(https://x.com/ituna4011/status/1898699057973076013)
Lily2@ituna4011
読みました。一日一日を大切にお過ごしくださいね。
8:35 PM · Mar 9, 2025
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(https://x.com/ituna4011/status/1898991412785684759)
Lily2@ituna4011
今から少しずつ備えていきましょうね。
3:56 PM · Mar 10, 2025
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(https://x.com/ituna4011/status/1899250427230879904)
Lily2@ituna4011
そうならないように、少しずつ。
9:06 AM · Mar 11, 2025
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(2025年3月11日転載終)
…………..
2025年3月12日追記:
上記は、埼玉県にお住いの視覚障害者ご夫婦で、ご主人の方が若年性PDだという、私より一つ下の「ちゃつみ」さんとのツィッター(X)のやり取りである。
面識はなく、主にツィッター上の交流のみである。だが、家族背景からPDの進行状況、普段の暮らしぶりまで透けて見えるような気がする。当事者が、経験を事実として綴り、記述を積み重ねていくことの効用は大きい。
2024年7月18日「若PD夫を介護中の奥さん」
(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=8080&action)
2024年9月18日「ピア・カウンセリング」
(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=8688&action)
うちの主人が2019年12月21日に宝塚市立病院へ搬送入院し、救急科のお医者さんから、「もう終末期に入っていますよ。週明けまで持つかどうか」と宣告されて、初めて目が覚めた私だった。その頃、会社や親戚への連絡や、引っ越してきたばかりで何もわからないのに、葬儀等の手順等、どうしたらいいのかと途方に暮れていた。(直葬にするのか?)(長患いだったから、私一人で済ませても誰からも責められない?)(今後の自分の生活をどうしよう?)等、次々と難題が押し寄せてくるような気分で、一人悶々としていた。
その頃、夜中に眠れずスマホを検索していたら「ちゃつみ」さんのブログと遭遇し、主人を見送った2020年4月以降、ツィッターで繋がることになったのだ。
ご主人のご両親もPDで、しかも癌を併発されていたとのこと。盲学校で知り合ったご夫婦だが、同居だったので舅姑の介護で長年過ごし、見送ってようやくほっとできるかと思ったところへ、今度は盲学校ではアスリートだったご主人が発症した、というのである。
彼女は健気だが、実は病状や病歴としては深刻だ。恐らくは、若年性の家族性PDだろう。しかも、彼女は弱視に難聴、ご主人は全盲ということから、日常生活が不自由でもある。
必ずしも彼女のせいでこのような境遇になったわけではないのに、どうやらブログ記事によれば、周囲の環境が彼女に責任や負担を負わせて平気でいるらしいのだ。(それは、私も似たようなものだったので、よくわかる。「エビデンス」抜きで言うなら、そういう身勝手で冷たい家庭環境だから、最も敏感な人に神経難病が出るのだ!)
若年性PDの進行度としては、我が家より何年も後に発症していたのに、症状の悪化が早い。かなり前から介護職の仕事が続けられなくなって退職した後は、主に自宅で過ごし、デイサービスのお世話になっていたらしい。そして、数年前からDBSも入れていた。盲目のために鉄道のホームから落ちたことが二度ほどあり、家の中でも「奇行」と「ちゃつみ」さん自身が呼ぶような行動異常が頻発だったようだ。そして、最近では胃ろうの話になった。薬が飲めなくなり、一気に療養型病棟の話が出ているのである。
(我が家は、阪大病院の女性主治医が「DBSは、皆さんやっていますよ」と、いい加減な調子で一方的に話を進めた。それで、阪大病院での手術説明を二人で聴きに行ったが、二人ともそれぞれに質問をした上で、主人が拒否した。結果的に、精神症状の悪化という副作用を主治医が認め損なっていたので、それで正解だったのだ。)
「ちゃつみ」さん自身、按摩とマッサージの仕事で、日中は依頼に応じて他の家を訪問している。趣味は、昭和時代に流行していた人気タレント歌手の追っかけのようなもので、彼女なりに気晴らしとしているようだ。とはいえ、外向きに見せている姿は積極的なようであっても、精神的には心労続き。一度は妊娠したものの、あっけなく流産。どうしてどうして….という気持ちを引きずったまま、長い間、ぐっと頑張って来られたのだ。
地方なので、同居した以上は嫁が介護するのは当然、という風潮が残っているようで、葬儀の時になると突然、血族が表に出て来て、いかにも自分達がずっと世話をしてきた、みたいに振舞ったらしい。そのような恨みつらみも、「ちゃつみ」さんにはある。
我が家以上に負担なのが、やはり視覚障害ということだろう。彼女が弱視なのも、お母さんが陣痛促進剤を使ったためだとのようで、お姉さんが一人いるのに、普段はほったらかしにされているらしい。
家系の問題は、「最低でも三世代は遡らなければならない」というのが私の持論だが、難病患者がいても何とか助け合って穏やかに維持されている家もあれば、このような事例もある。全ては、心掛け一つ、考え方と実行一つで、大きく変わり得るはずなのに、である。
私としては、過去の自分に対する心理的応援も兼ねて、「ちゃつみ」さんを遠隔から励ましている。そうすることで、少しでも主人と生活を共にした自分自身の歩みにまとまりをつけていきたいと願っているのだ。
。。。。。。。。。。
主人がいなくなって五年目の今である。
昨春は、主人と約束した二つ目の学位を授与された後、二週間程して五年祭をした。
その後一年ぐらいは、毎月のゼミ参加や研究論文の緊張から解き放たれて、リラックスしようと思った。視野を広げるためのモニター活動等を通して、新しく学んだり、知り合いができたりもした。博物館や資料館へ展示を見に行ったり、講座を受けたりして、見識を広めることもできた。
秋には、修論を基にした学会のポスター発表も一つできた。医療系学会にも新たに入会して、一通りのeラーニングを済ませた。
気持ちの整理には時間がかかるので、無理をせず、荷物の整理を少しずつ進めながら、思い出を一つ一つ振り返り、そこに新たな気づきを塗り重ねつつ、自分なりの歩みを作っていくような時間を過ごしてきた。
振り返ってみると、一人でやってきた割には、9割以上うまく運んでいる。偶然にしては出来過ぎな程、日程調整や時間等、(無理じゃないかなぁ)と心配していたら、急遽、先方の事情により都合よく間に合ったり、突然、うれしい頼まれごとが飛び込んできたり、と驚いている。
本当は、病気なんかなく、二人で地味でも落ち着いた通常の生活ができることが一番の幸せだったはずだ。今でも、あり得ないことなのに夢想することがある。例えば、主人と家具を買い揃えたり、「ね、あそこで食べようよ!」「うん、いいよ」と言いながら、おいしそうなレストランに二人で入ったりという姿を、まだ想像しているのだ。自宅に戻れば、私の作った料理を二人で食べながら、その日一日あったことを気儘に喋り、話を聞いてもらえるだけで大満足、というような至極単純な暮らしが、今後も実現するかのように期待することさえある。
だが、現実を思えば、あのまま医療技術を駆使して延命したとしても、果たして何ができたのだろうか?
