昨日の午後、大阪駅前第2ビル5階の大阪市立総合生涯学習センター研修室で開催されたPD友の会大阪府支部の会合に行って来た。送られた会報を見て、4月25日か26日の夕方、電話で参加を申し込んでおいたものである。
比較的遅れて連絡したにも拘わらず、受付にあった名簿にはきちんと「あいうえお順」に名前が掲載されていて、そういう点、(さすがは大阪府支部)と思った。(修論作成の時に、全国のPD友の会の支部活動の様子を調べてみたが、地域差と人的流動が大きい。殆ど開店休業状態のところもあれば、病院内か公的施設に所属している県もあった。また、休会中の地域が増加してもいる。)
大阪府のPD友の会の会場は、会合の目的に応じて、難波や阿倍野等、毎回いろいろと変わる。今回の大阪駅前ビルは、PD友の会の定例行事用に確保されている。修論のリサーチも兼ねて、これまで二回程行ったが、この頃では駅周辺の大規模開発のために高層ビルがニョキニョキと立ち並び、景観が悪くて到着までに時間もかかる。
昨年は大学院のゼミと修論作成に集中していたため、全部お休み。この度、2年ぶりにお目にかかった知己の患者さん達が、一様に進行していて姿勢傾斜がひどくなり、目が真っ赤に充血して形相が変わっている人までいて驚いた。2022年7月下旬には東京でのPDコングレスにも元気に参加されていたのに、である。但し、この方々は記憶力が保持されていて、私が名前を名乗るとすぐに思い出して会話ができる。外見の大変さと内面の記憶コミュニケーション力とのギャップ、これもPD患者の特徴かもしれない。
講演内容の詳細は後程。まずは、メモ書き程度に雑多な感想を。
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1)当時購読中だった『朝日新聞』の家庭欄でPD友の会大阪府支部の記事を見て、進行性疾患である将来を考えて、私が入会を申し込んだのは、2002年5月のこと。会員歴は丸22年になるが、遺族会員としては4年になる。
最初は主人一人が果敢に出かけて行った。「僕がこんな病気になったから、家内はすっかり変わってしまった」等と、私のことばかり話していたそうで、「(どんな奥様かしら?)と思っていたのよ」と、ずっと遺族役員をされている今は80代の女性(御主人が若年性PDだった)が笑いながらおっしゃったことを、時々思い出す。
2)(終了後に受付で尋ねたところでは)会場参加者が78名。それに加え、今回初めて試みたZOOMの視聴者が32名だったという。合計110名の参加者(大阪府支部会員の五分の一程度)ということになるが、支部総会の後から入室した人々も多かった。
ZOOMに関しては、講演を聞きたくてもなかなか会場まで出て来られない人を配慮してのことであるが、昨今増加中の若年層会員からの知恵でもある。そこは、一歩前進ではあった。(一般に高齢者に多い疾患とされているPDでは、会合を継続しているうちに、どうしても発想がマンネリになりやすい。)怪我の功名ではないが、2020年1月以来のコロナ感染症問題のおかげではある。
但し、「患者の中にはZOOMの使い方がわからない人もいるので、何とか工夫してほしい」という挙手が、比較的若い中年女性から上がった。
この種の発言が自由にできるのは大阪府支部の良い点だが、主人や私のような者からすると、「だから患者会には行きたくない」ともなってしまう。なし崩しに話のレベルが低下していくからだ。一人暮らしで孤立している患者や、PD患者特有の我儘や視野の狭さ(拘りが強く、几帳面でプライドが高い)に対する配慮の必要はあるものの、「全ての人が満足できる」ような御託を文字通り受け留めて実践しようとすると、とんでもないことになってしまう。
・ZOOMは、パソコンさえあれば、操作手順に慣れるのは簡単だ。受信する側なのだから、操作手順を紙に書いてもらって、何度か事前に練習する他ない。
・講演内容を録画されているならば、講師の許可を得て、操作に手間取って遅刻した人でも参加できるような仕組みにすればよい。
・パソコンを使わないか、持っていないないならば、月遅れで(講演者たる神経内科医のチェックを通して)会報に要旨が掲載される(予定な)ので、それを読んでいただきたい。
・それも不可能な状態ならば、恐らくケアマネさんがついているはずなので、ケアマネさんの采配次第、ということになる。
今回のような専門性の高い講演内容を理解したいと願う程度の患者ならば、最低限それぐらいの生活力は自分で保持しなければならない。それも「精神面でのリハビリ療法だ」と、私は思う。
(国会図書館から集めた多数の医学論文を含め、計1256本の資料を使って修論を書き、今春、若年性PD患者をテーマに修士号を授与された途端、自分のPDに関する所見に活力のような自信が漲って来た。これはありがたい効果である。従来の患者会では、「みんながあなたのような恵まれた立場ではないのよぉ」「大学の先生の言うことなぞ、当てにならん」等と、妙な平等意識から、抑えつけられる雰囲気が少し漂っていたからだ。(参照:2023年7月21日付「公明党と難病患者会」
(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=5370&action))
3)講演内容は、恐らく私の想像では、京都大学医学部かどこかのPD導入講義で使ったものの組み合わせではないだろうか?
