まずは、過去ブログの抜粋引用から始めよう。
・Lily’s Room(Part2)(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=1919&action)2022年2月24日付「来し方行く末を想う」
当時、既に伊丹への転勤が決まっており、今暮らしている住居も一日で見つけて、仮押さえしていたところだった。主人も私も、少なくとも定年までは頑張ろうと思い、主人に至っては、できれば定年後も嘱託として数年は過ごすつもりで、私の不安をよそに、前向きに強気の態度でいた。
(中略)
その意味で、我々はギリギリのタイミングで結婚できたと思う。今や、当時は想像もつかなかった事態が次々に起こっている。
(1)相互に知り合うきっかけを作ってもらった大手の結婚紹介所は、二年前に他社の子会社化した。
(2)初めて出会った日に数時間過ごした、名古屋の栄にあった中日ビルの回転レストランは、既に取り壊しとなった。(但し、何も知らなかった割には幸運なことに、徐々に閉館されていく一年前の2017年7月下旬、二人で思い出の写真を撮ることができた。)
(3)挙式から披露宴までの全てをプロデュースした会社は、その頃、京都では「飛ぶ鳥を落とす勢いだ」と言われたナンバー1で有名だった。私共の挙式一ヶ月前には証券取引所で上場され、何事もスムーズに電話一本で進んだ。ところが、徐々に業績が悪化し、2020年のコロナ問題でほぼ破産。名古屋の別業者の子会社に。
(4)披露宴をした京都市北部のフレンチ・レストランは、2016年12月までツィッターで広報を頑張っていたが、ついに閉店。
結局のところ、私共が挙式した京都の下鴨神社のみが残っているという、何とも淋しい次第。
それでも当時は、私自身の状況が何かと切羽詰まっていたためもあってか、主人も含めて(1)から(4)の全てが輝いて見え、羨望に満ちていた感があった。あの頃だったからこそ、皆さんが集まって祝ってくださったのだった。
2022年7月2日追記:
(3)のプロデュース会社の傘下にあった着付け美容院や貸衣装店は、今も別枠で経営中であることを下記の下鴨神社の糺の森関連のチラシで知った。
(5)知り合った直後の1997年1月から2月にかけて、名古屋に来てくれた主人と二度ほど、ボーリングをした名駅近くの「名鉄レジャック」は、2022年6月30日付電子版『日経新聞』によると、2023年3月末で営業を終える、という。
この建物は1972年に開業し、老朽化しているためでもある。1992年度のピーク時には売上高が39億円ほどあったが、コロナ問題のために、2021年度には10億円まで下がったようだ。あの頃、月に一度はアメリカ出張をしていた主人は、合間の週末をぬって新幹線で京都から名古屋まで来てくれており、夕方は「ここで食べてから帰ります」ということで、レジャックの地下の居酒屋で二人分5000円近くを飲食していた。
これにより、主人がその頃暮らしていた京都市西京区の社員寮だった桂寮の取り壊しに加え、入社以来、2018年10月1日付で転勤するまで勤務していた長岡京の京都製作所も2022年3月末に閉鎖となり、知り合った頃の主人の軌跡や思い出は、確実に消えゆく運命にあることが、より明確になった。
(2022年7月2日追記終)
(2023年2月6日転載終)
。。。。。。
・Lily’s Room(Part2)(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=3718&action)の2022年11月18日付「一人銀婚式」
2022年2月24日付の過去ブログ(http://itunalily.jp/wordpress/)と重複するが、繰り返してみよう。
《我々はギリギリのタイミングで結婚できたと思う。今や、当時は想像もつかなかった事態が次々に起こっている。》
(1)相互に知り合うきっかけを作ってもらった大手の結婚紹介所は、二年前に他社の子会社化した。
(2)初めて出会った日に数時間過ごした、名古屋の栄にあった中日ビルの回転レストランは、既に取り壊しとなった。
(3)挙式から披露宴までの全てをプロデュースした京都ナンバー1の会社は、徐々に業績が悪化し、2020年のコロナ問題でほぼ破産。名古屋の別業者の子会社に。
(4)披露宴をした京都市北部のフレンチ・レストランは、2016年12月までツィッターで広報を頑張っていたが、ついに閉店。
(5)名古屋に来てくれた主人と二度ほど、ボーリングをした名駅近くの「名鉄レジャック」は、2023年3月末で営業終了。
(6)主人がその頃暮らしていた京都市西京区の社員寮だった桂寮は取り壊された。
(7)入社以来、2018年10月1日付で転勤するまで勤務していた長岡京の京都製作所は、2022年3月末に閉鎖。
(以上、要点のみ抜粋)
結婚前の3月頃、まだ肌寒かった名古屋の庄内緑地公園で、持参した私の手作りのツナ・サンドウィッチやミルクプリン等のお弁当を食べながら、お喋りを。「二人で茶飲み友達。一緒に施設に入って、茶飲み爺さん婆さんになるね」と私が言うと、「で、僕が先に逝くね」と主人。その頃から、自分は長生きできない、と予測していたのだろうか?
