昨日は午前と午後の二回に分けて、地域文化史を学ぶ機会があったので、備忘録的に書き留めておく。
1.大手前シティカレッジ公開講座
2024年2月20日、伊丹市立図書館「ことば蔵」の一階にチラシが置いてあったので、4月の一回分のみファクスで申し込んだものである。
「阪神間の歴史とその特色」というタイトルで、大手前大学の副学長兼教授がお話になる予定だった。伊丹市立博物館協議会や伊丹市文化財審議委員会の委員長を歴任されたとのことで、非常に期待していたが、会場に到着すると、平謝りに何度も「朝からバタバタしまして」とアナウンスが入り、講師が急病のために急遽、代講となった由。
この先生は、伊丹の有岡城下町を発掘中、江戸時代の酒蔵も発見されたそうで、文献研究が中心だった酒造りに関して、考古学的研究として伊丹酒造に関する日本初の報告書をまとめた、という。それなら、チャンスのある間に、是非ともお話を聞いておかなければならない。
後日、日を改めて設定し、ホームページか郵送で連絡があるとのことだったので、ご回復を祈念しつつ…..。
今回は、70人から80人までという定員を上回る申し込みがあり、160人以上の応募があった、という。私は、図書館でチラシを見て、自宅のカレンダーを確認してすぐに、手続きを取って正解だった。
代講は海老良平先生が担当され、「阪神間の珈琲の歴史」にタイトル変更。「朝、連絡が入った」ので「一時間前にできたパワーポイント資料」だとのことだったが、初耳の私には、全てが新鮮な内容だった。簡単に述べると、昨今、「伊丹は酒の街」で売り出しているとすれば、「西宮はコーヒー文化」で鳴らしている、ということらしい。
「サンパウロっ子」の意味を持つブラジル産のコーヒー店「カフェ・パウリスタ」は、通の方達には根強く今でも人気があるようだ。また、スウィーツ各種も楽しめる、という話だった。出席者は相変わらず中高年が多かったが、質問も活発で、よい会合だったと思う。
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ところで、大手前大学には今回初めて訪問した。「阪急夙川駅」というと、学生時代に読んだ遠藤周作氏の本に時々出て来たので、名前だけは馴染みがあったが、高級住宅街の西洋風のハイソな文化が漂う、私には近づくことが許されない場所、という印象を長らく持っていた。名古屋でいえば星ヶ丘辺りのイメージだろうか。
確かに、大学構内とその周辺と電車内で見かけた若い女性達の「ファッション」(注:「服装」ではない)が、文字通り「ファッション」で、いかにも華やいでお洒落だった。失礼ながら(住む場所を、西宮ではなく伊丹にしてよかった)と感じたぐらいである。
ところで、2018年12月末、尼崎のつかしん近辺を夜遅くに主人と通りがかった大学はどうなったのだろうか?確か、あの時にも「大手前大学」の標識を見た記憶があったのだが、それ以降、主人の病状、特に精神症状が悪化して、日常会話も成立し難くなっていったために、最初で最後の「つかしん」となってしまった。
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(https://itami.goguynet.jp/2021/03/11/ootemaedaigaku/)
阪急稲野駅のほど近くにある大手前大学いたみ稲野キャンパスは2021年4月西宮市のさくら夙川キャンパスに統合されることになり、35年の歴史に幕を下ろします。
1986年に大手前短期大学が大阪市中央区大手前から伊丹市稲野町に移転し、2000年には大手前大学社会文化学部を開設したいたみ稲野キャンパス。現在では大手前大学及び大手前短期大学の約1000人の学生が通っています。
品のいい素敵な建物は町並みに彩りを添えていました。
稲野駅から歩いてつかしんに行くときはいつも前を通る馴染み深い大学だったので移転してしまうのは残念です。
(無断転載終)
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ふと思い立って調べてみたら、こんな結果だった。つまるところ、今回、私は新キャンパスに初めて足を踏み入れたということになる。
中はステンドグラスで、天井の高い洋風の建物だった。お勉強タイプの学生が集まるところ、というよりは「阪神間のお嬢様大学」といった感じ。一方、教員側は地域文化を根気よく調べて、地域住民にも広く発信をし、啓蒙に努めるのが役割らしい。
