4月28日(日)の午前中、今年再入学して登録した放送大学の計8科目のうち、1科目を全部終了した。これで、5月以降は、残りの7科目(その中の大学院レベルはオンライン2科目)を計画に沿って着々と進めていけばよい。
午後2時からは、伊丹市宮ノ前にある旧岡田家の酒蔵内の小ホールで、岡田利兵衛先生のお孫さんに当たる岡田暁生氏のレクチャー・コンサート「戦前阪急沿線と音楽と岡田家」と題するお話をうかがった。これは、旧岡田家住宅・酒蔵築350年記念プログラムの一環である。私にとっては、4月13日に聞いた講演会に続き(2024年4月14日付「地域文化史を学ぶ」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=7132&action))、これが第二弾。
岡田暁生氏のお父様、つまり岡田利兵衛先生のご子息は岡田節人(ときんど)氏。4月16日の午後、ミュージアム内の展示を見に行った時、奥の小さなコーナーで生物学者の節人氏がにこやかに語る10分程度のビデオが流されていた。
裕福な家に生まれると、このように鷹揚な人柄が培われるのだろうかと、すっかり平板化し、左派リベラル風潮の影響で一種、抑圧的な社会になっている現在では懐かしく思うところである。ちょうど私がマレーシア勤務から帰国した1990年代前半期に、そのビデオ対談がなされていた。あの頃までは日本に競争力が残っており、経済的にもまだ余裕があった。
岡田暁生氏は京大教授で音楽学者。お父様には膨大なレコード収集があり、阪神間モダニズムの時代背景と岡田節人家を取り巻く音楽環境、というお話だった。「岡田家なんて、人様に来ていただけるようなネタ、あるんかなぁ」と謙遜されていたものの、酒蔵には目算で50名以上もの人々が集まっていた。尤も、例によって例の如く、この種の話に若い人が殆どいなかったのは、昨今の情けない傾向である。
以下、当日のメモを頼りに、お聞きした話の要点を抜粋して記録する。
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江戸時代から酒造で栄えた伊丹の町。江戸で人気を博した清酒造りで経済的に繁栄すると、文化的興隆と広がりが阪神間に生まれる。ただ、お父様の時代になると京都へ引っ越し、核家族として暮らしていたそうである。そして、「全くお金持ちでもない」。祖父の家であった岡田家住宅は、後に国宝とされたが、自分にとってはエキゾチックな「異文化体験」。蔵は薄暗く怖いところで、まさに‘wonderland’。「座敷童」のような妖怪の世界で、お酒の匂いも漂っていた、という。
近松門左衛門のような元禄文化が栄えた時代、旧岡田家は資産家であったが、「今ではあり得ない」。豪商ということは、文化の交差点として、文化集約される発酵の場。但し、それは腐敗と表裏一体でもあった。
2018年秋に伊丹に転居して以来、酒造の町としての伊丹が、極めて洗練されて綺麗な側面ばかり表向き語られることが不思議で、ある時、私は市の女性職員に尋ねてみたことがある。「普通、お酒といえば金と女がつきものなのに、どうして伊丹の展示では、女が出て来ないんですか?」
すると、「もちろん、ありますよ。お教えいたしましょうか?」と即答。でも、話はそこで途切れたままだった。
どうなったのだろうか、と長らく密かに思っていたところ、さすがは岡田先生自ら、「生前の父に尋ねたことがあります」。「芸者遊び、せえへんかった」。つまり、岡田家は代々、大変真面目なご家系でいらしたということである。裏返せば、お酒で裕福になった豪商は、芸者に入れられたのが通例だったが、そういう家は戦前に没落していった、ということらしい。
この「真面目なご家系」については、勿論、岡田利兵衛先生の鬼貫研究でも窺い知ることができる。戦後、カトリック信者になられた篤信の利兵衛先生は、鬼貫も「まことの人であった」と、律儀な側面を強調して解釈されている。
