市立伊丹ミュージアムの会報に拙稿を掲載していただきました。
冊子の表題に関しては、議論がまとまるまでは、誠に勝手ながら元の『友の会だより』で統一させていただきます。拙稿の添付写真(省略)は全部、5年前から繰り返し現場を歩きつつ、私が少しずつ撮影したものから選んでおります。
なお、過去の『友の会だより』掲載の拙稿リストは、以下の通りです。
1.「伊丹と島本-むかしのくらし展を機縁として」2021年11月11日
(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=1290&action=edit)
2.「戦前戦中のマレー語学習書」2022年3月3日
(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=2023&action=edit)
3.「護国神社の英霊慰霊祭」2022年7月2日
(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=2920&action=edit)
4.「二つの石の話:行基石と鯉石」2022年11月2日
(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=3594&action=edit)
5.「なんでも発表:相互理解か宗教的不寛容か?」2023年3月3日
(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=4170&action=edit)
(注:他にも、友の会に入会した当時の自己紹介文と、昔の暮らしのDVDを作成した際の「アクセント辞典」の話がありますが、ここには含まれておりません。)
(リスト終)
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伊丹博物館友の会『友の会だより』第71号(令和5(2023)年6月24日発行)pp.16-18.
「一住民から見た千僧今池の変遷」
1.旧博物館の解体と千僧今池の縮小
令和4(2022)年4月22日(金)、旧博物館を伊丹市宮ノ前に移転し、歴史と文化と芸術の総合的な発信拠点としての「市立伊丹ミュージアム」が開館した。それに伴い、昭和47(1972)年7月22日以降、伊丹市千僧1丁目1番地1に所在した伊丹市立博物館は幕を閉じることとなった。
千僧にある天神社の掲示板には、今年の4月14日、千僧自治会によって、伊丹市総合政策部デジタル戦略室総務部管財課の通知が貼り出されていた【写真a】。令和5年4月1日より令和6年3月31日までの旧博物館解体工事の説明で、案内は千僧今池周辺の住民のみ周知とのことだった。
現在、元の溜池の面積は三分の一程度しか残っていない。残りの三分の二は埋め立てられ、中央公民館の跡地に新設された「いたみ総合保健センター」の駐車場に様変わりしている。今後は、西国街道沿いから移転して、新しい千僧公民館が建てられる予定とのことである。
2.千僧地区の今池
平成21年12月に伊丹市資料修史等専門委員会と伊丹市立博物館が行った千僧地区史料調査について、大黒恵理氏は『地域研究いたみ』第44号で、次のように述べる(p.45)。
「水利は村内の千僧今池と、西野村で取水される昆陽井、大鹿村の尼ヶ池
による。千僧今池は行基が灌漑用に築いた池の一つであるという伝承が
あり、その工事の際の犠牲者を千僧供養したことが地名の由来としている
資料もある。のちに国道171号線が池を二分し、さらに昭和43年には
伊丹市に買収されて埋め立てられ、浄水場や市役所などの施設の敷地と
なった。現在は博物館の東側に一部が残るのみである。」
正徳3(1713)年の「大鹿・千僧・昆陽村大絵図」や天保14(1843)年の「千僧村絵図」によると、千僧村の今池は、「昆陽村大池」(現在の昆陽池)に隣接し、まるで長靴のような形をしている。明治18年の大日本帝国陸地測量部の地図でもほぼ同じである。
