若PD患者の嚥下問題

(https://twitter.com/ituna4011/status/1787774864423534896)
Lily2@ituna4011
確かに、喉によくつかえて咳込んでいました。今頃になって、トロミをつけたり、水に溶かして飲ませたりすればよかったかしら、と反省。 私達の頃は、そういう指導さえ、主治医から全くありませんでした。修論のために文献を調べてみて、ペットボトルに水を入れ、PD薬を溶かして少しずつ飲んでもいい、
6:21 PM · May 7, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1787775103314641136)
Lily2@ituna4011
と書かれたものを見つけました。 主治医か薬剤師に尋ねてみてくださいね。
6:22 PM · May 7, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1787775724306505986)
Lily2@ituna4011
ストローで少しずつ飲んでもいい、とも書いてありました。 当時は全く思いつきませんでした。
6:25 PM · May 7, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1787801946260480365)
Lily2@ituna4011
自宅で砕くのは止めた方がいいようです。薬を小さくすれば喉に引っかからないかといえば、そうとも言えません。また、薬剤が変質して効果薄になる可能性もあるそうです。「水に溶かして飲んでもいい」と書いてあった資料は、L-dopaについてでした。順天堂の水野美邦先生の教えです。
8:09 PM · May 7, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1787802741575925976)
Lily2@ituna4011
トロミ剤は、主治医ではなく、毎年の特定疾患受給証の更新期に、保健師さんから勧められました。ですが、その頃はまだ普通にどんな食事も何とか食べられていたので、リハビリのつもりで、私がトロミ剤を使わなかったのです。回復リハ病院に入院していた時、理学療法士さん達が、水にもトロミ剤を入れて
8:12 PM · May 7, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1787803434781208945)
Lily2@ituna4011
いて、びっくりしました。入院すると、細かいリハビリ訓練のために体は多少動くようになりますが、院内で甘やかされて精神がダメになっていきます。食事も、柔らかいものばかり食べさせるために、どんどん我儘になっていきました。この辺りの微調整は、今でもPD治療法の課題だと思っています。
8:15 PM · May 7, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1787804527363764340)
Lily2@ituna4011
ちゃつみさん、修士論文が終わった今でも、私は看護学や疾病と薬について、放送大学の講義を受けて勉強していますよ。主治医は、付き添いの私と目を合わせようともせず、何も教えてくれませんでした。大学病院は研究データが欲しいだけなので、あまり当てになりませんでした。患者はモルモットです。
8:19 PM · May 7, 2024

(2024年5月8日転載終)

Posted in Health and Medical issues, Japanese culture, © 2024 by Ikuko Tsunashima-Miyake | Leave a comment

老舗の訓えと神宮大麻

『致知出版社の人間力メルマガ』より

1)2024年5月8日

以前、『致知』で連載されていた「三百年続く老舗の訓え」。歴史の荒波を乗り越え、今日まで守られてきた訓えを紹介する連載
日本の饅頭の元祖・塩瀬総本家の川島英子氏
。。。。。
塩瀬の商売を支える家訓として守っているのが、「今日一日の事」と「崋山先生の商人に与へたる教訓」。いずれも、三十一代の渡辺利一が以前より聞かされていた渡辺崋山先生の遺訓を教訓として、家訓としたもの。

特に大切にしているのが「買人が気に入らず返しに来たら売る時よりも丁寧にせよ」というもの。クレームがあった時の対応は売る時よりも丁重にしなければなりません。どのようなクレームがきても言い訳をせず、不快な気持ちにさせたことに対してひたすら謝る。どれだけ遠方であっても、お客様の元まで即刻謝りに行くように。

また、菓子一筋に生き抜いた父の「材料落とすな、割り守れ」の訓え。材料が足りなければ代用するのではなく、売り止めにせよ、また素材の分量は決して崩してはならない、
というのが父の考え。そして戦後の物資不足の時でも「まがい物は作らない」と、その信念を頑なに守り通した。

塩瀬は、歴代の店主の方が暖簾だけはおろさないようにと言って、代々守ってきたお店。しかしいくら暖簾をおろさないと頑張ってみても、いい物を作ってお客様に可愛がっていただけなければ、店は続いていきません。
たとえ歩みは遅くともお客様を裏切るようなことはせず、「塩瀬のお饅頭はおいしいね」と言われるものを、正直に、真面目に作っていく。それが今日まで暖簾を守り続けてこられた理由ではないか。
…………………………
塩瀬総本家の家訓

◆今日一日の事
一、今日一日三ツ君父師の御恩を忘れず不足を云ふまじき事
一、今日一日決して腹を立つまじき事
一、今日一日人の悪しきを云はず 我善きを云ふまじき事
一、今日一日虚言を云はず無理なることをすまじき事
一、今日一日の存命をよろこんで家業大切につとむべき事

右は唯今日一日慎みに候。翌日ありと油断をなさず、忠孝を今日いち日と励みつとめよ。

◆崋山先生の商人に与へたる教訓

一、先づ朝は召仕より早く起きよ
一、十両の客より百匁の客を大切にせよ
一、買人が気に入らず返しに来たら売る時よりも丁寧にせよ
一、繁盛するに従つて益々倹約せよ
一、小遣は一文よりしるせ
一、開店の時を忘るな
一、同商売が近所にできたら懇意を厚くし互に励めよ
一、出店を開ひたら三ヶ年食料を送れ
。。。。。。。。。
2)2024年5月7日

大麻と聞くと、違法な薬物のことを思い浮かべる方が多いかと思います。
しかし、ヘンプイノベーション社長の菟田中子さんは、日本人が古来大事にしてきた大麻文化こそ日本、そして地球課題を救う大きな可能性を持っていると語ります。

菟田:「大麻」と聞くと、多くの方が「違法な薬物」「危険なもの」というネガティブなイメージを思い浮かべることでしょう。
しかし主に繊維採取を目的として栽培されてきた日本の大麻草には、マリファナのような麻薬成分はほとんど含まれておらず、古来、日本人は麻と共に生きてきた民族で、日本人の生活には衣食住あらゆるものに麻が使われていました。例えば、衣服。大麻草は3か月ほどで高さ3~4メートルまで成長しますが、その茎を剥いで取れる繊維は非常に丈夫で、日本人は麻の繊維から麻糸を績み、麻布を織り、着物を仕立てるのです。

福井県三方郡の縄文時代草創期(1万5千年~1万2千年前)の鳥浜遺跡から、麻縄を人の手で編んだとされる遺物が出土しています。1万年以上前ですから、なんと稲作が入ってくる前から日本人は麻を道具として活用していたのです。

それから、住居にも麻は欠かせません。麻茎から繊維を剥いだ後に残る木質部を麻殻(オガラ)と呼びますが、これは丈夫なだけではなく非常に軽く、中が空洞になっているため、
空気層ができて保温効果も高いのです。ですから、日本の伝統的な住居である茅葺屋根の最下層に大量のオガラを使用してきました。
麻は壁材にもなります。漆喰壁は消石灰と麻スサ(繊維を剥いだ後のクズ)を水で練ったものです。オガラやクズまで捨てずに有効活用する。ここに、自然と共生する日本人の知恵を見る思いがします。

また、麻は日本人の食と農とも密接に関わってきました。あまり知られていないかもしれませんが、七味唐辛子に入っている一番大きな粒は、麻の種子「麻の実」なのです。麻の実は八穀(稲、きび、大麦、小麦、大豆、小豆、粟、麻)の一つに数えられるほど日本人にとって身近な食材です。近年、麻の実はオメガ3や必須アミノ酸、タンパク質などが豊富に含まれる「スーパーフード」として注目を集めていますが、日本人は昔から当たり前のように食べていたのです。

さらに、神道や仏教においても……。

(以下省略)

(2024年5月8日転載終)

Posted in Japanese culture, © 2024 by Ikuko Tsunashima-Miyake | Leave a comment

水無瀬殿(水無瀬離宮)シンポ

5月3日の憲法記念日には、1997年11月上旬から2018年9月26日まで、約20年10ヶ月暮らしていた大阪府三島郡島本町にある水無瀬神宮にまつわる水無瀬殿(水無瀬離宮)に関するシンポジウム「後鳥羽上皇が造った都市:水無瀬離宮を考える」に参加した。

会場は、JR島本町駅から徒歩10分程にあるケリアホール(ふれあいセンター1階)で、午前の部で(受付で尋ねたところ)80名、午後の部で(目算して)65名ぐらいが参加し、それに加えて全国でZOOM参加が40名いる、とのことだった。参加費は、島本町民は1000円、島本住民以外は1400円であった。シンポジウムは、午前10時に開始され、昼休みを挟んで、午後4時35分に終了した。

この企画については、4月5日の午前中、twitter(X)を見ていたところ、本当に不思議なことに、偶然ふわぁっと浮上してきたので知った。

このようなことは、過去にもある。Facebookでもそうだが、特にその話題について考えていたりしたことは全くないのに、なぜか突然、しばらく音信不通だった知り合いのアカウントがトップに上がって来る。その場合、実はその方が急逝した通知だったりすることが多い。例えば、マレーシアのリサーチでお世話になっていたEddie Ho先生、国会議員のEdward Leeさん、Kadazandusunのマレー語聖書翻訳者であったStemmah Sariauさん、そして芦屋の女性漢方医だった松本有紀先生等である。

今回は訃報ではないが、私の関心事の一つであることは事実で、なぜ自動的に教えてもらえたのか、気になるところでもある。
。。。。。。。
とにかく、島本町に暮らしていた月日は今も忘れることなく、京都に用事があってJRと阪急を利用する度に、駅名や風景を写真に撮っては記憶を再確認している。興味深いことには、伊丹に住むようになってからの方が、島本町や大山崎町や高槻市や茨木市や長岡京市や向日市等、我々夫婦に縁の深い土地に関する史的知識が急に増えたのである。それは、伊丹の歴史好きな住民気質の反映であり、文化財保存協会やボランティアの街歩きガイドや市の社会教育担当職員らの尽力の成果でもある。

あのままずっと島本町に暮らし続けていたとしたら、知的刺激が殆どなく、恐らく精神的には、もっとまったりした平板な人生であり、話の合いそうな顔見知りも極端に少ないままで終わっていただろう。バドミントンクラブ(エポック)やスポンジテニス(バンブークラブ)のようなスポーツにも参加し、町立図書館経由で大阪府立図書館の本をかなり頻繁に借りていたにも拘わらず、今一つ、親しく話が通じ合う関係にはなり得なかった。

大抵は、COOPで日常の買い物をする程度で、他は家事。日中は、毎年の学会・研究会発表の準備、読書、ブログ書き、ウェブ翻訳作業(6年間)、CDクラシック音楽で過ごし、たまの休日には、演奏会に行くか、博物館や美術館の展示を見に行くか、治療の一環として主人と国内旅行(温泉がメイン)であった。

結婚後1年で診断を下された主人の若年性神経難病のために、気分が重苦しく滅入ることが少なくなかったので、気分転換には、よく近くの小高い山にある若山神社へ散歩に出かけていた。あるいは、住居のある敷地全体をぐるぐる歩き回っていた。神社だけなら往復30分で、自宅に戻ると頭がすっきり爽快になっているのを毎回実感できた。また、敷地の散歩は大抵1時間半から2時間程で、これまた足腰の鍛錬にはうってつけだった。

