植樹祭に三度目の献木

2年前には、2022年5月5日「長寿考-卒寿と白寿と」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=2551&action)というブログを書いた。この時には、2021年4月29日の初回に引き続き、私共の挙式会場であった京都の下鴨神社にある糺の森での二度目の植樹祭のことを記した。

昨年は主人の「四年祭」に相当したが、神道では何もしないのが通例。ちょうど大学院修士課程の2年目に入った頃で、毎月のゼミ発表もいよいよ山場を迎える時期だったため、見送った。いろいろな用事もたまっており、その疲れもあって、休んだことは正解だったと今でも思う。

今年の4月29日には、三度目の植樹祭に参加した。ちょうど主人の五年祭を4月7日に自宅で行ったばかりである。伊丹市内でずっとお世話になっている天満宮の宮司様をお招きして、ごく簡素ではあるものの最低限のことはできたと思っている。

そのことと兼ね合わせて、今回の献木でも、従来と同じく桂の木を一本植えた。一度目と二度目は15万円だったが、今年は20万円である。

第一回目の時はまだコロナ問題が緊張感を帯びており、京都市内も殆ど人出がなく、タクシーの運転手さんも「商売あがったり」で元気がなかった。その代わり、実にスムーズに現地に到着できた。コロナを理由に式典はなく、参加者が順にスコップで苗木に土をかけて終わった。参加の御礼として、鉢植えの黄色いカランコエをいただいた。

第二回目の時は大雨で、式典はあったものの参加者は少なめだった。冒頭のブログで記した通り、裏千家の「鵬雲斎御家元」とお呼びしていた大宗匠様が直接、献木者の名前を順に読み上げられ、じっと見つめられた私もその中に含まれていた。参加の御礼には、鉢植えの赤いカランコエをいただいた。

二つのカランコエは、今もベランダですくすく育っている。一時期、うっかり放置したままだったところ、花も枯れ、赤茶けて萎びた茎と葉しかなくなってしまった。その後は毎朝、祭壇の御神酒を替える時に、榊の前に置いた水を鉢植えにかけ続けたところ、今では生き生きと、彩りよく見事な黄色と赤の花を咲かせている。きちんと手入れをすれば、それなりに長持ちするものだ。

今年は、曇天。これがちょうど適切だったようで、式典も滞りなく行われた。糺の森保存会の理事長を務めていらっしゃる千玄室氏こと鵬雲斎大宗匠様は、今年で101歳を超えられ、さすがに腰が傾き、首も前下がり気味になられた。だが、今でも前に立ってのご挨拶は、大きな声でフレッシュな内容を語られた。このお元気さにはびっくり。理事長としての責任感と、戦前の軍事鍛錬の賜物であろうか。

今回は、神職の方が祭壇で、献木者34名の住所(居住地の県と市のみ)と氏名を祝詞の節をつけて読み上げられた中、私も8番目に含まれた。スコップで一人ずつ土をかけに行く時、またもや鵬雲斎大宗匠様にじっと見つめられたが、一昨年と同様、本当に不思議な気がする。千利休から数えて15代目の裏千家御家元という京都でも名高く高貴な家柄の方に、何も肩書もない私が名前を呼ばれて、しっかりと見つめられたのだ。名古屋で裏千家のお茶を習っていた結婚前には、雲の上の方とご面会の機会があるはずもないと信じ込んでいた私だったのに、である。

国民民主党の前原誠司氏と自民党の伊吹文明氏から、この植樹祭典のために祝電を頂戴しているとのご挨拶もあった。

今年は、カランコエはないとのことで、代わりにベゴニアの鉢植えをいただいた。ところが、その後、歩き回っているうちに、どこでも花びらがあちこちに散って落ちてしまったのは残念だった。カランコエなら、そういうことはなかったはずだ。

一時間程で式典と土掛け記念撮影は終了。

その後、自分が以前植えた桂の木の二本は、どこにあるのだろうか、どの程度成長したのだろうか、と思いながら歩いてみた。会場近くの「あけ橋」の標識に目をやり、何とはなしにその近辺へ近寄ってみたところ、なんと、あったではないか!まだ背丈は高くはなく、どちらかと言えばひょろっとした感じではあったものの、確かに私の名前が書かれた白いプレートを掛けた「桂の木」が一本、植え替えてあったのだ!

写真を撮った後、(あと一本はどこだろうか?)と探し回りながら歩いていると、シャベル入りのベゴニア鉢植えをぶら下げていたせいか、たまたま出くわした園芸係の男性が親切に説明してくれた。桂の木を集団で移植した場所は、地図では本殿方面の北にある、という。社務所に行けば、毎年、献木者の名前を場所毎に記した地図が作成されているので、一枚もらって探せば見つかるだろう、とのことだった。

(2024年5月2日記)
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2024年5月6日追記

上記の4月29日には、糺の森の植樹祭の時、千玄室理事長と宮司様からうかがった話には、「しっかりと根を張ること」「根っこが大切であること」「種子根で立派に生きる」という言葉が含まれていた。

自分なりに応用的に考えてみると、それは自分の家系ルーツ(血縁)をしっかりと把握しておくこと、自分が暮らしてきた/暮らしている土地の来歴(地縁)をきちんと理解すること、自分の過去履歴を整理しておくこと、毎日の食事と睡眠と運動という生活習慣に加え、掃除、整理整頓、清潔、衛生等、目に見えないものを整えておくことか、と思われる。そして、自分が属する国柄についても現状のみならず、過去を踏まえた上で直視する勇気をもつことではないだろうか。

植樹祭の祭事そのものは20分程で終わり、スコップシャベルで土掛けと写真撮影が済むと、11時には式典全体が終わった。

その後は、双葉葵のお菓子をいただいて休息。しばらくは境内の中をぶらぶらと散策してみた。

伊丹の小西家による清酒「白雪」が奉納されているのを確認したり、本殿の四言語(英語・簡体字・繁体字・ハングル)による参拝手順の説明看板をメモしたりした。「神」はGodではなく「Kami」とされていた点、さすがに昭和時代とは異なると感じた。

そして、鴨長明ゆかりの河合神社には12時42分から1時2分まで。十数年も前に主人と見た鴨長明の再現住居は移転されているとのことで、二度目の資料館を覗いてみた。『方丈記』の江戸時代の写本数種は、5年目に入った伊丹での古文書クラスおよび今年1月から受講を始めた通信講座のおかげで、何とか少しでも読めるようになったのは、我ながら前進だ。意味がわかってくると、確かにおもしろい。

続いて、糺の森を南下した境内の先にあった秀穂舎資料館へ。
平成28年(2016年)10月1日に開かれた資料館だが、確か主人が入院中だった2020年3月中旬にも来ていたかと記憶する。その時には、中年女性のガイドだったが、時間が押していたので、あまり詳しくは覚えていない。その後は、いつでも時間切れで、なかなか中には入れなかった。今回は、1時9分から2時6分と、ほぼ1時間の閲覧が可能になり、しかも丁重なボランティアガイド氏の親切な解説付きでもあった。

案内ガイド氏の説明から学んだことのメモ箇条書きを。

・下鴨神社には340軒の社家があり、それぞれの職分を担っていたが、明治期に入って閉鎖された。
・今では、浅田家(五位)と鴨脚(いちょう)家の二軒のみ残ったが、前者が資料館となり、後者は現在もお住まいである。
・浅田家は賀茂社の画工司で、絵と文字の記録係であった。
・伊勢の神宮の遷宮と異なり、下鴨神社の遷宮は修理のみである。
・この浅田家には、かつて京都市長が住んだこともある。
・玄関先の石人文官の石柱は、朝鮮半島由来である。
・華表門(かひょうもん)は、鳥居の型である。
・玄関入口にある歳木(としぎ)は、「たもらぎ」ともいう。竹で48本編み、門松に近い。
・玄関には武器と蓑笠が掛けてあった。
・御井戸(みいど)は、神水を汲むためのものである。
・待合は、荷物持ちの付き人が御主人の出勤前、待機する場所であり、煙草入れも置いてある。
・玄関の黒い靴は儀式用、白い革靴は雪の時に用いる。
・庭の双葉葵は繊細で育てにくく、枯れないよう大切にしなければならない。
・庭の中には、泉川から御手洗
・下鴨神社は通称であり、賀茂御祖神社とは、おじいさまとお母様をお祀りしている意味。

1時35分にガイドが終わると、残りの25分程、一人で古文書や屏風絵が並べてあった二部屋を閲覧。

・東遊歌:東向きの歌舞で、御神霊を慰める芸能を「あそび」と称した。
・『御堂関白道長公記』『関白賀茂詣絵巻』『小右記』
・葵祭の起源は、『山背国風土記』によると、欽明天皇5年(544年)の不作と疫病は賀茂大神の祟りではないかとのことから。
・賀茂の斎王制度は、薬子の変に始まる。
・式子内親王(1149-1201年)

続いて、すぐ近くに旧三井邸があったので、2時7分から2時44分まで閲覧させていただいた。非公開文化財の行事でよくリストに載っていたが、今までは、ここだけのためには来られなかった。小雨が降りかけていたが、ちょうどタイミングが合い、静かでしっとりと落ち着いた素晴らしい庭園やお住まいを見せていただけた。記念に葉書も買い求めた。
この邸宅は、三井家が下鴨神社に参拝する際に利用したものらしい。また、三井家が代々心得としていた商業倫理を書き記した古文書も展示されており、信用第一、顧客を大切に、金銭は正確に大切に用いること、という原則を守り通すことが、今も昔も繁栄の基のようである。

その後は10分程、近くの公園で下鴨神社境内と近辺の説明板の部分写真を撮って、半日の復習をした。

京阪の出町柳駅から祇園四条駅まで特急電車で。

四条の南座近辺には、外国人観光客がたくさんひしめいていた。四条大橋と五条近辺は、京都でも最も嫌な場所である。
特に、観光用に崩した下品なケバケバしい着物もどきを、まるで大見栄を切っているかのように胸を反らして堂々と歩いている白人女性や中国人等が、不愉快で仕方がなかった。なんと、最近では白いフリルのレースを襟元からのぞかせるおかしな姿が増えていた。

いくら自分ではキモノを着ているつもりでも、ごく普通の日本育ちの我々日本人の目には、態度や物腰からおかしさがすぐにわかってしまう。洋服とは違い、普段の日常生活習慣や内面から滲み出るものがそのまま表出されてしまうのが、着物。「ここはどこの国なんだ?」と思わせてしまう。
後日、呉服屋さんでその話をすると、やはり業界でも嫌がられているようで、四条の老舗の呉服屋さんは口を閉ざして付き合わないようにしている、とのこと。

ところで、南座の歌舞伎は一度も見たことがないし、今後も見ることは決してないだろう。テレビで昔放映されていたのを見た限りでは、お能はいいが、歌舞伎はどうも相性が合わない。
1998年頃、関西の地理を覚えようと思って、手当たり次第に集めた本の中には、「歌舞伎とは「かぶく」を意味しており、被差別部落の人々が生業としていたものである」云々と書かれてあった。今回驚いたことには、「出雲の阿国」は「出自未詳ではあるものの、出雲大社の巫女である」らしい、という説明書きが川べりに提示されていた。

一体、どちらが事実なのだろうか?

