伊勢の下宮

今年3月8日、伊勢市の皇學館大学でのセミナー受講後は、スクールバスで一斉に伊勢市駅まで行き、そこで自由解散となった。夕刻5時台ではあったが、伊勢の下宮を訪れた。2018年6月に主人と来て以来、約7年が経ち、思いがけず再訪の機に恵まれたのである。

先の訪問時には雨が降っていて、宇治橋のたもとで傘をさした私を主人が写真に撮ってくれた。その同じ場所に、今は私が独りで来ている。その時空間の不可思議さや切なさ、侘しさを感じたものの、下宮全体が包み込む清らかな雰囲気が深く静かな慰めともなった。

その頃、伊丹への転勤の話は既に出ていた。だが、まさかそれから2年も経たないうちに、PDの薬剤による副作用で精神症状が悪化し、伊丹の病院に長期入院した末、周囲に迷惑をまき散らしながら徘徊やら転倒やら突発的な行動異常に出ることになるとは…..。主人にとっても、自己の想像範囲を超えていたのではないだろうか。

そんなことを考えながら、しっとりと清々しい空気の漂う静かな伊勢の下宮を、40分程、ゆっくりと歩き回った。既に始まっている遷宮の準備の様子を、離れた場所から立ちすくんで眺めた。写真撮影は不可との標識が立っており、じっくりと見つめて心に焼き付け、深く感じ入る時とした。

社務所の前を通ると、白い姿の男性神職二人が、何やら厳しい話を鋭い声で交わしていた。

並べてあるお札等を一通りじっと眺めた後、お守りを二つ選んで購入した。あえて尋ねてみると、「ここでは現金しか使えない」と言われた。『神社新報』によれば、遠方からの遥拝崇敬者には、お賽銭としてPayPayやクレジットカードも許可するかどうか等、議論が喧しいらしいが、自分のお財布を開いてみたら、きれいな新札がぴったり二枚、入っていた。偶然にしては見事な展開であった。

内宮へは立ち寄る時間がなかった。それに、6時近くともなれば、とっぷりと暗くなる。

参道沿いには、昭和時代を彷彿とさせるような佇まいの店が立ち並んでいた。

主人が生きていた頃は、(将来、福祉が切り捨てられたら、どれ程お金がかかるかわからないから)(難病を抱えた主人に申し訳ないから)と、学会出席等、一人で遠出した時の自分用の食費は、極力切り詰めていた。コンビニでお握りやサンドウィッチに野菜ジュース等を買って、新幹線か特急電車の指定座席で食べるようなことを、平気でしていた。しかし、暦の上では最早、私も還暦。いつまでもそんなつましいことをしていては、健康上も精神衛生上も駄目だ。第一、生活がそこまで逼迫しているわけではない。

せっかくなので、若い人達が忙しく働いている海鮮居酒屋に入り、伊勢海老のフライ定食に、地酒芋焼酎のお湯割りを一杯いただいた。そこでお土産を買い求めて、ゆらゆらと伊勢市駅まで戻り、近鉄特急で大阪までの帰途を急いだ。

近鉄の良い点は、ホームの駅名看板が、昔ながらの漢字表記に平仮名の読みをつける形式が保存されていることである。
最近では、阪急電鉄等、すっかり平仮名表記が大きく前面に出ていて、漢字が小さく後退している。しかも、そこへ簡体字やハングルまで表示されるので、見苦しいことこの上ない。
それに引き換え、近鉄は従来通りを遵守しているので、実に精神的な安らぎと落ち着きがもたらされる。創業者の経営方針を家訓のように大切にされているからではないだろうか?

(2025年3月12日記)(2025年3月13日一部加筆修正)
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(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20101209)
2010-12-09「人生はマラソンのごとく」

《先週はバスに乗って、(アルバムによれば)幼少時に訪れたことになっている夫婦岩と伊勢神宮へ、日帰りで行ったりもしました。昨日はちょうど、現像された写真が届きました。
静かで青々とした透明感のある夫婦岩の海、茶色と白色の鶏が散策していて、広い敷地に高い巨木がそびえている伊勢神宮の境内、確かに、すがすがしい気分になりました。》

《(伊勢うどんや伊勢えびせんは、味が今一つで、お値段の割にお土産には不適切かな、と発見したことも得難い経験!)》

《数年前に、緒方貞子先生の仕事日記の抜粋のような本を読んでいた時(参照:2007年12月11日・2009年2月16日付「ユーリの部屋」)、「伊勢神宮へ参拝」という記述が目にとまり、カトリックは戦時中も神道は宗教ではないと解釈することで、儀式に従う参拝を許していたことを思い出した次第です。あのような立場にある方は、表向きでも儀式に出席する義務があるので、大変だなと…。伊勢神宮へは、皇族や首相や閣僚も節目ごとに参拝されているということで、こういう時期だからこそ、その意義を自分なりに考えてみたいと思ったのがきっかけで、ちょうど運良く、機が訪れました。》
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(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20180612)
2018-06-12「日本の原風景を紡ぐ奈良と三重」

《先週末の土曜日から昨日にかけて、二泊三日で奈良県の橿原神宮と飛鳥寺、三重県の伊勢神宮(外宮)と賢島を訪れた。主人の立案だが、やはり二人共日本人の原型を受け継いでいるようで、何はともあれ、大変に落ち着き、自然に囲まれて、安らげる三日間だった。》

《何とかスマホで特急の座席指定を変更して近鉄電車に乗り込み、伊勢市へ。こちらは外宮のみで、五十鈴川の内宮へは行く時間がなかった。
橿原神宮と比すれば、伊勢神宮は昔ながらの「お伊勢さん」だけあって(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130203)、周辺のお土産物屋さんや茶店等、人々がもっとシャキシャキしている。伊勢海老や伊勢うどんは勿論のこと、伊勢木綿や伊勢茶を改めて眺めた。駅を降りると雨脚が強くなり、傘をさして境内を歩き回った。
名古屋生まれなので、伊勢や鳥羽へは幼い時から来ていた上(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101209)、伊勢名物「赤福餅」のコマーシャルが頻繁に流れ、名古屋駅でさえ常に販売されていたこともあって、あまりに近過ぎ、深く意味を考えることなく、ここまで生きてきた。それに、学生時代はメディアや学校教育の影響もあり、東京ばかり見上げて過ごす癖がついていたので、三重県よりは名古屋市を政令指定都市とする愛知県の方が発展しているような錯覚を持ってしまっていた。それに、偏差値教育とやらが輪をかけて、その錯覚をさらに歪めていた感がある。》

《だが、ちょうど二年前のG7サミットでも先進七箇国の最高指導者層に御参拝いただいたように、伊勢神宮は日本の伝統文化の象徴である。この雰囲気に直接触れていただくことで、日本語文献をきちんと読めない西洋のキリスト教宣教師や左翼系学者達が、敗戦を機に、アニミズムや国家神道だと誤って広めてしまったことによって被った、計り知れない損失の埋め合わせとなれば良い。その願いを込めて、あえて意表をつく趣向を凝らした安倍内閣の英断には、敬意を表する。》

《昭和天皇が伊勢神宮への御参拝の際、昭和26年から55年にかけて、五度の計八日間、御宿泊になられた御由緒があるため、昭和の名残をとどめる品のある格式を保っている。
お詠みになった御歌を、伊勢志摩サミット・ツアーとして40分間、ホテル内を導いて解説してくださったスタッフが紹介された。この御製を、一般の我々国民が自然に触れることができ、情感を共にすることが許されているというところに、日本古来の知恵の凝縮と積み重ねが感じられる。》

《・神道は、人知を超えた自然の力に、感謝する。世界のなかで、もっとも素朴な信仰である。教義も、教典ない。人がまだ文字を知らなかった時代に発しているから、信仰というより、直感か、生活態度というべきだろう。神道は、人が文字を用いるようになってから、生まれた宗教ではない。感性による信仰だから、どの宗教とも競合しない。
・宗教法人法によれば、宗教法人は教義を広め、信者を教化する団体として、規定している。神道は布教しないし、もし宗教であれば、「信者」と呼ばれる人々も、存在しない。
・アメリカ占領軍は、自国では国家行事や、地方自治体の式典が、キリスト教によって行なわれていたのにもかかわらず、まったくの無知から神道を、キリスト教と相容れない宗教だと信じて敵視して、日本に「政教分離」を強制した。当時のアメリカは、日本を野蛮国とみなしていたのだった。》

《伊勢旅行の時にも書いたように(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101209)、たとえ外国との交流に比較的欠けていた時期でさえ、村ごとに他の土地に出かけては、見聞録をきちんと記す習慣が日本にはあったからです(金森敦子『伊勢詣と江戸の旅:道中日記に見る旅の値段』文春新書(2004年))。そのように、前向きで好奇心旺盛な日本人の精神は、今も大切に受け継がれていると信じたいです。》
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(https://x.com/ituna4011/status/1122622346286645249)
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『徳富蘇峰 終戦後日記』(講談社)「神道は本来宗教ではない。これを宗教化したるは、神道の末流」「伊勢の皇大神宮には、儒者も、仏者も、キリスト教徒も、回教徒も、若くはあらゆる宗教宗派、あるいは無宗教者も、皆な参拝せぬ者はない。」(p. 242)
7:03 AM · Apr 29, 2019

(https://x.com/ituna4011/status/1125549609948868608)
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神宮社務所でも「天皇さん」と自然な調子で。数年前、先の天皇陛下のお言葉を町内の大きなスクリーンで拝見していた時、「あのな、今、天皇さんがお話してはるんや。静かに聞こうな」と子供に諭していた父親がいた。私の出身地の名古屋では「熱田さん」と熱田神宮を呼称。「お伊勢さん」も同様に。
8:55 AM · May 7, 2019

(https://x.com/ituna4011/status/1251383169485377536)
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数年前にパリやイスラエルのホテルでいただいた石鹸。そして、2年前に伊勢志摩観光ホテルでいただいた手作り石鹸。
2:32 PM · Apr 18, 2020

(https://x.com/ituna4011/status/1311984641843195907)
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昭和の学生時代に知っておきたかった内容。異論の出そうな箇所もあるが、それを含めて、一本筋が通っている。 歴史の授業は暗記物というのは、先生の歴史観が拙いからでは? 犬のお伊勢詣りの話は、一番好きな箇所。日本人の心根が可愛いし、ほのぼのとしている。犬も素直に応えた。
8:01 PM · Oct 2, 2020

(https://x.com/ituna4011/status/1346250671356407808)
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江戸の正月飾り「飾り伊勢海老」の長寿守る: 日本経済新聞 https://nikkei.com/article/DGXKZO67844660U1A100C2BC8000…
9:22 AM · Jan 5, 2021

(https://x.com/ituna4011/status/1546305444813369345)
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久邇氏、大宮司就任を報告 伊勢神宮を参拝 三重(伊勢新聞) #Yahooニュース https://news.yahoo.co.jp/articles/f6f2148c922950a2ac47fd0d3d5d5a7aca97e39f…
10:28 AM · Jul 11, 2022

(https://x.com/ituna4011/status/1660596473288065025)
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伊勢の神宮には朱色はありません。 魔除けの意味と神道の印として、あえて表示させていただきました。
7:40 PM · May 22, 2023 
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G7広島サミット何が起きた?振り返る17〜21日 – 日本経済新聞 https://nikkei.com/article/DGXZQOUA213V90R20C23A5000000/…
⇦ 故安倍晋三総理が伊勢志摩をサミット会場に選んだ時には、伊勢の神宮等、大胆な発想に感銘を受けた。今回の広島サミットも、お好み焼きや宮島の鳥居 、原爆記念施設と、なかなか切れ味抜群。
6:07 PM · May 22, 2023
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伊勢志摩は、名古屋育ちの者には馴染み深い地だが、サミットの翌年、会場ホテルに主人と一泊した時には、改めて目が醒める思いがした。 広島や宮島へは、11年前に二人で出かけたが、当時の思い出が蘇るような気のした今回のサミット。 岸田文雄総理が格好良く見えました。
6:25 PM · May 22, 2023
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ハーバード大学等、アメリカの日本研究者が英語で書いた神道の本二冊を3月に入手。 解釈が我々と違い、神社神道の神職側には、些か困るらしい。 我々の固有の伝統文化で、唯一性かつ独自性を有する神道なのに、間違って解釈されるのは迷惑。 伊勢志摩サミット や広島宮島サミット が益するか?
7:15 PM · May 22, 2023
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令和15年の式年遷宮、準備へ 伊勢神宮、天皇陛下から「御聴許」 三重(伊勢新聞)
7:15 AM · Apr 11, 2024
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(2025年3月12日転載終)
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皇學館大学訪問記

神社検定の特別講座として組まれたプログラム、題して「伊勢・皇學館大学で学ぶ神道いろは」は、1月28日に検定運営事務局から「過去に神社検定を申し込んだ人」宛のメーリングリストで広報されたものだった。
早速、その日の午後、事務局に電話をかけて詳細を質問した。

・二日間の予定だが、別プログラムが用意されているので、一日のみの参加は可能。
・年齢層は40代から50代の「昭和世代」が中心。
・大半が一人で参加される。
・二日続けて参加する人は殆どいない。

と言うことで、即座に、3月8日の第一日目のみ参加を決めた。

三重県伊勢市神田久志本町にある皇學館大学へは、この度初めて訪問した。名古屋市生まれの名古屋育ちの私にとって、伊勢の神宮は、まだ一人っ子だった1歳の頃、両親と一緒に夫婦岩の前で撮った写真が残っている程、身近だった。そして、赤福餅は学生時代の手土産定番だった。

しかしながら、「神道の研究機関」は非常に敷居が高く、なかなか行けるチャンスがなかった。実は、神道博物館や神職の作法を学ぶ祭式教室に興味があったのだ。

受付は午前9時15分から35分間と設定されていた。駅探で何度もチェックしておいたが、伊丹からだと大阪JR環状線の鶴橋で近鉄特急に乗り換え、それほど遠方とも感じられない。年4回のお墓参りの路線の反対方向でもある。

それに、近鉄電車の路線は、宗教施設(神社や仏閣)や信仰の場に沿っているように感じられる。ここ数年のうちにとみに減ってしまった田園風景がまだ、電車内から見られるのは、心安らぐいい時間だった。

問題は、朝の出発時間がなぜかギリギリになってしまったことだった。

例えば、2月8日の姫路駐屯地でのヘリ体験の時には、特に厳格な定刻主義の自衛隊でモニターとしてご迷惑がかからないよう、緊張しながらタクシー手配等を考えた。雪で延期になった翌日9日には、バスもない早朝まだ暗い中を、自宅からJR伊丹駅まで徒歩で急いだ。だが、結果的に、姫路へはどういうわけか充分に間に合った。

ところが、今回の伊勢は、自宅前の市バス時刻表も確かめておいたのに、どういうわけかバスに間に合わず、仕方なく阪急伊丹駅前まで歩いた。そこからタクシーに乗ってJR伊丹駅まで行き、今度は順調に運ぶかと思っていたのに、JR大阪駅で環状線に乗り換える際、のろのろとした人波に妨げられて、目の前でドアが閉まってしまったのだ。そのために到着が遅れ、鶴橋駅で購入した近鉄特急が、8時13分発の9時54分伊勢市着と、4分遅刻になったことだった。

当日のみの緊急連絡先をiPhoneに登録しておいたので、9時過ぎに車両連結のデッキに出て、電話連絡をした。「そちらに向かっているところですが、近鉄特急が到着4分遅れの9時54分なんです。大丈夫ですか?」と尋ねると、若くて元気そうな女性スタッフが「大丈夫ですよ」と。

伊勢市駅は近鉄とJRが連動しているが、伊勢の神宮への参拝にはJR駅口の方へ回らなければならない。それが何と、単純だが4分程かかる距離だった。

慌てて駅前広場で集合場所を探すと、赤い神社検定のプラカードを持った女性スタッフ一人に、やはり遅れて来たらしい男性一人に女性一人が待っていた。私は最後到着だったが、やはり早めに車内から電話連絡をしておいて正解だった、と思った。

参加者は計46名とのこと。

昼食は学生食堂で、一つのメニューのみだったが、白魚のカピタにキャベツの千切り、赤だしのお味噌汁に白米ごはん、刻んだオクラの酢の物風で、なかなか健康的だった。

アンケートを求められたので、グーグル・フォームで回答を送信した。下記は、その転写である。
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今回の特別講座についてのご感想がございましたら、ご自由にお書き下さい。

従来からずっと敷居の高かった皇學館大学を初めて訪問させていただいた。大学の歴史的経緯のご説明と博物館の展示解説が良かった。講義については、国文学科だった学部生時代を彷彿とさせ、何だかとても懐かしかった。白髪頭の多い参加者層だったが、静かに黙っていても内に秘めた向学心に富み、神社検定一級合格者が数名いらしたことも刺激となった。一昨年から澤潟久敬先生の神道随想等の著作を集めて読んでいたので、澤潟久孝博士の企画展に間に合わなかったのが惜しまれた。この度は、先生方やスタッフの方々には熱心に対応していただき、感謝申し上げます。

次回以降のセミナー開催地・開催内容のご希望はございますか。

日程の都合がつけば参加したい。奈良や和歌山など。

神社検定に合格して良かったこと・役に立ったことはありますか。

5年前に難病の末に亡くなった主人の実家が神道だったので、参級に合格した時、送られて来た絵馬を入院中に見せたら、喜んでいた姿が忘れられない。私の学生時代は社会主義全盛で、古事記や日本書紀の記述を批判的に扱う学問が優勢だった。40年近く経った今、系統立てて基本を学べる神社検定は、一般への知識浸透にも役立つと思われる。

神社検定へのご意見・ご要望がありましたらご記入をお願いいたします。

もっと受験者が増えるといいと思う。熱心な人は熱心だが、一級合格への道のりは遠い。

(転写終)
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伊勢の下宮については、後日記す。

(2025年3月10日記)

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第三師団定期演奏会

2025年2月6日付ブログ「防衛モニターの活動」
(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=9725&action)

(2025年3月7日記)(2025年3月10日加筆)
………..
2025年3月10日略記

3月2日(日)の午後、いたみホールでの第三師団定期演奏会に出席した。

私にとっては、伊丹市に転居して5ヶ月目の2019年2月11日が初回だった。この時は、街中のポスターだったか、伊丹広報紙を見たかで、早速、往復葉書で申し込んだ。初めてだったのに、抽選で当選したという返信葉書をいただいたので、喜んで一人で出かけて行った。会場は我が家から歩いて十数分と近い。

進行性難病を抱えた主人との陰鬱な暮らしの中で、6年以上も前のコロナ禍前だったこともあってか、非常にキビキビとした若く瑞々しい男性自衛官さん達に感銘を受けた。クリアフォルダやノート等を、こちらが頼みもしないのに、次々と手渡してくださったことには、子供のように無邪気に感動していた私だった。選曲もモダンで見事であり、演奏技術の高いことが新鮮だった。

今回は、主人が亡くなって5年程経ち、久しぶりの定期演奏会だったこともあるが、ポスト・コロナの影響なのか、最近とみに増えた業務の多様性のためなのか、会場に集まっている自衛官が一様に老成し、疲れて見えた。

私側の変化としては、まず右胸の徽章を見る癖がついた。レンジャー徽章をつけている制服自衛官は背筋がピンと伸び、堂々たる自信に満ちて誇らしげな振る舞い方をする。同時に、いかにも入隊したてで、この先いつ頃まで続けるだろうか、と思わせるような、初々しい若手も見かけた。こちらは、対応がのろい。

最近では、自衛隊の駐屯地や各部隊が活動報告をツィッター(X)やフェイスブック等でプロモートするようになり、理解が急速に進み、記憶の補強にもなるが、その分、時間が削がれる。

中部方面隊の音楽まつり(2025年1月25日)と同様、こちらの演奏会でも、開演直後の国旗の儀式がなくなった点、惜しまれる。あれこそが、いかにも自衛隊の象徴だったはずなのに、である。

私は、昨年12月9日に防衛モニターとして招待状を受け取っており、封筒のバーコードを受付で見せれば、手荷物検査もなく、自動的に2階の指定席番号を示される仕組みだった。ところが、この招待席には、どういうわけか制服を着た男性自衛官が散らばって着席することになっており、座席が中央の通路沿い右端だった私の左隣には、一人の男性自衛官が後から座られた。制帽に眼鏡をかけて黒マスク、名札は確認できたが、アルファベットもついており、(はて?)