昭和43年3月発行の『伊丹市史第4巻史料編1』には、1756年の「宝暦六丙子年摂州川辺郡千僧村諸色附込帳」が翻刻されている(pp.355-359)。そして、二ヶ所の溜池の一つである「今池」は、「池床平均」が「東西弐百弐拾間」「南北百弐間半」であり、「堤長延七百三拾五間」「根置三間半」「高サ壱間壱尺」「場踏五尺五寸」「但平均」と記されている(p.358)。
天神社の略誌は、御由緒を以下のように記す【写真b】。
「初め大巳貴命を祀しが後 猪名神社及び同境内神社等を合祀して
祭神を増加せり 昔猪名権現社と称せられ天命天皇の和銅六年
(今より約一千二百六十年前)行基法師熊野に詣で一夕神に見ゆ
明旦其霊容を彫刻して此の地に帰り小社に遷し猪名権現として
祭り 池、田、畑の開拓達成の祈願をされた 猪名の號は歌の名所
に因れり」
(筆者注:「天命天皇」は「元明天皇」の書き間違いであろう。)
鳥居には「元禄十七年甲申三月吉日」(1704年)「寶永三丙戌正月吉日」(1706年)と刻銘されているものもある。すなわち、上述の絵図作成の前に既に神社が建立されていた。また、近隣の猪名野山願成就寺安楽院には「聖武天皇勅願所 和銅六年創建 行基菩薩 千僧供養之古跡」と示されている。「昆陽池の築造に因み千人の僧侶による大法要が行われた」ことから、地名を「千僧」と称したという。
いずれにせよ、天神社と安楽院が示唆している共通項が千僧村の人々の信仰を支えていたと考えることができよう。
ところで、田原孝平氏は『地域研究いたみ』第23号で、「千僧地域は瑞ヶ池の水を受けた千僧池の池懸かり」と述べ(p.86)、「通称千僧池」の今池は「七町五反一畝二〇歩」の面積を持つ溜池で、「今池」の称から「天平造池より遅れた池」だと見なす(p.94)。また、氏は伊丹市文化財保存協会の『絲海』第20号でも「行基の時代より遅れて今池が造作された」「この池の水源は大鹿村の水田を潤した後の瑞ヶ池の余水である」「瑞ヶ池は千僧村の命の池でもあった。大鹿村を取り巻く争論には千僧村が関わった(正徳三年、宝暦六年の争論)」と記した(p.8)。さらに、伊丹市立博物館古文書を読む会の『遊心』第9号で「千僧池は中布施屋池(瑞ヶ池)の調整池」である、と繰り返している(p.10)。
これに対して、吉川潤氏は『地域研究いたみ』第46号で、(籠池と今池という)二つの池があった千僧村は、用水には今池を利用し、大鹿村の尼ヶ池、武庫川からの昆陽井からも水を得ており、農業用に複数の水源を確保していた、と述べる(p.108)。
この二つの解釈事例から推察されるのは、村落間の水論のために絵地図が作成されたのであろう経緯と、各村落の位相ないしは序列である。伊丹市立博物館が平成元年3月に発行した『聞き書き伊丹のくらし~明治・大正・昭和~』によると、かつては千僧から28名が農会に出て、村三役の「池年寄」がお酒のやり取りで水利管理のため調整を図っていたようである(pp.189-191)。
なお、旧博物館の一階の壁に掲げてあった昭和31年の航空写真では、千僧今池は絵図に近い原型をとどめていた【写真c】。昭和38年から45年にかけて埋め立てられたという今池は、平成2年3月に『伊丹昭和史』を著した安達文昭氏によれば、およそ7万4千平方メートル(約2万2千坪)だったという(p.141)。
天神社の境内には、「昭和四十四年参月吉日」と刻まれた千僧土地改良区による今池譲渡の記念碑がある【写真d】。同じ記念碑が、千僧公民館と真言宗御室派の安楽院と浄土真宗本願寺派の西善寺にも所在し、計4基となる。
「記念碑
水鳥の羽音高く
今池は消ゆ
千僧今池は遠く千二百年の昔に僧行基の築造したあまたの池の一つで
ある この池によつて地区農家の人々は用水溜池として祖先の遺産を
継承し護持し来つたいま時代の変遷によつてこの池を伊丹市に譲渡
割愛し市発展の原動たる行政庁建設用地となりこの地区発展にも寄與
することとなつた 私たち千僧地区農家団体の土地改良区は祖先の