2019年12月下旬から続いたコロナ感染症問題で、医療介護施設はどこも緊張と制限で大変だった。我が家は、ギリギリ直前に宝塚市立病院に救急搬送できたから助かったようなものだ。第一に、今後の最悪の予測を医師が単刀直入に伝えてくださったことにより、動揺しつつ、揺れ動く葛藤を抱えながらも、私は少しずつ準備を進めていくことができた。また、良くも悪くもコロナ騒動のおかげで、病院で主人を預かってもらっている間に、私自身が休む時間を確保することができた。
。。。。。。。。。
五年前の今頃、主人は「家に帰りたい!」と何度も叫び続けて、担当医や看護師さんらを困らせていた。そうこうするうちに、ハタと思いついたのであろう、紙をもらってペンを借りて、八枚も手紙を書き始めたのだった。
それは、生きる一縷の望みを賭けた、切ない程の渇望だった。
自分の母親の誕生日が二度、隅っこに書かれていた。住所と名前が表紙代わりの一枚目に書いてあり、「ここをホチキスで留める」「ここに切手を貼る」「今日の内に確実に届くようにお願い致します」と指示を書き、端の方に「これが読めたら奇跡。でも一生懸命書きました」等と、ぐちゃぐちゃながらも紙一杯に書き連ねてあったのだった。
内容としては、「一刻も早く、この病院から出たい」「自分のこれまでの実績を見れば、お金の心配は不要である」「自宅に戻って食事療法をすれば、あと十年ぐらいは生きられるだろう」「自分の存在のためにやりたいことができないならば、ヘルパーさんを雇うぐらいの経済的余裕はある」「一緒に二人で暮らした場合の生活費の計算式」「食費、電気代、そしておむつ代の計算」「だから大丈夫。充分豊かに暮らせる」「もし一緒に暮らすことが嫌ならば、田舎の介護施設に入るから、二三ヶ月かけて一緒に探してほしい」等、切々と綴られていた。そして、私が普段作っていた食事メニューもいろいろと書いてあり、「こういうことを考えている時が一番楽しい」「とりあえず、これからも生きて行くと決めたので」とも書いてあった。
これは、絶筆ではあっても、遺書ではなかった。これまでの御礼や言い残すことも、一切記されてはいなかった。
ただ、本心から自分が願っていることを、妻にだけは伝えたい、あわよくば実行してもらいたい、という懇願のみだったのだ。
この手紙の一部は、昨秋の学会ポスター発表でも写真を表示した。何と、男性患者さんからは「これ、自分と合っている気がする」とまで言われたのだ。恐らく、医学者によるPD研究は、このような患者心理の考察が盲点だったのではなかろうか?
。。。。。。。。。
だが、履歴書から抜粋してみると、2020年4月に主人が亡くなった後の私は、それなりに人生を継続しながら新たに構築していることが少なくない。
主人が存命中だったら、時間的、精神的な制約から、そもそも物理的に不可能だったことが大半だ。そして、恐らくは主人もそばで見ていて「いいよ、そのままやってごらんよ。僕、ちゃんと見ているからさ。間違っていたら教えてあげるよ」と、生前のように言ってくれるだろうと確信している。
そもそも、神経難病患者の延命は、何を目的とするのか?生き延びたとして、何を成し遂げたいのか?
共に暮らす健常者の家族の人生を押し潰しながら延命治療をすることは、果たして誰のためなのか?
このように、生命倫理的な哲学的考察がまるで抜けたまま、ひたすら薬物投与や小手先の技術で、少しでも寿命を延ばしていくことが「PD治療」とされている現状なのである。
。。。。。。。。。。
【学歴】
2020年10月 放送大学大学院修士科目生入学(生活健康科学プログラム)
2022年4月 放送大学大学院文化科学研究科修士全科生入学(生活健康科学プログラム)
2024年3月 放送大学大学院文化科学研究科修士全科生修了(生活健康科学プログラム)(学術修士)
2024年4月 放送大学教養学部科目履修生入学(6科目+5科目)
2024年4月 放送大学大学院文化科学研究科修士選科生入学(2科目+2科目)
2025年4月 放送大学教養学部科目履修生入学(4科目)
2025年4月 放送大学大学院文化科学研究科修士選科生入学(1科目)
【学会活動】
・『第5回JPC日本パーキンソン病コングレス(The 5th Japan Parkinson Congress)プログラム・抄録集』
主催:日本パーキンソン病コングレス(JPC)後援:一般社団法人 全国パーキンソン病友の会(2024年10月13日)
「配偶者から見た若年性パーキンソン病患者に伴う諸問題-プラミペキソールの副作用としての衝動制御障害を中心に-」p.33.