というのは、今回の講師謝礼は「先生ご自身が辞退され、ボランティア講演となりました」ということで、会場から拍手されていたからである。
私が修論で使ったような、あるいは、修論作成のために見かけたような、英語による海外論文が多数引用されてもいた。「ちょっと難しい話になりますけど」と前置きされながらも、確かに専門性の高い内容ではあった。逆に言えば、私の修論でさえも、全くの素人(患者家族)の割には、修士レベルなりに「専門性が高い」ものだったのかもしれない。(今の医療福祉の博士論文は、「昔なら卒論レベルである」と言われている。)
若い医師は往々にして、詳細なところも一気に患者会に伝えようとする。まだ匙加減が手探りだからでもあろう。あるいは、患者会の役員が講師にどのように事前伝達したか、でもある。それに昨今では、会合内容が、(今私がしているように)電子空間で一瞬のうちに口外されてしまう。それは止めようのない現代社会の宿命ではある。そうすると、神経内科専門医の間で一種、情報伝達上の競争にもなり得る。
但し、会場の患者さんが挙手して「今回の講演内容、とてもよくわかりました」と公言する度に、私は内心(プライドが高過ぎる)と、いつでも思っている。その患者の病前の人生経歴を察するに、それほどの知的生活をされていたとは、態度全体から(失礼ながらも)到底思えないからだ。闘病生活で患者が抱えている種々の悩みと、「専門性の高い」講演を聞いた直後の「理解できました!」発言の間で垣間見えるギャップの大きさが、私をしてそのように感じさせる。
恐らく、主人も特に進行期に入ってからは、会社(先端総合技術研究所)でそのような態度だったのだろうと、私は想像している。病状の進行に伴い、身体の苦痛は増す一方で、意識そのものは、どういうわけか、若くて‘健常’だった頃のまま止まっているからだ。実際にはできないことでも「頑張ればできる」と思い込んで、仕事でも「できます」と公言してしまい、その結果、依頼退職になるというケースも以前からよく耳にしている。
ただ、我が家の場合は、若い頃の業務内容から、周囲が上手に本人を傷つけないように守ってくださっていたのだ、と私は考えている。だからこそ、周囲の心配をよそに、他の同僚と一緒に伊丹への転勤を自ら強く希望したのだ。そして、転居後は、伊丹での環境の変化に戸惑い、現実に直面したことから急激に精神症状が悪化したのだとも考えられる。勿論、長年、体内で蓄積された薬剤の副作用が発現した時期とも重なっていたのだろうが。
同時に、患者心理として、「自分はPDなんかに負けるもんか!」みたいな勝ち気な面もあるとは思う。全国版PD患者会の冊子を見ると、わざわざそういう患者態度を「前向き」だとして奨励しているケースがあった。
我が家の場合も、「PDのこと以外は通常の社会生活を営んでいる」と、自他共に認められたい気持ちがあったことは確かである。振り返ってみても、患者としての主人は、実際、家庭的にも社会的にも本当に長い間しっかりと頑張っていた、と思う。
とはいうものの、2022年4月から2年間の大学院ゼミでも、その他の場所でも、私はいつでもどこでも、「私は素人です」「何も知りませんでした」「知らなかったんです」とバカ正直に答えていた。「初期の頃の複数のベテラン医師を除けば、進行期から終末期にかけての大学病院外来の女性主治医から、それについて具体的に教えられたことはありませんでした」「知らなかったので、次々と目の前で出現する事態に、びっくりしながら一つ一つ対応する他、方法がなかったのです」と繰り返していた。「わかります!」「よく理解できました!」等、口が裂けても専門家に対しては言えない。
というのは、主人もそうだったが、私自身、一応はリサーチ研究者だ(った)という意識があるからである。自分が知っていることと知らないこと、理解できたこととできないことの正直な判別が研究の出発点である、という基本中の基本だけは、20歳前後から大学で叩き込まれて来た。
従って、「脳の病気=知的理解の低下」と他人に思われるのが嫌で、「私は認知症ではなく、PDによる運動症状が主訴で、知的には問題ないんです」とわからせたくて、「理解できます」「よくわかりました」と、患者が安易に人前でも言ってしまうのではないだろうか。そのような背景は、周囲も充分に弁えておく必要があるかもしれない。
4)パワーポイントを使っての講演は、iPhoneで写真を撮ったので、後で整理して文章にまとめる。
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質疑応答の時間になり、私は3番目に挙手した(後述)。
その前に質問した女性患者は、「後期高齢者」だと自称することもあってか、だらだらと自分の多彩な症状を訴えて「先生の助言をいただきたい」。
