早くも新学期間近となり、そろそろ準備をしなければならない。
2月19日には早々と届いていた計5科目の放送大学の印刷教材も、結局は予習どころではなかった。久しぶりに、図書館から国防や自衛隊に関する本を7冊も借りてしまったからでもある。また、いろいろと心に積もり積もっていた澱のようなものを少しずつ整理する時間が必要だったからでもある。
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昨日は、昨年11月から今年3月まで、ツィッターやフェイスブックに掲載した自分の感想やコメント等をワードに転写したままだったものを、一気にブログに19項目として転載した。この作業は、自分を振り返る上でも、日々の記録としても、私にとっては欠かせないことだ。
なぜ、昨秋から溜まったままだったのか?
11月には、姫路駐屯地での記念式典に加え、きもの文化検定があった。12月5日には、伊丹市の南西部にある野間という町の藁ぶき屋根が残る民家で、古文書整理のお手伝いをした。その前後には、暇を見て、昨春に学位を授与された修論の字句修正を仕上げ、梅田の印刷屋さんで二回に分けて製本を10部作製。年内中に、お世話になったお医者様方に五月雨式に郵送したり、直接、医療機関に出向いてお渡ししたり、ということを繰り返した。そして、還暦として張り切ったお年賀状の印刷にして、80枚程出した。また、昨年後期には、放送大学と院の受講科目が7科目もあったので、1月下旬の単位認定試験に備えて、1.5倍速で受講を続けていた。
履歴書をワードに作成してあるが、確実に順調に自分なりの歩みが進められている。いつでも私は思っているが、これもそれも「主人が残してくれた時間とお金とエネルギーだ」と。だからこそ、主人の分も頑張って、私なりのものを築き上げていかなければならない。あと20年ぐらいは、こんな調子で暮らしていきたい。
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実は、3月20日の春のお彼岸には、恒例行事として7年目になった名古屋の平和公園へのお墓参りに行った。ただ、前日の主人の家のお墓参りと午後の不動産モニター懇親会の疲れもあり、出発は午後からとなった。
たまたま、一ヶ月前に予約をした新幹線の座席指定つまり乗車時間の指定をしておかなかったのは、我ながら正解だった。悠々と焦ることなく出かけられた上、もともとガラガラで空いていたこともあり、指定席の車両に遠慮なく図々しく座った。そして、途中で車掌さんに申し出て、座席指定券を現金払いで750円分支払って、問題なく済んだ。(若い頃なら、黙っていれば済むだろう、という下心もあったが、実際には車掌さんもチェックしているため、最近では自分から支払うようにしている。その方が、人生万端、精神衛生上もうまく運ぶのだ。)
そして、午後遅く名古屋へ到着。従来ならば、そこで常宿としている伏見のホテルに荷物を置き、身軽になって平和公園へと向かっていたが、今回は時間の制約もあり、そのまま名鉄の津島線に何十年ぶりかで乗ってみた。目指すは、甚目寺観音。
最近、フェイスブックで「名古屋」「昭和」を振り返る写真付きのシリーズが掲載されていて、私も遠慮なくシェアさせて頂いている。その中で、名古屋城を守護する東西南北の寺院の一つが甚目寺観音だと、初めて知ったのだった。
名古屋城の近くの旧国立名古屋病院で生まれ、小学校6年生の2学期まで名古屋市西北部で育った私は、小学校の白地図で、荒子観音や笠寺観音について習ってはいた。だが、東京や大阪や京都と同じく、大都市生活というものは、実は自分の用事や目的のためだけに移動する制約された日常で過ぎてしまうため、案外に知らない場所が多い。その点、結婚以来21年以上暮らしてきた大阪府下の島本町や、2018年9月下旬に転居した兵庫県伊丹市は、地理面積が比較的狭いために、文化財や歴史的遺物をくまなく学ぶのに適している。その気になれば、一日で主だった場所へ行けてしまうからだ。
振り返ってみると、20代に計4年間も政府の業務とリサーチ目的で暮らしていたマレーシアのクアラルンプールも、古い地図をくださった故戸谷修先生(三重大学名誉教授)のお蔭もあり、大抵の地理はわかるようになっていた。(但し、ここ20年以上の間に開発が急激に進み、2012年12月に最後のリサーチ旅行をして以来、私はよく知らないことが多い。)
ともかく、甚目寺観音とは、私が中学生の頃、隣町にある有名な観音寺だということは知っていたものの、毎週末には名古屋市内の伏見にあった名古屋音楽学校へピアノのレッスンに通っていたため、電車の方向性が逆の甚目寺町へは行くことがなかった。中学の風紀についても、私の母校とは違って「不良が多い」「怖い」という評判だった。私の町に暮らしていた中学の先輩で、極端に長いスカートをはいていた女の子が、何らかの理由で、処罰として甚目寺中学へ転校させられたと聞いていた。
従って、中学校の歴史の時間に先生から何か聞いていたのかもしれないが、甚目寺観音と名古屋城の関係について試験に出題されることもなく、あまり風紀のよろしくない隣町のことは、まず関心を持つこともなかった。
当時の我が町も、その後進学した県立高校のある甚目寺町も、あの頃は田畑が広々と残っており、兼業農家も多かった。経済成長一辺倒だった戦後育ちの名古屋市郊外の中高校生としては、やはり目指すは名古屋市の中心部、そして東京を意識しながら過ごしていた。
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名古屋城については、幼稚園から小学校低学年の頃まで、父や妹とよく散歩に出かけていた。旧陸軍の訓練場だったらしい広い名城公園で凧揚げをしたり、ジョギングをしたり、テニスボールで父とキャッチボールをしたりしていた。小学校5年頃には、名古屋城で写生大会もあった。主人と二度目のデートも、名古屋城だった。1997年1月2日のことである。秋になるとお菊人形のような催しが開かれており、遠方からのお客さんを招待するにも困ったことは一度もなかった。