・2024年10月13日 第5回JPC日本パーキンソン病コングレス・ポスター発表
「配偶者から見た若年性パーキンソン病患者に伴う諸問題-プラミペキソールの副作用としての衝動制御障害を中心に-」(於:東京都港区・浜松町コンベンション)
【研究発表】
・伊丹市立博物館友の会例会・研究発表「神戸におけるマレー語学習について-戦前戦中を中心に-」(2021年9月25日)
・伊丹博物館友の会例会・研究発表「相互理解か宗教的不寛容か?マレーシアのイバン語訳聖書を巡る過去の事件とその余波」(2022年8月27日)
・伊丹市立博物館友の会『友の会だより』令和4年(2022年)2月26日 第67号「神戸における戦前戦中のマレー語学習について」pp.13-15.
【検定試験】
・2021年2月 一般社団法人日本漢方養生学協会 第12回薬膳・漢方試験合格
・2021年11月 第1回茶道文化検定Web版3級合格
・2022年11月 第15回適塾講座「洪庵の取り組んだ薬学―その発展」課程修了
・2023年1月 日本園芸協会「薬草ガーデン講座」の「薬草コーディネーター」資格認定
・2024年11月 社団法人 全日本きもの振興会 きもの文化検定5級合格(認定番号:249500066)
【市民委員】
・伊丹市教育委員会 義務教育諸学校等教科用図書選定委員会委員(令和2年度(2020年度)5月29日委嘱)
・伊丹市保健医療推進協議会委員(令和5(2023)年10月1日~令和7(2025)年9月30日)令和5年9月30日付藤原保幸・伊丹市長委嘱(伊健保健第884号)
・伊丹市保健医療推進協議会「食育推進部会」専門委員(令和6(2024)年10月18日~令和7(2025)年9月30日)藤原保幸・伊丹市長委嘱(伊健保健第817-②号)
【モニター活動】
・伊丹市上下水道インターネットモニター(令和4(2022)年度8月・11月)
・伊丹市上下水道インターネットモニター(令和5(2023)年度8月・11月)
・伊丹市上下水道インターネットモニター(令和6(2024)年度8月・11月)
・防衛モニター(令和6(2024)年4月1日~令和8(2026)年3月31日)陸上自衛隊中部方面総監証明書第6-178号(令和6年6月21日 姫路駐屯地にて委嘱式)
・公益社団法人 近畿地区不動産公正取引協議会 消費者モニター(令和6(2024)年4月1日~令和7(2025)年3月31日)
・伊丹市交通局市バス巡回モニター(2024年12月-2025年2月)
【著述】
・「全国パーキンソン病友の会 会報『きずな』大阪府支部だより」No.114(2020年7月)投稿「若年性パーキンソン病患者の友とご家族へ」(https://www.osaka-pda.com/)pp.42-43.
・産経新聞社『月刊正論』令和5年(2023年)8月号 日本工業新聞社「編集者へ編集者から」欄 p.298.
・放送大学大阪学習センター『みおつくし』2024年4月No.93「卒業・修了生からの喜びの声」p.9.
・伊丹市立博物館友の会『友の会だより』令和2年(2020年)10月24日 第63号「新入会員紹介」p.3.
・伊丹市立博物館友の会『友の会だより』令和3年(2021年)2月27日 第64号「むかしのくらし」動画撮影秘話(その2)pp.15-16.
・伊丹市立博物館友の会『友の会だより』令和3年(2021年)10月30日 第66号「伊丹と島本-むかしのくらし展を機縁として」pp.10-12.
・伊丹博物館友の会(改称)『友の会だより』令和4年(2022年)6月25日 第68号「護国神社の英霊慰霊祭から祝日の改称を再考する」pp.13-14.
・伊丹博物館友の会『友の会だより』令和4年(2022年)10月29日 第69号「二つの石の話:行基石と鯉石」pp.13-14.
・伊丹博物館友の会『友の会だより』令和5年(2023年)2月25日 第70号「なんでも発表:相互理解か宗教的不寛容か?」p.14.
・伊丹博物館友の会『友の会だより』令和5年(2023年)6月24日 第71号「一住民から見た千僧今池の変遷」pp.16-18.
・伊丹博物館友の会『友の会だより』令和5年(2023年)9月23日 第72号「千僧の旧地名や古絵図そして子供神輿」pp.18-20.
【主婦向け冊子の掲載投稿】
・「日々勉強!」『ステーションCO・OP』 2020年6月号 通巻380号p.37.
・「夢の中で一生懸命」『ステーションCO・OP』 2021年4月号 通巻390号p.67.
・「ひとりごと」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2021年5月号 No.395, p.4.
・「ファミリー川柳」『ステーションCO・OP』 2021年7月号 通巻393号p.37.
・「犯人は誰?」『ステーションCO・OP』 2021年9月号 通巻395号p.67.
・「学び続けること。」『ステーションCO・OP』 2021年12月号 通巻398号p.37.
・「今年いちばん!心に残ったできごと」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2021年12月号 No.402, p.2.
・「祖父のお豆で豆まきを。」『ステーションCO・OP』 2022年2月号 通巻400号p.66.
・「効果てきめん!」『ステーションCO・OP』 2022年4月号 通巻402号p.40.
・「コツコツがんばります。」『ステーションCO・OP』 2022年5月号 通巻403号p.40.
・「伝言&いろいろ」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2022年6月号 No.408, p.4.
・「先生への感謝。」『ステーションCO・OP』 2022年7月号 通巻405号p.38.
・「♪毎日を元気に!私の健康法♪」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2022年8月号 No.410, p.2.
・「長い間、勘違いしていたこと」『ステーションCO・OP』 2022年10月号 通巻408号p.38.
・「おしゃれな父の思い出」『ステーションCO・OP』 2022年12月号 通巻410号p.40.
・「青汁の手軽な飲み方&アレンジ」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2022年12月号 No.414, p.3.
・「家族への手紙。子どものころの、わが家の暖房にまつわる思い出」編-「古き良き時代。」『ステーションCO・OP』 2023年2月号 通巻412号p.70.
・「ひとりごと」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2023年3月号 No.417, p.4.
・「家族への手紙。勉強机にまつわる思い出」編-「一緒に歩んだ机。」『ステーションCO・OP』 2023年4月号 通巻414号p.71.
・「ひとりごと」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2023年7月号 No.421, p.4.
・「教えてください」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2023年11月号 No.425, p.3.