(2024年5月6日記)
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2024年8月22日追記

(https://www.chichi.co.jp/web/20230419_senn/)

【101歳】裸足になってひたすら前進を続けよ——茶道裏千家前家元・千玄室が悲哀の中で掴み取ったもの
2024年7月30日

茶道裏千家前家元の千玄室さん。101歳となったいまなお茶の道を究める一方、「一碗からピースフルネス」を志として半世紀以上、国内外に和の心を伝え続ける原点には、過酷な戦争体験、肉親の死など、数々の困難があったといいます。そんな千さんの半生に迫るエピソードをご紹介いたします。※対談のお相手は、宗教学者の山折哲雄さんです。
毎日死ぬことばかり考えていた
〈千〉
戦争中は、自分がいつ死ぬか分からないという思いで生きてきたわけですが、大事な家族を失うのはまた違う辛さがあります。10年前に家内、7年ほど前に二男に相次いで先立たれましてね。この時は特攻で死ぬこと以上に辛うございました。 
家内が亡くなった後、無常観と申しますか、半泣きになりながら毎朝の散歩を続けているような状態でございました。過ぎ去りし家内との思い出の中に入り込んでいる自分の姿がよく分かるのですね。けれども、どうしても切り捨てることができない。
「おまえは一体何なのだ。戦争で死に損ない、大徳寺で瑞巖老師に学び、半世紀以上お茶の心を海外に伝えてきたのは一体何だったのか」と。
毎日、毎日死ぬことばかりを考えておりました。すると顔に死相が出てくるのですね。ある時、当時小学生だった孫娘が「お祖父ちゃま、どうしてそんな顔しているの」。そう言われてハッとしました。鏡を見たらなんとも情けない顔なのですね。「こりゃあかん。もう一度、立ち直らなくては」と。
ちょうど海外普及も50周年の節目を迎え、家内が「これからは好きな茶の道をされてはどうですか」と言ってくれたのを思い出しましてね。長男に家元を譲る決意をしたのです。
裸足になってひたすら前進を続けよ
〈千〉
そうしてだんだん立ち上がったところに、今度は二男が病に倒れてしまいました。見舞いに行くと、私の手を握って「僕はもう駄目かもしれない。兄さんが16代を継いでくれるのを見届けたかった」と申しまして……。
〈山折〉
そうでしたか。
〈千〉
長男が家元を継承するのを見届けたように、二男は亡くなって、私もまたどん底に突き落とされた気持ちでございました。
しかし、家元の重責に前向きに立ち向かっている長男の顔を見たら「ここで自分が負けてはいかん」と心を奮い立たせました。人間再生です。
山折先生ね、瑞巖老師から私が最後にいただいた公案(禅の師匠から与えられる課題)が「破草鞋(はそうあい)」、破れ草鞋だったのですよ。
最初に老師に「はそうあい」と言われた時は、何のことだかさっぱり分からなかった。お伺いするわけにもいかないし坐禅をやっていても浮かばないのですね。 
ある時、玄関の入り口に掛けていた托鉢用の編み笠と草鞋を見た時、ハッと思ったのですね。「そうや、草鞋のことや」と。
しかしそれでも破れ草鞋がどういうことかがまた分からないのです。
〈山折〉
答えは見つかりましたか。
〈千〉
それが、最近ようやく分かりました。破れ草鞋は何も役に立ちません。自分の草鞋が破れている。それすら忘れて、裸足になってひたすら前進を続けよと。いつまでもうつむいていないで前進を続けよと。この年になって一つの疑問が解けてきました。
これがいまの私の心境です。
〈山折〉
なるほど。お話を伺っておりまして、私のような門外漢から見ましても、それは実に見事な引退、そして新たな再生という人生の区切りではなかったかと拝察いたします。
おそらく気力、体力ともに充実していらしたはずです。その段階で身を引くのは、よほどの決意がないとできないことだと思います。
そして家元を譲られることで、また大きな心境を開かれたのですね。
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(本記事は月刊『致知』2010年1月号 特集「人生信條」より一部抜粋したものです)

(転載終)
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2025年3月27日追記

致知出版社の人間力メルマガ 2025.1.18
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茶道裏千家前家元の千玄室氏は2023年、100歳を迎えられました。70年以上、国内外で茶道の普及を続けるその精進努力には、いささかの衰えもありません。
長きに渡り世の中を見てきた千氏に、現代社会はどのように映っているのでしょうか。艱難辛苦が続く社会を生き抜くために大切なことを独自の観点で語っていただきました。(月刊『致知』2020年4月号より抜粋)

(千玄室)
私たちの人生は、いつ何時、どんなことが起きるか分かりません。今朝の新聞を見ておりましたら、本年中というわけではありませんが、南海トラフの大地震で最高36メートルの津波が来ると書かれてありました。

東北のほうでは東日本大震災の苦しみから立ち上がるべく、たくさんの人たちがいまも頑張っておられます。私も現地に行きまして、被災者の方とお目に掛かってお話をさせていただいたり、お茶を差し上げたりしました。
あるお婆さんにお茶を差し上げた時、「ああ、このお茶がいただけてよかったな。私はお茶のことは知らんけど、この点ててもろうたお茶が、どんなに心を癒やしてくれたことか」としみじみ、そうおっしゃいました。
それを伺った時に私は
「たった一碗のお茶でも、こんなに役に立つのだな。ありがたいな。もっともっと多くの方にこの一碗のお茶を飲んでいただいて、皆さんが少しでも苦しみ、悲しみから逃れられるようにしなければいけない」
と自分に言い聞かせたものです。

大切なのは、苦しみの多い人生であったとしても、そういう思いやりの気持ちを失わないで、他の人に対して手を差し伸べていくことではないかと思うのです。
自分の手を使って他の人のために少しでも何かをして差し上げる、その喜びが自分に返ってくる。その時に人生の本当の幸せを感じられるのではないでしょうか。

「ありがたいな、もったいないな」という気持ちを一人でも二人でも三人でも多くの人が持っていただけたら、平和という言葉を使わなくても本当に落ち着いた世の中になっていくのではないでしょうか。

(2025年3月27日転載終)

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岡田家の音楽環境

4月28日(日)の午前中、今年再入学して登録した放送大学の計8科目のうち、1科目を全部終了した。これで、5月以降は、残りの7科目(その中の大学院レベルはオンライン2科目)を計画に沿って着々と進めていけばよい。

午後2時からは、伊丹市宮ノ前にある旧岡田家の酒蔵内の小ホールで、岡田利兵衛先生のお孫さんに当たる岡田暁生氏のレクチャー・コンサート「戦前阪急沿線と音楽と岡田家」と題するお話をうかがった。これは、旧岡田家住宅・酒蔵築350年記念プログラムの一環である。私にとっては、4月13日に聞いた講演会に続き(2024年4月14日付「地域文化史を学ぶ」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=7132&action))、これが第二弾。

岡田暁生氏のお父様、つまり岡田利兵衛先生のご子息は岡田節人(ときんど)氏。4月16日の午後、ミュージアム内の展示を見に行った時、奥の小さなコーナーで生物学者の節人氏がにこやかに語る10分程度のビデオが流されていた。

裕福な家に生まれると、このように鷹揚な人柄が培われるのだろうかと、すっかり平板化し、左派リベラル風潮の影響で一種、抑圧的な社会になっている現在では懐かしく思うところである。ちょうど私がマレーシア勤務から帰国した1990年代前半期に、そのビデオ対談がなされていた。あの頃までは日本に競争力が残っており、経済的にもまだ余裕があった。

岡田暁生氏は京大教授で音楽学者。お父様には膨大なレコード収集があり、阪神間モダニズムの時代背景と岡田節人家を取り巻く音楽環境、というお話だった。「岡田家なんて、人様に来ていただけるようなネタ、あるんかなぁ」と謙遜されていたものの、酒蔵には目算で50名以上もの人々が集まっていた。尤も、例によって例の如く、この種の話に若い人が殆どいなかったのは、昨今の情けない傾向である。

以下、当日のメモを頼りに、お聞きした話の要点を抜粋して記録する。
。。。。。。。
江戸時代から酒造で栄えた伊丹の町。江戸で人気を博した清酒造りで経済的に繁栄すると、文化的興隆と広がりが阪神間に生まれる。ただ、お父様の時代になると京都へ引っ越し、核家族として暮らしていたそうである。そして、「全くお金持ちでもない」。祖父の家であった岡田家住宅は、後に国宝とされたが、自分にとってはエキゾチックな「異文化体験」。蔵は薄暗く怖いところで、まさに‘wonderland’。「座敷童」のような妖怪の世界で、お酒の匂いも漂っていた、という。

近松門左衛門のような元禄文化が栄えた時代、旧岡田家は資産家であったが、「今ではあり得ない」。豪商ということは、文化の交差点として、文化集約される発酵の場。但し、それは腐敗と表裏一体でもあった。

2018年秋に伊丹に転居して以来、酒造の町としての伊丹が、極めて洗練されて綺麗な側面ばかり表向き語られることが不思議で、ある時、私は市の女性職員に尋ねてみたことがある。「普通、お酒といえば金と女がつきものなのに、どうして伊丹の展示では、女が出て来ないんですか?」
すると、「もちろん、ありますよ。お教えいたしましょうか?」と即答。でも、話はそこで途切れたままだった。

どうなったのだろうか、と長らく密かに思っていたところ、さすがは岡田先生自ら、「生前の父に尋ねたことがあります」。「芸者遊び、せえへんかった」。つまり、岡田家は代々、大変真面目なご家系でいらしたということである。裏返せば、お酒で裕福になった豪商は、芸者に入れられたのが通例だったが、そういう家は戦前に没落していった、ということらしい。

この「真面目なご家系」については、勿論、岡田利兵衛先生の鬼貫研究でも窺い知ることができる。戦後、カトリック信者になられた篤信の利兵衛先生は、鬼貫も「まことの人であった」と、律儀な側面を強調して解釈されている。

話を節人先生に戻すと、「物凄く音楽好きだった」そうで、暁生先生もその影響を受けて今に至っているようである。また、岡田家には戦争に行った人がいない。母方は山口の造り酒屋の御出身で、官に近く、真面目な家柄であり、娘さん方は4人とも全員ピアノを習っていたという。(そして、かなりお上手でもあった。)

また、岡田家の世代は、日本が初めて音楽を学ぶために欧州留学を開始した時代に相応する。例えば作曲家の山田耕作は資産家の出身で、花柳界に近く、三味線が家の中でいつも流れていた環境だったという。

今回のお話のキーワードは、上方の造り酒屋の豪商文化は、東京の立身出世が嫌いで、官製や教養主義も嫌い、「ええなぁ、おもろいなぁ」という感性中心主義とのことだった。

明治に入り、欧米列強と対峙することになった日本は、文明国あるいは一等国であると見なされるために、バッハやモーツァルトやベートーヴェン等の洋楽を国策として国が輸入した。その際、モデル国をドイツと決めて、ドイツ人をお雇い外国人教師として音楽学校に招き入れ、例えば「蛍の光」のような小学校の唱歌が導入された。関西学院や神戸女学院のようなプロテスタント系教会も、そこでは大きな役割を果たした。同志社も、牧師養成としてオルガン音楽が導入された。

造り酒屋の芸事は町人文化で、すなわち、官が嫌いだということを意味する。勲章をもらうことも嫌いで、説教も嫌。だから、岡田利兵衛先生は戦後カトリック信者になられ、ローマ教皇から勲章をいただいた。プロテスタントは「くそ真面目」で、裏表があってはダメ。そもそもカトリックに対する対抗運動として始まったプロテスタントなので、質実剛健を基とする。対するカトリックは、告解すればチャラになり、ある意味いい加減である。暁生先生は、小中高とカトリック系の学校で学ばれた。

お父様の節人先生は、生物学者とはいっても実は多趣味。御祖父様の利兵衛先生も、鳥や写真や芭蕉等、多趣味。その中の一つを「本職」とされたようである。「偽物か本物か」については、「感性的にピンと来たのでは?」との由。

ウィーンは絢爛豪華のスぺクタルである。また、カトリックの作曲家は、ハイドン、モーツアルト、シューベルト、シュトラウス、ベルリオーズ、ロッシーニ、ヴェルディであり、お説教なしの小粋を特徴とする。

ここで、第一曲目として、節人先生がお好きだったというシューベルトの連弾曲を。ウィーン民謡でウィーンなまりの„Wien bleibt Wien”が流された。

大正リベラリズムは教養時代。1901年には、尼崎港と伊丹をつなぐ福知山線が箕面への接点ともなった。1907年(明治40年)6月には、箕面有馬電気鉄道が開始され、1914年には、阪急沿線沿いの新興住宅に住む人の娯楽として、宝塚歌劇団がオープンした。神戸線等の建設も始まり、1929年には小林一三翁による阪急百貨店が開店し、有馬の六甲ホテルも開かれた。この時期は、1892年生まれの岡田利兵衛先生が成長された頃に相当する。阪急百貨店でおもちゃを買ってもらった、という記述に関しては、「相当裕福だった」ことを示す。