先の大戦では、名古屋大空襲で名古屋城の金の鯱が落ちて炎上した、という話は子供の頃から聞いていたものの、それが何を意味するのか、名古屋市民であった子供時代には、ピンとこなかった。つまり、昭和の子供にとって、お城があるということは当たり前過ぎて、それ以上に探索する気も起らなかったのだ。(ついでながら、名城公園はデートコースとしても有名だったので、旧陸軍の訓練場だったらしいことは、つい最近になって古い映像を通して知った次第である。)
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私が、自分の暮らしていた土地および祖父母や両親の出身校や菩提寺等のルーツに目覚め、遅ればせながらも一人でコツコツと尋ね歩くようになったのは、主人の病状が明らかに悪化しつつあった2018年夏頃からである。それまで忌避していた高校の同窓会にも、思い切って出かける決心をした時であった(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20180826)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20180829)。
それに輪をかけて私を地域史に熱心にさせたのは、伊丹へ引っ越したことがきっかけである。
主人の強い希望ではあったが、実際には本人の病状進行から無理を押しての伊丹転勤でもあったので、私としては早く慣れなければと必死だった。街歩きや歴史講座のような催しを広報伊丹紙で見つけては、積極的に電話をかけて申し込み、参加した。ちょうどその年は行基菩薩の生誕記念年にも相当していたので、街歩きや古い地図等の資料説明を通して、昆陽池や昆陽寺の歴史的経緯等をさまざまな角度から学ぶことができた。その一つ一つは、島本町の自宅近くにあった若山神社が行基由来の創建であるという立札を見ながら20年以上も過ごしていたことと重なり、急速に親近感を抱けるようになったのだ。西国街道一本で、島本町と伊丹の千僧が繋がっている地図を見た時にも、(私は一人じゃない)(これまでの生活の延長線上に今がある)と確信することができた。
JR伊丹駅周辺に広がっていた今はなき惣構えの有岡城のことを、今でも熱心に調べて研究史としてまとめているグループがあることも、非常に刺激となった。
愛知県民だった頃から、伊丹は阪神間の競争的な地域だと思っていたが、実際に暮らしてみると、住民意識が高く、狭い土地なのに細かな工夫がここかしこに積み重ねられていて、テキパキした生活テンポや利便性も私に合い、非常に居心地が良い。顔見知りを作るためにも、新しい土地における自分の居場所を見つけるためにも、地域史を学び、自分の人生に何らかの接点を見出す作業は、しっかりと地に足を付けた暮らしの工夫にもなり得る。
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こんなことから、時間の許す限り、市内の歴史講座を受講し続けて早くも数年が経つ。と同時に、2019年3月からは年に一度、春のお彼岸に必ず帰郷して、平和公園で両系の曽祖父母のお墓参りを一人でする習慣が確立した。その頃までは電話で自由に話すことのできた、母方の本家の嫁である叔母が父方母方の両方の檀家寺を教えてくれたことにより、実現したことだった。
本来ならば、結婚しても年に一度ぐらいは実家に帰ることがあってもよさそうなものだ。だが、私には筆舌に尽くし難い事情により、主人と一緒に名古屋の実家に行ったことは、1997年4月の結婚の挨拶時と、2011年4月末の父のお見舞いしかない。その後は、父の逝去後、2013年4月の遺産相続の分割協議書云々の用事で、弟と甥、妹の4人が実家に集まった時だけである。主人が結婚後一年で神経難病の診断を下されたのに、お見舞い一つなく、徹底的に無視されていた私達だった。お年賀状も毎年私から送っていたが、父からは必ず元旦に届いていたものの、父がいなくなったら全く音沙汰がなくなってしまった。
主人の母の家には、実家の母から手紙やら突然の押しかけ訪問やらがあったらしい。義母の方には、落ち込ませるような内容を頻繁に手紙で書き送っていたという。大抵は弟(と嫁)の自慢ばかりが綴られ、同時に私の悪口が書き連ねてあったようだったと、時々、大阪の実家へ様子を見に帰っていた主人が話してくれた。ある時は、以前から購入してあった自宅近くの墓地を放棄して、樹木葬にするという変な手紙が来ていたということで、スマホに撮った写真も見せてくれたことがあった。
だが、私には何もなかった。いや、二度ぐらいはあったが、必ず金銭面でトラブルを巻き起こすような敵意に満ちた変な内容ばかりで、仮に関わるとすれば常に心が乱れ、何日間も何も手につかないような気分に陥らされた。
(1)2008年には、いつの間にか金庫から、マレーシア勤務三年目の一年間の本俸を貯金してあった私の通帳一冊が、ごっそりと下ろされていたことに気付いた。銀行からの書面通知で判明したことだった。だが、それはうちの主人の仕業だと決めつけ、「今頃、自分の夫の正体に気が付いたのか」と脅迫するようなことを葉書に書いて寄越してきた。銀行に問い合わせたところ、確かに〇年〇月〇日に、私の母親が来店して、「親子だから」という理由で子供の貯金の出し入れが自由にできた時代の特権をフルに行使していたことが判明した。しかも、その銀行は、亡父が長年勤務していた都市銀行だったのだ。被害総額は158万円であった。
(2)2011年か2012年頃には、「自分の言う通りに一字一句、正確に郵便局で通帳とキャッシュカードを作るように」と、突然手紙が来た。既に郵貯通帳を持っていたのに、新たに口座を作れ、というのである。その口座を通して、母方の祖母から長年、入学祝、誕生日祝、卒業祝等でいただいていたというお金が、その年3月末の祖母の逝去に伴って、ようやく私に渡ることになったらしい。その話も、こちらが要求したのではなく、突拍子もなく勝手に、だった。しかも、「キャッシュカードだけは自分の手元に置いてよいが、通帳は返送せよ。言うことを聞かなければお金は一銭も渡さない」と明言されていた。郵便局では、「口座の名義人がキャッシュカードと通帳を一緒に持っていなければいけない」と再三言われたが、仕方なく、新たな通帳は返送した。ところが、その後、父が亡くなったり、主人の体調やら私の用事やらで忙しくしていたところ、2013年のある日、ふとATMでチェックしたら、いつの間にか全額ごっそり下ろされていたことに気づいた。妹に尋ねると、「仕返しだ」「気が付くのが遅い」と、こちらを責め立てるようなことを言う。何が何だかさっぱりわからないうちに、このようなことになっていたのだ。追跡してみると、愛知県内の自宅周辺や名古屋駅、豊橋(!)のような県南部の数ヶ所の郵便局で、数十万円ずつ、何回かに分けて下ろされていた。被害総額は220万円であった。