どういう意図で、このような座席配置にされたのだろうか?
こういう場合、面識の有無に拘わらず、ご挨拶をすべきなのかどうか?
こちらから先に自己紹介をするのが礼儀作法なのだろうか?

もしかして、名札の名字から、この方は防衛モニター委嘱式で手交された姫路駐屯地の副連隊長さんなのか?このアルファベット「I」は、名字の頭文字なのか、それとも下のお名前のイニシャルなのか?髪型は似ているようにも見えるが、初対面では眼鏡もマスクもなかった。あれから8ヶ月以上も経ったので、人違いだったら失礼この上ないし、何よりきまり悪い….。

その左側に着席された老夫婦という感じのお二人は、最初からご存じのようで「姫路から来ました。防衛協会の….」と、私の左隣の自衛官氏に挨拶され、その自衛官氏は「今日は連隊長が不在で….」みたいな言葉を返していらした。

ん?では、私はやはり、何か言わなければいけないのだろうか?
でも、でも、でも……階級制とは、何と心理的複雑さと一種の威圧感を与えるものなのだろうか?

右側のブロック席を見ると、やはり制服自衛官の男性陣が二人、三人と固まって並んで座っていた。こちらは鷹揚な感じで、大らかに仲間内で談笑されていた。

しかし、私の左隣の自衛官氏は、至極、生真面目な面持ちで、時折、足をもぞもぞと少し動かしていた以外は、何もご自分から仰らなかった。ふと見ると、左手の薬指には結婚指輪をつけていた。(ユーリ注:戦闘服を着ている若手の男性自衛官さんも左手薬指に指輪をはめているのを、2月9日の姫路駐屯地でのヘリ体験の時、私は目撃した。武器を扱う際には、手袋をするので傷はつかないのだろうか?)

結果的に、私は着席時に畳んだコートのせいでクシャクシャになってしまったアンケート用紙に、開演前から忙しく記入を始めた。モニターとして何らかの意見を書かなければ、と思ったのだ。実際、受付では「後でアンケート用紙を回収しますから」と、手渡されていた。従って、演奏が始まっても、じっと身動きもせず聞き入った他、時折、自分の小さなメモ帳に鉛筆で覚書をつけた。プログラムは開かなかった。

休憩時間になった時、階下に並べられていた各駐屯地の部隊活動の様子を写した写真コンテストについて、これまたアンケートに番号を書く作業があったので、さっと立ち上がって見に行った。祝電はどなたからなのだろうか、確かめる目的もあった。

結局のところ、第二部の開始前も終了後も、一切、左隣の自衛官氏と言葉を交わすことなく、会釈さえせず、私は黙々とモニター義務を果たした。

しかし、あの日から8日間、ずっと気になっていたことは確かだ。だから、今日になるまでブログが書けなかったのだ。

あの方は、本当にどなただったのだろう?
なぜ、お一人だけ民間人に挟まれるような指定席だったのだろう?
こういう時のプロトコールは、どなたに聞けば教えていただけるのだろう?

昨年11月27日の姫路駐屯地の記念式典では、映像が幾つか残っている。が、あれからも実は時間がなくて、まだ最後まで見終わっていない。

6月中旬、広報室に足音もなくさっと入室され、「4月は失礼いたしました。すみませんでした」と立ち上がって謝った私に、ご自分の名刺を差し出され、即座に簡素な「委嘱式」が始まった。白い手袋で委嘱状を手渡され、「よろしくお願いします」とにこやかに短くご挨拶があり、私の方も緊張しつつ「ありがとうございます、よろしくお願い致します」と返礼を。

そのようにして、私のiPhoneも含めて、二人並んで記念撮影をしてくださった甘い顔立ちのハンサムな井上和久二等陸佐の副連隊長さんは、その5ヶ月後のあの日、先頭に立って大声を張り上げて堂々と行進。式典が始まると、胸を張って背中後ろで両手を組む姿勢で微動だにせず、司令官から観閲を受けていた。確か、九州の福岡県大野城市のご出身と、紹介されていたと記憶する。

とはいえ、司会の女性自衛官から溌溂と、出身地に名字つき階級の紹介があった他は、何もわからない。あの大所帯の連隊の中では、戦闘服を着ていると、本当に誰が誰だかわからないのだ。戦闘帽を目深に被っていると、余計に顔が影に隠れてわかりにくい。

実は、それこそが戦闘態勢なのだろう。

駐屯地等で開催される自衛隊の公開行事に出かけて行くのは、大半が近隣住民なのだろうと思っていたが、実は、自衛官の家族親族や親しい友人達、そして隊友会や防衛協会や地本と呼ばれる自衛官募集担当者なのだそうだ。実際のところ、普段は駐屯地は外部に閉ざされているし、山の中や訓練所での実習等は、家族にも知られないようになっているらしい。従って、身内や友達であっても、自衛官の仕事ぶりや晴れ姿を見られるのは、このような定期的な公開行事の時なのだそうだ。

伊丹でも古い文献を図書館で見ていると、ある場所は「自衛官達の夜の溜り場だった」みたいに描かれているものがあった。また、習志野の空挺団は、昼間の命懸けの厳しい訓練の他、夜の宴会でどんちゃん騒ぎをしているらしく、地元の人達は「大騒ぎする集団」のように受け止めているらしかった。

さまざまな様相を呈している自衛隊だが、私など、まだ何も知らないに等しい。いや、基本事項以外は、あまり深入りしない方がいいのだろう。

というわけで、最初から最後まで気になったのが、左席の制服自衛官氏だった。

相手が幹部階級ともなれば、私のお世話係をしてくださっている50代半ばの一曹広報官さんなど、「上層部は…」「上司に….」という言い方で一線を画し、自分は自分の持ち場で「上から言われたこと」を淡々と着実にやっていればいい、と割り切っているようだ。そして、仲間内では親しげに和やかに振舞っている。

階級が上ということは、部下を率いて全責任を負う、ということだ。作戦を立てて指令を出し、大人数を自己の命令に従わせなければならない。この精神的重圧は並々ならぬものがあるだろう。しかも、人間的に上質だから階級が上とも限らない。むしろ、職位職階の定めと権限の範囲を示している、と考えた方が妥当のようだ。そこを勘違いして威張り散らしている上官もいるらしい。

厄介なことには、学歴の上で、22歳の若造大卒(最近では24歳以上の院卒)が、最初から幹部階級に所属する。そして、高卒で入隊したベテラン隊員を、経験未熟な若手幹部が動かすことになるのだ。人間的にも職歴の上でも大先輩に対して、威厳を持って導いていかなければならない。しかも、定期的な体力測定では、上の階級が恥ずかしい思いをするかもしれないのだ。

高卒で入隊した場合でも、たまたま高所から飛び降りるのが好きで、射撃訓練もうまくできたりして、成績が良かったりすると、昇級が早過ぎて同期や先輩から怨み妬みを買い、居心地が悪くて退職した、という元自衛官You Tuberの話もあった。

他方、それが嫌だったのか、大卒だが「陸士から始めたい」という健気な人もいて、その場合は、体力的に10代の高卒者とは競えない、という話も聞いている。

そんなこんなで、右隣に座っていた私は、下手なことも言えず、黙っているのが一番、という結果に落ち着いてしまったのだった。

もう一点、陸自の音楽会が1月下旬に3月上旬と続いたせいもあるが、演奏パフォーマンスに力が入っている分、考えさせられたこともあった。南海トラフ等の大規模自然災害の予測と、厳しさを増している、とオウムのように繰り返されている国際情勢の緊迫である。それを思えば、楽しさを前面に出して、演出に工夫を凝らしている場合か、とも思うのだ。
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実は、徒歩15分で会場ホールに到着し、開演30分前の1時半頃には受付を済ませて二階に上がろうとしたところで、階段のすれ違いざまに、若い女性自衛官さんから名前を呼びかけられた。一瞬わからなかったが、手短に自己紹介され、昨年5月中旬の千僧駐屯地の記念式典の時、応対してくださった方だったと判明。

あれから10ヶ月ぶりで、ちょっと日焼けし、年齢以上に落ち着いた感じにもなっていた。業務や訓練で忙しく、疲れが溜まっていらっしゃるのかもしれない…..。それにしても、たった1,2分の面会だったのに、よく覚えてくださっているものだ。しかも、偶然にしては何とタイミングよく、出会えたものだ。

彼女との出会いは、以下のエピソードに端を発する。

昨年の1月9日夜、東京から帰って来たところを留守電が光っているのに気づいて、初めて電話で話した。それに引き続き、ざっくりした案内郵便が届いた後、姫路駐屯地からはご連絡が途絶えていた。ただ、当初から「明日から能登なんですよ」と言われていたので、何ヶ月も姫路に戻ることなく、肉体を酷使しながら厳寒の下で任務を継続されているのかもしれない、と思っていた。

4月には自衛官候補生の入隊式があると聞いていたが、何日なのかは事前に知らされていなかったため、2月初旬に市立図書館で見たチラシを通して、隣市にある大手前大学での講演会に出席を申し込んでしまっていた。また、同日の午後には、伊丹市立ミュージアムの岡田家の音楽にまつわる講演会もあった。そして、その後には、一緒に参加した伊丹博物館友の会の方達と4人で、近くのタリーズでお茶しながら談笑の時を過ごしたのだった。

従って、入隊式の4月13日には「先約がある」と欠席。その頃の私は、(防衛モニターといっても、式典と夏祭と音楽祭だけだろう)と、実に気楽に構えていた。

だが、「郵送で委嘱状を送る、恐らく3月末頃には届くだろう」と姫路の広報官から電話で伺っていたのに、その後はさっぱり連絡がない。勿論、委嘱状のようなものも届いていない。千僧駐屯地からは記念式典の招待状が届いたから出席できたものの、果たして、防衛モニターの委嘱はどうなったのか……

その時、大津駐屯地から来られた京都出身の女性防衛モニターさんに尋ねてみると、「それなら、ここで聞いてみた方がいい。私は、もう一人の男の人と二人で、今年から大津駐屯地で防衛モニターを務めています。うちの広報担当者はすごくきっちりした方で、まず年間行事を一覧表にして、事前に細かく説明されて、『何でも質問してください』と言われた。もう、メール添付でレポートも一回提出しましたよ」と言われた。

あれ?同じ「防衛モニター」と言っても、随分と業務内容が違うではないか…..。

気になったので、千僧駐屯地での記念祝賀会の終了後、近くにいた若い男性自衛官さんにその旨伝えると、すぐに若い女性自衛官さんが現れた。短く名乗った上で、「姫路駐屯地には、こちらから連絡を取ります。明日のうちに、必ずお電話をしますから」と確約してくださった。「駐屯地によって、やり方は違いますので」と。

果たせるかな、その言葉通り、翌日の午後、自宅にいた私宛に固定電話が鳴り、「姫路の〇〇さんと連絡が取れました。明日までにはお電話があるはずです」「やる気のある(前向きな?)方なので、と伝えてあります」と、教えてくださった。その時、私が「あのぅ、姫路の広報官さん、お電話くださる時にはいつでも、犬がキャンキャン近くで鳴いているんですよね。時々、声が聞き取りにくくて、聴き間違えるといけないので…」と言うと、途端に若い女の子らしくケラケラと笑い出して、「わかりました。そのことも伝えておきます」と。私からは「いつも見守っていますから」と応答した。

その時には、姫路駐屯地で私に連絡をくださったのが、まさか定年退職間近、つまり50代半ばの自衛官だとは知らなかった。むしろ、上司に叱られながら成長中の若い隊員だとばかり思い込んでいたのである。それほどまでに、いつでも絵文字の入った楽し気なメールを寄越し、話し方も気さくで気楽で、何とも軽い今どきのタイプに思えたのだった。

そうしてみると、この度の再会により、千僧駐屯地が第三師団を置き、その隷下にある姫路駐屯地という位相も、何となく背景が伺えるような気がした。

姫路からは確かにお電話があった。6月の自衛官候補生の修了式には出席できそうか、と恐る恐る尋ねられて、「すみません、ちょっとカレンダーを見てきます」と室内の壁まで走って行き、「はい、その日は空いています」と答えると、「よかったァ!」と、本当に安堵したような声が聞こえた。

通常、防衛モニターは一つの駐屯地につき、二人一組で任期を務めることになっている。ところが、姫路の場合、三年程前には、女性の防衛モニターさんが一人で、戦闘服を着た、私の知らない男性広報官とサシで向かい合う体制で「任期終了」の写真がツィッター公開されていた。そして、私が委嘱を受けた昨年度は、どういうわけか「途中で連絡が取れなくなってしまった」モニター候補者が出たそうで、「繰り上げで第一候補に」された私は、たった一人で一年間頑張った、というわけだ。

そうとは知らず、上述の4月13日に先約を取った時、(もう一人のモニターさんにやってもらえばいい)とさえ、私は思い込んでいた。

つい説明が長くなったが、そういうわけで、播磨の姫路はやはりのんびりとした駐屯地だ、ということを改めて思った次第である。

参照)2024年5月20日付ブログ 「千僧駐屯地の記念行事」
   (http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=7535&action)
。。。。。。。。。
しかし、先方の広報官氏だって、私に対して、最初は何かと気まずく、躊躇するような居心地の悪い思いをされていたようだ。

第一、「主婦」とだけ書いて葉書で応募してはみたものの、略歴を提出するのに、職歴(大学の非常勤講師とマレーシアのマラヤ大学業務)と学歴(名古屋の市立小学校から放送大学大学院まで)を抜書きした上で、各種モニター経験と伊丹でのボランティア活動を一覧表にしてしまったのだから。(「主婦」だから暇そうなのに、なぜ、先約があるとか何とか言って、断ってきたのだろう)と思われたかもしれず、(「主婦」の割には聞きたがり屋だ、もしかしてスパイかも?)等と、要らぬ誤解がないように、という意図でしかない。だが、姫路の広報室では「こんなに長い履歴書を送って来たモニターは初めてだ」と驚かれた。

当該の千僧の女性自衛官さんには、「あれから姫路には何度か行かせていただきました。皆さん、とても親切にしてくださいます。この間は、ヘリ体験もしました」と伝えると「楽しんでください」と。こちらからは「お体に気を付けて、頑張ってください」と声掛けすると、「はい!」とテキパキお返事され、下へ降りて行かれた。

姫路駐屯地では、米村連隊長さんが、「人を助けたければ、まず自分を鍛えよ」と訓示を出し、「一度たりとも負けるな!必ず勝て!」とハッパをかけていらっしゃるらしい。これは、メンタル面ではきついものがあり、私などは内心、微かな違和感を覚えないわけでもなかったが、それとて、上層部のトップが仰るならば、素直に従うべきなのだろう。

……..くどくどと言い訳がましいけれども、そういうこともあってか、左隣に座った男性自衛官氏が仮に本当に姫路駐屯地の井上二等陸佐・副連隊長さんだったとしても、ましてや上官ならば、写真まで一緒だった私の顔を覚えていらっしゃるはず。私の膝越しに後から着席されたのだから、むしろ、先方から何か一言あってもいいはずだったのでは、と思い直した。そして、そういうことさえなかったのだから、やはり、お互いに思うところあって、気軽にお話できるような雰囲気ではなかったのだろうと、もう一度思ったりもした。

