ツィートまとめ

(https://twitter.com/ituna4011/status/1771682839836217603)
Lily2@ituna4011
大学理系学部の定員、4年で1.1万人増 デジタル人材育成 – 日本経済新聞 https://nikkei.com/article/DGXZQOUE252V50V21C23A2000000/…
← 質の確保も!
8:37 AM · Mar 24, 2024
。。。。。。。
(https://twitter.com/ituna4011/status/1772216738974756936)
Lily2@ituna4011
人間が出来ていても、非常に腹が立つ。
7:59 PM · Mar 25, 2024
。。。。。。。
(https://twitter.com/ituna4011/status/1772034145990156340)
Lily2@ituna4011
Mar 25
市民病院「4月から分娩できない」 医師にも残業規制 – 日本経済新聞 https://nikkei.com/article/DGXZQOUA075RD0X00C24A2000000/…
← 少子化対策は?
7:53 AM · Mar 25, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1772474720694243514)
Lily2@ituna4011
経済的理由による受診遅れで死亡、少なくとも48例:日経メディカル https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/report/202403/583698.html?n_cid=nbpnmo_twbn… #日経メディカル
← 民医連。
1:04 PM · Mar 26, 2024
。。。。。。。。
(https://twitter.com/ituna4011/status/1772859035663892628)
Lily2@ituna4011
パイプス氏が昔から繰り返していますね?
2:31 PM · Mar 27, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1773862651749388361)
Lily2@ituna4011
Islamic State al-Naba’ Newsletter Report on the Moscow Attacks https://open.substack.com/pub/aymennaltamimi/p/islamic-state-al-naba-newsletter?r=27tj6i&utm_campaign=post&utm_medium=email…
ベルギー、スリランカも。
8:59 AM · Mar 30, 2024
。。。。。。。。
(https://twitter.com/ituna4011/status/1774306143588040778)
Lily2@ituna4011
京都の同志社や立命館大学のような、左系教授で固めたところでも入ったお金持の坊ちゃんお嬢さん達は、低学年では教授の口先を信ずるが、卒業間際になると、内兜を見すかすのと、就職難から保守思想に戻ってしまう。(p.152)
清國重利『秘録戦後史3』
2:22 PM · Mar 31, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1774308527051620545)
Lily2@ituna4011
この本は内調報告書の1958年から1959年を対象としている。1978年8月発行だが、今に通じる側面も含み、大変に興味深い。一読の価値あり。
2:31 PM · Mar 31, 2024

(2024年4月2日転載終)
………….
2024年4月5日追記

(https://twitter.com/ituna4011/status/1776060352054370482)
Lily2@ituna4011
1959年12月2日付の時事雑感によると、
立教大学でアメリカ人教授が殺害され、大東文化学院の関係者が関与したらしい。
(p.204)
清國重利『秘録戦後史3』
10:32 AM · Apr 5, 2024

(2024年4月5日転載終)
。。。。。。。。
(2024年4月2日転載の続き)

(https://twitter.com/ituna4011/status/1774551270009049162)
Lily2@ituna4011
夫婦同姓が続くと…2531年には「全員が佐藤さん」 東北大試算
毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20240331/k00/00m/040/076000c…
← またつまらん記事を。
6:36 AM · Apr 1, 2024
。。。。。。。
(https://twitter.com/ituna4011/status/1774553398609838148)
Lily2@ituna4011
中学生の時、学校で映画を見ました。 わしはゴッホになる と呟きながら、無我夢中でノミで削っていた姿が印象的でした。
6:44 AM · Apr 1, 2024

☚ 棟方志功記念館が2024年3月31日に閉館され、青森県立美術館へ作品が移転される報道に関して。
。。。。。。。
(https://twitter.com/ituna4011/status/1774712464808292565
Lily2@ituna4011

https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00625/032800003/?n_cid=nbponb_twbn…

☚ 良い傾向ではないか?コネというと、否定面ばかりが前面に出て来るが、反面、紹介した人の顔をつぶさない配慮も働き、安心、信用、信頼の環境下で素直にのびのびと働けるという長期的知恵もある。
5:16 PM · Apr 1, 2024
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(https://twitter.com/ituna4011/status/1774714802985976045)
Lily2@ituna4011

https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00461/032200171/?n_cid=nbponb_twbn…

《人的資本が蓄積されることで、就業後の労働生産性が高まり、それが市場で評価され高い賃金を生み出す》

☚最近はまともな記事が少し増えたか?
5:25 PM · Apr 1, 2024
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(https://twitter.com/ituna4011/status/1774717422572105834)
Lily2@ituna4011
[賢い相続]子のない相続、妹がおいと紛争 2通目の遺言も https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00571/032500034/?n_cid=nbponb_twbn…
《蝶よ花よと育てられ、わがまま放題のまま大人になった》
5:36 PM · Apr 1, 2024

(2024年4月2日転載終)
………….
2024年10月30日追記

(https://x.com/ituna4011/status/1851408803755147383)
Lily2@ituna4011
国連委、夫婦同姓義務見直し求める 皇室典範にも言及 – 日本経済新聞 https://nikkei.com/article/DGXZQOGR29BYC0Z21C24A0000000/…
← 余計なお世話。
8:40 AM · Oct 30, 2024

(2024年10月30日転載終)

Posted in Daniel Pipes, Health and Medical issues, Japanese culture, © 2024 by Ikuko Tsunashima-Miyake | Leave a comment

4月からの計画

今日はエイプリルフール。とはいえ、私は正真正銘、記録として示す。

3月は寒気が流れ込んでいたのか、とても肌寒く、雨模様も続いた。が、ようやくここに三日、やっと春らしくなってきた。我が家の敷地(と言うと大袈裟だが、事実は事実)の桜も少しずつ開花しつつある。

2023年3月3日付の過去ブログ「4月からの予定」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=4150&action)に倣って、約一ヶ月遅れではあるが、令和6年度の計画を書いてみよう。

1.放送大学について(再入学継続)

大学院の修士選科生と教養学部の科目生として新規の再入学で継続。前者は1年間、後者は半年だが、修論の補充として、無理なく決定。

放送大学のウェブサイトで学籍を見てみたら、既に3月23日付で修士(学術)の学位が入力されていた。また、今年度用に大学院の修士選科生(オンライン2科目)と教養学部の科目生(6科目)として、新たに2枚の学生証を作らなければならないが、いつの間にか写真も添えられていた。但し、大学院用しかアップされていなかったので、明日は大阪の学習センターに問い合わせる必要がある。

2.防衛モニター(任期2年)(NEW!)

自宅近辺に陸上自衛隊の駐屯地がある。市内にはもう一つ駐屯地や自衛隊用の病院もある。
転居して以来、自衛隊の演奏会や駐屯地での夏祭りや記念行事に出かけて、強い印象を受けた。それまで暮らしていた土地柄では反戦平和が前面に出ていて、何ともどんよりした偏向空気があったが、伊丹に来ると物事のテンポが1.5倍以上速く、本来の私の性格や気質に合っていると感じた。実は主人も自衛隊の訓練や実務には関心があり、「こんな体じゃなかったら、僕も行きたいんだけどな」と家で呟いていたので、遺志を汲み取り、思い切って防衛モニターに応募してみた。

すっかり忘れた頃になって、姫路駐屯地の広報係から電話がかかってきた。それも1月8日、放送大学大学院の修士論文の口頭試問の日だった。東京から帰宅すると、留守電のランプが光っており、何やら聞き取りにくい声で重要な要件が流れて来た。折り返し電話すると、「他の応募者は、あれから住所が変わったり、連絡が取れなくなったりした人が何人か出たので、今のところ、ユーリさんを内定候補者として考えております。千僧駐屯地にも近いですし」と。「但し、今回が防衛モニター経験が初めてだということなので、姫路駐屯地に来てもらいます。それでもいいですか?」とのこと。

勿論、どこへでも喜んで参ります!

その後は、1月1日に発生した能登半島の地震のために救援活動に赴くということで、連絡はメールや郵送が中心となった。早速、求めに応じて、ワードに作成してある履歴書を抜粋した簡単な履歴書と写真を送ったところ、「こんなに多彩な経歴を持った方が応募されるなんて、光栄です!上に報告し、第一候補者として推薦します」との電話もあった。

防衛モニターの業務は、特定テーマに関する定期報告、自由テーマに関する随時報告、姫路駐屯地における各種行事への参加であり、日本国籍を有することが条件である。

防衛事務次官から委嘱状、中部方面総監からはモニター証明書が発行される由。

2024年8月16日後注:実は、私の方に先約があったため、4月の自衛官候補生の入隊式には、やむを得ず欠席することになった。すると、担当の広報官から「数日後には届くよう、委嘱状を郵送する」と電話で伝えられたが、昨今では郵便事情が悪化したためか、4月末までに届かなかった。そこで、5月半ばに、招待された近隣の千僧駐屯地の式典に出席した後、千僧の自衛官に「あれから連絡がないんですけど、姫路の方はどうなったのですか」と尋ねると、「こちらから必ず連絡しますので」と。翌日、WACと呼ばれる若い女性自衛官さんから電話連絡があり、「姫路の広報官と連絡が取れました。数日内にはユーリさんに電話するとのことです。(ユーリさんは)前向きな方なので、と伝えておきました」。実際には、防衛事務次官発行の委嘱状というものは、郵送で簡便に済ますべきものではないと私は思っていたが、やはりそうだったらしい。その後、6月21日に招待された自衛官候補生の修了式前には、たった私一人のモニターのために、駐屯地内の一室で、きれいに準備された5分程のミニ式典が一室で開かれ、恐らくは二等佐官に相当するのであろう(甘いマスクのハンサムな)副連隊長氏から、うやうやしく委嘱状を受け取った。また、同室には4名程の冬の制服姿の自衛官が、それぞれ所定の位置に立って‘ミニ式典’を見守り、記念写真まで装丁していただいた。)

実は、伊丹の古文書会で知り合った男性が飛行機マニアでもあり、航空自衛隊の元隊員だったそうで、階級や各駐屯地の役割等を簡単に教わっている。また、マレーシア研究会で主導的な立場だった男性で、かつて参考論文を送ってくださった方が、今では防衛大学校の教授として東南アジア史を教えている。

また、1990年代初頭に政府の業務でマラヤ大学で教えていた頃、私の担当だった二人の男子学生がマレーシア国軍の関連で、その後、日本の防衛大学校に留学した。(その内の一人は、留学中、名古屋の私の実家まで電話をくれたことがある。キビキビした日本語で、「ムスリム用の食事も用意され、待遇はいいですよ。マレーシアの軍隊の方が強い」等と、元気そうに話してくれた。私の受け持ちクラスの学生の中でも、成績はまず上位であり、態度に精悍さが満ちており、大変に礼儀正しく、目上を尊敬する愛国心に溢れていた。ある時、授業中に “NegaraKu” というマレーシア国歌を歌った時、堂々と皆の前で指揮を振っていた様子も忘れ難い。)

うちの弟も高校3年生の頃、防衛大学校にも合格しており、自宅にいた私宛に電話がかかってきて「〇〇君は、家庭環境もいいし、将来的には幹部候補生として教育していきたいので、お姉さんからも説得してください」というキビキビした話を受けた。(当時の世相の影響もあり、私自身が却下してしまっていた。)その時の償いの意味もある。

これまでの下準備としては、防衛大学校や防衛医科大学や防衛省のホームページから関心を持つ事柄を印刷して、既にファイリングしてある。5月には、第三師団の千僧駐屯地で記念行事があるとのことで、早速、丁重な封書の招待状が届いた。いよいよ始まります!

3. 保健医療推進協議会の委員(任期2年)

2024年2月29日付ブログ「伊丹市保健医療推進協議会」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=6638&action)で既に記述済。
。。。。。。
伊丹市保健医療推進協議会について/伊丹市

http://city.itami.lg.jp/SOSIKI/KENKOFUKUSHI/KENKO_SEISAKU/ITAMI_KENKO_KEIKAKU/ITAMI_HOKEN_IRYO_KYOGIKAI/32454.html…

昨年秋、市長任命の委員に選出されました。二つ目の修士号として過去2年間継続した勉強が役立っています。
9:34 AM · Feb 29, 2024

(2024年4月8日転載)
。。。。。。
4.博物館友の会(ボランティア活動)の例会(月一回)(従来の継続)

週末の一回、午後1時半開始で4時には終わる。今後は会長交代もあり、会員数の確保が問題となろう。

5.古文書研修と古文書整理(ボランティア活動)(月一回)(従来の継続)

毎月継続して4年目。古文書整理とは、伊丹市長も務められた岡田利兵衛先生の岡田家に所蔵されていた膨大な資料のラベル貼りのこと。研修と整理で各一時間半ずつで、合間のお昼休みには、自転車で自宅に戻って簡単な昼食をとり、用事を済ませる。

6.伊丹市立ミュージアムの鬼貫クラス(月一回)

上述の岡田家の古文書整理との兼ね合いもあり、楽しみな講座だ。これで3年目に入る。

仏兄七久留万』が一応全部読み終わった、ということで、次からは『独ごと』を読むことになる。早速、参考文献を二冊、購入して準備した。これにより、放送大学大学院の人文系教授の魚住孝至先生と、もし次にお目にかかれるならば、話がさらに展開することになろう。鬼貫を読む理由は、終焉の地が我が家の本籍地(つまり戦前に主人の父方祖父母の家があった場所)でもあるからだ。

7. NHK通信講座の古文書学習(半年コース)(NEW!)

月一度のわいわい「研修」では到底不充分だと思い、昨年の大みそかに申し込んでしまったもの。存じ上げる笠谷和比古先生も講師のお一人で、予想以上に中身が充実しているテキスト。毎日、暇を見ては2ページずつ進めているが、なかなか手強く、予定を遥かに遅れている。でも、がんばる。18歳の頃には必修科目でくずし字を履修した元国文学科出身者である以上、この歳になってもすらすら読めないのでは恥ずかしい。

8. 京都古代学協会の講座(月一回)(NEW!)