この種の患者会合で目立つ、いつもながらのパターンであった。一人当たり5分から15分程度の外来診察時間内におさめきれない程のPD特有の日常生活の困難に関して、自分の主治医と充分に話ができないため、不満が残存していることの反映である。但し、悩みそのものは既に傾向として集約されている感があり、手引集のようなものを作って患者会で配布するという方法も考えられよう。しかしながら、個人差が大きいのもPDに特有とされており、全てを網羅することは不可能である。
薬と食事(バナナやヨーグルト)の飲み合わせ時間やタイミング等は、自分の体調を観察しながら自分で工夫していく他ない。また、年齢が上がって症状が進行するにつれて投薬数も増えていくが、そのために複数科を受診しなければならない不便さやポリファーマシーの害については、講師そのものに訴えるよりも、直近では薬剤師に訴え、広範囲には患者会で意見をまとめて、厚労省なり医師会なりに直訴するしか方法はない。「連携してほしい」と訴えるものの、連携に伴う新たな問題の複雑さについて、質問した患者は全く想像外のようである。
私からの意見としては、「禁忌事項以外は、主治医に指示されたことを基に、自分で自分の体に責任を持つべきである」。
その点、我が家の夫患者は、私にとって大変に楽であった。例えば、1998年秋に診断を下された後、2005年頃から早々と「介護用パジャマ」を自分で探して買ってきた。朝食メニューも、「仕事が長く続けられるように」と、自分で本やインターネットでアイデアを探して食材を買ってきた。(私に作ってほしいものも、さり気なく台所や冷蔵庫に置いてあった。)各地で産出されている玄米の注文も、家事分担として、進んで自分でやってくれていた。毎朝、私よりも先に起きて自分で「朝食」を作って、NHKラジオでニュースを聴きながら食べて、一人で着替えて出勤準備をしていた。これは、伊丹に転勤および転居するまで、少なくとも2018年秋頃までは続いていた。私が作る食事には一言も文句も言わずに、いつでも信じ切って全部食べようとしていた。
こうしてみると、若年性ではあってもかなり軽度ではあった上、自律性の高い患者タイプではあったかと、今振り返っても感じる。
命取りになったのは、アゴニスト系のPD薬剤を、阪大病院の(よそから出向していた)外来の若い女性主治医が、(付き添いの私の話も聞かずに)グローバル基準で最大限投与し続けた結果の精神症状(衝動制御障害)であった。(これが今回、学位授与された私の修論テーマである。)家庭で見ている私以上に、会社の同僚や上司の方が遥かに早くから、「薬が合っていないんじゃないか」と心配されていた。(だから、医原病ないしは医療社会問題であろう。)
患者会では、「うちは玄米なんてダメ。せいぜい発芽米かな」「夫とは好みの違う子供達のメニューを二通り作らないといけなくて、毎日が大変」「若年性患者の夫に対して、子供達三人とも一切関わろうとしない」「子供の受験と夫の介護入院が重なった」「配偶者の介護に親の介護も重なった」等、三重苦、四重苦のような問題蓄積を聞く。私の関心事でもあるせいか、特に若年性患者に目立つ。つまり、高齢者のPD患者とは、抱える悩みが本質的に異なる。
PDと診断された直後にではなく、ある程度、時間が経ってから患者会に入会することが少なくなさそうで、私が2022年の5月と6月に参与観察した「若年性家族会」では、50代の患者配偶者が数名揃っていた。自己紹介から換算すると、働き盛りの40歳前後で診断を下されて、最短でも数年は経っている。症状も配偶者の抱える悩みも、それぞれであった。(今回の会合には、その時お会いした方々は出席されていなかった模様である。)
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ところで、私が入会した頃には「若年の会」が存在していなかった。上述の女性役員さんが、たまたま、42歳でPD診断を下された夫を持ち、和歌山の大学病院で定位脳手術を施されたものの、経過15年で、自宅に戻ったら椅子から転げ落ちて亡くなっていたのを発見したという経験を持つ方だったため、我が家は最初から何かと個人的にも支えられたのである。
以前、電話で聞いていた話では、私の記憶に間違いがなければ、発病後何年か経って御主人が会社を依頼退職になった。それでもハローワークに行って「仕事する、仕事する」と執拗に言い張り(これはPD患者によくある頑固さと拘り、そして夫あるいは男性としての社会的生き方の問題)、毎日喧嘩に。そこで、それまで働いたことのなかった奥様だったその女性役員さんは、「だったら私がパートに出る」と出かけて、帰宅したところ、御主人が変わり果てた姿だった、という。「長い間、なかなか人には話せなくてねぇ」ともおっしゃっていた。
だからこそ、患者会のボランティア役員として長年、活動されているのだ。亡くなった御主人に対する最大の供養であり、未亡人としての生き甲斐にもなっているからであろう。
お話を伺った後は、ありがたい教訓として受け留め、主人が在宅中に自分が外出したり外泊(学会等)したりする時、私なりにいろいろと気をつけるようにしていた。