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(1)に関する過去ブログの記録を、以下に抜粋する。
・2016年2月21日「子のお金を取る親(1)」(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20160221)
《私の場合は、8年前に発覚した。金庫から通帳を盗んだのは、恐らく結婚前だろう。もう19年も前の話だが、今でも解決していないどころか(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141224)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150114)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151130)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151212)》
・2016年3月18日「場違いな「仕返し」」(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20160318)
《金庫に入れてあったはずの、独身時代に働いていた時の一年分の給与通帳が盗まれていた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150114)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151106)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160221)。いつ誰がやったかは、銀行に問い合わせて判明している。あのお金で、結婚後も配偶者に金銭上の迷惑をかけずに勉強を続けていく予定だった。一体全体、何に使い込んだのか?これは盗難で、立派な犯罪行為である。いい加減にして欲しい。》
・2016年3月20日「社会性のない者が横領する」(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20160320)
《その挙げ句、「結婚するなら養育費を返せ」と、働いていた時の一年分の給与の預金通帳も盗まれた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160221)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160225)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160228)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160318)。》
・2016年11月17日「義務と権利の不当な剥奪」(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20161117)
《私のように、社会人として真っ当に勤務して、規定通りに受け取った一年分の給与通帳をごっそりと取り上げられた場合は(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150114)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151106)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160221)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160228)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160318)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160320)、既に「子ども」ではないので該当しないことになる。》
《自分で働いて得たお金で勉強を続け、将来に渡って研究費用に当てようと計画していたのに(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150405)、知らないうちに横取りされていたのだ。金庫に入れておいた通帳がいつの間にか紛失していて、銀行に問い合わせたところ、いつ誰が勝手に解約したのかは、判明している。しかも、その銀行は父が勤務していた職場であったので、騒ぎ立てるなとも言われた。その上、何ら関係のない主人が盗んだことになっていて、随分前のことになるが、手紙で主人の母が責め立てられたようだ。》
・2017年2月1日「事実と経験だけが残る」(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20170201)