「桓武朝の歴史考古学」を月一回第4水曜日の午後3時から計五回、京都文化博物館で受講することにした。桓武帝は794年に京都への遷都を決行した天皇様だが、その桓武天皇ゆかりの幻の大極殿のあった向日町と言えば、1997年夏から秋にかけて我々が新居を探していた候補地の一つでもあった。京都府乙訓郡向日町のマンションについても、不動産屋さんで話を聞いた経緯がある。また、主人の直属の上司等が向日町に暮らしていた。そのため、懐かしい思い出と共に、学びを深めようと考えついた。

9.無教会の聖書通信講座(月一回)

こちらも3年目に入る。30代の頃から存じ上げている月本昭男先生の旧約聖書の考古学的かつ言語学的な概説を、ZOOMで聴講する1科目のみ。月半ばの15日の午前中にメール配信され、一定期間内に空いた時間を見つけて聴講。まずはレジュメを印刷し、常に1.5倍速で聴いている。試験もなく、単位が出るわけでもない。そこが継続のミソだ、と再び思うところである。

一年目は『ヨセフ物語』、二年目は『出エジプト記』だった。今年度は『ヨシュア記・士師記』を読む。

10.検定試験(従来の継続)

2017年から勉強を開始した「神社神道」と「茶道文化」と「京都文化」の三つの検定は、いずれも2級の受検が残っている。昨年は、修論作成や毎月のゼミ出席との兼ね合いで、到底無理だった。

また、放送大学の学位授与式に義母から譲られた着物で出席したことをきっかけに、俄然、興味がわいて、新たに「きもの文化検定」のテキストを注文。本日、予想外に簡潔にまとめてある薄い本が届いた。5級から始まり、3級まではマークシート式で、年一回の受検だという。2級以上は記述式で、呉服屋さんの話では準1級まで合格されたとのこと。

この四つの検定の基となる日本の伝統文化には尽きることのない泉のような奥深さがあり、老後の退屈などあり得ない。趣味的ではあるが、基礎知識だけは本流を学んでおこう、という試み。合格したから何かができる、という単純なものではないだろうが、少なくとも予備的に履歴書には書けるものばかりだ。

11.適塾記念会(3年目)

主人は小学校4年生の頃から今宮高校を目指し、阪大工学部の受験を目標に高校時代には阪大受験用の通信教育までやっていたらしい。その形跡が、荷物の整理でわかった。
2000年頃から若年性神経難病のために阪大病院に通院を始め、2020年4月7日の夜には院内の霊安室で一晩寝かせていただいた。20年程もお世話になった阪大病院だが、同じ敷地には主人が院生の頃に所属していた核融合レーザー研があり、何かと阪大にはご縁がある。いつでも嬉しそうに「阪大病院に通っています」と、ニコニコ応えていた主人だった。

その気持ちを汲んで、結局は二人で行く機会を逃してしまった適塾の記念会に入会したのが放送大学大学院修士一年生(M1)だった2022年6月頃。阪大ゆかりの緒方洪庵の適塾である。阪大病院の源流は、ここにある。また、名簿を見てみると、主人がかかっていた神経内科の主任教授である望月秀樹先生も、適塾記念会に所属されていた。というわけで、この適塾の行事(適塾近辺の歴史散策や薬学関連の講座)には、2年間、参加してきた。今年も継続する。

適塾近辺の道修町には少彦名神社がある。ここは医薬の神が祀られており、江戸時代から将軍吉宗公の御認めがあった。私の修論テーマはパーキンソン病治療薬の精神面への副作用であり、近くには小野薬品工業というPD薬も開発している会社がある。しかも、この小野薬品工業は、我々が結婚した1997年11月から伊丹に転居する2018年9月26日まで暮らしていた大阪府三島郡島本町に研究所がある。いつもその前を通っていたのに、主人も私も全くその関係性に気づくことはなかった。
少彦名神社へは、3月28日に修士合格の御礼参りをした。

12. 健康管理

従来通り、年に一度の特定健診(1月)、半年に一度の眼科検診(2月・8月)と歯科検診(5月・11月)で、体調管理は何とかなりそうだ。毎朝、体温と体重と血圧を測って、備忘録に記入している。今年は隔年のマンモグラフィー検査もある。

13.お墓参り

月命日と春のお彼岸のお墓参り(名古屋)も、すっかり毎年のカレンダーに溶け込んだ。主人の実家(東大阪)の年に四回のお墓参りに関しては、今後の検討課題。主人が大好きだった岡山県北の田舎の祖父母や「伯父ちゃん」「叔父ちゃん」や従姉妹のお墓参りは、折を見てまた、ということになる。

14. クラシック音楽の演奏会

既に幾つかが終了。

2月12日には、西宮の芸文センターにて、兵庫県警察音楽隊の演奏会。これをきっかけに、ゴダイゴ・自分ブームが始まった(2024年2月16日付ブログ「ゴダイゴ」(http:// itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=6528&action))。

3月7日には、大阪城近くのいずみホールにて、小菅優さんと三人の演奏家による室内楽「祈り」(2024年3月9日付ブログ「いずみホールの演奏会」
(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=6763&action))。

3月24日には、伊丹アイフォニック・ホールにて、伊丹シティフィルハーモニー管弦楽団によるショスタコーヴィチの交響曲第5番「革命」等(2024年3月27日付ブログ 「伊丹でショスタコーヴィチを聴く」(http:// itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=6864&action))。

今後は6月に前橋汀子さんのリサイタルを予定している。リサイタルそのものは、これで五度目か?(2024年6月16日追記:正しくは「四度目」でした。)
。。。。。。。
上記の活動計画は、全て主人がいた頃にしていたことの延長線上にある。今でも「どんどんやってみたらいい」と、問題なく賛同かつ応援してくれる事柄ばかりだ。
本年度は、緊張と葛藤続きだった放送大学大学院のゼミ2年間から解き放たれ、自分のペースで興味関心を広げ深める時としたい。

その他の事柄として、引越し以来、6年目になってもまだ開かずの間で段ボール箱が積み上がったままの洋間の整理も、課題だ。そして、下書きは提出してあるもののペンディング状態の相続申告、2020年度の準確定申告、主人のアメリカ時代の銀行口座の手続きと、私のマレーシアの銀行口座の厄介な手続き(中途半端のまま)も済ませなければならない。

27歳から継続してきたマレーシアの研究テーマと今回の修論の修正作業は、当然のことながら、折に触れて進めていく。

(2024年4月1日記)(2024年4月2日・4月3日加筆修正)(2024年8月16日・8月17日一部加筆修正)

PS:「四月馬鹿」ではありませんよ。(Lily)
……………….
2024年4月3日追記

今朝方、電話とファクスが飛び込んで来た。これまた忘れた頃になって突然、もう一つの役割が与えられることになったのである。今回は補欠合格風に「辞退者出現に伴う繰り上げ委嘱」とのことである。

15. 公益社団法人近畿地区不動産公正取引協議会の消費者モニター(任期一年)(NEW!)

電話と共に、早速ファクスで書類が届き、すぐに登録書類や出欠票等に必要事項を記入して、折り返しファクスで返信した。電話で問い合わせたところ、「消費者モニターをしていることを公表するのは問題ない」ため、ここに追記する。但し、公表したことによる有利さは全くない(逆に不利もない)とのことである。

実は応募したのは二度目で、最初は2021年頃だった。モニター募集のチラシを、たまたま立ち寄った市内の産業センターで見て、試しに応募書類を送ってみたが、全く音沙汰なし。(ま、いいか。あまり関係ないし)と思っていたところ、突然、2023年8月30日という、最も修論が精神的に煮詰まっていた真夏日に、広報パンフレット二部と共にモニター募集用紙が封書で送られてきた。
本来ならば、修論作業そのものに没頭すべきだったのだろうが、(気を散らした方が能率が上がるタイプなので)と内心言い訳をしつつ、簡単な文書A4一枚を作成して送ってみた。過去に経験したモニター履歴一覧表も添えた。
。。。。。。。
《モニター履歴一覧表》

1988年 愛知県県政モニター(愛知県知事依頼)
1989年 愛知県生活物価モニター(愛知県知事依頼)
2016年 内閣府政府広報室国政モニター
2016年 国土交通省大臣官房広報課国土交通行政インターネットモニター
2016年 厚生労働省・厚生労働行政モニター
2019年 伊丹市水道局モニター
2019年 伊丹市交通局市バス巡回モニター(3ヶ月)
2022年 伊丹市上下水道インターネットモニター
2023年 伊丹市上下水道インターネットモニター

(リスト終)
。。。。。。。
最後の水道局モニターは2024年3月末で終了している。
二十代の院生の頃、お小遣い稼ぎ程度に気楽に始めたモニターだったが、当時は愛知県知事から賞状のような立派な依頼状が届いていた。従って、モニター業務は簡単なものであったが、社会貢献活動としては今でも履歴書に書ける。

以上、今年度は多彩な活動が待ち受けており、ようやく本領発揮、といったところだろうか。少しでもお役に立てるよう、努力いたします。(Lily)

(2024年4月3日記)
…………
2024年5月14日追記

上記7のNHK通信講座の古文書コース第一回の課題を先月提出したところ、今日の郵便受に解説と模範解答と添削付き指導が届いていた。提出後、確かに三週間で届くことを確認。
実は、初回なので最高点をいただいた。
お便り欄には、以下の事柄を鉛筆書きした。

1)月一回、市内の古文書クラスに参加し、その日の午後は市内の旧家の古文書整理のボランティアをしていること。
2)この通信講座は、古文書担当の若い学芸員さんの紹介によること。
3)同じクラスのご年配の方もこの通信講座の上級コースを受講していて、ボランティアでは最も綺麗にラベル貼りをされていること。

狭い世界なので、恐らくは非常勤の学芸員さんか大学/院の史学科の学生/院生さんが、アルバイトとして添削指導をされているのではないだろうか?

実にゆっくりペースではあるが、月一ではあれ、地域の古文書資料を眺めているだけでも、少しずつ日本社会の成立過程が史的に理解できるようになり、今でも残っている制度や考え方さえわかってくる。そうすると、この歳になってもなお、社会生活が随分と知的精神的に楽になってくる。

防衛モニター応募の簡式履歴書にも古文書整理のボランティアを記入したところ、「こういう人なら」とプラス評価に繋がることを知った。

(2024年5月14日記)
……………..
2024年5月30日追記

上記を整理して、順序を入れ替えてまとめ直す。

1.放送大学(新規の再入学)

修論の補充と語学復習の楽しみのために、大学院修士選科生(オンライン2科目)1年間 + 教養学部の科目生(6科目)半年間。

2.防衛モニター(任期2年)(NEW!)

3. 伊丹市保健医療推進協議会の委員(任期2年)(昨秋から)

4. 博物館友の会(ボランティア活動)の例会(月一回)(従来の継続)

5.古文書研修と古文書整理(ボランティア活動)(月一回)(従来の継続)

6.伊丹市立ミュージアムの鬼貫クラス(月一回)(3年目)

7. NHK通信講座の古文書学習(半年コース)(NEW!)

8. 京都古代学協会の講座(月一回)(NEW!)

9.無教会の聖書通信講座(月一回)(3年目)

10.検定試験

「神社神道」「茶道文化」「京都文化」の三つの検定(2017年から継続) + 「きもの文化検定」(NEW!)

11.適塾記念会(3年目)

12. 健康管理

年に一度の特定健診(1月)、半年に一度の眼科検診(2月・8月)と歯科検診(5月・11月)

13.お墓参り

月命日(臂岡天満宮)+ 春のお彼岸のお墓参り(名古屋)+ 主人の実家(東大阪)の年に四回のお墓参り+ 岡山県真庭市の主人の母方実家のお墓参り(随時)

14. クラシック音楽の演奏会

兵庫県立芸術文化センター(西宮)・いずみホール(大阪)・シンフォニーホール(大阪)・アイフォニックホール(伊丹)等

15. 公益社団法人近畿地区不動産公正取引協議会の消費者モニター(任期一年)(NEW!)

(2024年5月30日記)
…………….
2024年8月14日追記

実は、上記の15項目に、新たな1項目が加わった。但し、これは四度目のモニター依頼及び経験であり、特に大きな負担ではない。

7月3日に、これまた自転車で5,6分程の伊丹市上下水道局がインターネットモニター(年2回の簡単なアンケートに回答する)を募集していたので、早速応募。動機には、正直に「2019年度にも水道モニターに応募して採用され、研修や見学等、対面で学ぶ機会が与えられた。その後、コロナ感染症問題のために、モニター制度がインターネット方式に変更され、2022年と2023年にも応募して採用された。これが四度目の応募となる」と記した。

多分、公平性の原理から、今度はダメだろうと思っていた。ところが、7月30日に「この度、モニターに決定しました」とのメール通知が届いたのである。

それ故、再度、リスト化してみると、以下のようになる。ちなみに、放送大学の前期の成績発表は明日の2024年8月15日のため、上述は後期の登録科目に変更する。

1.放送大学(再入学の継続)

修論の補充と語学復習の楽しみのために、大学院修士選科生(オンライン2科目)1年間 + 教養学部の科目生(5科目)半年間。

2.防衛モニター(任期2年)(NEW!)