ところが、後に私がその話を持ち出したところ、その女性役員さんは、「ううん、うちは会社、辞めさせられなかったわよ」「主人が亡くなった頃は、娘の結婚や出産が続いて、それどころじゃなくてね」と、話がすり替わっていた。
以前から繰り返しているように、私はいつでも電話の会話をメモしながら聞く。そして、自分の備忘録か家計簿に記録する習慣がある。几帳面な性格だからではなく、自分の記憶力にそれ程自信があるわけでもないからである。そして、周囲から騙されないようにするための防衛策である。
それ故、私の勘違いでない限り、恐らくは最初に聞いていた話の方が事実に近いだろう。それでは、なぜ話がすり替わったのか?
多分、我が家が最後まで会社に籍を置かせていただいていたこと、長期入院中も毎月給与が充分に支払われ、なんとボーナスまで支給されていたこと(これは阪大病院の主任教授もびっくりされていた)、出身大学の成績(首席卒業)や会社で主人が若い頃に築いていた人間関係や業績(社費による米国留学と米国駐在経験、そして特許論文数)のお陰で、その後も私自身が何かと助けられ、特に経済面では大きく支えられていること等を、私が話したからであろうかと思われる。(2024年5月14日後注:主人の母校は、7ヶ月後に荘厳な慰霊祭までしてくださった!)
この女性役員さんは私の母親と同じ世代。当時は介護保険等もなく、PD患者の診断そのものにも時間がかかっており、高価なPD薬のために医療費負担がとんでもなく大きかった時代である。ケアマネさんに頼ること等、考えもつかない頃で、家族が丸抱えで世話をし、面倒を見なければならず、しかも、献身的に尽くすのが美徳だとされていた時代であった。
つまるところ、同じ疾病ではあっても、皆が同じ経験をするわけではない。結局は、患者自身が発病前までにどのような体質や生活習慣(食事や睡眠や運動等の自己規制)をしてきたか、その人が本来有している素質(人となりや人間関係の構築力や仕事に対する姿勢と成果、そして職場の理解等)がどのようなものであるか、三世代前からの両系の家族親族関係はどうであったか等が、闘病過程を大きく左右するのである。
我が家が入会した頃の支部長さんも、やはり若年性発症であった。家族関係の密な方のようで、御主人が会社を辞めさせられた後、娘さんが「リベンジ」として同じ会社に入社したらしい。我が家よりも早く診断を下され、一度、お電話でお声を聴いた限りではかなり進行していたが、我が家よりも長生きされている。(が、最近の様子は全くわからない。)
さまざまな人間模様であるが、大阪府支部で話を見聞する限りにおいて、我が家は相当に恵まれた部類に属するようではある。
衝動制御障害の精神症状も、最も深刻で社会的にも本当に大変だった期間が、実質1ヶ月1週間と比較的短かったことが大きい。また、終末期近くに差し掛かった頃、突然、「弟ですから」「母が心配しているので」を口実に、病院や施設や警察や家庭裁判所等、どこにでも決然たる顔つきで出没し、あちこちでトラブルを起こしていた義兄のバカげた振舞い(私に言わせれば、未必の故意に相当する殺人未遂もどきである!)についても、第三者たる公的機関の全てが私の味方であり、全面的に私を擁護する側に回ってくださった。
他方、義母の精神的な依存心や鬱的傾向、義兄のバカげた非常識な行動等の傍迷惑な態度が、患者にとって長らく精神的物理的に大きな負担と心理的社会的な負い目になっていたことも確かだ。PD予後を左右するのは患者の血縁家族次第という点があり、発症由来には家族にも責任がある。その点に関しては、医師や看護師や保健師やケアマネ等の専門家が、充分な配慮の上で、最初から個々人に警告を発することが必要ではないか、と再度ここで繰り返しておく。
(2024年5月14日後注:義兄のことは、義母が2017年秋にも「クリスチャンは非常識だ。非常識なのがクリスチャンだ」と私の目の前で何度もぼやいていたが、当時はその含意するところがよくわかっていなかった。後になって終末期の一連のトラブルを振り返ってみると、「弟は小さい頃、元気いっぱいだったのに、結婚してからあんな病気になった。それは嫁が悪い」と私の悪口(というよりも、あることないこと一切合切)を血相を変えてどこでも言い触らして回っていた。言うまでもなく、救急科のドクターも若いケアマネさんも看護師も介護施設の職員も警察も、誰もが信じようとしなかった。当たり前だ!むしろ「そんな対応でいいんですか!」と警察が厳しく追及したところ、ガチャンと電話が切れた、という。)
だからこそ私は、一症例としての患者の実態を、入院した全ての病院から集めた電子カルテ(6病院)と、二冊のお薬手帳と、家計簿や健康ノートや患者会の冊子(入会以来の全冊)や相談会の記録等から抜粋して、二部立てで修士論文に含めることができたのである。勿論、義兄の愚かな振舞いもしっかりと書き込んだ。再発防止の社会啓蒙意識からである。(こんなところで「個人情報保護法」なんか持ち出すなよ、馬鹿もん!)
