2年前には、2022年5月5日「長寿考-卒寿と白寿と」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=2551&action)というブログを書いた。この時には、2021年4月29日の初回に引き続き、私共の挙式会場であった京都の下鴨神社にある糺の森での二度目の植樹祭のことを記した。
昨年は主人の「四年祭」に相当したが、神道では何もしないのが通例。ちょうど大学院修士課程の2年目に入った頃で、毎月のゼミ発表もいよいよ山場を迎える時期だったため、見送った。いろいろな用事もたまっており、その疲れもあって、休んだことは正解だったと今でも思う。
今年の4月29日には、三度目の植樹祭に参加した。ちょうど主人の五年祭を4月7日に自宅で行ったばかりである。伊丹市内でずっとお世話になっている天満宮の宮司様をお招きして、ごく簡素ではあるものの最低限のことはできたと思っている。
そのことと兼ね合わせて、今回の献木でも、従来と同じく桂の木を一本植えた。一度目と二度目は15万円だったが、今年は20万円である。
第一回目の時はまだコロナ問題が緊張感を帯びており、京都市内も殆ど人出がなく、タクシーの運転手さんも「商売あがったり」で元気がなかった。その代わり、実にスムーズに現地に到着できた。コロナを理由に式典はなく、参加者が順にスコップで苗木に土をかけて終わった。参加の御礼として、鉢植えの黄色いカランコエをいただいた。
第二回目の時は大雨で、式典はあったものの参加者は少なめだった。冒頭のブログで記した通り、裏千家の「鵬雲斎御家元」とお呼びしていた大宗匠様が直接、献木者の名前を順に読み上げられ、じっと見つめられた私もその中に含まれていた。参加の御礼には、鉢植えの赤いカランコエをいただいた。
二つのカランコエは、今もベランダですくすく育っている。一時期、うっかり放置したままだったところ、花も枯れ、赤茶けて萎びた茎と葉しかなくなってしまった。その後は毎朝、祭壇の御神酒を替える時に、榊の前に置いた水を鉢植えにかけ続けたところ、今では生き生きと、彩りよく見事な黄色と赤の花を咲かせている。きちんと手入れをすれば、それなりに長持ちするものだ。
今年は、曇天。これがちょうど適切だったようで、式典も滞りなく行われた。糺の森保存会の理事長を務めていらっしゃる千玄室氏こと鵬雲斎大宗匠様は、今年で101歳を超えられ、さすがに腰が傾き、首も前下がり気味になられた。だが、今でも前に立ってのご挨拶は、大きな声でフレッシュな内容を語られた。このお元気さにはびっくり。理事長としての責任感と、戦前の軍事鍛錬の賜物であろうか。
今回は、神職の方が祭壇で、献木者34名の住所(居住地の県と市のみ)と氏名を祝詞の節をつけて読み上げられた中、私も8番目に含まれた。スコップで一人ずつ土をかけに行く時、またもや鵬雲斎大宗匠様にじっと見つめられたが、一昨年と同様、本当に不思議な気がする。千利休から数えて15代目の裏千家御家元という京都でも名高く高貴な家柄の方に、何も肩書もない私が名前を呼ばれて、しっかりと見つめられたのだ。名古屋で裏千家のお茶を習っていた結婚前には、雲の上の方とご面会の機会があるはずもないと信じ込んでいた私だったのに、である。
国民民主党の前原誠司氏と自民党の伊吹文明氏から、この植樹祭典のために祝電を頂戴しているとのご挨拶もあった。
今年は、カランコエはないとのことで、代わりにベゴニアの鉢植えをいただいた。ところが、その後、歩き回っているうちに、どこでも花びらがあちこちに散って落ちてしまったのは残念だった。カランコエなら、そういうことはなかったはずだ。
一時間程で式典と土掛け記念撮影は終了。
その後、自分が以前植えた桂の木の二本は、どこにあるのだろうか、どの程度成長したのだろうか、と思いながら歩いてみた。会場近くの「あけ橋」の標識に目をやり、何とはなしにその近辺へ近寄ってみたところ、なんと、あったではないか!まだ背丈は高くはなく、どちらかと言えばひょろっとした感じではあったものの、確かに私の名前が書かれた白いプレートを掛けた「桂の木」が一本、植え替えてあったのだ!