3. 伊丹市保健医療推進協議会の委員(任期2年)(昨秋から)

4. 博物館友の会(ボランティア活動)の例会(月一回)(従来の継続だが、今年度は先約との兼ね合いで欠席が多い)

5.古文書研修と古文書整理(ボランティア活動)(月一回)(従来の継続)

6.伊丹市立ミュージアムの鬼貫クラス(月一回)(3年目)

7. NHK通信講座の古文書学習(半年コースだが、一年以内ならば手続き不要の無料延長可)(NEW!)

8. 京都古代学協会の講座(月一回)(NEW!)後期は9月上旬に新たに申し込みし直す。

9.無教会の聖書通信講座(月一回)(3年目)

10.検定試験

「神社神道」「茶道文化」「京都文化」の三つの検定(2017年から継続) + 「きもの文化検定」(NEW!)

11.適塾記念会(3年目)

12. 健康管理

年に一度の特定健診(1月)、半年に一度の眼科検診(2月・8月)と歯科検診(5月・11月)

13.お墓参り

月命日(臂岡天満宮)+ 春のお彼岸のお墓参り(名古屋)+ 主人の実家(東大阪)の年に四回のお墓参り+ 岡山県真庭市の主人の母方実家のお墓参り(随時)

14. クラシック音楽の演奏会

兵庫県立芸術文化センター(西宮)・いずみホール(大阪)・シンフォニーホール(大阪)・アイフォニックホール(伊丹)等

15. 公益社団法人近畿地区不動産公正取引協議会の消費者モニター(任期一年だが自薦の形で一年延長を希望申請中)(NEW!)

16. 伊丹市上下水道モニター(2019年度以来四度目)

(2024年8月14日記)
……………..
2024年8月26日追記

上記の15項目目の「消費者モニター」について、今日届いた『公取協にゅうす(Faiiiir Trade Council)No.85』によると、令和6年度消費者モニターの募集・選定は下記のようであった。

「消費者モニターを募集したところ、計186名の応募があり」「志望動機等を慎重に考慮して」「兵庫県10」を含む「総数40名を消費者モニターに選定した」(p.10)

すなわち私は、応募者186名の一人であり、選定された兵庫県在住者モニターの10名の一人であるということである。

この組織については実はよく知らなかったのだが、懇親会には大阪府知事からの祝電が届いたり、理事や役員等には、叙勲や褒章受章者の顕彰もあったそうである。つまり、れっきとした公的組織と社会認知されている。

(2024年8月26日記)

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日本の心を学ぶ

(https://www.chichi.co.jp/web/20240316_matsudaira_yoshiko)

美しい姿勢が心をつくる ——水戸徳川家の流れを汲む高松藩松平家の末裔、松平洋史子さんに学ぶ日本の心
2024年3月16日

徳川御三家の一つである水戸徳川家の流れを汲む讃岐国高松藩松平家の末裔として生まれ、先人たちが受け継いできた日本の心、文化伝統の素晴らしさを人々に伝え続けている松平洋史子さん。この変化の激しい時代において、いかに日本人らしく、美しく優しく逞しく生き抜いていけばよいのか、その生き方のヒントを、松平家の教えを紐解きながら教えていただきました。

挨拶に始まり、挨拶に終わる

私の生き方に大きな影響を与えたのは、祖母・俊子でした。祖母は明治23(1890)年、佐賀藩の侯爵・鍋島直大の六女として生まれました。直大は駐イタリア特命全権公使などを務めた人物で、日本だけでなく西洋の一流を知り尽くした教養人、趣味人でした。また、明治天皇の信任も厚く、宮中の儀式を取り仕切る式部職の長官を務めたこともあります。

その直大に育てられた祖母は、17歳の時に伯爵・松平頼寿の弟である松平胖と結婚します。先ほども触れましたが、徳川将軍家に最も近い親族である徳川御三家(尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家)のうち、水戸徳川家の流れを汲むのが讃岐国高松藩松平家です。つまり祖母は、鍋島家で西洋の一流を、嫁ぎ先の松平家で礼儀作法や質素倹約を重んじる武家の精神を身につけたのでした。

祖母は社会的にも活躍した人でした。例えば、「これからは女子の教育が必要だ」と、昭和女子大学の前身の日本女子高等学院が設立される際、世田谷の土地を払い下げるなどの支援を行いました。そして創立者の人見東明氏に招かれて校長を務め、その時に松平家に伝わる作法を「松平法式」として女子教育に取り入れ、女性が美しく逞しく生きていくことの大切さを伝え続けました。

そんな祖母から教わったことはたくさんありますが、松平家で最初に教わるのが姿勢です。武士道には「型から入って心に至る」という言葉があるように、姿勢を正せば心も変わる、物事の本質が見えるのですよと、子供の頃から言われました。食事の時、子供たちの姿勢が崩れると、祖母や母が背中をぽんぽんと叩く。すると、背筋がぴんと伸びる。そういうことを繰り返しながら、自然に美しい姿勢を身につけていくのです。

皆さんは、会議の席などで人の話に耳だけ傾けてうつむいていることはありませんか。試しに姿勢を正してみてください。視野が広がって、周りの人の様子や話している人の表情が分かり、「この人はこんなふうに考えていたんだ」と、それまで見えなかった世界が見えてくることでしょう。また、姿勢を正せば見た目も美しくなり、張りのある美しい声も自然に出るようになるもの。背を丸めていては見えるものも見えなくなり、目の前の幸運も逃げてしまいます。よき人生の第一歩は姿勢を正すことから始まるのです。

姿勢が真っ直ぐになれば、次は挨拶です。松平家では「挨拶に始まり、挨拶に終わる」と言われて育ちます。多くの人は頭を下げることが挨拶だと思っているのではないでしょうか。しかし、松平家では「いまからあなたとお話をします」と、相手を自分の懐にお迎えすることだと教わるのです。
挨拶の言葉を告げて頭を下げたあと、自分の胸元の広がりを感じながら相手を懐に迎えるようにゆっくりと頭を上げていきます。懐をつくると、自然と姿勢もよくなり、表情も明るくなりますし、相手もちゃんと自分を受け入れてくれたのだと安心してくれます。
。。。。。。。。。
(https://www.chichi.co.jp/info/chichi/pickup_article/2024/202403_matudaira)

徳川260年 松平家の教えに学ぶ日本の心
松平洋史子(大日本茶道協会会長)

徳川御三家の一つである水戸徳川家の流れを汲む讃岐国高松藩松平家の末裔として生まれ、先人たちが受け継いできた日本の心、文化伝統の素晴らしさを人々に伝え続けている松平洋史子さん。この変化の激しい時代において、いかに日本人らしく、美しく優しく逞しく生き抜いていけばよいのか、その生き方のヒントを、松平家の教えを紐解きながら教えていただいた。姿勢を正せば見た目も美しくなり、張りのある美しい声も自然に出るようになるもの。背を丸めていては見えるものも見えなくなり、目の前の幸運も逃げてしまいます。

よき人生の第一歩は姿勢を正すことから始まるのです

松平洋史子(大日本茶道協会会長)

いまの日本には、「自分はこう生きるのだ」「日本人ならかくあるべきだ」という人生を支える核となるもの、品格や覚悟を備えた人がだんだん少なくなっているように思えてなりません。また、先人が大切にしてきた日本の心、基本的な礼儀作法、起居動作なども時代と共に失われ、私たちが幸福に生きるための健全な人間関係・秩序が保たれなくなっているのではないかと危機感を抱いています。
水戸徳川家の流れを汲む讃岐国高松藩松平家の末裔として生まれ育った私は、日本人としての品格と礼儀作法や覚悟と誇り、それらすべてを物心つく頃から家庭教育の中で自然に教えられてきました。
松平家では、伝統的に「つ」がつく年齢(九つ)までは、子供の教育・躾は家庭の中で責任を持って行うものだとされています。
学校がどうであれ、他の子がどうであれ、我が子は我が子、我が家には我が家の教育があるという信念を崩さない母の姿に、かつての武士の覚悟を教えられる思いでした。

★本記事は『致知』2024年3月号「丹田常充実」掲載記事の一部を抜粋・編集

(2024年3月30日転載終)

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一生懸命働く

致知出版社の人間力メルマガ
2024年3月28日

世界的な精密小型モータの開発で知られる日本電産(現ニデック)。同社を牽引してきたのが、言わずと知れたカリスマ・永守重信会長です。

その仕事に賭ける情熱や人生論について、月刊『致知』2011年10月号に掲載のウシオ電機・牛尾治朗氏との対談から改めて振り返ってみました。
永守会長が語る「会社がおかしくなる6つの要因」は、経営者でなくとも身につまされます。

〈牛尾〉永守さんは西田幾多郎の、

「人は人吾は吾なりとにかくに 吾が行く道を吾は行くなり」

という言葉が好きだそうですね。そういう永守さんの経営人生を象徴するものの一つが、日本電産本社の一階奥に設置しておられるプレハブ建屋だと思うのです。
今度御社に伺う時にぜひ一度拝見したいと思っているのですが、創業当時に作業場として使っていたものだそうですね。

〈永守〉はい。あれをご覧になった方の反応は半分半分に分かれるのです。涙を流さんばかりに感動される方と、本社ビルの一番いい場所になんであんな汚いものを置くのだという方がいらっしゃって、おもしろいですよ。
私としては、創業期のあの厳しい時期を乗り越えてきたからこそ、ここまでこられたわけでね。辛い時にそこへ行くと、あの時の苦しさに比べたらこんなものは大したことはないなと思い直して、また元気を取り戻せるのです。
新入社員にも入社時に必ず見せますし、落ち込んでいる幹部がいたら、ちょっと見てこいと言うのです。

〈牛尾〉いまのお話を伺って頭に浮かぶのは「惜福」という言葉です。これは安岡正篤さんから教わった言葉で、訪れた福を使い果たさずに、将来のために惜しんで取っておきなさいという教えなのですが、永守さんの考え方はこれに通ずるものがあると思います。
下積みの時代に泊まった安宿に、成功してからも時々泊まりに行くといった話をよく聞きますが、惜福を実践するには、そういうように苦境にあった時のことを忘れない工夫をすることが大事です。

〈永守〉非常に大事なことですね。一番怖いのは、後から入ってくる幹部が昔の苦労を経験していないために、一流企業に入ってきたような感覚で振る舞うことです。そういう人たちには口で言っても伝わりませんから、プレハブ建屋を見せるのが一番いいのですよ。そこは建物だけではなしに、当初からの記録もたくさん残っていて、私自身が現場で懸命に仕事をする様子も残っている。それを見ると皆ハッとするのです。逆に、それを見ても感激しない人は、最初から採用しないほうがいいです。
やっぱり考え方が一致していないと今後のグローバルな戦いは勝てません。ただ頭がいいとか、経験が豊富だとかいうだけではダメで、本当にその会社が好きだという人が集まってこないとしらけてしまいますね。

〈牛尾〉本当にそうですね。

〈永守〉だから私は採用担当者に言うのです。最近は一流大学からどんどん入社してくるようになったけれども気をつけろよと。一番大事なのは、日本電産という会社が好きだという人間、よく働くこの会社で自分も一緒に頑張りたいという人間が集まってくることだと。
一所懸命働くところから始まった会社なのに、ただ有名で給料も高いから入りたいとか、役員として入ってきて威張り散らすような気持ちでやられると、会社なんてあっという間に沈んでいくのですね。

〈牛尾〉おっしゃるとおりです。

〈永守〉だいたい会社がおかしくなる要因を6つ挙げよと言われたら、一番はマンネリでしょう。それから油断、そして驕り。人間はすぐこういう躓きをするのですが、この段階はまだ元に戻せるのです。
その次が妥協。震災がきたのだからしょうがない、円高だからしょうがないと妥協する。これはもうさらに落ち込みますね。
次は怠慢です。頑張っても怠けても給料は一緒じゃないかとかね。
そして最後は諦めです。そんなこと言ったってできません、という考えがはびこってきた時は末期症状ですね。
最初の3つはそんな大敵ではないけれども、後の3つに陥ったらもう取り返しがつきません。

〈牛尾〉特に会社が順調な時が危険ですね。他社よりも昇給率もいいし、収益もいいし、いいところに入れてよかったですね、と人から言われるようになると、だんだん自分を見失ってくるんです。

(月刊『致知』2011年10月号特集「人物を創る」より記事の一部を抜粋・再編集)

(2024年3月30日転載終)

PS:太字はLilyによる。

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信長公について

(https://bushoojapan.com/bushoo/oda/2024/03/27/141585)

信長がついに手にした「蘭奢待」東大寺正倉院にある天下の名木をどう楽しんだ?