但し、いくら自分で気持ちを引き上げようにも、変わらない環境はどうしようもなかった。
。。。。。。。
我々が定めた住居は、緑がこんもりと多く、空気も澄んでいて、物音一つしない静かで落ち着いた環境のよい場所にあった。名水が日常の飲み水という水質の良さも恵みではあった。ベッドタウンとして交通網が非常に便利であり、阪急でも、後に駅が開設されたJRでも、乗り換えなしで、京都まで30分(今なら短縮されて17分)、大阪まで40分(今ならもっと短時間)で済んだ。兵庫県伊丹市のように乗り換え必須の土地に馴染んだ今では、島本町がいかに便利で楽だったかと思うところである。だが、住み始めた30代の当初、「自分が動けばいい」という仮住まい意識だった。

30代から40才前後の頃は、マレーシアのリサーチで必要な文献を探し求めて、京都大学東南アジア研究センターの図書室や研究会によく行っていた。または、京都府立図書館もカードを作って利用していた。他には、国立民族学博物館の図書館へ時々行っていたし、2004年から3年程は、同志社大学の今出川図書館を最大限活用させていただいた。国際日本文化研究センター(西京区)へも、講演会の案内に興味があれば出かけていた。

主人は三菱電機株式会社の京都製作所にあった先端技術総合研究所(2018年10月からは、尼崎市の伊丹製作所内に統合されて消滅)に勤務。通勤ラッシュもなく、片道40分程という便利な場所だった。神経を使う頭脳労働者なので、自宅ぐらいはほっとくつろげる静かで落ち着いた所がいい、ということで、京都市西大路や滋賀県野洲にあった借り上げ社宅、宇治市槙島や高槻市阿武山の旧公団、京都市の洛西ニュータウン、桂、東向日、長岡京市、茨木市のマンション等を探し回って、10ヶ所目に選んだのが島本町の住まいだった。

それに関しては全く不足はないが、どういうわけか、長らく地に足のつかない暮らしという感覚が続いていた。その理由は、恐らく、今回のシンポジウムのきっかけとなった歴史感覚の欠如ではないだろうか?
。。。。。。。
以前から発掘調査が進められていることは知っていたが、歴史遺産を保存して守り伝えていくことの重要性がわかっていない行政側やディベロッパーによって、開発が急激に進み、景観が相当に変化してしまっている。そのことについては、これまた伊丹で知ったニュースだったが、2022年11月13日付ブログ「文化財が破壊された島本町」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=3671&action)に、簡略ながら列挙した。

その強い危機感から、今回は住民を巻き込み、各専門分野からなる歴史研究者が5名、基調講演や関連報告をされたのである。

水無瀬殿(水無瀬離宮)そのものに関しては、国際日本文化研究センター客員教授の豊田裕章氏が、2008年から発掘や文献を中心とした研究を進め、論文も何本が出されている。また、特別にホームページを作成して、順次、研究成果を蓄積していく予定とのことである。そして、水無瀬離宮を含めた島本町の歴史文化遺産の貴重な位置づけを浮き彫りにするために、「都市構造」という切り口で、馬淵和雄氏と前川佳代氏が、それぞれ鎌倉と平泉について語られた。
。。。。。。
非常に充実した講演内容であったが、元住民である私としては、「なぜ従来は、このレベルの会合が町内で開催されなかったのか?」という問いを最も強く投げかけたい。

そこで、アンケートには、率直に以下のように書いて提出した。

1.どのように知ったか?
偶然、ツィッターで浮上してきたので知った。

2. どこから来たか?
兵庫県

3. 後鳥羽上皇や水無瀬離宮について知ったこと
以前、宇治市のミュージアムや京都市内で、後鳥羽院や水無瀬神宮について講演を聞いた。水無瀬家についても、現在暮らしている兵庫県伊丹市の『伊丹市史』で読んだことがある。このように、島本町以外の場でそれなりに知られている事柄が、なぜ、下記に示したように、長らく島本町内で活発な講座や学術活動がなかったのか、疑問に思う。

4. 自由に意見を
1997年11月上旬から2018年9月下旬まで島本町民でした。緑が多くて静かで、水質も良く、物価もほどほどで、暮らすには充分環境の良い土地柄でした。しかしながら、土地の来歴などを知ろうとしても、資料が不充分で、図書館(町立)の本も少なく、地に足の着かない生活でした。
久しぶりにJR島本駅に降り立ったところ、景観が全く変わっており、淋しい気がしました。島本の歴史を学術的に知るには、向日町の学芸員さんの話を聞かなければならず、残念に思います。政治的にも不満が残ります。

(転写終)
。。。。。。。
最後に、馬淵和雄氏から「島本の地下の宝を活用しよう」という提案をいただいたので、共感した箇所を抜き書きする。

・バブル時代に大いに賑わった避暑地やリゾートや観光施設は、日本経済の縮小化と共に衰退
➡ 歴史性の欠如した町は、人気が一過性で終わる

・奈良で作業員として遺跡発掘に携わる地元人の誇り
➡ 自分の住んでいる土地が豊かな歴史を持っていることを知った時、誇りと自負が生まれる

・開発行為で作られたものは、半世紀ほどで寿命を迎える

・島本町の至宝
1)悲劇的な終末を迎える後鳥羽上皇が愛した土地
2)承久の変に関わる場
3)新古今集と定家と水無瀬の歌会
『水無瀬釣殿当座六首歌合』
『桜宮十五撰』を水無瀬御所の若宮に奉納
4)風水に適う土地
「見渡せば山もと霞む水無瀬川 夕べは秋となに思いけん」
5)歴史的空間に接続する勝地

➡豊かな歴史性を活用して歴史文化都市を目指す島本町を
。。。。。。。。
昨年、遺跡のあるところに高層マンションが建設される計画が発覚し、工事が既に始まっているという。充分な調査もされず、保護もされず、不十分な記録のまま消滅していく運命にある。そこで、843筆の署名を集め、今年3月5日に島本町へ提出した。そして、町長には4回面会して説明をし、理解を求めている。これが、今回の町内でのシンポジウムに繋がった模様である。

「文化財や遺跡がたくさんある島本は、消滅する町ではないはず」「左っ側の人間からいろいろ言われるけれど」「何の特色もない工場や住宅地だけの土地だとすると、今の行政なら、高槻市と合併して島本が消える、なんてことをやりかねない」等と、やっとこの時期に及んで、長らく聞きたかった本音が聞けた。それでも島本町のみでは限界があり、大阪府と文化庁に対して圧力をかけるべきである、との意見も聞かれた。それには、何よりも発掘調査が重要である、という。

「後鳥羽上皇が流された隠岐の島の人々は大切に弔い続けているのに、後鳥羽上皇が楽しんだ水無瀬である島本町の住民が無視しているのは、勿体ない上に失礼である」という声も聞かれた。

後鳥羽上皇の置き文には、「関東から地頭が入ってきたらとんでもないぞ!」という内容が記されていた、ともいう。「「空の上から水無瀬の地を見守る」と後鳥羽院が遺言を残されたことは、ここ最近の島本町のことを心配されていたのではないか?」という発言もあった。
  
繰り返すように、こういう話は、本来もっとずっと前から公に語られ、文書にまとめて発行し、継続して住民啓蒙に努めるべきであったはずだ。なぜ今まで、「豊かな自然に恵まれたベッドタウン」ばかりが強調されていて、肝心の歴史文化遺産を忘却の彼方に置き忘れていた、あるいは意識的に無視をしてきたのだろうか?

その責任は、誰に問うべきなのだろうか?
。。。。。。。。
水無瀬に関する過去ブログの抜粋を再掲しよう。

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20100214)
2010-02-14「和歌はしみじみ」

《水無瀬山 ほどは雲井に遠けれど 匂ひばかりは君がまにまに 
(藤原定家)
ことに出でて いはぬばかりぞみなせ河 しもにかよひてこひしきものを 
(紀友則)
春になれば 梅に桜をこきまぜて ながうみなせの川のかぞする 
(紀貫之)
うらぶれて物は思はじ水無瀬川 ありても水はゆくといふものを
(柿本人麻呂)
水無瀬山 せきいれし滝の秋の月 おもひ出づるも涙なりけり
(藤原家隆)  
みなせ山 木の葉まばらになるまゝに 尾上の鐘の声ぞ近づく 
(後鳥羽院)
見渡せばふもとかすむ水無瀬川 夕べは秋と何思ひけん
(後鳥羽院)》
。。。。
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20170723)
2017-07-23「歴史感覚は空気の如く」

《(http://d.hatena.ne.jp/amanokakeru/201211)
2012-11-25 水無瀬離宮址

 後鳥羽上皇の水無瀬離宮では、建仁二年九月十三夜の水無瀬殿恋十五首歌合に代表される歌会や白拍子、遊女などを上げての乱交騒ぎまでがあった。後鳥羽院の気ままな振る舞いについては、藤原定家の『明月記』に詳しい。》

《後鳥羽上皇水無瀬離宮跡という石碑を探したが見つからなかった。広瀬遺跡として発掘調査が行われているらしい。だが尋ねた付近ではそんな場所は見えなかった。離宮は1199年ごろに築かれたが、1216年の洪水に遭い、改めて近くに再建されたらしい。少し離れたところにある水無瀬神宮が離宮の跡という説もある。》

《[追伸]水無瀬川は、古来歌枕として知られ、万葉集以降数多く詠まれている。後鳥羽院が水無瀬の情景を詠んだと思われる有名な次の歌が、『新古今集』に載っている。
見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋と何思ひけむ》
。。。。
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20180624)
2018-06-24「住めば都(2)」

《結構、文学的にも歴史的にも重要な史跡があちこちに散在しているのが、我が町なのである。但し、私の実感としては、その意味づけや意義が、二十年前と今とでは、町全体の雰囲気として異なってきたように感じる。つまり、「町内にある豊かな史跡をもっと大切にしましょう」という呼び掛けが、最近では意識されてきたということである。》

《上記の女流歌人について、帰宅後に調べた事柄から追記を。

・『平家物語』『源平盛衰記』『千載和歌集』『新古今和歌集』等にも登場する。
・女房として、二条天皇(第78代)や高倉天皇(第80代)にもお仕えした。
・秘め事の懺悔会で、後白河院(第77代)と一夜の関係を持っていたことを告白。
・後鳥羽院(第82代)の落胤である男児を産んだが、その子は後堀河院(第86代)より領地を賜り、星野氏の始祖となったという伝承が筑後に残っている。
・藤原俊成や藤原定家や西行と交流があった。
・鴨長明が、華やかで人を驚かせる女流歌人の一人として名を挙げている。切り返しの上手な返歌の詠み手だったようである。
・町内に残っている複数の古い小字から、この辺りには当時、貴族の別荘があったらしい。
・今回訪問した町内の地域に、晩年、天台宗系の寺庵である真如院を建てて住んだが、約265年後の応仁の乱で廃絶となった。
(終)
小柄な女性だったようだが、なかなか情熱的かつ知的で魅力的な歌人だったのだろう。》
。。。。
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20180802)
2018-08-02「これが私の歩む道」

