朝日新聞(http://www.asahi.com/articles/ASR3Q3GVMR3FPLBJ002.html?linkType)
ノーベル賞の田中耕一さん流「夢のかなえ方」 第一志望外れ続けても
聞き手・瀬川茂子 写真・筋野健太
2023年3月26日
2002年にノーベル化学賞を受賞した島津製作所エグゼクティブ・リサーチフェローの田中耕一さん(63)は、その後も100本を超す論文を発表。今も作業服で1万歩近く社内を歩き、一線で研究を続けている。どんな思いなのか、聞いた。
――毎日、研究所に?
やりたいことを好き勝手にやらせてもらっています。朝7時前に会社に来ています。部下からの問い合わせがない8時過ぎぐらいまではゴールデンタイム。いろいろ調べたり、論文を読んだり、実験をしたり。そして6時前後に帰ります。
――実験も?
アイデアを持っている若い人が、時間がないと言うと、代わりに実験をやってあげるよと。喜々として部下の下請けをしています。自分の目で結果を確かめたいですし……。
管理とかマネジメントはほぼできていない状況で、部下に任せている。そのかわり、用もないのにあちこち歩いて雑談し、その時々の課題を聞き、私自身が解決できないにしても、誰かにつなげる。自分で「徘徊老人」といっています。私の肩書はでかいけれど、相談しやすいように、私から話しかけます。この建物には500人以上の研究開発スタッフがいて、1階はサロンのようになっています。社外の方々も訪れ、産学官連携に取り組むきっかけができることもあります。
――ノーベル化学賞受賞から20年あまりたちました。
最初は(受賞者として)扱われるのはつらいので、元首相のように「元受賞者」という立場にできないか、現役を引退して肩の荷をおろしたいと思いました。幸い、その後たくさん受賞者が出て、私1人で担う役割はかなり少なくなりました。
ノーベル賞受賞者が増えたことはうれしいけれど、「十分でなかった部分がある」という田中さん。成功の秘けつや今後、やりたいことについても聞きました。
こういう賞を受けていながら、私自身は化学の専門家だと思っていない。部下の方が化学の知識があります。
(後略)
。。。。
うちの主人が、田中耕一さんのノーベル賞受賞の報道に対して、「企業研究所に勤務する者としても、エンジニアとしても、気持ちがよくわかる」と喜んでいたことを思い出す。2002年は、まだ薬で一見何とかなっていた頃だったので、夜遅くまで研究開発グループで特許論文を書いたり、実験室にこもったりして、働いていた。ついこの間のことのようだ。
田中さんの奥様が同志社出身で、ごく普通の地味な感じの女性。あまり表に出てこないところも好感が持てた。懐かしい!
JR京都駅に降り立つ度に、今でも時々、田中さんを出迎える人々の「やらせびっくり撮影」を思い出す。
養子として引き取り、我が子同然に田中さんを育てたお母様は、その後どうされたかしら?
。。。。。。
(https://twitter.com/ituna4011/status/1641286218687320065)
Lily2@ituna4011
核融合発電、カギ握る高出力レーザー開発 大阪大学など – 日本経済新聞 https://nikkei.com/article/DGXZQOCD230GW0T20C23A3000000/…
⇦ うちの主人の所属でした。
12:48 PM · Mar 30, 2023
(2023年3月31日記)
………….
2023年4月1日追記1:
本当に久しぶりに田中さんの話が出てきたので、しばし思い出を振り返る。当時は全くわかっていなかった田中さんの業績が、実は主人の神経難病の治療開発にも関係があることを知った今、ウィキペディアを部分転載することにした。
田中耕一(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%80%95%E4%B8%80)
・1959年8月3日(63歳) 富山県富山市生まれ
・島津製作所クラトスグループ シマヅ・リサーチ・ラボラトリー・ヨーロッパ
・東北大学工学部電気工学科卒業
・指導教員:澤柿教誠・安達三郎
・主な業績:生体高分子の同定と構造解析・ソフトレーザー脱離イオン化法・血液一滴による病気早期診断
・影響を受けた人物:窪寺俊也・松尾清・ロバート・J・コッター
・主な受賞歴:日本質量分析学会奨励賞・ノーベル化学賞(2002年)・日本質量分析学会特別賞
・日本の化学者、技術者。ソフトレーザーによる質量分析技術の開発によりノーベル化学賞受賞。株式会社島津製作所シニアフェロー、田中耕一記念質量分析研究所所長、田中最先端研究所所長。東京大学医科学研究所客員教授などにも就任している。東北大学名誉博士。文化功労者、文化勲章受章者、日本学士院会員。
・学位は工学士(東北大学・1983年)であり、学士で唯一のノーベル化学賞受賞者。ノーベル賞を受賞して以降も、血液一滴で病気の早期発見ができる技術の実用化に向けて活躍中である。
・1959年(昭和34年)に富山県富山市に生まれる。富山市立八人町小学校(現・富山市立芝園小学校)において、4 – 6年次の担任である澤柿教誠から将来の基礎を育む理科教育を受ける。富山市立芝園中学校、富山県立富山中部高等学校卒業。東北大学工学部電気工学科に入学する。入学時に取り寄せた戸籍抄本で自身が養子であることを知り、そのショックも手伝って教養課程在籍時にいくつかの単位を取得できず1年間の留年生活を送った。しかし、前倒しで専門の勉強に励んだため、卒業する頃には学科で上位1割の成績になっていた。卒業研究の指導教官は安達三郎(現・東北大学名誉教授)で、電磁波やアンテナ工学を専攻した。
・大学卒業後は大学院に進学せずソニーの入社試験を受けるも不合格。最初の面接失敗後に相談した安達の勧めで京都の島津製作所の入社試験を受け合格した。1983年3月東北大学卒業。
・2002年10月11日、総理大臣官邸にて東京大学名誉教授小柴昌俊(左)、内閣総理大臣小泉純一郎(中央)と【写真】
・2003年2月7日、総理大臣官邸にて東京大学名誉教授小柴昌俊(左)と共に内閣総理大臣小泉純一郎(右)から内閣総理大臣感謝状を受領【写真】
・1983年4月に島津製作所入社した後は技術研究本部中央研究所に配属され化学分野の技術研究に従事する。1985年(昭和60年)にタンパク質などの質量分析を行う「ソフトレーザー脱着法」を開発。この研究開発が後のノーベル化学賞受賞に繋がる。20回以上の見合いの後、1995年に富山の同じ高校出身の女性と見合い結婚する。英国クレイ
トスグループ、島津リサーチラボ出向を経て、2002年(平成14年)に島津製作所ライフサイエンス研究所主任。
・2002年ノーベル化学賞受賞。受賞理由は「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発」。同年(平成14年)文化勲章受章、文化功労者となる。富山県名誉県民、京都市名誉市民、東北大学名誉博士などの称号も贈られた。受賞当時は島津製作所に勤める会社員であり、「現役サラリーマン初のノーベル賞受賞」として日本国内で大きな話題となった。その後、同社のフェロー、田中耕一記念質量分析研究所所長に就任。
・2009年からFIRSTプログラム(最先端研究開発支援プログラム)プログラム「次世代質量分析システム開発と創薬・診断への貢献」に採択され、中心研究者として活躍。2013年の講演では「血液1滴から病気を早期発見できるようにするのが、私の実現可能な夢だ」と語っている。2011年には島津製作所の田中最先端研究所所長も兼任し、2013年には同社シニアフェローとなる。
【レーザーイオン化質量分析技術】
タンパク質を質量分析にかける場合、タンパク質を気化させ、かつイオン化させる必要がある。しかし、タンパク質は気化しにくい物質であるため、イオン化の際は高エネルギーが必要である。しかし、高エネルギーを掛けるとタンパク質は気化ではなく分解してしまうため、特に高分子量のタンパク質をイオン化することは困難であった。
そこで、グリセロールとコバルトの混合物(マトリックス。(en) matrix)を熱エネルギー緩衝材として使用したところ、レーザーによりタンパク質を気化、検出することに世界で初めて成功した。なお「間違えて」グリセロールとコバルトを混ぜてしまい、「どうせ捨てるのも何だし」と実験したところ、見事に成功した。この「レーザーイオン化質量分析計用試料作成方法」は、1985年(昭和60年)に特許申請された。