写真を撮った後、(あと一本はどこだろうか?)と探し回りながら歩いていると、シャベル入りのベゴニア鉢植えをぶら下げていたせいか、たまたま出くわした園芸係の男性が親切に説明してくれた。桂の木を集団で移植した場所は、地図では本殿方面の北にある、という。社務所に行けば、毎年、献木者の名前を場所毎に記した地図が作成されているので、一枚もらって探せば見つかるだろう、とのことだった。
(2024年5月2日記)
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2024年5月6日追記:
上記の4月29日には、糺の森の植樹祭の時、千玄室理事長と宮司様からうかがった話には、「しっかりと根を張ること」「根っこが大切であること」「種子根で立派に生きる」という言葉が含まれていた。
自分なりに応用的に考えてみると、それは自分の家系ルーツ(血縁)をしっかりと把握しておくこと、自分が暮らしてきた/暮らしている土地の来歴(地縁)をきちんと理解すること、自分の過去履歴を整理しておくこと、毎日の食事と睡眠と運動という生活習慣に加え、掃除、整理整頓、清潔、衛生等、目に見えないものを整えておくことか、と思われる。そして、自分が属する国柄についても現状のみならず、過去を踏まえた上で直視する勇気をもつことではないだろうか。
植樹祭の祭事そのものは20分程で終わり、スコップシャベルで土掛けと写真撮影が済むと、11時には式典全体が終わった。
その後は、双葉葵のお菓子をいただいて休息。しばらくは境内の中をぶらぶらと散策してみた。
伊丹の小西家による清酒「白雪」が奉納されているのを確認したり、本殿の四言語(英語・簡体字・繁体字・ハングル)による参拝手順の説明看板をメモしたりした。「神」はGodではなく「Kami」とされていた点、さすがに昭和時代とは異なると感じた。
そして、鴨長明ゆかりの河合神社には12時42分から1時2分まで。十数年も前に主人と見た鴨長明の再現住居は移転されているとのことで、二度目の資料館を覗いてみた。『方丈記』の江戸時代の写本数種は、5年目に入った伊丹での古文書クラスおよび今年1月から受講を始めた通信講座のおかげで、何とか少しでも読めるようになったのは、我ながら前進だ。意味がわかってくると、確かにおもしろい。
続いて、糺の森を南下した境内の先にあった秀穂舎資料館へ。
平成28年(2016年)10月1日に開かれた資料館だが、確か主人が入院中だった2020年3月中旬にも来ていたかと記憶する。その時には、中年女性のガイドだったが、時間が押していたので、あまり詳しくは覚えていない。その後は、いつでも時間切れで、なかなか中には入れなかった。今回は、1時9分から2時6分と、ほぼ1時間の閲覧が可能になり、しかも丁重なボランティアガイド氏の親切な解説付きでもあった。
案内ガイド氏の説明から学んだことのメモ箇条書きを。
・下鴨神社には340軒の社家があり、それぞれの職分を担っていたが、明治期に入って閉鎖された。
・今では、浅田家(五位)と鴨脚(いちょう)家の二軒のみ残ったが、前者が資料館となり、後者は現在もお住まいである。
・浅田家は賀茂社の画工司で、絵と文字の記録係であった。
・伊勢の神宮の遷宮と異なり、下鴨神社の遷宮は修理のみである。
・この浅田家には、かつて京都市長が住んだこともある。
・玄関先の石人文官の石柱は、朝鮮半島由来である。
・華表門(かひょうもん)は、鳥居の型である。
・玄関入口にある歳木(としぎ)は、「たもらぎ」ともいう。竹で48本編み、門松に近い。
・玄関には武器と蓑笠が掛けてあった。
・御井戸(みいど)は、神水を汲むためのものである。
・待合は、荷物持ちの付き人が御主人の出勤前、待機する場所であり、煙草入れも置いてある。
・玄関の黒い靴は儀式用、白い革靴は雪の時に用いる。
・庭の双葉葵は繊細で育てにくく、枯れないよう大切にしなければならない。
・庭の中には、泉川から御手洗
・下鴨神社は通称であり、賀茂御祖神社とは、おじいさまとお母様をお祀りしている意味。
1時35分にガイドが終わると、残りの25分程、一人で古文書や屏風絵が並べてあった二部屋を閲覧。
・東遊歌:東向きの歌舞で、御神霊を慰める芸能を「あそび」と称した。
・『御堂関白道長公記』『関白賀茂詣絵巻』『小右記』
・葵祭の起源は、『山背国風土記』によると、欽明天皇5年(544年)の不作と疫病は賀茂大神の祟りではないかとのことから。
・賀茂の斎王制度は、薬子の変に始まる。