《また、繰り返すが、働いていた頃の一年分の給与通帳一冊が盗まれてしまっている(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141224)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150114)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151106)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151130)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151212)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160221)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161117)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161208)。「盗まれる方が悪い」「気づくのが遅い」と言われるのだが、そもそも、金庫に保管してあった通帳である。結婚後、十年以上経って銀行から書類が届いたので、銀行に問い合わせて誰がしたのかを知ったのである。》
・2017年10月7日「自衛策と自活法」(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20171007)
《働いていた頃の一年分の給与通帳も取り上げられ、気がついたら、お祝い金などもゴソッと下ろされていた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160318)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161117)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170105)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170201)。》
(2)に関する過去ブログの記録を、以下に抜粋する。
・2017年2月1日「事実と経験だけが残る」(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20170201)
《祖母が亡くなって一年以上経ってからやっと、これまでのお祝い金だとして受け取ったことになっていたはずのお金も、父が亡くなった後で気がついたら、全額下ろされていた。わけのわからないドタバタ騒ぎで疲労困憊していて、毎月の通帳記入がたまたま遅れた隙のことである。証拠としての記録は残してある。それとて、「キャッシュカードと通帳は同一名義人が保管すること」と銀行では言われているのに、「絶対にキャッシュカードは渡してやらない」と言い張り、一方的に下ろされたのである。》
・2017年11月16日「二十周年記念日に寄せて」(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20171116)
《祖母からの長年のお祝い金や私の一年分の給与貯金通帳まで、気がついたらごっそりと下ろされていた。それにも関わらず、妹は法定相続人の私に向かって「あんた遺産欲しいの?」「気がつくのが遅い」などと抜かした(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140128)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141224)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160221)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170105)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170201)》
2016年から2017年にかけて、繰り返し私がこのようにブログで記録を綴り続けてきたのは、その頃から徐々に、主人の自律神経症状に加えて精神症状が出始めてきた時期と重なっていたからでもある。つまり、日々の不安が雪だるまのように膨れつつある時に、こちらが困窮してはいないとしても、精神的に窮地に陥るようなことを故意にされたまま、放置されていた状態だったからであろう。念のために申し添えるが、経済的に困窮したからブログを書き始めたのではない。
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これ以外の過去ブログでも綴ったように、私は実母と長年、理不尽にも折り合いが悪く、いつでも父や母方の祖母が体を張って守ってくれるような状態だった。
第一子で逆子の難産だったから、育てにくい子だから、という理由で、「この子の顔を見るだけで、憎たらしい」「なんで自分だけ幸せになろうとするの?」等、小学生の低学年の頃から、何かと難癖をつけられては、物差しや箒で叩かれ、お金を取り上げられたり、友達との約束も直前で壊されたり、鍵をかけて家から追い出されたりしていた。お小遣いなんてもらったことはなく、お年玉や入学金や卒業祝い等は、全部取り上げだった。「結婚する時に渡すから」と言われていたが、結婚前には「行かず後家」と散々ののしられ、結婚しようとすると「自分だけ幸せになろうとするなんて、絶対に許さない」みたいな罵倒を繰り返されていた。
結婚騒動は長引き、1997年4月には一ヶ月間、名古屋市内の友人宅に居候させてもらうほどだった。精神科にも相談に行き、父や婚約者だった主人も一緒に診察を受けてくれた。結果としては、私は正常な反応を示しているだけで、治療の対象はあくまでも母親だということだった。だが、本人に自覚がなく、診察に来ないならば、なす術はない。医師からは、「早く家から出て自立すること。お母さんの近くにいては危険だ」と言われた。果たせるかな、事態は予想を遥かに超えた進展だった。その精神的苦痛は、いつでもどこでも、私の根底で流れ続けている。