現在、生命科学分野で広く利用されている「MALDI-TOF MS」は、田中らの発表とほぼ同時期にドイツ人化学者のフランツ・ヒレンカンプ (Franz Hillenkamp) とミヒャエル・カラス (Michael Karas) により発表された方法である。MALDI-TOF MS は、低分子化合物をマトリックスとして用いる点が田中らの方法と異なっており、より高感度にタンパク質を解析することができる。
上記の功績が評価され、田中の開発した方法を「ソフトレーザー脱離イオン化法」として、ノーベル化学賞を2002年に受賞する。貢献度は4分の1であった。
・なお、ノーベル賞受賞決定にあたり、何故ヒレンカンプやカラスではないのかという疑問の声が上がり、田中自身も自分が受賞するのを信じられなかった原因に挙げている。経緯として、英語論文発表はヒレンカンプとカラスが早かったが、2人はそれ以前に田中が日本で行った学会発表を参考にしたと書いてあったため、田中の貢献が先と認められた。
・体内では、侵入した抗原(タンパク質)と結合して抗体(免疫物質)が作られる。抗体はY字形をしており、2本の腕のうち1本で抗原と結合する。この構造を人工的に改変し、根本部分にポリエチレングリコールという弾力性を有する高分子化合物を挿入した。抗体の腕はこれをバネのようにして動き、2本同時に抗原と結合できるようにした。アルツハイマー病に関係する蛋白質の断片に対して実験したところ、通常の抗体より100倍以上強力に抗原をつかまえることができた。その後、糖鎖の状態を簡単に分析できるようになり、ペプチドを選別することなくごく微量の混合物の状態から糖鎖の状態を調べられるようになる。1mLの血液からアルツハイマー病の原因となる蛋白質を検出することに成功。未知の関連物質を8種類見つけることにもつながった。この技術はアルツハイマー病や前立腺がん等、様々な病気の早期発見に貢献することが期待されている。
・2002年にノーベル賞を受賞したが、当初の技術は医療に役立つには感度が十分ではなかった。2009年からFIRSTプログラム「次世代質量分析システム開発と創薬・診断への貢献」に採択され、5年間で約40億円の研究費を得て実用化に向けて大きく動き出した。約60人の体制で研究開発に取り組み、1年程で画期的な分析手法を開発、感度を最高1万倍にまで高めることに成功した。2011年11月の取材では「病気の早期診断や、抗体を用いた薬開発に結びつく技術」と答え、成果を2011年11月11日には日本学士院発行の英文ジャーナルの電子版に発表。2012年8月23日には、田中が客員教授を務める東京大学医科学研究所教授の清木元治らと、米科学誌プロス・ワンに発表した。2014年には血液からアルツハイマー病の原因物質を検出できる段階に達しており。2014年4月からは、新たな態勢で実用化を目指している。
・会社で電話により受賞の報が伝えられたとき、「Nobel」「Congratulation」という単語を聞きながらも似たような海外の賞と思ったり、同僚による「ドッキリ」(ドッキリカメラの意)と思っていたりしていた。その後会社の隔離室に移動させられ、午後9時から報道陣が大挙して押し寄せた会見に臨むことになった。急な話だったので、背広の用意もヒゲを剃ることもできなかった。なお、普段から白髪を染めていたが、受賞発表の1週間程前に理髪店で染め直していた。
・田中は鉄道好きで、電車(京福電鉄嵐山線(嵐電))の運転席を眺めながら通勤することを日課としていたが、その晩は家に帰れず、タクシーでホテルに向かった。受賞を実感したのは翌日の新聞で自分の顔を見てからと語っている。また、ノーベル賞受賞後の出張時には、島津製作所からの出張費の関係で乗車できなかった500系新幹線のグリーン車に乗れて嬉しいと記者団に答えた。
・多くの講演やインタビューを受け、研究や技術者としてのあり方について自身の経験と持論を語った。内閣府の総合科学技術会議にも参加し、日本の科学政策に影響を与える存在にまでなっている。なお、ノーベル賞の授賞式の後は単独でマスメディアに出ることはほとんどなかったが、2010年(平成22年)10月6日に鈴木章・根岸英一のノーベル化学賞受賞が決まった際には勤務先で会見に応じ、発表の生中継を見ていたことを明かした上で、「受賞から8年経ち、次々と受賞者が出てきて、私自身、肩の荷を下ろすことができるのかと思う」と述べた。
・ノーベル賞受賞時、田中耕一の七三分けの髪型に作業服という外見、一介のサラリーマンでお見合い結婚という経歴、穏やかで朴訥とした言動は非常に多くの日本人の共感を呼んだ。この年はNHK から紅白歌合戦に審査員として出演依頼されたが「私は芸能人でも博士でもありません。」と辞退した。一介のサラリーマンがノーベル賞という世界最高権威を授賞したこともさることながら、職人気質で謙虚な人間性も好意的に受け止められた。温厚な人柄で「善人の代名詞」とまでマスメディアは持ち上げたが、連日連夜の記者の追いかけと、一人歩きする聖人のようなイメージに悩んだと打ち明けている。高輝度青色発光ダイオードを発明した中村修二と日亜化学工業の訴訟については、田中耕一が引き合いに出されて、中村修二は貪欲であるという非難がなされたが、これについて田中耕一は、「自分の発明は会社の売り上げにあまり貢献しなかった」と状況が全く違うとして、中村を擁護する発言をした。なお、島津製作所からの特許報酬自体は1万円程度であったが、技術貢献に対する社内表彰はあり数十万円相当の報酬は受けた。
・1978年(昭和53年)3月 – 東北大学工学部入学。ドイツ語の単位を落として1年留年
・1995年(平成7年) 5月 – 富山県出身の女性と見合い結婚
・2003年(平成15年)1月 – 田中耕一記念質量分析研究所長(執行役員待遇)就任
・2005年(平成17年)5月 – とやま科学技術大使
・2006年(平成18年)12月12日 – 日本学士院会員
・2009年(平成21年)6月 – 東京大学医科学研究所客員教授(疾患プロテオミクスラボラトリー顧問)
・2010年(平成22年)3月 – 田中最先端研究所 所長(兼任)
・2011年(平成23年)12月 – 東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)委員
・2012年(平成24年)6月 – 島津製作所 シニアフェロー就任
・東京大学医科学研究所(2009年(平成21年)6月 – )
・愛媛大学 無細胞生命科学工学研究センター・筑波大学 先端学際領域研究センター・京都大学 国際融合創造センター( – 2008年(平成20年)3月)・東北大学大学院工学研究科(2013年(平成25年)11月の時点)
・日本学術会議 連携会員
・文科省 科学技術・学術審議会 臨時委員
• 1989年(平成元年)5月 – 日本質量分析学会 奨励賞
• 2002年(平成14年)11月 – 文化勲章
• 2002年 (平成14年)12月 – ノーベル化学賞
• 2002年(平成14年) – 文化功労者
• 2002年(平成14年) – 東北大学名誉博士
• 2003年(平成15年)3月 – 富山県名誉県民
• 2003年(平成15年) – 日本質量分析学会 特別賞
• 田中耕一(他)「レーザー脱離TOF質量分析法による高質量分子イオンの検出」『質量分析』第36巻第2号、1988年、59‐69、doi:10.5702/massspec.36.59。
• 田中耕一(他)「傾斜電界型イオンリフレクタによるTOF質量分析計の分解能の改善」Journal of the Mass Spectrometry Society of Japan. 1988年 36巻 2号 p.49-58, doi:10.5702/massspec.36.49
• 田中耕一「マトリックス支援レーザー脱離イオン化質量分析法」『ぶんせき』第256巻、1996年4月5日、253-261頁、NAID 10001778161。
• 田中耕一(他)「質量分析」『日本質量分析学会』 1997年 45巻 1号 p.113-121
• 田中耕一「良いスペクトルを得るために MALDI-TOFMS」『質量分析』第45巻第1号、1997年2月1日、113-121頁、NAID 10016280870。
• 田中耕一「私のノーベル賞くたくた日記」『文藝春秋』第81巻第2号、2003年2月、112-124頁、NAID 40005620427
• 田中耕一 『生涯最高の失敗』朝日新聞社、2003年9月25日
• 田中耕一 『質量分析:異分野と若手の力が活きている』(プレスリリース)2014年3月3日
・特許1769145(特許出願 昭60-183298、特許公開 昭62-043562、特許公告 平04-050982)発明者:吉田多見男、田中耕一、出願日:1985年8月21日)
(以上、部分抜粋転載終。一部順序を並べ替えた。)
(2023年4月1日転載終)