・「ひとりごと」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2024年2月号 No.428, p.4.
・「ひとりごと」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2024年4月号 No.430, p.4.
・「家族への手紙。夏の夕立とカミナリにまつわる思い出」編-「お姉ちゃんの機転。」『ステーションCO・OP』 2024年8月号 通巻430号p.44.
・「伝言&いろいろ」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2024年10月号 No.436, p.4.
・「ひとりごと」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2025年3月号 No.441, p.4.
(2025年3月12日時点 抜粋終)
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前置きがすっかり長くなってしまったが、2025年2月25日の夕刻、主人が短期入所(ショートステイ)していた伊丹市の西北にある荻野「憩」にふらっと立ち寄った。滅多に乗らない路線の市バスに、ふと思い立って乗ってみたのだ。市バスモニターの義務の一つでもあった。
上述の交通局市バス巡回モニターは、広報伊丹の紙面で見つけて応募した。これは二度目だった。
実は、2019年8月から10月にかけて、伊丹市交通局の市バスモニターを務めていた。広報伊丹の紙面から葉書で応募したもので、投函して二週間後にお電話があった。男の人が「きれいな字で….」とまで言ってくださったことを覚えている。
まだ主人が倒れる前だったが、会社の夏休みが始まった頃で、「これから会社に行って契約をやり直して来る!」と飛び出そうとしたり、「僕の代わりに会社で働いてくれないか?」と急にごね出したりして、こちらとしては気が気ではない日々だった。だからこそ、何か負担にならない程度の公的な課題を見つけておかなければ、自分も潰れてしまいそうな気分だったのだ。
結果的に、その翌月半ばには高熱が十日程続いた後に、自宅で倒れていた主人を私が発見。近畿中央病院へ救急搬送され、一ヶ月と一週間、入院することになった。
病院への頻繁なお見舞いには、病院前と自宅前に停留所がある市バス路線を活用することで、タイミングよくモニター活動も兼ねることができ、まさに一石二鳥であった。そして、自分達のような社会負担を増やす傍迷惑な存在にも、世間に対して何らかの小さなプラスを付与することができるならば、という心理的負荷の軽減につながったのである。
結局のところ、このような次第で、伊丹市交通局市バス巡回モニターは、2019年度秋と2024年度冬の二度、務めることとなった。即ち、社会面ではコロナ前とコロナ後、私的には主人の存命中と逝去後という5年の年月を経た比較対照である。
モニターは、各自インターネット上に設置された自分用のフォーマットに、市バスを利用した際の乗車停留所名と時刻および運転手名(現在では名前ではなく、番号式に変更)を入力し、運転状況や態度を選択肢から選んで、自由意見を述べる簡単なものである。
但し、最低でも20回はコメントするようにという条件付きだ。それで、前回のような必要性に迫られた市バス利用がなくなっていた今回は、2月末までに、無理矢理にでも20回以上の乗車件数にする必要があった。
これがなかなか厄介で、冬場ならば駅まで平気で歩いている私であっても、外出の用件がある間は極力、自宅前から市バスに乗るように努力した。しかし、引越し直後からコロナ前までの頃は、比較的バスの本数が多くて便利だと喜んでいたのに、コロナを機に、いつの間にか経営上からもバスの本数が減ってしまい、しかも「高齢者に優しく」対応する運転手さんだと、時刻表から10分以上は平気で遅れて到着するようになっていた。バスが遅れると、電車にも乗り遅れる。最近では、電車さえ人身事故等の多発で何が起きるかわからない。というわけで、外出の用件に間に合うかどうか気が気ではないという、従来にはない心理的負担が追加されていることに気づいた。
他の路線を試そうにも、市バス停留所の時刻表がほとんど真っ白という場所が急に増えた。つまり、乗客が減ったので路線廃止直前という停留所なのだろう。
。。。。。。。。。
話は長くなったが、「介護施設 in 荻野」にふらりと立ち寄ったのも、結局は市バス乗車の回数を増やすモニター意識からであった。
阪急伊丹駅のバスターミナルで、主人亡き後は一度も使わなかった停留所に並び、2月25日の夕方5時20分、鶴田団地行きに乗り込んだ。
この路線は、清水橋から春日丘を経由して、大鹿東口、緑ヶ丘小学校前、瑞穂小学校前、緑ヶ丘2丁目と、住宅街の細い道路をのろのろと走っていく。そして、陸上自衛隊の中部方面総監部前を通り過ぎ、瑞ヶ池まで来る。そこから田畑を潰して住宅地にした東野、大野という地区を経て、ようやく荻野に。数分先には市営住宅の鶴田団地に到着した。
実は、瑞ヶ池までは自宅から歩いて行ける。主人の入院中や逝去後も、しばらくの間、朝4時半頃に目が覚めて、今後を思索すべく、まだ薄暗い朝から歩き回っていた時期があった。また、総監部前には伊丹廃寺があり、主人と2019年6月頃、出かけたことがあった。「伊丹廃寺の考古学的調査は、今や自衛隊の敷地になってしまって不可能だ」と、残念な話を聞いたことがあるが、その伊丹駐屯地に総監部が置かれていて、昨年10月には記念式典が挙行された。防衛モニターとしてご招待を受けた私も、喜んで参列した。