ところで、伊丹酒は度数が高いため、割って飲むのが普通だそうである。

東京の成城学園を中心として新自由教育が始まり、子供はお世継ぎや労働力ではなく、子供としての人権を認める風潮が始まった。例えば、童謡の「赤い鳥」が象徴的である。

神戸港からの酒の運び出しを通して、東南アジアの鳥を入手した。氷ノ山で昆虫採集?箕面動物園。

レコード技術は1920年代頃から発達し、レコードを聴く習慣が確立された。明治期には洋楽は演奏するものであったのに対し、大正期に入ると、町人文化から「自分達の音楽を作ろう」という機運が生まれた。これは、家元しか作曲が許されなかった官製音楽学校の発想ではない。例えば、1879年生まれの永井荷風、1886年生まれの山田耕作等が、それに相当する。

1893年生まれの太田黒元雄は「東芝の息子」であった。関学を中退し、1910年に岩崎小弥太の援助でベルリンへ留学した。私費留学は、当時、私大か東大の出身者だった。その頃、グランドピアノ一台あれば、家が二軒建ったという。東京芸大は国策の官製芸術大学で、日本人に洋楽をマスターさせる動機があった。

1901年生まれの薩摩次郎人は「木綿王の孫」で、藤田嗣治らのパトロンでもあった。同志社大学や関学や慶応大学は町人文化であり、御公家様の子弟が行くところではなかった。

宅孝二(1904-83年)は堺の造り酒屋の出で、私費でパリ留学をした。琴や三味線をたしなみ、ピアノも弾いていたが、同志社大学を中退している。戦後は東京芸大の教授になり、60歳からジャズを学び、池袋のキャバレーに出演もした。何度も結婚しているため、係累関係が不明である。あちこちに子供がいて、面倒を見ていたらしい。根っからの遊び人であるが、NHKのバックミュージックとして採用された「花火大会」は、なかなか洒脱で洒落たモダン曲である。

大澤壽人(1906-53年)は「神戸製鉄の技術者の息子」であり、関学出身のプロテスタントだった。1930年に渡米し、1933年にはボストン交響楽団で指揮をさせてもらった。これは「お金を渡して演奏させてもらった」という意味で、現在でも行われていることである。帰国後は、神戸女学院の教授になった。

九鬼周造は三田のお殿様の出身だが、『粋の構造』で有名である。ドイツではハイデッカー、フランスではベルクソンのもとで、哲学を勉強した。フランスでは、サルトルが家庭教師であり、九鬼周造とは、「芸者を哲学した人である」と言える。

1938年パリ初演の『カミカゼ』は、日本人の手になるものと思えない程、前衛的で洒脱であり、官製文化にはない、いかにも新しもの好きである。

貴志康一(1909-37年)は男前で、最近有名になっている。祖父がメリヤス業者であり、松花堂弁当の考案者か、とも言われている。芸者女の三味線が聞こえる都島で育ち、芦屋へ移住したが、1929年、甲南を中退して渡欧。(ちなみに、父親も甲南を出ている。)1934年には、ベルリン・フィルで自作を指揮した。1936年には、日本初でベートーヴェンの第九を暗譜で指揮した。また、ストラディバリウスを所有していたらしく、フルトヴェングラーにレッスンを受けて、作曲したヴァイオリン協奏曲もある。この演歌風の曲は「えらく土着的でええですねぇ」。この時代に私費留学した日本人は、遥かに自由に交遊関係を持っている。

なお、節人先生は「変わり者」で、本当かどうかは定かではないものの、「貴志康一の姪に振られた」という。

シュトラウスについては、俗受けする「美しき青きドナウ」のワルツ王ヨハンではなく、43歳で亡くなった兄弟のヨーゼフの方がお父様のお好みで、「わが人生は愛と喜び」(„Mein Lebenslauf ist Lieb und Lust” op.263)以外は興味なし、だったそうである。そのものだけを見て、あとは「スルー」。

大正から昭和前期にかけての日本でのクラシック音楽の受容形態については、吉田秀和や小林秀雄等の大評論家による音楽批評とのドッキングであった。教科書的にはシューベルトの「未完成交響曲」が代表的だったのに対して、お父様は権威主義の無粋さを嫌い、信用もしていなかった、という。
。。。。。
以上、パソコンから投影されたスクリーンを通して数曲を聴かせていただきながら、メモを取りつつ3時25分までお話をうかがった。質疑応答の時間はなかったが、ミュージアムの館長氏が、マーラーについて質問された。岡田先生はうまく話を乗せて応じていらしたが、どこか館長の意図とは微妙に食い違っていたのではないかとも感じられた。

音楽の話はついていけたのだが、文化面の解釈に関しては、名古屋出身の私には些か「いてはいけない」場違い感を覚えさせるものであった。尾張徳川の名古屋は、殿様文化というのか、官製そのものであったのだろう。

3時35分には会場を出た。例によって顔見知りの方も二三人いらしたが、4時からのZOOMによる京都ユダヤ思想学会のティータイムに間に合わせるべく、簡単な会釈のみで済ませた。

朝から三つの知的空間に浸ることとなり、さすがに夜はぐったりとした。従って、このブログ書きも4日目の今日になって、やっとできた次第である。

(2024年5月2日記)

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致知出版社でさえ……

致知出版社は、概して良い内容が含まれているとは思うが、時々、明らかな間違いや偏向記事が含まれることがある。
以前にも、カール・ヒルティの引用に関して、過去ブログで言及した(2023年7月9日「致知雑誌とヒルティ」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=5274&action))。
もしかして、内部活動家がこっそりと流している疑似情報なのかとも思ってしまうが、下記に第二弾の一例を。この内容は、明らかに極めて古くさい偏向情報に基づいている。逐一、指摘修正に価しない。現地経験の長い日本人には時々この種の典型例が見出されるが、要注意。
。。。。。。。。
『致知出版社の人間力メルマガ』2024年4月23日

イスラエルとハマスの戦闘が激化の一途を辿り、その成り行きを世界が固唾を飲んで見守っている中東。
石油などのエネルギーを通じて国際情勢・経済の大きな影響力を持つ中東でいま何が起こっているのか――

現地で長くビジネスや文化交流に携わり、「越境3.0チャンネル」などSNSを通して中東情勢の現実を発信してきた石田和靖さんに、ガザ紛争の内情、中東でいま起こっている大変化についてお話いただきました。
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(石田):

2023年10月7日、パレスチナ暫定自治区のガザ地区を実効支配しているイスラム組織・ハマスが、イスラエルに対して大規模な奇襲攻撃を行いました。それに対してイスラエル側も激しい報復攻撃を行い、多くの民間人を巻き込んだ戦闘がいまなお続いています。

日本の主要メディアの報道を見ると、過激なテロ組織であるハマスが突然奇襲攻撃を仕掛け、あくまでもイスラエルはそれへの報復として攻撃を行っているという論調がほとんどです。もちろんハマスが行った民間人の拉致・殺害は許されることではありません。しかしそれではそもそもなぜハマスは奇襲攻撃を行ったのか、いま中東全体で何が起こっているのか、物事の本質が全まったく見えなくなってしまいます。

いま必要なのは「10月7日」以後でなく、むしろ「10月7日」より前の情報なのです。

私は長く中東・東南アジア地域のビジネス、文化事業に携わってきた経験をもとに、テレビやラジオ出演、講演、SNS投稿、書籍の出版等を通じ、現地の生の情報を発信してきました。主宰するYouTubeチャンネル「越境3.0チャンネル」では、毎日夜の8時に最新の世界情勢の解説を行っており、再生回数4000万回、20万人に登録していただいています。

今回のイスラエルとハマスの武力衝突に関しても、私はその1年ほど前から、近いうちに「イスラエル側」が大きな戦争を引き起こすだろうと警告してきました。
詳しい経緯はとても紹介し切れませんが、パレスチナ問題の根本は、イギリスの「三枚舌外交」によって1948年にイスラエルが現在の地に建国されたことに始まります。

以後、イスラエルはパレスチナ人の住んでいた地域に入植を進め、何度か和平の機運は高まったものの、イスラエルとアラブ諸国、パレスチナは現在に至るまで対立を続けてきたのでした。ところが、2020年8月、当時のアメリカのトランプ政権の仲介によって「アブラハム合意」が締結され、イスラエルとアラブ首長国連邦(UAE)が国交正常化。この動きにバーレーン、スーダン、モロッコが続いたことで中東情勢は安定へと向かっていました。

しかし2022年12月、過激な極右勢力(シオニスト)と連立を組む第六次ネタニヤフ政権がイスラエルに誕生したことによって、状況が一気に変わります。パレスチナへの入植活動が
どんどんエスカレートしていったのです。例えば、武装したイスラエル軍が、突然パレスチナ人の自宅に上がり込み、強制退去させる。女性や子供が抵抗すればその場で射殺するということが日常的に行われるようになったのです。実際、アラブ圏のメディアでは、「きょうは何人殺害されました」というニュースが毎日報道されていました。

そのような過激な入植活動に対し、ハマス側は何度も警告を発していましたが、ネタニヤフ政権は全く耳を貸しませんでした。ですから、10月7日の奇襲攻撃はこの鬱積が爆発したとも言えます。
また、ネタニヤフ政権は、イスラム教シーア派を国教とし「反イスラエル」を国是とするイランに対して、新たな軍事教義「オクトパスドクトリン」を策定・公表しました。
イランは核開発、レバノンのヒズボラやイエメンのフーシ派などのシーア派民兵組織、スンニ派のハマスにも支援を行っているとされ、イスラエルと対立してきました。つまり「オクトパスドクトリン」とは、タコの足であるヒズボラやフーシ派と戦っても意味がない、その足を操るタコの頭であるイランを叩かなければならないという軍事教義なのです。

ここに、私が「イスラエル側が大きな戦争を起こすだろう」と警鐘を鳴らした理由があります。それから、ネタニヤフ政権が進めている司法制度改革にも……

(無断転載終)
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(https://twitter.com/ituna4011/status/1782307097604141197)
Lily2@ituna4011
日本だけではなく、イスラエルでも米国でも欧州でも、そのような傾向はあると聞いております。
4:15 PM · Apr 22, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1782548848499736616)
Lily2@ituna4011
コロンビア大学とかけてエドワードサイード。その心は?
8:15 AM · Apr 23, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1782547395961872710)
Lily2@ituna4011
過越祭りに拉致被害者を覚える。
8:09 AM · Apr 23, 2024

(2024年4月27日転載終)
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付録

(https://twitter.com/ituna4011/status/1782756807141929290)
Lily2@ituna4011
Super rare video of 80’s tokyo street #207 https://youtu.be/D0EAn1Q81MY?si=-DWbbEDJytYA2b9T… via
@YouTube
☚ 全体的に活気が感じられ、人々の服装もきちんとしている。
10:01 PM · Apr 23, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1782914669692551223)
Lily2@ituna4011
小学校では、ポプラ社の本が目立っていた。
8:29 AM · Apr 24, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1783649616476676567)
Lily2@ituna4011
マレーシアにいた1990年代初頭、イギリス発行の薄い本で読みました。
9:09 AM · Apr 26, 2024

(2024年4月27日転載終)
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致知出版社が掲載した石田和靖氏の文章中で「イスラエルはパレスチナ人の住んでいた地域に入植を進め」とあるが、これは表面的断片的な一時的観察に過ぎない。こんな程度で中東解説を拡散しているから、問題の根源が解決しないのだ。(Lily)

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20160423)
2016-04-23「セデルの恵みはいつまでも」
《ネゲブやガザ国境近くのキブツや西岸のアリエル大学やエイラート》