《先月中旬より、近所の図書館から借りたり複写したりした読み物を、以下に。

・中村直勝『水無瀬・山崎附近』京阪電気鉄道(1939年)
・田巴二枝『隠岐の後鳥羽院抄』海土町役場(昭和46年/平成17年 9刷)
・大山崎史談会『山崎・水無瀬−懐古と巡歴』(発行年不明)
・島本町文化の会短歌部『短歌みなせ野』第二巻・四巻・六巻(昭和54年)
・奥村寛純『水無瀬野をゆく−島本町の史跡をたずねて』郷土島本研究会(1988年)
・島本町教育委員会『わが町島本−目で見る歴史』(1996年)
・奥村寛純『水無瀬野の伝説と昔話』郷土島本研究会(2001年)》

《この地に移り住んで三ヶ月目の1998年2月中旬、自転車に乗って社務所で買ったことを思い出す。

・『水無瀬神宮と周辺の史跡』水無瀬神宮社務所(昭和54年)
・水無瀬忠寿『水無瀬神宮物語』水無瀬神宮社務所(平成4年)

夕食の時、主人に見せたところ、「学会で発表したら駄目だよ」と冗談を言った。》

(転載終)

(2024年5月5日記)
……….
2024年5月5日追記

恐らく、私の問いへの解は、下記の過去ブログに集約されているのではないだろうか。

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20161209)

《先月下旬と今月上旬の二回、町内の歴史資料館を会場に、教育委員会が後援し、退職教職員の会が主催した、蔵書の無料頒布会でいただいた本のリストを列挙する。計28冊だが、希少本も含まれているだろう。古本屋さんで購入したら、かえって高くつくだろうに、町内で私達がいつも選挙投票に行く小学校で元校長だった故人の所蔵だとのことで、全部そのまま自由に選んで持って帰ってきた。》
《天皇制、共産主義、マルクス主義、反戦平和、部落問題、女性問題、歴史などの種類が目立ったのは、この小学校の教員の傾向を表しているとも言える》

(転載終)

Posted in Japanese culture, Studies related, © 2024 by Ikuko Tsunashima-Miyake | Leave a comment

建築家・安藤忠雄氏

致知出版社の人間力メルマガ
2024年2月13日

日本を代表する建築家・安藤忠雄さん。多くの人々を惹きつけてやまない、その比類ない建築が世に知られるまでは〝負け戦〟の連続だったといいます。なぜ度重なる逆境を乗り越えてこられたか、自身の勝負哲学を語っていただきました。

*対談のお相手は、(当時)ウシオ電機創業者・牛尾治朗さん

〈牛尾〉あなたは負けた時に、なぜ負けたかということを徹底的に分析して次に生かしているそうですね。自分がなぜ負けたか、相手のどういうところがよかったかというのを分析して、努力してそれを自分のものにしていると。そういうところはすごく素晴らしいと思うんです。

〈安藤〉コンペには日本はもちろん、パリやニューヨークやロンドンでもよく参加するんですけど、美術館なんかの公共建築はほとんどコンクール・コンペなんですね。ですから大体200人くらいの参加者の中から経歴や実績で10人くらいに絞って、その人たちに絵や模型を作らせて競うわけですが、まぁよく負けるんです。
けれども、負けてから相手の作ったものを研究すると、やっぱり相手のほうがわれわれ以上にいろんなことを考えていることに気づくわけです。相手に比べたらやっぱり努力も足らん、創造力も足らん、次はこの部分はこういうふうにうまくやらなければいかんなと。
そういうふうに、いろんなことに気づいて少し実力がつくけれども、次のコンペでもまた負ける。また少し実力がついて、それでもまた負ける。だけどやっていくうちにいろんなことを覚えて、そのうちに勝つわけです。
ところが、勝つと当然相手の研究はしないですね。これはまずい。勝った時にも相手のことを研究すればもっといいわけですけれども。

〈牛尾〉なるほど、負けた相手の作品も研究しろと。

〈安藤〉そうです。だけど大体しない。勝っても負けても、相手を研究して自分たちのまずかったところを集めていくと、次の機会にもっと役立つんです。
この10数年、日本は世界から駄目だ、駄目だと言われ続けていますね。しかし、1980年代に欧米の講演会に行った時に向こうの人は、日本の企業のあり方も、社会のあり方も、そして教育のあり方も、全部素晴らしい。そして、いかに日本に学ぶかが一番大きな課題なんだ、と言っていたんです。
その結果、日本と欧米の立場は逆転しました。それでこの10数年は、アメリカでもヨーロッパでも、日本はどうなっているのか、いつ立ち上がるのかと。いまの日本は、企業のあり方がまずい、教育はもうまったくまずい、何もかもまずいと言われているんです。

〈牛尾〉おっしゃる通りです。

〈安藤〉でも、そうは言われながらも、実は日本人はそれほどレベルの低い民族ではないと僕は思っているんですね。
1995年の阪神淡路大震災の日に、僕はちょうどロンドンにいたんです。次の日に日本に帰ってきて被災地を見た時に、これはもう復旧も復興もとんでもないと思いました。ところが、半年くらいの間に倒れた高速道路は起こし、新幹線は走らせ、倒壊した建物もある程度整理ができて、日常生活にはほとんど問題がないくらいまで回復させました。この姿を見て、日本人はやっぱりいざとなったらすごいなと実感しました。
緊張感を持ち、企業と行政と民間人が垣根を越えて力を合わせると、すごい力を発揮する。ギリギリの状態まで追い込まれて本気を出したら、日本人はやっぱり立ち直るんだなと思ったんです。ですから、世界中から大変だと言われながら日本がなかなか立ち直れないのは、まだ結構余裕があるからだと思うんですね。余裕があるから緊張感も出ないんです。

〈牛尾〉なるほど、おっしゃる通りです。

〈安藤〉僕自身も、最初からチームは小さい、学歴はない、社会的ネットワークもないという状態からスタートしましたから、とにかく自分の力だけでやるしかなかった。そのためには、負けても決して諦めないように、精神的に頑丈でなければならないし、体力もできたら30代のままで75歳くらいまで仕事ができるように鍛えておかなければいかんと。その気持ちでずっとやってきましたから、負け戦もそれほど気にならずにきたんです。ですから、日本人はもっとギリギリの状態に置かれているほうがいいと思うんです。

〈牛尾〉同感ですね。

〈安藤〉その点、日本の経営者はものすごく闘っているんですが、学生はぬるま湯の中を泳いでいますから、彼らにはもう少し、この国は大変なんだぞということを言ってもらったほうがいい、と思いますね。

(『致知』2003年11月号特集「仕事と人生」より一部を抜粋・編集)

注)太字はLilyによる。

(2024年4月30日転載終)

Posted in Japanese culture, © 2024 by Ikuko Tsunashima-Miyake | Leave a comment

楠木正成公「和の国」

JOG Wing 国際派日本人の情報ファイル

楠木正成公が示した「和の国」の根っこが、我が国の歴史を変え た。
No.3415 R6.2.5  4,183部

1.「有為の人物を動かさずにはいない」

 正月休みに大阪府南河内郡の千早城跡に登ってみた。後醍醐天皇が隠岐に流された後、元弘2(1332)年9月に楠木正成が挙兵した山城である。当時の世の乱れた様は、歴史学者・植村清二氏によれば、以下のようであった。

一般に諸国の御家人の生活が窮迫しているのに反して、北条氏の一族は権力と富とを独占して、羨望と不平とを招き、それでいながら彼ら自身の政治は公正を失い、その実力は衰弱しつつあった。その権威は失われ、民心は離反した。この人民の動揺と革命への期待は、有為の人物を動かさずにはいない。

[植村 p46]

 まさにこの「有為の人物」として立ち上がったのが、正成であった。正成は、千人足らずと言われる軍勢に次のように呼びかけた。 

この城(千早城)において二年間は戦おう。そうすれば、そのうちに高時(鎌倉幕府の執権・北条高時)に背く者はいくらでも出て来るだろう。

[家村 p83]

 正成の見通しは、わずか半年で実現した。この山城に幕府の兵数万を引きつけている間に、後醍醐天皇は隠岐を脱出され、鳥取の船上山から倒幕の綸旨を出された。それに応えた新田義貞、足利高氏(後の尊氏)らが叛旗を翻して、鎌倉幕府は1か月のうちに滅びてしまう。

【YouTube版】https://youtu.be/_IUcwgCAz78

(転載終)

Posted in Japanese culture, © 2024 by Ikuko Tsunashima-Miyake | Leave a comment

日本保守党は疲れる

(https://twitter.com/ituna4011/status/1785287494071984221)
Lily2@ituna4011
疲れます。
9:38 PM · Apr 30, 2024

(2024年5月1日転載終)
。。。。。。。
(https://twitter.com/ituna4011/status/1784577506697527518)
Lily2@ituna4011
いくら正論であっても、もう少し戦略が必要か、と。 応援ツィッターを一方的にブロックしたり、UNRWA問題を日本で指摘したのは自分だけだと強調したり、20年も前に既に大学内で発生していた公の事柄を無視したり等、世間では通りません。一般向けの本が売れたからといって、選挙も同じとは限りません。
10:36 PM · Apr 28, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1784578582439956767)
Lily2@ituna4011
第一、事実に悖るからです。そして、失礼でもあります。「選挙に勝つ」には、そういう基本的なことも全部クリアしてからですよ。
10:41 PM · Apr 28, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1784691041112920433)
Lily2@ituna4011
もっと戦略を練っていただきたかったです。あれでは、私なら投票できません。失礼ながら、過去の事実を無視して内輪で突進されているからです。 もっとスタッフを増やして、ウェブ情報や過去論文をしっかり分析していただきたいです。 有本さんも、発言の一部に私の経験とは異なることがありました。
6:07 AM · Apr 29, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1784721369126813859)
Lily2@ituna4011
パッと判断されて、間違った方向に振り分けられたら、こちらはたまったものではありません。怖いことです。
8:08 AM · Apr 29, 2024

(2024年4月30日転載終)
。。。。。。
日本保守党から東京15区の区議員補欠選挙で、急遽突撃のように出馬を決めて落選したイスラム研究者の飯山あかり氏について。

「組織票もないのに得票できた」という肯定的な見方もあるが、私は違う見方をしている。

少なくともイスラム研究で東大博士号の権威を自負されている上、あそこまでYou Tubeで毎日おもしろおかしく内部告発のように発信していて、一般向けのイスラム本も売れているならば、ある程度まではいくだろうと予想していた。但し、本当に政治家として転身するならば、あまりにも短絡的で危ういと思っていた。

その点、昔の自民党や今の立憲民主党は、政策は別としても、さすがに選挙対策を練り、時間をかけて人材養成するノウハウを兼ね添えてはいた、と言える。

東京15区には行ったことがないが、現実に暮らしている人から話を断片的には聞いていた。あの辺りは住開発が進んで暮らしやすい反面、比較的、立憲民主党系の考え方が広まっているのではないだろうか?少子化時代には、助産婦(であっていただきたい)や保健師(男性の「保健師」は今まで見たことがない)等のような肩書が案外モノをいうのかもしれない、という点は新鮮だった。東京15区とは、元格闘家や女性防災士や冒険家等、おもしろい肩書の人々が立候補している土地柄であった。
。。。。。。。
新しく立ち上がった日本保守党の動向について、昨年秋頃からYou Tubeと本(数冊)でフォローしていた。

(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=5913&action)
2023年11月14日付 「日本保守党・中東情勢その他」

(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=6724&action)
2024年3月6日付「日本保守党その後」

(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=7206&action)
2024年4月22日付「イスラム小話と電子空間」