ただ、東野や大野へは、主人の入所騒ぎがドタバタ劇で終わって6年目に入った今年、ようやく背景や状況が認識できた。2019年11月末に、主人の精神症候に私の疲労度や介護負担を悟った近所のケアマネさんが、私が依頼するより先に、入所を決めてくださったのだった。この時には、荻野がどういう所かも知らず、ただ言われるままに受け身で動いていた私だった。地理を確かめる余裕は全くなかった。
施設とはいえ、あくまでその時点では、私の疲労を軽減させるための「レスパイト入所」で、決して主人が納得したものではなかった。私とて、施設をいろいろと調査した上で決めたものではない。そもそも、「レスパイト」という言葉さえ知らなかった。
とにかく、2019年11月14日に市内の回復リハ病院を強制退院した後、主人は勝手に伊丹市内や尼崎市、大阪市等へと無断外出して徘徊を繰り返した。その挙げ句、宿泊したビジネス・ホテル内で転倒が続き、こちらとしても疲労困憊の極みだった。
もともと若い頃は会社でも評価が高く、家でも2015年頃までは、至極従順で素直で穏やかだった主人が、なぜそのような自己中心的な行動に出るようになったのか。「まだ歩ける」し「会社に行きたい」のに、「どうして自由にさせてくれないのか」「自分は自由に生きていきたい」「ユーリは規範意識が強いよね」という反抗心からだったようである。
救急隊員からは「早く施設に入れろ」と言われ、その年の夏に入院でお世話になった近畿中央病院の神経内科の女性主治医からも「緊急、緊急」と繰り返し忠告されていた。だが、本人の意識としては、「会社に戻る」「定年までは働きたい」「アパートを借りて料理したい」「自分が好きなように生きていきたい」の一点張り。そのような状態では最早ないと、客観的には誰もが認めるのに、PD患者の脳内意識では過去の経験が根強く残っていて、どれほど周囲が説得しても、なかなか現状を受容するに至らないのだ。
そういう経緯があった後、主人は嫌々ながらも入所することになった。12月1日の当日、午前10時に女性スタッフが車で迎えに来てくださったが、朝から30分以上もトイレにこもり、主人は激しく抵抗した。トイレのドア下から片手を出して「貯金通帳を渡せ」と執拗に求め、お金を銀行で下ろして、一人で遠くへ逃亡するつもりらしかった。
介護施設の職員さんは既に慣れているらしく、「20分間様子を見ましょう。20分が限度です」と言った。疲れ切っていた私は、「もういい加減にしなさい!皆さんにご迷惑ばかりかけて….」と叱るしかなかった。
とりあえず、20分後には女性職員さんの「ホテル行くよ」の誘導が効いて、ようやく主人はのろのろと出て来て、おとなしくワゴン車に乗り込んだらしい。その後ろ姿を見送っている私も、胸が張り裂けそうだった。まるで、「おうちにいたい!」と叫んでいる小さな子供を我意で無理やり「家から出て行きなさい」と引き離そうとしている、冷酷な親になったような気分だった。
一時間後、私は着替えと薬などの荷物一式を持って、その施設に向かうことになっていた。荻野の道路沿いにある三階建て鉄筋コンクリートのマンションを改造して「地域密着型」にした老人介護施設に、12月1日から19日まで主人はお世話になるはずだった。そこから、しばらく夫婦が離れて暮らすことによって私を休ませ、今後どうするかの計画を立てようというのが、ケアマネさんの意向だった。
言われた通り、私は市バスに乗って、そこへ到着した。ベテラン風の看護師さんが、労わるように私に応対してくださったのが印象的だった。薬の飲ませ方など、簡単な説明で手続きは終わった。
施設の写真を撮り、帰りは向かい側のバス停で建物を眺めながら、(とうとう、こんな所まで来ちゃった)と私は思った。引っ越してきて、荷物がまだ片付かないままに、次々といろんなことが起こり、とりあえずは目の前のことと多少の気晴らしをするだけで精一杯の日々だった。
主人自身は「大丈夫。まだできる」と言い続けるものの、本人の意向に沿うことは必ずしも妥当だとは思えなかった。それにしても、あまりにも急速に想像を超えて事が展開していったのだった。
だからこそ、大阪市内の遺族役員の女性が「あなた、よく頑張ったね。そんなにすぐに施設が見つかったなんて。大阪だと待機中ばかりで、なかなか世話してもらえないのよ」と電話で仰った時にでも、私自身は、なすすべもなく周囲の援助にただ縋るしかなく、どのように主人を宥め賺したらよいのか、皆目見当がつかない状態だった。
。。。。。。。。
施設では、まるで幼稚園のように温かな出迎えが演出されており、おやつ代やレクリエーション費も私が払った。季節の料理が出され、職員も基本的な訓練を受けている様子だった。だが、おむつ代やら何やら、請求書はかなり高額な印象を持った。(主人は後に、「だからビジネスホテルの方が安いでしょう?」とまで言った。但し、それは事実に違う。)
「持って来てほしい」とスマホのメールで主人から連絡のあったものや、スマホで主人がアマゾン注文し、自宅宛てに届いた細々としたパソコン器具類等は、私が施設まで届けに行ったこともあった。
また、数日経って落ち着いた頃、ケアマネさんが、高槻市にある高級老人ホームまで主人を車に乗せて、もう一人の介護施設案内の男性担当者と一緒に、入所見学に連れて行ってくださったようだ。(なぜ、そんな所まで?)(途中で交通事故にでも遭ったら、どうするのだろう?)と私は内心ハラハラしたが、結婚以来、高槻市の隣町に20年以上暮らしており、もともとは高槻市民でもあった主人のことなので、(夫婦別居を志向するなら、高槻に)とでも思ったのだろうか?
それにしても、尼崎にある会社の方はどうなるのだろう?なぜ、わざわざ兵庫県から大阪府の施設まで行かなければならないのだろうか?