(2025年3月10日記)
…………
2025年3月10日補記

国防のための陸上自衛隊訓練に関して、私は銃剣道や格闘技や長距離走等、到底できもしないし、わからない。

たまたま、2018年9月28日から主人の勤務先の統合により、大阪府下から兵庫県の伊丹市に転入することになり、25平方キロメートルの地理面積しかない市内に二つも陸上自衛隊の駐屯地を有する地方都市というものを初めて知ったのである。それまで、陸・海・空の各自衛隊の駐屯地も基地も、どこに所在するのかさえ全く知らないままに人生を過ごしてきた。

自衛隊に関するイメージ形成は、主に幕僚長や陸将・海将等の経歴を有する方々の著作や講演会等を通して、自主的に単発的に得られた情報を基にしていた。

だが、肝心の顔の見える自衛官というものを知らなかった。遠い存在ではあった。

伊丹への転居のお蔭で、私は自宅から徒歩13分という近距離に千僧駐屯地があることを、毎朝の主人の見送り後の散歩で知ることとなり、急速に関心を抱くようになった。

記念式典等は、駐屯地や基地の近くに住んでいる人達ならば、年間行事として定着しているだろう。自衛隊が好きだったり、家族親族や友人に自衛官がいたりする人ならば、夏祭や音楽祭や定期演奏会に出かけて、個人的に知見を蓄えているのかもしれない。

それに引き換え、私は全く知識ゼロ。国防に関しては、情報工作やインテリジェンスに専ら関心があり、英語や日本語の著作を13年ぐらい前から読み続けてきた。また、二十代の半ばに、政府派遣でマレーシアに三年間暮らした経緯から、当時はまだご健在あるいはご存命だった旧帝国陸軍の日本軍政期を経験されていた世代から、英語(と広東語)を通してマラヤ支配の状況を生で聞く経験にも恵まれてきた。マラヤ大学での私の教え子の二人は、後に防衛大学校に留学した。

だから、自衛隊については、比較的抽象度の高い領域しか知らなかったということになる。

今日になって、このブログを朝から時間をかけて綴りつつ、ハタと気づいたのが、千僧・伊丹・姫路の各駐屯地の記念行事の日程と内容だった。創設記念、創隊記念、創立記念、という微妙な表現の相違にも、今頃になって初めて気づいた。

伊丹駐屯地では、今年は4月5日に創立記念行事が開催される予定だと、3月8日にツィッター(X)で知らされた。あれ?去年は10月に伊丹駐屯地に招待されて行ったのに、今年は4月なのか。それにしては、防衛モニターとしての招待状が来ていない。通常、遅くとも一ヶ月前には通知が正式に届き、準備の関係上、二週間前までには出欠の返答を明示しなければならない。これはどうしたことか?

と、過去ファイルを調べてみると、私が招かれていたのは、防衛モニターの委嘱を受けた姫路駐屯地が最も多く、駐屯地創立記念は11月である。中部方面総監部が置かれている伊丹駐屯地の場合は、中部方面隊の創隊記念という位置づけらしい。だから、10月なのだ。そして、ご近所の千僧駐屯地には第三師団が置かれていて、こちらは5月半ばに創設記念が設定されている。

音楽隊も、中部方面音楽隊は大規模で、第三師団の音楽隊は一回り小規模となる。但し、師団の音楽隊はあちこちで演奏会を展開しており、移動と練習だけでも大変な業務のようである。我々が見せて頂いているのは、年一度の方面隊の音楽祭あるいは師団の定期演奏会でしかない。

これまでは各駐屯地を並行に見て、専ら地理的な距離感を中心に考えてきたが、武装組織における「隷下」という序列表現の意味と位置づけが、ようやくわかりかけたところである。やはり、駐屯地モニターは1年の任期であっても、防衛モニターには2年間が必要だと改めて思った。一通りの年間行事経験のみでは、到底、何が何だかわからないままに、受け身で参加するのが精一杯だからである。

但し、駐屯地モニターの場合、近隣に居住している場合が多いためか、任期終了後も何らかの催しに招かれることもあるらしい。例えば、今年1月17日にHAT神戸で挙行された阪神淡路大震災30周年追悼行事でも、本来のモニター業務とは別枠としてなのか、「前年度の(姫路)駐屯地モニター」さんの男女計4名が招かれており、伊丹から防衛モニター一年目の私も合流する運びとなった。このように、任期が終了したら「はい、お疲れさまでした。さようなら」では必ずしもなく、名簿リストに掲載の記録が残っている限り、何らかの形でお招きにあずかる可能性もあるということのようである。

最後に、防衛協会については、姫路駐屯地のお世話係の広報官氏によると「代々、姫路市長が防衛協会の会長を務めている」とのことで、「それなら、私は伊丹だから遠いし、関係ないですね?」と言うと、ちょっと残念そうな顔つきになった。というのは、営外に暮らしている自衛官は皆、姫路市内に住まいを定めているからだ。だが、今日、昨年のファイルを調べてみたところ、伊丹駐屯地の中部方面総監に並んで大阪府防衛協会会長のお名前が記されていたではないか!

つまるところ、広報官とはいえ、自分が所属する/した駐屯地しか語る権限がない、あるいは端的には「自分が所属する勤務地以外は知らない」ということなのだろう。

ちなみに、第三師団長は佐藤真陸将で、千僧駐屯地司令は陸将補の末田毅氏である。このように、招待状やお礼状の差出人には、補佐役一名が脇に必ず添えられている。

姫路駐屯地の広報室は、第三師団広報班から連絡を受けて、防衛モニターへの通知を行っているらしい。また、今年1月8日に姫路駐屯地に提出した随時報告書も、昨年12月3日にかかってきた電話で尋ねたところ、「普通、連隊長や副連隊長は読まない。師団に送られるだろう。」とのことだった。「師団」とは第三師団のことで、即ち、千僧駐屯地を指す。但し、当該の姫路広報官は、「でも、ユーリさんが言うなら、副連隊長にも報告書のこと、伝えます」と、言い添えてくださった。実際のところ、どうなったのかは不明だが。

(2025年3月10日補記終)

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食べ物の小話(3)

(https://x.com/ituna4011/status/1351358353587335169)
Lily2@ituna4011
この記事で気になった点。 私も残り物を毎日食べて主婦生活20数年。学生時代のセーターやスカーフが今も現役。 でも、さもしくはない。 何が問題か?
11:38 AM · Jan 19, 2021

(https://x.com/ituna4011/status/1528250479029141511)
Lily2@ituna4011
お豆腐の食べ方。 冷奴風にして、生姜醤油にお葱を刻んだり、茗荷を刻んでのせていただく。これは私の定番。 最近、お豆腐に赤味噌をのせる田楽風がマイブーム。赤味噌には白胡麻を振りかけ、味醂で練る。お葱の微塵切りも添える。深皿に入れてざっくり混ぜて、スプーンで掬っていただきます。
2:44 PM · May 22, 2022
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(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)

2024年11月4日投稿
あ~!夏休みのおやつの定番でした。粉末に牛乳を混ぜて作って、妹たちと分けて食べていました。いつの間に消えたの?

2024年11月6日投稿
すがきやラーメンだ!
高校の部活動の帰りに、皆でヨシヅヤに寄って200円払って食べました!

2024年11月15日投稿
一度も食べさせてもらえなかった……。

T様、ありがとうございます。多分、うちの母親が食べさせてくれなかったのは、甘ったるくて虫歯ができるから、ご飯が食べられなくなるから、という「健全な」理由だと思います。ヨーロッパでプリンらしきものを頂いた記憶がなく、デザートならば果物かケーキにコーヒーだったと思います。こんなにいろいろと飾り付けるのは、やはり日本ならでは、かもしれませんね?
Oさんも、お子様には食べさせなかった口ですか?妹と半分っこして、という発想もありませんでした。今なら、コレステロールが心配で、やはり食べられませんね。

2024年12月17日投稿
私のは、下の縦長の楕円形で、お目めパッチリで金髪の長いお人形が蓋に大きく描かれていました。
母は、ふりかけご飯に真っ赤なソーセージ炒めに卵焼きにトマトやほうれん草のソテーやうさぎりんご等を詰めて、毎日持たせましたが、私ときたら、隣の子がメロンパンやチョコパンを美味しそうに食べているのを見て、お弁当を毎日残してばかり。家ではいつも怒られていました。
食べないのを心配した母が、誰かに相談したのか、しばらくは、幼稚園で注文した菓子パンをお昼に食べてもいいことになりました。栄養価は落ちますが、菓子パンを食べているうちに、私は幼稚園でも何でも食べる子に育ちました。お弁当の復活は、その後まもなくでした。
振り返ると、最初の子は親も緊張しているので、失敗の連続。でも、何とか元気に健康なまま、ここまで成長できました。感謝 !

DY Yeo:Wow! You are very sentimental and a good collector of time pieces of memories
ユーリ:私のお弁当箱じゃないよ、ダイユン。

2024年12月17日投稿
実家では、年に一度、家族で「ステーキのあさくま」へお食事に行く習慣がありました。
畏まって、洋式のテーブルマナーを身につけるためだ、と母は言っていました。将来、お見合いで断られないためだ、とも。
小さかった弟は、スープがあまりにもおいしくて、スプーンで音を立てながら夢中になって食べていたので、よく私に怒られていました。
可哀想なことをした、と反省したのは、お見合いではない結婚で、温かく穏やかな主人と生活を始めてからでした。お食事は、形式よりも、楽しくおいしく頂くのが一番だ、と実感したからです。

2024年12月20日投稿
私は全然知りませんでしたが、5歳年上の主人が、仏教幼稚園のワークブックに、作文を書いていました。
かばがにんじんをたべて いけにはまた
かばはいけのなかで しぇをした
翻訳すると、
カバ が人参 を食べて、池にはまった。
カバ は池の中で、シェーをした。

2024年12月22日投稿
そうですね。マーブルチョコは、色が毒々しいとのことで、たまにしか食べさせてもらえませんでしたが。
。。。。。。。
(https://x.com/ituna4011/status/1863715690362048534)
Lily2@ituna4011
森永製菓、「チョコボール」「おっとっと」など65品目値上げ – 日本経済新聞 https://nikkei.com/article/DGXZQOUC026CF0S4A201C2000000/…
← おっとっと!まだ売っていたの?弟が小さかった頃、喜んでいた。
7:43 AM · Dec 3, 2024

(https://x.com/ituna4011/status/1869674856192831630)
Lily2@ituna4011
おにぎり食べたい。 餓死事件では、決まってこの言葉が書き残される。 社会福祉、何とかならないのか?
6:23 PM · Dec 19, 2024
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。。。。。。。
(https://x.com/ituna4011/status/1893947734593245313)
Lily2@ituna4011
コメダの始業物語も感動的でした。
5:55 PM · Feb 24, 2025
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(https://x.com/ituna4011/status/1894200684829925504)
Lily2@ituna4011
ごはん、ごはん、ごはんが食べたい。 みるくぷりん。
10:40 AM · Feb 25, 2025
。。。。。。。。
(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)

2025年1月13日投稿
チョコレートは出なかった。苺ジャムかマーマレード。たまにピーナツ・ジャムが出ると、御馳走のような気分でした!
単純で素朴だった昭和の子供達。もれなく私も。今でも単純な頭と素朴な暮らしで頑張っています。

2025年1月15日投稿
一度だけ食べたかも?

2025年1月28日投稿
鳥取砂丘のこの娘さんは、本ばかり読み、栗しか食べない変わった子だったらしい。
徒然草 第四十段

2025年1月28日投稿
大根の恩返し。
徒然草 第六十八段

2025年2月10日投稿
アポロは、苺の味と形が好きで、よく買いました。マーブルチョコも買った方です。

2025年2月19日投稿
メロンアイスは何度か食べました!

2025年2月20日投稿
はい、低学年の頃、何度か食べました!

2025年2月21日投稿
なつかしい!小学生の頃は、時々食べていました。色が毒々しいのが玉に瑕。硬いチョコレートだな、と思っていました。

2025年2月21日投稿
うちの母親は、あの事件を起こした若者は、高学歴でもインスタントラーメンばかり食べていたから、あんなことをしたのだ、と言い張り、私達子供には、カップヌードルを一切食べさせませんでした。
還暦を迎えた良い子の私(?)は、今まで一度もカップヌードルを食べたことがありません。

2025年2月27日投稿
シャービック!うちでは牛乳を混ぜて作っていました。夏休みのおやつ。

2025年2月28日投稿
絶対ダメ、と食べさせてもらえませんでした。
ただ、今となっては、献血16回、虫歯ゼロの日々。源流は幼少期にあった、と感謝しております。

(2025年3月1日転載終)
…………..
2025年3月15日追記

(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)
2025年3月3日
今思うと、なぜ△だったのだろうか?

(2025年3月15日転載終)

☚ 三角形の紙パック牛乳やコーヒー牛乳等のことです。

(2025年3月15日記)
…………..
2025年3月27日追記

(https://x.com/ituna4011/status/1860458524939309320)
Lily2@ituna4011
味噌汁やビーフシチューのレシピ 体温まる3品 – 日本経済新聞 https://nikkei.com/article/DGXZQODL183SQ0Y4A111C2000000/…
← うちの母親は、私達子供が小中学生だった頃、寒い日の朝は、お味噌汁にバターをひとかけらずつ入れていた。他の日には、ニンニク一片を。
8:00 AM · Nov 24, 2024

(https://x.com/ituna4011/status/1860459655228719452)
Lily2@ituna4011
昭和時代の子供にはよかったですが、令和の今、特に大人はバターを控えてくださいね。
8:05 AM · Nov 24, 2024

(https://x.com/ituna4011/status/1861282626117738652)
Lily2@ituna4011
私はなるべくフライパンかお鍋で温めています。電子レンジ、もう処分しようかな?
2:35 PM · Nov 26, 2024

(2025年3月27日転載終)

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介護施設 in 荻野

(https://x.com/ituna4011/status/1898699057973076013)
Lily2@ituna4011
読みました。一日一日を大切にお過ごしくださいね。
8:35 PM · Mar 9, 2025
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(https://x.com/ituna4011/status/1898991412785684759)
Lily2@ituna4011
今から少しずつ備えていきましょうね。
3:56 PM · Mar 10, 2025
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(https://x.com/ituna4011/status/1899250427230879904)
Lily2@ituna4011
そうならないように、少しずつ。
9:06 AM · Mar 11, 2025
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(2025年3月11日転載終)
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2025年3月12日追記

上記は、埼玉県にお住いの視覚障害者ご夫婦で、ご主人の方が若年性PDだという、私より一つ下の「ちゃつみ」さんとのツィッター(X)のやり取りである。

面識はなく、主にツィッター上の交流のみである。だが、家族背景からPDの進行状況、普段の暮らしぶりまで透けて見えるような気がする。当事者が、経験を事実として綴り、記述を積み重ねていくことの効用は大きい。

2024年7月18日「若PD夫を介護中の奥さん」
(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=8080&action)
2024年9月18日「ピア・カウンセリング」
(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=8688&action)

うちの主人が2019年12月21日に宝塚市立病院へ搬送入院し、救急科のお医者さんから、「もう終末期に入っていますよ。週明けまで持つかどうか」と宣告されて、初めて目が覚めた私だった。その頃、会社や親戚への連絡や、引っ越してきたばかりで何もわからないのに、葬儀等の手順等、どうしたらいいのかと途方に暮れていた。(直葬にするのか?)(長患いだったから、私一人で済ませても誰からも責められない?)(今後の自分の生活をどうしよう?)等、次々と難題が押し寄せてくるような気分で、一人悶々としていた。

その頃、夜中に眠れずスマホを検索していたら「ちゃつみ」さんのブログと遭遇し、主人を見送った2020年4月以降、ツィッターで繋がることになったのだ。

ご主人のご両親もPDで、しかも癌を併発されていたとのこと。盲学校で知り合ったご夫婦だが、同居だったので舅姑の介護で長年過ごし、見送ってようやくほっとできるかと思ったところへ、今度は盲学校ではアスリートだったご主人が発症した、というのである。

彼女は健気だが、実は病状や病歴としては深刻だ。恐らくは、若年性の家族性PDだろう。しかも、彼女は弱視に難聴、ご主人は全盲ということから、日常生活が不自由でもある。

必ずしも彼女のせいでこのような境遇になったわけではないのに、どうやらブログ記事によれば、周囲の環境が彼女に責任や負担を負わせて平気でいるらしいのだ。(それは、私も似たようなものだったので、よくわかる。「エビデンス」抜きで言うなら、そういう身勝手で冷たい家庭環境だから、最も敏感な人に神経難病が出るのだ!)