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20171211
2017-12-11「エルサレムのこと」
《ユダヤ系イスラエルが支配すると、ムスリム全員が追放されるなどということはない。ムスリムがイスラエル支配を受け入れるかどうかが鍵なのだ。うかうかしていると、本当に先を越されてしまう。》
《西岸で入植地が国際法に反して拡大していることを非難する声があるが、2015年の春、西岸のある場所を訪問したところ、ユダヤ人の支配下で喜んで働いているアラブ人が本当に目の前に現れた。やらせではなく、安心して働けることと、給料がいいことを、自ら我々に話していた。
また、アリエル大学ではアファーマティブ・アクションは一切なく、実力主義のみで学生を募集して教育しているが、アラブ系や台湾その他のアジア系の学生達も喜んで勉強しに来ていて、成果が上がっているとのことだった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160423)。
こういう話を目の前で聞かされると、日本で見聞していた話が相当に出遅れているように感じられ、屈辱的でさえあった。》

(2024年4月27日転載終)

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通訳者小松達也氏のこと

(https://twitter.com/praises2014/status/1782747988403900484)
勝利 #IStandWithIsrael ,Ukraine @praises2014
今日、「古く」ならず色褪せることも無い12年前の小松達也先生の動画を投稿したんだけど、 参照させて頂くことがあるこちらのブログにも12年前の考察のリンク(放送大学の某教授について)があり、懐かしく拝読 ブログを開くたび勉強させて頂き、良い刺激を受けて鼓舞される
9:26 PM · Apr 23, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1782898718360105269)
Lily2@ituna4011
名古屋港の会場で小松達也氏の講演を聞いたことがあります。全く偉ぶらず、自らドアを開けて、颯爽と歩かれる姿が、当時まだ三十路前だった私には非常に印象的でした。マレーシアでの同僚には、『小松専務』と一緒に仕事をした方がいました。発音よりも語彙選びが的確で、凄かった、とのことでした。
7:25 AM · Apr 24, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1783145884236292117)
Lily2@ituna4011
あの当時は、本当に新鮮でした。
11:48 PM · Apr 24, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1783146795801190852)
Lily2@ituna4011
いえ、あの頃の私にとっては、いささかカタカナ発音に近いように思えたため、そう口走ったところ、同僚から嗜められた、という文脈です。
11:51 PM · Apr 24, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1783171951588217058)
Lily2@ituna4011
あの講演でうかがったのは、 帰国子女は、発音はネイティブ並だが日本語ができない、是々非々がわからないんですよ、それでは通訳はできません。 という話。日本で英語を勉強した自分は、まだ若いもんに負けません、とも仰っていました。タケカワユキヒデ氏にも通じる英語学習の要諦でした。
1:31 AM · Apr 25, 2024
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(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20120314)
2012-03-14「小松達也氏(英語通訳者)」

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20120315)
2012-03-15「使える通訳・使える翻訳とは?」

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20120916)
2012-09-16「ユダヤ暦の新年に向けて」

(リスト終)

(2024年4月27日記)

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JR尼崎駅

(https://twitter.com/ituna4011/status/1783393303469453716)
Lily2@ituna4011
JR福知山線脱線事故 仲間失った教諭、教え子に「今に全力を」 – 日本経済新聞

https://nikkei.com/article/DGXZQOUF01B060R00C24A3000000/…

← 車内アナウンスがありました。
4:11 PM · Apr 25, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1783454110421053795)
Lily2@ituna4011
JR福知山線脱線事故19年 現場で追悼式、事故なき社会へ祈り – 日本経済新聞 https://nikkei.com/article/DGXZQOUF23BT90T20C24A4000000/…
← 当時、13年後には尼崎駅をよく利用することになるとは想像していなかった。今日は行きも帰りも車内アナウンスがあった。
8:12 PM · Apr 25, 2024

(2024年4月27日転載終)
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2019年8月23日の夜、主人は救急搬送されて伊丹市内の近畿中央病院に入院することになった。

検査結果が出る待ち時間に小さな控室に一人で座っていたところ、ふと見上げた壁には賞状が貼ってあった。近畿中央病院は、2005年4月25日に発生した上記事故で多数の負傷者を献身的に手当てした、ということで、大臣から表彰された由。

入院直後の主人にそのことを伝えると、ほっとしたように安心した表情を見せた。

(2024年4月27日記)

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長岡京の講義とモニター活動

2024年4月1日付ブログ「4月からの計画」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=6991&action)では、今年度の活動予定を記した。

多岐にわたっているが、今までの延長線上にある。今年は教養学部の科目生と大学院の選科生という気楽な身分に戻っているので、正規のゼミ生の2年間ではできなかったことに挑戦してみたい、という気分でもある。
それに、結婚後1年で診断を下された主人の若年性神経難病が長期に及ぶ緩慢な進行性であり、精神的にも鬱屈した平板下降気分で21年以上を過ごしてきたので、エネルギーや時間やお金を残してくれたのだと思えば、活用しないわけにはいかない。

神道の「ケガレ」とは、「穢れ」のみならず「気枯れ」という意味もあるそうで、生気に満ちて生き生きと過ごすことが、人としてのあるべき姿のようだ。それならば、日々を明るく前向きに過ごさなければ勿体ないどころか、罪悪ですらある。(そこが、一神教とは異なる所以だ。)

さて、一昨日と昨日は、下記の二つの新しい活動に参加した。

(1)一昨日の午後は、「8. 京都古代学協会の講座(月一回)(NEW!)」と記した「桓武朝の歴史考古学」である。

場所は、三条通高倉にある久しぶりの京都文化博物館の別館だった。

過去の記録によれば、2007年10月8日「トプカプ宮殿展」、2010年3月21日「古代カルタゴとローマ展」、2018年11月12日「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美」、2022年11月23日「近衛家王朝のみやび 陽明文庫の名宝十二」の計4回訪れたことになっているが、いずれも本館ばかりだった。

ここはもともと日本銀行京都支店だった建物。別館は本館と異なり、一種薄暗くどっしりした木造風の内装で、何とも奥ゆかしい。最近のポスト・モダンの建物は、「誰にとっても違和感なく」という目標があるためか、どこへ行っても均一的で面白みに欠ける。だが、辰野金吾氏と長野宇平治氏によって設計され、明治36年9月に着工し、約3年後に竣工されたこの古い建物は、昭和44年3月に国の重要文化財に指定されている。

昭和42年4月からは、財団法人古代学協会が所有し、平安博物館として使用されていた。京都府京都文化博物館の別館として一般公開されたのは、昭和63年10月のことである。

今回の講座は、やや狭いが懐かしい雰囲気の漂う一室で勉強させていただけるのだ。初めての場所だったので、到着してからも受付の複数の若い人に何度か尋ねながら、あちこち迷っていたが、若い人も本館しかわかっていなかったらしい。到着はギリギリになってしまったが、私よりも遅れて来た人もいたので、ほっと安心。

講師は、三重大学名誉教授の山中章先生(76歳)で、2022年3月13日付の過去ブログ「水無瀬野を歩く」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=2162&action)でもお世話になった。何となく、2024年1月29日付「恩師とのお別れ」ブログで記した故戸谷修先生を彷彿とさせる風貌と話し方で、やはり伊勢の神宮が近いからなのか、三重大学の教授には共通するものがあるのだろうか、と思いながら講義を聴いていた。

山中先生は、水無瀬野の時には体調不良とうかがっていたが、あれから2年以上経った今ではすっかり回復されたようで、お元気。マイク片手に1時間半も滔々とレジュメとノートパソコンのスクリーンでお話をされた。桓武朝の長岡京の考古学的見解で、本当に懐かしかった。「なお、本講座は、わかりやすいが、新鮮な内容で構成されている」と記されてあった通り、昨年度に発行された論文を集めた本の回覧もあった。それに、ボランティアで(つまり「無料」)現地案内する計画も含まれているとのことで、わざわざ新入りの私にまで意向を尋ねられる程、熱心な先生だった。実に生涯教育にも尽力されているのだ、と嬉しく思う。

やはり長岡京(向日町を含む)という土地には、JR「長岡京駅」(神足駅)であれ阪急「長岡天神駅」であれ、主人との思い出が尽きない。私的には、1997年夏頃、二人で新居を探すために不動産屋さんを尋ねた場所でもあった。それ以上に、主人が修士卒の24歳で入社以来、34年間もの長きに及んでお世話になった京都製作所(ここからアメリカ留学と駐在を経験させていただいた)の敷地が長岡京市の開田に所在していた(が、今はもう製作所そのものが閉じられている)。

私の方は、35歳以降、毎年1月8日の扶養家族の健康診断で京都製作所の敷地内に入れさせていただいていた。主人の所属する先端総研の5階建て建物を見上げながら、(今日も一日元気でいてね)と念を送っていた。同志社大学の仕事で疲労困憊していた2004年から3年程、体力づくりのために長岡京のプールにも通っていた。

まさか、あの広大な敷地が閉鎖される時が来るとは、予想もしていなかった。とんでもない時代に突入したものである。(詳細は、2022年3月12日付の過去ブログ「三菱電機「京都製作所」」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=1976&action)を参照のこと。)

そして、独身の長かった主人自身は、米国留学から帰国後、会社近くのコーポに部屋を借りて、一年近く暮らしていたらしい。(放送大学大学院のゼミが開始される前の2022年3月に、古い住所を手掛かりに探し回ってみたが、どうしても見つからなかった。)

また、真夏の暑い日には、中山修一記念館へ二人で見学にも行った(参照:2018年7月17日「幻と現の長岡京」(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20180717))。今振り返っても、時間をこじ開けて、行けるうちに行くべき所に行けたのは、実に幸いだったと思う。この時には既に伊丹への転勤が決まっており、今住んでいる伊丹の住居をもう決めていたのではなかっただろうか?

そんなこんなを思い出しながら、この講義をうかがうと、二重にも三重にも時空を超えて、何とも貴重な時間だと痛感する。

(2)昨日の午後は、「15. 公益社団法人近畿地区不動産公正取引協議会の消費者モニター(任期一年)(NEW!)」と記した初回に出席した。

4月3日の朝9時前に突然、自宅のファクスがカチャカチャと動き出し、電話も間違って鳴り出した。寝転んでiPhoneを見ていたのでびっくりして飛び起きると、すっかり忘れていた消費者モニターに「繰り上がり当選」よろしく確定した、と知らされた。

男性担当者はクールでせっかちなタイプだったが、大阪の大手前にあるビジネス街に位置する職場なら、これが通例なのであろう。私にとっては初めての場所だったので、「早目に来るように」との注意書きまで、即座に決定した当日の午後、ファクスが送られてきた。

実際、確かに「大ふしぎ石展」の準備でわさわさした中を通り抜けする必要があり、親切な伝言ではあった。何と私は一番乗りで、開始時間の27分も前に到着。既に担当者が研修会場入り口の前に受付として一人で座っており、テキパキと「印鑑」「写真」と指示を出され、何も始まっていないのに、早々と新札の入った謝礼封筒まで渡された。(出欠を確認した後に、銀行振り込みかと思っていた。)

参加者は、私のセクションでは大阪府と兵庫県からの7名で、名簿には私の名前が落ちていた。というのも、恐らくは「辞退者が出たための緊急補欠」だったからだろう。二年目というのか二度目のモニター経験者も3名ほど含まれていた。資料がたくさん配布され、約2時間程、びっちりとした研修だった。練習問題と解答付の解説もあり、先程、訂正版までファクスで送られて来た。なんだか、講習を受けているようなモニター活動だった。

これも社会勉強だ。以前から、内閣府の公正取引委員会と共産党の関係について、どういう内実になっているのだろうかと気になっていたが、この度、モニターを務める「公正取引協議会」は、公正取引委員会と消費者庁より認定されている。今回の不動産に関しては、広告をチェックするのが我々の仕事内容である。