表面的には、私は小さい頃から読書やクラシック音楽が好きで、比較的健康にも恵まれており、倹約志向の生活にも慣れていたので、一人暮らしてあっても、特に問題なく生活してきたように見えるかもしれない。また、主人が若年性の神経難病患者であったとはいえ、運動症状としては軽度であり、職場に通い続けることに最後まで意義と誇りを見出しており、良い上司に恵まれていたことから、経済的には何とかなっていたと言える。そして、温かく広い心の持ち主だった主人は、私を可哀そうに思って、いつでもやりたいことを思いっきりさせてくれる度量を示していた。だからこそ、以前のブログでは、勉強ノートや生活記録を公開することに何ら躊躇せず、誇張もなくあるがままを綴ることができたのだった。何よりも、時折の国内外の旅は広い意味での主人にとっての治療を兼ねていたので、今となってはありがたい限りだ。
こんな母娘関係だったため、祖母や父や主人がいなければ、今頃自分はどうなっていただろうか、と想像するだに空恐ろしい。平和公園での両系のお墓の場所も、子供の頃には親戚一同で行った記憶はあったものの、正確なところ、上述のように2019年3月に母方の本家の叔母(嫁)から電話で教えてもらって初めて知った次第である。というのは、母親が絶対に教えてくれなかったからだ。「分家だから」「うちは核家族だから」という、一見尤もらしいが、どこか変な理屈からだった。
恐らくは、私が何かをしたので自分に跳ね返ってきているというよりは、私が私であるという存在そのものが、苛立たしく感じられる家族親族関係だったのだろうと思う。但し、私の場合は、母方祖母や父、そして結婚してからは主人が、いつでも私を体を張って庇い、守ってくれていた。だからこそ、このように何とか真っ直ぐ生きてこられたのだろうと思う。そのためにも、お墓参りは大事なのだが、ハタと今回気づかされた点がある。今日のブログの本心は、そこにある。
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それは、平和公園にある墓地が、父方はともかくとして、母方は曽祖父母と夭折した祖父母の娘一人のお墓のみ知らされていた、ということである。最初にお墓参りをした2019年3月までは、何とか電話で話すことのできた母方本家の叔母であったが、教えてもらって無邪気に喜んでいたのもつかの間、それからしばらくして突然、「もう連絡はしてこないで」と言われてしまったのだ。
もともと、2014年頃から何かのきっかけで電話で話すようになった。恐らく、祖母が亡くなった2011年3月末の後、2013年2月中旬に私の父が亡くなり、納骨や墓地をどうするかという話が、私だけ抜きで、実家や親戚の間で話が回っていたことからだろう。
ちょうど2015年の春、私はパイプス訳業から中東フォーラム主催のネゲブ・イスラエルの旅に参加しており、イスラエルからも絵葉書を叔母宛に送った(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20150512)。実のところ、そのような知的刺激のある外部活動に加わっていなければ、主人と二人だけの下降していく平板な生活では精神的に窒息しそうな毎日でもあった。だが、訳業の必要性を兼ねてのスタディ・ツアーであったため、発病前は米国の留学や駐在を経験していた主人が「できるうちにできることをしたらいい」と、快く送り出してくれた。しかしながら、そういう私の事情を理解しようとするよりも、叔母にとっては、自分中心の固定化した歪んだ見方で私の話を聞いているかのような印象だった。
そして、電話を断られた理由が何と、もう一人の叔母(母の妹)の家で義弟さんが亡くなった時、私がお悔やみ状を送ったからだ、という。「家族葬にしたのに、どうしてあの子が知っているの?」と叔母が本家の叔母に怒りを伝え、叔母から私は「〇〇さん(叔母の名前)との関係が壊れるから、あなたとは付き合えないわ」と言われたのだった。
このような陰険なとげとげしさは、私の母方の家系に蔓延しているようである。(父方には、そういうことは感じられない。是と言ったら是、アレと言ったらアレ、と裏表なく、文字通りに物事が進んでいくからである。)
主人は言った。「その話、おかしいんじゃないか?家族葬だとしても、親戚だったら、お悔やみ状ぐらい送るのは常識じゃないか?」と。私も同感である。恩着せがましく何かを要求するわけでもなし、お悔やみ状さえ迷惑ならば、最初から誰にも何も知らせず、直葬か密葬にして、いつの間にか存在を消してしまえば済むことだ。(但し、それが世間的に受け入れられるかどうかは不明である。)
実は、その前後に二度ほど、叔母自ら教えられたお誕生日にプレゼントを贈った。2000年4月上旬、主人が亡くなった日の朝も、お見舞いの後で昼間に阪急百貨店へ行き、贈り物としてのジュースを発送した。だが、誕生日プレゼントの受取通知はなかった。勿論、主人の逝去に対して一言もなかった。それどころか、「今後は、心安らかに暮らしていきたい。長野県の友人宅でお世話になることになったので、もう名古屋には住んでいない」という手紙が届いた。連絡先も書いていなかったので、驚いてその後、何かの折に名古屋へ立ち寄った際に祖母宅へ行くと、家はそのままだった。ちょうどたまたま、斜め前の家から出て来た女性に尋ねてみたところ、「奥さん、ずっとあそこに住んでいますよ」。
そして、極めつけは、その年のお歳暮が叔母の息子、つまり私の従兄弟によって送り返されてきたことだった。「母は元気です。もう送ってこないでください」。
つまるところ、私が何か差し出がましいことをしたからというよりも、「気難しい(鬱陶しい)」祖母や「実直だった」私の父がいなくなった今、もう親戚としての関わりは一切持ちたくない、ということのようなのだ。だから、血の繋がりが全くない曽祖父母(ユーリ注:祖父は養子として、祖母は嫁として家を継いだ)のお墓だけは教えたものの、私が高校2年(17歳)の時に糖尿病で亡くなった祖父(1982年)、肝硬変で亡くなった叔父(2005年)、レビー小体型認知症を8年程患って亡くなった祖母(2011年3月)の墓地がどこにあるかは、一切知らされないままだったのだ。
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なぜ、このような陰湿な展開になってしまったのだろうか?