若年性PDの進行度としては、我が家より何年も後に発症していたのに、症状の悪化が早い。かなり前から介護職の仕事が続けられなくなって退職した後は、主に自宅で過ごし、デイサービスのお世話になっていたらしい。そして、数年前からDBSも入れていた。盲目のために鉄道のホームから落ちたことが二度ほどあり、家の中でも「奇行」と「ちゃつみ」さん自身が呼ぶような行動異常が頻発だったようだ。そして、最近では胃ろうの話になった。薬が飲めなくなり、一気に療養型病棟の話が出ているのである。

(我が家は、阪大病院の女性主治医が「DBSは、皆さんやっていますよ」と、いい加減な調子で一方的に話を進めた。それで、阪大病院での手術説明を二人で聴きに行ったが、二人ともそれぞれに質問をした上で、主人が拒否した。結果的に、精神症状の悪化という副作用を主治医が認め損なっていたので、それで正解だったのだ。)

「ちゃつみ」さん自身、按摩とマッサージの仕事で、日中は依頼に応じて他の家を訪問している。趣味は、昭和時代に流行していた人気タレント歌手の追っかけのようなもので、彼女なりに気晴らしとしているようだ。とはいえ、外向きに見せている姿は積極的なようであっても、精神的には心労続き。一度は妊娠したものの、あっけなく流産。どうしてどうして….という気持ちを引きずったまま、長い間、ぐっと頑張って来られたのだ。

地方なので、同居した以上は嫁が介護するのは当然、という風潮が残っているようで、葬儀の時になると突然、血族が表に出て来て、いかにも自分達がずっと世話をしてきた、みたいに振舞ったらしい。そのような恨みつらみも、「ちゃつみ」さんにはある。

我が家以上に負担なのが、やはり視覚障害ということだろう。彼女が弱視なのも、お母さんが陣痛促進剤を使ったためだとのようで、お姉さんが一人いるのに、普段はほったらかしにされているらしい。

家系の問題は、「最低でも三世代は遡らなければならない」というのが私の持論だが、難病患者がいても何とか助け合って穏やかに維持されている家もあれば、このような事例もある。全ては、心掛け一つ、考え方と実行一つで、大きく変わり得るはずなのに、である。

私としては、過去の自分に対する心理的応援も兼ねて、「ちゃつみ」さんを遠隔から励ましている。そうすることで、少しでも主人と生活を共にした自分自身の歩みにまとまりをつけていきたいと願っているのだ。
。。。。。。。。。。
主人がいなくなって五年目の今である。

昨春は、主人と約束した二つ目の学位を授与された後、二週間程して五年祭をした。

その後一年ぐらいは、毎月のゼミ参加や研究論文の緊張から解き放たれて、リラックスしようと思った。視野を広げるためのモニター活動等を通して、新しく学んだり、知り合いができたりもした。博物館や資料館へ展示を見に行ったり、講座を受けたりして、見識を広めることもできた。

秋には、修論を基にした学会のポスター発表も一つできた。医療系学会にも新たに入会して、一通りのeラーニングを済ませた。

気持ちの整理には時間がかかるので、無理をせず、荷物の整理を少しずつ進めながら、思い出を一つ一つ振り返り、そこに新たな気づきを塗り重ねつつ、自分なりの歩みを作っていくような時間を過ごしてきた。

振り返ってみると、一人でやってきた割には、9割以上うまく運んでいる。偶然にしては出来過ぎな程、日程調整や時間等、(無理じゃないかなぁ)と心配していたら、急遽、先方の事情により都合よく間に合ったり、突然、うれしい頼まれごとが飛び込んできたり、と驚いている。

本当は、病気なんかなく、二人で地味でも落ち着いた通常の生活ができることが一番の幸せだったはずだ。今でも、あり得ないことなのに夢想することがある。例えば、主人と家具を買い揃えたり、「ね、あそこで食べようよ!」「うん、いいよ」と言いながら、おいしそうなレストランに二人で入ったりという姿を、まだ想像しているのだ。自宅に戻れば、私の作った料理を二人で食べながら、その日一日あったことを気儘に喋り、話を聞いてもらえるだけで大満足、というような至極単純な暮らしが、今後も実現するかのように期待することさえある。

だが、現実を思えば、あのまま医療技術を駆使して延命したとしても、果たして何ができたのだろうか?

2019年12月下旬から続いたコロナ感染症問題で、医療介護施設はどこも緊張と制限で大変だった。我が家は、ギリギリ直前に宝塚市立病院に救急搬送できたから助かったようなものだ。第一に、今後の最悪の予測を医師が単刀直入に伝えてくださったことにより、動揺しつつ、揺れ動く葛藤を抱えながらも、私は少しずつ準備を進めていくことができた。また、良くも悪くもコロナ騒動のおかげで、病院で主人を預かってもらっている間に、私自身が休む時間を確保することができた。
。。。。。。。。。
五年前の今頃、主人は「家に帰りたい!」と何度も叫び続けて、担当医や看護師さんらを困らせていた。そうこうするうちに、ハタと思いついたのであろう、紙をもらってペンを借りて、八枚も手紙を書き始めたのだった。

それは、生きる一縷の望みを賭けた、切ない程の渇望だった。

自分の母親の誕生日が二度、隅っこに書かれていた。住所と名前が表紙代わりの一枚目に書いてあり、「ここをホチキスで留める」「ここに切手を貼る」「今日の内に確実に届くようにお願い致します」と指示を書き、端の方に「これが読めたら奇跡。でも一生懸命書きました」等と、ぐちゃぐちゃながらも紙一杯に書き連ねてあったのだった。

内容としては、「一刻も早く、この病院から出たい」「自分のこれまでの実績を見れば、お金の心配は不要である」「自宅に戻って食事療法をすれば、あと十年ぐらいは生きられるだろう」「自分の存在のためにやりたいことができないならば、ヘルパーさんを雇うぐらいの経済的余裕はある」「一緒に二人で暮らした場合の生活費の計算式」「食費、電気代、そしておむつ代の計算」「だから大丈夫。充分豊かに暮らせる」「もし一緒に暮らすことが嫌ならば、田舎の介護施設に入るから、二三ヶ月かけて一緒に探してほしい」等、切々と綴られていた。そして、私が普段作っていた食事メニューもいろいろと書いてあり、「こういうことを考えている時が一番楽しい」「とりあえず、これからも生きて行くと決めたので」とも書いてあった。

これは、絶筆ではあっても、遺書ではなかった。これまでの御礼や言い残すことも、一切記されてはいなかった。
ただ、本心から自分が願っていることを、妻にだけは伝えたい、あわよくば実行してもらいたい、という懇願のみだったのだ。

この手紙の一部は、昨秋の学会ポスター発表でも写真を表示した。何と、男性患者さんからは「これ、自分と合っている気がする」とまで言われたのだ。恐らく、医学者によるPD研究は、このような患者心理の考察が盲点だったのではなかろうか?
。。。。。。。。。
だが、履歴書から抜粋してみると、2020年4月に主人が亡くなった後の私は、それなりに人生を継続しながら新たに構築していることが少なくない。

主人が存命中だったら、時間的、精神的な制約から、そもそも物理的に不可能だったことが大半だ。そして、恐らくは主人もそばで見ていて「いいよ、そのままやってごらんよ。僕、ちゃんと見ているからさ。間違っていたら教えてあげるよ」と、生前のように言ってくれるだろうと確信している。

そもそも、神経難病患者の延命は、何を目的とするのか?生き延びたとして、何を成し遂げたいのか?

共に暮らす健常者の家族の人生を押し潰しながら延命治療をすることは、果たして誰のためなのか?

このように、生命倫理的な哲学的考察がまるで抜けたまま、ひたすら薬物投与や小手先の技術で、少しでも寿命を延ばしていくことが「PD治療」とされている現状なのである。
。。。。。。。。。。
【学歴】

2020年10月 放送大学大学院修士科目生入学(生活健康科学プログラム)
2022年4月 放送大学大学院文化科学研究科修士全科生入学(生活健康科学プログラム)          
2024年3月 放送大学大学院文化科学研究科修士全科生修了(生活健康科学プログラム)(学術修士)
2024年4月 放送大学教養学部科目履修生入学(6科目+5科目)
2024年4月 放送大学大学院文化科学研究科修士選科生入学(2科目+2科目)
2025年4月 放送大学教養学部科目履修生入学(4科目)
2025年4月 放送大学大学院文化科学研究科修士選科生入学(1科目)

【学会活動】

・『第5回JPC日本パーキンソン病コングレス(The 5th Japan Parkinson Congress)プログラム・抄録集』
主催:日本パーキンソン病コングレス(JPC)後援:一般社団法人 全国パーキンソン病友の会(2024年10月13日)
「配偶者から見た若年性パーキンソン病患者に伴う諸問題-プラミペキソールの副作用としての衝動制御障害を中心に-」p.33.

・2024年10月13日 第5回JPC日本パーキンソン病コングレス・ポスター発表
「配偶者から見た若年性パーキンソン病患者に伴う諸問題-プラミペキソールの副作用としての衝動制御障害を中心に-」(於:東京都港区・浜松町コンベンション)

【研究発表】

・伊丹市立博物館友の会例会・研究発表「神戸におけるマレー語学習について-戦前戦中を中心に-」(2021年9月25日)
・伊丹博物館友の会例会・研究発表「相互理解か宗教的不寛容か?マレーシアのイバン語訳聖書を巡る過去の事件とその余波」(2022年8月27日)
・伊丹市立博物館友の会『友の会だより』令和4年(2022年)2月26日 第67号「神戸における戦前戦中のマレー語学習について」pp.13-15.

【検定試験】

・2021年2月  一般社団法人日本漢方養生学協会 第12回薬膳・漢方試験合格
・2021年11月 第1回茶道文化検定Web版3級合格
・2022年11月 第15回適塾講座「洪庵の取り組んだ薬学―その発展」課程修了
・2023年1月  日本園芸協会「薬草ガーデン講座」の「薬草コーディネーター」資格認定
・2024年11月 社団法人 全日本きもの振興会 きもの文化検定5級合格(認定番号:249500066)

【市民委員】

・伊丹市教育委員会 義務教育諸学校等教科用図書選定委員会委員(令和2年度(2020年度)5月29日委嘱)
・伊丹市保健医療推進協議会委員(令和5(2023)年10月1日~令和7(2025)年9月30日)令和5年9月30日付藤原保幸・伊丹市長委嘱(伊健保健第884号)
・伊丹市保健医療推進協議会「食育推進部会」専門委員(令和6(2024)年10月18日~令和7(2025)年9月30日)藤原保幸・伊丹市長委嘱(伊健保健第817-②号)

【モニター活動】

・伊丹市上下水道インターネットモニター(令和4(2022)年度8月・11月)
・伊丹市上下水道インターネットモニター(令和5(2023)年度8月・11月)
・伊丹市上下水道インターネットモニター(令和6(2024)年度8月・11月)

・防衛モニター(令和6(2024)年4月1日~令和8(2026)年3月31日)陸上自衛隊中部方面総監証明書第6-178号(令和6年6月21日 姫路駐屯地にて委嘱式)

・公益社団法人 近畿地区不動産公正取引協議会 消費者モニター(令和6(2024)年4月1日~令和7(2025)年3月31日)

・伊丹市交通局市バス巡回モニター(2024年12月-2025年2月)

【著述】

・「全国パーキンソン病友の会 会報『きずな』大阪府支部だより」No.114(2020年7月)投稿「若年性パーキンソン病患者の友とご家族へ」(https://www.osaka-pda.com/)pp.42-43.

・産経新聞社『月刊正論』令和5年(2023年)8月号 日本工業新聞社「編集者へ編集者から」欄 p.298.

・放送大学大阪学習センター『みおつくし』2024年4月No.93「卒業・修了生からの喜びの声」p.9.

・伊丹市立博物館友の会『友の会だより』令和2年(2020年)10月24日 第63号「新入会員紹介」p.3.
・伊丹市立博物館友の会『友の会だより』令和3年(2021年)2月27日 第64号「むかしのくらし」動画撮影秘話(その2)pp.15-16. 
・伊丹市立博物館友の会『友の会だより』令和3年(2021年)10月30日 第66号「伊丹と島本-むかしのくらし展を機縁として」pp.10-12.
・伊丹博物館友の会(改称)『友の会だより』令和4年(2022年)6月25日 第68号「護国神社の英霊慰霊祭から祝日の改称を再考する」pp.13-14.
・伊丹博物館友の会『友の会だより』令和4年(2022年)10月29日 第69号「二つの石の話:行基石と鯉石」pp.13-14.
・伊丹博物館友の会『友の会だより』令和5年(2023年)2月25日 第70号「なんでも発表:相互理解か宗教的不寛容か?」p.14.
・伊丹博物館友の会『友の会だより』令和5年(2023年)6月24日 第71号「一住民から見た千僧今池の変遷」pp.16-18.
・伊丹博物館友の会『友の会だより』令和5年(2023年)9月23日 第72号「千僧の旧地名や古絵図そして子供神輿」pp.18-20.

【主婦向け冊子の掲載投稿】

・「日々勉強!」『ステーションCO・OP』 2020年6月号 通巻380号p.37.
・「夢の中で一生懸命」『ステーションCO・OP』 2021年4月号 通巻390号p.67.
・「ひとりごと」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2021年5月号 No.395, p.4.
・「ファミリー川柳」『ステーションCO・OP』 2021年7月号 通巻393号p.37.
・「犯人は誰?」『ステーションCO・OP』 2021年9月号 通巻395号p.67.
・「学び続けること。」『ステーションCO・OP』 2021年12月号 通巻398号p.37.
・「今年いちばん!心に残ったできごと」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2021年12月号 No.402, p.2.
・「祖父のお豆で豆まきを。」『ステーションCO・OP』 2022年2月号 通巻400号p.66.
・「効果てきめん!」『ステーションCO・OP』 2022年4月号 通巻402号p.40.
・「コツコツがんばります。」『ステーションCO・OP』 2022年5月号 通巻403号p.40.
・「伝言&いろいろ」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2022年6月号 No.408, p.4.
・「先生への感謝。」『ステーションCO・OP』 2022年7月号 通巻405号p.38.
・「♪毎日を元気に!私の健康法♪」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2022年8月号 No.410, p.2.
・「長い間、勘違いしていたこと」『ステーションCO・OP』 2022年10月号 通巻408号p.38.
・「おしゃれな父の思い出」『ステーションCO・OP』 2022年12月号 通巻410号p.40.
・「青汁の手軽な飲み方&アレンジ」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2022年12月号 No.414, p.3.
・「家族への手紙。子どものころの、わが家の暖房にまつわる思い出」編-「古き良き時代。」『ステーションCO・OP』 2023年2月号 通巻412号p.70.
・「ひとりごと」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2023年3月号 No.417, p.4.
・「家族への手紙。勉強机にまつわる思い出」編-「一緒に歩んだ机。」『ステーションCO・OP』 2023年4月号 通巻414号p.71.
・「ひとりごと」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2023年7月号 No.421, p.4.
・「教えてください」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2023年11月号 No.425, p.3.
・「ひとりごと」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2024年2月号 No.428, p.4.
・「ひとりごと」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2024年4月号 No.430, p.4.
・「家族への手紙。夏の夕立とカミナリにまつわる思い出」編-「お姉ちゃんの機転。」『ステーションCO・OP』 2024年8月号 通巻430号p.44.
・「伝言&いろいろ」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2024年10月号 No.436, p.4.
・「ひとりごと」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2025年3月号 No.441, p.4.

(2025年3月12日時点 抜粋終)
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前置きがすっかり長くなってしまったが、2025年2月25日の夕刻、主人が短期入所(ショートステイ)していた伊丹市の西北にある荻野「憩」にふらっと立ち寄った。滅多に乗らない路線の市バスに、ふと思い立って乗ってみたのだ。市バスモニターの義務の一つでもあった。

上述の交通局市バス巡回モニターは、広報伊丹の紙面で見つけて応募した。これは二度目だった。

実は、2019年8月から10月にかけて、伊丹市交通局の市バスモニターを務めていた。広報伊丹の紙面から葉書で応募したもので、投函して二週間後にお電話があった。男の人が「きれいな字で….」とまで言ってくださったことを覚えている。

まだ主人が倒れる前だったが、会社の夏休みが始まった頃で、「これから会社に行って契約をやり直して来る!」と飛び出そうとしたり、「僕の代わりに会社で働いてくれないか?」と急にごね出したりして、こちらとしては気が気ではない日々だった。だからこそ、何か負担にならない程度の公的な課題を見つけておかなければ、自分も潰れてしまいそうな気分だったのだ。

結果的に、その翌月半ばには高熱が十日程続いた後に、自宅で倒れていた主人を私が発見。近畿中央病院へ救急搬送され、一ヶ月と一週間、入院することになった。

病院への頻繁なお見舞いには、病院前と自宅前に停留所がある市バス路線を活用することで、タイミングよくモニター活動も兼ねることができ、まさに一石二鳥であった。そして、自分達のような社会負担を増やす傍迷惑な存在にも、世間に対して何らかの小さなプラスを付与することができるならば、という心理的負荷の軽減につながったのである。

結局のところ、このような次第で、伊丹市交通局市バス巡回モニターは、2019年度秋と2024年度冬の二度、務めることとなった。即ち、社会面ではコロナ前とコロナ後、私的には主人の存命中と逝去後という5年の年月を経た比較対照である。

モニターは、各自インターネット上に設置された自分用のフォーマットに、市バスを利用した際の乗車停留所名と時刻および運転手名(現在では名前ではなく、番号式に変更)を入力し、運転状況や態度を選択肢から選んで、自由意見を述べる簡単なものである。

但し、最低でも20回はコメントするようにという条件付きだ。それで、前回のような必要性に迫られた市バス利用がなくなっていた今回は、2月末までに、無理矢理にでも20回以上の乗車件数にする必要があった。

これがなかなか厄介で、冬場ならば駅まで平気で歩いている私であっても、外出の用件がある間は極力、自宅前から市バスに乗るように努力した。しかし、引越し直後からコロナ前までの頃は、比較的バスの本数が多くて便利だと喜んでいたのに、コロナを機に、いつの間にか経営上からもバスの本数が減ってしまい、しかも「高齢者に優しく」対応する運転手さんだと、時刻表から10分以上は平気で遅れて到着するようになっていた。バスが遅れると、電車にも乗り遅れる。最近では、電車さえ人身事故等の多発で何が起きるかわからない。というわけで、外出の用件に間に合うかどうか気が気ではないという、従来にはない心理的負担が追加されていることに気づいた。

他の路線を試そうにも、市バス停留所の時刻表がほとんど真っ白という場所が急に増えた。つまり、乗客が減ったので路線廃止直前という停留所なのだろう。
。。。。。。。。。
話は長くなったが、「介護施設 in 荻野」にふらりと立ち寄ったのも、結局は市バス乗車の回数を増やすモニター意識からであった。