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すっかり長くなったが、私が今でも患者会に連なっている理由は、お世話になったことの恩返しに加え、この度の修士論文に関するテーマ補強とその発展を願っているからでもある。(このブログ書きも、経験と思考の整理を目的としている。)
今年3月23日の東京での学位授与式に、義母から譲られた色無地の和装で出席した写真数枚を、休憩時間にその遺族役員さんに見せたところ、「喜んではるわぁ」と言われた。そして、藤原市長様から任命された「伊丹市保健医療推進協議会」(参照:2024年2月29日付「伊丹市保健医療推進協議会」
(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=6638&action))の任期2年の委員についても、「すっかり伊丹の人ね」と。
誰が「喜んでいる」のか?義母を含めているかもしれないが、恐らく主人を指しているのだろう。結婚してから26年以上の月日に、私がしてきたこと、今していること、今後する予定である事柄全ては、出会った初日から主人が全面的に賛成し応援し、いつでも励ましてくれたことであり、今でも主人が喜びそうなことの路線上にある。何事もそれに沿うことは、私にとって最も無理なく自然であり、社会倫理上も経済的にも安全だからだ。
「介護が終わったから、これからは私の人生よ!」と、リベラル左派の『朝日新聞』や『毎日新聞』の家庭欄や『婦人公論』等が、軽薄にも勇ましく掲載し続けているが、こんな「女の(身勝手な)生き方推進プロパガンダ」は真っ平ご免である。逆に「今後は、ゆったり楽しく好きなことをすればいい」という、ありがたくも傍迷惑な助言は、これまた私に合わない。
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遺族役員さんに尋ねられた主人の母については、卒寿を超えているが長らく寝たきり。昨日はちょうど母の日だったので、3月14日に郵便局のカタログからお花を送っておいた。義母には、年に5回(誕生日、母の日、お中元、敬老の日、お歳暮)と、ちょうど2ヶ月おきぐらいに、カタログを通してプレゼントを送っている。
但し、義兄の起こした連続トラブルと振舞い(事実無根の嘘ばかりの反論書)を理由に、2020年7月30日に調停が開かれた大阪家庭裁判所から、私は今後一切、義母の面倒をみる必要はない、と法的効力を持つ文書にまとめられている。従って、誰からも私の生き方に関して疑義を問われることはない。
こんなことを書き記すのも、男女問わず、(PDや認知症等を含む)神経変性疾患や脳梗塞や精神病等、脳の病気だとされている患者を取り巻く人間関係について、不当に貶められ、一方的に負担をかけられている人々に対する何等かの助けになればと願っているからである。
幸いなことに、ここ2,3年の間に、地域医療を担っている神経内科の専門で先進的あるいは献身的なお医者さんの中には、ただ患者のみを診るだけでは終わらなくなってきた、という方も現れている。そして、日常的に世話をしている配偶者すなわち「介護者」(‘caregiver’の直訳語)の対応に問題があれば、厳しく注意をされるようにもなっている、とご自分でおっしゃっている。あるいは、遠方から突然やって来る「患者よりも困った家族(特に「東京娘」)」についても、はっきりと具体的に言及され、時には叱責もされるらしい。さらに、十人十色であるケアマネの資質についても、現場評価が最も重視され、医療福祉の会議等で噂となって広まるという、(私にとっては誠に)好循環が芽生えているようである。
つまるところ、細かな法的問題を整え、社会全体で患者負担を担っていくという社会主義的な手法が20年以上経ってほぼ定着した昨今、やはり結局は、原点である人間の習性に回帰して闘病経過が決まっていくという、ある意味では常識的なところに集約されつつあるか、ということである。