遺徳顕彰と報恩の行持の一滴として千僧地区内の社寺、公民館等に
遺徳賛仰の誠を捧げるため多額の寄附金を投出し永くのちの世まで
伝えんとす」
記念碑には、当時の譲渡物件は、千僧今池の内「壱万壱阡坪」で「金四億五阡万円也」と刻まれている。
令和4年10月5日に更新された伊丹市都市交通部みどり公園室公園課のホームページによると、令和2年6月に伊丹千僧土地改良区から灌漑用溜池である「今池(約10,600平方メートル)」が市に寄贈されたため、約三分の一を「今池緑地」公園として整備し、住所を「伊丹市千僧1丁目39番1」と定め、令和3年7月31日に開設した、とある【写真 e】。
3.往時の今池を忘れずに
以上、「今池」「(通称)千僧池」「千僧今池」そして「今池緑地」という呼称の変遷に見られるように、往時には「昆陽村大池」と呼ばれた昆陽池公園の如く、徐々に整備が進んでいくのであろう。ただ、従来あった「今池は消ゆ」ことに変わりはない。水鳥は羽音高く飛んだままなのだろうか。
千僧の官公庁や家々の街並みを歩く度に、のびやかに田畑が広がっていた農村の光景を想像し、かつては長靴形をしていた今池の畔で、人々が懸命に農作業に勤しみつつ、祈り、祭り、笑い、苦楽を共にしていた日々を忘れないでいたいと思っている。
。。。。。。。。。
【主要参考文献】
・伊丹市史編纂室『伊丹市史編纂資料目録集14』「千僧土地改良区文書」(昭和43年3月)
・伊丹市『町名変更に伴う地番変更調書(イ・ロ)千僧』(昭和47年)
・伊丹市「今池緑地」(令和4年10月5日更新)
(https://www.city.itami.lg.jp/SOSIKI/TOSHIKOTU/KOUEN/oashisu/23108.html)
・足立繁「千僧小字の研究」伊丹市文化財ボランティアの会『旧地名の案内板その5千僧』
(http://bunkazai.hustle.ne.jp/kyutimei/kyutimei_5.html)
(http://bunkazai.hustle.ne.jp/kyutimei/kyutimei_photo/aza_senzo.pdf)
以 上
……………
上記の拙文を作成するに当たり、2018年9月28日の伊丹市転入以来、5年ぐらいかけて暇を見てはコツコツと集めてきた資料は、以下の通りです。紙面の都合上、割愛しましたので、ここに付記させていただきます。
《参考資料》(発行年順:資料の公的性格から西暦表記の文献も元号に統一)
【伊丹市】
・伊丹市史編纂室「千僧土地改良区文書」『伊丹市史編纂資料目録集14』(昭和43年3月)
・伊丹市史編纂専門委員会『伊丹市史 第4巻 史料編1』(昭和43年3月1日)
・伊丹市史編纂専門委員会『伊丹市史 第3巻』(昭和47年3月31日)
・伊丹市『町名変更に伴う地番変更調書(イ・ロ)千僧』(昭和47年)
・伊丹市史編纂室『伊丹史話』(昭和47年12月/昭和51年6月第二刷)
・伊丹市史編纂専門委員会『伊丹市史 第7巻』(昭和48年3月31日)
・伊丹地方史学会『伊丹史学』創刊号(昭和49年9月)
・伊丹市都市景観形成基礎調査報告書『伊丹:まちの歴史と景観』(昭和59年3月)
・伊丹市『町名変更旧新・新旧地番対照簿 行基町1~3丁目/若菱町6丁目地区』(平成8年11月5日実施)
・伊丹市「今池緑地」(令和4年10月5日更新)
(https://www.city.itami.lg.jp/SOSIKI/TOSHIKOTU/KOUEN/oashisu/23108.html)
【伊丹市立博物館】
・『解説資料第27号:行基と昆陽池』(昭和63年10月30日)
・『聞き書き 伊丹のくらし~明治・大正・昭和~』(平成元年3月31日)
・田原孝平「摂津国川辺郡山本里における行基の造池・造溝等について」『地域研究いたみ』第23号(平成6年3月)
・田原孝平「伊丹地名考」古文書を読む会『遊心』第9号(平成9年12月)
・伊丹市立博物館友の会『調査報告第1号:伊丹の寺院』(平成10年9月15日)