阪急伊丹駅のバスターミナルで、主人亡き後は一度も使わなかった停留所に並び、2月25日の夕方5時20分、鶴田団地行きに乗り込んだ。

この路線は、清水橋から春日丘を経由して、大鹿東口、緑ヶ丘小学校前、瑞穂小学校前、緑ヶ丘2丁目と、住宅街の細い道路をのろのろと走っていく。そして、陸上自衛隊の中部方面総監部前を通り過ぎ、瑞ヶ池まで来る。そこから田畑を潰して住宅地にした東野、大野という地区を経て、ようやく荻野に。数分先には市営住宅の鶴田団地に到着した。

実は、瑞ヶ池までは自宅から歩いて行ける。主人の入院中や逝去後も、しばらくの間、朝4時半頃に目が覚めて、今後を思索すべく、まだ薄暗い朝から歩き回っていた時期があった。また、総監部前には伊丹廃寺があり、主人と2019年6月頃、出かけたことがあった。「伊丹廃寺の考古学的調査は、今や自衛隊の敷地になってしまって不可能だ」と、残念な話を聞いたことがあるが、その伊丹駐屯地に総監部が置かれていて、昨年10月には記念式典が挙行された。防衛モニターとしてご招待を受けた私も、喜んで参列した。

ただ、東野や大野へは、主人の入所騒ぎがドタバタ劇で終わって6年目に入った今年、ようやく背景や状況が認識できた。2019年11月末に、主人の精神症候に私の疲労度や介護負担を悟った近所のケアマネさんが、私が依頼するより先に、入所を決めてくださったのだった。この時には、荻野がどういう所かも知らず、ただ言われるままに受け身で動いていた私だった。地理を確かめる余裕は全くなかった。

施設とはいえ、あくまでその時点では、私の疲労を軽減させるための「レスパイト入所」で、決して主人が納得したものではなかった。私とて、施設をいろいろと調査した上で決めたものではない。そもそも、「レスパイト」という言葉さえ知らなかった。

とにかく、2019年11月14日に市内の回復リハ病院を強制退院した後、主人は勝手に伊丹市内や尼崎市、大阪市等へと無断外出して徘徊を繰り返した。その挙げ句、宿泊したビジネス・ホテル内で転倒が続き、こちらとしても疲労困憊の極みだった。

もともと若い頃は会社でも評価が高く、家でも2015年頃までは、至極従順で素直で穏やかだった主人が、なぜそのような自己中心的な行動に出るようになったのか。「まだ歩ける」し「会社に行きたい」のに、「どうして自由にさせてくれないのか」「自分は自由に生きていきたい」「ユーリは規範意識が強いよね」という反抗心からだったようである。

救急隊員からは「早く施設に入れろ」と言われ、その年の夏に入院でお世話になった近畿中央病院の神経内科の女性主治医からも「緊急、緊急」と繰り返し忠告されていた。だが、本人の意識としては、「会社に戻る」「定年までは働きたい」「アパートを借りて料理したい」「自分が好きなように生きていきたい」の一点張り。そのような状態では最早ないと、客観的には誰もが認めるのに、PD患者の脳内意識では過去の経験が根強く残っていて、どれほど周囲が説得しても、なかなか現状を受容するに至らないのだ。

そういう経緯があった後、主人は嫌々ながらも入所することになった。12月1日の当日、午前10時に女性スタッフが車で迎えに来てくださったが、朝から30分以上もトイレにこもり、主人は激しく抵抗した。トイレのドア下から片手を出して「貯金通帳を渡せ」と執拗に求め、お金を銀行で下ろして、一人で遠くへ逃亡するつもりらしかった。

介護施設の職員さんは既に慣れているらしく、「20分間様子を見ましょう。20分が限度です」と言った。疲れ切っていた私は、「もういい加減にしなさい!皆さんにご迷惑ばかりかけて….」と叱るしかなかった。

とりあえず、20分後には女性職員さんの「ホテル行くよ」の誘導が効いて、ようやく主人はのろのろと出て来て、おとなしくワゴン車に乗り込んだらしい。その後ろ姿を見送っている私も、胸が張り裂けそうだった。まるで、「おうちにいたい!」と叫んでいる小さな子供を我意で無理やり「家から出て行きなさい」と引き離そうとしている、冷酷な親になったような気分だった。

一時間後、私は着替えと薬などの荷物一式を持って、その施設に向かうことになっていた。荻野の道路沿いにある三階建て鉄筋コンクリートのマンションを改造して「地域密着型」にした老人介護施設に、12月1日から19日まで主人はお世話になるはずだった。そこから、しばらく夫婦が離れて暮らすことによって私を休ませ、今後どうするかの計画を立てようというのが、ケアマネさんの意向だった。

言われた通り、私は市バスに乗って、そこへ到着した。ベテラン風の看護師さんが、労わるように私に応対してくださったのが印象的だった。薬の飲ませ方など、簡単な説明で手続きは終わった。

施設の写真を撮り、帰りは向かい側のバス停で建物を眺めながら、(とうとう、こんな所まで来ちゃった)と私は思った。引っ越してきて、荷物がまだ片付かないままに、次々といろんなことが起こり、とりあえずは目の前のことと多少の気晴らしをするだけで精一杯の日々だった。

主人自身は「大丈夫。まだできる」と言い続けるものの、本人の意向に沿うことは必ずしも妥当だとは思えなかった。それにしても、あまりにも急速に想像を超えて事が展開していったのだった。

だからこそ、大阪市内の遺族役員の女性が「あなた、よく頑張ったね。そんなにすぐに施設が見つかったなんて。大阪だと待機中ばかりで、なかなか世話してもらえないのよ」と電話で仰った時にでも、私自身は、なすすべもなく周囲の援助にただ縋るしかなく、どのように主人を宥め賺したらよいのか、皆目見当がつかない状態だった。
。。。。。。。。
施設では、まるで幼稚園のように温かな出迎えが演出されており、おやつ代やレクリエーション費も私が払った。季節の料理が出され、職員も基本的な訓練を受けている様子だった。だが、おむつ代やら何やら、請求書はかなり高額な印象を持った。(主人は後に、「だからビジネスホテルの方が安いでしょう?」とまで言った。但し、それは事実に違う。)

「持って来てほしい」とスマホのメールで主人から連絡のあったものや、スマホで主人がアマゾン注文し、自宅宛てに届いた細々としたパソコン器具類等は、私が施設まで届けに行ったこともあった。

また、数日経って落ち着いた頃、ケアマネさんが、高槻市にある高級老人ホームまで主人を車に乗せて、もう一人の介護施設案内の男性担当者と一緒に、入所見学に連れて行ってくださったようだ。(なぜ、そんな所まで?)(途中で交通事故にでも遭ったら、どうするのだろう?)と私は内心ハラハラしたが、結婚以来、高槻市の隣町に20年以上暮らしており、もともとは高槻市民でもあった主人のことなので、(夫婦別居を志向するなら、高槻に)とでも思ったのだろうか?

それにしても、尼崎にある会社の方はどうなるのだろう?なぜ、わざわざ兵庫県から大阪府の施設まで行かなければならないのだろうか?

主人の方は、ホテルのような高級施設に暮らすとしても「3000万円ぐらいなら、何とでもなるでしょう」と、ケアマネさんに吹聴したらしい。そのようにケアマネ記録には残っていたが、私としては、話が急に大きくなり、騙されているのではないかと不安が募った。後でパンフレットを見せてもらい、主人の話を聞く限りにおいて、「高いところは親切だ」「お金を払えば、いいサービスが受けられる」と意に介していない様子だった。

一方、ケアマネさんの方も心得ていて、「いくら何でもここにはしないやろ」と判断し、「御主人、人格が壊れていませんか?」とまで電話で伝えて来た。

実際のところ、入社以来、35年間の社内貯蓄や有価証券と幾つかの銀行預金などを総合すれば、主人は決して大法螺を吹いたわけではなかった。だが、高槻市の高級施設等に仮に入ったとしても、周囲との違和感にトラブルが増大したことだろう。また、徘徊が始まったら、さらに危険だ。それ以上に、地理的距離やら私への負担など、何を考えているのだろうかと疑念が募った。
。。。。。。。。
荻野「憩」に入所中、主人の兄がやって来て、「そんな施設に入ったら殺されるぞ」等、変なことを吹き込んだらしい。私の訴えを聞いて、主人の実家に説得に行かれた主人の父方の従兄弟だという叔父さんの話によると、義兄は介護施設内での職員の暴行や殺人等の事件をテレビの報道で知り、「介護は家族がするものだ」「施設は危ないところだ」と思い込んでいた、という。しかし、この施設は、実は兵庫県知事からも認証を受けている。何も知らなかった我々二人が、若くて綺麗なケアマネさんに「騙されて」強制入所された訳では、決してないのだ。

また、義兄が伊丹市内の近畿中央病院への外来診察の付き添いをする時にも、診察時間に大幅に遅れ、病院で注意されたらしい。すると、「ケアマネこそが病院の付き添いをすべきなのに、なんで自分にやらせるのか!」と怒鳴り込んだという。ある時には、病院まで警察が来たと看護師から聞いた。

そもそも、この義兄という人は、表向き最初は「弟の面倒を見てもいい」と肯定的なことをケアマネさんにも言っておきながら、自分の手落ちか認識不足でトラブルが発生すると、途端に周囲に暴言をまき散らし、他人のせいにする傾向があった。普段、私は年に4回のお墓参り以外に付き合っていなかったし、そもそも結婚当初から話が全く合わなかったので避けていた。ところが、実家の内部でどれほどの恐ろしい経験をしながら、末っ子の主人が大変肩身の狭い思いをして育ってきたのかということは、主人の人生の最終段階に至って、目の前で具現化されたのだった。

だからこそ、私は今でも引き摺った感情がある。主人のことが本当に可哀そうだった、と思う。
いつでも母方の田舎の祖父母や伯父ちゃんの話ばかり繰り返して、実家の話を全くしたことがなかった主人だった。小学校の頃から大学院まで学業成績も優等で、会社での評価も高かった。そして、私が一人残されても全く働かなくも済むように、私のためにこんなに社内貯蓄を積み立てておいて、いろいろと考えてくれていた主人だった。

「僕の所に来たら、思いっきり勉強ができるよ」「僕は勉強する女性が好きなんです」と、出会った初日から大真面目に言い、父にも真っ直ぐ言い、結婚後はそのまま実行してくれていた。そのおかげで、私はマレーシアのリサーチも、実家にいた独身時代より遥かに進んだし、いつでも研究発表を思い切って自由にさせてもらえた。こんな病気になって仕事が充分にできなくなった分、「ユーリはできるんだからさ、僕の代わりに、僕の分も勉強がんばれ~」と、いつでも言ってくれていた。

私にとっては勿体ないようないい夫だったのに、終盤で連続トラブルを起こして平気だった義兄の振舞を見る限り、実家では不健全かつ抑圧的な環境で育ったようだ。

「跡取り長男」というだけで同居の祖母に猫可愛がりされた義兄は、学校では勉強もスポーツもできず、虐められっ子。「おばあちゃん子」という以上に、何でも手を出す祖母から甘ったれのひ弱者にされたらしく、いつでも家の中で父親と大喧嘩ばかりだったようだ。そのため、身長が180センチ程あり、学業も友人関係も全く対照的だった次男の主人は、兄を刺激しないように家の中ではひたすら小さくなっていたようなのだ。

「クリスチャンにならなければ、兄貴は絶対に不良になっていた」とも主人から聞いたことがある。「え、不良?」
「兄貴はあの辺の汚い言葉使いをする」とも。「でも僕は、いつでも丁寧に喋るよ」
「僕はラジオを作った。兄貴が途中で放り投げたから、拾って集めて組み立てたよ」

そのような断片的な会話から、私はもっと早くから、主人の心情を深く察知すべきだったのだ、と今でも後悔する。そういう話になると、何ともしけた気がするので、私は主人との生活を第一に考えたく、実家の話は避けて通って来た。だが、その長年の家庭内の弊害が、この荻野の施設「憩」で如実に表出されたのだった。

職員は言った。「あのお兄さんが来たら、急に考えが変わって、『ここを出る!』の一点張りになってしまいました」。

その通り、12月12日の正午前、荷物をまとめることもせず、薬も置いたまま、主人は施設の玄関先でケアマネさんと大喧嘩。途中で、懸命の説得を振り切って、携帯で呼び出しておいたタクシーに飛び乗って施設を去ったという。ケアマネさんが、いくら「ここにいれば、食事も出るし、お風呂にも入れてもらえる。夜も一時間おきに見回りがあって、薬も飲ませてもらえる。個室だから好きなように過ごせる。リハビリ体操もある。自分一人で動くのは危険だから」等と強く繰り返し説得しても、「ここを出る!」と強硬に主張したらしいのだ。

その頃、疲れ切って自宅で寝転びながら本を読んでいた私は、息せき切って電話をかけて来たケアマネさんから事情を知らされ、途方に暮れるばかり。謝る以外に方法はなかった。タクシーで逃走されると、目的地はどこかわからない。居所から連絡がなければ、いざという時にこちらも困る。

ケアマネさんは、病状から万が一のことを非常に恐れていたようだった。責任を問われかねないからである。

翌日の昼頃、市バスに乗って荷物の引き取りに行った私に、職員さん達は事務的な応対のみだった。そこへ偶然にも主人から携帯電話がかかり、「今大阪にいる。動かなくなったから、薬持ってきて」と。
職員さん達の目の前で、私は「そんな勝手なことをするなら、もう私は何もしません」と答えた。本当は、PD患者が薬を切らすことは致命的なのだ。でも、こちらも振り回されて堪忍袋の緒が切れた感じだった。職員さん達は皆、黙ったままびっくりした表情だった。

結局は、事務室にまとめてあった荷物を受け取り、お礼を述べて、私は一人でとぼとぼと帰途に着いた。一体全体、どうしてこのような回路になってしまったのだろうか?
。。。。。。。。。。
見知らぬ土地で素人の自分が一人で判断するよりは、周囲の助けを借りようと思い、私は近医の花田クリニック、PD友の会大阪府支部の遺族役員さん、伊丹警察、ケアマネさん等に逐一報告をしていた。

中でも自宅から徒歩数分の花田先生には、何度も相談と報告に行き、いつでも温かく親身な応対をいただいた。

施設から主人が勝手に飛び出した時、義兄が「弟のそういう姿を見たくない、と母が言っていたから」という理由で施設から出るように促したらしい、と私が言うと、パソコンに向かってカルテを入力していた花田先生が、「なに?どういうことだ、それは….」と、私以上にわなわなと震え出し、「もう….こっちが言うことじゃないけど、そんなことを言うなら離婚だぞ!…..と、言いたいところだな」と。そして、「もう、そんな兄には最期まで会わすな。患者が混乱する。なんなら、患者接近を不可とする弁護士を紹介してもいい」とまで言われた。

もともと脳神経外科がご専門の花田先生は、そのような傍迷惑な家族親族の方面でも経験豊富なようで、「普段、患者と一緒に暮らして、診察についてくる家族ならばいいが、日本のどこかから突然現れて、治療を妨害する親戚や家族が出ることがある。なぜそういうことをするか、理由はさまざまだ。ある場合は、年金受給のためだ」等と話された後に、「奥さんも、大変なご主人を持ちましたねぇ」と言われた。

このような会話ができたのは、後にも先にも、花田先生だけだった。個人で開業している医師は、比較的自由に患者や付き添い人と話すことが出来るが、病院勤務だと、ましてや大学病院の勤務医だと、制約がかかってなかなか話せないこともあるだろう。
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荻野の介護施設に入ったからと言って、即座に会社から解雇を言い渡されたわけではない。それは、直属の上司からも私は電話で聞いていた。むしろ、「しばらく落ち着くまで入所してもらっていい。こちらとしては、定年退職までの給与等、考えてあるから、奥さんは何も心配することはない」という話だった。
ところが、「急にケアマネさんと大喧嘩して、施設から飛び出して連絡が取れない」「しかもそれは、主人の兄が退所をそそのかしたから、と職員から聞いている」との私の報告に、上司の方も驚愕そのもの、あまりのことに言葉もない、という反応だった。「居場所が不明ということは、正社員である以上、会社としても看過できない。万が一の時には、労災等の責任を負うことになる」からだ。

要するに、客観的に見れば、主人の必死の抵抗は、あまり意味がなかったのだ。むしろ、せっかくお世話してくださった方々の心証を悪くしただけだ。それとて、主人の兄が出て来て、全て中途半端なことをしてトラブルを作り出し、何でもこちらのせいにしたからであった。ケアマネさんは最初から義兄の言動不審を察知しており、私宛への電話で、「あのお兄さんって人、仕事は何をしていた人なんですか?なぜ、口を開けば奥さんの悪口ばかり言うんですか?」と尋ねてきたことさえあった。

ともかく、こういう状態だと、近畿中央病院でも、市内の回復リハ病院でも、荻野の介護施設でも、せっかく熱心に動いてくれた若いケアマネさんも、我が家の名前を聞いただけで、皆が「これ以上はできません」と、断ってきたのだった。本当に、あの時の苦境は思い出すだにゾッとする。花田先生が私以上に、私の代わりに怒りに満ちた態度を示してくださったことは、私にとっては深い慰めとなった。
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荻野へ長らくご無沙汰していた理由は、このような事情からである。

修論を形だけでも書き上げた2023年12月半ばまでは、思い出すだけでもドッと疲れ、二三日程、何もしたくなく、ゴロゴロするばかりの時間を過ごしていた。時間が無駄になるので、思い出したくもなかった。

主人の逝去通知と同時に、ケアマネ事務所と同様に荻野の施設にもお願いして、それぞれ介護記録を送っていただいた。記録は他人ながらも主人の性格や病状を淡々と過不足なく示しており、読むだけでも胸が詰まるような思いがした。