2024年3月27日

大河ドラマ『麒麟がくる』にも登場した蘭奢待。
東大寺正倉院に納められている香木であり、金銭的価値に換算できるとしたら、おそらくや日本一高価な名香でしょう。
庶民はおろか、数多の権力者でもその香りを楽しめたものはわずかであり、何やら秘密めいた雰囲気も漂わせています。
その権力者の一人が織田信長でした。
いったい信長はどのようにして香りを楽しんだのか?
天正二年(1574年)3月28日に東大寺から信長の前に運び込まれた蘭奢待を『信長公記』の記録をベースにしながら振り返ってみます。

名香「蘭奢待」正式名称は「黄熟香」

天正二年(1574年)3月12日、信長は京都へ出発しました。
途中、佐和山に2~3日宿泊していますが、このときは特になにもなかったようで、『信長公記』には特記されていません。
この時期の佐和山城主は丹羽長秀の可能性が高いため、近江の状況確認や近況報告などを話し合っていたのでしょうか。
3月16日は永原(野州市)に宿泊し、翌17日に志那(草津市)→坂本(大津市)のルートで琵琶湖を渡って入京。
「今回は初めて、相国寺(京都市上京区)で宿泊した」とあります。
正確な日付は書かれていませんが、ここで信長は東大寺正倉院に収められている名香・蘭奢待の切り取りを朝廷に願い出ました。
正式名称を「黄熟香」という、日本最大の香木です。
その成分から沈香という香木の最高級品“伽羅”に分類されており、香りの良さと大きさも申し分なく(重さ11.6kg)、「天下一の香木」とされていました。
「蘭奢待」というのは、保管場所である東大寺の名を漢字それぞれの中に秘めた、いわゆる雅号です。

「東」→蘭
「大」→奢
「寺」→待

伽羅の香は1gあたり数万円という値も

沈香の産地は東南アジア全域です。
ただし、伽羅と呼ばれる質のものは、現在のベトナム……のさらにごく一部でしか算出できません。
理由は、沈香という香木の成り立ちによります。
この木は雨風や病気、害虫などに対する防御反応として樹脂を出すのですが、これが固まった後に長い時間をかけて変質すると熱したときに良い香りを放つようになり、香木としての価値が生まれるのです。
ベトナム付近は標高差が激しいエリアも多く、また台風の被害も毎年のように受けていますから、香木となる木が傷つく頻度も高い。
結果、伽羅と呼べる質になる……という仕組みと考えられています。
また、同じ一本の木でも、樹脂の浸透具合など部分ごとに香りが変わるため「伽羅」と呼べる質のものは貴重。
現代でも、伽羅の香は1gあたり数万円というお値段がするほどです。
蘭奢待そのものは信長以外にもときの権力者が切り取っており、足利義満・義教・義政、土岐頼武などが許可をとっていました。
信長より後の時代だと、明治天皇も切り取ったことがあります。
近年の調査では「50回程度は切り取られただろう」と推測され、記録として確実なのは足利義政・織田信長・明治天皇の三人だけでした。

東大寺へは使者を派遣している

このように非常に貴重な蘭奢待。
朝廷と概ね良好な関係だったと思われる信長でも、勅許を得るまでには時間がかかったようです。
3月26日になって、ようやく公家の日野輝資・飛鳥井雅教が勅使となり、蘭奢待が収められている東大寺へ切り取り許可の綸旨が伝わりました。
当時の手紙には次のように記されています。
「就信長南都下向之儀 蘭奢待拝見之望被申入之処」
【意訳】ついに信長が奈良にやって来た。蘭奢待を見たいと申し入れしてきた
そして翌27日。
信長は奈良の多聞城へ移動し、蘭奢待を持ってこさせて切り取ることにしました。
なぜ直接東大寺へ出向かなかったのか?
というと、正倉院には蘭奢待の他に、聖武天皇や光明皇后に関する品をはじめとした品が多く納められていて、「そんな場所に立ち入るのは畏れ多い」という理由だったようです。
そのため蘭奢待を運ぶ特使として、複数の武将を東大寺へ向かわせています。
顔ぶれがまた豪華なものでした。

・塙直政
・菅屋長頼
・佐久間信盛
・柴田勝家
・丹羽長秀
・蜂屋頼隆
・荒木村重
・武井夕庵
・松井友閑
・津田信澄

織田家の二大家老である信盛と勝家だけでなく、古参の長秀や頼隆、親族の信澄、文化人の夕庵や友閑などが勢揃い。
当時の情勢を考えれば、少々豪勢すぎるほどです。

以下の話(『信長公記』106&107話)で見た通り

織田家では、少し前に北陸や美濃で騒動が起きたばかりですから、特使をやらせるより、そちらに備えさせたほうがよさそうな人物もいますよね。
実は皇室や公家、寺社に対して礼節を欠くことがなかった信長なりの対応。
この一件からも垣間見えます。

信長がついに手にした「蘭奢待」東大寺正倉院にある天下の名木をどう楽しんだ?

先例に倣い一寸八分を切り取った

3月28日の辰の刻(午前8時頃)に東大寺の蔵が開かれ、信長の特使たちは、長持に入った蘭奢待を多聞城へ運び入れました。
信長は先例に倣い、蘭奢待を一寸八分(約5.5cm)ほど切り取らせます。
東大寺側の記録では「一寸四方(一辺が約3cmの正方形)を二個切り取った」となっており、少々異なりますが……合計すれば、大きさに大差ありませんね。
信長はこの後、自分が切り取った蘭奢待の一部を正親町天皇に献上していますので、その分を称して「二箇所切り取った」と記録したのでしょうか。
ちなみに、正親町天皇に献上されたほうは、その後、毛利輝元などに分け与えられています。
「人からもらったものをさらに別の人に」というのは、現代人からするとなんだか微妙な気持ちになるかもしれませんが、皇室や公家の間ではよくあることだったようです。
明治時代の女官の追想録にも「贈答品は”贈った”という事実が大事なので、いただいた絹などをそのまま他の人に贈ることもあった」という記述があります。

閑話休題。
信長は、このとき供をした御馬廻衆にも「後々の話の種に、見ておくがいい」といい、蘭奢待を見ることを許したとか。
なんだか尊大にも見えますが、天皇の勅許がなければ見ることもできないようなものなので、ここは優しさといっても良さそうです。

一宮市の真清田神社にも一部が奉納

その後は、手元に残した蘭奢待を茶会で焚いたり、千利休や今井宗久といった茶人に分け与えたり、信長はかなり気前よく振る舞ったようです。
一部がさらに流れ流れて、真清田神社(愛知県一宮市)に奉納され、現在も宝物館に展示。
蘭奢待の切り取りについて
「信長が自分の力を誇示するため、強引に天皇と東大寺を脅して切り取ったんだ!」
と指摘する方もおられるようですが、きちんと正規の手続きをしていますし、天皇にも献上しているのですがら、特に問題はなさそうです。
本当に権力を誇示するだけなら、もっと乱暴なやり方をしていたでしょう。
これまで世間の目を気にした行動も見せている信長ですから、そこまで計算していたのかもしれませんが。

明治天皇は「古めきしずか」と表現

この世に2つとない香木……となると、読み手としては香りも気になりますよね。
実は、香りに関する記述は信長公記にはありません。
熱する前の香木はほとんど香りを放たないため、切り取った日の信長や御馬廻衆は香りを楽しんだのではなく、世の中に2つとない珍品として、蘭奢待を眺めたと思われます。
前述の茶会の記録にでも、それらしきことが出ていればいいのですが……特にないようです。
あまりにも良い香り過ぎて、表現するのが難しかったのでしょうか。
明治天皇は「古めきしずか」と表現されたそうですが、何となく分かるような、わからないような……。
普通の伽羅であれば一般人でも手に入りますので、それを嗅いで想像するくらいしかできませんね。
毎年秋に行われている正倉院展で、十数年に一度くらいのスパンで蘭奢待が展示されることがあるようです。

(2024年3月30日転載終)
…………….
2024年4月27日追記

NHK(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240424/k10014431231000.html?fbclid=IwZXh0bgNhZW0CMTEAAR2HvjStKPFzzhmxmeYJYZtem1mhX5RaTJcFjWvwRJOlb2ClRmpaIGYuPZI_aem_AZXgEmaw9fwgKd4gWNSZg4Zhh1GoGDQt_aFQt3-ct_CpZDI9kd6Ed2y9zZvBNOvUF0uLICi4qjsf-4usP2TLgz51)

「“信長を気にかける貴重な資料” 義父 斎藤道三の書状を発見」
2024年4月24日

戦国武将、織田信長の義理の父にあたる斎藤道三が、信長について「若造で至らない点もあるが末永くつきあってほしい」と近隣の領主にお願いした書状が見つかりました。専門家は「道三が信長のことを気にかけているとわかる貴重な資料だ」と指摘しています。
書状は今月、水戸市立博物館に個人から寄託されたもので、東京大学史料編纂所の村井祐樹 准教授が調査しました。
それによりますと、この書状は今の岐阜県の美濃地方を治めていた戦国武将の斎藤道三が近隣の地域の領主に宛てたもので、その内容や署名などから、1552年ごろに書かれたと見られるということです。

道三は、織田信長に自分の娘・濃姫を嫁がせています。
書状では、「信長とあなたは大変親しいということでうれしく思う」と記したうえで、信長について「若造で至らない点もあるがご容赦いただき末永くつきあってほしい」と伝えています。
信長の人生を側近がまとめた文献「信長公記(しんちょうこうき)」ではこの書状が書かれた時期に道三は若き信長と初めて面会し、その奇抜な身なりや言動で周囲から「うつけ者」と呼ばれていた信長の才能を見抜いたとされています。
村井准教授は「道三の書状はあまり残っておらず信長に言及していることも珍しい。書状には、道三が信長のことを大事に思い気にかけていることがはっきりと記されていて『信長公記』の記述を裏付ける貴重な資料だ」と話しています。

(2024年4月27日転載終)

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お着物のこと

(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)

2024年3月19日投稿

彦根市出身で京都在住の着付けの先生。30代前半の二児のお母様でもいらっしゃいます。
今の時代、自分の目標や信念を自分の言葉で真っ直ぐ伝える女性が人気のようです。可愛らしい和風美人で、しっかりした、とても魅力的な方だと思いました。京都言葉も活きています。
今の着物業界の問題点をさらりと正面から取り上げつつも、それを克服する目的で、何とか日本の着物文化を楽しく盛り上げようと、現代ならではの視点で工夫と努力を積み重ねられています。
一方、60代ぐらいのお孫さんのいるような東京の着付けの先生のYou Tubeは、教えた年数こそベテランですが、逆に媚びた感じもありました。例えば、祖母や母親から譲られた着物は「自分の好みに合わなければ、処分しましょう」「私はゆっくりと処分しました」みたいなことを平気でおっしゃっていましたが、私にとっては「勿体ない!」。着物教室の講師とは思えない発言に聞こえます。
むしろ、お若くして着物コンテストで受賞した実力派のすなおさんの方が、「箪笥に眠っている着物を活かしましょう!」と提唱し、循環系路を作って職人後継の道筋を作ったり、若い人達に気軽に楽しんでもらえるように声掛けするなど、もっと肯定的です。そして、チャンネル登録数も、ベテラン着付け教室の先生よりも、すなおさんの方が圧倒的に高いです。

(2024年3月30日転載終)
。。。。。。。。
(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)

2024年3月25日投稿

若い頃の檀ふみさんに似ている。

(2024年3月30日転載終)
。。。。。。。。
(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)

2024年3月26日投稿

《学習院大学の卒業式では、ご学友の女性はほとんどの方が袴姿でしたが、紀宮さまはスーツ姿だった》
☚ 唯一の内親王様だったのだから、もっと本式かつ可愛くして差し上げて!ご結婚式も…….。

(2024年3月30日転載終)
………..
2024年4月1日追記

人生の節目毎に着物を着た。

1.お宮参り:生後一ヶ月。名古屋市千種区の母方祖母宅近くにある高牟神社(式内社)。

2.七五三:母方のいとこ達が高牟神社に勢ぞろい。おべべ(着物)を着て、おかっぱ頭にお団子の鬘を付けて記念写真。多分、祖母は孫達を揃えてこれがやりたくて、結婚年齢や出産時期を決めていたのではないだろうか?今なら干渉?