………
2023年4月1日追記2:
(https://plaza.rakuten.co.jp/tomojohn/17003/)
『読売新聞』[10月10日3時3分更新]
「ドッキリかと思った」田中耕一さん
《無名だった若きサラリーマン研究者が、一夜にして世界のトップに躍り出た。9日夜、ノーベル化学賞の栄誉に輝き、会社の作業着姿のまま記者会見に臨んだ島津製作所主任の田中耕一さん(43)(京都市)は「寝耳に水」「ドッキリかと思った」と驚き、照れたような笑顔で喜びを語った。同僚をはじめ、長引く不況に苦しむサラリーマンたちからも「我々の誇りだ」と次々に祝福の声が上がる。》
《記者会見は9日午後9時から、京都市の島津製作所本社研修センターで始まった。集まった100人以上の報道陣を前に田中さんは、頭を2、3度下げながら、落ち着いた表情でカメラマンの求めに応じ笑顔を見せた。》
《田中さんによると、受賞を知らせる電話は、突然かかってきた。「あなたがコウイチ・タナカですか」と英語で聞かれ、「はい、そうです」と答えると、「あなたを含め、3人の方が受賞される。おめでとう」と言われた。「ノーベル」という言葉は聞き取れたが、まさか自分がノーベル賞を受賞するとも思えなかったので、スウェーデンで似たような賞があるのかと思い、とりあえず「ありがとうございます」と言って電話を切った。》
《その後、「おめでとう」という電話がどんどんかかり、同僚たちが騒ぎ出した。田中さんは「初めは何かのドッキリかと思った。夢にも思いませんでした」と満面の笑みで振り返った。》
《会見途中、田中さんの携帯電話が鳴り、「まだ取材が続いているから」「こんな機会はめったにないからね」とやや話し込んでから電話を切った。そして「妻からでした」と一言。会見場は爆笑に包まれた。》
《今回の授賞理由となった研究は28歳の時のものだが、そのきっかけは、一つの失敗からだった。田中さんの研究は様々な材料を使い、たんぱく質の質量を計測するが、偶然、グリセリンをコバルトに落としたところ、授賞理由となったレーザー光を異常に吸収する物質が生まれた。》
《田中さんは「間違ったことで、世界が驚くような発明をしたことは本当は話したくないのだが」と笑いながら、「ある拍子に本来混ぜるつもりのなかった一つの溶液を別の溶液の中に落としてしまった。失敗は成功のもとと言うが、後から思えばコロンブスの卵のようなもの」と苦笑混じりに裏話を明かした。》
《田中さんの妻裕子さん(37)は9日午後8時ごろ、親族の葬儀に出席するため、富山市内の実家に戻った。受賞を知ったのは、富山駅から乗ったタクシーの中。ラジオから流れるニュース速報で、「最初に富山県出身と聞き、次に名前、そして年も主人と一緒で、『もしかしたら』と思った」。それが確信に変わったのは、実家に到着してから。多くの報道陣が家の前に詰めかけているのを見て、「受賞したんだ」と思ったという。》
《家族思いの誠実な人柄と、研究に打ち込むため昇任試験を拒む一徹さ――。田中さんを知る人たちは、偉業を成し遂げたサラリーマン研究者の人柄を、親しみを込めて口々に語った。》
《田中さんは男3人、女1人の4人きょうだいの末っ子。神戸市に住む姉の恒田康子さん(54)によると、小さいころから、手先が器用で、小学校時代には、ボール紙で天守閣の扉がすべて開閉する精巧な富山城を作り、担任の先生を驚かせるなど、将来につながる片鱗を見せていた。康子さんは子供のころ、田中さんと一緒に歩いていて「スクールゾーンじゃない所は通っちゃだめ」と怒られたことも。「それほどきまじめできちょうめんな性格が、今の研究に結びついたのでは」と振り返った。》
《95年にお見合い結婚した妻の裕子さん(37)の印象は「イノシシ生まれだけあって、猪突猛進。研究熱心でまじめ」。高校時代には、クラスメートから「耕一君」と呼ばれて親しまれた。勉強はできたが、ガリ勉タイプではない。》
《誠実な人柄は社会に出ても変わらなかった。島津製作所の同僚によると、田中さんは一線で研究を続けたくて昇任試験を拒み続け、主任にとどまっていることでも知られていた。同僚たちは「地道な研究にこつこつ取り組む、職人肌の人」と口をそろえる。》
《15年来の研究仲間でサントリー生物有機科学研究所の益田勝吉さん(42)は今年7月、新幹線に田中さんと乗っていて、台風の影響で車内に閉じこめられた。「『あれを見つけた』『これを見つけた』と研究のことばかり話し続けた。私は疲れていたから、頭をたたいて、『黙れ』と言ったけど、もうそんなことができなくなった」と、友人ならではの言い回しで喜んだ。》
《田中さんは5月に開かれた専門家の討論会で、参加者の1人に「海外の子会社への出向が長く、島流しにされていましたが、ようやく刑期が終わりました」と笑ったという。》
《世界的快挙につながる研究の成果を生んだのは母の死だった。「医学に役立つ測定器を開発したい」。83年に島津製作所に入社した時、配属先で上司に何をしたいのか聞かれた田中さんは「自分の研究で人の命を救いたい」と答えた。》
《東北大時代、実母が幼いころ病死したことを聞かされ、ショックを受けて以来、抱き続けていた夢だった。実母は田中さんを生んでから1か月足らずで死亡。富山市に住む実父の弟、光利さんに預けられた。実父も84年に亡くなった。》
《化学賞の田中耕一さん(43)。ほとんど無名の「主任さん」。87年、島津製作所に入社して5年目の田中さんはたんぱく質などの質量を精密に計測できる新手法を開発。》
(部分抜粋転載終)
。。。。。
(https://plaza.rakuten.co.jp/tomojohn/17003/)
『毎日新聞』[10月10日15時31分更新]
田中:私が5年間日本にいなかったので、存じ上げない。名前も今回初めて知った。しかし、格が違いすぎる。私はラッキーな形で受賞し、気がひける。同じ年に日本から2人のノーベル賞受賞者が出たが、米国ならもっと多くいる。日本は日の目を見ない研究者がたくさんいる。もっと掘り起こしていけば、今後珍しいことではなくなるだろう。
田中:本当に苦しんでいる人に言うのも失礼かもしれないが、苦しい時こそチャンス。研究費がたくさんある時もいい研究ができるが、逆に切羽詰まって「これしかない」という時にいいものが生まれる。(日本人には)ピンチをチャンスに変える素地がたくさんあると思う。(若い世代の中には)一生懸命やらず、途中でやめてしまっている人もいる。一生懸命やってもだめな場合はあるが、やめてしまっては何も生まれない。
田中:英国に行っていた5年間で、日本は「産官学」の垣根がなくなってきていると思う。大学の先生方と気楽に話し、意見交換できるようになったのはうれしい。
田中:失敗すると意気消沈し、そのことに触れたくないが、なぜ失敗したのかを追究しないといけない。同じ失敗を繰り返したり、異常な計測値が出てもその裏に新しい発見があるかもしれない。いつも自分に言い聞かせていることだが、失敗は次の段階への手がかりだ。
田中:高校時代は勉強した。大学の教養課程時代は遊んでいて留年した。これはいけないと思い、奮起した。興味を持っている工学の専門課程では、楽しみながら勉強できたと思う。周囲に西沢潤一さん(東北大元学長)ら頑張っている人がいたので、やる気が出た。(日本の学校教育については)あまりにも高尚な話。わざわざ述べるようなことは頭の中にない。
田中:最近は論文ばかり読んでいて、好きな本はない。大学生のころは(日本人で初めてノーベル物理学賞を受賞した)湯川秀樹さんの本をよく読んだ。著名な方でも普通の考えを持っていると思った。
田中:妻には怒られるかもしれないが、仕事がおもしろい。「常識にとらわれるな」というモットーを大切にしている。
(部分抜粋転載終)
(2023年4月1日記)
。。。。。。。
京都新聞(https://www.kyoto-np.co.jp/articles/amp/947646)
「ノーベル賞会社員、田中耕一さんが語る受賞後の20年「僕は成功者じゃない」」
2023年1月3日
2002年に日本の会社員エンジニアとして初めてノーベル化学賞を受賞した島津製作所の田中耕一さん(63)。学術界もメディアも田中さんの受賞は当時全くの予想外で、前代未聞の「サプライズ受賞」となったが、実直でちゃめっ気もある人柄が好感され、一躍人気者となった。あれから20年。還暦を過ぎた今も一人の企業人として歩み続ける田中さんが、もがき続けたという受賞後の20年を語った。これまでに経験した数々の「失敗」を赤裸々に明かし、そこから発想を切り替えることの重要性も説いた。
― ノーベル化学賞の受賞から20年がたちました。