(2023年2月6日部分抜粋引用終)
。。。。。。。
そして、本日になって偶然にも、(8)に相当する項目が見つかった。
(8)令和2年(2020年)4月7日の夜9時13分、3階の観察室にて主人が終焉を迎えた兵庫県川西市の協和会協立病院(私立 313床)は、市立川西病院との統合再編のため、昨年の令和4年(2022年)9月1日付で42年間の歴史に幕を下ろした(https://www.kyowakai.com/kr/kr.htm)。
その追記を該当ブログ2022年2月24日付「来し方行く末を想う」の中間に挿入した。そして、極めつけは(9)を。
(9)主人が生まれ育った大阪市内の実家は、2016年1月以降、取り壊された。2022年4月1日に見に行ったところ、まだ更地のままだった。
(2023年2月6日記)
・・・・・・
2023年2月7日追記:
とはいえ、主人の業績はそのまま残っている。米国留学を含めた学校や学会での名簿一式に加え、特許論文や連名の専門論文もウェブ上に掲載されたままだ。また、何よりも拙ブログには度々「主人」として登場している。
恐らく、この世に残すものは、自分が何をしたかという形なのであろう。
(2023年2月7日記)
………….
2023年2月28日追記:
もう一つ、痕跡が消える。
(10)伊丹市内の中央にある「伊丹シティ・ホテル」が来月には閉鎖されることに決まった。
このホテルは、2018年9月28日に引っ越してきたばかりの頃、主人が「宿泊にはちょっと高い」と言っていた。
私の方は、2019年の初夏だったか、伊丹大使だった小説家の故田辺聖子さんのお別れ会の展示で、中に入れていただいたことはある。とても暑い日で、市役所まで電話をかけて、「喪服でなければいけませんでしょうか?」と尋ねたところ、「暑いですからねぇ、特に服装でこれといった決まりはありません」とお答えくださった。そこで、白地に黒の水玉のワンピースで出かけて行ったことを覚えている。ご年配の方達はさすがに喪服姿が目立ったが、若い層は普段着もあった(ので、ひそひそと批判してたおばさま方もいらした。)
また、主人の会社が毎年1月8日に継続して来た扶養家族のための健康診断の会場として、伊丹シティ・ホテルを使っていたので(それも変な感じだったが)、2019年と2020年の1月上旬の二回、利用させていただいた。
何よりも、2019年11月下旬、二つ目の市内の病院を無理やり退院した主人が「すぐにでも会社に戻れる」と認識混乱して、突然黙って家を飛び出して行方不明になった際、「宿泊料が高い」はずの伊丹シティ・ホテルの最上階に宿泊していたことを伊丹警察が探知。説得に当たってくださったことが忘れがたい。
市内の有名なホテルにパトカーで警察が入り込むことを、ホテル業者は嫌がったらしいが、難病患者のことなので、特別措置だったようだ。
翌日、私がフロントまで謝罪に行ったが、疲労困憊していて時間もなく、とにかく謝るだけでも、という必死の状態だった。
このようにして、一つ一つの思い出の場所が非可視化されていく。
(2023年2月28日記)
……………..