3.成人式:当時はバブル経済全盛期で、四年制大学に行くと、反動的にマルクス主義的な清貧の暮らしが唱導されていた。それで、「着物なんか贅沢だから、私は洋服でいい」と主張していたところ、母方祖母がやって来て「ユーリちゃんは、いつからそういう子になったの?」みたいな説得をされ、結局は振袖を着た。ちょうど、町の教育委員会のご指名で、成人式には「君が代」をピアノで演奏することになった。美容院に事前予約し、1月15日と設定されていた日の朝5時か5時半に起きて、まだ薄暗く寒い中をてくてくと12分程歩いて辿り着くと、既に美容院は活気があった。髪結いと着付けで、1時間ぐらいだったろうか?髪型はお任せだったが、美容師さんが「あ、長い」と呟いたことだけは覚えている。

4.大学の卒業式:母が着付け教室に通い始め、自分の嫁入り道具だった着物を自分で着るようになってしばらく経った頃、私の卒業式がやって来た。私は、母が卒業した大学(当時は女子大)を卒業し、父が卒業した大学の大学院を修了している。そのため、母が自分が来た袴と着物を私に着付けしてくれたのだった。頼んだのではなく、気が付いたら自動的に、そのようになっていた。髪型はおかっぱ頭に紺色のリボンピンを留めただけにした。市内の瑞穂区にあった大学近くの道を歩いていると、近所のおばさんが「おめでとう」と声を掛けてくださった。「ありがとうございます」と応えつつも、(こういうおばさん方の税金で勉強させていただいたのだから、しっかり頑張らないと)と引き締まるような気持ちがした。近代文学の教授が「大正ロマンだね」とおっしゃったことを覚えている。

5.裏千家の許状式:2年程、今はなき名古屋駅前の毎日文化センターで裏千家のお点前を習っていた。その時の「宗和先生」の道場が海部郡大治町にあったため、電話帳で名古屋市の大須観音近くにあった貸衣装屋さんを探し出し、桃色の色無地の着物と帯をレンタル。これまた4と同じ美容院(だったかと思う)で髪結いと着付けをお願いして、父の車で連れて行ってもらった。(今振り返ると、あの頃、父にはお世話になった。親がいる間は、お願いして当然、という気もあったが、父がいなくなって11年以上経った今になると、もっと親孝行ができていたならば、と思う。)許状は茶通箱。

6.結婚式:平成9年(1997年)11月16日に、京都の下鴨神社で挙式。結婚プロデュース会社のワタベ・ウェディングが準備したレンタルの白無垢に、高見美容室の文金高島田で。(京都北部のフレンチ・レストランでの披露宴のお色直しは、薄紫色の洋装ドレス。)

7.お茶会:33歳頃、当時習っていた町内の裏千家の先生と一緒に京都の祇園近くにて。この時には、主人の母から譲られた(経緯は覚えていないが)色無地に菊や松が織り込んである薄桃紫系の着物に金扇の名古屋帯で参加した。着付けは、その頃暮らしていた島本町若山台の(旧)公団住宅一階の美容室で、髪結いと共にお願いした。今でも、そのサービスや前向きだった自分の心根に驚いている。終了後は、平安神宮辺りを一人で歩き回ったが、京都の人の目にはどう映っていただろうか?写真を主人に撮ってもらい、義母に見せたところ、写真を引っ掴むようにして「皆に見せる」と言い出した。慌てて、「それは私の写真です」と取り返したが、写真が少し折れてしまった。

8.放送大学大学院の学位授与式:東京の式典には、7と同じ色無地と帯にした。なぜならば、我々の結婚生活の最初から最後まで共に暮らしてきた主人の若年性神経難病が論文テーマであり、期待をかけて育てて来た息子に先立たれた逆縁の義母を慰める意図もあったからである。お茶会の後、手入れもせずに箪笥に入れっぱなしだったため、いつの間にか25年程経って、薄汚れてしまっていた。だが、呉服屋さんに持ち込んで相談したところ、「充分これでいい」という話だった。色は薄桃紫ではなく、「ベージュピンク」だと教わった。但し、格の問題があるので、紋を一つ、縫い紋で付けることにして、洗い張りしていただいた。2月22日にお願いし、受け取りは3月15日、と三週間はかかった。正絹なので、匂いも良く、質がしっかりしていて、今でも光沢がある。主人が大好きだったおばあちゃん(岡山の美作の母方祖母)が送ってくれたものだと聞いているが、明治生まれの武家出身者の見る目は高い。

(2024年4月1日記)

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3月のまとめ

ここで3月の行事をまとめておく。(過去ブログと記述が重複するが、まとめないと、うっかり忘却が浮上したり、精神的な落ち着きが得られなくなったりするからだ。)

3月7日:月命日。午前中は、放送大学大阪学習センター宛に修了生としての短文を書いて郵送。その後は月命日のお詣り。事前に葉書を送っておいたため、宮司様にもすぐ お目にかかることができ、思いがけず1時間近く、お話を聞いていただき、主人の五年祭と納骨の相談に乗っていただいた。スーツに黒コートだったので、そのまま大阪のいずみホールに直行し、小菅優さん達の四重奏を聴く。9時過ぎに終了し、帰宅は10時半頃。

3月12日:市内の漢方の先生のところへ。20分ぐらい、話が弾んだ。この度の修士号合格については、喜んでいただけた模様。吉報は周囲に喜びをもたらす。(報告しても無視するか、冷たい反応が返って来るような家族親族に囲まれて育つと、つい、何も言わずに黙っていた方が賢明か、と思う習慣が長年あったが、実はそのような態度の方が不健全。通常は礼儀作法としても、おめでたい話は肯定的になるのが常識である。)

3月14日:午前中は古文書の会(1時間半)、午後は地域の古文書整理(1時間半)。合間には郵便局等で用事を片付け、自宅に戻るや否や、簡単な昼食および家事の片付け。夜はずっと準確定申告の書類整理と書式記入。結局は徹夜になってしまった。バイオリズムが崩れるが、2019年度という最も大変だった年の申告は、5年が期限で今年の明日午後5時が締切。だから、休んでいる暇はなかった。

3月15日:お昼過ぎに、ようやく書式が整った。電卓で何度も打ち直して計算を確認。しかし、徹夜は血管が酸化していく感覚があり、だるく、思考も緩慢になる。能率は明らかに低下。しかし、ここで休むわけにはいかない。結婚してから毎年のように欠かさず一年間の医療費と寄付金の控除を計算して、提出してきた恒例行事だったからだ。伊丹に来てからは、たった一度のみ、2018年度分を提出できたが、その後はそれどころではなくなってしまった。従って、5年ぶりに作業したことになる。デジタル化の推進に伴い、自宅でも可能、とはいうものの、準確定申告には他の書式も提出する必要があり、そもそも無理だ。とにかく、コピーも取って、何とか夕方5時前には自宅近くの税務署に提出できる手筈が整った。そして、自転車に乗って急いで、午後2時から3時35分まで、いたみホールでの土井義晴氏の講演会(別項ブログに記したので省略)。そして、夕暮れの風に吹かれつつ、4時から4時10分まで、税務署の窓口で提出。ホッとした。

3月17日:市内のミュージアムの職員の引率で、池田市と箕面市の西国街道を歩くというプログラムに参加。この辺りはまだ行ったことがなく、行けるチャンスを捉えて、という意図だった。
阪急石橋阪大前駅に集合したものの、待ち時間に雨が降り出し、結局は傘を差しながら、約30名程の中高年者がぞろぞろと歩きつつ行程を進めた。雨さえなければ、もう少しは楽だったと思うが、荒天ならば3月20日に延期となり、それなら春のお彼岸で名古屋のお墓参りがあるから不参加になってしまう。ということで、強行軍ではあったが、これはこれでよし。
しかし、疲れたなぁ。川西市の能勢口から阪急バスで帰って来たが、自宅に戻っても、しばらくはぼうっとしていた。

3月19日:主人の実家のお墓参り。東大阪にあり、結婚以来、主人と義母と義兄の四人、あるいは主人と二人だけで年に四回、恒例行事だった。従来は主人の母が年に一度、管理費を払い、寝たきりになったら主人が払い、主人が入院したら私が払う、という循環があった。今でも、ついこの間のことのように感じるが、1998年1月に初めてのお墓参りをしてから、104回ほども通い詰めたことになる。

今年の元旦には、管理費を払う際、墓地管理の御住職が亡くなったとのことで、お留守番の若い御住職に今後のことを相談したところ、「本来なら長男である義兄が責任を持つべきものなのに、放り投げて次男の嫁である奥さんにやらせているなんて、おかしい。もう、放置しておけばいいのでは?」ということだった。実は長らく気が重い懸案だったが、少なくとも私に責任を負わせる第三者は、家庭裁判所といい、神社の神職といい、これまでのところ一人もいない。つまり、私は過重負担をこなしてきた、というわけだ。いつまでもこんなことを続けられるのか、それが問題だ。お墓のためだけに、近くに引っ越すという選択肢は、あり得ない。
枚岡神社へは、時間の関係もあって今回は見送り。

3月20日:別項のように、名古屋へ日帰りでお墓参り。

3月21日:一日、中休み。尼崎市立図書館と兵庫県立図書館から借りていた本を東京行の前に返却しようと思い、自宅でコピーを取ったり、ノートしたりして過ごす。疲れが出ないよう用心しつつも、夜8時の閉館前には歩いて伊丹市立図書館(ことば蔵)へ行き、3階カウンターで余裕を持って返却できた。

3月22日・3月23日:放送大学大学院の学位授与式と祝賀会のため、一泊二日の東京行。別項で記す。

3月24日:午後は伊丹市内の音楽堂アイフォニック・ホールにて、演奏会を聴きに行く。電話で事前予約をしておいたため、ホール受付で1500円を支払ってチケット入手。この日は大雨で、東京滞在の疲れもあり、市バスで近くまで行ったものの、2分遅刻のため、一曲目はホール外で聴いた。これも別項で記す。

(2024年3月27日記)

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伊丹でショスタコーヴィチを聴く

…..日が訪れるとは、想像だにしていなかった。

2024年3月27日に本稿を設定したものの、その後は何かと忙しく、ペンディング状態のままだった。

(2024年4月9日記)
。。。。。。。。。
伊丹シティフィルハーモニー管弦楽団の演奏を聴くのは久しぶりだ。最初は、2019年秋、伊丹市出身の女性ピアニストのラフマニノフのピアノ協奏曲だった(と記憶する)。
藤原市長さんが、広報伊丹かフェイスブックで、彼女を紹介された時のエピソードを記して「期待している」と、演奏会にいざなっておられた。
ただ、実際の演奏会では、テンポがずれていて、途中で止まりかけた箇所があって、ハラハラさせられた。

この時には主人が市内の病院に入院中で、演奏後、アンケートに答えたところ、二枚のペアチケットがプレゼントとして郵送で届いた。

そのチケットを、次に救急搬送された宝塚市立病院に入院していた主人に見せたところ、また一緒に演奏会ホールに行けるのだろうと思って、にっこりと笑っていた。「今度こそは真面目にリハビリを頑張って、また会社に1年ぐらいは働きに行きたい」と言っていたのだった。実際には、既に真菌やカンジタ菌が全身に回っており、筋肉も瘦せ衰えて、「もう自宅に戻ることはない」と主治医に宣告されていたにもかかわらず、である。薬の影響で、ケアマネさんや私の言うことも聞かずに外へ飛び出し、寒空の下を夜遅くまで尼崎や大阪を徘徊して倒れたからである。

伊丹市立音楽ホールであるアイフォニックホールへは、それまでにも東欧の四人組弦楽グループや「ジプシー」のヴァイオリン二人組、在京女性ピアニストのイリーナ・メジューエワのリサイタルに行っている。自宅からも歩いて行ける距離で、どことなく懐かしい雰囲気のする落ち着いたホール。完成した1990年代初頭には、伊丹市に音楽練習場や発表会の場所ができたということで喜ばれたそうだ。メインホールは客席502(車椅子席4)とのことである。

今回の伊丹シティフィルハーモニー管弦楽団の「名曲コンサート」は、客演指揮者がギオルギ・バブアゼさんという方で、コロナの影響で4年ぶりにお迎えできたという。そして、「難曲にも挑戦するというコンセプト」のもと、日々の練習を積み重ねてきた、とパンフレットにある。
。。。。。。。。
《曲目》

・ヨハン・シュトラウス二世:喜歌劇「ジプシー男爵」序曲
・ニコライ・リムスキー=コルサコフ:スペイン奇想曲 作品34
・ドミトリィ・ショスタコーヴィチ:交響曲第5番 ニ短調「革命」作品47
。。。。。。。。
アンコールはなく、花束贈呈だった。

前日まで、一泊二日の東京行しかも放送大学の学位授与式に着物で参加していたので、さすがに疲れていた。また、大雨であり、天気次第では自転車で行けたものを、スーツで市バスに乗り、駅から歩くはめになった。従って、到着は開演2時の2分後、練習音が聞こえていたが、満席ということもあり、一曲目は外で漏れ聞こえる音楽で我慢した。
ギオルギ・バブアゼさんは、ジョージア(グルジア)のトビリシ出身で、国立トビリシ音楽院でヴァイオリンを学び、モスクワでも弦楽四重奏を学んだ、という。大学院では指揮法を学び、1996年に大阪シンフォニカー交響楽団のコンマスとして来日。そして、2001年から関西フィルのコンマスとなって現在に至る。

オケの方は、1990年9月に伊丹市の全面支援のもと、オーディションで選ばれた精鋭のプロとアマチュアの混合編成オケとして結成された。
。。。。。。。
アンケートには、「以前よりレベルアップしたように感じられました。選曲が良く、集客力が抜群でした。」と書いた。

二曲目の前にホール内に案内されたが、満席で座る場所がなく、「階段で座ります」と案内女性に伝えた途端、「ここに空いています」と席を立って示してくれた男性がいた。このように、伊丹では親切な人が多く、立見席を免れたことは感謝だった。

(2024年4月10日記)

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学位授与式と祝賀会 in 東京

(https://twitter.com/ituna4011/status/1770674132365230551)
Lily2@ituna4011
2023(令和5)年度放送大学学位記授与式のお知らせ https://okinawatimes.co.jp/articles/-/1325435… via @theokinawatimes
← 何故か沖縄タイムス紙。
1:49 PM · Mar 21, 2024

(2024年3月27日転載終)
…………….
2024年3月30日追記

東京の学位授与式は、早くもちょうど一週間前のこと。
冷たく曇った雨模様が続いた天候も、今日は晴れ間が広がり、春めいて暖かくなってきた。式典から一週間も経つと、年齢相応の疲れや静かな興奮状態がようやく治まってくる。

主人の母から随分前に譲られた正絹の色無地(呉服屋さんで縫い紋一つを付けた)に(ベテランの呉服屋さんの助言によると)「格式の高い」名古屋帯(金の大きな扇)を持参の上、会場近くの美容院で着付けとメイクと髪結いをお願いして、まるで別人のような「いいとこの奥様」風に仕上げていただいて、参列した。

着物については、2月20日に学位授与式典の案内が届いて、大学本部に電話をかけて確認した後、ふと思い立ったことだった。大阪の学習センターでの学位授与式ならば、誰も着物姿の人はいないが、東京でならば、全国から卒業生や修了生が集まって来るので、例年、着物で参列される人がいる、という。

それなら、東京へ行こう!そして、着物だ!