「受賞の知らせを聞いた時は、腰を抜かしました。最初の1、2年は、なぜ評価してもらえたのか分からないまま右往左往していました。そのうちに一人で処理できないほど共同研究の依頼が舞い込みました。試行錯誤を繰り返しつつ、自分が何をやれば良いかが少しずつ見えてきました」
― 現在地までどんな道をたどったのでしょう。
「もがきながら、回り道をしてきました。質量分析技術が病気の診断や予防にも役立つと考え、アルツハイマー病の根本治療薬の共同研究に加わりましたが、残念ながら途中で止まってしまった。でもそこで、薬が難しいなら病気の早期診断や早期検出を目指そうと方向性を変えたのです」
― 一本道ではなかったのですね。
「私を成功者と思ってほしくありません。実に多くの失敗を重ね、発想を転換してここまで来たのです。裏返せば、見方を変えれば道は開けるということです。自分のことを悲観的な性格だと思っていたのですが、深刻には考えすぎませんでした。立ち止まって視点や考えを切り替えてみると、いろんな道があることに気付くと思います」
― これまでどんな失敗を経験したのでしょうか。
「大学ではドイツ語の単位を取れず留年しました。研究室を選ぶ時も、華々しい半導体の領域に応募しましたが、あみだくじで外れた。仕方なくアンテナ工学に入りましたが、そこで学んだことがノーベル賞につながる発見に生かされました。就職では希望した家電メーカーの試験に落ちました。島津製作所に入社した時も…。(後略)
(2023年4月2日転載終)
・・・・・・・・・・
2023年4月4日追記:
ほぼ20年ぶりに、田中耕一さんの話が出てきたので、主人との思い出を辿る意味で『生涯最高の失敗』朝日新聞社(2003年9月)を古本で注文したところ、今日とてもきれいな状態で届いた。
227ページのツーショットの写真は、実のところ、我々夫婦と風貌や雰囲気が似ている。奥さんの眼鏡顔や、御主人の髪型や身長差、等。
どうぞ末永くお元気でいらしてくださいね。
(2023年4月4日記)
・・・・・・・・・・
2023年4月5日追記:
(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)
2023年4月5日投稿
ここ数日でようやく、田中耕一氏の業績の医療面における貢献が理解できるように。
《アルツハイマー病の原因物質と考えられるアミロイドβの脳内蓄積状況を血液でみるという研究》
(2023年4月5日転載終)
。。。。。。
(https://www.shimadzu.co.jp/boomerang/43/01.html)
島津製作所『ぶーめらん』VOL.43
ライフサイエンスをも加速化させた質量分析装置を島津製作所が発売して50年となる今年、当社エグゼクティブ・リサーチフェローで、田中耕一記念質量分析研究所所長でもある田中耕一に改めて、科学技術と人類の未来について聞いた。
長足の進歩を遂げた質量分析
私は1983年の入社以来、島津製作所で一貫して質量分析法という分析技術の研究開発に携わってきました
質量分析とは試料をイオン化してその重さを測ることで、どんな物質がどれくらい含まれているのかを見ることができる方法です。この質量分析法が誕生したとされるのが1919年。100年前のことです。
島津はそれから50年後の1970年に、世界初の量産型ガスクロマトグラフ質量分析計を製造したスウェーデンのLKB社と提携してLKB-9000を日本に導入しました。今年はそれからちょうど50年という節目の年にあたり、私も大きな感慨を覚えています。
入社した当初、当社では、オリジナルのガスクロマトグラフ質量分析計を主力製品としていましたが、当時の装置は、部屋を埋め尽くすほどの大きさでした。それがいまや電子レンジほどのサイズのものまで登場しています。感度は1億倍以上になりました。分子の重さを見分ける分解能も、当時とは比べものにならないくらい向上しています。その進歩は、さまざまな分野で応用され、環境中の微量な汚染物質を分析することで公害の克服に貢献したり、薬品成分の体内変化を解析して、効果的な薬の開発に貢献したり、あるいはまだ原因がよくわかっていない病気のメカニズムの解明にも役立てられたりしています。
また、私の失敗を参考に大いに発展したMALDI-MS(マトリックス支援レーザー脱離イオン化質量分析法)によって、それまで分析が不可能だったタンパク質のような巨大な分子を壊すことなくイオン化して、計測できるようになりました。
私たちの研究所では、アルツハイマー病の原因物質と考えられるアミロイドβの脳内蓄積状況を血液でみるという研究に取り組みましたが、国の最先端研究開発支援プログラム(FIRST: 2010年3月~2014年3月)の30テーマの一つに採択されたことがきっかけの一つでした。
当初は絶対に無理だと言われていたのですが、国立長寿医療研究センターをはじめ、さまざまな最先端機関との連携のなか、所員と一緒に諦めることなく一つひとつ実績を積み上げ、2018年にはネイチャー誌で発表することができました。
しかし、発表して終わりではありません。まだまだやらなければならないことがたくさんあります。分析の自動化、一日の検体数を増やすことなど、現場で使っていただくための研究開発を、産学官連携のもと多くの方々といまも進めています。
いま注目されている感染症においても、微生物については、以前からレーザーイオン化法の応用として研究してきました。感染症検査に質量分析を用いれば、従来よりも早く原因を突き止めることができます。その分、重症化する前に適切な治療をすすめられますし、感染拡大を防ぐことにつながります。特に細菌については、すでに世界中で質量分析による判定が導入されています。
残念ながら、新たな感染症は次々に現れるでしょう。今後はウイルスについても質量分析によって判定する方法がないか、会社の中でもいくつもの関係部門と連携しながら検討しているところです。
「役に立つ」という意味
これに限らず、私たち人類は、科学技術によって見えないものを見えるようにしたり、その応用として健康で安全な社会を生み出してきました。にも関わらず、「科学は役に立たない」という論調があることに懸念を抱いています。
原理を応用して製品化を目指す技術開発に比べて、ノーベル賞などにつながる基礎研究を行う科学は、すぐには経済的効果を生まない、だから科学は「役に立たないもの」というレッテルを貼っているのだと思います。本当にそうなのか。
科学も技術も、私はどちらも役に立っていると考えています。人が人として存在し続けるために、科学技術は必要不可欠な要素なのです。たしかに技術は、実社会に便利なものを届けようとして進歩するものですから、役に立っていることが分かりやすい。それに対し科学は、深く根ざした部分で役に立っていると私は思うのです。
科学は、まだ人が知らないものを知りたいという、いわば「好奇心」に導かれて進歩する。それに対して、技術は人の役に立ちたいという「公共心」に導かれている。
私自身もそういう思いを抱いて実験に臨んできました。「好奇心」と「公共心」、日本語での発音はよく似ていますね。
そしてこの2つは、他の動物と比べると人間が明らかに多く持っています。そのおかげで人間は地球上でこんなに繁栄してこられたのです。この2つは人間の発展を支える両輪であって、どちらが欠けてもだめなのです。つまり、人であり続けることに科学は役に立っている、と思うんです。
人類におごりはないか
少し前に“地球に優しい”という言葉が流行りました。それがいまはSDGsに大いに進化したのですが、それに人間のおごりがまだあるように思えます。それよりももっとマクロな視点、長い歴史を踏まえた視点を持つべきだと考えています。
SDGsを日本語に訳すと、“持続可能な開発目標”。これには主語がありませんが、人類を指すのでしょう。人類が世代を重ね、地球で末永く暮らし続けられるように、地球環境を「守り」ながら開発するという目標です。
“地球に優しい”も地球から見れば、人間が「優しく」しようがしまいが 関係ない。地球にとっては、人間の活動は、宇宙という大きな流れの、ほんの一コマにしかすぎないのです。太古の地球、シアノバクテリアが酸素を大量に放ち、それまでの生物を全滅させた、と聞いていますが、それでも地球は続きました。人類やいまの生物が繁栄できたのは、隕石の衝突で恐竜が滅びたからだと言われていますが、長い長い地球の歴史のほんの一部なのです。
SDGsの考え方を進める場合、人と自然を切り離して考えるよりも、人類の存在自身、その文明さえも、地球が生み出した広い意味での“自然現象”であり、人は自然の一部である、という日本や東洋の文化として馴染みのある考えを参考に、SDGsの理念のさらに先の目標・到達点を見出していけたらよいと思っています。
いま、「何をすればよいか」を自分ごととして、自分の頭で考えて進められるようになれる方がよいと思うのです。