不動産に関しても、こちらの知らなかった細かい法律がたくさんある。修論作業の時に驚かされた医療現場のように、次々と法律や規約ができている昨今、「学校を出ているから大丈夫」とか「自分は関係ないから」等と済ませられない。むしろ、モニターを経験することによって現代社会の仕組みをより深く知る経緯ともなり、時代に遅れないで何とかついていくための知恵も授かるのであろうと期待する。
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姫路駐屯地の防衛モニターに関しては、本来、4月13日に入営式があり、参列を求められた。電話で聞いた時には既に大手前大学の講座を申し込んでしまっていた上、午後にも伊丹市内の講演が予定されていたので、残念ながら「先約がある」との理由で辞退した。そのため、まだ正式には二ヶ所からの辞令を受け取ってはいないが、既に『朝雲新聞』が二回分、防衛省編集協力の『マモル』誌が一部、郵送されている。これを読んでおかなければ、自衛隊のモニターなぞ到底務まらない。それどころか、三年前に『神社新報』を初めて読んだ頃のように、全く違った角度から日本社会を見つめ直す契機になっている。

実は来月中旬、ひょっとしてアメリカのワシントンD.C.へ行こうかとも考えていた。中東フォーラムの30周年記念行事があり、2016年秋の中東フォーラム主催の西欧三ヶ国の旅で一緒だった友達から、メール数通が届いていたからだ。

一週間程ずっと迷ったが、躊躇しつつも結局は辞退することとした。ちょうどその頃には放送大学の中間試験のような課題が5科目もあり、3月に修士号を授与されたばかりの身である以上は、落とすわけにはいかないからだ。また、一旦渡米するとなれば、パイプス家のお墓参りや主人のアメリカ銀行の口座手続き等、いろいろとすべきことがあり、行事参加だけでは済まされない。それに、やはりワシントンD.C.ともなると、東京の霞が関以上に勇気がいる。

いくら何でも、私は単独でそこまで大胆ではない。そこで、防衛モニター任務を理由として、正直に返答をした。すると、さすがに若き日に国務省官僚を務め、日本を含めた各国の要人とも渡り合った方だけあって、同盟国の国防問題には敏感。極めてかしこまったお返事が、ダニエル・パイプス氏から即座に届いた。

(2024年4月26日記)
………….
2024年4月27日追記

日本の要人とダニエル・パイプス氏の面識一覧は、送られたお写真で確認したり、メール交流を通して私が知る限りでは、次の通り。

三笠宮崇仁親王殿下・サイマル出版会・梅棹忠雄氏(国立民族学博物館)・板垣雄三氏(中東研究)・駐トルコ日本大使等。

そして、パイプス氏と最近でも直接つながっている米国要人のごく一部を紹介するならば……

マイク・ペンス副大統領・ジョン・ボルトン国連大使・エリオット・アブラム氏等。

(2024年4月27日記)
………….
2024年8月4日追記

第2回目の消費者(不動産)モニター研修が、8月2日の午後、同じ大阪の会場で行われた。
ファクスで逐一、丁寧に連絡があり、前日には「熱中症予防のために水分を持参のこと」とあった。そして、実際には会場で一人ずつ、お茶のペットボトルに紙コップが用意されていた。
今回は女性ばかりで、見たところ、30代から60代前半ぐらいまでだろうか。説明を担当されたのは同じ男性だが、近くで拝見すると、結構、ハンサムな方だった。
不動産は金額が多額なので、とにかく規制の法律が細かい。昨年までは年一度の説明会だったが、「わかりにくいのでもう一度」という要望があったため、今年は二度になったそうだ。
研修出席やアンケートの謝礼が、前回のようにピンピンの新札、しかも新しいデザインが封筒に入っていた。こういう点、流石だなぁ、と感じさせられる。

実は、私は試しに前回4月下旬の研修会の時に言われていたように、自宅で揃えた課題を持参していた。だが、時期設定からは外れていたので、不要とのこと。但し、その課題を集める際に浮上した質問ができたので、無駄ではなかった。

説明会の終了後、数名の女性達が説明担当者の元に駆け寄り、それぞれに質問をしていた。人によっては、身近な問題として捉えており、「聞いてきて」と頼まれてモニターを務めているケースもあるらしい。

私も課題にまつわる質問を再度、確認させていただいた。そして、「法律が細かいので、一年間のモニター活動では不足しています。できれば来年も継続したいのですが」と、自薦の書類を提出した。

実は、4月の第一回の研修の際、何名かのモニターさんは二年目だということだった。次年度も選ばれるかどうかは不明だが、モニター経験は、新しく仕事に就いたつもりで取り組むならば、履歴書にも書けるし、悪くはないと思う。

(2024年8月4日記)
………….
2024年11月19日追記

(https://x.com/ituna4011/status/1858765575620571459)
Lily2@ituna4011
そして今、不動産のモニター研修会議が終わったばかり。実際には懇親会で、各自モニターが質問をして、専門家からお答えを頂く形式。いろいろと社会勉強になる。 私は時間切れで質問はなし。来年の会合までに考えておこう。
3:53 PM · Nov 19, 2024

(https://x.com/ituna4011/status/1858768698942816351)
Lily2@ituna4011
モニターは、誰でも応報すれば通るのかと思っていたが、今日の資料を見ると、結構な倍率だった。 年齢制限もあるため、チャンスのある間に経験しておこう、という心づもり。
4:06 PM · Nov 19, 2024

(https://x.com/ituna4011/status/1858770025198612971)
Lily2@ituna4011
訂正
応報 → 応募
失礼致しました。
4:11 PM · Nov 19, 2024

(2024年11月19日転載終)
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今日は第三回目の消費者モニター会合の日だった。

午後2時から3時半過ぎまで大阪の天満橋にある会場で、今年度のモニター39名中32名が出席して、協議会役員の方々との質疑応答の時間が設けられた。圧倒的に女性が多い会合だったが、全員、近畿地方の二府四県から選ばれたモニターだ。

資料によれば、モニター応募は計186名で、その中から計40名が選ばれた。(後に一人辞退者が出た模様で、名簿には39名の名が列挙されていた。)すなわち、21.5%の当選率ということになる。

4月の最初の研修日には、たくさんの資料をいただき、見慣れぬ法律が多くてうんざりした。でも、慣れが肝要で、今では何ら負担に思うこともなくなった。

但し、せっかく不動産について興味が出て来たのに一年だけのモニター経験では勿体ない気がして、できれば来年度も自薦という形で採用されればいいかな、と思っている。

天満橋と言えば、ドーンセンターがある。1998年に、島本町立図書館のチラシで見つけたドーンセンターの女性講座を受けるために、毎週金曜日の午前中、阪急バスと阪急電車と地下鉄で通っていた時期があった。その日の午後には、京大教育学部の知り合いの先生の講義を聴講に行っていた。大阪から京都までは京阪の特急に乗って、車内で簡単なお弁当を食べていた。

あの頃は、今よりも日本の経済状況に余裕があり、人口問題や移民問題も緊迫感が殆どなかった。私も結婚してまもなくだったので、関西のことは何も知らず、今後を見据えて自己確立を、という意気込みだった。主人も、私が自分との結婚のために関西に来て、家事や勉強をしながら家の中だけにいるよりは、少しでも外に出て、いろいろと学んだり、知り合いを増やした方がいい、というタイプだったので、全くお誂え向きだった。

それから半年程経ち、主人が若年性神経難病の診断を下されてからの行程を思えば、何とも若かった、というのか、ほろ苦さだけが蘇って来る。だが、それも人生だ。

伊丹から天満橋までは、地理的には遠くはないはずだが、なぜか心理的な距離感がある。島本にいた頃は、実は遠かったはずなのに、案外に苦にせず、出かけられた。30代前半だったからなのか、これから人生を切り開くのだという意欲のためだったのか、それはわからない。

今は、ドーンセンターのフェミニスト・イデオロギーの傾向がわかるので、近寄ることさえない。だが、ドーンセンターの「女性のための電話相談」では、主人の病気のこと、実母との関係、義母の依存的なもたれかかりのこと等、三十代から四十代前半にかけて、何度もお世話になった。あの頃、話を聞いていただけたからこそ、今は何とかこうしていられるのだろう。

(2024年11月19日記)

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イスラム小話と電子空間

(https://twitter.com/ituna4011/status/1781681246218981881)
Lily2@ituna4011
https://youtube.com/live/Zo8tOgvWnRM?si=aOS18FW-7i_De-Km… via @YouTube
「髙橋和夫さん、旅行中なんだってさ」
「完全にイランの立場で喋ってるんだよね」
10:48 PM · Apr 20, 2024

☚ 過去ブログ(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20121119)を参照のこと。放送大学の教授だったことから、髙橋和夫氏の本でイランについて学ぼうとする人が続出。でも、髙橋洋一氏がズバリと本質をおっしゃっているので、一安心。

この話(後注:過去ブログでの言及)、もう12年前のことなのに、まだ日本では気づかない人々が多い。

私がイランについて危険性を覚えたのは、今を遡ること20年前の2004年4月、同志社大学一神教学際研究センターの共同研究員と神学研究科の嘱託講師に招かれた時からである。イラン政治の専門だという新しく入って来られた先生が、マレーシアでのキリスト教のイバン語聖書について英語で60ページ以上の論文を書いた私に対して、査読(にもなっていないコメント)で滅茶苦茶な嫌がらせをされたからだ。「今回だけは通してやる」みたいな、偉そうに変な言い方だった。

勿論、下記で触れられている主要人物についても、困惑の連続だった。

今だから告白しよう。2004年に東京で研究会があった時、私も参加したが、帰路には、どうしたわけか、このカリフ制復興をもくろむイスラミスト氏と、何と東京から京都までの新幹線で同席だったのだ(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20160122)!勿論、一方的な話ばかりで、「来年度の講義担当は保証できない」みたいなことも匂わせていた。お風呂に入っていないらしい臭いまでしたことを覚えている。(お祈りはどうした!)

自宅に戻ると、主人が「よく、あんな人と一緒に一時間半以上も新幹線で一緒になったなぁ!」と呆れ返っていた。

だから、今や公の顔になりかけている飯山あかりさんが、「私は一人で長い間、孤軍奮闘で闘ってきた。中東イスラム研究者の中で、自分は差別され、排除されてきた」等と公言していることは、実は、事実として正確ではない。全部は読んでいないものの、飯山さんの一般向けのイスラム本について、手持ちの複数冊に関しては記述通りだと、マレーシアのリサーチ経験から私も同意する。そして、2022年8月に開催された伊丹市内での研究発表会でも、自分のリサーチ経験談と共に、飯山さんの著作一冊を紹介し、回覧していただいた。(聞いてくださった中の一人が、今でも飯山さんのYou Tubeを閲覧されている、という。)

但し、飯山さんが繰り返し述べている研究者内部のイデオロギーの偏り問題は、中東のみならず、東南アジア関連でもずっと前から発生していたのだ。恐らく、発展途上国と呼ばれた地域全体が、その対象であろう。その問題の源流は、何もイスラム単独のみならず、そもそも左翼との結託にある。

これらは、ダニエル・パイプス氏が1990年頃から一貫して、精力的に執筆やメディア出演や講演活動を通して主張し、啓蒙し続けて来たことである。

(2024年4月22日記)
。。。。。。。。
(https://https://twitter.com/ituna4011/status/1781945782020780313)
Lily2@ituna4011
多くの人は「アラブの春」を大きく勘違いしている #東洋経済オンライン
@Toyokeizai

https://toyokeizai.net/articles/-/478985…

← 私はマレーシアで嫌な思いをしたことはないが、研究テーマに関しては、事実に基づく手法以外、ない。 飯山さんが当選して学究の流れを変えてくださったら、私もあれを出せるかも?
4:19 PM · Apr 21, 2024

(https://twitter.com/yukin_done/status/1782190590404477268)
You reposted 
六衛府@yukin_done
イスラム研究を続けていくうちにイスラムの精神世界に取り込まれていくのか知りませんけど、イスラムへの原理的理解こそが正義のような研究者がいますよね。中には帰依する者までいて、研究しているのか宗教に没頭しているのかわからない(本人はそれが正しいと思っているだけに怖いです)人までいます。
8:32 AM · Apr 22, 2024