2023年3月29日追記:
(11)公立学校共済組合近畿中央病院の統(廃)合
(https://www.kich.itami.hyogo.jp/imp/2020_04_01/#gsc.tab=0)
《平成31年2月5日「市立伊丹病院あり方検討委員会」からの提言を踏まえ、両病院の統合の可否を検討することを目的として、令和元年度「市立伊丹病院と公立学校共済組合近畿中央病院の統合検討会議」を設置し、協議を行ってきました。協議の結果、統合後も伊丹市民が必要とする医療の提供と、公立学校共済組合の組合員が必要とする職域機能の提供を今後も安定的に継続していくことが出来ると判断し、統合を可とする結論に至りましたので、令和2年4月1日「市立伊丹病院と公立学校共済組合近畿中央病院の統合に関する基本協定書」を締結しました。》
ということで、2025年度の統合までは病院経営は従来通りとの由。だが、なかなか落札が決まらず、延期となった。
。。。。。。。
(https://www.kich.itami.hyogo.jp/about/newhp/#gsc.tab=0)
《令和8年度、近畿中央病院から北へ直線距離で約2.3㎞にある現在の市立伊丹病院の敷地内に、基幹病院(伊丹市が運営)と健康管理施設(公立学校共済組合が運営)からなる統合新病院が誕生します。》
《統合新病院は、「地域に信頼される安全で安心な医療の提供と健康づくりの推進」「職域と地域に応える健康づくり」という二つの基本理念を実現する、高度急性期に対応した病院となります。》
。。。。。。。
(https://www.city.amagasaki.hyogo.jp/kurashi/kenko/1027445.html)
《移転した後の近畿中央病院の跡地活用については、公立学校共済組合(近畿中央病院)と伊丹市において、回復期機能を有する民間医療機関への売却を実現するため、両者協力して必要な検討を行うとされています。》
。。。。。。。。。。
この病院は、非常に思い出深い。
2022年5月5日付の過去ブログ「五月の大型連休の最終日に」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=2542&action=edit&message=1)とも重複するが、記憶と気持ちの整理も兼ねて、再現してみる。
2019年8月23日の午後、初めての講座である「やさしい古文書教室」(ことば蔵)から帰って自宅に戻ったところ、私の名を呼ぶ主人の声が玄関で聞こえた。驚いて中に入ると、リビングの床に、倒れていた主人を見出したのだ。
その日の午前中、偶然にもこの病院のホームページを私が見ていて、「神経内科があるなら、ここも市内でいいじゃない?」と主人の声をかけていたのだった。
まさか、その日の夕方に救急搬送されることになるとは、想像もしていなかった。
慌てて布団に引っ張って寝かせたが、「大丈夫だよ、少し寝ていれば治るよ」「予約してある奈良のホテルで、温泉にでも入れば、すぐよくなるよ」と主人。
だが、それまで9日程、ずっと38度ぐらいの高熱が続いていたのだ。自分で近くの薬局へ行き、アイスノンを何個も買っていたが、なかなか下がらず。
その前日辺りには、近くのスーパーの二階にある別の内科クリニックに一人で出かけ、「正午ジャストに、目の前できっちりドアが閉まった」と言って戻って来た。(変だな)と思い、確かめに行くと、実は夏のお盆休暇で、最初からクリニックはお休みだったのだ。その貼り紙にも気づかず、主人は(診察時間にはみ出したために見捨てられた)と、被害妄想的に思い込んでいたらしい。そういう会話のちぐはぐさや思考の混乱が2018年の晩秋頃から目立っていたので、会社都合の統合による転勤先では、どんな思いをしているのだろう、と毎朝、気が気ではなかったのだ。
その翌日、斜め向かいの内科クリニックへも一人で行った。今度は診療日だったとのことで、解熱剤の点滴を打ってもらい、カロナールを処方されたが、それでも下がらず。
台所からジュースをコップに一杯入れて、ニコニコしながらリビングへ歩いてきたものの、よろよろと横揺れによろめいていて、私が「あ、こぼれる!」と叫んだところ、急にわなわなと震えて、ジャーッと床に全部こぼしてしまったりもした。(不安と恐れで、私は怒りながら床掃除をした。いつでも、食事をポロポロとこぼしながら食べた後、床と椅子を掃除するのは、私の役目だった。)
慌てて、「買い物に行ってくる」と主人に言い残して、そのクリニックへ。受付で事情を話し、「異常行動ではないですか?」と尋ねると、先生がすぐに他の患者さんを差し置いて私に会ってくださり、「一番軽い、赤ちゃんでも使える解熱剤を出しただけなんですけどね」と。「この近くに神経内科の花田先生もいらっしゃるから、そこで相談してみては?」。
この一言は、今でも本当にありがたい。穏やかで温厚な花田先生は、その後も入院中の主人のことで不安でいっぱいだった私に対して、セカンドオピニオンとして、いつでも何度も相談にのってくださった。
。。。。
きっかけは、盛夏の8月14日のお墓参り。なぜか、お墓の側面が真っ黒に汚れていたので、何度も雑巾を洗いながら、拭き掃除をしていた。暑くて汗がダラダラ。その途中で、ふと気づくと主人の姿が見えなくなり、携帯電話で連絡を取ると、「調子が悪くなったから、墓場で倒れるわけにいかない。先に(近鉄の最寄り)駅に着いた」と。
結局、JR伊丹駅のカフェで待ち合わせることにして、私はお墓掃除を。主人は先にカフェのカウンターの端っこで、何かを注文して、先にもそもそと食べていた。
。。。。。。。
話を8月23日に戻すと、すぐに私は受話器を取り、救急車を呼んだ。消防署が自宅から歩いて10分ぐらいの所にあり、5分ぐらい待てばいいだろうか、と思っていたところへ、今から思い出しても、何とも偶然にしては出来過ぎな程、会社の直属の上司から電話がかかってきたのだった。