主人の方は、ホテルのような高級施設に暮らすとしても「3000万円ぐらいなら、何とでもなるでしょう」と、ケアマネさんに吹聴したらしい。そのようにケアマネ記録には残っていたが、私としては、話が急に大きくなり、騙されているのではないかと不安が募った。後でパンフレットを見せてもらい、主人の話を聞く限りにおいて、「高いところは親切だ」「お金を払えば、いいサービスが受けられる」と意に介していない様子だった。
一方、ケアマネさんの方も心得ていて、「いくら何でもここにはしないやろ」と判断し、「御主人、人格が壊れていませんか?」とまで電話で伝えて来た。
実際のところ、入社以来、35年間の社内貯蓄や有価証券と幾つかの銀行預金などを総合すれば、主人は決して大法螺を吹いたわけではなかった。だが、高槻市の高級施設等に仮に入ったとしても、周囲との違和感にトラブルが増大したことだろう。また、徘徊が始まったら、さらに危険だ。それ以上に、地理的距離やら私への負担など、何を考えているのだろうかと疑念が募った。
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荻野「憩」に入所中、主人の兄がやって来て、「そんな施設に入ったら殺されるぞ」等、変なことを吹き込んだらしい。私の訴えを聞いて、主人の実家に説得に行かれた主人の父方の従兄弟だという叔父さんの話によると、義兄は介護施設内での職員の暴行や殺人等の事件をテレビの報道で知り、「介護は家族がするものだ」「施設は危ないところだ」と思い込んでいた、という。しかし、この施設は、実は兵庫県知事からも認証を受けている。何も知らなかった我々二人が、若くて綺麗なケアマネさんに「騙されて」強制入所された訳では、決してないのだ。
また、義兄が伊丹市内の近畿中央病院への外来診察の付き添いをする時にも、診察時間に大幅に遅れ、病院で注意されたらしい。すると、「ケアマネこそが病院の付き添いをすべきなのに、なんで自分にやらせるのか!」と怒鳴り込んだという。ある時には、病院まで警察が来たと看護師から聞いた。
そもそも、この義兄という人は、表向き最初は「弟の面倒を見てもいい」と肯定的なことをケアマネさんにも言っておきながら、自分の手落ちか認識不足でトラブルが発生すると、途端に周囲に暴言をまき散らし、他人のせいにする傾向があった。普段、私は年に4回のお墓参り以外に付き合っていなかったし、そもそも結婚当初から話が全く合わなかったので避けていた。ところが、実家の内部でどれほどの恐ろしい経験をしながら、末っ子の主人が大変肩身の狭い思いをして育ってきたのかということは、主人の人生の最終段階に至って、目の前で具現化されたのだった。
だからこそ、私は今でも引き摺った感情がある。主人のことが本当に可哀そうだった、と思う。
いつでも母方の田舎の祖父母や伯父ちゃんの話ばかり繰り返して、実家の話を全くしたことがなかった主人だった。小学校の頃から大学院まで学業成績も優等で、会社での評価も高かった。そして、私が一人残されても全く働かなくも済むように、私のためにこんなに社内貯蓄を積み立てておいて、いろいろと考えてくれていた主人だった。
「僕の所に来たら、思いっきり勉強ができるよ」「僕は勉強する女性が好きなんです」と、出会った初日から大真面目に言い、父にも真っ直ぐ言い、結婚後はそのまま実行してくれていた。そのおかげで、私はマレーシアのリサーチも、実家にいた独身時代より遥かに進んだし、いつでも研究発表を思い切って自由にさせてもらえた。こんな病気になって仕事が充分にできなくなった分、「ユーリはできるんだからさ、僕の代わりに、僕の分も勉強がんばれ~」と、いつでも言ってくれていた。
私にとっては勿体ないようないい夫だったのに、終盤で連続トラブルを起こして平気だった義兄の振舞を見る限り、実家では不健全かつ抑圧的な環境で育ったようだ。
「跡取り長男」というだけで同居の祖母に猫可愛がりされた義兄は、学校では勉強もスポーツもできず、虐められっ子。「おばあちゃん子」という以上に、何でも手を出す祖母から甘ったれのひ弱者にされたらしく、いつでも家の中で父親と大喧嘩ばかりだったようだ。そのため、身長が180センチ程あり、学業も友人関係も全く対照的だった次男の主人は、兄を刺激しないように家の中ではひたすら小さくなっていたようなのだ。
「クリスチャンにならなければ、兄貴は絶対に不良になっていた」とも主人から聞いたことがある。「え、不良?」
「兄貴はあの辺の汚い言葉使いをする」とも。「でも僕は、いつでも丁寧に喋るよ」
「僕はラジオを作った。兄貴が途中で放り投げたから、拾って集めて組み立てたよ」
そのような断片的な会話から、私はもっと早くから、主人の心情を深く察知すべきだったのだ、と今でも後悔する。そういう話になると、何ともしけた気がするので、私は主人との生活を第一に考えたく、実家の話は避けて通って来た。だが、その長年の家庭内の弊害が、この荻野の施設「憩」で如実に表出されたのだった。
職員は言った。「あのお兄さんが来たら、急に考えが変わって、『ここを出る!』の一点張りになってしまいました」。
その通り、12月12日の正午前、荷物をまとめることもせず、薬も置いたまま、主人は施設の玄関先でケアマネさんと大喧嘩。途中で、懸命の説得を振り切って、携帯で呼び出しておいたタクシーに飛び乗って施設を去ったという。ケアマネさんが、いくら「ここにいれば、食事も出るし、お風呂にも入れてもらえる。夜も一時間おきに見回りがあって、薬も飲ませてもらえる。個室だから好きなように過ごせる。リハビリ体操もある。自分一人で動くのは危険だから」等と強く繰り返し説得しても、「ここを出る!」と強硬に主張したらしいのだ。
その頃、疲れ切って自宅で寝転びながら本を読んでいた私は、息せき切って電話をかけて来たケアマネさんから事情を知らされ、途方に暮れるばかり。謝る以外に方法はなかった。タクシーで逃走されると、目的地はどこかわからない。居所から連絡がなければ、いざという時にこちらも困る。
ケアマネさんは、病状から万が一のことを非常に恐れていたようだった。責任を問われかねないからである。
翌日の昼頃、市バスに乗って荷物の引き取りに行った私に、職員さん達は事務的な応対のみだった。そこへ偶然にも主人から携帯電話がかかり、「今大阪にいる。動かなくなったから、薬持ってきて」と。
職員さん達の目の前で、私は「そんな勝手なことをするなら、もう私は何もしません」と答えた。本当は、PD患者が薬を切らすことは致命的なのだ。でも、こちらも振り回されて堪忍袋の緒が切れた感じだった。職員さん達は皆、黙ったままびっくりした表情だった。
結局は、事務室にまとめてあった荷物を受け取り、お礼を述べて、私は一人でとぼとぼと帰途に着いた。一体全体、どうしてこのような回路になってしまったのだろうか?