うちの主人は、最期は人が変わったように精神症状で滅茶苦茶になった。しかも義兄のせいで、患者本人の人的評価まで「厄介な人」扱いにされてしまっていた。
居たたまれなくなった私が主人の来歴を手短かに伝えると、入院していた療養型病院の主治医が「そんなに‘レベルの高い’患者だったんですか?」と仰天。そして、「では、自分の手には負えないから、もっと‘優秀な先生’のいる病院に転院させる」とおっしゃった。
ただ、当時はコロナ問題が緊張のピークだった2020年3月であり、病院の手続きそのものを新しく繰り返すのも過重負担だったため、患者会の上記の遺族役員さんと電話相談の上、私自身がこれ以上の転院を断った。(昨今では「介護者が倒れたら、みんなが困る」を合言葉に、不治の患者よりも(一応は健康な)介護者を重視する、換言すれば「命のトリアージ」の傾向がある。)
ところで、今年1月8日に行われた東京での修論口頭試問では、プログラム長である副査の教授(その時、私が初めて知ったことには、教授自ら「実は神経内科医」だと言われた!)が「我々神経内科医は、家族も見ています」とおっしゃった。
しかし、どこまで家族問題に踏み込めるかはケースバイケース。熟練した医師でなければ、逆に患者家族から訴えられかねない。また、我が家の事例のように、若い医師は、患者以前にパソコン画面を見ている傾向がある。あるいは、患者を診ているつもりでも、付き添い家族とは目も合わせないケースがある。パソコンへの入力内容も、果たしてどこまで正確なのか、私は相当に疑っている。(そのことも、電子カルテと書類のコピーを貼り付けた健康ノートを証拠に、我が家の誤記内容と医事課への苦情申し出を、修論に具体的に書いておいた。)
それを踏まえた上でなおかつ、自分自身の経験に基づく私見では、無茶で非常識な患者家族や親族から医療福祉関係者を守る法的措置を整えた上で(実際には、病院や医師を守る立場にある医療弁護士が存在するはずだ)、やはり、社会的専門的権威をフルに行使して、馬鹿げた非常識な家族については、医師がはっきりと社会医療上の警告をすべきだろうと思っている。その方が、無暗な問題の拡大を防止できる可能性もあるからだ。そのために、メディアや学校や大学は、憲法の個人の権利ばかり主張せず、民法の義務行使もドッキングさせて、国民としての一般教育に努めるべきであろう。そして、違反した場合の罰則も定めておくべきだ。それが抑止剤にもなろう。
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さて、講演の後、質疑応答の三番目に挙手して私が質問した事柄は、若年性PD患者についてであった。
問い:「ありがとうございます。私の夫は38歳で若年性PDの診断を受け、4年前に亡くなりました。最近では、この患者会でも若年性患者が増えていると聞きます。先生は、その原因を何だとお考えでしょうか?」
私が質問することについては、事前に上述の遺族役員さんにも了承を得ておいた。その方が何かとスムーズに運ぶ。PD患者がいなくなった今や、自分が馴染んでいた元の日本社会の通念実践(根回し)が取り戻せているか(と思う。)個人差があるとはいえ、PD患者には概して、発言にも思考にも行動にも、突発的な突進状況が時折、観察される。我が家の夫も、今振り返ると、(結構、大胆だったな)と思う面がなきにしもあらずだ。とりあえず、私に関しては問題なく済ませられた点、感謝以外の何物でもない。
そして、話は前後するが、終了後の挨拶で、その遺族役員さんが「いい質問だった。聞いてくれてよかった」と褒めてくださった。(やはり、放送大学大学院から修士号を授与された経緯が効力を発したと、私は思う。)
ところが、講師の応答は、私にとっては古臭く定型的で、あまり発展性がないと感じられた。(ここでも、修論作成のプロセスがモノをいう。)それ以上に、そのような答えでは、参加している患者と患者家族を心理的袋小路に追い詰めるようなものでさえある。(ここは学会じゃないんですから、気をつけてくださいね、先生!)