(リスト終)
。。。。。。。。
というのは、1990年代初頭からの自分自身のマレーシア研究をどうまとめていくか、毎日のように気になってかれこれ30年程。2004年から3年間、同志社大学神学研究科で私の直属の上司であったイスラミストのハサン中田考氏とも対談(対決?)本を出し、京都時代には評価の高かった中東イスラム研究者の池内恵氏を糾弾し続けていた飯山陽(飯山あかり)氏のことが、気にはなっていたからである。

ところで、2022年8月27日に、私は伊丹市立図書館(ことば蔵)の地下1階多目的室で開催された博物館友の会例会で「相互理解か宗教的不寛容か?」と題して研究発表をさせていただいた(2023年3月3日付「博物館『友の会だより』古稀号」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=4170&action))。
これは二度目の研究発表で、当時のN会長さんからのご依頼によるものであった。(余談だが、今振り返ってみると、放送大学大学院の毎月のゼミが始まって4ヶ月目だったのに、よくもこんな発表ができたものだと、我ながら時間管理に呆れ返る。)伊丹市内でもいつの間にか増加している外国人労働者の宗教的背景について、我々住民側がどの程度、本当の理解をした上で受け入れて「共存」しているのか、マレーシアでのリサーチ経験を題材に、注意を喚起したものである。その際、イスラム理解の一手段として、飯山陽さんの本を一冊紹介して出席者全員に回覧していただいた。

その責任もあり、今回の東京15区での補欠選挙のなりゆきを、断片的ながらも観察していたのである。

選挙結果については、初戦にしては善戦とも言われる第4位の落選。但し、今後も遠方から応援できるかと言えば全く逆で、正直なところ、(非常に疲れた)というものであった。最初から、プロの目で見ていれば当然の成り行きとも言えるのだろうが、私は政治に全く疎い。単に、かつて知り合いだったイスラム研究者との関連で、個人的な義務心や責任感から眺めていたに過ぎない。

気になっていたのは、強気の「正論」ではあっても一方的な話が多く、相手を立てるとか謙譲の美徳というものをまるで無視して突進する飯山さんの姿であった。そこがYou Tubeでは売り物にもなり、鬱屈した気分でいる若い層には受けていたのかもしれない。「学術界では差別され、排斥されている私」(美人であり、学歴も申し分なく、子持ち既婚者であることには、相当の計算と自負心が見え隠れしている)という立場で、「長年孤軍奮闘してきた」と主張。確かに、語りにくく、誤解されやすいイスラム事情に関して、何冊か出版されてきた一般向けの本は「わかりやすい」と評判で、よく売れていたようである。

しかし、「東大博士」がいつまでも非常勤だとか、正規の学術論文がなかなか通らないのは肩身が狭かったのであろう。猛烈な負けず嫌いから、「保守」イデオロギーの時流にうまく乗って世間に躍り出た、という印象である。事実、自分で開設した(のかどうかは不明だが)You Tubeでも「私は勝った」等と自ら語っていた。

この時点で、政治家に転身するつもりにしては「素人くさい」と感じさせられた。それが今回の結果となって表れている。

事実、昔のモロッコ時代には真っ黒に日焼けしていた写真が出ていた記憶があり、以前には煙草も吸っていたらしい話もあった。ご年配の良識的な教授がまだ御健在だった2003年の大学改革以前には、このようなタイプの女性は、大学の研究会や学会等では表立って出て来なかった。私よりも10歳年下だが、明らかに世代ギャップを感じさせる。

但し、もしも本当に研究者や言論人としての立場を捨てて、今後、政治家として身を立ててうまくいきそうなら、飯山さんにはムスリム移民やイスラム研究の学術界の左傾化を是正していただきたい、と願っていた。だが、今回の経過を瞥見の限りでは、主張項目が右か左かの違いだけで、根っこでは合わせ鏡のような同一性を感じた。むしろ、恐ろしさを感じる。

それは、下記のツィッター(X)にも表れている。
。。。。。。。。。。
(https://twitter.com/Jh8UrRhhDyIh1ud/status/1784890009298129157)
maku@maku94483
Apr 29
日本保守党の飯山あかり氏 記者「日本保守党と飯山さんの今後について教えてください」 飯山「自分の今後の政治活動については全く考えていない」「私は党の人間ではないので、党の方針を決める立場にない」 終わったら政治も日本保守党も無関係?なんのために出馬したんですか?

(https://twitter.com/Jh8UrRhhDyIh1ud/status/1784890009298129157)
風船の寅三郎@Jh8UrRhhDyIh1ud
この人に投票した人たちはこの言葉をどう受け止めるんだ? 「善戦した」とかいう評価もあるみたいだがそういった肯定的な評価も自分から台無しにしてる 百田もそうだがこういう自己のプライドを最優先し大義や信念が全く感じられない思考回路が滲み出ちゃってるので自分はこの人たちを支持できない
7:18 PM · Apr 29, 2024

(https://twitter.com/stonepony_japan/status/1784849458309792119)
うえの@stonepony_japan
この人に投票した有権者に対しての感謝の気持ちとかがあればこういう態度と発言にならないと思います。 目線をそらしながらしゃべるクセがありますが、嘘を言っているのを誤魔化す心理だと近所のおじさんのともだちの親戚の知り合いのフォローワーさんが言ってました。証拠はないけど。
4:37 PM · Apr 29, 2024

(https://twitter.com/SeiraTakeshita/status/1784859903737336048)
せいらママ@SeiraTakeshita
同じく落選した他党の候補は翌朝から辻立ちして一から政策訴えるとこから始めてますけど、この人は全くその気は無いってことですね ホントよかった! 勢いだけでこんな人が選ばれなくて。
5:18 PM · Apr 29, 2024

(https://twitter.com/daimaki3/status/1784864145843630395)
phi@daimaki3
がんばりましたがチカラ及ばず、すみませんでした。 だけでいいのに、私は研究者ですから、とか要らないな←じゃなぜ立候補?とか詰められる呼水撒くのやめればいいのに。ていうか研究の場に戻れるのかな、あんだけ四方八方敵にして、と感じております。
5:35 PM · Apr 29, 2024

(https://twitter.com/BodhitreeKusha/status/1784865623316582652)
菩提樹 -Bodhitree-@BodhitreeKusha
飯山氏本人は自身を在野の研究者であると自覚しているはずなので、党幹部になってしまったら研究者の独立性が失われてしまうと一応は考えているのかもしれない。あとは、ただ単に党の運営に関わるのが面倒なのかも。国会議員になって、劣等感の対象の学会の学者を見返すことはしたかっただろうけども。
5:41 PM · Apr 29, 2024

(https://twitter.com/v4KWounBfhEpyDz/status/1784893489198633042)
中平隆夫@v4KWounBfhEpyDz
そうそう、負けましたが自分に投票してくれた方がいる訳ですからね。 誰が投票してくれたのかは特定出来ませんが、色々なところにお礼に行ったり、不特定多数の人に感謝の意を伝えたり。それが次回立候補した際に繋がっていくでしょう。 嫌悪感を持たれるか、好印象を与えれるか。雲泥の差ですからね。
7:32 PM · Apr 29, 2024

(転載終)
。。。。。。。。。。
(https://twitter.com/ituna4011/status/1785286619320512640)
Lily2@ituna4011
ネットだけの人気に限界も…一枚岩ではない日本保守党の将来-岩盤保守の内情【衆院東京15区補選】(古谷経衡) #Yahooニュース https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/2968cce475c2c18b5435e61e3ec8053da9ef3b49…
← この分析は私見に最も近い。
9:34 PM · Apr 30, 2024

(転載終)
。。。。。。。。。。
古谷経衡氏については、2016年頃だったか、主人が「このお兄ちゃん、見かけはあんな感じだけど、本の中身は割としっかりしているね」と新書を買ってきたことがあった。その頃は、「左翼も右翼もどっちもこっち」という醒めた見方をする印象だった。もともと、左派リベラルがメディア上では席捲していた頃に、保守の担い手としての若手論客で登場したかのような記憶があるが、それほどよく知っているわけではない。今では、いつの間にか左派に近い立場に旋回しているとも他者によって書かれていた。
。。。。。。。。。。
(news.yahoo.co.jp/expert/articles/2968cce475c2c18b5435e61e3ec8053da9ef3b49?fbclid=IwZXh0bgNhZW0CMTEAAR0xCvKIz0wfL3orGnOr797U-N3goNkEQ7qBfS5I9qJaNQJ4FrZqp8xgrXg_aem_ATwMNR9wI3AnS9Dk3jjrwXAKGmyuErPtocfmIYjeRyF_VJUdwijudGCm5qc6yQOKDX8FD-MyviSEuqXssOHVkW0R)

「ネットだけの人気に限界も…一枚岩ではない日本保守党の将来-岩盤保守の内情【衆院東京15区補選】」
古谷経衡(作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長)
2024年4月29日

 東京15区補選は、我々にあまりに多くの示唆を与えてくれた。自民党と公明党が公認・推薦・支持する候補が存在しない場合、有権者の投票行動はどうなるのか―。従来「思考実験」でしかなかったものが、実際の小選挙区で実証されたのだ。
 結果は既報の通りで、立憲民主党の酒井菜摘氏が当選した。落選したものの、2位につけたのは参議院議員を辞職して臨んだ須藤元気氏であった。選挙は当選した人の票分析をしていればそれで終わりというものではない。
 重要なのは負け方である。(中略)

・日本保守党公認、飯山あかり氏の得票は4位

 さて私が従前からきわめて注目していたのは、2023年9月に結成された日本保守党の公認を受けた飯山陽氏の得票動向である。結果、同党公認の飯山氏の得票は24,264票で4位に終わった。
 日本保守党は岸田政権におけるLGBT理解増進法に反発する形で、作家の百田尚樹氏を代表として設立され、当初は「百田新党」などと呼ばれた。同党は有権者の約2%と推計される、いわゆる「岩盤保守」の一部から絶大な支持を得る形で、今次東京15区補選で初めての国政選挙を戦うことになった。
 ネットでは主にX(旧ツイッター)で #日本保守党 #飯山あかり が連日トレンド入りし、その盛り上がりは公示前からすでに最高潮にあったといってよい。また同党支持を明確にする『HANADA』などの保守系論壇誌も、毎号日本保守党への全面支援を明確にする紙面構成で、雑誌媒体もこれに加勢した。
 日本保守党が結党して約8か月。乾坤一擲の大勝負に、日本保守党は岩盤保守を巻き込みながら臨んだのである。その結果として飯山氏の4位落選をどうとらえるのかが、本稿の主目的である。

・日本保守党結党に至る前史をふりかえる

 東京15区の岩盤保守の動向を分析する前に、日本保守党が今次選挙に至る前史を簡単に紐解きたい。(中略) 
 同年11月には、岩盤保守のプラットフォーム的存在であったネット番組『真相深入り!虎ノ門ニュース』が突然終了となる。背景には運営会社であったDHCがオリックスに買収されたことで、オ社側のブランドイメージへの配慮があったと思われる。
 このとき、同番組の二大看板であった作家の百田尚樹氏とジャーナリストの有本香氏はすぐさま『ニュースあさ8時!』(略称・あさ8)の配信を開始する。一方、『真相深入り!虎ノ門ニュース』の旧スタッフらが中心となって、翌2023年3月には『帰ってきた 虎ノ門ニュース』が事実上の後継番組としてネット配信がスタートした。