「調子はどうですか?」
「あの、今、救急車を呼んでいるところなんです。後でまた連絡します」と私。
本当に数分で救急隊員が上がって来て、主人を手際よくタンカに乗せて運び出してくれた。私には、「保険証とお薬手帳と印鑑を用意して、奥さんも一緒に乗ってください」とのことで、普段から一つにまとめておいた一式を持参して、私も救急車に乗り込んだ。
既に夜に入っており、辺りは暗かった。この地に引越して、まだ一年未満。市内の地理も不案内の中、「こちらに任せてください」との救急隊員の言葉をそのまま信じて、運び込まれた先が、近畿中央病院だった。
この病院には、9月30日まで、丸一ヶ月と一週間、お世話になった。
ある種のパーキンソン薬を長期間服用していると、飽和状態になるのだろうか、高熱が続き、大変危険な状態になるらしい。救急科の男性医師が、検査の結果、「だいたい原因がわかってきました」とおっしゃった時には、本当にほっとしたものだ。「一週間、入院して今の薬を抜いて、新しい薬に変えましょう」。
但し、後にその症状が「悪性症候群」「横紋筋融解症」であると知った時には、初めての病名でもあり、大変に驚愕した。
入院は、最初の一週間程は免疫内科病棟、次には別の階の神経内科病棟だった。長い間、ずっと重い不安を抱えながら、一人で責任を負っていたのが、やっと専門の医療人のお世話になることで、ほっと安心もした。だが、一週間の入院が、二週間、三週間と延びるにつれ、会社を休むことを非常に恐れていた主人の心理も、同時に気になって来た。
真夏の日差しの下、入院直後の二三日は呼び出しタクシーを利用した。状況がある程度落ち着いてくると、自宅前の向かい側のバス停から、市バスで直行一本であることがわかり、それに励まされて、市バスに乗って何度もお見舞いに。
ちょうど、これもまた偶然のタイミングとしては絶好だったが、市バスのモニターに応募した直後で、バス移動中の運転士観察とお見舞いの一石二鳥。そういうさり気ないことでさえ、どれ程自分の精神を支えてもらえたことか、と思う。
それまでは、自宅でよく「日教組」の話題を二人で喋っていたことから、入院中、「公立学校共済組合」の標識に、「この病院、日教組と関係があるの?」と主人。「組合とはいっても、それは別の組織じゃない?大丈夫だよ」と私。
また、看護学校の見習い実習生だったのだろう、若くかわいらしい看護師さんが、「よろしくお願いします」「ありがとうございました」と礼儀正しく振舞ってくださったことも、主人には嬉しかったようだ。「僕にお礼言ってくれた」と。
私達二人は、医療福祉関係の事情に全く疎かった。疎いまま、全てを受け身のまま、何事も初めての状況に遭遇し続けた、21年以上の闘病生活だった。
この病院では、理学療法士のお兄さんが、リハビリ機能訓練以外に、お風呂にまで入れてくれたようだ。リハビリの間、いろいろな世間話もしながら、観察されていたようだが、主人は「僕の話を聞いてくれる」と、無邪気に喜んでいた。勿論、電子カルテに記入するためだったのだが。
また、点滴が終わってからの院内給食も、最初はお茶のゼリー。喉を詰まらせないか、若いお姉さん看護師がじっと食べる様子を見守っていた。当然のことながら、こちらも電子カルテに記入するためでもあったのだろうが、主人は、それまで会社の新しい職場で心理的にも物理的にも極度に孤立していたせいもあり、これまた無邪気に喜んで、物凄い勢いで一生懸命に食べていた。食べ終わると、誇らしげな顔を見せた。
「とろみ食」「柔らか食」「刻み食」「普通食」のような段階が院内の食事にあると知ったのも、その時だった。メニューは毎回、お見舞いの度に自宅に持ち帰り、薬の紙の裏の白紙に糊で貼りつけた。退院して自宅に戻った時、参考にしようと思ったのだ。そのことを女性の主治医に伝えると、じっと黙っていらしたので、(何か変なことでも言ったかしら?)と気になった。ある日の夕刻のお見舞い後、別のベテラン風の看護師さんに呼び止められて「ちょっと話があります」。
病室外のソファーに座ったところ、「もう、奥さん一人で家でご主人の面倒を見ることは無理です。今のうちに施設を探しておいた方がいいですよ」ということだった。
ところが、主人自身は、言うことだけは前向きで、いつでも「会社に戻る」つもりでいた。
実際、9月上旬に会社の上司二人(と言っても、うち一人は昔の主人の部下)がお見舞いに来てくださった時にも、その後、もう一度、直属の上司がお見舞いがてら、会社の書類を手渡しに来られた時にも、何か勘違いして、物凄く喜んでいた。その頃には、リハビリ訓練のおかげもあって、何とか自力で歩けるようになっていたため、私が施設の話をされた時と同じ病室の外のソファーに、上司と二人並んで座って、嬉しそうだった。会社では孤立していたのが、こうして自分のために病院まで来て、何かと気遣ってもらえる、と。
今、こうして当時の心中を推し量ると、何とも胸が詰まるような切なさを感じる。
だが、私には本当にありがたい限りだった。この時、上司二人は、今後の見通しを尋ねるために、主治医との面会もしてくださったのだった。
他にも、言語療法士の若い女性のことが思い出されるが、どうやら女性主治医と二人でタッグを組み、「奥さんって我が道を行くタイプでしょう?」等と、主人に誘導尋問していたらしく、電子カルテを見ると、何だか夫婦間の意志疎通が、わざわざ一方的に削がれていた感がある。
独断と偏見かもしれないが、女性の医療関係者は極力、既婚者であってほしい。
さまざまな思い出が蘇ってくる近畿中央病院だ。他にもまだ、いろいろなエピソードがあるが、今日のところは、この辺で。
(2023年3月29日記)
………..