(https://twitter.com/Funako1Yy960/status/1782232433909448802)
YYYF9696@Funako1Yy960
この人が飯山博士との嚙み合わない往復書簡本「イスラームの論理と倫理」の共著者であり、単身で戦っておられる飯山博士に対抗する中東学者2~300人を率いる総帥の中田考氏ですか。ここにある短い言葉だけでも、いかにも、とすぐに納得できます。
11:18 AM · Apr 22, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1782193106240311429)
Lily2@ituna4011
鋭いご指摘。 20年前を思い出します。
8:42 AM · Apr 22, 2024

(2024年4月22日転載終)
。。。。。。
《参考》

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20160122)
2016-01-22「「N氏」のこと」
《これまでの小さな我が人生で、はからずも、何事も(日本語教育、マレーシア赴任、マレーシアのキリスト教と聖書翻訳事情、ムスリム接触など)一般世間よりも十年ほど先駆けて、生で触れる経験をしていたことになる。》

今朝、本当に久しぶりに20年前のことが思い出され、N氏の最愛の奥さんだった女性のことも記憶の淵から蘇ってきた。

私より4歳年上で、京大文学部卒の才媛だったが、フランスに留学して1990年代初頭にイスラム入信。その後はエジプトにわたり、イスラムの勉強そしてムスリムN氏との結婚。サウジアラビアにも一緒に駐在された。イスラム・ルートとしては王道を行っている。
帰国後は、『ムスリム新聞』を発行し、自宅でイスラム改宗者向けに教えたり、アラビア語の翻訳をしたりしていたそうだ。

2005年前後にホームページで見たところでは、「ムスリムになればスカーフで全身を黒く覆うため、男性の視線を気にせずに堂々と中身で勝負できる」等と、わけのわからない話を強気でよく綴っていらした。才気走った感じで、慎みとか遠慮とか相手を慮ることの少ないタイプだった。眼鏡姿の野暮ったい風貌だったが、それでも男性の目を意識した暮らしだったのか、と意外な気もした。

2008年8月、乳ガンのため47歳の若さでキリスト教のホスピスで亡くなったそうである。夫たるイスラミストN氏が献身的に世話をされていた、とも聞いている。しかし、どうしても最後まで折り合えないタイプだったことは確かだ。

その後、本件は関西での狭いキャンパス内部の話に留まらず、いつの間にか大学教授を辞め、東京に移住。そして、イスラム絡みの中東で日本人が犠牲になる度に、メディアにも堂々と出演して発言していた。熱心なファンクラブができたようで、差し入れで生活しているような発信もあった。何か人目を引く変わったことをやってみたい閑な人、反体制的生き方に憧れている人、学歴コンプレックスの強い人、日本社会で疎外感を抱いている若く拗ねた人等が、引き寄せられてオルグを形成していたようにも見えた。

主人の健康問題のことがあったため、私は、異常にストレスが倍加するようなこの種のタイプとは関わりを持たず、他の分野(ユダヤ教、イスラエル史、クラシック音楽、読書、家事等)で自分の視野を広げる努力をしながら、専ら自宅で静かに過ごしていた。そうこうするうちに、2012年3月から丸6年間、突然依頼されてダニエル・パイプス氏の著述をウェブ上で翻訳することになり、ロシア・ソビエト史研究者でいらしたお父様の世界観、歴史観、人間洞察にすっかり魅せられて、現在に至っている。

つまり私は、(飯山さんよりも遥か先に)「闘わずして勝った」のだ!しかも、体力やエネルギーを温存しながら、である。

(2024年4月22日記)
。。。。。。。。
参考までに、古いツィートを転載しよう。

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20160122)

ユーリ(Lily) (id:itunalily)

(https://twitter.com/ituna4011/status/1252379544645824514)
Lily2‏ @ituna4011 29 minutes ago
Lily2 Retweeted 飯山陽#引きこもりは世界を救う #StayHomeSaveLives

お若い飯山先生には大変に失礼ですがが、私は某大学の中田考氏の元で、2004年から3年ほど大変な思いをしていたんですよ!つぶされた。今頃、そういう意見が続出するなんて、日本の反応、遅れてる?!
8:32 AM – 21 Apr 2020

(https://twitter.com/ituna4011/status/1252387844192006149)
Lily2‏ @ituna4011 46 seconds ago
Lily2 Retweeted Lily2

《失礼ですがが》
←「失礼ですが」 お詫びして訂正いたします。
9:05 AM – 21 Apr 2020

(https://twitter.com/IiyamaAkari/status/1252174125251964928)
飯山陽#引きこもりは世界を救う #StayHomeSaveLives‏ @IiyamaAkari
14 hours ago
飯山陽#引きこもりは世界を救う #StayHomeSaveLives Retweeted

中田考氏は、イスラム教だけが真の宗教で、アッラーが唯一の神なので、神道は滅びればいいと言っている。
https://twitter.com/HASSANKONAKATA/status/1252173286466715649 …
6:55 PM – 20 Apr 2020

(2020年4月21日転載終)

ユーリ(Lily) (id:itunalily)

(https://twitter.com/IiyamaAkari/status/1313436424553652225)
飯山陽 Dr. Akari IIYAMA@IiyamaAkari

中田考氏は日本のイスラム学界のど真ん中、超主流ですよ。だからみんな、中田考氏を「イスラーム学の第一人者」と崇め、好んで引用してますよね。中田考氏の主張は板垣雄三大先生の主張を基本的に踏襲していることを、私は先日発売された『イスラームの論理と倫理』でも指摘しました。
8:10 PM · Oct 6, 2020

(2020年10月7日転載)

(2024年4月22日転載終)
。。。。。。。。
「板垣雄三」氏に関しても、既に私は過去ブログで綴っている。

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20080107)
2008-01-07「一つの宗教思想にまとめる潮流」

《かの板垣雄三氏も、日本のクリスチャン向け雑誌にですら、すべての宗教はイスラームに向かっているとムスリムは考える、という意味のことを述べていらしたので(参考:『信仰生活を豊かにするキリスト教雑誌:信徒の友』(2002年6月号)[特集 イスラーム世界とキリスト教]日本キリスト教団出版局 pp.18-23)。さらに、それに遡ること2001年9月20日付『朝日新聞』朝刊「私の視点」で、同氏が「イスラム文明は近代欧米文明の源泉である。日本の知識人がイスラムへの無知を口にするのは、実はよく知っていると思っている欧米への無知を告白しているにすぎないのである。」とまで言い切っていらっしゃるのですが、ギリシャ語からアラビア語への翻訳を担当されたのが、ズィンミー・クリスチャンや、ズィンミーとムスリムの結婚による子弟であったという説(Kenneth Cragg “The Arab Christian: A History in the Middle East” Westminster/John Knox Press, Louisville, Kentucky, 1991)については、どう釈明されるのでしょうか。》

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20120126)
2012-01-26「人と人とはつながっている」

《板垣雄三先生は、数年前の学術上の会合で、もちろん席は離れていましたが同席の機会もありましたし、過去にこの「ユーリの部屋」ブログでも、お名前を引用させていただいたことがあります(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080107)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091110)。
池内恵氏が、いつの日文研の公開学術講演会だったか、「偉い先生を批判すると、大変なことになる」と本音を漏らし、思わず会場から笑いを誘っていたことを思い出します》

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20151203)
2015-12-03「イスラーム世界の勉強会って?」

《実は明日、長野でイスラム世界勉強会(http://muslimworld.naganoblog.jp/)のキックオフなる会合が開かれる。実は、父方の大叔父の故加藤静一が長野アラブ友好協会の設立者で(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080422)、その後続としての位置づけなのだそうだ。私は遠戚というには近い親戚の末端だが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151112)、その関係で、ご案内を主人の勤め先が所属する企業グループの方からいただいた。》
《それに、その会合の長となる方は、私もかつて某大学の会合で同席したことがあるが、何としたことか、1985年に研究目的で滞日されていたダニエル・パイプス先生を、中東学会で冷たくあしらった板垣雄三氏なのである(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140306)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150120)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150214)。そのことが、2012年1月に文通が始まってまもなく、日本で「イスラエルに対する敵意の壁を感じた」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120126)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120505)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120528)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120917)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131124)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130403)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131210)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140205)と、パイプス先生が私に書き送られた内情だった。》

(転載終)

ちなみに、何かを勘違いされたらしく、私は飯山さんからツィッターをブロックされている。そういう気の強さ、頭の回転は速いかもしれないが、見知らぬ相手の立場を全く考慮せずに一気に突進して行く点が、いささか懸念される。池内恵氏のように京都時代には評価の高かった研究者でも、変貌してしまったのだから、あの界隈には近づかない方が身のためではある、と私は思った。

(2024年4月22日記)
。。。。。。。。。
気分直しに、下記を。

(https://twitter.com/ituna4011/status/1781943878490501512)
Lily2@ituna4011
曲を知らないのに、拍手 !
4:11 PM · Apr 21, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1782031172060741716)
Lily2@ituna4011
知らなければ拍手できないのでは?
9:58 PM · Apr 21, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1782033553670496385)
Lily2@ituna4011
フライイングは演奏家にとって腹立たしいことのようです。
10:08 PM · Apr 21, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1782036990734782795)
Lily2@ituna4011
元々、このツィートはプロのフルート奏者さんのコメントが自動的に上がってきたので、私が勝手に応答したことから始まっています。演奏者にとっては、曲の終わりの余韻を味わってほしく、無音状態のような瞬間も音楽なので、曲を知らない人に拍手してほしくないという呟きだったようです。
10:21 PM · Apr 21, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1782037486816182674)
Lily2@ituna4011
ところで今日の夜、ツィッター(X)の私のアカウントが何者かによって突然閉鎖されてしまいました。従って、2012年からフォローしてきた友人知人のアカウントがわからなくなってしまいました。皆様、ごめんなさい。
10:23 PM · Apr 21, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1782037857508683898)
Lily2@ituna4011
あら?このように書いた瞬間、元に戻っていました。傍迷惑なことです。だから私は、デジタル化に反対。アナログとの併用が好みです。目も疲れないし。
10:25 PM · Apr 21, 2024

(2024年4月22日転載終)
。。。。。。。
実は、マイクロソフト・エッジとグーグル・クロムの二つのアカウントで同一ツィッター(X)を開いていた。

ところが昨晩、ふと気づくとマイクロソフトの方が突然、「アカウントは閉鎖されました」と英語表示されて、アカウントが消えてしまっていた。驚いて復旧しようとすると、私のフォロー数が全部消えてゼロになっている。そして、何と新しいアカウントを設定するように誘導されているのだった。

幸いなことに、グーグル・クロムの方は元のままなので、そちらを使用している。

複雑なことに、フェイスブックの方は、グーグル・クロムではメッセンジャーが開けないために、マイクロソフトを使っている。

つまり、最初は面倒だと思っていた二種類の版が、こういう時には絶大な効力を発揮するのだ。

それにしても、電子空間は目が疲れるし、案外に時間を浪費するし、いつの間にか勝手に閉じられたり、規則が変更されたりして、不自由なことこの上ない。

(2024年4月22日記)
(2024年4月23日一部修正)
…………….
2024年4月27日追記

(https://twitter.com/praises2014/status/1782433000204173642)
You reposted
twitter.com/praises2014/status/1782366479419400248
勝利 #IStandWithIsrael ,Ukraine @praises2014·
飯山先生、既存イスラム学術界の中で「ひとりで戦ってきた」 確かにその通り、飯山先生には既存イスラム業界の闇の他、光を当てて頂きたい領域がまだある https://youtu.be/BBlVxFSD2rw?si=3m0mjIICI7y2YtUO… @YouTube

(https://witter.com/praises2014/status/1782366479419400248)
You reposted
勝利 #IStandWithIsrael ,Ukraine@praises2014
ただ何事にも先人が居り、おひとりで戦ってこられた方々は先にもいらっしゃる 私の先輩のように潰された人もいるし、体験や論考をSNSで発信しない人も、して下さった人も居る
8:10 PM · Apr 22, 2024

勝利 #IStandWithIsrael ,Ukraine@praises2014
あと、学術界に限らず民間業界の中でも、またはそれ以外の場でも奮闘している方々は居るはず その中には敵を増やさず作らず、戦わずして勝つ方も稀にいらっしゃる おそらく忍耐強く知恵も知見もお持ちなのだろうと思う
12:35 AM · Apr 23, 2024

(https://twitter.com/praises2014/status/1783114105500700696)
You reposted 勝利 #IStandWithIsrael ,Ukraine@praises2014·
Apr 23 2024
Lily’s Room (Part2) さんブログから 「イスラム小話と電子空間」 http://itunalily.jp/wordpress/

Lily2@ituna4011
Apr 24 2024
ありがとうございます !