・日本保守党は「岩盤保守層」を固めきれていない~岩盤保守の内部分裂

 実は現在、岩盤保守界隈には百田氏らが代表を務める日本保守党と、それに反目するグループが存在する。便宜上、前者を百田派、後者を反百田派とする。(中略)現在、反百田派の中心的存在とみなされているのは、経済評論家の上念司氏、政治アナリストの渡瀬裕哉氏、元早稲田大学教授の有馬哲夫氏、経済評論家の渡邉哲也氏、ほかに一部の政治系ユーチューバーなどであり、これに最近ではその発言がヘイトスピーチとされ、訴訟になっている大阪府泉南市議会議員の添田詩織氏などが加わっているとされる。さらに中堅から比較的新人の保守系言論人や文化人などの一部も反百田派に親和的な姿勢を見せており、反百田派は決して小さいグループではない。(中略)
 本稿冒頭に、「(日本保守党は)有権者の約2%と推計される、いわゆる「岩盤保守」の一部から絶大な支持を得る」と書いたが、あえて”一部”と留保したのは、日本保守党を巡ってすでに岩盤保守内部で分裂が起こっているからだ。(中略)
 つまり日本保守党は岩盤保守の全部を代表するものではない。当然岩盤保守の圧倒的大多数が日本保守党を支持しているわけでもない。(中略)
 現在の勢力関係では、百田派が主流で、反百田派が非主流・傍流ということになるが、それぞれ各個人に固定ファンがいることを考えると、私の感触的には主流派7対非主流派3くらいというところではないか。

・保守系論壇誌も日本保守党を巡って温度差
 
 さて以上のような岩盤保守内部の分裂を受けて、日本保守党を巡る保守系論壇誌の論調も微妙に異なっている。前掲した『HANADA』は百田氏や有本氏と伝統的に距離が近く、紙面において全面支援を明確にしている一方、『WILL』は原則支援はするものの全面的というほどではなく、やや距離を置いている印象である。他方、保守論壇誌の老舗である『正論』は是々非々ではあるが、基本的には応援する、という風に分かれている。
 特に『HANADA』と『WILL』の日本保守党に対する論調の違いは、2016年に編集方針の違いなどから当時『WILL』の編集長であった花田紀凱氏が版元であるWAC社の鈴木隆一社長から解任されたため、編集部員の一部を伴って飛鳥新社に移籍し、新雑誌『HANADA』を創刊して分裂したことが影響していると思われる。(中略)
『HANADA』が日本保守党推しなら、『WILL』はそこまではいかない、という温度差の背景にはこのような確執があると予想されるが、そこで登場してきたのが今次補選で立候補者となった飯山陽氏である。飯山氏はイスラーム研究者としての実績と、鋭敏な野党批判、進歩的メディア批判で知られ、岩盤保守界隈ではここ数年知名度がにわかに上昇してきた人物である。
 この界隈に疎いクラスタからすれば「無名」と映るが、飯山氏の界隈での知名度は充分であった。飯山氏はイスラーム研究という、岩盤保守界隈にはなじみの薄い分野から頭角を現してきており、一方で保守界隈での言論実績はまだ数年というところでもある。よって基本的には前掲した反百田派からも、これまでの言動に基づく来歴を勘案して、大きな批判にさらされる理由は薄い。つまり飯山氏は百田派と反百田派のブリッジとして適役というわけだ。
 日本保守党初の国政選挙に、百田氏や有本氏ではなく飯山氏が公認候補者に選ばれた背景には、このような岩盤保守内部の”複雑な事情”がうかがえよう。

・日本保守党公認、飯山あかり氏の基礎票は10,000票~12,000票

 このような前史を踏まえたうえで、同党公認の飯山氏の得票24,264票の分析に進もう。東京15区を構成する東京都江東区における有権者数は約43万人。これに対し素直に(前掲推測の通り)2%を掛けると同区における岩盤保守のおよその実数がわかるのである。すると、
430,000×0.02=8,600
 が江東区における岩盤保守の推計値であり、この8,600票がそのまま飯山氏の基礎票になるはずだが、私の推計によると岩盤保守は首都圏(東京、神奈川、埼玉、千葉)に大きく集積しており、2%というのは北海道から沖縄までの全国平均であるからこれよりも上位(3%~)に推測しなければならない。仮に3%として計算すると同区でのそれは12,900票になる。3.5%と推計すると15,050票になる。4%とすると17,200票だが、これはやや高すぎるであろう。
 しかし前史で述べたようにそもそも岩盤保守が百田派と反百田派に分裂しているのだから、日本保守党は岩盤保守層の100%を掌握できているわけではないのだ。
 そうすると雑駁な概算で、日本保守党が「身内票」つまり、岩盤保守票の最大推計のうち7割を固めたとして約10,000票~12,000前後というのが飯山氏の基礎票ということになる。結果として今次補選において飯山氏はこれの約2倍程度(約24,000票)を獲得した。有権者全体からすると、約5.6%を飯山氏は獲得した。
 では氏の得票の24,264票から仮に10,000票~12,000票前後を引くとして、残りの10,000票強余りはどこから来たのであろうか。これはまさしく、自民党不在の選挙である本区特有の事情であって、自民党支持者の一部が流れたためである。

・自民党支持層のうち、約2割が日本保守党の飯山氏に流れる―飯山氏の得票を分析する

 東京都選挙管理委員会によると、東京15区での全体投票率は40.7%の稀に見る低率であった。この背景は公明党支持者の棄権や、同区で問題となった選挙妨害等により、投票行為そのものへの無関心・政治活動への嫌悪などが影響したと思われるが、同委員会によると、期日前投票の割合は13.01%(不在者投票を入れると約57,000人)ある。江東区の有権者における投票者数は、選管発表により約175,000人である。よって投票日当日の投票者数は、
175,000-57,000=118,000
 ということになる。NHKの当日出口調査によれば、このうち自民党支持と答えたものは、約24%である(下図)。とすれば、118,000×0.24=28,320 が自民党支持者の票ということになる。
 朝日新聞の報道によれば、自民党支持者のうち、1割台半ばを飯山氏は獲得したという出口調査がある。一方時事通信社は、自民党支持者の23.5%が飯山氏に流れたとする。両者の真ん中ほどを取ってこれを2割とすると、
28,320×0.2=5,664
 となり、約5,700票前後の自民党支持票が投票当日に飯山氏に流れたと推測される。このほかに無党派層の動向がある。前掲朝日新聞の報道によれば、飯山氏は無党派層(支持政党が特になしの回答)の約1割台半ばを獲得したとある。これを仮に15%とする。無党派層は投票者全体の約4割(前掲NHKの政党支持別割合に基づくと)ということになるが、こうなると118,000×0.4=47,200票である。これの15%とすれば、7,080票(約7,000)が飯山氏に流れたと類推することもできる。
 また若干の期日前投票における自民党支持層からの流入も加味しなければならない。期日前投票の総数は選管によると約57,000票であるが、このうち約2割が飯山氏に投票(約11,000票)したとNHKが報道している。この多くは熱心に日本保守党を支持する岩盤保守が事前投票を行った結果とみるべきである。ここでは無党派層からの流入を7,000、期日前における自民党支持者からの流入を1,000として考える。
 これらをすべて合算すると飯山氏の得票は以下のように分解できるのである。
12,000(岩盤保守の基礎票)+5,700(当日投票の自民党支持者の流入票)+1,000(期日前投票の自民党支持者の流入票)+7,000(無党派層からの流入票)=25,700
 よって日本保守党公認候補の飯山氏が獲得した24,264票の、近似値になるのは自明なのである。当然、いかに政治的に熱心な岩盤保守層とはいってもその投票率が100%になるということはありえないから、25,700票からやや下がったところ、約24,000票でピタリとなろう。

・オール岩盤保守ではなかった日本保守党

 つまり日本保守党は、本来の基礎票から別に10,000票強を自民党支持層などから「仕入れていた」と分析することができる。これは岩盤保守層における日本保守党の猛烈な盛り上がりに対照すれば、やや不振と言うべきではないか。(中略) 
 日本保守党はこうした「オール岩盤保守」であった次世代の党とはまるで事情が違っている。前提的に岩盤保守界隈の分裂がある以上、「身内の票」すら固めきれておらず、そして今次東京15区にあっては、自民党が不在という特殊条件が作用してもこの結果なのである。(中略) 
 自民党支持層のなかで政治的思想傾向が類似するのはあきらかに飯山氏のはずだが、その中で最も票が流れたのが「消費税全廃」や「原発再稼働慎重」を掲げた須藤氏であったのは興味深い。
 これはひとえに、日本保守党が前述の理由により猛烈な「反岸田・反岸田自民」だからである。自民党支持層としても、手放しで飯山氏に助力することはできない情勢なのであった。結局、日本保守党は自民党支持層の受け皿になった、とはまったく言えない。
 また無党派層から仮に前掲計算のごとく約7,000票が流れたとしても、それは自民党の公認や推薦候補が存在しないことを前提にしたものであり、昨今の無党派層に対する自民党候補者の食い込みを考えると、この部分についての将来にあっての弾力性は乏しいと考えてよいのではないか。

・日本保守党は次期衆院選挙で議席を獲得できるか?

 インターネット上やSNSで日本保守党が連日取り上げられ、トレンドに飯山氏の名前が挙がり、街頭演説ではかなりの人だかりができたことは事実だ。しかし、現実的にはその中の何人が江東区の有権者であったのか疑わしい。ネットのインフルエンサー、特に特定の政治的クラスタで人気のある人物は、リアルの場になると局所的に多くの人々が集まり、まるで多数から支持を受けているように思えるが、それは錯覚に近い。
 当たり前だが地域の人々と密に会話し、路地裏で政策を訴え、周知を図るという地道などぶ板しか勝つ道はないのである。ネットでの盛り上がりや人気だけでは、少なくとも小選挙区において優勢を確保することは難しい、という現実が改めて浮き彫りにされた選挙であった。
 このような現状を考えると、今後も日本保守党が国政選挙の小選挙区において議席を確保することは極めて難しいと見るべきであろう。飯山氏は全体得票においての割合では14.2%であった。他の候補(今回で言えば乙武氏など)が立候補を取りやめ、日本保守党に一本化し、かつ自民党の公認・推薦候補が存在しなければ可能性はないわけではない。
 しかしこれは理論上のお話であり、自民党が存在しない小選挙区という「きわめて特殊な」選挙局面は今後、そうないと思われることから、少なくとも来る衆議院総選挙での日本保守党の議席獲得は難しいであろう。参議院全国比例ならば、かつての参政党がそうであったように1議席の可能性は残されているが、前述したような「岩盤保守分裂」の背景にあってはその道のりは一筋縄にはいかないだろう。
 むろん、現在百田派と反百田派に代表される岩盤保守分裂の状態が解消され、岩盤保守の基礎票をほぼすべて固めることができる統一候補が生まれるとすれば、議席獲得の可能性はないわけではない。が、私が観測するに両派の溝は相当深く、骨肉の争いは将来も継続されるとみている。
(中略)
結局、「ネットで影響力があることと、実際に日々を生活する人々の心を動かすのは別モノ」 という当たり前のことを我々に突き付けたのかもしれない。(了)

(部分抜粋転載終)