2023年4月23日追記:
また消滅ニュースが出た。
(12)2023年4月22日付『京都新聞』によると、JR京都駅西側のホーム改札口と店内が連結していることで有名な家電(と文房具や化粧品等)量販店のビックカメラ店が、2023年5月7日に閉店することになった。
ビックカメラは、いつ頃なのか主人が株主となっていて、自宅で使うこまごました電化製品やパソコン部品等を京都に出る度に「ポイント利用」で買っていた。私には、ポイントは貯めておかずに、使える時にどんどん使い切っておかないと、わざわざポイントのために出かけるという手間暇が面倒だった。だが、主人の会員カードで一万円以上のポイントは使わせてもらった計算になる。
特に、2021年3月に突然、パソコン4台が一気に壊れてしまった時には、ここでノートパソコンとデスクトップの両方を、主人が貯め込んだポイントカードと株主割引チケットを最大限活用させてもらって、割引で購入することができた。
閉店の知らせは唐突という印象だが、何だか危げな商売のような気が以前からしていた。第一、京都駅の改札口が店内で繋がっているので便利そうだが、実際に利用するのは遠距離路線ではないため、相当ホーム内を歩くことになる。しかも、私が行く時には閑散としており、誰のアイデアなのか、と不思議だった。さらに、昭和時代の京都を知る者としては、あまりにもお店の規模が場違いに大き過ぎる気がしていた。つまり、採算が合わないような感触があった。
。。。。。。
(https://www.bcnretail.com/news/detail/070810_8142.html)
「ビックカメラ、駅直結の「JR京都駅店」を8月23日オープン、ICOCAを導入」
2007年8月10日
ビックカメラ(宮嶋宏幸社長)は8月9日、JR京都駅西側に関西地区2店舗目となる「JR京都駅店」を、8月23日午前10時に開店すると発表した。
「ビックカメラJR京都駅店」は、京都駅30番線ホーム新改札口と2階で直結し、同社では初めて駅のホームから直接店舗に入店できるようになる。品揃えは有楽町店とほぼ同等で、これまでの都市型・駅前・大型の出店方針の集大成となる店舗を目指す。
営業時間は午前10時から午後9時、取扱品目はカメラ・パソコン・AV・家電・電話機/FAX・携帯電話・時計・TVゲーム・DVDソフト・おもちゃ・ゴルフ・テニス・スポーツサイクル・寝具・お酒・メガネ。また、約20年前の商品と現在の商品で二酸化炭素の排出量を比較する「省エネ家電ブース」をはじめ、炊飯やパン焼きを体感できる「キッチン家電実演コーナー」や「シアター体感コーナー」「高級オーディオ試聴コーナー」などを設置。実際に比較・体感しながら買物できるようにする。
開店に先駆け8月22日まで、京都中央郵便局前で「ビックポイントカード新規申込みキャンペーン」を実施。期間中「ビックポイントカード」を新規で申込むともれなく1000ポイント、さらにインクジェットプリンタ用かもめ~る葉書き2枚をプレゼントする。
また、「JR京都店」開店にあわせて、なんば店とJR京都店でJR西日本の「ICOCA電子マネー」の取り扱いを開始。ICOCAの電子マネーで買いものをすると、現金・デビットカードと同様にビックポイントカードのポイントを付与する。ICOCA電子マネーはこれまで駅構内の店舗などを中心に展開しており、街中にある店舗でICOCA電子マネーを導入するのは今回が初めて。
(転載終)
。。。。。。
上記のニュースは2007年8月のこと。それまで私は、阪急のPitapaカードを愛用していた。今ではICOCAカードは名古屋の公共交通機関でも使えるし、クリーニングやコンビニやファーストフード店でも利用可能、と非常に便利になっている。だが、16年前には珍しかったのだろう。それまでは、Joshinや梅田のヨドバシカメラで家電製品を買っていた主人だったが、気が付くとこちらに乗り換えていたような感触がある。
2022年3月中に、私は主人の所有していたビックカメラ株を売却した。100株なので大した額ではなかったが、販売手法が危うい気がしたからだ。また、2018年9月まで暮らしていた大阪府の島本町なら、自宅から徒歩15分以内の駅からJR京都線一本の20分程で京都駅まで到着できた。だが、兵庫県に暮らすようになって、乗り換えもあり、結構な時間がかかることに気づき、従来のように、「ちょっとした買い物は京都駅で」というわけにもいかなくなった。