そして、この記録は加筆修正の上、症例報告として、修論にも掲載した。ケアマネ事務所は、回復リハ病院を退院した11月14日から宝塚市立病院に救急搬送されるまでの12月21日まで、荻野の施設は、12月1日から13日までと、いずれもごく短期間ではあったものの、そこで展開した、危機にまみれた濃厚かつ仰天するような経験は、今日ここにブログで書き記すことで、ようやく精神的には一段落つけた感がある。

こうして追悼の念を持ちながら、書ける気になった時にブログで思いのたけを綴ることは、私流の慰霊の旅だ。書くことで、経験が系統立てて整理できる。そして、感情も少しずつ落ち着いていく。

勉強や遠方へのお出かけや音楽会の記録等、実は全て主人との思い出の延長線上にあるものばかりだ。このような経験は、時間が経てば記憶が薄れていく類のものではない。むしろ、時間と共に逆に塗り重ねられて、強化し、深化していく。

それは、30代で最も意気揚々としていたはずの結婚後一年で、青天の霹靂のような進行性神経難病の診断を下され、学位取得の目標も、仕事の達成も、子供を持って家庭を築いていく過程も、全て志半ばで中絶せざるを得なかった、主人の生涯の儚さを思うからでもある。

父母の結婚が極めて強制的で、強引に無理強いした不自然なものであり、従って、実家の暮らしも最初から歪な状態であった。同居だった父方祖母の実家がしたことであるが、母方の側がいくら頼んでも、相手(つまり義父)の写真さえ見せられなかったという。「顔なんか見んでもいい。早く早く、そっちじゃない、こっちこっち」と、急かされるように嫁がされたという話は、主人の母から結婚後、会う度に毎度繰り返し聞かされていた。その上、住環境にも恵まれなかった。昭和30年と言えば、まだ大阪大空襲の影響が残っていたからでもある。

遠縁だからと言いなりになって、娘を「あんなところに」やってしまったことを、田舎の方は深く後悔したらしい。だからこそ、母親似だった主人は、小学校一年生の時から夏休み毎に、一人で「田舎に行く!」と言い、大阪での生活を乗り越える楽しみにしていたようだ。

主人は、大学の頃まで、大阪の実家とは全く環境の異なる、堅実な武家の流れを引く母方の田舎の祖父母に心底なついていた。そこで受け継いだ薫陶を軸に、いつしか意志強固に高い人生目標を掲げて、一心不乱に真面目に努力をしてきた。その姿勢は、大学でも認められ、会社でも高い評価に繋がっていた。だから「努力して自分の人生は自分で切り開いていく」ことに意義を見出し、意欲を燃やしていたのだった。社費による米国留学(マサチューセッツ工科大学)と米国(ニュージャージー州)での駐在員の経験は、それを証左する。

それなのに、最期は義兄にやり返しとして意地悪な征服をされるような形で、寒空の下をほっつき歩かされ、レストランではお金もないまま、ただ食いするようになり、夜中に道端で倒れた結果、全身の血流に真菌(カンジタ菌)が回るというような恐ろしい悲劇に突き落とされた。結局は、それが基で落命したのだった。
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修論ができたとしても、学会発表が一度済ませられたとしても、これで終わったわけではない。
知識の上では大した内容ではないが、実経験が伴っているので、精神的心理的な重圧となって、思い出す度に鬱屈した気持ちになる。

そもそも、義兄が自分の非を認めようとしないところに、問題の根がある。家庭裁判所の調停でも、調停員が呆れ返る程だった。主人の実家の墓地でさえ、何ら話もないままに、私に丸投げして平気である。こういう無責任な人が「長男」「跡取り」というだけの理由で甘やかされ、無能かつ無責任に育ち、若くして難病を抱えた弟夫婦に多大な負担を与え続け、意地悪をし、非常識な振舞をして憚らなかったのだ。
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荻野の「憩」施設には、バスの窓から道路沿いに見えた垂れ幕「入所者募集・職員募集」がきっかけとなり、鶴田団地の終点から歩いて引き返してみた。この垂れ幕は、主人が入所した頃にはなかったものだ。あの時には、大きく見えた建物だったが、実は三階建てで、今は余裕を持って眺めることが出来た。

午後5時52分から6時まで、外側から写真を撮った後に、中に入って主人がケアマネさんと大喧嘩した玄関を見つめた。あの時には広く見えた玄関だったが、今では我が家の玄関よりも狭い気がした。そして、令和4年と令和5年に「第三者評価」によって介護施設として斎藤元彦知事が認証した、という証明書も飾ってあった。

そうこうするうちに、事務室から男性職員が一人出て来た。そして、ヘルパーさんらしい溌溂とした女性スタッフも一人出て来られた。私が、「2019年の11月(注:「12月」の誤り)に、ここでお世話になった○○の家内です。長い間、ご挨拶に来られず、失礼いたしました。今日はたまたま、ふらっとこの辺りに来たので、お仕事の邪魔にならない程度にご挨拶に来ました」と申し出ると、「あ、論文書いたっていう人ですね?」と。

介護記録を送っていただいたことから、私のことも覚えられていたのだった。上記で書いたこと等をかいつまんで話し、「本当にご迷惑をお掛けしてすみませんでした」と謝ると、「こっちは仕事でやっていますから、気にしなくてもいいですよ」「個人差がありますから」と大らかに受け止めてくださった。

慣れていらっしゃるのだろう。それに、PD介護について、5年前の専門知識や経験に比べれば、5年後の今では研修などを通して、それなりの蓄積があることだろう。コロナ問題も含めて、さまざまな介護やお看取りが積み重なって、そのように鷹揚な対応に繋がるのだろう。

介護記録によると、介護士の男性一人が毎晩一時間おきに部屋の様子を見回りして、容態を確認されていたようだ。うちの主人の場合は、トイレに起こしてもらったり、昼間は近くのコンビニまで買い物に付き添ってもらったり、薬のことや通院のことなど、何かと注文の多い入所者だったのに、一生懸命に応対されていたようだった。特に、「昼間はずっとスマホばかりいじっている」との記述が印象的だった。

私にとっては、全く見ず知らずの新しい環境に突然放り込まれて、初めて出会う人達にこまごまと面倒を見てもらいながら、それでも何かれと要求を出して周囲を困らせていた主人の様子を記録から想像し、何とも複雑な気持ちになった。夫婦としては、(本来なら私がやらなければならなかったことなのだろう)と思い、胸が潰れるような感覚を持った反面、(介護保険料は2000年から会社の給与天引きで払ってきたし、特定疾患(指定難病)として大学病院からも厚労省からも認められている病気だ。こちらが押しかけたのではなく、有資格のケアマネさんが計画した通りに従っているまでだ)とも思い直した。そして、(お金を払ってやってもらっているのだから、他人として仕事だと割り切っているから、できるのだろう)と思ってみたりもした。

それでも、夜勤の担当者は自分の生活を昼夜逆転させて、よく素性のわからない病人や高齢者を相手に、根気よくお世話しているのだ。後に、自宅郵便受けに入っていたチラシを見ていたところ、そのような仕事をする求人募集があり、時給が安かったことには驚いた。本当に申し訳ない気持ちになった。

勿論、主人の神経難病は原因不明の進行性で、薬物治療で症状を抑えているに過ぎず、完治に向かう治療ではない。我が家がお世話になった若いケアマネさんでさえ、「30代でパーキンソンなんて、可哀そうやなぁ。福祉の専門職として、助けてあげたいな、と思うんやけど……」と私に言っていたぐらいなのだった。

「最期がどうなるかなんて、わからないよ」「死んだら終わりだよ」と、主人はよく言っていた。でも、まさかあれ程までに自己抑制的だったはずの「模範的な」主人が、こんな風になろうとは….。最期は医療福祉の関係者全てに迷惑がられ、疎んぜられ、「家に帰りたい!」「ここから出せ!」と叫び、我儘一杯に「死んでもいいから食べさせろ!」と女性医師に執拗に言い続け、ついに独り寂しく古びた病棟の壁を見つめつつ、痩せ衰えて静かに息を引き取って行った姿は、今でも私の脳裏を離れることがない。

(2025年3月12日記)(2025年3月13日/2025年3月14日一部加筆修正)

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高槻・島本・京都で振り返る

伊丹に暮らすようになって早くも七年目。主人の勤務先の統合により、2018年9月28日に大阪府三島郡島本町から兵庫県伊丹市に転入した私共であった。

知り合いがいるわけでもなかった兵庫県に50代で初めて住むことになった。初めの頃は、主人の定年までの二年程を「まとめモード」として荷物整理しながら、静かに賃貸URで暮らすのだろうと心得ていた。

引越し二ヶ月前の真夏日に、私の大量の「資料が置けるように」ということで、主人がiPadで見つけた今の住まいは、結婚してから住んだ計三軒の賃貸旧公団(UR)の中で、最も広い部屋だった。

主人は「こんな体になっても、会社が転勤を認めてくれた」と喜び、「会社に交渉して、家賃が社宅扱いの半額になったぞ」とも威張っていた。恐らくは、定年までは頑張るつもりで、相当に意志を主張したのだろう。周囲や上司から体調を心配されながらも、若い頃の仕事ぶりや特許の業績等が考慮されて、かなり厚遇していただけた。他の社員の方達は、伊丹製作所まで相変わらず大山崎町や向日市から通勤し続けることになったにも関わらず、である。

家での主人の神経難病特有の状態から、私は会社に対して申し訳ない気持ちで一杯で、(大した働きもできていないのに、こんなにしていただくなんて、会社にこれ以上、ご迷惑をかけることはできない)と、張りつめた日々だった。

一方、主人の方は、「大丈夫だよ。書類をしらっと出せば会社も通してくれたよ」等と大風呂敷を広げたようなことを言い、テーブルや本棚やカーテンや脱衣籠、地震に備えて本棚を固定する道具等、次々にいろいろなものを買い込んでいた。そして、週末になると、動かない手足を動かしてゆっくりと組み立てていた。出来上がった本棚は、少しずれたように微かに斜めに傾いていた。ハラハラしながら見ていた私も、「あと一年半しかここに住めないんだから、新しいものを増やすよりは、あるものを活用すればいい」と、繰り返し言っていた。

「一年半しかここに住めない」と言っていたら、実際のところ、本当に主人は一年半で逝ってしまったのだ。

転勤後の十ヶ月間は、満員電車に揺られながら何とかかろうじて通勤を続けていたが、途中で三週間、阪大病院に検査入院をした。2019年1月のことだった。

そして2019年8月23日の午後、伊丹市立図書館で開催された「やさしい古文書教室」に私が初めて出席して帰宅した夕刻前、DKLで倒れていた主人を発見した。幸いなことに意識はあり、「大丈夫だよ、また温泉にでも行けば治るよ」等と、まだ呑気なことを言っていたが、咄嗟の判断で私が電話を取って救急車を呼び、そのまま近畿中央病院に搬送されることになった。

それからが怒涛の日々だった。長らく私一人で抱え込んでいた爆弾のようなものが、主人が入院したことによって、専門医や看護師さんらによって負担共有されたように思い、ゆっくり休む時間、自分が自分であることを許される時間、自分自身を取り戻す時間が多少は確保されたことは確かだったが、本人の意識とは裏腹に、二十年以上も罹患していた若年性パーキンソン病の進行は、環境の変化をきっかけに、相当に深刻だったのだ。

一歩間違っていたら、本当に危ないところだった。原因不明とされるものの、悪性症候群は致死的であり、もっと発見が遅れていたら…という危機寸前だったのだ。

既に過去ブログで何度か書いたことだが、2019年8月23日の入院後、一ヶ月一週間を経て市内の回復リハビリ病院へ転院したものの、11月14日には無理やり退院を強行。それからは警察沙汰の徘徊やトラブルの連続だった。

11月下旬には、自宅から徒歩5分にある介護福祉事務所へ飛び込んだ私の焦燥と疲労を見た、若くて綺麗なケアマネさんの機転で、伊丹市内の西北にある「レスパイト」目的の施設入所が決まった。だが、納得のいかないままに入所を強制されたと思い込んだ主人が、ケアマネさんと大喧嘩の末、無理やり脱走。その挙句、大阪市の天王寺や阿倍野等の繁華街を徘徊して転倒。夜中になって日本橋の黒門ホテルに飛び込んだ主人が、翌日にはベッドから倒れたままチェックアウト時間を過ぎても居座り。救急隊員の電話によって、私が自宅から黒門ホテルまで駆けつけたのだった。

一晩をそのホテルで過ごした翌日、大阪から伊丹の近畿中央病院までタクシーで連れて行った。主治医に叱責されて自宅に戻った数日後には、これまた奇妙な状態に。思い切って、クリニックの閉まる5分前に相談に飛び込んだ私に対して、近医の花田先生が「命に係わる、すぐに救急車だ」と仰り、今度は宝塚市の病院へ救急搬送。2019年12月21日のことだった。即座に検査されたが、数時間後に「もう終末期に入ってますよ、奥さん。とても50代の男性の体とは思えない。週明けまで持つかどうか、だ」と、救急科の担当医に告げられ、初めて目が覚めた思いがした。

それから、私のための時間稼ぎでもあったのだが、何度か危ないところを抗菌薬や解熱剤で助けていただき、翌年2月17日には急性期病棟を退院。今度は福祉車で、川西市の療養型病院へ転院。ここでも最初から最後まで何かとトラブル続きで大変だった。そこへ、コロナ問題で2月25日からはお見舞い全面禁止に。その後は、火曜日と金曜日の週二回のみ、ナースを経由して洗濯物の交換がてら間接的なお見舞いのみ可能となった。しかし、私にとっては、その間、家の整理が進んだ上、休む時間が取れた。そして、引越し荷物を片付ける中で見つけた主人宛の古い手紙やお年賀状をコピーし、短いメモと共に病院で本人に渡して、残された時間、それぞれに思い出を温める機会とした。

3月末日には、当初から主治医に予告されていた急変となり、同系列にあった斜め向かいのお看取り病院で最期。あれ程主人が懇願していた会社には一度も戻ることなく、古い病棟で一人寂しく生涯を終えたのだった。
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島本から伊丹へ・伊丹から島本へ

2020年4月7日以降、主人亡き日々を一人で伊丹に暮らし続けているが、実は当初の予想に反して、伊丹では顔見知りがすぐにでき、二十年以上も暮らしていた島本町ではなかったような知的刺激や知己に恵まれている。市内の中央神社での初詣や大阪の展示会にも、誘い合って一緒に行けるような間柄なのだ。やはり、私のために、会社に無理を言って主人が伊丹に連れて来てくれたのだ、と常々思い、とても感謝している。

昨春、主人の病気をテーマに二つ目の修士号を授与されたことから、二十代の頃からのマレーシア研究と合わせて、研究テーマが二つに増えた。それによって、本や資料もさらに増えたが、充分な広さを持つ住まいを主人が見つけてくれたおかげで、今では最も安定した気分で日々を送らせてもらっている。

顔見知りによる知的刺激のきっかけは、端的には地域史の学びである。

転居した2018年が偶然にも行基菩薩の記念年に該当していたため、「行基さんツアー」や「行基さんのミニミニお勉強会」みたいな気楽な催しが、次々と伊丹の広報で紹介されていた。引越してきたばかりの者にはうってつけの地理学習であり、地域の雰囲気を知るにも適切であった。そして、市の職員さんのみならず、誰もが親切にこまごまと教えてくださり、実にスムーズに伊丹生活に溶け込むことができたのである。

もっと驚いたことには、西国街道や行基菩薩や酒造といった伊丹を象徴する歴史学習のポイントが、実は島本町とも密接に繋がっているという発見だった。さらに、自分の家系ルーツと関連が深いことに気づかされたのである。

先に酒造について述べると、このブログでも映像等で既に紹介済だが、岐阜県加茂郡川辺町にある白扇酒造は、母方祖母の実家、つまり、私の母方曽祖父母の家業である。今の社長が私の母の従兄弟で、副社長は私のはとこに相当する。伊丹に引っ越してきてからも、時々は母方の叔母と電話で話すことがあったが、そもそも、この叔母のお蔭で白扇酒造の住所がわかり、2017年6月上旬には初めて主人と訪問することができた。(そして、2019年3月には、名古屋の平和公園の父方と母方の墓地も探り当てることができたのである。)

このようなルーツ辿りの道程は、時間がかかるものの、極めて重要な自己アイデンティティの確定となる。すなわち、自分がかつて住んだことのある土地、そして、今住んでいる土地の来歴を、街歩きをしつつ、古文書資料を提示されながら、少しずつ学んでいく過程が、何らかの接点を自分の生涯に見出す作業に繋がっていくのだ。単に衣食住が満たされ、職場に通勤しやすく、環境も良い、というだけでは、何となく地に足がつかないまま時を過ごすことになる。それだけではない、もっと自覚的な確証のような意識が自分の内部に芽生えて、根付いていくのである。

その意味では、私は時期的にも地理的にも、偶然にしては出来過ぎな程、非常に恵まれていたと思う。

伊丹に来たおかげで、行基菩薩が島本町にも深く痕跡を残していることを自分なりに再確認できたし、西国街道で島本と伊丹が繋がっているありがたさを実感できた。また、伊丹の歴史文化財担当の熱心な職員さんの紹介により、京都文化博物館内に設置されている古代学協会の会合に連なることができ、月に一度、桓武天皇の長岡京時代について山中章先生から教わるようになって一年程になる。

(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=2162&action)
2022年3月13日「水無瀬野を歩く」

(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=8654&action)
2024年9月16日「第二回水無瀬離宮シンポジウム」

このように、大阪府下の島本町に住んでいた頃には、到底知り得なかったような深く詳しい島本の歴史を、何と兵庫県下の伊丹に引っ越してきてから学ぶようになったのだ。驚き以外の何物でもない。
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高槻古代史友の会・古代史講座『藤原鎌足と阿武山古墳』

そして、山中先生の京都文化博物館での1月22日の講義後、これまた不思議なように「高槻古代史友の会・古代史講座」のチラシを頂いたのだった。

高槻市は、阪急かJRに乗って一区という身近な場所で、島本町では不足する家財道具や食料品を購入する度に気軽に行っていた。ところが、二十年以上も暮らしていたのに、高槻で行く場所はいつでも駅周辺と限られており、用事が済むとさっさと帰って来ていた。せいぜい、主人と外食するのに、あちこちのお店を試した程度である。

伊丹への転出が決まった頃になって、私は慌てて高槻市内の今城塚古墳をバスで見に行き、資料館でも冊子を買い求めた。だが、時間が到底不足しており、(なぜ来なかったんだろうか?)と、我ながら不思議だった。

今回、1月27日『藤原鎌足と阿武山古墳』と題した40回記念特別講演のチラシに魅せられたものの、その日は放送大学の単位認定試験の最終日に該当しており、私は計7科目を一気に受験する必要があったため、やむなく欠席。ところが、2月17日には午後1時半から4時半まで、「考古学からみた行基の智識」(西川寿勝先生)「聖武天皇時代の仏教」(若井敏明先生)の講演が予定されている、という。(これだ!)と思い、出かけて行った。

実は、受付で名簿に名前を記入したところ、私の上の欄には伊丹市清水町から来られた男性のお名前があった!