注:太字はLilyによる。

(2024年5月2日記)
…………
2024年5月5日追記

(https://www.youtube.com/watch?v=lLPtswKkduE)
東京15区、負けたのは小池百合子!そして日本保守党、飯山あかり氏の4位をどう見る?
竹田恒泰チャンネル2
105,596 views
May 4, 2024
#竹田恒泰 #竹田恒泰チャンネル #衆院補選

(https://twitter.com/ituna4011/status/1786963222417023360)
Lily2@ituna4011
竹田氏は優しい言い方をされているが、「選挙区でどういう人間関係を築いてきたか」が肝心。選挙区以外でも、過去20年の経緯を無視しては、いかにも失礼。ネット上でバズっていただけでは、4位で終わってしまう、という指摘は、良くも悪くも選挙制度の本質ではある。
12:36 PM · May 5, 2024

(2024年5月5日転載終)

Posted in Japanese culture, Malay studies, research topics, Studies related, © 2024 by Ikuko Tsunashima-Miyake | Leave a comment

Uncategorized topics

伊藤貫『歴史に残る外交三賢人。ビスマルク、タレーラン、ドゴール』

・本書は、過去三世紀間の国際政治史において重要な仕事を成し遂げた三人の外交家。ビスマルク、タレーラン、ドゴールの思想と行動を説明することにより、リアリズム外交の実態を読者に理解していただくことを目的として書かれたものである。

・リアリズム外交は、バランス・オブ・パワー外交(勢力均衡外交)とも呼ばれる。この外交のパターンは、紀元前5世紀にギリシャのトゥキュディデス将軍が「ペロポネソス戦記」を書いた時から現在まで、基本的に変わっていない。

・『歴史に残る外交三賢人』として本書で採り上げるビスマルク、タレーラン、ドゴールは、国際政治におけるバランス・オブ・パワーの維持を目的として、自国の外交政策と軍事政策を運営した人物である。

・彼らは個性的でダイナミックな人であり、知的・文化的にも洗練されていた。

・三人とも頭が良くて討論能力に長けており、しかも深い思考力を持つ人物であった。しばしば同時代の「思想の潮流」や「圧倒的な世論」や「既成の政治勢力」に対抗して、バランス・オブ・パワー外交を実践するために孤立を恐れず奮闘した勇敢な外交家であった。

・これら三人のうちで、最もエンターテインメント・ヴァリュー(娯楽的な価値)が高いのは、タレーランであろう。

・ヨーロッパには、ピカレスク・ロマン(悪漢小説)と呼ばれる文学のジャンルがある。あぜんとするような悪事をしでかす悪者を主人公として、その人物の大成功と大失敗を描く波瀾万丈の物語である。

・タレーランも、スリル満点で波瀾万丈の人生を送った悪人であった。彼は、自分が悪党であることを世間から非難されても平然としていた。そのような「悪辣な政治家」が、ナポレオン戦争後の混乱した敗戦国フランスを救うために大胆な忠国外交を実行したという史実が、まるでピカレスク・ロマンのように面白いのである。

(2024年4月30日転写終)
。。。。。。。。。
【今日の名言】アルベルト・アインシュタイン(ドイツ生まれの理論物理学者)

失敗したことのない人間というのは、挑戦をしたことのない人間である。
成功者になろうとしてはいけない。価値のある男になるべきだ。
だれかのために生きることにのみ、生きる価値がある。

私は賢いのではない。問題と長く付き合っているだけだ。
私は未来のことを考えたことはない。すぐに現実になるからだ。

常識とは、18歳までに積み重なった、偏見の累積でしかない。

人生を楽しむ秘訣は普通にこだわらないこと。普通と言われる人生を送る人間なんて、一人としていやしない。いたらお目にかかりたいものだ。
学校で学んだことを一切忘れてしまった時になお残っているもの、それこそ教育だ。

賞賛による堕落から逃れる方法はただひとつ。仕事を続けることである。

自分自身の目で見、自分自身の心で感じる人は、とても少ない。
どうして自分を責めるんですか?他人がちゃんと必要な時に責めてくれるんだからいいじゃないですか。

一見して馬鹿げていないアイデアは、見込みがない。

天才とは努力する凡才のことである。
成功という理想は、そろそろ奉仕という理想に取って替わられてしかるべき時だ。

悪に感化される人がいることよりも、悪を看過する人がいることの方が危ない。

何かを学ぶのに、自分自身で経験する以上に良い方法はない。
いつだって、偉大な先人達は凡人達の熾烈な抵抗に遭ってきた。

情報は知識にあらず。
学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるか思い知らされる。自分の無知に気づけば気づくほど、より一層学びたくなる。

人間性について絶望してはならない。なぜなら我々は人間なのだから。

神は絶対にサイコロを振らない。

物事は全て、できる限り単純にすべきだ。
調べられるものを、いちいち覚えておく必要などない。

私には特別な才能などありません。ただ、ものすごく好奇心が強いだけです。
6歳の子供に説明できなければ、理解したとは言えない。

可愛い女の子と一時間一緒にいると、一分しか経っていないように思える。熱いストーブの上に一分座らせられたら、どんな一時間よりも長いはずだ。相対性とはそれである。
男は結婚するとき、女が変わらないことを望む。女は結婚するとき、男が変わることを望む。お互いに失望することは不可避だ。

科学はすばらしいものだ。もし生活の糧をそこから得る必要がないのなら。

たとえ国家が要求しても良心に反することをしてはいけない。

人の価値とは、その人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる。

優れた科学者を生み出すのは知性ではなく、人格である。

ある年齢を過ぎたら、読書は精神をクリエイティブな探求から遠ざける。本をたくさん読みすぎて、自分自身の脳を使っていない人は、怠惰な思考習慣に陥る。
シンプルで控えめな生き方が、だれにとっても、体にも、心にも、最善であると信じています。

※4月18日はアインシュタインの命日(1955年)です。

(2024年4月30日転載終)

Posted in Uncategorized, © 2024 by Ikuko Tsunashima-Miyake | Leave a comment

V・フランクルのインタビュー

恐らく1994年頃にNHKテレビで放映された番組を二本立てにしたものであろう。You Tubeで再現されることは、素人の私にとってはありがたい。
コメント欄を見ると、この時期にはテレビ番組の質が保持されていたことを反映している。

4月28日(土)の午後4時から6時にかけて、京都ユダヤ思想学会(2007年から教授の勧めで入会)のZOOMティータイムに参加した後、ふと気になって見つけた映像だった。
フランクルは、「精神科医である」と日本では紹介されていることが多かった(と記憶する)が、インタビューによれば、哲学と神経精神医学が専門だとのことである。

2022年4月から二年間の修論作業で、明治以来の日本の神経学について古い文献で調べてワード要約を作ってみた。

日本では、神経学と精神医学の相互領域に学的人脈と政治的な問題があったらしく、今でもそれが尾を引いているらしいことを初めて知った。ドイツ医学とフランス医学では、やり方や潮流が異なる上、戦後、優秀な欧州の神経学者は、米国に移住して研究を発展させた。しかしその一方で、何事も合理的かつ簡易にまとめる傾向にある米国医学に不満を持つ神経学者も米国には確かに存在する、ということのようである。

とするならば、フランクルの理解受容にも、日本側の一方的な思い込みや片寄りが含まれるのかもしれない。そんなことを思いながら、映像二つを見ていた。

【ヴィクトール・フランクル インタビュー 1/2】 「夜と霧」を越えて
(https://www.youtube.com/watch?v=c5gq7b47cL0)

【ヴィクトール・フランクル インタビュー 2/2】 それでも人生にイエスと言おう
(https://www.youtube.com/watch?v=opm8tvyZLdU)

その断片をフェイスブックに掲載したところ、下記のコメントを頂戴した。
。。。。。。。。。
(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)

【ヴィクトール・フランクル インタビュー 1/2】 「夜と霧」を越えて
(https://www.youtube.com/watch?v=c5gq7b47cL0)
ヴィクトール・フランクル インタビュー 第1回 「夜と霧」を越えて
フランクルが89歳の時のインタビューです。 インタビュアは野田正彰氏。

T・H:実に重いテーマです。やはりユダヤ人で収容所経験のある、政治哲学者のハンナアーレントはゲシュタポの中心にいてユダヤ人虐殺の重要な役割を担い、アルゼンチンに潜伏していてイスラエルのモサドにより発見、拉致されイスラエルに護送されたアイヒマンの裁判を傍聴してレポートを書いたが、彼女はアイヒマンがどこにでもいる、実に凡庸な人物であったことに強いショックを受けた。悪の属性は凡庸なる我々とは別の、いわゆる悪魔、サタンと言われる特殊な人物の属性ではなく、まさに我々の属性であることショックを受けたのでした。何も考えない、ルーティン化された思考のままに行動して、そうすることこそが正しいのだと言って憚らない。アイヒマン裁判のあて、ハンナアーレントは思考とは何かについて、その考え、思考に集中した。精神と生活、上下2巻がアーレントの遺作となったわけです。つい二日前に自分の書棚からこの2冊を引き出したところでした。

ユーリ:H様、長文のコメントを誠にありがとうございます。アーレントについては、何年も前から学会等で聞いております。今日もまた、小さなティータイムでユダヤ問題について専門的な話をうかがいました。簡単には言葉にできません。いつも深く考えさせられます。政治的には保守的な世俗派ユダヤ人の知人が何人かいますが、唯一、自分にできるかもしれないことは、考えることをやめないことか、と思います。単に上の命令に従ったまでだというアイヒマンの凡庸さについては、日本でもよく語られますが、この自分もそうなのだと、どこまで自覚でき、実践できるかが問われていると思います。

(転載終)
。。。。。。。。
フランクルは、ユダヤ人であるという理由で、ナチによって家族共々、収容所に送られた。
それにも拘わらず、„Trotzdem sage ich Ya zum Leben” だったか、強靭な精神力と「とどのつまり人生には意味がある」という希求を抱いて見事に生還されたことは、今でも我々一般人に並々ならぬ驚嘆と勇気を与え続けている。ただ、日本で表向き殆ど語られていない側面は、「なぜ、それが可能になったか?」の根源である。

フランクルが戦後、収容所から‘解放’されて最初に没頭したことは、精神科医としての職を確保するために論文を書く作業だった、という。そして、病院で確固たる職を得て、再婚し、新たに家族を形成された。家族がバラバラになって死別したにも拘わらず、この凄まじい生への執念は、一体どこから来るのだろうか?