今回の新型コロナウイルスへの対応でも、こうした視点は持っておくべきでしょう。いま克服を目指して世界中が力を合わせていますが、消滅させてしまうことはできません。
人類はこれまでも、多くの感染症を経験してきました。それは、消滅させたのではなく、私たちの遺伝子の中に、細菌やウイルスの一部を取り込むなどして共存してきた部分もあります。
今回も「withコロナ」という言葉が生まれているように、できるかぎり危険を避けて長く付き合うという視点も持ったほうがよいと思います。
イノベーションは異分野の出会い、異なる視点から
私自身もそうですが、人間、一人だけで何ができるかというと、まったく知恵が足りません。だからこそ、大切なのが異分野融合、異業種連携です。
実際、新型コロナウイルスが蔓延して以来、これまで医療や創薬には携わってこなかった企業や個人が、続々とアイデアを出し、製薬会社や我々のようなメーカーとの間で協業し、思ってもみなかった工夫、製品が次々と誕生しています。
いままで出会うことがなかった人が出会い、想像することもできなかった意見に触れることで、イノベーションが生まれやすくなったと思います。技術革新と訳されたイノベーションの元来の定義は「新結合、新しい捉え方・活用法」ですので、当然の流れとも言えます。
いま私がいる昨年できたばかりの建物には、1階にサロンのような空間がつくられています。社外の方も訪れてくださっていて、ここでの議論を、「じゃ、ちょっと試しましょうか」と研究室で早速テストしてみる、なんていうスタイルが生まれています。
さらに、離れた棟にいた他の技術や研究部隊の多くが、ここに集まっています。当社が発売した迅速PCR検査キットのチームも、訪ねるのに15分ほど歩かなければならなかったのに、いまは1分もかかりません。そういう人たちが机を並べて研究できるようになりました。
私はいつも、あえて会社の中を歩くようにしているのですが、この建屋に引っ越してくるまで、せいぜい一日4~5千歩程度でした。しかし、いまは1万歩を超えています。場所が近くなったら歩かなくてよくなるはずなのに、なぜか増えている。つまりそれだけいろいろな人と会う機会が増えているということなんですね。おそらく他の人も同じことになっていると思います。この先、これがどういう結果につながるか、かなり期待しています。
若手が勝手に育つ環境とは
私は17年前からいまの研究所を、そしてある期間、国の最先端研究開発支援プログラムで所長を任せてもらいましたが、リーダーとしては本当に至らないことだらけです。
やってきたことといえば、メンバーの研究を見て、「それ、おもしろいね。続けてみたら」と後押ししたり、「それ、失敗に見えるかもしれないけど、こうやってみたら別に活かせるんじゃないかな」といった見方を示すことくらいです。
私自身、20代は口下手で赤面症で、人前でうまく表現できませんでした。それでも上司や先輩方が良いところを見つけ、褒めて育ててくださいました。
月一回の研究所内の発表会で褒めてもらい、年一回の社内発表会で自信をつけ、学会参加へと発展し、そこでの恩師との出会いから結果的に世界につながったという経験が、いまの私へと導いてくれました。
ですので、若手には、失敗を恐れずおもしろがってほしいと思っています。それがもしかしたら世界初の発見につながるかもしれない。
私は昔からあまのじゃくで、「人と同じことを考えても天才には追い付けない」と考えていました。ですから、メンバーが失敗して目標から少しずれてしまったとしても、私から見て良いと思ったものは素直に伝えています。
そんな私のようなリーダーの下でも、研究所として15年目には、100を超える論文を発表できたことは、それなりに意義のあることだったのではと思っています。
課題解決先進国へ
この「ちょっと違う視点で見てみる」というのは、実はとても重要なことだと思います。
私は試料に混ぜる混合物の材料を間違い、もったいないと試したことから、タンパク質をイオン化する方法を発見しました。
私は大学では電気を専攻していました。もし私が化学をしっかり学び、知識を十分に持ち合わせていたら、間違った混合物を使ってみるなんてことはしなかったと思います。
裏を返せば、私が門外漢だったからこそたどり着けた成果でした。これも異分野が垣根を超えて交わった結果の一つと言えるでしょう。
日本は、少子高齢化をはじめ、いくつもの課題がある課題先進国と呼ばれています。一方で、災害復興や公害など数々の課題を先人たちが解決してきた課題解決先進国でもあります。
その歴史を受け継ぎ、いま現在も、目の前の多くの課題を解決するために、あらゆる分野の方々が枠を超えて連携し、知恵を出し合い、汗を流しています。私たちはこの素晴らしい事実を改めて認識し、そして大いに自信を持ってよいと思うのです。
課題解決に向けたこうした知恵や努力は、将来、世界に届けられて役に立つことになるはずです。微力ながら、私もそこに連なるいち研究者として、これからも力を注いでいきます。
2003年 田中耕一記念質量分析研究所 始動
2014年 アルツハイマー病の血液バイオマーカーを発見
国立長寿医療研究センターとの共同研究で、アルツハイマー病の原因物質アミロイドβの脳内蓄積を血液で推定できるバイオマーカーを質量分析システムを用いて発見した。
2018年 論文が100本超に
現旧所員が筆頭著者または共著者となった論文数が研究所創設以降、累計100本を超えた。
2018年 アルツハイマー病変の早期検出法を血液検査で確立
2014年に発見した血液バイオマーカーを発展させ、その有効性を国内外の多検体を用いて検証した。
(2023年4月5日部分抜粋転載終)
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日経ビジネス(https://business.nikkei.com/atcl/report/16/070600229/072000006/?n_cid=nbponb_twbn)
ノーベル賞田中氏「肩肘張らずに異分野に飛べ」
古い知識や技術でもイノベーションは創出できる
2018年7月23日
朝香 湧
田中さんは2002年に「高分子のソフトレーザー脱離イオン化法」でノーベル化学賞を受賞しました。同技術を発展させ、今年2月にはアルツハイマー病変の早期検出技術を発表するなど、イノベーションを起こし続けています。田中さんは「イノベーション」についてどうお考えですか。
田中耕一・島津製作所シニアフェロー(以下、田中氏):イノベーションは「技術革新」と訳されたためか、今までとは全く違ったことをやらなければいけない、と思われがちです。しかし、私はそんなに難しく考えなくてもいいんじゃないかと思っています。今までにあった古い知識や技術でも、新しい捉え方ができればイノベーションにつながるはずです。
イノベーションを定義したヨーゼフ・シュンペーターによると、従来からあった要素を新結合させたり、新しい捉え方・活用法を見出したりすることをイノベーションとしています。
これまで蓄えてきた知見を生かせばいいのに、レガシー(古い資産)は足かせになるから捨て去るべき、という先入観こそが良くありません。イノベーションには「技術革新」というイメージがありますが、そういう狭い範囲で捉えてしまうと、ある意味で手足を縛ってしまうのです。
イノベーションを起こすために、新しく特別な場所を設ける必要が本当にあるでしょうか。イノベーションに必死になるあまり、呪縛のようなものにとらわれると、今まで蓄積してきた価値のあるものを生かすチャンスを自ら失ってしまいます。
これまで蓄積してきた技術や知識を生かすために、企業には何ができるでしょうか。
田中氏:特別な場所ではなく、気張らずに意見交換できる場所を用意すればいいんです。むしろ正式な会議にすると固まった思考になってしまいます。ちょっとコーヒーを飲んでリラックスした時に「最近、仕事でこういったことに悩んでいるんだ」と他部署の人に打ち明けられるような場所ならどこでもいい。
文系、理系を問わず様々なバックグラウンドを持つ人たちが率直に意見を交換できれば、凡人や素人であっても、イノベーションは起こせます。
重要なのは、様々な視点を持つ人たちによる「異分野融合」です。例えば今、家電メーカーなどが介護サービス事業に進出しています。島津製作所もアルツハイマー病変の早期検出法を確立しましたが、介護業界の人たちと一緒になれば、重度の要介護状態を防ぐためにはどんなことができるだろうかといった課題に対しても、意見が出てくるはずです。
残念ながら日本の企業では、2つの部署がほんの数十メートルしか離れてないのに、没交渉というケースは少なくないと思います。