この叔母は、本家の嫁として、私よりも後に祖父母の家に入った。私にとっては、子供時代に祖母宅でかいがいしくお世話になった記憶が濃厚で、その路線で関わりを持たせていただいていたつもりだったが、実は祖母の遺産相続を巡り、戸籍改竄をしていたことが2011年に発覚し、祖母の三十五日祭の後すぐに、裁判沙汰になっていたのだった。
・2015年11月6日「秋の夜長に」(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20151106)
《追記:1.いかなる理由があったとしても、戸籍改竄は犯罪である。上記の親戚の人は、それをした。まずは、恥を知って欲しい。》
・2015年12月12日「読書の冬」(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20151212)
《親戚の戸籍改竄など(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141224)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141227)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151106)、主人も「そんな恐ろしいことを、誰が入れ知恵したんだろう」と開口一番、言った。私だって、自分の身が汚れたように感じて、非常に不愉快なのだ。しかし、それをした方が威張っている。》
・2017年2月1日「事実と経験だけが残る」(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20170201)
《以前に書いた私の親戚の戸籍改竄の事例も(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141224)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151212)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151216)、もしかしたらこのケースに近いのかもしれないが、裁判判決書類を見ていないので、私には何とも言えない。
仮にそうだとしても、いわゆる「ババ抜き」結婚だとか(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170114)、施設名を知らせないでおいて「お見舞いゼロ」を後から責め立てるとか(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170117)、亡くなって数年経つ祖母の悪口を言ったり、会ったこともない私の義母のことを高笑いしたり(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170116)、進行性難病で十数年苦労してきた主人のことも「そのうち、そっちも脳がボロボロになるから見てらっしゃい」と口走ったり(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151106)、「あなたには遺産ないわよ」と平然と言った挙げ句、「これで年賀状は失礼します」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161201)等という一連の態度は、どう見ても勝手過ぎ、失礼極まりないのではないか。》
《晩年、アルツハイマー病を何年も患っていた祖母(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161115)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161222)の「娘」の座に、血の繋がっていない人がいつの間にか戸籍上、居座るというのは(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170114)、たとえ節税対策であれ、遺産欲しさであれ、法律上はおかしいし、孫の立場にとっては、感情面でもアイデンティティの面でも、到底、容認し難いのではないか。》
《認知症の高齢者を介護する家族の大変さから、せめて嫁にも遺産分配してほしいという情状酌量は認められよう。それとて、客観的な証拠があれば、こちらにも納得がいくのに、コソコソ隠れて不正行為をするので、ここまでこんがらがるのだ。》
《事実を知りたいと言っても、「個人情報法」とやらで(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160302)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170116)、今は当事者以外には知らせないことになっているらしい。また、「それはあなたの感情の問題ですね」で済まされてしまうのだ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170116)。それに、「気がつくのが遅過ぎる」「もう済んだこと」「よその家のことに口を挟まないように」等と封じられてしまう(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170117)。》
・2017年11月16日「二十周年記念日に寄せて」(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20171116)
《結婚式に父と二人でご招待に上がっても、「わかってますから」と断ってきた人は、祖母が亡くなってから、戸籍の改竄をして遺産を受け取ろうとしていたらしいことがわかった。全ては、父が2013年2月中旬に亡くなってから、少しずつ判明したことだった。》
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当時の私は、主人の病気のことと、パイプス訳文の作業と、自分の研究論文のことで頭が一杯で、遺産相続に関して戸籍改竄の何が問題なのか、どうして裁判沙汰になったのか、叔母に対して私は善意で接してきたつもりなのに、なぜ悪意的な冷たい対応(最近の流行語では「塩対応」か?)をされたのか、が判然としていなかった。
だが、今年の春のお彼岸で名古屋の平和公園へ行ってみて初めて、突然、頭がクリアになったのだ!7年目にして、ようやくである!