この「行基の智識集団」という話も、島本町の隣町である乙訓郡大山崎町で聴いたことはあった。実際には、伊丹市立図書館(ことば蔵)の郷土史コーナーに何冊も本が並べられていたので、伊丹に来てから自分でノートやファイルを作って勉強し始めたのだ。(島本町の町立図書館では、果たしてどうだったのか???)

しかも、「古代史友の会」と呼称していても、伊丹のような素人集団のボランティアグループではなく、元大阪府教育庁に勤務された西川先生は、文化庁とも関係が深かったらしい。若井先生に至っては、関西大学の講師でいらっしゃる。いずれも、お笑い節の楽し気な講演で、いかにも「大阪府」「関西」という雰囲気だった。

それ以上にびっくりしたのは、高槻市役所のある会場の高槻市生涯学習センターには、この度初めて訪れた、という自分の行動範囲の狭さだった。JRでも阪急でも、駅から歩けない距離ではない。もともと用事がなかったから来なかっただけでもある。しかしながら、高槻市立図書館も入っているこの建物に、何故、私は一度も来たことがなかったのだろうか?

主人なら、米国留学前の一時期、初めての一人暮らしとして高槻市天神町のアパートに住んでいたことがあった。だから、高槻市民としての登録は、ここでしたはずだ。その痕跡となる物品は、まだ荷物から発見されていないが、アパート入居に際して、主人の母もついてきて、大家さんに挨拶をしたらしい。大家さんは、まだ青年だった主人をすっかり気に入り、お見合い相手の女性を紹介しようとさえしたようだ。私共が結婚して初めてお年賀状を出した1998年の後、数年程は大家さんからお年賀状が届いていたぐらいだったので、余程、気に入られていた模様だ。

とはいえ、主人は一度も私をこの辺りに連れて来たことはなかった。今はどうなっているか不明の天神町のアパートへも、「この辺りだよ」と教えてくれたことさえなかった。恐らくは、結婚後一年で診断を下された若年性神経難病という青天の霹靂により、かつて意気揚々としていた頃の自分の暮らしに戻りたくなかった、あるいは、戻れるような心境ではなかったのだろう。
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第三回水無瀬シンポ「島本歴史講座」

ところで、高槻の一週間後の2月24日(振替休日)には、午後2時から4時まで、第三回水無瀬シンポジウムに該当する「島本歴史講座」が島本町ふれあいセンター3階で開催された。参加者は、受付で尋ねたところによれば51名だったそうだ。

講師は、伊丹に来る前にも面識のあった大山崎町歴史資料館の館長である福島克彦先生であった。実は、昨年12月の予定だったが、事前に先生がコロナに感染されたため、二ヶ月後に延期されたものである。タイトルは「広瀬村の景観と水無瀬荘、水無瀬殿、水無瀬津」というもので、たくさんの詳細な資料が提示された。

福島先生は伊丹にも来られたことがあるそうで、伊丹の文化財保存ボランティアと博物館友の会を兼任している、私よりも年下の男性が、その旨、言及されていた。

福島先生に言わせると、「大山崎町の方が史的研究は進んでいるが、島本町はお宝がたくさんあるのに、研究も保存展示もなかなか実現していない」とのことだった。それとて、その話を聞いたのは私が伊丹に転居する前のことで、「島本の人に言ってはいけない」とさえ注意された。それを未だに裏付けるかのように、今回の配布資料に含まれていたのは、島本町長や教育委員会長や関電不動産開発会社等への文化財保存への要望書のコピーだった。
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アンケート用紙に、私は以下のように書いて提出した。

・兵庫県伊丹市から参加した

【講演会への意見・感想】

福島先生には久しぶりにお目にかかれて嬉しく存じます。くれぐれもご自愛の程、お祈り申し上げます。
詳しい資料とパワーポイントのおかげで、より理解が深まりました。
学術的に批判的な考察も紹介され、立体的な見地から本テーマをとらえるきっかけが与えられたように思います。
福島先生は伊丹にも来られたことがあるそうで、知り合いが言及されていました。

【歴史倶楽部しまもとの取り組み】

第1回、第2回の水無瀬シンポの後、早速ファイルを作り、国会図書館から論文を何本か取り寄せました。
実施にはさまざまなご苦労があろうかと存じますが、地に足をつけた住民生活のためにも、土地開発の乱獲を防止する上でも、足元の歴史を学術的資料を基に理解することは、極めて重要であると思います。今後も継続していただきますようお願い申し上げます。

【その他の感想】

しまもと歴史倶楽部に入りたいところだが、伊丹でも歴史講座が盛んに展開されており、兵庫五国も魅力的な土地なので、とても時間が足りないのが残念である。
前回、前々回も書いたことだが、元島本町民(1997年11月から2018年9月まで)としては、なぜもっと前からこのような催しがなかったのか、という問題である。福島先生には、大山崎町で行基さんのお話をうかがった際、「島本にはお宝がたくさんあるが、保存する場がない。島本の人の前ではあまり言わないように」と言われた記憶がある。時機を逸した感が否めない。町政の動向と住民の意識の問題だろうか?

島本町立図書館で島本の歴史に関する本を見ていると、必ず女性スタッフが近づいて来て、「そういう本は1時間以上見ないでください」と注意された。転出前に『島本町史』を部分コピーしたが、翌日続けようとしたところ、本が隠されてしまっていた。

以前、島本町民だった頃、ふれあいセンターで「歴史講座」が開かれたことがあるが、一度のぞいてみたところ、聞くに耐えないようなお粗末な内容だった。恐らく一部の政治的な動きだろうと思われるが、もっと早くから対処していただきたかった。

2021年頃だったか、島本町の学芸員さんから聞いた話では、島本で古文書教室を開こうとすると、役場にまで抗議しに来る人がいるので、個人宅で作業している、という。町の対応は?

(転写終)
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ところで、今回の島本訪問では、ぎょっとするような虫の知らせがあった。

(https://note.com/chr_tokitabibito/n/ndb9240be71ab?sub_rt=share_b)
「77年 町医者が私財投げ打ち教会開設・大阪府最北に」
クリ時旅人
2022年9月30日
「病気の治療だけでは人間は本当には幸せになれない」と、大阪府最北、京都と県境を接する三島郡島本町で町医者を営んでいる医師・上田昌司さんが、自分の経営する上田医院の隣に、私財をなげうって教会堂(島本福音キリスト教会)を建てた。
この77年3月の記事の段階では、これから「8月には、これまで貯金してたお金をなげ出して教会堂を建てるという」との記述だが、実際にそれが実現し、現在も上田医院の隣に、島本福音キリスト教会が建っている。
そして同教会は現在も、インターネットで常に、最新の礼拝メッセージや教会催し物情報を更新し、活発なリアルの活動が継続していることがうかがえる。牧師さんの名前も掲載されている。
また、上田医院のWEBサイトには、医師として上田さんの名前や、診療科目、診療時間、内視鏡検査、腹部超音波検査、胃内視鏡検査についての案内などのほか、「アクセス」として地図、最寄り駅案内と共に、「隣の教会の十字架を目指してお越しください」と記し、島本福音キリスト教会の写真を堂々と掲げている。
上田さんは京都福音教会(当時、藤林邦夫牧師)の教会員で、会計役員も長く勤めた。地元に教会ができればその母教会に行けないのは寂しいと語っている。「でも、自分の“肉”を親しませるために信仰生活しているんじゃないですから……。恵まれるだけの段階から、人々に“食物”を与える段階に進まなければ、クリスチャンは成長しませんからね」
これまで診療所で週日、集会を開いてきて「日曜日の集会も開いてください」と、出席者から強い要望を受けていたその帰結でもある。
クリスチャン新聞記事は、「医院も引き続き開きながら、“霊”“肉”ともに地域の人々の病をみる医者として奉仕していくことになる」と締めくくっている。

(転載終)
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(https://x.com/ituna4011/status/1893946446988087297)
Lily2@ituna4011
シャドウボクシング・シャドウ空手・シャドウギター : デイリー牧師ノート http://blog.livedoor.jp/bokushinoto/archives/88935009.html…
2024年09月07日
シャドウボクシング・シャドウ空手・シャドウギター
《だから僕は、大学病院の医師たちも知らない機密情報を知っていても、簡単には世間に知らさない知恵がついた。》
《僕も今よりもっと高齢になったらやってみたい診療法だ。》

← 水無瀬シンポ第3回のため、5ヶ月ぶりに島本町へ。気になったので、上田昌司先生のブログを開いたら、昨年で止まっていた。
5:49 PM · Feb 24, 2025
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(https://x.com/ituna4011/status/1893947155661914250)
Lily2@ituna4011
7人のお子様を育て上げられた由。
5:52 PM · Feb 24, 2025
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(転載終)
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(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20080210)
2008年2月10日「医師と牧師を兼業する一事例」

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20100121)
2010年1月21日「私にとっての望ましい地域医療」

(https://itunalily.hatenablog.com/archive/2016/01/06)
2016年1月6日「先生とのお別れ」

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20160112)
2016年1月12日「久しぶりに基督教会を考える」

いつかはこのような日が来るとは思っていたが、御次男さんのモオセ先生にせよ、お父様の大先生にせよ、長文のブログをしっかり書き残したまま、静かに目の前からいなくなってしまわれた感じだ。2024年9月7日が最後のブログ記事であり、その反応拍手が三桁にもなっていたので、恐らくは私の知らない間に、と想像される。

2018年9月半ばに、夕方診察の終わり頃を見計らって、お茶のお土産持参でお目にかかったのが最後だった。これから伊丹への転居を機に島本から転出すること、親子先生には二度程、診察でお世話になったこと、毎日のように先生のブログ「牧師ノート」を読んでいた時期があったこと(特に2004年から2007年までの同志社神学部神学研究科での嘱託講師だった頃)、これまでの御礼がてら挨拶に来たことを申し上げた。
先生は、御年の割に肌がつややかで、穏やかな話し方をされた。そして、琵琶湖の北部にあるマキノ町に所有している土地を開墾して教会堂を建て、説教奉仕をされていたが、その土地の由来や、ユニークだった祖母様の思い出話等を、淡々と語られた。
そして、最後には「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と唱えれば、すうっと安心して万事うまくいく、みたいなことを書いた薄い御著書を一冊、渡された。

実際には、主人の進行性の病状から、唱えたところで何らうまくも運ばなかったが、お守りのような本ではあった。

(2025年2月28日記)(2025年3月1日・3月10日一部修正)

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あれから丸一年

(https://x.com/ituna4011/status/1895069113627865592)
Lily2@ituna4011
大学院の修了通知 – ブログ版『ユーリの部屋』 https://itunalily.hatenablog.com/entry/2024/02/27/172045…
☚ はてなブログから丸一年前の今日、何を書いたかメール通知が届きました!確かにあの日以来、予想以上に、さまざまに肯定的な展開がありました。非常に充実した健康的な日々を送らせていただいております。
8:11 PM · Feb 27, 2025
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(https://x.com/ituna4011/status/1895351653190246573)
Lily2@ituna4011
今も国会図書館から医学論文の複写を取り寄せ、エクセルに入力して読み進めています。 昨年度は看護学や疾病等、修論の補充科目を履修し、理解不足を補ってきました。 4月からの院の新規科目には統計学の課も含まれていて助かります。 5月には大阪の学会で、お世話になった神経学の先生方に再会予定。
2:53 PM · Feb 28, 2025
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。。。。。。。
(https://x.com/ituna4011/status/1894715510945951838)
Lily2@ituna4011
「カリフォルニアから来た娘」症候群とは〜認知症専門医・長谷川嘉哉 https://youtu.be/L63HzfnVJoQ?si=G4MeEk4SMW0HGH87… via @YouTube
☚ 2022年の修論ゼミでも私は言及しました。随分前から、介護職の研修では有名な話だったようです。
8:45 PM · Feb 26, 2025·
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(https://x.com/ituna4011/status/1894200460804067778)
Lily2@ituna4011
医療者が見落としがちな「自宅に他人を迎える」負担:日経メディカル https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/series/hirohashi/202502/587699.html?n_cid=nbpnmo_twbn…
← わかります。他人には足を踏み入れて欲しくないです。部屋中をじろじろ観察され、レンタルを勧められたりするし….。寄り添い強制!
10:39 AM · Feb 25, 2025

(2025年2月28日転載終)

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自衛隊の内部から侵食?

(https://x.com/ituna4011/status/1894609526676160980)
Lily2@ituna4011
田母神俊雄氏がしばらく前の映像で仰っていました。モニター報告書にも書いて提出致しました。
1:44 PM · Feb 26, 2025
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(https://x.com/ituna4011/status/1894612817275490505)
Lily2@ituna4011
昭和時代、都市銀行に入行する社員は戸籍謄本を出し、家族の学歴職歴を書く欄があったそうです。 私の弟が防衛大学校を受験した際にも、家族の職業と学校名を全部書きました。合格した時、防大から電話がかかってきて、幹部候補生として教育したいので、姉の私から説得するよう、懇願されました。
1:57 PM · Feb 26, 2025
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(https://x.com/ituna4011/status/1894615082786853119)
Lily2@ituna4011
今となっては、賢い知恵だったか、と。
2:06 PM · Feb 26, 2025
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(https://x.com/ituna4011/status/1894616141693423686)
Lily2@ituna4011
受け取った自衛官さんが、 “このような報告書は初めてだ” とびっくりされ、 “上司に報告します” と。こっちがびっくりしましたよ。
2:11 PM · Feb 26, 2025
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(https://x.com/ituna4011/status/1894617115245908290)
Lily2@ituna4011
駐屯地の記念式典では、明らかに外国人名の名札をつけた自衛官がうろうろしていましたよ。 そのこともモニター報告書に書きました。国土防衛が主目的の自衛隊なのに、 “人を守りたい” と言い換えるのは、曖昧かつ混乱させる、とも訴えました。
2:14 PM · Feb 26, 2025
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(https://x.com/ituna4011/status/1894614752992931928)
Lily2@ituna4011
1993年のことでした。結局、私が断ったので、弟は一般大学に行きました。 今となっては、それで良かったかどうかは疑問ですが、とにかく、個人情報法以前は、国籍は勿論のこと、戸籍謄本、親の最終学歴と職業、兄弟姉妹の学歴を全部、書類に書いて提出でした。だから、防大から電話があったのです。
2:05 PM · Feb 26, 2025
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(https://x.com/ituna4011/status/1894626169192157629)
Lily2@ituna4011
私の高校は、先輩方も含めて同窓生は毎年、一学年に二、三人は防大を受験し、大抵、合格者が出ていました。今は知りませんが、進学した人達、どこでどうしているでしょうか? 防衛モニターになって、防大合格の話をすると、誰からも凄いと言われますが、受験指導にも問題があったかと思われます。
2:50 PM · Feb 26, 2025
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(https://x.com/ituna4011/status/1894668467921633630)
Lily2@ituna4011
未婚の自衛官を救済するため?なのか、ある駐屯地では’婚活パーティー’なる出会いの場セッティングがあった。 だが問題は、結婚式を営外でするため、お相手が誰かわからないことだ。
5:38 PM · Feb 26, 2025
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(https://x.com/ituna4011/status/1894672269261390086)
Lily2@ituna4011
そういうことではダメなんです、残念ながら。何かあったら親族が出てきて、結局は血の繋がりが切れないからです。東アジアのこの種の問題、困っているケースが少なくなさそうです。
5:54 PM · Feb 26, 2025
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(2025年2月27日転載終)

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写真をFBに掲載したら….

私には2008年11月から開始したフェイスブック(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)がある。

数日前、アマゾンの出品サイトの再更新のために自分のパスポート写真をドロップしようとしたところ、撮りためた写真の束が出て来て、我ながら興味深かったので数枚を取り出してフェイスブックに追加してみた。
すると、思いがけず、国内外のFB友達(実際の友人知人も含む)から予想以上の反響があり、びっくり仰天。記念として、ここにコメント抜粋を転載する。(Lilyことユーリ)

1. 2025年2月19日投稿

主人の母から譲られた色無地と金扇の帯で、2024年3月下旬、東京の新宿で二つ目の修士号の学位授与祝賀会に出席いたしました!

Maya Khemlani David:Congratulations!
ユーリ:Thank you so much, Dr. Maya! This is my second MA degree in a totally different field, namely a neurological medical topic. It was about one year ago.
Maya Khemlani David:do tell what you researched!
ユーリ:‛Problems faced by a spouse whose husband was undergoing treatment for juvenile Parkinson’s disease: Impulse control disorders caused by pramipexole usage’
Maya Khemlani David:Would love to read it!
ユーリ:Thank you, but it was mainly written in Japanese, except for abstract and some passages, I am afraid.