このようにして、主人が愛用していた家電量販店のビックカメラ京都店は、まもなく幕を閉じることになった。
今後、ビックカメラは高槻阪急店に移行するとの知らせも届いた。
。。。。。。
その「阪急高槻店」だが、元は西武百貨店だった。これも、記しておく。
(13)大阪府高槻市の「西武百貨店」は、我々が兵庫県伊丹市に転居した一年後の2019年9月30日に、突如閉店。2019年10月1日には「高槻阪急」に移管された。
1974年11月15日に開業した大阪府高槻市の「西武百貨店」は、独身時代の主人が最初に一人暮らしを始めて下宿したアパートの近くにあり、日用品を買うのに利用していた。1997年11月16日に結婚してからは、電車に乗って一区の距離だったため、時々、書籍や文房具やCDやデパ地下サラダ等の買い物に利用していた。閉店したのは、主人が高熱のために倒れて救急搬送された伊丹市南部の近畿中央病院を1ヶ月と一週間で退院し、福祉タクシーに乗って、市内の北部にある回復リハビリ系の伊丹せいふう病院に転院した9月30日である。翌10月1日には、「高槻阪急」に移管された。
但し、我々がよく利用していたLoft(文房具店)や紀伊国屋書店やタワーレコード店(CDショップ)やデパ地下の他、無印良品等はそのまま残る模様である。
。。。。。。。
ここで、(1)から(13)までの一覧表をまとめておく。
(1)相互に知り合うきっかけを作ってもらった大手の結婚紹介所は、2020年5月に他社の子会社化。
(2)初めて出会った日に数時間過ごした、名古屋の栄にあった「中日ビルの回転レストラン」は、2019年3月31日に閉館。既に取り壊しとなった。
(3)挙式から披露宴までの全てをプロデュースした京都ナンバー1の会社は、徐々に業績が悪化し、2020年のコロナ問題でほぼ破産。名古屋の別業者の子会社に。
(4)披露宴をした京都市北部のフレンチ・レストランは、2016年12月に閉店。
(5)主人と二度ほどボーリングをした名駅近くの「名鉄レジャック」は、2023年3月末で営業終了。
(6)主人がその頃暮らしていた京都市西京区の社員寮だった桂寮は取り壊された。
(7)1985年の入社以来、2018年10月1日付の転勤まで勤務していた京都府長岡京市の三菱電機株式会社の京都製作所は、2022年3月末に閉鎖。
(8)主人が終焉を迎えた兵庫県川西市の私立の「協和会協立病院」は、市立川西病院との統合再編のため、2022年9月1日付で42年間の歴史に幕を下ろした。
(9)主人が生まれ育った大阪市内の実家は、2016年1月以降、取り壊された。2022年4月1日には、まだ更地のままだった。
(10)「伊丹シティ・ホテル」が2023年3月31日に閉鎖された。
(11)主人が2019年8月23日から9月30日まで搬送入院していた「公立学校共済組合近畿中央病院」の統(廃)合が決定。2025年度まで病院経営は従来通りだが、跡地の活用は未定。
(12)JR京都のビックカメラ店が、2023年5月7日に閉店することになった。
(13)我々が兵庫県伊丹市に転居した一年後の2019年9月30日に、大阪府高槻市の「西武百貨店」が突如閉店。2019年10月1日には「高槻阪急」に移管された。
(2023年4月23日記)
…………
2024年4月19日追記:
本日、偶然に知った新たな消滅事項。
(14)2025年1月下旬に、自宅敷地の道向かいの斜め前に立脚していたCOOP行基店が営業終了となる。
入口に貼り紙がしてあったので、思わず携帯で写真を撮っておいた。買い物が終わった途端、職員の男性二人が、チラシを持って説明会の案内にやって来た。
2020年4月以降のコロナ緊急事態宣言に伴う感染症問題等で営業が大変だったこともあるが、それ以上に、あの生協の販売方法では、理念はよくとも、いずれ淘汰されてしまうのかもしれない、とも思う。そもそも、以前からコープこうべのパン工場も閉鎖となり、品数が減っていたこともあった。
しかし、このCOOP行基店には思い入れがある。
主人の会社の都合で転勤することになり、2018年7月の真夏日に伊丹市内で新たな住居を探していた頃のことである。
一日かけて四軒目に主人がiPadで見つけた今の住まいを、まずは不動産屋さんに確認してもらった途端、主人はまずここでお手洗いを借りた。そして、「ここは前の‘クープ’より広いよ」と大喜び。