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見知らぬ土地で素人の自分が一人で判断するよりは、周囲の助けを借りようと思い、私は近医の花田クリニック、PD友の会大阪府支部の遺族役員さん、伊丹警察、ケアマネさん等に逐一報告をしていた。
中でも自宅から徒歩数分の花田先生には、何度も相談と報告に行き、いつでも温かく親身な応対をいただいた。
施設から主人が勝手に飛び出した時、義兄が「弟のそういう姿を見たくない、と母が言っていたから」という理由で施設から出るように促したらしい、と私が言うと、パソコンに向かってカルテを入力していた花田先生が、「なに?どういうことだ、それは….」と、私以上にわなわなと震え出し、「もう….こっちが言うことじゃないけど、そんなことを言うなら離婚だぞ!…..と、言いたいところだな」と。そして、「もう、そんな兄には最期まで会わすな。患者が混乱する。なんなら、患者接近を不可とする弁護士を紹介してもいい」とまで言われた。
もともと脳神経外科がご専門の花田先生は、そのような傍迷惑な家族親族の方面でも経験豊富なようで、「普段、患者と一緒に暮らして、診察についてくる家族ならばいいが、日本のどこかから突然現れて、治療を妨害する親戚や家族が出ることがある。なぜそういうことをするか、理由はさまざまだ。ある場合は、年金受給のためだ」等と話された後に、「奥さんも、大変なご主人を持ちましたねぇ」と言われた。
このような会話ができたのは、後にも先にも、花田先生だけだった。個人で開業している医師は、比較的自由に患者や付き添い人と話すことが出来るが、病院勤務だと、ましてや大学病院の勤務医だと、制約がかかってなかなか話せないこともあるだろう。
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荻野の介護施設に入ったからと言って、即座に会社から解雇を言い渡されたわけではない。それは、直属の上司からも私は電話で聞いていた。むしろ、「しばらく落ち着くまで入所してもらっていい。こちらとしては、定年退職までの給与等、考えてあるから、奥さんは何も心配することはない」という話だった。
ところが、「急にケアマネさんと大喧嘩して、施設から飛び出して連絡が取れない」「しかもそれは、主人の兄が退所をそそのかしたから、と職員から聞いている」との私の報告に、上司の方も驚愕そのもの、あまりのことに言葉もない、という反応だった。「居場所が不明ということは、正社員である以上、会社としても看過できない。万が一の時には、労災等の責任を負うことになる」からだ。
要するに、客観的に見れば、主人の必死の抵抗は、あまり意味がなかったのだ。むしろ、せっかくお世話してくださった方々の心証を悪くしただけだ。それとて、主人の兄が出て来て、全て中途半端なことをしてトラブルを作り出し、何でもこちらのせいにしたからであった。ケアマネさんは最初から義兄の言動不審を察知しており、私宛への電話で、「あのお兄さんって人、仕事は何をしていた人なんですか?なぜ、口を開けば奥さんの悪口ばかり言うんですか?」と尋ねてきたことさえあった。
ともかく、こういう状態だと、近畿中央病院でも、市内の回復リハ病院でも、荻野の介護施設でも、せっかく熱心に動いてくれた若いケアマネさんも、我が家の名前を聞いただけで、皆が「これ以上はできません」と、断ってきたのだった。本当に、あの時の苦境は思い出すだにゾッとする。花田先生が私以上に、私の代わりに怒りに満ちた態度を示してくださったことは、私にとっては深い慰めとなった。
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荻野へ長らくご無沙汰していた理由は、このような事情からである。
修論を形だけでも書き上げた2023年12月半ばまでは、思い出すだけでもドッと疲れ、二三日程、何もしたくなく、ゴロゴロするばかりの時間を過ごしていた。時間が無駄になるので、思い出したくもなかった。
主人の逝去通知と同時に、ケアマネ事務所と同様に荻野の施設にもお願いして、それぞれ介護記録を送っていただいた。記録は他人ながらも主人の性格や病状を淡々と過不足なく示しており、読むだけでも胸が詰まるような思いがした。
そして、この記録は加筆修正の上、症例報告として、修論にも掲載した。ケアマネ事務所は、回復リハ病院を退院した11月14日から宝塚市立病院に救急搬送されるまでの12月21日まで、荻野の施設は、12月1日から13日までと、いずれもごく短期間ではあったものの、そこで展開した、危機にまみれた濃厚かつ仰天するような経験は、今日ここにブログで書き記すことで、ようやく精神的には一段落つけた感がある。
こうして追悼の念を持ちながら、書ける気になった時にブログで思いのたけを綴ることは、私流の慰霊の旅だ。書くことで、経験が系統立てて整理できる。そして、感情も少しずつ落ち着いていく。
勉強や遠方へのお出かけや音楽会の記録等、実は全て主人との思い出の延長線上にあるものばかりだ。このような経験は、時間が経てば記憶が薄れていく類のものではない。むしろ、時間と共に逆に塗り重ねられて、強化し、深化していく。
それは、30代で最も意気揚々としていたはずの結婚後一年で、青天の霹靂のような進行性神経難病の診断を下され、学位取得の目標も、仕事の達成も、子供を持って家庭を築いていく過程も、全て志半ばで中絶せざるを得なかった、主人の生涯の儚さを思うからでもある。
父母の結婚が極めて強制的で、強引に無理強いした不自然なものであり、従って、実家の暮らしも最初から歪な状態であった。同居だった父方祖母の実家がしたことであるが、母方の側がいくら頼んでも、相手(つまり義父)の写真さえ見せられなかったという。「顔なんか見んでもいい。早く早く、そっちじゃない、こっちこっち」と、急かされるように嫁がされたという話は、主人の母から結婚後、会う度に毎度繰り返し聞かされていた。その上、住環境にも恵まれなかった。昭和30年と言えば、まだ大阪大空襲の影響が残っていたからでもある。
遠縁だからと言いなりになって、娘を「あんなところに」やってしまったことを、田舎の方は深く後悔したらしい。だからこそ、母親似だった主人は、小学校一年生の時から夏休み毎に、一人で「田舎に行く!」と言い、大阪での生活を乗り越える楽しみにしていたようだ。