答え:PD罹患率を調べた2015年のノルウェーの論文を引き合いに一言、「若年性は遺伝的原因ですね」。
私に言わせれば、「それは古い回答だ」。
第一に、海外論文の引用に関しては、果たしてどこまで日本人の体質や病態に合致するかの充分な検討なしに、簡単には適用できないはずである(グローバル基準の弊害)。
第二に、随分昔、順天堂大学の水野美邦先生や服部信孝先生らが精力的に研究されていた遺伝性PDは、結果的に主に家族性発症の場合を指すとされた。家族歴のない孤発性の若年PD発症は、恐らく(未確定の)幾つかの環境要因が複合的に重なっているのではないか。
以上の二つの理由は、私が勝手に考えているのではない。阪大医学部名誉教授で、主人が最後まで最も信頼していた阪大病院の外来主治医の佐古田三郎先生も、2023年2月に開催された神戸での講演会で、私の質問に対しておっしゃっていた回答である。
患者会なので、そこでは「ありがとうございます」と、私はあっさり引き下がった。
帰りがけに、偶然にも講師の先生とエレベーターで一緒になってしまった。愛嬌のある若い眼鏡のお兄ちゃん先生、といった感じで、今でもインターンとして充分に通りそうな風貌である。そこで念押し気味に、私の方から「先生、先程はありがとうございました。やはり、若年性は遺伝が原因ですか?環境要因ではなくて?」と尋ねてみたところ、キョトンとしたように、それでも「遺伝でしょうねぇ」と一言。そして、ペコリと頭を下げて、そそくさと出て行かれてしまった。
何か先生、どこかにやましいものでもあるのでは?
2022年5月に若年患者の夫を持つ奥さんの話を聞いて以来、私はどうしても北野病院にいい印象を持てない。後半期の外来女性主治医は問題外としても、我が家は阪大病院でよかった….。
講演内容については、項を改めて後に記す。
(2024年5月13日記・2024年5月14日部分加筆修正)
……….
2024年5月16日追記1:
恐らく、新入会員以外の総会出席者は、上記の私の見解に同意されることだろう。
その理由は、年4回程発行される『全国パーキンソン病友の会会報 大阪府支部だより「きずな」』No.126(2023年9月)にある。
お名前は伏せるが、病歴27年の若年性PD患者で50代前半の女性に関する記事が掲載されていた(p.26)。
彼女には御主人と娘さんとお父様が一人ずつ、妹さんが二人の家族構成。大変に前向きな性格らしく、病歴経験を振り返りながら『パンダ通信』(第一号のみ)を発行された。自ら患者会に応募されたので、若年患者の参考になればと、会報の1ページを使って紹介されていたのだ。
記述は、よく調べた上で簡潔にまとめられている。私には正確な内容だと感じられる。
*****
【若年性パーキンソン病】
・現在1000人に一人、65歳以上では100人に一人が発症。
・PD患者全体の10%程度は40歳以下で発症。
・親からの遺伝性(家族性)は5%程度で、遺伝子異常が原因。
・若年性は、一般的に進行が緩やかな特徴がある。
*****
そして、「進行は20~30年、50年以上かけてゆっくりと進行する」と付記されていた。50年以上というのは初耳だが、30年以上の病歴という記録は、本邦の古い論文にも記されていたので、私でも知っている。その場合、患者の身体的心理的精神的および社会的苦痛と不安、長引く介護をする家族への充分な配慮と経済面の支援の両方が必須であろう。
ともかく、若年性PDはPD患者数全体の1割しか存在せず、その中の5%のみが家族性つまり遺伝子原因のPD発症である。これは、私の理解とほぼ一致する。
先生、おわかりでしょうか?
彼女はこの度、DBS(深部脳刺激療法)の手術をされたそうだ。だからこそ、いそいそと『パンダ通信』を発行する決心に至ったのであろう。
実は我が家も一度、女性主治医からDBSを勧められたことがある。いつもは本を見ながら、おずおずとした様子で「診察」されていたのに、その時になって突然、生き生きと語り始めた姿が印象的だった。まるで、「(待ちに待った)研究データがこれで一つ増える!」と期待していたかのように、である。しかも「皆さんやっていますよ」と、単純にプラス面のみ強調していた。さっさと診察室の机上の電話を取り、職員に連絡までされたスピードの速かったこと、速かったこと。今思い出しても恐れ入る。
だからこそ、私は不信感がますます募ったのである。その後の説明会では「阪大ではなく大阪市立大」が手術を担当されるとのことで、主人も私も挙手して、それぞれに質問をした。その結果、主人自身が「頭に穴を開けてまで手術をして、会社なんかには行けない」と拒否した。私も、無理な細工を施して悪化した場合の責任は一体誰にあるのか等と考えて、結局は辞退した。
電子カルテには、我々夫婦が共にDBSを拒否した、と簡潔に記されていたのみだった。た、我々が拒否した理由さえ問われたことはない。