2月21日には、すぐさま、早稲田近辺の高田馬場にある東京の式場会場に最も近くて着付けができる美容院をインターネットで探し出した。3月とはいえ、雨や強風の場合、着物が汚れたり歩きにくかったり、結い髪が乱れてしまっては意味がない。迷わず電話をかけて3月23日の予約をお願いすると、幸い、空いているということだった。ホームページでは、いかにも派手な若者の遊び髪が写真に出ていたが、電話で「還暦前のおばさんですから、感覚はモダンでもいいですけど、純和風、伝統的なスタイルにしていただきたいんですが」と申し出ると、「学校の先生も着付けで利用してますから、年齢は大丈夫です」「夜会巻きですか?」と。「いえ、夜会巻きは洋装ドレス向きなので、昔ながらの誰が見ても古典的な髪型をお願いします」。

美容師さんを「スタイリスト」と呼び、スキルや経験によってランク付けされているようだった。念のため、自宅にあった着物と帯の写真を撮り、希望する髪型をインターネットで探してアドレスと共に美容院に送った。それで正解だった。実際のところ、卒業式シーズンだったので、美容院の奥の部屋には着物鞄が積み上がっていて、それぞれ日付を書いた付箋がついていた。そして、前日の夕方6時までには一式を持ち込み、中身をチェックしてもらって、翌朝は7時半までに美容院入り。着付け、メイク、髪結い込みで2時間で仕上がる計算で、料金も電話で事前に伝えられた。

最初の電話では愛想よく応対していただけたが、何か途中で私の伝え方が細かかったのか、当日はむすっとした不愛想な感じの30前後の若い美容師さんだった。しかし、仕事は手堅く、きっちりと崩れないようなしっかりした着付けに仕上がった。同じ時刻には、もう一人、若い女性がモダンな袴姿にロングのカーリーヘアに真珠のネックレスという今風の格好に整えてもらっていた。

高田馬場は今回が実は二回目で、丁度32年前の1992年3月に一度、シュタイナー教育の話を聴きに行って以来である。

(今なら、シュタイナー教育もモンテッソリー教育も、日本人に相応しい仏教幼稚園の礼儀作法も含めた早期教育にはやや劣るとわかるが、マレーシアにいた頃、ドイツ人と結婚した同期の男性同僚が、いつでもシュタイナー教育や神智学を熱っぽく語っており、ミヒャエル・エンデの『モモ』等の影響もあって、つい子安宣邦氏等の著作を借りたりしていた。一時帰国の際、高田馬場にシュタイナー施設があるということで、一人果敢に出かけて行ったのだった。応対してくださったのは院生らしき若い男性だったが、今でも内容を覚えていないぐらい、大した話はできていなかったと思う。あの施設は、今どうなっているのだろうか?)

(Lily)
。。。。。。。。。
(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1325435)

2023(令和5)年度放送大学学位記授与式のお知らせ
2024年3月15日

2023(令和5)年度放送大学学位記授与式のお知らせ

放送大学(本部:千葉県千葉市,学長:岩永雅也)は、3月23日(土)に、全国の卒業生・修了生が参加する2023(令和5)年度放送大学学位記授与式を挙行いたします。

1.2023(令和5)年度放送大学学位記授与式について
   日時:2024年3月23日(土) 11時00分~12時00分(予定)
   場所:ベルサール高田馬場
   (東京都新宿区大久保3丁目8−2
    住友不動産新宿ガーデンタワーB2・1F)
   ※学位記授与式の模様は、BS231chにて後日放送予定。

3月30日(土)13:30~14:45  
3月31日(日)19:30~20:45
4月14日(日)15:00~16:15  
4月29日(月・祝)19:30~20:45
5月4日(土・祝)21:00~22:15

2.2023年度の卒業生・修了生概要

   教養学部:6,280名
   大学院(修士課程):219名
   大学院(博士後期課程):3名
   ※最高齢の卒業生・修了生 教養学部:99歳 男性、
                大学院修士課程:81歳 男性、
                大学院博士後期課程:61歳 女性

(2024年3月30日転載終)

上記の「大学院(修士課程):219名」の一人に私が含まれております。なお、「大学院博士後期課程:61歳 女性」は、私が所属したゼミの先輩です。(Lily)
。。。。。。。。。
(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)

2024年3月25日投稿

bangumi.ouj.ac.jp/v4/bslife/detail/01904016.html

2023年度放送大学学位記授与式

私と同じゼミの先輩が博士修了代表として学位記を壇上で授与され、私の母校の先輩(理系)が修士修了者総代として壇上で謝辞を述べられました。

3月30日(土)13:30~14:45
3月31日(日)19:30~20:45
4月14日(日)15:00~16:15
4月29日(月)19:30~20:45
5月4日 (土)21:00~22:15

BS231CHで放送予定とのことです。

私はインタビューされておりませんので、映っているかどうかは不明です。主人の母から譲られたベージュピンクの色無地の着物に金扇の帯、純和風の髪結いで出席いたしました。

(2024年3月30日転載終)
。。。。。。。。。。
こんな文章をフェイスブックに投稿されている方もいらっしゃいます。放送大学の前学長と現学長先生に関してです。(Lily)

・岡部 洋一

岡部洋一元学長は、その卓越した業績と多岐にわたる貢献により、稀代の天才と称されるにふさわしい人物です。彼の研究は、情報工学から神経科学に至るまで、幅広い分野に影響を与えています。放送大学の学長として、また東京大学の名誉教授として、岡部学長は教育と研究の世界において、計り知れない貢献をしてきました。
岡部洋一元学長の経歴は、彼の天才性を物語っています。東京大学での豊富な教育経験を経て、放送大学の教授、副学長、そして学長としての地位を歴任し、2016年より学長であると同時に放送大学生となりました。彼の研究分野は、電気電子工学から始まり、システム工学、医工学、生体材料学、そして神経科学に至るまで、多岐にわたります。特に、「脳における思考と言語のメカニズムの研究」では、脳の概念がニューロンに伝達する仕組みを解析し、ブレインコンピュータに関する重点領域研究において、脳化学の工学的手法とその組織づくりに取り組んでいます。
岡部元学長は、高温超伝導体トンネル型ジョセフソン素子の作製に努め、高温超伝導材料の基礎研究として、単一磁束量子論理回路に注力してきました。これらの研究は、現代の電子デバイスや電子機器の開発において、基礎研究から応用研究に至るまで、重要な役割を果たしています。
また、岡部元学長は制御工学の分野でも活躍しており、ロボットの学習制御において、リカント型のニューラルネットワークにおける発振と位相のずれを応用し、安定した2足歩行を実現する研究を行ってきました。これは、ロボット工学だけでなく、人間の歩行メカニズムの理解にも寄与するものです。
岡部洋一元学長の受賞歴も、彼の天才性を証明するものです。2019年には瑞宝中綬章を受章し、その他にも多数の賞を受賞しています。これらの受賞は、彼の研究が社会に与えた影響の大きさを示しています。そして、その知識に過信せずに今も学び続ける姿勢に感銘します。   
総じて、岡部洋一学長は、その知識と研究における革新性、教育への深い洞察、そして社会への貢献により、稀代の天才として称賛されるに値する人物です。彼の業績は、今後も多くの人々に影響を与え、尊敬され続けることでしょう。

・岩永雅也

放送大学の現学長である岩永雅也氏は、教育学者としての卓越した業績と、生涯学習の分野における革新的な貢献をした稀代の天才として知られています。彼の経歴は、教育社会学、社会調査法、生涯学習といった分野での深い専門知識と、放送大学をはじめとする教育機関での豊富な経験に裏打ちされています。岩永氏は、教育の可能性を追求し、学びの場を広げることで、多くの人々に影響を与えてきました。
岩永雅也氏は1953年、佐賀県藤津郡嬉野町(現・嬉野市)に生まれました。彼の学問の旅は、東京教育大学附属高等学校(現・筑波大学附属高等学校)から始まり、東京大学経済学部を経て、東京大学大学院教育学研究科で教育社会学を専攻しました。その後、大阪大学人間科学部助手、放送教育開発センター(メディア教育開発センター)を経て、1989年にまだインターネットも普及していない黎明期時代の放送大学教養学部助教授に就任しました。2000年には放送大学教授に昇進し、2018年には副学長を務め、2021年4月からは放送大学の学長としてその職を全うしています。
岩永氏の研究は、高等教育、生涯学習、才能教育に重点を置いており、多くの著書や共編著を通じて、その知見を広く共有しています。彼の著作には、「生涯学習論-生涯学習社会の展望」や「教育と社会」などがあり、教育の理論と実践における彼の深い洞察が反映されています。また、筑波大学大学院図書館情報メディア研究科で博士(学術)の学位を取得し、遠隔高等教育システムの展開に関する研究で、生涯学習社会における教育の新たな地平を切り開いています。
岩永氏のリーダーシップの下、放送大学は、遠隔教育を通じて、学びたいと願うすべての人々に高等教育の機会を提供することに尽力しています。彼のビジョンと実行力は、放送大学を日本の生涯学習の中心的な役割を果たす機関へと導いています。岩永氏は、教育のアクセシビリティを高め、多様な学習者に対応することで、教育の民主化に貢献しています。
教育者として、そして放送大学の学長として、岩永雅也氏は、教育が個人の成長だけでなく、社会全体の進歩に不可欠であるという信念を持っています。彼の生涯にわたる献身と、教育に対する情熱は、多くの人々にインスピレーションを与え、日本の教育界における稀代の天才としての地位を確立しています。

(2024年3月30日転載終)
。。。。。。。。。。。
(https://twitter.com/ituna4011/status/1770242534218125551)
Lily2@ituna4011
もうすぐ式典ですね?
9:14 AM · Mar 20, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1770321851937354186)
Lily2@ituna4011
座席は地域別なので、1800人もいれば、ご挨拶できそうにありませんね?
2:29 PM · Mar 20, 2024

(https://twitter.com/n0mgOUT061Rh3PH/status/1770342905082716597)
アルバ犬@n0mgOUT061Rh3PH
高田馬場に来られるのでしょうか?
3:53 PM · Mar 20, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1770379307577389321)
Lily2@ituna4011
はい、その予定です。
6:18 PM · Mar 20, 2024

(2024年3月30日転載終)
。。。。。。。。
(https://twitter.com/ituna4011/status/1771484855315861617)
Lily2@ituna4011
小学校の時、4年間同級生だった友達が、前日に電話をくれて、
見る、
と約束してくれました。
7:31 PM · Mar 23, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1771485095469216021)
Lily2@ituna4011
東京のあしながおじさまも、
見ます、
と。 ありがたいことです。
7:32 PM · Mar 23, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1772720130067169382)
Lily2@ituna4011
この度、あしながおじさまから、疲れ休めに、と学位授与のお祝いが届きました。 10数年前、拙ブログを見て貴重な古い本を箱一杯に譲ってくださったり、新刊書等も折々にプレゼントしてくださったり等、誠にありがたく文字通り
あしながおじさま
でいらっしゃいます。
5:19 AM · Mar 27, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1772721250411983138)
Lily2@ituna4011
お目にかかったことがないのに、いつでも必要なものが過不足なくタイミングよく送られてくるので、私にとっては実に
あしながおじさま
なのです。不思議ですが、こういうことが起こるのです。 故前田護郎先生のおかげです。ありがとうございます。
5:24 AM · Mar 27, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1773712793524707728)
Lily2@ituna4011
着物の相談に乗っていただいた呉服店の方も、わざわざメモしてくださいました。 いろんな方が喜んでくださり、東京で式典に出席してよかったと改めて思います。
11:04 PM · Mar 29, 2024

(2024年3月30日転載終)
。。。。。。。
(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)
2024年3月25日投稿
東京の式典に出席したので、残念ながら大阪へは実現かないませんでした。

(2024年3月30日転載終)
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(https://twitter.com/ituna4011/status/1770045159943917916)
Lily2@ituna4011
ゼミでも習いました。 「地獄への道は善意で舗装されている」
8:10 PM · Mar 19, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1771125622141772159)
Lily2@ituna4011
同感。2003年の大学改革からおかしくなった。
7:43 PM · Mar 22, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1772217712523038920)
Lily2@ituna4011
いえ、私、経営学や経済学が全然ダメなんです。
8:03 PM · Mar 25, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1773115100557119940)
Lily2@ituna4011
修士にも言えます。
7:29 AM · Mar 28, 2024