必要なのは日本の自信回復だ
なぜ異分野融合が起こらず、没交渉になってしまうのでしょうか。
田中氏:日本には、自信が欠けているからだと思います。これまでアジアで自分たちだけが優等生だったのに、日本よりも成績の良い国が隣にいくつか出てきた途端、相対的に落ちてきて自信をなくしてしまっています。
自信を失っているからこそ、従来の研究、技術に一生懸命取り組んでいる人たちが口を閉ざしてしまい、一層イノベーションを起こしにくい環境になっていると私は思います。
実際に私たちは戦後、例えば製造業の現場でずっとイノベーションを起こしてきたのです。当たり前のようにやってきたことは、イノベーションだったんですよと、声に出して言う必要があるのではないでしょうか。そうしなければ、「日本が行ってきた今までのやり方は、イノベーションじゃなかったんだ」というふうに、ますます自信を失ってしまうからです。
日本の自信欠如が異分野融合を阻んでいるということですね。
田中氏:なぜ欧米が上手くいっているかというと、何かの目的に向かって、分野を超えて、場合によっては国境さえも越えて色々な人が集まるからです。質量分析の学会を例に挙げますが、米国では医学とか薬学、それから物理、化学、様々なバックグラウンドを持った人たちが大学の壁を越えて、1つの目的のために集まっているわけです。
そういったことは日本でもできると思います。日本には本来、チームワークを重視するというメンタル的な素地はあるんじゃないでしょうか。特に製造業の現場では、1つの目的のために人が集まるということが、自然発生的に起こっていると思います。
革新的なイノベーションを起こすんだと肩肘を張らず、今手元にあるものを、別の方法で展開してみる、あるいは課題を変えてみる、新しい分野に行ってみる……。そんなことを考えれば、今まで何をやっていたんだと思えるような成果が出てくるんじゃないかなと思います。
(2023年4月5日転載終)
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文春(https://bunshun.jp/articles/-/11145?utm_source=twitter.com&utm_medium=social&utm_campaign=socialLink)
「ノーベル賞がつらかった」田中耕一が初めて明かした16年間の“苦闘”
NHK「平成史スクープドキュメント」がスクープした思いとは
木内 岳志
2019年3月26日
あと1ヶ月ほどで、「平成」が幕を閉じる。平成とは私たちにとってどのような時代だったのか、さまざまな事件・出来事から激動の30年を見つめる「NHKスペシャル」のシリーズ「平成史スクープドキュメント」。第5回は、平成を彩ったノーベル賞に焦点を当てた。
平成に入って、自然科学系ノーベル賞を受賞したのは18人(アメリカ国籍取得者含む)。その中でも世界を驚かせたのが、2002年(平成14年)にノーベル化学賞を受賞した田中耕一だ。いち民間企業のエンジニア、修士号すら持たない研究者に化学賞が贈られたのは、世界で初めてのことだった。バブル崩壊の後遺症に苦しみ、「失われた20年」と言われた時代。中年サラリーマンの快挙に、日本中が沸いた。
ところが、時代の寵児となった田中は、こつ然とテレビの画面から姿を消す。その後、16年間、メディアを遠ざけ続けてきた。再び表舞台に登場したのは去年。発症30年前にアルツハイマー病の診断につながる技術を開発し、科学誌ネイチャーに掲載されたのだ。この間の田中の知られざる苦闘。これこそが番組の命題である「平成のスクープ」となった。
ノーベル賞は苦痛でしかたなかった
実は田中は、この16年間、サインを求められても、一度として応じることがなかった。人前では握手すら断っていた。ノーベルメダルは、自宅の押し入れにしまったまま。田中は科学界、最高の栄誉が与えられたことが苦痛でしかたなかったという。
「ノーベル賞に値することをやっていたとは、私自身思っていなかった。周りの人もそう思っていた。受賞する人たちの功績を見ると、最初に発見をしたこと、かつそれを育てていったこと、ペアでやっている方が多い。私はあくまで発見しただけで、何か大きなことを成し遂げた気持ちになれなかった」
田中が自分の業績に自信が持てなかったのは、“世界的な発見”に至る過程にあった。大学では電気工学の専門だった田中だが、島津製作所に入社後、化学の研究を命じられる。課題はレーザーを用いてタンパク質を分析する方法の開発だった。
人体の15%を占め、生命活動に重要な役割をするタンパク質。さまざまな病気の解明の鍵を握ると思われていた。だが、いくつものアミノ酸が連なり、複雑な構造を持つタンパク質を壊さずに分析することには、世界で誰も成功していなかった。
「自分は何かを成し遂げたのか」と自問
田中はレーザーを当ててもタンパク質が壊れない、「緩衝材」の作成に取りかかった。入社2年目の冬、田中は、試薬にグリセリンを誤って混ぜてしまう。以前の実験で、グリセリン単体では緩衝材として効果がないことを確認していたが、それでも敢えて実験してみることにした。すると、タンパク質の反応が現れたのだ。このとき、田中は25歳だった。
それからおよそ20年。突如、ノーベル賞授賞の知らせが届いた。田中の人生は一夜にして変わった。一歩外へ出れば人々に囲まれ、「先生」と呼ばれるようになった。受賞当時、田中はまだ43歳。「次はどんな大発見をするのか」と、周囲の期待は膨れあがっていった。一方、学術界の一部からは「偶然、発見をしただけだ」「研究を発展させた科学者のほうが受賞にふさわしい」といった批判的な声が聞こえてきた。「自分は本当に何かを成し遂げたのか」。「自分は受賞に値する科学者なのか」。田中は自問自答を続けた。
血液一滴で病気を診断する方法を開発する
メディアから距離をとるようになった田中。自分を見失いそうになるなかで、ある目標を立てた。タンパク質を分析する技術を発展させ、「血液一滴で病気を診断する方法を開発する」というものだった。幼いころ病気で母を亡くした田中は、「人々の役に立つ研究をしたい」という入社当時の志に、立ち返ろうと考えたのだ。
田中は社長らに決意を語って説得し、年間1億円の予算と研究環境を得た。しかし、道のりは困難を極めた。例えば、ガンなど様々な病気に関連する「糖鎖」の構造は、1500万通り以上の組み合わせがあるとされる。思うように研究は進まなかった。責任を果たせない不甲斐なさを抱えながら、苦悶する日々が7年、続いた。
そんな状況を打開する転機が訪れる。2009年(平成21年)、世界最先端の研究に資金を補助する国のプログラムに選ばれ、5年で35億円という多額の研究資金を得ることができたのだ。田中は若手スタッフを雇うなどして、研究を一気に加速させた。
もっとも力を入れたのが、認知症の約7割を占めるアルツハイマー病。アミロイドβというタンパク質が脳内に蓄積し、神経細胞を傷つけることで病気が発症するとされている。蓄積が始まるのは発症30年前。血液中に微量しか含まれないアミロイドβだが、血液検査で捉えることができれば、早期発見や治療薬の開発に役立てられるのではと考えた。
実験結果が医学界の常識を覆すことになった
研究開始から2年。ひとりの若手スタッフがアミロイドβの検出に成功する。田中は天にも昇る心地で、この成果を認知症の専門家に持ち込んだ。ところが、意外にも反応は冷ややかだった。血液中のアミロイドβは、その日の体調などにより量が増減する。そのため、アミロイドβが検出できても、病気を診断することはできないというのが“医学界の常識”だったからだ。実は医療の専門家でない田中は、このことをまったく知らず、研究を進めていたのだった。
しかし、田中が示した別の実験結果が医学界の常識を覆すことになった。それはアミロイドβとはわずかに構造が異なる「未知のタンパク質」のデータ。学界では、理論上、存在が否定されていたが、今回の実験の過程で偶然、田中たちは検出に成功していた。
「偶然は、強い意志がもたらす必然」
認知症研究の第一人者である柳澤勝彦(国立長寿医療研究センター)。当初「正直、何が新しいのか分からなかった」と言うが、田中たちと議論を重ねるうち、この未知のタンパク質が早期診断の鍵を握っているのではないかと考えるようになった。そして、柳澤は脳内で病気の異変が起きている人と、起きていない人の血液を分析することにした。すると、驚きの結果が出た。
異変が起きていない人の血液では、アミロイドβは未知のタンパク質より多かった。かたや、異変が起きている人では、その逆。アミロイドβは未知のタンパク質より少なかった。ふたつのタンパク質の比率に注目することにより、認知症を発症するリスクを診断できる可能性があることを突き止めた。