勝利 #IStandWithIsrael ,Ukraine @praises2014
いえ、本当にこちらこそ、有難うございます。
9:41 PM · Apr 24, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1783048536541766078)
Lily2@ituna4011
国文学の一部を除き、文系は平成の大学改革以降、酷くなりました。
5:21 PM · Apr 24, 2024

(https://twitter.com/praises2014/status/1783359579499462750)
勝利 #IStandWithIsrael ,Ukraine @praises2014
たびたび投稿してきましたが、私(達)はキリスト教神学者としてイスラム教を学んだ先生の下でイスラムとコーランを学びました。その先生はイスラムについての著書を企画したところ同僚ムスリムの方に制止されたとのこと(先生の身を案じて)。 飯山先生が第一号のご著書を発刊される前の話。それで、
1:57 PM · Apr 25, 2024

(2024年4月27日転載終)
。。。。。。。。
(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)

2024年4月26日投稿
私もマレーシア新聞のアーカイブを持っている。整理して提示すれば、何か一歩前進?

(2024年4月27日転載終)

Posted in Daniel Pipes, Japanese culture, Malay studies, research topics, Richard Pipes, Studies related, © 2024 by Ikuko Tsunashima-Miyake | Leave a comment

シャガールについて

朝日カルチャーセンター(https://www.asahiculture.com)から、4月2日に、樋上千寿氏(美術史家)による「シャガールの芸術とユダヤ教文化」オンライン講演会(新宿教室)のご案内をいただきました。
「朝日新聞は、イスラエルに対して不正確な片寄った報道しかしないから、✕」と思っている方、残念でした。実は、この朝日カルチャーセンターの講座紹介は、日本イスラエル親善協会のメーリングリストによるものです。

本日の午前中、9時半きっかりに、ZOOMで講義が始まりました。なんとたっぷり11時23分までと充実した内容で、何曲かのクレズマー音楽を聞かせていただきました。
。。。。。。。。
(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)

2024年4月20日投稿

ただ今、拝聴いたしました。後半に進むにつれ、ますます深いお話が続きました。
クレズマー音楽は、日本人の感性にも合うのではないでしょうか?
東欧ユダヤ教徒の結婚観も、昨今の軽薄な日本の風潮に対して一種警鐘を鳴らすのでは?
10年以上、京都ユダヤ思想学会でさまざまな学術発表や討論を聞かせていただき、このような講座にも無理なくついていけることを喜んでおります。
シャガールの絵画は、イスラエルのクネセトにも掲げてありました。
2015年春の訪問時に拝見いたしました。

(転載終)
。。。。。。。。
過去ブログから、シャガールに関する言及を。

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20090701)
2009-07-01「シャガールと聖書 そして共感覚」

《昨日の小さな発見。部屋にかかっていたカレンダーの説明書きに「シャガール聖書美術館」とあったんです。シャガールと言えば、幻想的な特徴のある絵が印象的でしたが、ユダヤ系であることを除けば、特に背景を知っていたわけでも興味があったわけでもありませんでした。
カレンダーの絵は、1961年に描かれた油絵の「楽園を追放されるアダムとエバ」です。創世記3章22節から24節をモチーフとしています。全体が緑色がかっていて、ケルビムときらめく剣の炎が中央左寄りに描かれ、夢のような情景です。》

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20090705)
2009-07-05「ここでひと息(1)」

《・マルク・シャガール(著)三輪福松/村上陽(通訳)『シャガール わが回想』朝日選書270(1985年)
・ピエール・ブロヴォワュール(著)幸福輝(訳)『パステルによるシャガールの聖書』岩波書店(1986年)》

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20090707)
2009-07-07「「神の名」裁判の延長」

《昨日届いた本は、H-M・ロータームント(著)佃堅輔/佐々木滋(訳)『シャガールで読む旧約聖書』図書新聞(2008年)です。とても興味深く読めそうです。》

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20120416)
2012-04-16「物事の両面を見ること」

《今日の午後は、何とか用事を切り上げて、最終日となったシャガール展を見に、一人で京都四条の高島屋まで行ってきました。朝日メイトのおかげで、無料で入場できたのはよかったのですが、少し時間切れで、》
《結構、人が入っていたように思います。時間帯から中高年が中心でしたが、それでも、熱心に見入る人々がほとんどでした。
記念として、二枚ずつシャガールの絵画の葉書を買いました。》

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20120418)

2012-04-18「シャガールの展示会(於:京都)」
《「愛をめぐる追想:日本未公開作品を中心に」と題する展示会を、4月16日の最終日に、京都高島屋7階で45分ほど見て回りました(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120416)。》

(2024年4月20日転載終)
。。。。。。。。
2015年春に中東フォーラムの旅団に交じってネゲブ・イスラエルの旅に行った際、エルサレムのクネセトにも入れていただいた。待合室で待っている時、ふと壁に大きく掲げられていた絵画を見て、私が「シャガール?」と尋ねると、アメリカ中西部在住の男性が「そうだ、シャガールだ」と応答。

今でも時々、シャガールの絵画をフェイスブックで転載すると、ほぼ間違いなくイスラエルやアメリカのユダヤ系の方が応答される。

恐らく、我々にはわからない特別の感情や感覚が込められているのだろう。

(2024年4月20日記)

Posted in Studies related, © 2024 by Ikuko Tsunashima-Miyake | Leave a comment

令和書籍の教科書が検定合格

(https://twitter.com/takenoma/status/1781468523145125911)
竹田恒泰@takenoma
【令和書籍】「慰安婦」「徴用工」に強制性はなく賃金が支払われたこと、朝日新聞の誤報、朝鮮併合の経緯、日本統治時代の多大な投資など、史実を正確に書きました。韓国の新聞が詳報を伝えています。 「慰安婦」動員の強制性を否定する日本の教科書、検定で追加合格
8:42 AM · Apr 20, 2024

(転載終)
。。。。。。。。
ハンギョレ新聞』(https://japan.hani.co.kr/arti/international/49787.html)

「慰安婦」動員の強制性を否定する日本の教科書、検定で追加合格
登録:2024-04-20 06:25 修正:2024-04-20 08:05

 日帝強占期(日本による植民地時代)の「慰安婦」動員の強制性を否定する極右的内容まで書かれた日本の中学校の歴史教科書が19日、検定を通過した。
 日本の文部科学省はこの日、令和書籍が発行した中学校の歴史教科書2種が「検定決定未了としていた2点の申請図書について、情報管理の状況等について確認を行った結果、以下のとおり教科用図書検定規則第7条第3項に示す申請者による特定行為に該当しないと判断した」として、検定合格の決定を行ったと発表した。これに先立ち、文部科学省は先月、歴史、地理、公民など中学教科書の検定結果を発表したが、令和書籍の歴史教科書2種は発表を控えて異例にも合否の決定を保留した。当時、共同通信は「検定の内容が公表前に外部に漏れたことが確認され、(文部科学省が)精査のため合否の決定が見送られた」と報道した。右翼史観の歴史教科書は、直前の教科書検定の2020年当時は7種のうち1種だったが、今年は先月検定に合格した育鵬社と自由社に令和書籍2種を合わせて、全10種のうち4種に増えた
 令和書籍の歴史教科書には、最近右傾化の傾向が強まっている日本の教科書の中でも極右的な内容が含まれている。「蒸し返しする韓国の請求権」というタイトルのコラムで、日本軍が朝鮮の女性を強制連行したという事実はなく、彼女たちは報酬をもらって仕事をしていたという内容の記述もみられる。「慰安婦」動員の強制性を認め、歴史教育を通じて忘れないと宣言した日本政府の公式見解「河野談話」(1993年8月)と食い違う内容だ。
 令和書籍の歴史教科書には、日本の朝日新聞が2014年に過去の慰安婦報道の中で誤りがあったと認めた吉田清治氏の証言に触れ、慰安婦被害問題全体が偽りであるかのような主張が展開された。これは先月検定を通ったもう一つの右翼教科書である育鵬社の教科書にもある記述だ。
 また、同教科書は朝鮮に対する日本の植民支配についても、朝鮮総督府は土地調査を行い、鉄道、ダム、上下水道、病院、電話、郵便など社会基盤を整えていったなどと美化した。また、強制動員問題に対しても賃金が支給されたとして問題がなかったという内容で記述した。
 このような歴史教科書が検定で合格したのは、日本の歴史認識の後退を端的に示している。令和書籍は歴史修正主義者として批判された安倍晋三首相が在任していた当時の2020年に、検定で不合格になった前歴がある。その後、令和書籍はアマゾンなどで検定不合格の教科書だとして、それを売りにして本を販売してきた。
 韓国外交部は同日、報道官声明を発表し「日本政府が独島(トクト)に対する不当な主張と日本軍慰安婦被害者問題、強制徴用問題、植民支配に対する極めて非常識で理解できない偽りの記述を含む教科書を検定で通過させたことに対し、深い遺憾を表明するとともに、直ちに是正することを求める」と明らかにした。

 カン・インソン外交部第2次官は同日午後、外交部庁舍に相星孝一駐韓日本大使を呼んで抗議を伝えた。

チョ・ギウォン記者、パク・ミンヒ先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

https://www.hani.co.kr/arti/international/japan/1137390.html韓国語原文入力:2024-04-19 21:23
訳H.J

(転載終)

太字はLilyによる。
。。。。。。。。
(https://twitter.com/takenoma/status/1781241897547395537)
竹田恒泰@takenoma
令和書籍の中学歴史教科書が、文科省教科書検定で合格となりました。6年がかりで合格に至りました。長年応援してくださった方々に御礼申し上げます。今後は採択に向けて活動していきます。 正式名称はこちらです。 『国史教科書 第6版』 『国史教科書 第7版』
5:42 PM · Apr 19, 2024

(転載終)

(https://twitter.com/ituna4011/status/1781579523236254158)
Lily2@ituna4011
おめでとう御座います。以前の版を一冊持っています。興味があるのは、竹田教科書で学んだ子供達と、例えば山川の教科書で勉強したケースでは、大人になってからの態度や物腰に、どの程度の違いが現れるか、という点。知識量や偏差値ではなく、人間観や世界観等の点で、です。
4:03 PM · Apr 20, 2024

(2024年4月20日転載終)
…………..
2024年4月27日追記

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教科書検定合格スペシャル!!(#101 令和6年4月19日) https://youtu.be/7ttXffyftB8?si=9tUaHn1eXK8CuOjE… via @YouTube
☚ 竹田さん、白髪が増えましたね!お疲れさまでした。
5:35 AM · Apr 26, 2024

(2024年4月27日転載終)

Posted in Japanese culture, Uncategorized, © 2024 by Ikuko Tsunashima-Miyake | Leave a comment

生涯かけての教育とは?