いろいろな大学を経験できるのも、醍醐味である。
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2.旧岡田家住宅・酒造築350年記念展示関連講演会(伊丹市)
午後は伊丹に戻り、伊丹市立ミュージアムに統合された旧岡田家住宅の酒蔵内部で、講演会に出席した。こちらは無料で、顔なじみの方々が数名いらして、なかなかの盛況だった。
西宮市にある酒ミュージアム(白鹿記念酒造博物館)の学芸員である大浦和也氏が、2時から一時間半程、講演および質疑応答を担当された。
酒造の話に関しては、江戸時代からの曽祖父母の家業であり、今も続いている岐阜県加茂郡川辺町の白扇酒造の伝統酒造りと比較しながら、祖母の話を思い出してはようやく理解に合点を見出したりするのが、いつでも楽しみだ。そもそも、都市酒造と田舎の酒造では、水源からして違う。物流も現代での販売展開も、全く違う。そこが重要なのだ。
また、これまでにも繰り返し展示や講座で多くを学んできたが、教科書的な解説ではなく、古文書を通じた独自の資料の読み込みと学芸員の情熱が伝わってくることが必須要件である。
恐らく、今回のレジュメとパワーポイントから、既に論文化されているもののダイジェスト版ではないかと想像されたが、非常に心地よい時間であった。配布されたレジュメプリントにメモを書き込む際、ボード板に挟んでおくと書きやすい。一生懸命にメモを取りながら聴いていた。
質疑応答は三名。その中で二番目に高々と挙手して、臆せず質問を投げかけてみた。面の皮が厚くなったというのか、全く周囲の目が気にならない点、歳は取ってみるものだ。
「ありがとうございます。とても詳しく、資料豊富で勉強になりました。初歩的な質問で申し訳ないのですが、「風邪が流行」していたという話と、「おいとまをいただきとうございます」という話が出たので、おうかがいいたします。杜氏や蔵人は、どの地方から来られたのですか?その方達の健康管理や治安管理はどうだったのでしょうか?また、人材のリクルート法は、どうだったのでしょうか?以上です」
お答えとしては、次の通り。
・資料上ではお薬の記述があるが、酒蔵は忙しく、常に睡眠不足であった。
・朝晩100日間ずっと働く。
・酒造りをするのは、微生物。
・伝統的には、杜氏は丹波から、播磨から、摂津から来たことになっている。大坂は暖かいが、北の寒い地方から頑丈な人が出稼ぎに来た。トップレベルの給料をいただけるのは名誉なことで、故郷に帰ると、憧れの存在になれた。
・たまの休みの日には、どこかへ出かけてしまうことがあったようだ。
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終了後は、顔見知りの博物館友の会の人達と一緒に、旧岡田家内に展示されている昭和47年や昭和50年代の岡田家の酒蔵内部や伊丹郷町周辺の白黒写真の拡大パネルの説明をうかがった。その後、近くのタリーズで90分間の制限時間内いっぱいまで、お茶を飲みながら、お喋りに花を咲かせた。
自宅で勉強をしたり本を読んだりして、ブログで記録を綴り、家事やクラシック音楽で過ごす生活パターンも悪くはない。だが、定期的に、地域文化を直に学ぶ催しが挟み込まれることは、生活のリズムに彩りを添え、刺激となるのでありがたい限りである。さまざまな人々と交わり、世間に通じることは、何歳になっても重要である。
(2024年4月14日記)
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2024年6月29日追記:
実は、上記の4月13日(土)には姫路駐屯地の自衛官候補生の入隊式が予定されていた。その出欠を問うご連絡を広報官から電話で頂いたのが、3月25日。既に2月20日にファクスで申し込んで受理されていた大手前大学の方が、どう見ても先約だった。
6月21日に初めて姫路駐屯地を訪れて防衛モニター委嘱式を経た今となっては慣れてきたが、当初は、モニター招待日の駐屯地の行事日程を、姫路の広報担当官が漠然と月だけで曖昧に提示されていたため、入隊式には欠席となってしまったのである。
ところが、4月13日の当日になると、期待していた川口宏海先生が急病とのことで、(それなら駐屯地に出席すべきだったのかな?)とも思ってしまった。