1997年11月の結婚後から2018年9月末まで約21年程暮らしていた大阪府三島郡島本町でも、日常の買い物でよく利用していたのが「北大阪生協COOP」だった。そこでの我が家の呼称は「クープ」。食品から文房具品、クリーニングや日常の下着や普段着類等、このお店で充分間に合っていた。
なぜ、「クープ」なのか。それは、主人が1990年初頭に2年間、アメリカに留学していた頃、留学先のMIT(マサチューセッツ工科大学)の学生生協COOPを、「コープ」ではなく、わざと「クープ」と呼んで特別視していたことにちなむ。
このMITの学生生協COOPへは、2005年8月に二人で行ったことがある。そこで、ハーバード大学のロゴの入ったボールペンをお土産に何本か買った。1998年秋に若年性パーキンソン病の診断を受けて以来、病気と会社の仕事のことのみに囚われて、すっかりしょぼくれていた主人だったが、この夏に思い切って一緒に渡米できて誠によかった。私にとっては、ハートフォード神学校での文献リサーチも兼ねており、初めてのアメリカ訪問ではあったが、主人と一緒ならば大船に乗った気分。ボストン周辺を歩き回りながら、主人は「15年前のこととは思えない。ついこの間のことみたい。全然変わっていない」と、感慨深げだった。
そして、新たな土地でも、「クープ」である。第一に、このCOOP行基店がご近所であること。第二に、主人曰く、「(行基菩薩の)行基に何やら縁があるなぁ」ということ。
つまり、大阪府島本町から兵庫県伊丹市という地理的距離と行政自治体の相違にも拘わらず、同じ系列のCOOPが利用可能で、しかも片道徒歩10分以内と、以前の二分の一ぐらいの時間で済むこと。しかも、島本と伊丹が西国街道で繋がっている上、島本町時代の住まい近くにあった若山神社を創建された御由緒を持つ行基さまが、こちらでは地名となっていること等から、急速に新しい土地に親しみがわいた、ということである。
最初の頃は、花屋さんも中に入っているし、血圧測定器もあり、公衆電話もあり、休む椅子まであり、(便利だなぁ)と思っていた。特に、主人が入院を繰り返していた頃は、ここで時々血圧を測っては、レシートみたいな記録をノートに貼ってもいた。無理やり退院した主人が徘徊をし始めた頃、ある時に突如、「まだ生きているよぉ~」と変な電話が自宅にかかってきたことがある。「どこから電話しているの?」と慌てて尋ねると、「クープの公衆電話から」と返事して、すぐに切れてしまった。(それが事実かどうかは、今となっては確認の仕様がない。後にコロナ感染症問題が発生してからは、血圧計は撤去され、電話のあった場所も「立ち入り禁止」風になってしまった。)
COOP行基店とCleriという葬儀サービス業がドッキングしていたため、2020年4月9日から4月10日までの主人の御通夜から本葬に関しては、北大阪生協で作ったCOOP会員証のお蔭で割引サービスが利用でき、かなり便宜を図っていただいた。全く新しい土地であったにも拘わらず、一連のサービスが流れ作業のようで、一人でやった割には非常にスムーズだったのだ。本当に助かった。
元々、このCOOP行基店は、近くに我が家を含めて中高層マンションが多く建ち並んでおり、市役所にも近いことから、営業上の将来性があると見込んでの立脚地だったのだろう。ただ、駐車場スペースを広く確保したのはいいが、いつでも半分以上空いていて、ちょっと広過ぎるのでは、という気もしないではなかった。クリーニング店も奥まっていたし、堺の包丁研ぎサービスも、隔月だったのが、粋のいいおじいさんが引退した後は間隔があいてしまうようにもなった。
同じ道路沿いには、3分程も歩けば阪急OASISがある。今後は、こちら一辺倒になるか、あるいは銀行関係の用事を兼ねて、阪急伊丹の関西スーパーまで出かける頻度が高くなるのであろうか。
いずれにせよ、何だか寂しくなるばかりである。思い出がどんどん遠くになってしまう。しかしながら、いつでも時期に叶って、最適な時にチャンスを最大限活用できたことだけは、何度振り返っても感謝なことである。
(2024年3月19日記)
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2024年3月27日追記:
『日経新聞』(https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFD186IQ0Y4A410C2000000/)
「名古屋・栄「ビジネス」呼び込め 中日ビルは共用施設充実」
2024年4月24日