主人は、大学の頃まで、大阪の実家とは全く環境の異なる、堅実な武家の流れを引く母方の田舎の祖父母に心底なついていた。そこで受け継いだ薫陶を軸に、いつしか意志強固に高い人生目標を掲げて、一心不乱に真面目に努力をしてきた。その姿勢は、大学でも認められ、会社でも高い評価に繋がっていた。だから「努力して自分の人生は自分で切り開いていく」ことに意義を見出し、意欲を燃やしていたのだった。社費による米国留学(マサチューセッツ工科大学)と米国(ニュージャージー州)での駐在員の経験は、それを証左する。
それなのに、最期は義兄にやり返しとして意地悪な征服をされるような形で、寒空の下をほっつき歩かされ、レストランではお金もないまま、ただ食いするようになり、夜中に道端で倒れた結果、全身の血流に真菌(カンジタ菌)が回るというような恐ろしい悲劇に突き落とされた。結局は、それが基で落命したのだった。
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修論ができたとしても、学会発表が一度済ませられたとしても、これで終わったわけではない。
知識の上では大した内容ではないが、実経験が伴っているので、精神的心理的な重圧となって、思い出す度に鬱屈した気持ちになる。
そもそも、義兄が自分の非を認めようとしないところに、問題の根がある。家庭裁判所の調停でも、調停員が呆れ返る程だった。主人の実家の墓地でさえ、何ら話もないままに、私に丸投げして平気である。こういう無責任な人が「長男」「跡取り」というだけの理由で甘やかされ、無能かつ無責任に育ち、若くして難病を抱えた弟夫婦に多大な負担を与え続け、意地悪をし、非常識な振舞をして憚らなかったのだ。
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荻野の「憩」施設には、バスの窓から道路沿いに見えた垂れ幕「入所者募集・職員募集」がきっかけとなり、鶴田団地の終点から歩いて引き返してみた。この垂れ幕は、主人が入所した頃にはなかったものだ。あの時には、大きく見えた建物だったが、実は三階建てで、今は余裕を持って眺めることが出来た。
午後5時52分から6時まで、外側から写真を撮った後に、中に入って主人がケアマネさんと大喧嘩した玄関を見つめた。あの時には広く見えた玄関だったが、今では我が家の玄関よりも狭い気がした。そして、令和4年と令和5年に「第三者評価」によって介護施設として斎藤元彦知事が認証した、という証明書も飾ってあった。
そうこうするうちに、事務室から男性職員が一人出て来た。そして、ヘルパーさんらしい溌溂とした女性スタッフも一人出て来られた。私が、「2019年の11月(注:「12月」の誤り)に、ここでお世話になった○○の家内です。長い間、ご挨拶に来られず、失礼いたしました。今日はたまたま、ふらっとこの辺りに来たので、お仕事の邪魔にならない程度にご挨拶に来ました」と申し出ると、「あ、論文書いたっていう人ですね?」と。
介護記録を送っていただいたことから、私のことも覚えられていたのだった。上記で書いたこと等をかいつまんで話し、「本当にご迷惑をお掛けしてすみませんでした」と謝ると、「こっちは仕事でやっていますから、気にしなくてもいいですよ」「個人差がありますから」と大らかに受け止めてくださった。
慣れていらっしゃるのだろう。それに、PD介護について、5年前の専門知識や経験に比べれば、5年後の今では研修などを通して、それなりの蓄積があることだろう。コロナ問題も含めて、さまざまな介護やお看取りが積み重なって、そのように鷹揚な対応に繋がるのだろう。
介護記録によると、介護士の男性一人が毎晩一時間おきに部屋の様子を見回りして、容態を確認されていたようだ。うちの主人の場合は、トイレに起こしてもらったり、昼間は近くのコンビニまで買い物に付き添ってもらったり、薬のことや通院のことなど、何かと注文の多い入所者だったのに、一生懸命に応対されていたようだった。特に、「昼間はずっとスマホばかりいじっている」との記述が印象的だった。
私にとっては、全く見ず知らずの新しい環境に突然放り込まれて、初めて出会う人達にこまごまと面倒を見てもらいながら、それでも何かれと要求を出して周囲を困らせていた主人の様子を記録から想像し、何とも複雑な気持ちになった。夫婦としては、(本来なら私がやらなければならなかったことなのだろう)と思い、胸が潰れるような感覚を持った反面、(介護保険料は2000年から会社の給与天引きで払ってきたし、特定疾患(指定難病)として大学病院からも厚労省からも認められている病気だ。こちらが押しかけたのではなく、有資格のケアマネさんが計画した通りに従っているまでだ)とも思い直した。そして、(お金を払ってやってもらっているのだから、他人として仕事だと割り切っているから、できるのだろう)と思ってみたりもした。
それでも、夜勤の担当者は自分の生活を昼夜逆転させて、よく素性のわからない病人や高齢者を相手に、根気よくお世話しているのだ。後に、自宅郵便受けに入っていたチラシを見ていたところ、そのような仕事をする求人募集があり、時給が安かったことには驚いた。本当に申し訳ない気持ちになった。
勿論、主人の神経難病は原因不明の進行性で、薬物治療で症状を抑えているに過ぎず、完治に向かう治療ではない。我が家がお世話になった若いケアマネさんでさえ、「30代でパーキンソンなんて、可哀そうやなぁ。福祉の専門職として、助けてあげたいな、と思うんやけど……」と私に言っていたぐらいなのだった。
「最期がどうなるかなんて、わからないよ」「死んだら終わりだよ」と、主人はよく言っていた。でも、まさかあれ程までに自己抑制的だったはずの「模範的な」主人が、こんな風になろうとは….。最期は医療福祉の関係者全てに迷惑がられ、疎んぜられ、「家に帰りたい!」「ここから出せ!」と叫び、我儘一杯に「死んでもいいから食べさせろ!」と女性医師に執拗に言い続け、ついに独り寂しく古びた病棟の壁を見つめつつ、痩せ衰えて静かに息を引き取って行った姿は、今でも私の脳裏を離れることがない。
(2025年3月12日記)(2025年3月13日/2025年3月14日一部加筆修正)