5月19日の千僧駐屯地の記念式典の案内葉書は、3月29日に届いていた。つまり、一ヶ月半以上も前に連絡があったのだ。これが社会通例だと私は思う。
事務連絡のやり方については、姫路駐屯地の気風あるいは広報担当官の性格によるのかもしれない。また、元旦早々能登地震もあったために、隊員の動向もやや混乱していたのかもしれない。
ま、いいか。
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そして、2024年6月29日の今日、4月13日の代講があった。私学はこういう点、大変に丁寧で、実は4月25日には、公開講座変更に伴う受講料の返金を求めるか、代替日の代講に出席するかを問う封書が届いていた。勿論、私は後者を選んで返送した。
川口宏海先生は、かつて伊丹の発掘調査に関与されており、その意味でも一度はお話を伺っておきたかったのだ。
10時から11時半までと予定されていたが、案の定(?)今回は20分の遅刻。受付で封書を見せると、既に作成されていた名簿のチェックがスムーズに進んだ。資料は全部で三部。内容に重複があり、充実していた。そして、洋菓子を二つ、プレゼントされた。
ところが、入室してみると、前回の4月よりは人数がやや減っていたものの、相変わらずの中高年者ばかりで、何とお話が始まったばかりであった。
終了後、隣の席の女性が話しかけてきた。その女性は偶然にも4月の初回にもお隣に座っていた方で、その時も講義後に話しかけられ、確か緑色の洋服だったことも思い出した。偶然にしては出来過ぎている!
ともかく、その女性の話では、病欠されたことを先生が非常に申し訳なく思っていらしたらしく、先に娘さんが感染症に罹患し、その世話をしていたらご自分も感染症にかかってしまった、と経緯を丁寧にお話されていた、という。従って、遅刻しても講義には充分間に合った、というわけだ。
講義中に、「伊丹廃寺に行ったことのある人?」「伊丹市立ミュージアムに行ったことのある人は?」「伊丹市民の人は?」と三度、挙手を求められ、私も元気よく応答したが、フロアでは二三人のみだった。また、特にコメントも求められなかった。
私にはとても有益な時間だった。川口先生は、とても穏やかで丁重な語り口で、腰の低い方だった。もしも副学長でさえなければ、伊丹の旧博物館でのように、今でも伊丹の古代史等について御指導いただきたかったのに、と思わされた。
ここ数年、お世話になっている伊丹の旧博物館系列の30代から40代ぐらいの学芸員さん達には、最初からどこか違和感のような疲労を覚えていた。ご年配の方達からも、似たような感想を聞いている。理由をずっと考えていたが、恐らくのところ、本当にこの地域に情熱を抱いているから、というよりはむしろ、「有資格者」の「市の職員」であるという身分をプライドに、まるで学校のお勉強か塾のように、知識をかき集めて整理し直しただけのような資料を提示するからだ、と思う。
確かに、2018年秋以降の新参者の私にとっては、一刻も早く伊丹や阪神地域の来歴を学び、地理感覚を身に付けるには、ちょうど手頃な企画だったと思う。だが、3年ぐらい経つと大半の展示が過去の繰り返しであることに気づいてしまい、マンネリ感覚が伴う。だからこそ、京都等、他の地域に出かけて刺激を受けようとしているのだ。
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帰りには、前回とは異なるルートを辿った。
遠藤周作氏ゆかりの夙川カトリック教会については、初めて周囲をぐるりと歩いてみた。白い尖塔とロマネスク式のような天使の彫刻が目立っており、昔は錚々たる教会堂だったのだろう。ところが、中に貼ってあるポスターを見ると、案の定、パレスチナ支援であった。また、ミサの予定表ボードを見ると、在日系らしき名前が複数書かれていた。
学生時代には全く気付かずにいた背景状況だったが、ようやく(これだったのか)と合点がいった。経済が圧倒的に好調で、世界的にも日本が優位に立てた時代には、それでもよかろう。しかし、低迷した平成期の30年を経た今、教会に集う人々が同じ意識のままだとすれば、日本のキリスト教も、社会の中上層が主流だった昔のように威風堂々とはいかないだろう。
阪急夙川駅には特急も停車する。ホームには成城石井があり、主人との思い出を重ねるために、またもやハンバーグを二つ買い求めた。
(2024年6月29日記)