昨日の午後遅く、市内のミュージアムで1時間半程、三つの展示(柿衛文庫・美術展・酒造)を見て回った。覚え書きを記す。
(1)放送大学の学生証を使って割引入場していたのが、しばらく前から「全科生以外は不可」となった。
私は今年の3月で大学院の全科生を修了している。以前は放送大学の特典として、何回か200円か300円の割引が使えた。伊丹市のミュージアムを訪問される方には、そんなに「放送大学の科目生や選科生」が多かったのだろうか?不可解である。
(2)「博物館友の会」や「COOPこうべ」等の会員は、会員証を提示すれば、団体割引扱いになる。
以前からそうなっているとのことだったが、私は初めて知った。しかも、受付に置いてあった説明書きを見て私から尋ねたので、あやうく150円乗せが割引に落ち着いたのである。
放送大学の学生証は使えなくとも、ボランティアのグループである「博物館友の会」には年間4000円(私が入会した2020年7月当時は年会費5000円だった)を払っているので、有効活用しない手はない。(「COOPこうべ」に関しては、残念ながら2025年1月には近所の行基支店が閉鎖される予定なので、いつまで利用できるかは不明である。)
(3)割引料金で入館する理由は、浮いたお金で記念絵葉書や冊子の購入に充当するためである。
(4)旧博物館を取り壊して「歴史部門」に縮小して、ミュージアムとして統合された三部門であるが、時間のある日を見計らって一度に見て回らなければ勿体ない。
(5)毎度のことであるが、美術展は凝った作品が多いにも拘わらず、子供連れや高校生ぐらいの若い人も含めて、まずまずの入館者がいた。
(6)私好みの柿衛文庫は、小さなコーナーではあるものの、しっとりと落ち着いて上品。歩いて来られる距離で第一級資料を繰り返し閲覧させていただけるなんて、と毎回、感激している。3月23日に東京での放送大学の学位授与式でお目にかかれた、島内裕子先生や魚住孝至先生のお声が聞こえるかのような錯覚を覚えた。
(7)残念ながら、酒造の展示には一人もいなかった。すぐ近くには子供連れの女性達が何人もいたのに、決して入ってこようとはしなかった。売店係も兼ねている見回りの女性一人が、明るく声掛けをして頑張っていた。
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伊丹に転入した2018年9月下旬以降、私は上記三つの展示を欠かさず見ている。
昭和47年に建てられた旧博物館は、何よりも雰囲気が好きだった。自宅から歩いて7,8分の距離にあり、朝の散歩や市役所の用事等と兼ね合わせて、新しく住むことになった土地の来歴を知る上でも、地理を覚えるにも、気分転換としても、非常にいい時が過ごせた。そのおかげで、「博物館友の会」に入るきっかけができ、顔見知りもすぐにできたのである。
一方、ミュージアムの統合問題としては、以下の点を挙げたい。
催し物への参加申込みをするのに、以前ならば、電話で応対されたのが顔見知りの学芸員さんや職員さんだったので、30秒ぐらいで手続きが済んだ。今では、新たに雇用された全く知らない方が毎回対応される。逐一、名前や電話番号を尋ねられ、決まりきった注意事項を告げられるために、3分から5分ぐらい時間が浪費される、という事態が発生している。
(同じことは、取り壊して新築された保健センターでも起こっている。以前ならば、顔見知りの保健師さんや管理栄養士さんが電話を取っていたので、声だけで「あ!〇〇です!」で済んだ。親しみがあり、顔パス同然で手続きが済み、お互いに時間の節約にもなっていた。さらに、毎年配布されていたはずの『健診便利帳』の発行が遅れており、新年度が始まった4月の中旬になっても、「できていません」「いつ頃になるか、わかりません」「印刷部数が多いので….」とのこと。これでは、健康維持のための計画どころではない!)
ミュージアムに話を戻すと、販売物の受付は「総合案内窓口」となっているのに、実際に柿衛文庫の絵葉書を買おうと思って小さな紙切れに記入して窓口まで歩いて行ったところ、二人の女性係が受付に座っているにも拘わらず、「担当者を呼びます」と内線で呼び出した。そして、走ってエレベーターで降りてきたらしい柿衛文庫の職員さんが、たった絵葉書3枚のために、入れる封筒をあれこれ探したり、レシートではなく領収書を手書きしたり、結局はサイズが合わなかった絵葉書を別の透明プラスチック袋に入れようとしてなかなか入らなかったり……と、なんと5分もかかったのだった。
それでは、この総合案内窓口の女性二人は何のために座っているのか?あなた方が販売担当を受け持てば、少なくとも3分ぐらいは節約できたのではないか?柿衛文庫担当さんは、仕事を中断する必要がないのでは?