・『むかしの道ガイドブック20:西国街道その5~伊丹市から西宮市まで~』(平成19年9月)
・明尾圭造「往還筋における病人への対応について-三条村・新田中野村・千僧村の事例をもとに-」『地域研究いたみ』第35号(平成18年3月)
・『夏季企画展:絵図で旅する伊丹のまち』(平成20年7月5日-9月21日)
・伊丹市立博物館友の会『伊丹の神社調査・2:神社に見るいろいろな石造物-阪神・淡路大震災をこえて形や刻銘の語るもの-』(平成21年3月1日)
・大黒恵理「史料調査報告:千僧地区史料調査の概要」『地域研究いたみ』第44号(平成27年3月)
・亀田博/伊丹市立博物館「千僧天神社祭礼写真」『地域研究いたみ』第44号(平成27年3月)
・大国正美「近世における千僧村・安楽院の復興と村」『地域研究いたみ』第46号(平成29年3月)
・吉川潤「平成28年度春季テーマ展:旧村シリーズ千僧~村からみた伊丹市の誕生と発展」『地域研究いたみ』第46号(平成29年3月)
・『春季テーマ展解説資料:旧村シリーズ第12弾 千僧~村からみた伊丹市の誕生と発展~』(日付不明)
・『解説資料第76号:夏季企画展-地域資料の魅力~博物館調査活動から~』(令和元年7月)
【伊丹市文化財保存協会】
『絲海』
・第1号(昭和48年1月1日)「伊丹の地名について」(p.1)
・第14号(平成2年5月25日)安達文昭「伊丹の地名②条里遺構と“坪”地名-行基ゆかりの町名も」(pp.4-5)
・第17号(平成5年5月28日)安達文昭「伊丹の地名④西国街道は地名の宝庫-「辻村」「千僧」「昆陽」など多彩」(p.8)
・第20号(平成8年6月20日)田原孝平「行基菩薩の造池・造溝等について」(pp.7-10)
・第24号(平成12年6月25日)安達文昭「いたみ歴史ウォッチング-市制施行から六十年」(pp.3-5)
・第40号(平成27年6月25日)亀田浩「博物館のテーマ展-「旧村シリーズ」について」(pp.13-14)
・第41号(平成28年6月25日)亀田浩「伊丹市立博物館-常設展の見どころ紹介」(pp.12-13)
【伊丹市文化財ボランティアの会】
・足立繁「千僧小字の研究」伊丹市文化財ボランティアの会『旧地名の案内板その5千僧』
(http://bunkazai.hustle.ne.jp/kyutimei/kyutimei_5.html)
(http://bunkazai.hustle.ne.jp/kyutimei/kyutimei_photo/aza_senzo.pdf)
・伊丹市文化財ボランティアの会『火曜会通信』第95号(令和4年11月1日)(p.2)
【市立伊丹ミュージアム】
・『昭和レトロ図鑑-おもちゃとふりかえる伊丹の記憶-』(令和4年9月27日)
・『伊丹市の歴史』(令和5年3月31日)
【その他】
・亀田隆之「行基の伊丹地方に於ける活躍」(昭和48年7月29日 伊丹市立文化会館での講演)『伊丹史学』創刊号(pp.5-20)
・安達文昭『伊丹昭和史』近代文藝社(平成2年3月1日)
・安達文昭「地名が語る伊丹の歴史(Ⅱ)-それ以外の旧村地帯-」小西新太郎『伊丹歴史探訪』小西酒造株式会社(平成12年5月15日)
・大国正美『古地図で見る阪神間の地名』神戸新聞総合出版センター(平成17年8月20日)
(以 上)
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伊丹について学ぶと、岐阜由来の両系祖父母から続く故郷名古屋の歴史が俄然、精彩を帯び、新たに気づかされることが多々ある。
また、主人が懐かしそうに繰り返し話していた母方の里である岡山の美作についても、最近、ひょんなきっかけで若い院生君に教わることが増えた。
自分の国なのに、大阪や京都についても知らないことが次々出て来て、学びに終わりはない。
これまで、海外を含めてさまざまな土地に暮らしてきたが、その範囲内で瞥見の限り、伊丹が最も史的資料に富み、過去によく研究されてきた上、地元の人々による歴史学習も活発である。(但し、その保存状態については検討課題、というものも散見される。)