ユーリ:Thank you, Margie! How are you?
ユーリ:Thank you, Rev. Roxborogh! How are you?
ユーリ:あれから一年、さまざまな新鮮な経験に恵まれました。ありがとうございます。

田中 裕二:素晴らしいですね♪ そして綺麗です
ユーリ:田中 裕二様、他の表現、ないんですか?
田中 裕二:ユーリさん なんと申し上げればご納得?
ユーリ:お世辞はほどほどに….バレンタインも終わったし。

ユーリ:Thank you, Sakthi! But it is last year’s picture, by the way.
ユーリ:Thank you, Kim! It was one year ago, though.
ユーリ:Thank you, Rev. Dr. Hunt! How are you?

Zaira Michael:Congratulations Ikuko
ユーリ:Thank you, Marie! It was last year’s picture, by the way.
Thilak Sanjev:Congratulations Aunty
ユーリ:Thank you, Sanjev! This was last year’s celebration, though.

* 計23名から反応がありました。マレーシア、シンガポール、アメリカ、カナダ、ニュージーランド、イスラエル、そして日本です。案外に外国の友人知人は、こちらの様子をキャッチしているのですね?マレーシアのリサーチ関連で知己となって以来、久しくご無沙汰だった方々からもです。驚きました。
そして、学位取得の話は昨年だったのに、今回の授与だと思ってか、次々とお祝いの言葉が寄せられたのです。機械翻訳を使って読んでいる人もいるようですが、どこまで正確でしょうか…..。

* 田中裕二さんとは、面識はないのですが、ブログのクラシック音楽記事にコメントをいただいてから、随分長いお付き合いになります。ツィッターの方にも反応をいただいております。叔母様が私共が20年程暮らしていた大阪府下の町にお住まいで、住所は大体わかっております。また、従姉妹さんのお名前が私と同じだそうで、そんな関係で親しみを持ってくださっているようです。

(2025年2月23日記)(2025年2月27日一部加筆修正)
…………….
2025年2月28日追記

2.2025年2月19日投稿

私の成人式。1月15日、二十歳です。実家の床の間の前で撮ってもらいました。当時は、こういう着物と髪型だったのですね。ご指名にあずかり、成人代表として君が代のピアノ演奏もいたしました。

田中 裕二:目線が厳しい…w
ユーリ:このお着物、裾の方に御所車が描かれていたんです。帯の色合わせ、母親が選んでくれました。今の若い人の成人式(成人祭?)は、ケバケバしい色合いとデザイン、それに髪型も派手ですが、私の時代には、経済が上向きでイケイケどんどんだったためか、我々若人達は、クールに構えていたんです。今となっては、それが仇となって、「失われた30年」を招聘してしまったのでないか、と。
Sifu Kairesh:Do u have photos back in Malaysia
ユーリ:There are many, Kairesh, but I will show them later.
。。。。。。。。
3. 2025年2月19日投稿

成人式の午後、母方祖母宅にて。叔父が写真を撮ってくれました。
。。。。。。。。
4.2025年2月19日投稿

成人式に撮った写真ですが、昭和時代には、これが「お見合い写真」を兼ねていたようです。今から思えば、内心はいっぱしの大人のつもり。でも、見るからに二十歳のういういしい(?)娘でした!
成人式は1月15日と決まっていたので、事前に予約を取り、朝5時起きで美容院まで歩いて行きました。
長く伸ばした髪を結い上げて、大きな白いリボンに、白いかすみ草をいっぱい散りばめていたんですよ。(なぜ、後ろ髪を写さなかったのか、今でも不思議…..。)

【追記】
おはしよりがちょっと曖昧ですね、これ。この時代の帯とお着物の取り合わせは、こんな洋風もどきでしたね。帯締めはさすがに、おしゃれにしていますが、今風ならば、もっときつめの帯の色で、コントラストをはっきりさせるでしょうね。
それにしても、私、前髪がふさふさしていて、白髪もない……
昨年11月末に初めて受験した「きもの文化検定」、一発で合格しましたよ。着付けはできないけれども、基本的な知識だけは、と。

Y・O:もうちょいニッコリしたら〜
ユーリ:これが私なんです、二十歳の。昭和時代、経済が好調だったので、若者世代はクールに斜に構えるのが in だったんですよ。
。。。。。。。。
5. 2025年2月19日投稿

結婚前の私です。
裏千家茶道の許状をいただくため、色無地を着てお茶の先生の道場のあるお宅近くで、車を出してくれた父に撮影してもらいました。当時の地名は、大治町でした。

【追記】
確かこの時、美容師さんが私の髪の毛を見て「長っ」と言いながら、それでもテキパキと結い上げてくれました。(後ろ髪は、自宅で妹に撮ってもらった写真があったはずですが、今は見当たりません。)
茶道ですから、シンプルが一番。

ユーリ:お着物シリーズ、大学卒業時と結婚式の白無垢、結婚後に習っていた先生による京都のお茶会(祇園近く)で着たものがありますが、今日はこの辺でおしまいです。
ユーリ:田中様、ハンサムでいらっしゃいますね!ありがとうございます。
田中 裕二:ユーリさん アイコンがそんな感じなだけで、タダのジジイですw
ユーリ:そんなわけ、ないでしょう?横浜にお住まいで……
田中 裕二:ユーリさん はい、横浜市ですよー。ま、普通の街です。blog に載せている通りですわ。

ユーリ:帯揚げが出過ぎのような気もしますが、結婚前ということで、そうなったのでしょうか?お着物にも流行があり、流行を作り出しているのは呉服屋さんだそうです。但し、時代背景も関係してきそうですね?つまり、伝統とは必ずしも固定化したものではない、ということです。

Amy Shargel:Beautiful!
ユーリ:Thank you, Amy! How are you?
ng>Amy Shargel:ユーリ All great here. Hope you are doing well.
ユーリ:I have been fine all the time, thank you, Amy!
。。。。。。。。
6. 2025年2月19日投稿

最後はこれ。こんな私もあったのですね…….遠い目。

田中 裕二:美しい
ユーリ:ドレスが、でしょ?
田中 裕二:いえ、ユーリさんが
ユーリ:ま、今晩はこの辺りにしておきましょうか。
田中 裕二:なんか、若いって良いですねー
ユーリ:今も私、若いつもりですけど。意識の上ではまだ40代!

Sifu Kairesh:You still look the same aunty. Would love come see u one day in Japan
ユーリ:Thank you so much, Kairesh! I hope so, too.
。。。。。。。。
7. 2025年2月20日投稿

大学1年生の時、名古屋市内でのピアノの発表会だったと思います。演奏したのは、ウェーバーのピアノ・ソナタ「無窮動」でした。
結婚後はヴァイオリンの音色に魅せられて、弦楽器ばかり聴いていたように思いますが、ウェーバーは、今日になって久しぶりに思い出しました。

ユーリ:Thank you, Pas. Tai! How are you?
Tai Fui Fong:ユーリ Hi dear…Thank God I’m fine…so happy to view your nice photos
ユーリ:Thank you again, Pas.Tai!

田中 裕二:えっ、これはユーリさんですか? 
ユーリ:田中 裕二 様 そうですよ、何か文句あります?
。。。。。。。。
8. 2025年2月20日投稿

2023年前半期の修士課程ZOOMゼミ直前の顔。自宅にいるのに、なぜか緊張していますね?
わかりました!指導教授が「デス・カフェ(DEATH CAFE)」なんて話を振って来たからなのです。縁起でもない、エビデンスなんて…..。
。。。。。。。。
9. 2025年2月20日投稿

2021年4月29日の昭和祭に京都の下鴨神社で植樹しました。
一本15万円の桂の献木です。私の名前は、今では下鴨神社に三ヶ所、プレートがかかっています。
裏千家の大宗匠(鵬雲斎御家元)から直接、お名前を呼ばれて緊張しました!

田中 裕二:そりゃ凄いですよ。うちの家内も、家元から声かけされたとき膝が震えて立っていられなかったと言っていました。私は実際には見てませんのでよくわかりませんが。。
ユーリ:田中 裕二 様、やっぱり奥様も凄い方じゃないですか!それにしても大宗匠様、かくしゃくとして、スタスタと歩いて来られ、「私の先祖の千利休は….」とおっしゃった時には、時空を超えて不思議な感覚がありました。
田中 裕二:ユーリさん なんか、重厚な雰囲気で凄い存在感らしいですね。で、結構なお歳なのにお元気で、しかも独特の軽妙さもありで、魅力的なおかただそうです。
ユーリ:はい、私はこれまで四回、植樹祭とお茶会で直接お目にかかりましたよ。場所はいずれも下鴨神社、私共が結婚式をした場です。
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10. 2025年2月20日投稿

ここはどこでしょう?
ヨルダンのペトラです。2015年4月下旬から5月上旬まで、イスラエルのネゲブへ英語圏の旅団と一緒に行きました。(私は主催者の翻訳者だったので、唯一の日本人でしたが、皆さんにとても親切にしていただきました。)
ペトラ遺跡は、実は日本の三菱が修復に関与していたのでした。日本人の中東事業は、新聞報道だけではわかりませんね?
。。。。。。。。
11. 2025年2月20日投稿

なぜか北大にいます。主人が撮影してくれました。
2013年5月の連休中、札幌と旭川を初めて旅行しました。整然とした街並み、広がる大地、開拓の大変さをしみじみと感じました。
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12. 2025年2月21日投稿

香港です。隣で笑っているのは、妹です。
大学2年生の時、どうしても海外旅行に出かけたくて、両親にねだり続け、ようやく「二人で行くなら」と許可が出ました。だから、高校生だったのに、妹は私よりも余裕綽々だったのです。
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13. 2025年2月21日投稿

3歳4ヶ月のわたし。ピアノの発表会、がんばりました!
おちょぼ口で、まじめくさっています。
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14. 2025年2月21日投稿

ここはどこでしょうか?
1986年3月のクアラルンプール(Kuala Lumpur, Malaysia)です!
。。。。。。
大学では国文学科だった私。「英語が出来ない人が国文学科に行くんだよね!」と誰かに言われて憤慨し、英文学科のイギリス人(英会話担当)とアメリカ人(英作文担当)の先生の授業にも参加していました。
前者の英国紳士が春休みに帰省するということで、私達受講生の中から希望者を募り、英国南部のボーンマスに二週間、ロンドンに一週間、ごく普通の家庭に分散してホームステイをしました。午前中は英会話の授業もどき、午後は自由に英国生活をのぞき見しながら散策というプログラムでした。
その後は各自、自分で計画を立てて欧州を旅することになり、私は当時、英語とドイツ語で文通していたオランダと旧西ドイツ(マンハイム近郊)の友達の家に二泊三日ずつ、お世話になりました。(ドイツ語でドイツ人と話したのは、その時が初めてでした!オランダ人のペンフレンドは、私がドイツ語を勉強していると知って、嫌がっていました。あの頃は、まだナチ・ドイツの記憶が深刻だったのです。)
。。。。。。。。
そして、一ヶ月を欧州で過ごした後、日本への帰国は、英国紳士の先生と受講生全員が、ヒースロー空港で集合。マレーシア航空でした。
当時のイギリスでは、英国人が大変に親切で、アメリカ人の気さくさはないものの、さっと階段でスーツケース運びを手伝ってくれるなど、新鮮な経験でした。
ロンドンからドバイに給油のために立ち寄り、その後はマレーシア経由で成田に到着したというわけです。南回りでした。
ブラウスが皺だらけなのは、帰国直前だからです。もう、灼熱の熱帯気候で、冬服しかなかったため、暑くて窒息しそうでした。
まさか、その3年後には政府の仕事でマレーシアに赴任することになるとは、その時には想像だにしておりませんでした。

おしまい。

Thilak Sanjev:Amazing! I never knew that your assignment in Malaysia was for government work.
ユーリ:I told you so many a time, Sanjev!
。。。。。。。。
15. 2025年2月21日投稿

自分語り写真シリーズもこれにて終了!
2024年5月に大阪のスカイビルで、単衣の着物と帯を新調するために伊丹の呉服店のベテラン店員さんとご一緒した際、記念撮影していただきました。
約一ヶ月後の6月8日、仕立てていただいたお抹茶色の着物で下鴨神社のお茶会に参列いたしました。その時のお写真は、既に公開済ですね?

(2025年2月28日転載終)
……………
2025年3月27日追記

(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)

16. 2025年2月27日投稿

2015年春の英語圏スタディツアー旅団です。同行のアメリカ人女性が10年程前にシェアしてくれました。
私はどこにいるでしょうか?
ちなみに、右側の女性はオーストラリア人で、2018年5月末に京都に来てくださったことがあります。今もやり取りがありますよ。

(2025年3月27日転載終)

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枕草子と清少納言を巡って

(https://x.com/ituna4011/status/1893487737799626796)
Lily2@ituna4011
『枕草子』の印刷教材が実におもしろい。 島内裕子先生のちくま学芸文庫を上下二冊、先に入手して読み始めていたので、放送大学の講義は、先生の長年のご研究の上澄みエッセンスだとわかった。つまり、単位を取得して終わりなのではなく、あくまでベース作りができただけなのだ。
11:27 AM · Feb 23, 2025
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(https://x.com/ituna4011/status/1893489948600291716)
Lily2@ituna4011
最近の日本の’かわいい文化’は、清少納言が発祥のようだ。 また、よろず即物的でわかりやすさを強制する昨今のフラット日本文化に対しては、藤原行成と清少納言の漢籍と和歌を踏まえた典雅なやり取りと、貴族女性の肘鉄撃墜が見事である。
11:35 AM · Feb 23, 2025
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Lily2@ituna4011
セクハラだの何だの、騒いでいないで、ちいとは清少納言の才知と矜持に学びなさい!
11:49 AM · Feb 23, 2025
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Lily2@ituna4011
昔、アルバイトで女子高校生の家庭教師をしていた頃、古典の時、文法説明や暗記の前に、
男の人と女の人はね、大きな木の葉っぱに筆で和歌を書いて、お香を薫きしめた和紙を添えて、気持ちを伝えていたのよ。素敵でしょ?
と説明したら、いきなり試験で20点以上も高い成績になった。
11:42 AM · Feb 23, 2025
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急に受験勉強に身が入るようになったそうで、自信がついたらしい。 美容師をして家計の足しにしていらしたお母さんからも、物凄く喜ばれ、お小遣いまでくださった。 平安貴族の古典の威力は甚大だ。
11:45 AM · Feb 23, 2025
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Lily2@ituna4011
高校の時には、3年間も同じ担任だった国語の男の先生から、
清少納言は才気走った勝ち気な女だ、
と否定的に教わり、紫式部に軍配が上がっていた。 だが、これも時代だろうか、最近では、知的な女性が人気だそうで、清少納言も肯定的な評価に変わってきたようだ。
12:17 PM · Feb 23, 2025
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Lily2@ituna4011
源氏物語の横笛巻について、 幼い薫が旺盛な食欲を発揮して、無邪気に筍を食べ散らかしているのを見た光源氏は、将来の薫の女性問題を予見した、と島内裕子教授は記す。 果たせるかな、宇治十帖では、薫は苦悩したと描かれた。 二十歳前には、学校でそういう話を習わなかったよ。筍と女性問題!
12:45 PM · Feb 23, 2025
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(https://x.com/ituna4011/status/1428227284519976964)
Lily2@ituna4011
大鏡の講座。いつもなら自転車だが、大雨でバスが遅れ、10分も遅刻。ご免なさい。 最後に、もし今と同等の体力等が備わっているなら、何歳まで生きたいか、という問いに一人ずつ答えた。大体、90歳ぐらい。伊丹の人々は概して幸せに暮らしているのだと思った。 私は、数字を上げるのは難しい、と。
2:28 PM · Aug 19, 2021

(https://x.com/ituna4011/status/1428228721383596039)
Lily2@ituna4011
最近、自分の履歴書を見直してみて、学歴、職歴、資格等の欄を見ると、昭和、平成、令和と並んでいたので、その次ぐらいまでは、と答えた。 私が最後だったからか、先生は 皆さん若い。 とおっしゃった。 実は、先生は私の父と同年生まれ。
2:33 PM · Aug 19, 2021

(https://x.com/ituna4011/status/1428230225943351297)
Lily2@ituna4011
先生のご著書にサインをいただいた。 中学生はかわいい、と言い切られて、ズーンと感動した。難しい年頃だといわれる思春期の子供達に、絶対の信頼感を寄せて、体を張って教育されてきた。 小さな子は、表面上はかわいいかもしれないが、中身までかわいいとは限らない、という下りが一番おもしろい。
2:39 PM · Aug 19, 2021

(https://x.com/ituna4011/status/1428232664025231363)
Lily2@ituna4011
伊丹で暮らして三年目になるが、凄い土地柄だと、毎日感動している。 オリンピック選手も出るし、90代後半でも古文書を堂々と読める健脚の女性もいらっしゃるし、和久先生のように女性初が枕詞の進取の気性に富む教育者も。 古典文学と土地の歴史が生き生きと根付いているからではないだろうか。
2:49 PM · Aug 19, 2021

(https://x.com/ituna4011/status/1893532602885128331)
Lily2@ituna4011
この和久一美先生の『大鏡を読む』講座に自転車で通っていた3年半前、フィンランド女性の書いた清少納言に関する本が紹介された。 『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』 ミア・カンキマキ(著) 末延 弘子(訳) 草思社(2021年8月) 早速読み、時代と着眼点の相違をおもしろく思った。
2:25 PM · Feb 23, 2025
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(https://x.com/ituna4011/status/1893532813632381294)
Lily2@ituna4011
今、伊丹市立図書館に入っているのは、私のリクエストで購入していただいたものですよ。
2:26 PM · Feb 23, 2025
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(2025年2月23日転載終)

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