「こちらは、暇だからミュージアムに来ているんじゃありません!」と、言いたいところだ。
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酒造展示の説明書きには、麗々しく「変化が著しい昨今では、多様性に柔軟に適応するために….」云々とあった。
何ら珍しいことではない。いわゆる「ダイバーシティ・イデオロギー」であり、ダグラス・マレイ氏等が痛烈に批判して世界的に注目を浴びている動向である。
伊丹のような阪神間の都市部では、沈思黙考せず、流行に遅れまいとして、とりあえず目先の潮流に飛び乗ることを「世渡り上手」と自負しているかのような人々の態度が、表面的には垣間見られる。(あくまで「表面的には」だ。)
しかし、その「ダイバーシティ」そのものの内実に矛盾や葛藤が共存するために、見た目は小綺麗なミュージアムの人的効率は下がっている。そして、「お金がない」「企画の一つが消える」という話が、何となく漏れ伝わって来る有様である。
私のように既に学ぶ側に回っている世代は気楽だが、働く主力世代、特に女性層にとっては、疲労困憊の連続であろう。家庭との両立どころではない。
そして、元気で活発な高齢者世代にとっては、「展示の質が下がった」「よその資料館や博物館に行くと、伊丹在住であることが恥ずかしい」という不満を抱くことにもなっている。(この類の話も、時々耳にする。)
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今年の2月下旬、芭蕉関連の学芸員さん達が大垣と伊賀から来られ、柿衛文庫の学芸員さんと一緒に、パネリストとして率直なところを語り合う企画があった。なかなかの盛況で、こうした場を設ける意気込みは大切である。
ちょうどその一ヶ月後に催される放送大学大学院の学位授与式のために東京へ行く決心をし、義母から譲られた正絹の色無地着物で出席すると決めて、市内の呉服屋さんと打ち合わせをしていた。その合間を縫っての参加だった。
呉服屋さんには70代半ばの女性がパートで勤務されており、テキパキと話を進めてくださった。小物や帯との色合わせや洗い張り等、的確に助言をくださり、非常に助かった。
お話をうかがうと、その昔、御主人のお仕事でシンガポールにも二度、滞在されていたそうだ。英文科のご卒業で、若い頃は洋風文化に憧れていたが、シンガポールで着物を披露したところ、とても評判が良かったらしい。そして、駐在員の奥様方に「遊び人が多かった」雰囲気を嫌い、中国語(恐らくは普通語)を習いに行くようになり、「お友達も増えた」ということだった。それをきっかけに着物の勉強を始め、「今も勉強の毎日ですよ」とおっしゃっていた。その結果、再就職として今も呉服店で働いている、とのこと。
何となく、マレーシア駐在時代の自分を思い出させるような話だった。私だって帰国後、裏千家の茶道を習おうと思ったきっかけは、民族色豊かなマレーシア文化に触れたことだった。そして、勤務の休みの日には、(あまりモノにならなかったが)マレー語を習いに行き、ブリティッシュ・カウンシルで上級クラスに入れていただいて、たくさん出される課題の英語を必死に勉強していた。日本の伝統文化や歴史に関心が深まったのも、海外経験のおかげだ。
というわけで、急速に話が弾み、よくお電話や葉書をいただいたりするようになった。こちらも御礼がてら、学位授与式の着物姿の写真を呉服店に見せに行ったりして、喜んでいただけた。
その方は、ミュージアムの芭蕉の講演会に「たくさん来られてましたか?」と尋ねられた。何となく、動向を気にかけていらっしゃるようだった。
……長くなったが、話を元に戻すと、芭蕉展に関しては、大垣が最も盛んで冊子もたくさん発行されている。学芸員さんも元気がよく、はつらつと説明をされていた。発行物を注文したところ、真っ先に送られて来たのが大垣だった。つまるところ、回転がいい。
芭蕉翁ゆかりの地でもある伊賀では、赴任当初、女性学芸員さんは「ここでは‘芭蕉’と言ってはいけません。‘芭蕉さん’と言いなさい」と注意された由。
似たような話は京都でもあり、菅原道真公について小説『泣くな、道真!』を書いた若い女性作家が、太宰府で「道真公を呼び捨てにするなんて!」と注意されたと、講演会で述べていた。
このお二方の女性は、いずれも京都の有名私立大学の大学院で学位を取得されている。現地感情を無視して自分本位で事を進めようとしているから、地元の方々に注意されたのだろうか。もっとも、私にとっては「言わずもがな」であり、「それじゃあ、キャンパスや狭いアカデミアでは通用しても、世間一般では駄目なんですよ。社会常識じゃないですか!」と言いたいところだ。
伊賀の学芸員さんは、古文書に触れられる「特権」という言葉を連発しており、そこも気になった。自己中心、と言っては強過ぎるかもしれないが、「私中心」発言に聞こえるからだ。案の定、会場に並べてあった冊子を後日、電話で注文したところ、「ここには置いてありません」という。「置いていないならば、なぜ会場で提示されたのでしょうか?」と問うと、「見本」版ならば、お送りしてもいいですけど、との由。
けど、じゃないんですよ!一体全体、資料館や記念館や博物館のような事業を何だと考えていらっしゃるんでしょうか?