その理由としては、次の二点が考えられよう。
(1)戦後、急速に景観が変わっていく伊丹について、歴史学の専門家が過去の記録を正確に残し、次世代に伝えていく作業を進めなければならないという危機感や切迫感が基底にあった。(だからこそ、当初は資料館のつもりだったのが、市の先見の明によって、昭和40年代中頃、資料保存と研究を継続できるように、博物館として立派な建物を建設してくださった、と理解している。)
(2)平成7年(1995年)1月17日に発生した阪神淡路大震災により、倒壊された家屋や旧家のお蔵に残る古文書が破棄されてしまうことを恐れた方が、震災翌日に早速、メガホンを持って「処分しないでください!」と呼び掛けて回り、何とか救済された資料も少なくなかった、と仄聞している。
そのような背景のもとに調査研究と著述が積み重ねられた過去の発行物は、紙質もさることながら、行間から滲み出てくる重厚感に溢れている。
ところで、生き生きと活発に国が発展していった戦後の昭和生まれの私にとっては、平成生まれであろう今の若い人が、令和の今、平然と昭和を「レトロ」呼ばわりすることに違和感を覚える。こちらはまだ年齢上も現役世代で、働いている人も少なくないのに、「勝手にレトロ扱いするな!発想が貧困だ。責任者を出せ!」と言いたいところではある。
主人や私が二十代や三十代だった頃、まだ明治生まれの祖父母達が健在だった。もしも「明治ってレトロでしたよね?」等と口走ろうものなら、途端に雷が落ちてきただろう。第一、昭和の子は、そんな失礼なことを間違っても祖父母に向かって口走ったりはしなかった。
但し、「大正ロマン」という表現がある。特に女子学生が卒業式に着る袴や渋い着物を指して、好意的に評価したものであった。事実、私自身が大学の卒業式に着た母親譲りの着物と袴は、親子二代でお世話になった大学でもあり、愛知県一宮市にお住まいの近代文学の教授から「大正ロマンですね」と褒められた。昭和60年代のことである。
今の市立図書館は、小ぎれいではあるが、過去の膨大な文献資料を開架書棚で目にすることができるとは限らない。検索するにしても、そもそも、そういう資料が存在するのかどうかもわからない。普段、利用しなくても何となく目に入っている、という状態を、小さい頃から身に着けておかなければならない、と思う。デジタル時代だからこそ余計に、瞬時に情報だけが目の前に現れる資料にのみ、囚われてはならない、と感じる。
また、上記リストに挙げたミュージアムから発行された令和の印刷物は、コンパクトにまとまってはいるが、どこか気迫に欠けており、読者を落胆させること甚だしい。多分、長らく暮らしてこられた旧家の方々にとっては、既知情報ばかりで、(何か新しい展開はないのか?)という感想を持たれないとも限らないのでは、と思われる。
その原因を考えてみると、愚見では、お金を配って若者や子供達をやたら甘やかした末、ユートピアを夢想させる無責任な「未来志向」イデオロギーにあるのではないだろうか。
過去の蓄積の上に今があり、現在の足元をしっかりと見つめてこそ、将来を手堅く希求することもできように、昨今の劣化したメディアや大学教育の巧妙な誘導には安易に乗せられてなるものぞ、と現状を懸念する。
(2023年6月29日記)
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2023年9月15日追記:
(https://twitter.com/ituna4011/status/1700816159317336163)
Lily2@ituna4011
最近では、
大正モダンに昭和レトロ
が流行りのようだが、 姫路市の美術館では、2007年に
大正レトロ昭和モダン
と題する印刷物を発行した模様。 私の感覚では、
大正ロマン
でしかないのだが。
7:19 PM · Sep 10, 2023
(2023年9月15日転載終)