祖母には、法定相続人として、弟(私の大叔父)一人に娘二人(私の母親+お悔やみ状で怒ってきた叔母)がいた。その頃の民法では、介護に何年も苦労させられたとしても、たとえ血が繋がっていても、同居の孫には法定相続人ではないとして遺産は渡らず、ましてや同居の嫁は相続権ゼロであった。(最近では、同居の嫁等の介護人は、医療データや介護記録が示せる限り、遺産を請求することができるように民法が改正されたそうである。)従って、祖母の遺産は、三人の法定相続人に限定、と民法では規定されていた。これは、税務署でも家庭裁判所でも同一である。
ところが、叔母は、嫁なのに祖母の「養女」、従兄弟は、孫なのに祖母の「養子」として、戸籍謄本を書き換えてもらうよう、役所に書類を提出した。その時期が問題で、ちょうど肝硬変の叔父と認知症になった祖母の病状が同時期に重なっており、「病人を二人も抱えて、介護が物凄く大変だった」。だから、介護で苦労した分、遺産がもらえるように細工をしたらしい。祖母が「苦労をかけたから、財産を分け与える」と言ったかどうかも、裁判では争われたようである。
ちなみに、訴訟を起こしたのは、私の母親である。法的に言えば、母親には落ち度が全くなく、むしろ、法定相続人としてトラブルを起こされたと申し立てする権利はある。だが、叔母達から見れば、「お見舞いに来なかった」のに、祖母の娘だというだけで遺産を横取りしているように思えたのだろう。「悔しい、悔しい」「盗られた、盗られた」と、私への電話でも繰り返していた。
最初、私は自分の母親が相当ずるいことをしているのだろうかと思い込んでいた。だから、頭がもやもやとして理解し難かったのだ。
だが、昨年度に前期と後期の二回、放送大学大学院で法学の2科目をそれぞれ受講し、日本の法体系の歴史的経緯と特徴、現代における法整備の在り方全般を学んだことから、論理的に落ち着いて考えられるようになった。また、主人の遺産相続に関して、従来からの主人の願い通り、私が一人で受け継ぐことになった(義母と義兄は自ら放棄した)ことと、昨年と今年の準確定申告で、やっと医療事実に基づく大量のレシートを整理して還付金計算を済ませたことから、思考が明快になった。
即ち、裁判所は、叔母の二度に及ぶ戸籍改竄に関する行為に対して処罰を下し、従兄弟は私の母親に1000万円を返却することになった。(これは、裁判後に母親がコピーを送ってきたので、証明できる。当時は何が何だかよくわからず、そのままにしておいた。)
叔母が、嫁なのに祖母の「養女」、従兄弟が、孫なのに祖母の「養子」としたのは、相続税対策だ、と一般には素人考えするかもしれない。だが、実子や兄弟姉妹などの血の繋がった法定相続人がいる場合、相続対策としての「養子」扱いは、一人までと決まっている。つまり、親子揃って二人で祖母の「法定相続人」になろうとしても、そうは問屋が卸さなかったというわけだ。
その上、祖母が本当に「財産を分け与える」と家の中で言っていたとしても、認知症患者の場合、言わされたのか、本気だったのか、そこは印鑑を押した本人自筆の文書がない限り、証明が難しいところではある。
しかし問題は、その戸籍改竄が二度も行われていたことだった。「養子」申し出は、役所に書類を提出するだけで簡単に済み、内実を問われることが無いらしい。従って、一度限りの提出ならばともかく、時期を置いて二度も出したり引っ込めたりしている戸籍上の日付を見ると、当事者の気持ちの揺れが見え隠れしていると考えられる。つまり、作為性の存在である。
いずれにせよ、嫁として孫として、「介護が大変だったから遺産が欲しい」というのは、情状酌量の余地が大いにある。とはいえ、やり方があまりにも稚拙であり、法的にも道義的にも外れていることは明確であろう。
裁判は2011年には終了していたようだが、2014年頃から始まった叔母との電話で、いつでも何だかこちらが不愉快な気持ちにさせられたのは、叔母が強調していたところの、祖母に似た私の「気難しさ」のせいではなく、あくまで嫁として家に入った叔母の社会良識や基本的な法知識の不備から来たものであろうと結論づけられる。
第一、2019年春に一方的に電話を断られる前の頃、私は「叔母さん、朗報朗報!民法が変わって、同居のお嫁さんにも遺産がもらえるようになるらしいよ」と、わざわざ電話を掛けたことさえあったのだ。その際、「あら、あなたはそういう人だったのね。でも、裁判所から何も言ってこないし、もういいわ」と言われた。(その時、私はまた自分が批判されているのかと思い込んでいた。)