若き日、田中は化学薬品を誤って混ぜたことで、タンパク質の分析方法を発見。ノーベル賞を受賞した。そして今回、田中は「常識」を知らないまま研究に挑み、さらに副産物として未知のタンパク質を発見したことで、認知症の早期診断に扉を開いた。2度の発見はラッキーパンチだったのだろうか。私はそうは思わない。常識を打ち破る科学的発見は、偶然から導かれることが少なくない。だが、その偶然を生み出すには、失敗を恐れずにチャレンジし続ける、不断の努力で裏打ちされているものだ。「偶然は、強い意志がもたらす必然である」。
インタビューでは終始謙遜していたが……
受賞から16年、ノーベル賞の呪縛から解き放たれた田中。「もがいて進んできた」経験を伝えたいと、私たちの取材に応じることも決断してくれた。
「例えば化学の実験で、これは間違っているからやめておこうということも、私たちは深い専門知識がないためにやってしまう。天才だったらこんなことしないだろう。でも、こういうふうに解釈したら、別の分野の考え方で捉えたらうまくいくことがいくつかできたために、発展ができた」
「失敗を恐れて取り組まないと、結果として何もできないということになる。もっと色んな可能性というものにチャレンジというか、失敗してもいいから、私も失敗ばかりしていますから、チャレンジしてほしい」
インタビューでは終始、謙遜していた田中だが、一つ一つの言葉は自らの手で掴んだ確信から絞り出されたもののように思われた。
(2023年4月5日転載終)
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読売新聞(https://www.yomiuri.co.jp/economy/20201105-OYT1T50191/)
ノーベル賞受賞者も在籍、「無理を聞いてくれる」企業に生き続ける「挑戦するDNA」
2020年11月7日
島津製作所はノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏が在籍することで知られ、新型コロナウイルス感染症のPCR検査用試薬でも注目を集める。上田輝久社長に、研究開発型企業のかじ取りを聞いた。(聞き手・三宅隆政 写真・土屋功)
<最短約1時間で新型コロナへの感染の有無が分かるPCR検査用の試薬を4月に発売した。6月には、この試薬を使えば、唾液でも鼻の奥を拭った液と同等の精度を得られることがわかった>
検査試薬は、食中毒の原因となるウイルスの試薬をベースにしました。技術的な基盤があったので、短期間での開発が可能でした。
10月には東北大と共同で、呼気から感染の確認ができる検査方法を発表しました。まだ研究段階ですが、数年内の実用化を目指しています。現状ではウイルスの有無を検査し、感染が判明すれば隔離するだけです。今後は重症化リスクなど病気の診断、さらには治療や栄養管理にも協力したいと考えています。
がんや認知症、うつ病などの診断レベルの向上にも貢献したいと考えています。
(2023年4月5日部分抜粋転載終)
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読売新聞(https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/feature/CO049294/20221122-OYTAT50047/)
ノーベル受賞 歩んだ10年、20年 田中耕一さん、山中伸弥さん特別対談
2022年11月22日
ノーベル化学賞の受賞から今年12月で20年を迎える島津製作所(本社・京都市)の田中耕一さん(63)と、生理学・医学賞受賞から10年になる京都大の山中伸弥さん(60)は、ともに関西・京都を研究拠点とし、60代になった今も一線で活躍する。節目の年に特別対談し、科学界への提言、人生100年時代の生き方や、若者への期待を語ってもらった。
◆突然の知らせ
田中:2002年10月9日は残業のない水曜日で帰ろうとしていたら、同僚が私に電話を取り次いでくれ、それが最初でした。「ノーベル何とか賞を授与したいから受けるか?」というふうなことを多分言われ、よくわからないまま「イエス」と答えたら、30分後には会社中の電話が鳴り出し、3時間後に記者会見でした。後に聞いた話では、その年の1~3月頃にノーベル賞関係のイベントで来日したスウェーデンの方が「島津製作所を見たい」と京都へ来ていたらしいのですが、全く知りませんでした。
山中:受賞の数年前から、発表日のたびに大学本部の人がカメラを持って目の前で電話がかかってくるのを待っていました。他にも多くの人が待機してくれているのが申し訳なくて、これが毎年ずっと続くのかと思うと、本当に 憂鬱でした。ところが10年前は体育の日で大学が休みだったので、自宅で気楽に過ごしていたら、突然、電話がかかってきたのでびっくりしました。
―― 受賞後、田中さんは100本を超える論文を出され、山中さんはiPS細胞の医療応用の実現に注力してこられましたね。
田中:論文の多くは、私よりも若手や中堅が頑張ってくれた成果です。日本では研究者の6割、約50万人が企業人です。以前は企業研究者が受賞するなど想像もされていませんでしたが、私の受賞後は「あの田中にできるんなら、何か新しいことをやってみる価値はある」と思われるようになりましたね。もちろん失敗の方が圧倒的に多いんですが、新しいことをやろうと思ってもらうきっかけになれたのかな、と思っています。
山中:iPS細胞の医療応用は、多くのプロジェクトで治験や臨床研究の段階まできました。マラソンに例えれば中間点を過ぎたあたりでしょうか。ここからが大変ですが、一方で、私たちアカデミア(大学などの研究機関)にできることは限られてきました。医療応用の実現に向けた後半は企業が主体となり、バトンタッチの時期に差し掛かっています。マラソンと言うより駅伝ですね。
◆新たな展開
―― アカデミアと企業の研究の違いは。
山中:研究には「大航海型」と「捜査型」があると思います。海の向こうには何があるかわからないけど行ってみよう、という大航海型は、成果が予想できません。逆に捜査型はゴールが明確で、いかに速く到達できるかです。どちらも大切ですが、例えば国からの研究費を得やすいのは、短期間で成果が出る可能性が高い捜査型。でも、世の中を大きく変えるような成果が得られるのは大航海型だと思います。捜査型の研究では、目的以外の結果が出たら、それを楽しんでいる余裕はありません。こうした傾向は企業に多い。7、8年前から製薬企業と大型の共同研究を進めていますが、驚いたのは、企業にとって重要な決断とは「いかにやめるか」「いつやめるか」なんですね。「え、ここでやめるの」と思うことがよくあります。
田中:企業は利潤を上げなければいけませんから。しかし、その点では島津という会社はあきらめの悪い会社なんですね(笑)。儲からないのに、ずっと続けている研究もあります。その一つが新型コロナウイルス感染症の検査で必要になったPCR技術でした。検体に不純物が混じっていても検査できるPCR技術の研究は、長らく収益につながっていませんでした。けれど、こうした知的財産という蓄えがあったおかげで、必要な試薬の開発を2か月で終え、出荷できました。コロナ禍では様々な技術を持つ企業が、それまで思ってもみなかった分野で貢献したと思います。
―― 科学技術の地盤沈下が指摘されていますが、イノベーション(技術革新)を起こすにはどうすれば。
山中:大学の研究者が企業に飛び込んで、5年、10年の単位で社員と一緒に取り組む形の共同研究がもっと増えればいいですね。例えば有望な新薬候補でも1万人に1人、肝障害や腎障害が出たら企業は開発から撤退することがありますが、iPS細胞を使った試験でリスクを早期に予測できれば、多くの人にはすごく良い薬になるかもしれません。
田中:そうした共同研究がなかなか進まないのは、どこかにまだすれ違いがあるのでしょう。アカデミアと企業では研究の切り口が違います。両方がうまく成り立つような組み合わせを、日本ではまだ探しきれていない。海外との共同研究の例は増えているので、次第にノウハウができてくるんじゃないかな。
◆60歳超えて
―― 人生100年時代を迎え、今後の目標は。
田中:若い人の下請けのような仕事を、生涯現役でやっていけたらと考えています。受賞後の20年間もたくさん失敗し、その上で失敗したら違う道を進めばいい、という考え方を共有するようにしてきました。
山中:元気だった親友の医師が、外来診療でコロナに感染して50代で亡くなりました。自分の人生も、いつ終わるかわからない。逆にあと40年あるかもしれない。どちらに転んでも後悔しないよう、できることは何かと考えたら、やはり基礎研究。4月から一研究者に戻り、25年前から続けている遺伝子の研究に改めて取り組んでいます。