その辺りの歴史的考察が浅い点、日本の報道には不満が残る。

(2024年4月30日記)
。。。。。。。
(https://www.youtube.com/watch?v=osT2UWXItUs)
Hitler über Berlin – Der Aufstieg des Nationalsozialismus von der Weimarer Republik bis 1939 (1/5)
CHRONOS-MEDIA History
(51:44)

(https://www.youtube.com/watch?v=kOIHRQlQqwU)
Liberators and Survivors: The First Moments
Yad Vashem
(15:26)

(https://twitter.com/ituna4011/status/917641940933287937)
Lily2@ituna4011
“Stefan Zweig” (Folio Biographies)Catherin Sauvat(https://amazon.co.jp/dp/2070308359/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_BVg3zbBGTKVNW…)
2016年9月24日に巴里のホテル近くの駅構内の本屋さんで見つけて買ったフランス語のシュテファン・ツヴァイク。ドイツ語ではない。
3:44 PM · Oct 10, 2017

(2024年4月30日転載終)

Posted in film, © 2024 by Ikuko Tsunashima-Miyake | Leave a comment

再入学した放送大学その後

(https://twitter.com/ituna4011/status/1784336918974718127)
Lily2@ituna4011
世界の新薬が使えない 「治験後進国」日本の課題 Inside Out – 日本経済新聞 https://nikkei.com/article/DGXZQOUF12ABP0S4A410C2000000/…
← グローバル基準で副作用が増えた現実は?
6:40 AM · Apr 28, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1784337388317343773)
Lily2@ituna4011
振戦のみがPDではないのは常識。
6:42 AM · Apr 28, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1784873414852763724)
Lily2@ituna4011
機能性神経障害「La Lésion Dynamique(動的病変)とは何か?」Mark Hallett教授の講義より https://blog.goo.ne.jp/pkcdelta/e/0debf99d5de1bbc79b852745b82ca801… #gooblog
← シャルコー先生!今年度、フランス語を12年ぶりに再開した理由。
6:12 PM · Apr 29, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1784874878870376690)
Lily2@ituna4011
レカネマブは標準治療と比較し費用対効果が優れているとは言えず,価格が年間5100ドル未満とならなければ費用対効果は低い https://blog.goo.ne.jp/pkcdelta/e/414146fd6f7d918deab84196e1ccd4b4… #gooblog
← 問題の多いレカネマブ。
6:18 PM · Apr 29, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1785058729034924409)
Lily2@ituna4011
今年1月上旬の修論口頭試問でも副査の教授から「認知症でも今後問題になる薬がありますね?」と問われ、即座に「はい、レカネマブ」と即答いたしました。 神経内科学がご専門の下畑享良教授(岐大)と長谷川嘉哉医師(岐阜県)の両先生には本当に感謝しております。今後とも刻苦勉励いたします。
6:29 AM · Apr 30, 2024
。。。。。。。。。。
(https://twitter.com/ituna4011/status/1784395184106766796)
Lily2@ituna4011
下記の簡単過ぎた科目、今日中に終わる。2019年の教材なのに明らかな誤記が含まれていたので、申告もした。 インターネット講義は全部、1.5倍速か1.25倍速で聴いている。最近では世の中が万事、ゆっくり丁寧過ぎるので、時間が無駄。放送大学以外にもオンライン通信講座は全部、そのようにしている。
10:32 AM · Apr 28, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1784395517000343941)
Lily2@ituna4011
高度さや深化が望めないならば、幅を広げるしかない。 限られた範囲内での苦肉の策。
10:33 AM · Apr 28, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1784398119079498043)
Lily2@ituna4011
高校の頃、ノートもあまり取らず授業を聴くだけで、全科目平均して素晴らしい成績だった人がいた。体育系部活でも活躍し、楽器も習い、人柄も鷹揚で余裕綽々。方や私は、まめまめしくメモを取り、宿題と予習復習だけで精一杯。水泳部とピアノ練習で毎日眠かった。家事もやっていたけれど。人生格差?
10:43 AM · Apr 28, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1784406940543782945)
Lily2@ituna4011
逐一、余計な話を入れ込んだり、当たり前の話を繰り返したり。聴いている方が疲れることこの上ない。ついでに活字も大きくなって、読む情報量が著しく減った。昔の高齢者は、自らルーペを持って新聞を静かに読んでいた。今は、自分中心に要求を社会に突きつける。
11:19 AM · Apr 28, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1784417649151365140)
Lily2@ituna4011
ただ今、ジャスト正午前に全部終了。最終テストは満点。レポートは数日前に提出したが、率直に辛辣なコメントを書いたので、減点される可能性あり?
12:01 PM · Apr 28, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1784437380776362334)
Lily2@ituna4011
せっかく4月中の科目終了の内祝いとして、野菜炒めを作ったのに、テーブルに運んで食べようとしたら、手前でいきなりパリンと割れた。油で床掃除が大変。 放送大学の科目批判をしたバチかしら? と思いきや、吉兆の前触れらしい。
1:19 PM · Apr 28, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1784438198246224154)
Lily2@ituna4011
語学は倍速がお勧め。聴解訓練になる。但し、既習言語に限る。私は、英語とドイツ語がいつも倍速。
1:23 PM · Apr 28, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1784549546342957472)
Lily2@ituna4011
今年度の再入学で気になるインターネット講義のフォーマット。以前は1分でも閲覧したらすぐに日付入りで「閲覧印」が表示されていたのに、今は最後まで視聴しても日付が入らない。オンライン講義は、作業や課題の一覧リストがあり、一つでも終わると自動的にマークがついたのに、今は入らない。不便。
8:45 PM · Apr 28, 2024

(2024年4月30日転載終)
………….
2024年6月24日追記

(https://x.com/ituna4011/status/1804808664248995988)
Lily2@ituna4011
やはり会場受検の方がいいです。 自宅でのパソコン受検では、途中で電話がかかってきたり、ドアベルが鳴ったりして、集中できません。また、当日突然、パソコンが起動不能になったり、途中でフリーズしたりしたら、全てが無効になってしまいます。
6:28 PM · Jun 23, 2024

(2024年6月24日転載終)

Posted in Health and Medical issues, Japanese culture, research topics, Studies related, © 2024 by Ikuko Tsunashima-Miyake | Leave a comment

植樹祭に三度目の献木

2年前には、2022年5月5日「長寿考-卒寿と白寿と」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=2551&action)というブログを書いた。この時には、2021年4月29日の初回に引き続き、私共の挙式会場であった京都の下鴨神社にある糺の森での二度目の植樹祭のことを記した。

昨年は主人の「四年祭」に相当したが、神道では何もしないのが通例。ちょうど大学院修士課程の2年目に入った頃で、毎月のゼミ発表もいよいよ山場を迎える時期だったため、見送った。いろいろな用事もたまっており、その疲れもあって、休んだことは正解だったと今でも思う。

今年の4月29日には、三度目の植樹祭に参加した。ちょうど主人の五年祭を4月7日に自宅で行ったばかりである。伊丹市内でずっとお世話になっている天満宮の宮司様をお招きして、ごく簡素ではあるものの最低限のことはできたと思っている。

そのことと兼ね合わせて、今回の献木でも、従来と同じく桂の木を一本植えた。一度目と二度目は15万円だったが、今年は20万円である。

第一回目の時はまだコロナ問題が緊張感を帯びており、京都市内も殆ど人出がなく、タクシーの運転手さんも「商売あがったり」で元気がなかった。その代わり、実にスムーズに現地に到着できた。コロナを理由に式典はなく、参加者が順にスコップで苗木に土をかけて終わった。参加の御礼として、鉢植えの黄色いカランコエをいただいた。

第二回目の時は大雨で、式典はあったものの参加者は少なめだった。冒頭のブログで記した通り、裏千家の「鵬雲斎御家元」とお呼びしていた大宗匠様が直接、献木者の名前を順に読み上げられ、じっと見つめられた私もその中に含まれていた。参加の御礼には、鉢植えの赤いカランコエをいただいた。

二つのカランコエは、今もベランダですくすく育っている。一時期、うっかり放置したままだったところ、花も枯れ、赤茶けて萎びた茎と葉しかなくなってしまった。その後は毎朝、祭壇の御神酒を替える時に、榊の前に置いた水を鉢植えにかけ続けたところ、今では生き生きと、彩りよく見事な黄色と赤の花を咲かせている。きちんと手入れをすれば、それなりに長持ちするものだ。

今年は、曇天。これがちょうど適切だったようで、式典も滞りなく行われた。糺の森保存会の理事長を務めていらっしゃる千玄室氏こと鵬雲斎大宗匠様は、今年で101歳を超えられ、さすがに腰が傾き、首も前下がり気味になられた。だが、今でも前に立ってのご挨拶は、大きな声でフレッシュな内容を語られた。このお元気さにはびっくり。理事長としての責任感と、戦前の軍事鍛錬の賜物であろうか。

今回は、神職の方が祭壇で、献木者34名の住所(居住地の県と市のみ)と氏名を祝詞の節をつけて読み上げられた中、私も8番目に含まれた。スコップで一人ずつ土をかけに行く時、またもや鵬雲斎大宗匠様にじっと見つめられたが、一昨年と同様、本当に不思議な気がする。千利休から数えて15代目の裏千家御家元という京都でも名高く高貴な家柄の方に、何も肩書もない私が名前を呼ばれて、しっかりと見つめられたのだ。名古屋で裏千家のお茶を習っていた結婚前には、雲の上の方とご面会の機会があるはずもないと信じ込んでいた私だったのに、である。

国民民主党の前原誠司氏と自民党の伊吹文明氏から、この植樹祭典のために祝電を頂戴しているとのご挨拶もあった。

今年は、カランコエはないとのことで、代わりにベゴニアの鉢植えをいただいた。ところが、その後、歩き回っているうちに、どこでも花びらがあちこちに散って落ちてしまったのは残念だった。カランコエなら、そういうことはなかったはずだ。

一時間程で式典と土掛け記念撮影は終了。

その後、自分が以前植えた桂の木の二本は、どこにあるのだろうか、どの程度成長したのだろうか、と思いながら歩いてみた。会場近くの「あけ橋」の標識に目をやり、何とはなしにその近辺へ近寄ってみたところ、なんと、あったではないか!まだ背丈は高くはなく、どちらかと言えばひょろっとした感じではあったものの、確かに私の名前が書かれた白いプレートを掛けた「桂の木」が一本、植え替えてあったのだ!

写真を撮った後、(あと一本はどこだろうか?)と探し回りながら歩いていると、シャベル入りのベゴニア鉢植えをぶら下げていたせいか、たまたま出くわした園芸係の男性が親切に説明してくれた。桂の木を集団で移植した場所は、地図では本殿方面の北にある、という。社務所に行けば、毎年、献木者の名前を場所毎に記した地図が作成されているので、一枚もらって探せば見つかるだろう、とのことだった。

(2024年5月2日記)
………….
2024年5月6日追記

上記の4月29日には、糺の森の植樹祭の時、千玄室理事長と宮司様からうかがった話には、「しっかりと根を張ること」「根っこが大切であること」「種子根で立派に生きる」という言葉が含まれていた。

自分なりに応用的に考えてみると、それは自分の家系ルーツ(血縁)をしっかりと把握しておくこと、自分が暮らしてきた/暮らしている土地の来歴(地縁)をきちんと理解すること、自分の過去履歴を整理しておくこと、毎日の食事と睡眠と運動という生活習慣に加え、掃除、整理整頓、清潔、衛生等、目に見えないものを整えておくことか、と思われる。そして、自分が属する国柄についても現状のみならず、過去を踏まえた上で直視する勇気をもつことではないだろうか。

植樹祭の祭事そのものは20分程で終わり、スコップシャベルで土掛けと写真撮影が済むと、11時には式典全体が終わった。

その後は、双葉葵のお菓子をいただいて休息。しばらくは境内の中をぶらぶらと散策してみた。

伊丹の小西家による清酒「白雪」が奉納されているのを確認したり、本殿の四言語(英語・簡体字・繁体字・ハングル)による参拝手順の説明看板をメモしたりした。「神」はGodではなく「Kami」とされていた点、さすがに昭和時代とは異なると感じた。