・式子内親王(1149-1201年)
続いて、すぐ近くに旧三井邸があったので、2時7分から2時44分まで閲覧させていただいた。非公開文化財の行事でよくリストに載っていたが、今までは、ここだけのためには来られなかった。小雨が降りかけていたが、ちょうどタイミングが合い、静かでしっとりと落ち着いた素晴らしい庭園やお住まいを見せていただけた。記念に葉書も買い求めた。
この邸宅は、三井家が下鴨神社に参拝する際に利用したものらしい。また、三井家が代々心得としていた商業倫理を書き記した古文書も展示されており、信用第一、顧客を大切に、金銭は正確に大切に用いること、という原則を守り通すことが、今も昔も繁栄の基のようである。
その後は10分程、近くの公園で下鴨神社境内と近辺の説明板の部分写真を撮って、半日の復習をした。
京阪の出町柳駅から祇園四条駅まで特急電車で。
四条の南座近辺には、外国人観光客がたくさんひしめいていた。四条大橋と五条近辺は、京都でも最も嫌な場所である。
特に、観光用に崩した下品なケバケバしい着物もどきを、まるで大見栄を切っているかのように胸を反らして堂々と歩いている白人女性や中国人等が、不愉快で仕方がなかった。なんと、最近では白いフリルのレースを襟元からのぞかせるおかしな姿が増えていた。
いくら自分ではキモノを着ているつもりでも、ごく普通の日本育ちの我々日本人の目には、態度や物腰からおかしさがすぐにわかってしまう。洋服とは違い、普段の日常生活習慣や内面から滲み出るものがそのまま表出されてしまうのが、着物。「ここはどこの国なんだ?」と思わせてしまう。
後日、呉服屋さんでその話をすると、やはり業界でも嫌がられているようで、四条の老舗の呉服屋さんは口を閉ざして付き合わないようにしている、とのこと。
ところで、南座の歌舞伎は一度も見たことがないし、今後も見ることは決してないだろう。テレビで昔放映されていたのを見た限りでは、お能はいいが、歌舞伎はどうも相性が合わない。
1998年頃、関西の地理を覚えようと思って、手当たり次第に集めた本の中には、「歌舞伎とは「かぶく」を意味しており、被差別部落の人々が生業としていたものである」云々と書かれてあった。今回驚いたことには、「出雲の阿国」は「出自未詳ではあるものの、出雲大社の巫女である」らしい、という説明書きが川べりに提示されていた。
一体、どちらが事実なのだろうか?
(2024年5月6日記)
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2024年8月22日追記:
(https://www.chichi.co.jp/web/20230419_senn/)
【101歳】裸足になってひたすら前進を続けよ——茶道裏千家前家元・千玄室が悲哀の中で掴み取ったもの
2024年7月30日
茶道裏千家前家元の千玄室さん。101歳となったいまなお茶の道を究める一方、「一碗からピースフルネス」を志として半世紀以上、国内外に和の心を伝え続ける原点には、過酷な戦争体験、肉親の死など、数々の困難があったといいます。そんな千さんの半生に迫るエピソードをご紹介いたします。※対談のお相手は、宗教学者の山折哲雄さんです。
毎日死ぬことばかり考えていた
〈千〉
戦争中は、自分がいつ死ぬか分からないという思いで生きてきたわけですが、大事な家族を失うのはまた違う辛さがあります。10年前に家内、7年ほど前に二男に相次いで先立たれましてね。この時は特攻で死ぬこと以上に辛うございました。
家内が亡くなった後、無常観と申しますか、半泣きになりながら毎朝の散歩を続けているような状態でございました。過ぎ去りし家内との思い出の中に入り込んでいる自分の姿がよく分かるのですね。けれども、どうしても切り捨てることができない。
「おまえは一体何なのだ。戦争で死に損ない、大徳寺で瑞巖老師に学び、半世紀以上お茶の心を海外に伝えてきたのは一体何だったのか」と。
毎日、毎日死ぬことばかりを考えておりました。すると顔に死相が出てくるのですね。ある時、当時小学生だった孫娘が「お祖父ちゃま、どうしてそんな顔しているの」。そう言われてハッとしました。鏡を見たらなんとも情けない顔なのですね。「こりゃあかん。もう一度、立ち直らなくては」と。
ちょうど海外普及も50周年の節目を迎え、家内が「これからは好きな茶の道をされてはどうですか」と言ってくれたのを思い出しましてね。長男に家元を譲る決意をしたのです。
裸足になってひたすら前進を続けよ