◆若い人へ
山中:若い人には、どんなことでも一生懸命やってほしい。私も若い頃は柔道やラグビーに打ち込み、そのことが、結果として今の自分につながっています。
また、今の若い人たちは、自分が生まれた国に対する評価が低すぎるように思う。これほど安全で、みんなが親切で優しく、助け合って病気になったらすぐに診てもらえるような国は他にありません。日本に生まれたのは幸運で、もっと誇りに思っていい。海外で過ごす時間が長くなるほど、その良さがわかります。
田中:日本人は自信を失っていると言われますが、日本には米国にもない、文化的な蓄積があります。もう一つ強調したいのは、人として生まれたからには人間らしく生きたい。そのために科学、技術は欠かせないということです。人が他の動物と違うのは好奇心。わからないものをわかりたい。わかったらうれしい、楽しい、という好奇心は科学と結びついています。それに対し、技術は公共心。みんなのために役立つことがうれしい、楽しい、という人の基礎的な能力だと思うのです。このことを多くの人たちに伝え、理解してもらいたいですね。
(2023年4月5日転載終)
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日経新聞(https://www.nikkei-science.com/page/magazine/0212/tanaka.html)
ノーベル化学賞 田中耕一 島津製作所ライフサイエンス研究所主任
小さな発見にひそむ大きな重み
田中耕一氏
1959年8月3日富山市生まれ。83年東北大学工学部電気工学科卒業,島津製作所入社。中央研究所,計測事業本部,英国の関連会社への出向などを経て,2002年に分析計測事業部ライフサイエンス研究所主任。入社5年目の87年に今回の受賞理由となった「ソフトレーザー脱離法」を発表,タンパク質など生体高分子の精密な質量分析に道を開いた。
田中氏らノーベル化学賞3氏の受賞理由は「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発」。ヒトを含め多くの生物のゲノムが解読されたいま,生命科学の焦点はプロテオーム(生物がもつタンパク質の全体像)に移ってきた。遺伝子が作り出すタンパク質の姿と働きを明らかにし,生命の実像に迫る。研究は画期的な新薬開発につながり,私たちの健康に貢献する。経済的インパクトも大きい。
3氏がそれぞれ開発したのは,こうしたプロテオミクス研究を支える分析手段だ。田中氏のソフトレーザー脱離法と,フェン教授のエレクトロスプレーイオン化法は,壊れやすいタンパク質分子を質量分析計で解析するための新技術。ビュートリッヒ教授は化学分析に広く利用されている核磁気共鳴(NMR)法を改良し,タンパク質に適用できるようにした。
タンパク質を壊さずイオン化
田中氏が開発した手法は現在,「マトリックス支援レーザー脱離イオン化法」(MALDI;Matrix Assisted Laser Desorption/Ionization)として実用化している。
質量分析計は原子・分子のイオンを電場や磁場の中に通し,その軌道や移動速度をもとに質量を割り出す仕組みだ。試料をイオンの状態にする必要があるが,タンパク質などの生体高分子の場合,これが難しかった。試料にレーザーを当ててイオン化する「レーザー脱離法」が知られていたが,タンパク質に適用すると分子そのものが分解して壊れてしまう。この壁を打開したのが田中氏の功績だ。
きっかけは1985年の「偶然の発見」だった。田中氏は当時,島津製作所中央研究所の研究員として,先輩研究員の吉田佳一氏(現在はマイクロ化学プロセス技術研究組合に出向中)とともに,高分子試料に別の物質を混ぜたうえでレーザーを当てる実験に取り組んでいた。レーザーを効果的に吸収する媒質(マトリックス)の中にタンパク質を分散しておけば,マトリックスが急速に加熱されてタンパク質分子もろとも気化,タンパク質分子そのものは無傷のままイオン化する可能性があると考えた。
「まったくの偶然」
マトリックス材として金属の微粉末や有機物などを試したが,いずれもうまくいかなかった。ところが,コバルトの微粉末に誤ってグリセリンをたらし,これをマトリックスとして使ったところ,うまくイオン化した。「まったくの偶然で,まさに瓢箪から駒」と田中氏は述懐している。
こうして分子量4万8000程度のタンパク質分子の分析が可能になり,1987年に学会発表。当初はそれほど注目されなかったが,米国の研究者が強い関心を寄せ,翌年の論文発表につながったという。
一方ではこの手法を組み合わせた質量分析計の開発を並行して進めた。イオンを電界で加速し,検出器に達するまでの時間をもとに質量を割り出す飛行時間型質量分析法(TOFMS)というタイプで,1988年に製品化。1990年に米国のシティーオブホープ・メディカルセンターに納入された。
田中氏が先鞭をつけたイオン化手法そのものは,その後,ミュンスター大学(ドイツ)のフランツ・ヒーレンカンプ教授が発展させた。マトリックス材から金属微粉末を除き,有機分子だけを利用する方法を使い,分子量10万程度のさらに大きなタンパク質のイオン化に成功(1988年)。現在ではマトリックスとしてグリセリンのほかニコチン酸やコハク酸など,数十種類の物質が知られるようになり,MALDI法として定着した。
ペプチドからタンパク質,多糖類まで,どんな物質を分析するにはどのようなマトリックス材が適しているかも,しだいにはっきりしてきた。マトリックス材に応じてレーザーの波長も選ぶ必要があり,紫外域や遠赤外域のレーザーが使われている。
分析対象試料の溶液とマトリックス材の溶液を混ぜ,基板に塗って乾燥させる。マトリックス材がモル比で試料の100倍から1万倍になるように調整し,1ナノ秒(ナノは10億分の1)程度のレーザーパルスを照射して瞬間的に加熱するのが一般的だ。分析対象の分子が中性のまま気化しても,同時にできたマトリックス材や不純物のイオンと作用することによって,イオン化が進むことも判明してきた。
一方,共同受賞者のフェン教授によるエレクトロスプレーイオン化法は1988年に発表されている。こちらはタンパク質の溶液を小さな液滴にしたうえで帯電させるのがポイント。水が蒸発するにつれて液滴が縮み,最終的にはイオンが残る。MALDI法と並んで,現在では広く利用されている。
突破口を開くことの重さ
こうして経緯を振り返ってみると,田中氏の功績はMALDI法の開発に突破口を開いた点にあることがわかる。ただ,田中氏によるとマトリックス材を混ぜるというアイデアは吉田氏の発案で,「私だけが受賞するのはアンフェアだと思う」とまでいう。とすれば,ポイントは1985年の「偶然の発見」に尽きることになる。
金属微粉末と有機材料を意図して混ぜたわけではなかった。「捨てるのももったいないと思ったので実験してみただけ」と田中氏はいう。大学で学んだのが化学ではなく電気工学で,「(化学の)専門知識にとらわれずにやったのが良かったのかもしれない」。
2001年に化学賞を受賞した白川英樹氏の場合も,よく似たエピソードがあった。大学院生が触媒の調合比率を間違えた結果,予想外に導電性の大きな高分子ができたという。白川氏はこれを見逃さず,後の研究につなげた。
科学史をひもとけば,偶然の発見が成功に結びついた例はほかにもたくさんあるだろう。科学研究でも技術開発でも,いわゆるセレンディピティーが重要な役割を演じている(池内了「今こそ知の基盤確立を」12ページ)。
田中氏のケースでは,ソフトなイオン化法を探るという目的は明確だったものの,実験は文字通りの手探り。また,後にヒーレンカンプ教授が金属微粉末を使わないやり方を完成させており,1985年の発見も“完全回答”からは少しズレたものだった。その意味でも,「小さな発見」だったといえるだろう。
もしコバルトにグリセリンをたらすという偶然がなかったら,どうなっていたのだろう?
また,田中氏の発見がなくても,ヒーレンカンプ教授はいずれMALDI法の開発に成功したのだろうか?こうした問いにはもはやあまり意味はなさそうだ。確かなのは,ヒーレンカンプ教授自らが1988年の論文で田中氏の発見を引用し,その重要性を認めている点だ。
田中氏の「小さな発見」が突破口になったという事実は動かしがたい。「私だけが受賞するのはアンフェアだと思う」という発言は田中氏の謙虚な人柄から来ている部分も多分にあるに違いない。こうした「小さな発見」がきっかけとなって研究が進み,いかに大きな重みを持つようになりうるか,その劇的な実例が田中氏の化学賞受賞だといえそうだ。
(2023年4月5日転載終)