十数年以上も前から長々と繰り返し引き摺って来たこの不可解かつ理不尽な気持ちは、一つ一つ、お墓参りやルーツ辿りを繰り返していく度に、霧がゆっくり晴れていくように溶けていく。時間の無駄かもしれないが、何事もなかったかのように全てを封印して意識下に抑え込んでいくよりは、私の場合、ブログで公表できるように公明正大な生き方をし、理不尽さに立ち向かっていきたい。それは、私の生存権だからである。義務を果たしつつ、権利だけは家族や親族によって奪われてきたなんて、だからいつまでも心理的な落ち着き場がなかったのだ。豈図らんや。
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2018年8月に高校の同窓会に初めて行って以来、そして、2019年3月の春のお彼岸で平和公園に行くようになって以来、名古屋で訪問した場所は、以下の通り。
・母方祖父母宅の近くの檀家寺と高牟神社(生後一ヶ月のお宮参り)
・父方祖父母宅(名古屋大学の近くだった)
・父の檀家寺である名古屋市栄の金剛寺(臨済宗妙心寺派)
・父の母校である城山中学(文教地区であるらしい)と旭丘高校
・母の母校である今池中学と菊里高校(平和公園の途上の星ヶ丘にある)
・伏見周辺(父方祖父の本籍地)の神社四社
・熱田神宮
・愛知県護国神社
・城山八幡宮
・愛知県図書館
・鶴舞中央図書館
・徳川美術館
・テレビ塔(1996年12月22日、主人と初めてのデート場所)
・名古屋城(1997年1月2日、主人と二度目のデート場所)
・鶴舞公園(1997年2月、父に結婚前提の交際を認めてもらった後のデート場所)
・庄内緑地公園(1997年3月頃、私が作った簡素なお弁当を持って主人とデート)
・東山動物園(1997年前半期、東山公園へ主人とデートで大観覧車に乗ったことがあった)
・白川公園(小学生の頃、木下大サーカスの思い出)
・名古屋市立科学館(小学校低学年の頃、地獄落ちの話が怖かった)
・名古屋大学と桃厳寺(留学生を連れて禅体験をしたことがあったが、後に住職が不祥事を起こしたらしい)
・小学校5,6年の担任の先生のご自宅へお参り
・ピアノの先生のお宅(本郷)
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さて、すっかり話は逸れてしまったが、今後の為にも、今回立ち寄った場所を記しておく。
2025年3月20日午後から夕方にかけて
1.甚目寺観音と周辺の道標や仏教寺
2.ヨシズヤの「寿がきやラーメン」店
*甚目寺観音からは、高校時代に部活動(水泳部)の後で友達と時々立ち寄って寿がきやラーメンを食べていたヨシズヤが見えた。43年以上も前の出来事である。将来の自分がこんな人生になるとは想像もせず、無邪気に過ごしていた時間を思い出すべく、私は夕食を摂りに行った。16歳から17歳の頃、二階にあった寿がきやラーメン店は、今や一階に店舗を構えていた。メニューは当時と変わらず、大阪並みにおいしかった。料金も良心的だった。但し、客層はいかにも大衆レストランと化していた。
*甚目寺観音周辺は、伊丹よりも遥かに静かで、車の運転マナーが良い。伊丹だと、ちょっと立ち止まっているだけで、自転車も車も我が物顔にすれすれに通り過ぎて行く。接触事故が起きないかと、危なくて仕方がない。名古屋近辺では、もともと車通りが少ないせいか、少し歩道沿いに立ち止まっていると、車の方が静かに停車してじっとしている。
2025年3月21日午前から夕刻まで
1.平和公園の父方母方のお墓参り
2.徳川美術館・逢左文庫・徳川園
3.清州城・清州公園
4.実家と周辺の村社や公園
*実家は、石塀が取り替えられて今風になり、門扉のライオン飾りも消え、表札がアルファベット式に簡素化されていた。雨戸ではなく、どの部屋もカーテンを閉めたままだったが、夕刻遅い時間で暗かったのに、電気をつけた部屋は一つもなかった。枇杷の木がごっそり抜け落ち、私が毎週掃除をしていた二つの庭も、整然としていたが寒々とした光景と化していた。とても近寄れるような場所ではなかった。玄関には変な貼り紙がしてあった。それは、社会福祉協議会による「高齢単独者住まいの見回り」みたいな文言で、風雨に晒されてなのか、薄く印刷されていたものだった。
(TO BE CONTINUED…..)
(2025年3月28日記)(2025年3月29日加筆修正)