下向ニ付、
近衛様御内
木村大蔵大丞殿
清水伊織殿
安平次要殿
(引用終)
。。。。。。
同じ摂津國であるということから、大阪府三島郡島本町広瀬にある後鳥羽院ゆかりの水無瀬神宮の宮司さんである水無瀬家と、兵庫県伊丹市の近衛領内とが文書で繋がっていた、ということである。
(2022年12月23日記)