話を節人先生に戻すと、「物凄く音楽好きだった」そうで、暁生先生もその影響を受けて今に至っているようである。また、岡田家には戦争に行った人がいない。母方は山口の造り酒屋の御出身で、官に近く、真面目な家柄であり、娘さん方は4人とも全員ピアノを習っていたという。(そして、かなりお上手でもあった。)
また、岡田家の世代は、日本が初めて音楽を学ぶために欧州留学を開始した時代に相応する。例えば作曲家の山田耕作は資産家の出身で、花柳界に近く、三味線が家の中でいつも流れていた環境だったという。
今回のお話のキーワードは、上方の造り酒屋の豪商文化は、東京の立身出世が嫌いで、官製や教養主義も嫌い、「ええなぁ、おもろいなぁ」という感性中心主義とのことだった。
明治に入り、欧米列強と対峙することになった日本は、文明国あるいは一等国であると見なされるために、バッハやモーツァルトやベートーヴェン等の洋楽を国策として国が輸入した。その際、モデル国をドイツと決めて、ドイツ人をお雇い外国人教師として音楽学校に招き入れ、例えば「蛍の光」のような小学校の唱歌が導入された。関西学院や神戸女学院のようなプロテスタント系教会も、そこでは大きな役割を果たした。同志社も、牧師養成としてオルガン音楽が導入された。
造り酒屋の芸事は町人文化で、すなわち、官が嫌いだということを意味する。勲章をもらうことも嫌いで、説教も嫌。だから、岡田利兵衛先生は戦後カトリック信者になられ、ローマ教皇から勲章をいただいた。プロテスタントは「くそ真面目」で、裏表があってはダメ。そもそもカトリックに対する対抗運動として始まったプロテスタントなので、質実剛健を基とする。対するカトリックは、告解すればチャラになり、ある意味いい加減である。暁生先生は、小中高とカトリック系の学校で学ばれた。
お父様の節人先生は、生物学者とはいっても実は多趣味。御祖父様の利兵衛先生も、鳥や写真や芭蕉等、多趣味。その中の一つを「本職」とされたようである。「偽物か本物か」については、「感性的にピンと来たのでは?」との由。
ウィーンは絢爛豪華のスぺクタルである。また、カトリックの作曲家は、ハイドン、モーツアルト、シューベルト、シュトラウス、ベルリオーズ、ロッシーニ、ヴェルディであり、お説教なしの小粋を特徴とする。
ここで、第一曲目として、節人先生がお好きだったというシューベルトの連弾曲を。ウィーン民謡でウィーンなまりの„Wien bleibt Wien”が流された。
大正リベラリズムは教養時代。1901年には、尼崎港と伊丹をつなぐ福知山線が箕面への接点ともなった。1907年(明治40年)6月には、箕面有馬電気鉄道が開始され、1914年には、阪急沿線沿いの新興住宅に住む人の娯楽として、宝塚歌劇団がオープンした。神戸線等の建設も始まり、1929年には小林一三翁による阪急百貨店が開店し、有馬の六甲ホテルも開かれた。この時期は、1892年生まれの岡田利兵衛先生が成長された頃に相当する。阪急百貨店でおもちゃを買ってもらった、という記述に関しては、「相当裕福だった」ことを示す。
ところで、伊丹酒は度数が高いため、割って飲むのが普通だそうである。
東京の成城学園を中心として新自由教育が始まり、子供はお世継ぎや労働力ではなく、子供としての人権を認める風潮が始まった。例えば、童謡の「赤い鳥」が象徴的である。
神戸港からの酒の運び出しを通して、東南アジアの鳥を入手した。氷ノ山で昆虫採集?箕面動物園。
レコード技術は1920年代頃から発達し、レコードを聴く習慣が確立された。明治期には洋楽は演奏するものであったのに対し、大正期に入ると、町人文化から「自分達の音楽を作ろう」という機運が生まれた。これは、家元しか作曲が許されなかった官製音楽学校の発想ではない。例えば、1879年生まれの永井荷風、1886年生まれの山田耕作等が、それに相当する。
1893年生まれの太田黒元雄は「東芝の息子」であった。関学を中退し、1910年に岩崎小弥太の援助でベルリンへ留学した。私費留学は、当時、私大か東大の出身者だった。その頃、グランドピアノ一台あれば、家が二軒建ったという。東京芸大は国策の官製芸術大学で、日本人に洋楽をマスターさせる動機があった。