(2024年3月30日転載終)
。。。。。。。
(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)

2024年3月19日投稿
我が家の夫も昭和60年3月に、大学院(工学)を首席修了。紫紺賞を授与されております。結婚披露宴の時、指導教授が祝辞でおっしゃったので、初めて知りました。

(2024年3月30日転載終)
。。。。。。。。
(https://twitter.com/ituna4011/status/1771490968870465898)
Lily2@ituna4011
ダブル修士の人がかなりいらっしゃることを知った修了式パーティー。 次は博士号を予定しているご年配の方も。 今後は、本来の人文系に移ろうとして、会場にいらした教授に許可を求めたところ、 私はあと2年だからなぁ、 と。残念。人文系は3名の教授が退任されることになり、これまた残念。
7:55 PM · Mar 23, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1771497173093433484)
Lily2@ituna4011
ダブル修士の方は、全体的に落ち着いていて、感じのいい方が多い。足を引っ張るなよ私。
8:20 PM · Mar 23, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1771492567076442364)
Lily2@ituna4011
見えない力の働きで、話が合う人とは意外な繋がりがある、とわかるのも、パーティの醍醐味。 話は後日、ブログにて。
8:01 PM · Mar 23, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1771499518225186926)
Lily2@ituna4011
博士号一直線タイプとは明らかに違う。博士号は就職の間口が狭いためでもある。ダブル修士は、既に仕事を持ち、余技としての研究、という側面もある。
8:29 PM · Mar 23, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1771502016444936435)
Lily2@ituna4011
ゼミのやり方が、教授や所属プログラムによってかなり違うことを確認したパーティ会場。 4月からの教材が楽しみ!できるところから、早めに取り組もう。 ダブル修士でも、新たに教養学部の科目生になる人は、私以外に結構いらした。皆、なぜか勉強大好き 。
8:39 PM · Mar 23, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1771509025445908714)
Lily2@ituna4011
つまり、権威や肩書きが主目的ではない、ということ。 それに、自分一人の意志と努力だけでは成立しない。周囲の理解や励まし、トラブルをもたらさない配慮等、さまざまな条件が重ならないと実現しない。 式典では、修了生の謝辞を拝聴しながら、周囲への感謝の意が最も響いた。
9:07 PM · Mar 23, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1771542435690103161)
Lily2@ituna4011
実は元の大学の同窓生でいらした。似た者同士?
11:20 PM · Mar 23, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1771543953185063119)
Lily2@ituna4011
もっと感謝しなさいよ私。
11:26 PM · Mar 23, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1771838198135619958)
Lily2@ituna4011
それにしても、私の母校の同窓会には優秀な先輩方が多い。 長らく、メディアや無責任な言論の影響から、地方出身者だから首都圏ではモノにならない、と最初から諦めていた。 しかし、我らが諸先輩は堂々と、東京の中心で着々と成果を上げ、しかも努力を怠らない。 大阪での同窓会でも、実に
6:55 PM · Mar 24, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1771839613662793803)
Lily2@ituna4011
手堅く鋭い意見を堂々と述べた先輩がいらした。対中国問題に関して、中国大使だった講演者に対して、だ。 いずれも男性ばかりだったが、そこがいい。 年齢を重ねると、いろいろと見えてくるものがあるが、社会に出て鍛えられた結果を、私は見せて頂いているのだろう。
7:00 PM · Mar 24, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1771841939236888993)
Lily2@ituna4011
名古屋の水を飲んだ人は、芯が強い! 今回の東京での学位授与式でも、修士代表謝辞を壇上で述べた方は、実は母校の先輩。理系出身だが、この度新たな分野でダブル修士。実に手堅く穏健な答辞(とはもう言わない?) てっきりお若い方だと勘違いして、長らく気楽にTwitterで反応してしまっていた。
7:10 PM · Mar 24, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1771844917100261638)
Lily2@ituna4011
学部も院も両方共に、凄い先輩がいる。 若い頃には同じカリキュラムで教育を受け、差が小さいように見えたとしても、時を経て開花するものがそれぞれにある。 昔は入試が厳しかったためもある。 地方出身だから、刻苦勉励が当たり前だったためもある。
7:22 PM · Mar 24, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1771845879063875868)
Lily2@ituna4011
高校にも、凄い先輩と後輩がいる。 同窓会の会報を見ると、いつもびっくりする。本当に同じ学校なのか、と思うぐらい。 刺激を受けて、私なりにできる限りの恩返しを。
7:25 PM · Mar 24, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1772217181280845865)
Lily2@ituna4011
他の方々の快挙、我ごとのように嬉しくなります。良い刺激にもなります。
8:01 PM · Mar 25, 2024

(2024年3月30日転載終)
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(https://twitter.com/ituna4011/status/1774011692432912475)
Lily2@ituna4011
https://youtu.be/H1IYJDnHd_Y?si=rsR3osRJp4H9r1la… via @YouTube
島内先生の講義はとても素晴らしかったです。青山先生は情熱的でおもしろく、お金のかかった海外ロケが勉強になりました。
6:52 PM · Mar 30, 2024

(2024年3月30日転載終)
。。。。。。。。
式典には、卒業生修了生全体の27%である1800人が出席したようである。その後の祝賀パーティには、小雨が降り出しそうな中、別会場に数百名が何台ものバスで移動した。

立食形式のビュッフェだったが、お目にかかれたのは、私の所属するプログラムでは田城教授のみ。恐らく田城ゼミと合同になった1月8日の口頭試問の記憶があってだろうが、田城教授には一瞥の末、見事に避けられた。田城ゼミ生が一緒に記念写真を撮っていらしたが、私のゼミ仲間は見当たらなかった模様。

その他は、今年でお辞めになるという青山先生(美学)と島内先生(国文学)の他、魚住孝先生だった。

青山先生の講義は情熱的で個性的で、一緒にいた同志社出身で千葉の幕張に住んでいるという人文系プログラムの修士修了生の女性が、「変わっているよね、いかにも大学の先生って感じ」と言っていたが、確かに風変りな側面があった。でも私は、難関で有名な青山先生の美学の院の講義の単位認定試験で満点を取ったぞ!これは、生活健康科学プログラムの院生としては快挙だ、と密かに自負している。満点が取れたことが記念になり、青山先生に関しては思い残すことがない。

島内先生は、いかにも昔風の女性の大学教授という風格で、国文学研究者としても正統派であり、国文学科だった学部時代を彷彿とさせる名講義だった。ラジオ講義はいつでも感慨深く、気分転換としても最適な、良い時間を過ごさせていただいた。

日本文化全般を担当されていた魚住先生に関しては、過去ブログ(2022年1月21日付「放送大学院に関する呟き集」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=1579&action)で、痛烈な文句を書いていたが、実際には、お目にかかると気さくで親しげな方だった。青山先生とは気が合うようで、最後には一緒にホテルのクローク前の列に並んでいらした。

私の着物の威力(!)はそれなりにあったようだ。
ワイングラスで白を手始めに、次に赤を、最後にオンザロックをそれぞれ一杯ずつ頂いていた最中に、魚住先生のテーブルを通りかかった際、ふと、「先生!私、先生にすっごく悪い成績、レポートにつけられたんですけど」と申し出ると、宴会にふさわしく出来上がっていた魚住先生、「あれはねぇ、もっと頑張ってほしいと思って、つけた成績なんですよ」みたいなことをおっしゃった。
そこで、今がチャンスとばかりに、「実はあの頃、伊丹の柿衛文庫がミュージアムに統合されるために、閉館中だったんです。だから、資料を見ることができなかったので、あのようなレポートにしたんですけど、悪い成績(一応は合格)になってしまって….」「今、岡田麗先生の所に行って、鬼貫を読んでいます」と勢い込んで話した。そして、「先生が兵庫県のご出身だってこと、後から知ったんです」と付け加え、「先生、今年私は生活健康科学プログラムを修了したんですけど、次に人文系に移ってもいいですか?」と尋ねると、「私はあと2年だからなぁ」と。それでも、着物でインパクトがあったせいか、「お名前は?」と尋ねてくださった。

今でも覚えていらっしゃるかどうかはわからないが、確かに、私は先生と言葉を交わしたのだ!

一方通行になりがちな通信制の放送大学という孤独な教育制度において、少なくとも魚住先生は、青山先生のように信念を持って、かくあるべし、という授業や講義を作り上げて来られた。その先生に、こういう機会にざっくばらんに本音をぶつけられたことは、よかったと思っている。

ついでに、二度目に別の科目で受講した魚住先生の講義では、日文研で有名だった笠谷和比古先生をゲストに5分から10分ほど対談するコーナーが含まれていた。

この笠谷先生は、大阪の市民大学OCCでゼミを開いてくださったことがある。2018年夏に講演を聞き、好評だったために2018年12月から2019年1月にかけて連続4回か5回のゼミを開講してくださることになった。欠席の場合はビデオで聴講することとし、最終レポート(感想文のような作文)を提出して修了証をいただくというゼミだったが、私も出席した。
その夏は凄い猛暑で、「講演会場に辿り着くにも命懸け」と先生が冒頭でおっしゃった程だった。その後は、主人の転勤に伴い、大阪府島本町から兵庫県伊丹市へ引越しがあり、引越し荷物も片付かないまま、翌年1月には阪大病院で主人が3週間の検査入院というイベントもあった。

そのような中、何か知的な気分転換でもしないと持たないという精神的な圧迫感と不安感を常に抱えていたが、笠谷先生の講演には大変助けられた、と思う。

笠谷先生の講義内容は、日本史の読み直しであり、受講生からは「先の戦争で亡くなった父親のことが思い出される」等、インパクトの強いものだった。ちなみに、今年の1月から始めたNHKの古文書通信講座の講師には、笠谷先生が含まれている。

以上をまとめると、私は魚住先生の背景や人脈を知らないままに受講し、成績のみで不満を述べていた、という結論になりそうだ。

思い切って、お金と時間をかけて東京の学位授与式と祝賀会に出てよかった、と思う。単位を揃えるための一方的な受講や小さな一つのゼミだけで放送大学を知った気になるのは、あまりにも勿体ないと認識できた程、楽しく有意義な時間を過ごせたからだ。

やはり、人は人と出会い、語り合い、気持ちを交流させなければならない。

(2024年3月30日記)
…………..
2024年5月6日追記

(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)

2024年5月6日投稿
古いけれども、生地は元がしっかりしているので、いい業者さんによって洗い張りする等、手入れをきちんとすれば、古典柄が今ではかえって引き立つ。若い人なら、落ち着いて見えるので、余計に品格が増す。
今年3月下旬の東京での学位授与式典の時、明治生まれの主人の母方祖母がその昔に送って来た正絹の色無地を手直しして、実感しました。

(2024年5月6日転載終)

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平和公園へ日帰りのお墓参り

今年も3月20日には名古屋の平和公園へお墓参りに行った。今回は、いろいろと用事が重なっていたため、宿泊無しの日帰り。

(https://twitter.com/ituna4011/status/1770403661249916971)
Lily2@ituna4011
春のお彼岸で、恒例の平和公園での両家の曽祖父母や祖父母のお墓詣り。今年は雨降りと強風で寒かった。6年前なぞ、汗ばむぐらいの陽気だったのに。 また、平和公園行きの市バスがガラガラ。以前は市バス増発で満員だった。 桶や柄杓も片付けられていた。 何なの、これ!
7:55 PM · Mar 20, 2024

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Lily2@ituna4011
平和公園は広いため、毎年のこの時期には、あちこちに花屋の出店があったのに、今回は警備員の数の方が目立った程。 また、墓地の所有者が不明の場合も少なくないらしい。 戦後教育やメディアのリベラル左派の影響か? お墓詣りによって、経済が潤う効果もあったのに….。
8:14 PM · Mar 20, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1770588890476515475)
Lily2@ituna4011
風が吹けば桶屋が儲かる、 ではないが、全て物事には循環がある。 経済効果に少しは貢献すべく、帰りには名古屋城 へ久しぶりに行き、お土産物を二つ買った。名古屋のお茶 妙香園のくき茶も。 妙香園も名古屋コーチンも、思い出と直結。
8:11 AM · Mar 21, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1770589845033046054)
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私は平和公園内の南北を歩くが、タクシーだって稼ぎ時のはず。ところが、強風の中を待ってもなかなか来ず、市バスは15分以上も待つはめに。 仕方なく、近くのコンビニで暖を取った。
8:14 AM · Mar 21, 2024

(2024年3月27日転載終)
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参考までに、昨年はどうだったのだろうか?