〈千〉
そうしてだんだん立ち上がったところに、今度は二男が病に倒れてしまいました。見舞いに行くと、私の手を握って「僕はもう駄目かもしれない。兄さんが16代を継いでくれるのを見届けたかった」と申しまして……。
〈山折〉
そうでしたか。
〈千〉
長男が家元を継承するのを見届けたように、二男は亡くなって、私もまたどん底に突き落とされた気持ちでございました。
しかし、家元の重責に前向きに立ち向かっている長男の顔を見たら「ここで自分が負けてはいかん」と心を奮い立たせました。人間再生です。
山折先生ね、瑞巖老師から私が最後にいただいた公案(禅の師匠から与えられる課題)が「破草鞋(はそうあい)」、破れ草鞋だったのですよ。
最初に老師に「はそうあい」と言われた時は、何のことだかさっぱり分からなかった。お伺いするわけにもいかないし坐禅をやっていても浮かばないのですね。
ある時、玄関の入り口に掛けていた托鉢用の編み笠と草鞋を見た時、ハッと思ったのですね。「そうや、草鞋のことや」と。
しかしそれでも破れ草鞋がどういうことかがまた分からないのです。
〈山折〉
答えは見つかりましたか。
〈千〉
それが、最近ようやく分かりました。破れ草鞋は何も役に立ちません。自分の草鞋が破れている。それすら忘れて、裸足になってひたすら前進を続けよと。いつまでもうつむいていないで前進を続けよと。この年になって一つの疑問が解けてきました。
これがいまの私の心境です。
〈山折〉
なるほど。お話を伺っておりまして、私のような門外漢から見ましても、それは実に見事な引退、そして新たな再生という人生の区切りではなかったかと拝察いたします。
おそらく気力、体力ともに充実していらしたはずです。その段階で身を引くのは、よほどの決意がないとできないことだと思います。
そして家元を譲られることで、また大きな心境を開かれたのですね。
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(本記事は月刊『致知』2010年1月号 特集「人生信條」より一部抜粋したものです)
(転載終)
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2025年3月27日追記:
致知出版社の人間力メルマガ 2025.1.18
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茶道裏千家前家元の千玄室氏は2023年、100歳を迎えられました。70年以上、国内外で茶道の普及を続けるその精進努力には、いささかの衰えもありません。
長きに渡り世の中を見てきた千氏に、現代社会はどのように映っているのでしょうか。艱難辛苦が続く社会を生き抜くために大切なことを独自の観点で語っていただきました。(月刊『致知』2020年4月号より抜粋)
(千玄室)
私たちの人生は、いつ何時、どんなことが起きるか分かりません。今朝の新聞を見ておりましたら、本年中というわけではありませんが、南海トラフの大地震で最高36メートルの津波が来ると書かれてありました。
東北のほうでは東日本大震災の苦しみから立ち上がるべく、たくさんの人たちがいまも頑張っておられます。私も現地に行きまして、被災者の方とお目に掛かってお話をさせていただいたり、お茶を差し上げたりしました。
あるお婆さんにお茶を差し上げた時、「ああ、このお茶がいただけてよかったな。私はお茶のことは知らんけど、この点ててもろうたお茶が、どんなに心を癒やしてくれたことか」としみじみ、そうおっしゃいました。
それを伺った時に私は
「たった一碗のお茶でも、こんなに役に立つのだな。ありがたいな。もっともっと多くの方にこの一碗のお茶を飲んでいただいて、皆さんが少しでも苦しみ、悲しみから逃れられるようにしなければいけない」
と自分に言い聞かせたものです。
大切なのは、苦しみの多い人生であったとしても、そういう思いやりの気持ちを失わないで、他の人に対して手を差し伸べていくことではないかと思うのです。
自分の手を使って他の人のために少しでも何かをして差し上げる、その喜びが自分に返ってくる。その時に人生の本当の幸せを感じられるのではないでしょうか。
「ありがたいな、もったいないな」という気持ちを一人でも二人でも三人でも多くの人が持っていただけたら、平和という言葉を使わなくても本当に落ち着いた世の中になっていくのではないでしょうか。
(2025年3月27日転載終)