1901年生まれの薩摩次郎人は「木綿王の孫」で、藤田嗣治らのパトロンでもあった。同志社大学や関学や慶応大学は町人文化であり、御公家様の子弟が行くところではなかった。
宅孝二(1904-83年)は堺の造り酒屋の出で、私費でパリ留学をした。琴や三味線をたしなみ、ピアノも弾いていたが、同志社大学を中退している。戦後は東京芸大の教授になり、60歳からジャズを学び、池袋のキャバレーに出演もした。何度も結婚しているため、係累関係が不明である。あちこちに子供がいて、面倒を見ていたらしい。根っからの遊び人であるが、NHKのバックミュージックとして採用された「花火大会」は、なかなか洒脱で洒落たモダン曲である。
大澤壽人(1906-53年)は「神戸製鉄の技術者の息子」であり、関学出身のプロテスタントだった。1930年に渡米し、1933年にはボストン交響楽団で指揮をさせてもらった。これは「お金を渡して演奏させてもらった」という意味で、現在でも行われていることである。帰国後は、神戸女学院の教授になった。
九鬼周造は三田のお殿様の出身だが、『粋の構造』で有名である。ドイツではハイデッカー、フランスではベルクソンのもとで、哲学を勉強した。フランスでは、サルトルが家庭教師であり、九鬼周造とは、「芸者を哲学した人である」と言える。
1938年パリ初演の『カミカゼ』は、日本人の手になるものと思えない程、前衛的で洒脱であり、官製文化にはない、いかにも新しもの好きである。
貴志康一(1909-37年)は男前で、最近有名になっている。祖父がメリヤス業者であり、松花堂弁当の考案者か、とも言われている。芸者女の三味線が聞こえる都島で育ち、芦屋へ移住したが、1929年、甲南を中退して渡欧。(ちなみに、父親も甲南を出ている。)1934年には、ベルリン・フィルで自作を指揮した。1936年には、日本初でベートーヴェンの第九を暗譜で指揮した。また、ストラディバリウスを所有していたらしく、フルトヴェングラーにレッスンを受けて、作曲したヴァイオリン協奏曲もある。この演歌風の曲は「えらく土着的でええですねぇ」。この時代に私費留学した日本人は、遥かに自由に交遊関係を持っている。
なお、節人先生は「変わり者」で、本当かどうかは定かではないものの、「貴志康一の姪に振られた」という。
シュトラウスについては、俗受けする「美しき青きドナウ」のワルツ王ヨハンではなく、43歳で亡くなった兄弟のヨーゼフの方がお父様のお好みで、「わが人生は愛と喜び」(„Mein Lebenslauf ist Lieb und Lust” op.263)以外は興味なし、だったそうである。そのものだけを見て、あとは「スルー」。
大正から昭和前期にかけての日本でのクラシック音楽の受容形態については、吉田秀和や小林秀雄等の大評論家による音楽批評とのドッキングであった。教科書的にはシューベルトの「未完成交響曲」が代表的だったのに対して、お父様は権威主義の無粋さを嫌い、信用もしていなかった、という。
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以上、パソコンから投影されたスクリーンを通して数曲を聴かせていただきながら、メモを取りつつ3時25分までお話をうかがった。質疑応答の時間はなかったが、ミュージアムの館長氏が、マーラーについて質問された。岡田先生はうまく話を乗せて応じていらしたが、どこか館長の意図とは微妙に食い違っていたのではないかとも感じられた。
音楽の話はついていけたのだが、文化面の解釈に関しては、名古屋出身の私には些か「いてはいけない」場違い感を覚えさせるものであった。尾張徳川の名古屋は、殿様文化というのか、官製そのものであったのだろう。
3時35分には会場を出た。例によって顔見知りの方も二三人いらしたが、4時からのZOOMによる京都ユダヤ思想学会のティータイムに間に合わせるべく、簡単な会釈のみで済ませた。
朝から三つの知的空間に浸ることとなり、さすがに夜はぐったりとした。従って、このブログ書きも4日目の今日になって、やっとできた次第である。
(2024年5月2日記)