(https://twitter.com/ituna4011/status/1638714299580551168)
Lily2@ituna4011
というわけで、一泊二日の名古屋行き。平和公園で両家祖父母のお墓参りが目的。 お彼岸の3月21日は、生憎の曇り空に雨降り。 9年前に買ったスプリング・コートがちょうど間に合った程、肌寒かった。それで、ふと思い立ち、久しぶりの科学館プラネタリウムへ行ってみた、という次第。
10:28 AM · Mar 23, 2023

(2024年3月27日転載終)
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寒くて強風の吹く春のお彼岸だったが、とりあえず、目的は果たせた。

前年度まではきちんとお花が供えられていた父方の方は、今回は、まだ誰も来ていなかったようで、蠟燭立てが倒れ、枯れ花が散らばり、周囲の草がぼうぼうに生え、枯れ葉もたまっていた。やはり、お墓というものは、定期的にお掃除をすべきだと痛感した。

母方の方は、ひいおばあちゃんのお墓も含めて、既にかわいらしく春らしい供花があった。多分、いとこがやってくれているのだろう。

実は前日、東大阪にある主人の実家のお墓詣りをして、お掃除をした。連日、お墓参りという時期だが、慣れれば何でもない。但し、問題は、いつまで続けられるか、だ。

いつでもどこでも、お墓に来ると、私はビフォー&アフターの写真を撮る。確かに自分が来たことを記録するためでもあり、お墓がどんな状態であったか、自分が来たことにより、どのような変化を遂げたか(大袈裟!)を記憶するためでもある。
。。。。。。。。
今年の3月は、いろいろと用事が重なっていたので、物理的には時間が取れなくもないが、年齢と体力を考え、用心として日帰りとした。

但し、せっかく新幹線で名古屋まで来たのに、そのままで帰るのも勿体なく、名古屋城と愛知県の護国神社へ立ち寄ることにした。

実は、年に一度の名古屋帰りの度に、思い出の地を少しずつ辿っている。初対面の1996年12月から結婚する1997年11月までの期間に主人とのデートで出かけたさまざまな場所、両親が卒業した中学や高校、両系の親戚の家とその周辺、生まれて一ヶ月のお宮参りと七五三の神社(高牟神社という式内社!)、生まれてから郊外に引っ越す小学校6年生の2学期まで暮らしていた実家の跡地(既に敷地も売却して別の大きな家が建っている)、自分が通った小学校、鶴舞公園や庄内緑地公園、鶴舞中央図書館や愛知県図書館等である。毎度、新たな発見があり、驚きと感動で、一人でワクワクしている。

名古屋城は、主人と二回目のデートで訪れた。1997年1月2日のことだった。1996年12月22日に初めて名古屋駅の新幹線改札口で会い、午前10時10分(私が10分遅刻したため)から午後6時まで、話したり歩いたり食事やお茶等で過ごし、その日のうちに意気投合。次は数日後、主人の方から「お正月にはどんな風に過ごしますか?学校で教えているから、お年賀状はたくさん来るんでしょう?」と電話がかかってきた。(来た来た)と内心思いつつ、「それでは、名古屋城に行きませんか?」と場所を決めたのは私だった。

当時の私は名古屋市郊外の実家で暮らしていたが、生まれた場所が国立名古屋病院。幼少期、近視その他の病気でお世話になったのが名城病院。そして、物心ついてからは、週末に父や妹と散歩や凧揚げ等で遊んだのが名城公園。小学校に上がると、写生大会は名古屋城(と熱田神宮)。

というように、名古屋城とその周辺は、ずっと自分の守備範囲のような気持ちでいた。客観的に言えば、1990年から3年間、政府の業務で過ごしたマレーシア以外に、つまるところ、名古屋しか知らなかった私だったのだ。

名古屋大空襲で金の鯱が落ちた、という話は聞いていたが、それまでの私にとっては、お城はあって当然の存在だった。ましてや、大阪城のことなんて、結婚するまで知らなかった。

ともかく、2018年9月末に主人の会社の都合による転勤のため、伊丹に引っ越して以来、有岡城という、既に城壁の一部しか残っていないお城のことを今でも熱心に調べている市民グループや個人がいるという事実に刺激を受け、お城というものに対する見方や感じ方が大いに変化した次第である。

そんなわけで、名古屋城に辿り着いたのは午後4時と遅かったが、5時の閉鎖までの丸1時間、まるで初めて訪れた小さな子供、あるいは、田舎から初めて出て来たお上りさん感覚で、逐一立ち止まっては写真を撮り、標識(旧式と新式)をじっくり読んでは写真撮りの連続、見上げたり歩いたり立ち止まったり、御濠の水が今はどの程度なのか、(昔は確か、鹿がいたのではなかったか?)等と、古い記憶と現前を頭の中で忙しく往来しつつ、感動しながら歩を進めた。

私、結構いいところに住んでいたんだ!なのに、どうして中学に上がった頃から、いつでも東京ばかり見上げて、(名古屋は遅れている、田舎だ)と思い込んでいたのだろうか?

他の土地にも暮らして、いろいろな場所を訪れ、文献や各種講座でも学び吸収したものが増えたからこそ、余計に、独身時代には当たり前と思っていた事柄にも一つ一つ深い意味と歴史の積み重なりがあることに気づかされ、新たな発見の連続を経験することになったのだ。

(3月20日の夜、小学校時代に4年間、クラスメートだった友達から電話がかかってきて、そのことを興奮気味に喋っていたら、ずっとその近辺に住んでいる友達にとっては、「そうだね、今でも私には、あの辺、特に新しい感じはしないけど」みたいなことを言っていた。)

しかしながら、1997年1月2日の二度目のデートでは、そんなにウキウキとお城を眺めてはいなかったと思う。唯一、覚えているのは、黒い手袋をしていた私の指先を突然、途中でつかんだ主人に「もしかして、計画的犯行?」と尋ねると「うん」と答えたことだった。

全く、どうでもいいことばかり覚えているんだね!

お土産には、名古屋コーチンのカレーと金の鯱の小さなレプリカを買い求めた。

「名古屋コーチン」については、1997年2月に名古屋駅で父が京都から来た主人に会ってくれて、主人が「結婚前提でお付き合いを許していただきたい」と申し出て許可された時のことである。いきなり父が、「名古屋は水がおいしいと言われている。木曽川の水を利用している。住んでいると、特に美味しいとは思わないが」「名古屋の人は経済感覚が堅実だと言われている」「名古屋コーチンが名物だ」という話をし出した。今から思えば、当時の私は結婚というものに関して、巷のいい加減なメディア情報にすっかり囚われていたのだろう、(何という話を!)と思い、「お父さんがそんな風だから、私はこうなったんだ」みたいな愚痴を口走ってしまった。すると後で主人から「お父さん、いい人じゃないか。お父さんにあんなこと、言ったらダメだよ」と窘められ、「お父さんは、嫁に出したくないんだよ」と言った。

やはり、結婚というプロセスは、人の成長には不可欠である。生き方の多様性を謳歌する現代ではあるものの、結婚という新たな人間関係の構築に際し、父親の新たな側面を知る機会に恵まれるからだ。また、「男同士」として、主人が父の立場を思いやる度量を示したことも、今では本当にありがたい。
。。。。。。。
閑話休題。既に夕暮れ近くになっていたが、せっかくだから、と愛知県の護国神社へ。ここへは二度目だが、最初は2018年8月か2019年8月、いずれかの高校の同窓会の時だったかと思う。昭和の森では、先の戦争で敗れた兵士軍人達の慰霊碑が薄暗く屹立していて、ちょっと怖い感じがあったが、学校では教わることののなかった歴史の事実に直視することの厳粛さと一種の衝撃を覚えた最初の時でもあった。同時に、遺族会用の建物が古びていたのも気になった。

あれから数年を経て、神社検定で学んだり、『神社新報』を購読したり、伊丹と周辺の地域史を学んだりすることを通して、もう少しは落ち着いて境内を歩くことができたかと思う。
。。。。。。。
春のお墓参りは、2019年から始めた。墓地の場所は、母方の叔母に電話で教えてもらった。主人の病状から、今のうちにできることをしておかなければ、いざという時に路頭に迷うだろうという予感があったからだ。そして、それは正解だった。

最初は高速バスで新大阪と名古屋を往復した。自分の実家関連の用事で名古屋に帰るのに、主人の様子を思えば、贅沢はできないと思っていたからだ。また、行程が新幹線と異なり、見える景色も客層(高速バスは乗客が若い!)も全く違うため、自分なりの社会勉強を兼ねて、であった。浮いたお金は、惜しまず供花に使った。臨済宗金剛寺の父方と、真宗大谷派(東本願寺)の母方の計4束である。本当は、それ以外にも4束必要なのだが、とりあえずは無理が無いよう、ここから始めている。

行きはいいのだが、帰りがいつもバスの出発ギリギリの時間になってしまい、荷物を預けてあるホテルまで戻って、タクシーを急がせて名古屋駅前まで焦るのが通例となっていた。というのは、馴染んだ場所であっても、名古屋の街もいつの間にかより複雑になり、ますます超高層ビルが増え、地下鉄の駅も新設され、昔なら10分で済んだことが、今なら15分以上は優にかかる事態になったからだ。また、上述のように、物事の意味が深く理解できるようになると、その分、精神的な時間も体力的な時間以上に倍加することを実感する。

というわけで、今回は夜7時過ぎに名古屋発の新幹線で帰るということにして、余裕を持たせた。ホームでは充分な待ち時間が取れた。それはよかったが、伊丹到着が遅くなり、コロナ禍のためにタクシー廃業が相次いだこともあって、自宅に到着したのは、随分時間がかかった。

(2024年3月27日記)
……………
2024年3月30日追記

(https://twitter.com/CityNagoyajo/status/1773894759406596328)
名古屋城 Nagoya Castle@CityNagoyajo
名古屋城入城8888万8888人達成 名古屋城は、昭和34年10月3日の天守閣再建から64年と5ヶ月、皆さまのご愛顧に支えられ、本日令和6年3月30日、記念すべき8888万8888人目のご入城者をお迎えしました!皆さま、これからも名古屋城を末永くよろしくお願いいたします #名古屋城 #nagoyacastle #名古屋
11:07 AM · Mar 30, 2024

(https://twitter.com/CityNagoyajo/status/1773916717540073883)
名古屋城 Nagoya Castle@CityNagoyajo
「八」は名古屋市の市章に使用されており、尾張徳川家の合印として用いられていたと言われている、名古屋とゆかりの深い数字です。 記念すべきご入城者は宮城県から家族旅行でいらっしゃった男性! 名古屋城からは画集(名古屋城本丸御殿障壁画集)と刀(模造刀・金シャチ横丁提供)をお贈りしました
12:34 PM · Mar 30, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1773912252871246080)
Lily2@ituna4011
10日前には私も!
12:16 PM · Mar 30, 2024

(2024年3月30日転載終)
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(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)

(https://business.nikkei.com/atcl/plus/00058/073100009)

「お墓参り」をする姿に、その人の生き様が表れる
by Osho Taigu
2023年8月9日

福厳寺住職の大愚和尚「お墓参り」について

《死んだ人を墓に埋葬し、弔う。その起源は、ネアンデルタール人がいた時代にまで遡るといわれています。イラク北部にあるシャニダール洞窟で発掘されたネアンデルタール人の遺骨の周りには、数種類の花の花粉も発見されました。それは、偶然遺骨の周囲に咲いていたのではなく、誰かがさまざまな種類の花を摘み、明らかな意図を持って遺体に手向けていた。それはあたかも葬儀をしたかのようで、仲間の死を悼んでいたと推測されます。》
《人間が、死者を埋葬し、弔う行為をするようになったのは、脳の発達によるもので、豊かな感情を持つようになったからです。亡くなった人に思い入れがあるからこそ、動物に捕食されてしまわないために遺体を土の中に埋葬し、守ろうとしたのですね。》
《さらに人間は記憶力や想像力も持つようになりましたから、死んでしまった人の記憶をずっと持ち続けます。肉体はなくなってしまってもなお、その人の存在は自分の心の中に生き続ける。けれど、いつまでも悲しみに暮れていては、日常生活が成り立ちません。死んでしまった現実を受け入れ、納得し、「決別」しなければならない。その大切な人の死を受け入れる通過儀礼として、葬儀やお墓参りの存在があるのだと、私は思うのです。》

《2024年3月27日追記》

PC版では後半部分が省略されているが、iPhone版では全文が読める。実は、後半の方が重要。長年、観察された御住職によれば….

・お墓参りをしている家庭は、子供達もしっかり育っている。
・お墓が守られているということは、その人の生活も整然としているということ。
・お墓を見れば、人間関係やビジネスがうまくいっているか否かがわかる。
・日ごろから、目に見えないものに対して敬意を払い、誰が見ていようがいまいが、手を抜かずに手入れが出来る人は、ビジネスや人間関係などもうまく回っている。

(以上)

2024年3月21日投稿

時期はずれですが、春のお彼岸で実感しました。
おじいちゃんに買っていただいた三輪車。赤いランドセル。
毎年のお餅。結婚祝い。
おじいちゃんの本籍地を、無意識のうちにいつも歩いていた。
愛知県護国神社へも。戦後教育の誤りに毎度気付かされ、お詫び申し上げたい気分に。
しかし、名古屋出身者であることの本当の意義深さは、実は伊丹に暮らすようになってから知った。伊丹は歴史好きな方々が多く、西国街道を中心に、まち歩きが活発。参加するうちに触発され、名古屋に帰る度に新たな発見ばかり。
両系のおじいちゃんやおばあちゃん、遅ればせながら、今こそ孫娘はルーツ辿りを頑張っていますよ!
。。。
ユーリ:O様、ありがとうございます。名古屋城へも行って来ました!
Y・T:なるほど、そういったお話しがあったとは。。
ユーリ:そういった話とは?
Y・T:「ルーツ辿り」に至る一連のお話のことです。
ユーリ:承知いたしました。

(2024年3月30日転載終)

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