2022年の春から2年間かけて、修論作成のためにDBSに関する神経内科学会の論文を集めていたところ、愛知県の大学病院の先生が、「手術のメリットとデメリットの両方を患者の納得のいくまで説明しなければならない」「安易にDBSを勧め過ぎている医師や病院が存在することの危惧と懸念」を滔々と綴っていらしたのを発見した。DBSの結果、自殺者が出た事例もあり、精神症状がむしろ悪化した事例が少なくない、とのことだったからである。
手術は体のどの部位であっても恐ろしいものだ。脳内ならば、なおさらである。やはり辞退して正解だったと思った。
女性主治医は、いつでもメモを用意して診察室に一緒に付き添っていた私と滅多に目を合わせようとせず、従って、患者本人が自分では気づいていない日常的な衝動制御障害について、私からの話を聞こうとせず、安易に受け流して同じ薬を投与し続けた。そんな医師が、やたら生き生きと一方的に夢を持たせるような手術を勧めるなんて、と今でも腹立たしく思うところである。(その点も、修論で触れておいた。)
PDに関しては、メディア報道と医学上の国際競争もあるために、やたら肯定的な側面ばかりを前面に出した「治療法」を喧伝しがちである。遺伝子治療しかり、iPS細胞しかり、疾患修飾薬しかり、である。苦痛から逃れたい一心で、少しでも新薬や新しい治療法(といっても完治は見込めない)を耳にすると、患者はすぐに飛びつく。情報に接するだけでも、あたかも治るかのような期待と夢を過大に抱いてしまうのだ。
外来診察でも「先生、どうにかなりませんか?」と問う患者が少なくないそうだ。中には、最新の海外論文を持参して、外来担当主治医と1時間も討論までする患者がいるそうだ。その場合、多忙な医師の負担や他の患者への迷惑を全く顧みる余裕さえないようである。こういう「場違いな前向き」患者を会報に掲載してしまう患者会にも、問題がある(が、今までのところ、私以外、不満の声を上げた人は皆無のようである。)
私に言わせれば、患者適用まで相当に時間がかかり、新たな副作用も懸念され、単なる生命時間の引き延ばし術に過ぎないものを「治療法」と名付けているのは、罪悪でさえある。
もっと確実な方法は、出来る限りPD薬の量を安易に増やさない期間を少しでも延長する工夫をすることだ。また、よく体を動かし、お菓子や片寄った食材を減らして、玄米食や野菜果物等を増やすようにし、充分な睡眠を確保することで、進行を緩やかに、遅くする。そういうことに専念した方が、余程かましである。そして、生き長らえて何をすべきなのか、よく考えることである。
(2024年5月16日記)
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2024年5月16日追記2:
今年の4月からは放送大学教養部の計6科目を受講しているが、その中の1科目である2021年開講の「疾病の回復を促進する薬」講座には、計3課分をPD研究専門で高名な順天堂大学大学院教授の服部信孝先生が担当されている。精神疾患(鬱病・躁鬱病・統合失調症・てんかん等)と神経変性疾患(パーキンソン病・認知症)のような末梢神経や中枢神経に作用する薬と副作用について、大変詳しく、印刷教材(「テキスト」と先生は仰っている)を読み上げる形式ではなく、聞き手の若くて綺麗で意欲的な女性との当意即妙のアドリブを加えて説明されている。
(2022年7月下旬に東京で開催された第4回PDコングレスにて、初めて私は服部信孝先生にお目にかかった。前日までの数日間、神経内科学の学会があった後だそうで、ラフなシャツ姿で、壇上にて挨拶と司会のようなことをされていた。「ここからコロナを一人も出さないようにしよう」とリーダー格のお医者様らしく宣言されていたことと、若年発症でPD歴37年の車椅子の首下がり男性患者に対して、親しみを込めて何かにこやかに話しかけていらした姿が印象的だった。勿論、修論のために服部先生らがその昔、厚生労働省に提出された研究論文や医学講演等の文献は、相当数、集めて読み込んだ。順天堂大学の先生方は恐れ入る程、こちらが知りたいと願っていた事柄に関して、おさおさ怠りなく隈なく調べ上げて論文に言及されている点、あっぱれといった感じだった。ちなみに、『国民のための名医ランキング』という本には、毎回連続して神経内科学の名医として服部信孝先生が掲載されている。)
さて、その講義の中で、先生は「若年性PD」を「20歳前後」と明言されていた!人生100年時代と言われる現代を踏まえて、「80年も薬を飲み続けなければならない」と。
本邦の振戦麻痺患者(現在の診断基準によれば、必ずしもPDとは限らない)には、6歳や10代、20代の人が含まれていた古い論文を私も入手している。従って、服部先生の「20歳前後で発症するPD患者」言及そのものには全く問題はない。但し、100歳まで生きるPD患者が本当に存在し得るかどうかは、かなり怪しい。
(2024年5月16日記)