そして、鴨長明ゆかりの河合神社には12時42分から1時2分まで。十数年も前に主人と見た鴨長明の再現住居は移転されているとのことで、二度目の資料館を覗いてみた。『方丈記』の江戸時代の写本数種は、5年目に入った伊丹での古文書クラスおよび今年1月から受講を始めた通信講座のおかげで、何とか少しでも読めるようになったのは、我ながら前進だ。意味がわかってくると、確かにおもしろい。

続いて、糺の森を南下した境内の先にあった秀穂舎資料館へ。
平成28年(2016年)10月1日に開かれた資料館だが、確か主人が入院中だった2020年3月中旬にも来ていたかと記憶する。その時には、中年女性のガイドだったが、時間が押していたので、あまり詳しくは覚えていない。その後は、いつでも時間切れで、なかなか中には入れなかった。今回は、1時9分から2時6分と、ほぼ1時間の閲覧が可能になり、しかも丁重なボランティアガイド氏の親切な解説付きでもあった。

案内ガイド氏の説明から学んだことのメモ箇条書きを。

・下鴨神社には340軒の社家があり、それぞれの職分を担っていたが、明治期に入って閉鎖された。
・今では、浅田家(五位)と鴨脚(いちょう)家の二軒のみ残ったが、前者が資料館となり、後者は現在もお住まいである。
・浅田家は賀茂社の画工司で、絵と文字の記録係であった。
・伊勢の神宮の遷宮と異なり、下鴨神社の遷宮は修理のみである。
・この浅田家には、かつて京都市長が住んだこともある。
・玄関先の石人文官の石柱は、朝鮮半島由来である。
・華表門(かひょうもん)は、鳥居の型である。
・玄関入口にある歳木(としぎ)は、「たもらぎ」ともいう。竹で48本編み、門松に近い。
・玄関には武器と蓑笠が掛けてあった。
・御井戸(みいど)は、神水を汲むためのものである。
・待合は、荷物持ちの付き人が御主人の出勤前、待機する場所であり、煙草入れも置いてある。
・玄関の黒い靴は儀式用、白い革靴は雪の時に用いる。
・庭の双葉葵は繊細で育てにくく、枯れないよう大切にしなければならない。
・庭の中には、泉川から御手洗
・下鴨神社は通称であり、賀茂御祖神社とは、おじいさまとお母様をお祀りしている意味。

1時35分にガイドが終わると、残りの25分程、一人で古文書や屏風絵が並べてあった二部屋を閲覧。

・東遊歌:東向きの歌舞で、御神霊を慰める芸能を「あそび」と称した。
・『御堂関白道長公記』『関白賀茂詣絵巻』『小右記』
・葵祭の起源は、『山背国風土記』によると、欽明天皇5年(544年)の不作と疫病は賀茂大神の祟りではないかとのことから。
・賀茂の斎王制度は、薬子の変に始まる。
・式子内親王(1149-1201年)

続いて、すぐ近くに旧三井邸があったので、2時7分から2時44分まで閲覧させていただいた。非公開文化財の行事でよくリストに載っていたが、今までは、ここだけのためには来られなかった。小雨が降りかけていたが、ちょうどタイミングが合い、静かでしっとりと落ち着いた素晴らしい庭園やお住まいを見せていただけた。記念に葉書も買い求めた。
この邸宅は、三井家が下鴨神社に参拝する際に利用したものらしい。また、三井家が代々心得としていた商業倫理を書き記した古文書も展示されており、信用第一、顧客を大切に、金銭は正確に大切に用いること、という原則を守り通すことが、今も昔も繁栄の基のようである。

その後は10分程、近くの公園で下鴨神社境内と近辺の説明板の部分写真を撮って、半日の復習をした。

京阪の出町柳駅から祇園四条駅まで特急電車で。

四条の南座近辺には、外国人観光客がたくさんひしめいていた。四条大橋と五条近辺は、京都でも最も嫌な場所である。
特に、観光用に崩した下品なケバケバしい着物もどきを、まるで大見栄を切っているかのように胸を反らして堂々と歩いている白人女性や中国人等が、不愉快で仕方がなかった。なんと、最近では白いフリルのレースを襟元からのぞかせるおかしな姿が増えていた。

いくら自分ではキモノを着ているつもりでも、ごく普通の日本育ちの我々日本人の目には、態度や物腰からおかしさがすぐにわかってしまう。洋服とは違い、普段の日常生活習慣や内面から滲み出るものがそのまま表出されてしまうのが、着物。「ここはどこの国なんだ?」と思わせてしまう。
後日、呉服屋さんでその話をすると、やはり業界でも嫌がられているようで、四条の老舗の呉服屋さんは口を閉ざして付き合わないようにしている、とのこと。

ところで、南座の歌舞伎は一度も見たことがないし、今後も見ることは決してないだろう。テレビで昔放映されていたのを見た限りでは、お能はいいが、歌舞伎はどうも相性が合わない。
1998年頃、関西の地理を覚えようと思って、手当たり次第に集めた本の中には、「歌舞伎とは「かぶく」を意味しており、被差別部落の人々が生業としていたものである」云々と書かれてあった。今回驚いたことには、「出雲の阿国」は「出自未詳ではあるものの、出雲大社の巫女である」らしい、という説明書きが川べりに提示されていた。

一体、どちらが事実なのだろうか?

(2024年5月6日記)
………………….
2024年8月22日追記

(https://www.chichi.co.jp/web/20230419_senn/)

【101歳】裸足になってひたすら前進を続けよ——茶道裏千家前家元・千玄室が悲哀の中で掴み取ったもの
2024年7月30日

茶道裏千家前家元の千玄室さん。101歳となったいまなお茶の道を究める一方、「一碗からピースフルネス」を志として半世紀以上、国内外に和の心を伝え続ける原点には、過酷な戦争体験、肉親の死など、数々の困難があったといいます。そんな千さんの半生に迫るエピソードをご紹介いたします。※対談のお相手は、宗教学者の山折哲雄さんです。
毎日死ぬことばかり考えていた
〈千〉
戦争中は、自分がいつ死ぬか分からないという思いで生きてきたわけですが、大事な家族を失うのはまた違う辛さがあります。10年前に家内、7年ほど前に二男に相次いで先立たれましてね。この時は特攻で死ぬこと以上に辛うございました。 
家内が亡くなった後、無常観と申しますか、半泣きになりながら毎朝の散歩を続けているような状態でございました。過ぎ去りし家内との思い出の中に入り込んでいる自分の姿がよく分かるのですね。けれども、どうしても切り捨てることができない。
「おまえは一体何なのだ。戦争で死に損ない、大徳寺で瑞巖老師に学び、半世紀以上お茶の心を海外に伝えてきたのは一体何だったのか」と。
毎日、毎日死ぬことばかりを考えておりました。すると顔に死相が出てくるのですね。ある時、当時小学生だった孫娘が「お祖父ちゃま、どうしてそんな顔しているの」。そう言われてハッとしました。鏡を見たらなんとも情けない顔なのですね。「こりゃあかん。もう一度、立ち直らなくては」と。
ちょうど海外普及も50周年の節目を迎え、家内が「これからは好きな茶の道をされてはどうですか」と言ってくれたのを思い出しましてね。長男に家元を譲る決意をしたのです。
裸足になってひたすら前進を続けよ
〈千〉
そうしてだんだん立ち上がったところに、今度は二男が病に倒れてしまいました。見舞いに行くと、私の手を握って「僕はもう駄目かもしれない。兄さんが16代を継いでくれるのを見届けたかった」と申しまして……。
〈山折〉
そうでしたか。
〈千〉
長男が家元を継承するのを見届けたように、二男は亡くなって、私もまたどん底に突き落とされた気持ちでございました。
しかし、家元の重責に前向きに立ち向かっている長男の顔を見たら「ここで自分が負けてはいかん」と心を奮い立たせました。人間再生です。
山折先生ね、瑞巖老師から私が最後にいただいた公案(禅の師匠から与えられる課題)が「破草鞋(はそうあい)」、破れ草鞋だったのですよ。
最初に老師に「はそうあい」と言われた時は、何のことだかさっぱり分からなかった。お伺いするわけにもいかないし坐禅をやっていても浮かばないのですね。 
ある時、玄関の入り口に掛けていた托鉢用の編み笠と草鞋を見た時、ハッと思ったのですね。「そうや、草鞋のことや」と。
しかしそれでも破れ草鞋がどういうことかがまた分からないのです。
〈山折〉
答えは見つかりましたか。
〈千〉
それが、最近ようやく分かりました。破れ草鞋は何も役に立ちません。自分の草鞋が破れている。それすら忘れて、裸足になってひたすら前進を続けよと。いつまでもうつむいていないで前進を続けよと。この年になって一つの疑問が解けてきました。
これがいまの私の心境です。
〈山折〉
なるほど。お話を伺っておりまして、私のような門外漢から見ましても、それは実に見事な引退、そして新たな再生という人生の区切りではなかったかと拝察いたします。
おそらく気力、体力ともに充実していらしたはずです。その段階で身を引くのは、よほどの決意がないとできないことだと思います。
そして家元を譲られることで、また大きな心境を開かれたのですね。
________________________________________
(本記事は月刊『致知』2010年1月号 特集「人生信條」より一部抜粋したものです)

(転載終)
……………..
2025年3月27日追記

致知出版社の人間力メルマガ 2025.1.18
─────────────────
茶道裏千家前家元の千玄室氏は2023年、100歳を迎えられました。70年以上、国内外で茶道の普及を続けるその精進努力には、いささかの衰えもありません。
長きに渡り世の中を見てきた千氏に、現代社会はどのように映っているのでしょうか。艱難辛苦が続く社会を生き抜くために大切なことを独自の観点で語っていただきました。(月刊『致知』2020年4月号より抜粋)

(千玄室)
私たちの人生は、いつ何時、どんなことが起きるか分かりません。今朝の新聞を見ておりましたら、本年中というわけではありませんが、南海トラフの大地震で最高36メートルの津波が来ると書かれてありました。

東北のほうでは東日本大震災の苦しみから立ち上がるべく、たくさんの人たちがいまも頑張っておられます。私も現地に行きまして、被災者の方とお目に掛かってお話をさせていただいたり、お茶を差し上げたりしました。
あるお婆さんにお茶を差し上げた時、「ああ、このお茶がいただけてよかったな。私はお茶のことは知らんけど、この点ててもろうたお茶が、どんなに心を癒やしてくれたことか」としみじみ、そうおっしゃいました。
それを伺った時に私は
「たった一碗のお茶でも、こんなに役に立つのだな。ありがたいな。もっともっと多くの方にこの一碗のお茶を飲んでいただいて、皆さんが少しでも苦しみ、悲しみから逃れられるようにしなければいけない」
と自分に言い聞かせたものです。

大切なのは、苦しみの多い人生であったとしても、そういう思いやりの気持ちを失わないで、他の人に対して手を差し伸べていくことではないかと思うのです。
自分の手を使って他の人のために少しでも何かをして差し上げる、その喜びが自分に返ってくる。その時に人生の本当の幸せを感じられるのではないでしょうか。

「ありがたいな、もったいないな」という気持ちを一人でも二人でも三人でも多くの人が持っていただけたら、平和という言葉を使わなくても本当に落ち着いた世の中になっていくのではないでしょうか。

(2025年3月27日転載終)

Posted in Japanese culture, © 2024 by Ikuko Tsunashima-Miyake | Leave a comment