昨日の午後遅く、市内のミュージアムで1時間半程、三つの展示(柿衛文庫・美術展・酒造)を見て回った。覚え書きを記す。

(1)放送大学の学生証を使って割引入場していたのが、しばらく前から「全科生以外は不可」となった。

私は今年の3月で大学院の全科生を修了している。以前は放送大学の特典として、何回か200円か300円の割引が使えた。伊丹市のミュージアムを訪問される方には、そんなに「放送大学の科目生や選科生」が多かったのだろうか?不可解である。

(2)「博物館友の会」や「COOPこうべ」等の会員は、会員証を提示すれば、団体割引扱いになる。

以前からそうなっているとのことだったが、私は初めて知った。しかも、受付に置いてあった説明書きを見て私から尋ねたので、あやうく150円乗せが割引に落ち着いたのである。
放送大学の学生証は使えなくとも、ボランティアのグループである「博物館友の会」には年間4000円(私が入会した2020年7月当時は年会費5000円だった)を払っているので、有効活用しない手はない。(「COOPこうべ」に関しては、残念ながら2025年1月には近所の行基支店が閉鎖される予定なので、いつまで利用できるかは不明である。)

(3)割引料金で入館する理由は、浮いたお金で記念絵葉書や冊子の購入に充当するためである。

(4)旧博物館を取り壊して「歴史部門」に縮小して、ミュージアムとして統合された三部門であるが、時間のある日を見計らって一度に見て回らなければ勿体ない。

(5)毎度のことであるが、美術展は凝った作品が多いにも拘わらず、子供連れや高校生ぐらいの若い人も含めて、まずまずの入館者がいた。

(6)私好みの柿衛文庫は、小さなコーナーではあるものの、しっとりと落ち着いて上品。歩いて来られる距離で第一級資料を繰り返し閲覧させていただけるなんて、と毎回、感激している。3月23日に東京での放送大学の学位授与式でお目にかかれた、島内裕子先生や魚住孝至先生のお声が聞こえるかのような錯覚を覚えた。

(7)残念ながら、酒造の展示には一人もいなかった。すぐ近くには子供連れの女性達が何人もいたのに、決して入ってこようとはしなかった。売店係も兼ねている見回りの女性一人が、明るく声掛けをして頑張っていた。
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伊丹に転入した2018年9月下旬以降、私は上記三つの展示を欠かさず見ている。

昭和47年に建てられた旧博物館は、何よりも雰囲気が好きだった。自宅から歩いて7,8分の距離にあり、朝の散歩や市役所の用事等と兼ね合わせて、新しく住むことになった土地の来歴を知る上でも、地理を覚えるにも、気分転換としても、非常にいい時が過ごせた。そのおかげで、「博物館友の会」に入るきっかけができ、顔見知りもすぐにできたのである。

一方、ミュージアムの統合問題としては、以下の点を挙げたい。

催し物への参加申込みをするのに、以前ならば、電話で応対されたのが顔見知りの学芸員さんや職員さんだったので、30秒ぐらいで手続きが済んだ。今では、新たに雇用された全く知らない方が毎回対応される。逐一、名前や電話番号を尋ねられ、決まりきった注意事項を告げられるために、3分から5分ぐらい時間が浪費される、という事態が発生している。

(同じことは、取り壊して新築された保健センターでも起こっている。以前ならば、顔見知りの保健師さんや管理栄養士さんが電話を取っていたので、声だけで「あ!〇〇です!」で済んだ。親しみがあり、顔パス同然で手続きが済み、お互いに時間の節約にもなっていた。さらに、毎年配布されていたはずの『健診便利帳』の発行が遅れており、新年度が始まった4月の中旬になっても、「できていません」「いつ頃になるか、わかりません」「印刷部数が多いので….」とのこと。これでは、健康維持のための計画どころではない!)

ミュージアムに話を戻すと、販売物の受付は「総合案内窓口」となっているのに、実際に柿衛文庫の絵葉書を買おうと思って小さな紙切れに記入して窓口まで歩いて行ったところ、二人の女性係が受付に座っているにも拘わらず、「担当者を呼びます」と内線で呼び出した。そして、走ってエレベーターで降りてきたらしい柿衛文庫の職員さんが、たった絵葉書3枚のために、入れる封筒をあれこれ探したり、レシートではなく領収書を手書きしたり、結局はサイズが合わなかった絵葉書を別の透明プラスチック袋に入れようとしてなかなか入らなかったり……と、なんと5分もかかったのだった。

それでは、この総合案内窓口の女性二人は何のために座っているのか?あなた方が販売担当を受け持てば、少なくとも3分ぐらいは節約できたのではないか?柿衛文庫担当さんは、仕事を中断する必要がないのでは?

「こちらは、暇だからミュージアムに来ているんじゃありません!」と、言いたいところだ。
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酒造展示の説明書きには、麗々しく「変化が著しい昨今では、多様性に柔軟に適応するために….」云々とあった。

何ら珍しいことではない。いわゆる「ダイバーシティ・イデオロギー」であり、ダグラス・マレイ氏等が痛烈に批判して世界的に注目を浴びている動向である。

伊丹のような阪神間の都市部では、沈思黙考せず、流行に遅れまいとして、とりあえず目先の潮流に飛び乗ることを「世渡り上手」と自負しているかのような人々の態度が、表面的には垣間見られる。(あくまで「表面的には」だ。)

しかし、その「ダイバーシティ」そのものの内実に矛盾や葛藤が共存するために、見た目は小綺麗なミュージアムの人的効率は下がっている。そして、「お金がない」「企画の一つが消える」という話が、何となく漏れ伝わって来る有様である。

私のように既に学ぶ側に回っている世代は気楽だが、働く主力世代、特に女性層にとっては、疲労困憊の連続であろう。家庭との両立どころではない。

そして、元気で活発な高齢者世代にとっては、「展示の質が下がった」「よその資料館や博物館に行くと、伊丹在住であることが恥ずかしい」という不満を抱くことにもなっている。(この類の話も、時々耳にする。)
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今年の2月下旬、芭蕉関連の学芸員さん達が大垣と伊賀から来られ、柿衛文庫の学芸員さんと一緒に、パネリストとして率直なところを語り合う企画があった。なかなかの盛況で、こうした場を設ける意気込みは大切である。

ちょうどその一ヶ月後に催される放送大学大学院の学位授与式のために東京へ行く決心をし、義母から譲られた正絹の色無地着物で出席すると決めて、市内の呉服屋さんと打ち合わせをしていた。その合間を縫っての参加だった。

呉服屋さんには70代半ばの女性がパートで勤務されており、テキパキと話を進めてくださった。小物や帯との色合わせや洗い張り等、的確に助言をくださり、非常に助かった。

お話をうかがうと、その昔、御主人のお仕事でシンガポールにも二度、滞在されていたそうだ。英文科のご卒業で、若い頃は洋風文化に憧れていたが、シンガポールで着物を披露したところ、とても評判が良かったらしい。そして、駐在員の奥様方に「遊び人が多かった」雰囲気を嫌い、中国語(恐らくは普通語)を習いに行くようになり、「お友達も増えた」ということだった。それをきっかけに着物の勉強を始め、「今も勉強の毎日ですよ」とおっしゃっていた。その結果、再就職として今も呉服店で働いている、とのこと。

何となく、マレーシア駐在時代の自分を思い出させるような話だった。私だって帰国後、裏千家の茶道を習おうと思ったきっかけは、民族色豊かなマレーシア文化に触れたことだった。そして、勤務の休みの日には、(あまりモノにならなかったが)マレー語を習いに行き、ブリティッシュ・カウンシルで上級クラスに入れていただいて、たくさん出される課題の英語を必死に勉強していた。日本の伝統文化や歴史に関心が深まったのも、海外経験のおかげだ。

というわけで、急速に話が弾み、よくお電話や葉書をいただいたりするようになった。こちらも御礼がてら、学位授与式の着物姿の写真を呉服店に見せに行ったりして、喜んでいただけた。

その方は、ミュージアムの芭蕉の講演会に「たくさん来られてましたか?」と尋ねられた。何となく、動向を気にかけていらっしゃるようだった。

……長くなったが、話を元に戻すと、芭蕉展に関しては、大垣が最も盛んで冊子もたくさん発行されている。学芸員さんも元気がよく、はつらつと説明をされていた。発行物を注文したところ、真っ先に送られて来たのが大垣だった。つまるところ、回転がいい。

芭蕉翁ゆかりの地でもある伊賀では、赴任当初、女性学芸員さんは「ここでは‘芭蕉’と言ってはいけません。‘芭蕉さん’と言いなさい」と注意された由。

似たような話は京都でもあり、菅原道真公について小説『泣くな、道真!』を書いた若い女性作家が、太宰府で「道真公を呼び捨てにするなんて!」と注意されたと、講演会で述べていた。

このお二方の女性は、いずれも京都の有名私立大学の大学院で学位を取得されている。現地感情を無視して自分本位で事を進めようとしているから、地元の方々に注意されたのだろうか。もっとも、私にとっては「言わずもがな」であり、「それじゃあ、キャンパスや狭いアカデミアでは通用しても、世間一般では駄目なんですよ。社会常識じゃないですか!」と言いたいところだ。

伊賀の学芸員さんは、古文書に触れられる「特権」という言葉を連発しており、そこも気になった。自己中心、と言っては強過ぎるかもしれないが、「私中心」発言に聞こえるからだ。案の定、会場に並べてあった冊子を後日、電話で注文したところ、「ここには置いてありません」という。「置いていないならば、なぜ会場で提示されたのでしょうか?」と問うと、「見本」版ならば、お送りしてもいいですけど、との由。

けど、じゃないんですよ!一体全体、資料館や記念館や博物館のような事業を何だと考えていらっしゃるんでしょうか?
そして、同日に現金封筒で申し込んだ冊子は、大垣が即座に届いた反面、伊賀は数日遅れだった。

恐らく、呉服屋さんでテキパキ働いていらっしゃる70代半ばの女性にとっても、こういった昨今の風潮を苦々しく思われているのではないか、と感じた次第。

介護待機群のような「後期高齢者」という失礼な一括扱いを政府自らがするようになって20年以上も経った。実のところ、日本社会の知的水準も作業効率も生活の質も、どんどん劣化している。

現実には、呉服屋さんの女性のように、教養を磨くために「今でも休みの日には、呉服屋さんを回ったり、いろいろな展示を見たりして勉強しているんですよ。毎日が勉強」というしっかりした方が少なくないにも拘わらず、である。

学芸員さんの話に戻ると、柿衛文庫の担当者が、「ミュージアム開設以来、自分が何をしてきたかの記憶がないぐらい、もう必死だった」とのこと。これが最も率直で正直な感想だろうと私は思った。

統合と言えば聞こえはいいが、博物館が縮小して引越してきて「歴史部門」を名乗り、従来その地にあった他の諸部門と一緒になると、同じ「学芸員」の肩書であっても、考え方や態度等に違いが大き過ぎて、「とても気を遣ってきた」。

予想が的中、というところである。

実際、2歳の子を持つ30歳前後の市内在住の若いお母さんから「なぜ博物館をなくしたのですか?ミュージアムだと、外国みたいで嫌」という意見を聞いた。勿論、折に触れて二つのアンケートにその旨記して「上に上げた」が、どのように意見調整されるのか、不明である。

(2024年4月17日記)
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PS: 上記の芭蕉シンポの時、最も活発な40代の大垣の学芸員さんがおっしゃっていた。「こういう仕事は、ただ『学校を出て資格を取って就職しました』だけでは、中(つまり博物館や資料館や記念館等の職場)に入ってからがきついだろう」と。

その派生形として私が感じたことは、呉服屋さんの話。「着物の格や決まり事を教科書的に覚えて、『これはこうだから、こうしないといけない』みたいに若い人は言うけれど、経験が不足していると、そうなる。基本はしっかりと身に付けた上で、地域差や時代の違いや個性等を踏まえて、組み合わせ方にはいろいろあるとを知っていくことが大切」らしい。

(2024年4月17日追記)
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2024年4月27日追記

日経新聞』(https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD086SW0Y4A400C2000000/)
「ミュージアムは包摂的か 多様な人々受け入れる場を模索」
2024年4月24日

ミュージアムで多様な人たちを受け入れる動きが広がっている。身体的な障害にとどまらない。乳幼児連れ、引きこもり、発達障害など、これまで来館者としては見過ごされがちな事情を抱えた人々に目を向ける。
「作品を展示する位置を車椅子/子ども目線にする」「乳幼児向けの託児室を設ける」
国立西洋美術館(東京・台東)で開催中の展覧会「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」では、アーティスト田…(省略)

(転載終)
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(https://twitter.com/ituna4011/status/1782977163849027602)
Lily2@ituna4011

https://nikkei.com/article/DGXZQOUD086SW0Y4A400C2000000/…

☚ 矛盾の内包を解決していない。

(2024年4月27日転載終)

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