そして、同日に現金封筒で申し込んだ冊子は、大垣が即座に届いた反面、伊賀は数日遅れだった。
恐らく、呉服屋さんでテキパキ働いていらっしゃる70代半ばの女性にとっても、こういった昨今の風潮を苦々しく思われているのではないか、と感じた次第。
介護待機群のような「後期高齢者」という失礼な一括扱いを政府自らがするようになって20年以上も経った。実のところ、日本社会の知的水準も作業効率も生活の質も、どんどん劣化している。
現実には、呉服屋さんの女性のように、教養を磨くために「今でも休みの日には、呉服屋さんを回ったり、いろいろな展示を見たりして勉強しているんですよ。毎日が勉強」というしっかりした方が少なくないにも拘わらず、である。
学芸員さんの話に戻ると、柿衛文庫の担当者が、「ミュージアム開設以来、自分が何をしてきたかの記憶がないぐらい、もう必死だった」とのこと。これが最も率直で正直な感想だろうと私は思った。
統合と言えば聞こえはいいが、博物館が縮小して引越してきて「歴史部門」を名乗り、従来その地にあった他の諸部門と一緒になると、同じ「学芸員」の肩書であっても、考え方や態度等に違いが大き過ぎて、「とても気を遣ってきた」。
予想が的中、というところである。
実際、2歳の子を持つ30歳前後の市内在住の若いお母さんから「なぜ博物館をなくしたのですか?ミュージアムだと、外国みたいで嫌」という意見を聞いた。勿論、折に触れて二つのアンケートにその旨記して「上に上げた」が、どのように意見調整されるのか、不明である。
(2024年4月17日記)
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PS: 上記の芭蕉シンポの時、最も活発な40代の大垣の学芸員さんがおっしゃっていた。「こういう仕事は、ただ『学校を出て資格を取って就職しました』だけでは、中(つまり博物館や資料館や記念館等の職場)に入ってからがきついだろう」と。
その派生形として私が感じたことは、呉服屋さんの話。「着物の格や決まり事を教科書的に覚えて、『これはこうだから、こうしないといけない』みたいに若い人は言うけれど、経験が不足していると、そうなる。基本はしっかりと身に付けた上で、地域差や時代の違いや個性等を踏まえて、組み合わせ方にはいろいろあるとを知っていくことが大切」らしい。
(2024年4月17日追記)
…………….
2024年4月27日追記:
『日経新聞』(https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD086SW0Y4A400C2000000/)
「ミュージアムは包摂的か 多様な人々受け入れる場を模索」
2024年4月24日
ミュージアムで多様な人たちを受け入れる動きが広がっている。身体的な障害にとどまらない。乳幼児連れ、引きこもり、発達障害など、これまで来館者としては見過ごされがちな事情を抱えた人々に目を向ける。
「作品を展示する位置を車椅子/子ども目線にする」「乳幼児向けの託児室を設ける」
国立西洋美術館(東京・台東)で開催中の展覧会「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」では、アーティスト田…(省略)
(転載終)
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(https://twitter.com/ituna4011/status/1782977163849027602)
Lily2@ituna4011
https://nikkei.com/article/DGXZQOUD086SW0Y4A400C2000000/…
☚ 矛盾の内包を解決していない。
(2024年4月27日転載終)