名古屋市中心部の栄地区で建て替えを終えた複合ビル「中日ビル」が23日、全面開業した。9〜22階のオフィスフロアは9割が成約済みといい、共用スペースの充実など「働きやすさ」を武器に企業を呼び込む。商業施設の集積が進む栄は大型オフィスビルの計画も目白押し。市内のビジネス地区で先行する名古屋駅周辺への対抗軸をめざす。
地上33階、地下5階の中日ビルは低層階が商業施設、中層階がオフィス、高層階をホテルで…
(転載終)
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2024年8月2日追記:
(15)2024年8月12日に、阪急伊丹駅のリータ2階にあった「マツヤデンキ」が閉店となる。
昨年暮れにいただいた今年一年のカレンダーに毎月記されているクイズに回答すれば、店頭で100ポイントもらえるという制度のため、昨日早速、8月分のクイズの答えを持って行った。すると、「閉店」「閉店」「大安売り」「大割引」の表示が、店内のあちこちに貼り出してあった。
レジの男性に尋ねると、「そうなんです。ここは10年前にテナントとして入ったものの、契約終了ということで、8月12日には閉店なんです」と。
あまりにも急なことであった。先月は風邪やら疲れやらで、ゴロゴロと家で休んでいた時期が10日程あったために、全く寝耳に水だった。
このお店は、つい先月まで毎月のように封書が届き、チラシと共にプレゼントの案内があり、お皿やマフラーやタッパー等が次々ともらえた。また、店員さんが皆、とても親切で感じがよかった。
私にとっては何よりも、一昨年と昨年の2年間の修論のために、プリンターインクがすぐ消耗となっても、いつでもカードのポイントを使って安心して何度も買いに行けたのだった。
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ここは、ちょうど6年前の2018年9月下旬から伊丹に暮らすようになって以来、2019年8月中旬以降、入退院を繰り返すようになるまでの約10ヶ月程、主人のお気に入りの電化製品店の一つでもあった。ケーブルやアダプタ、パソコンの細々した器具等、次々と新しいものを見つけてはいろいろと買い込み、放置しておいたらゴミ屋敷になりそうなぐらいだった。若年性PDの治療薬に伴う衝動制御障害の副作用が出現していたからでもあるが、お値段もそこそこ、品揃えもまずまず、自宅からも歩いてでも通える距離等、お互いに好都合であった。当時の私は、それが衝動制御障害だとは全く知らず、(本人がそれで気が済むのならば)と、片目をつぶって大目に見ていたところもあった。
2019年11月下旬、回復リハ病院から無理やり退院した主人は、またこの店で一気に3万円ぐらいの電化製品を買い込み、自宅に持ち帰った。さすがにその頃の私は、このままでは際限なく物が増えるばかりで、充分に使用することなく、すぐに新しいものを買い込もうとしていたので、お金が無駄になると思い、店に払い戻しの交渉に出かけた。商品をきれいな箱入りのまま差し出し、自宅でコピーを取っておいた保証書やレシートも添えて、特定疾患受給証と介護保険証と阪大病院の診察券等も見せて、「主人は長期に及ぶ神経難病なんです。判断力が下がり、自分の目に入ったものは、次々と買い込む癖があるんです。どうか返品手続きを取っていただけませんでしょうか?」と、必死に頼み込んだ。
若い男性店員は、最初は当惑していた。そして、しぶしぶながらも本店かどこかの上司に長い電話をかけ続けた挙句、ようやく「本当はダメなんですけど、事情が事情ですから、今回は返金します」と寛大な措置を取ってくださった。(ちなみに、この後にも主人は、行く予定もない他県のホテル予約やレストランでのただ食い等、さまざまなトラブルを起こしたが、その度にどなたも「事情が事情ですので」と、お金を払い戻してくださった。このことは、今でも大変申し訳なく思うと同時に、温かな対応にはとても感謝している。)
勿論、当事者の主人は、私が黙って自分の買ったものを返品したということで、わけもわからず憤慨していたが、修論が終わった今になってみれば、これも治療薬の副作用である衝動制御障害によるものであろうとわかる。後になって、担当ケアマネさんが、「ご主人、人格が崩壊してませんか?」と言ってきたことがあったが、昔の落ち着いて腰が低く、物柔らかで柔軟な対応のできる頭の切れるエンジニアだった主人とは思えない程、短気になり、話が途中から支離滅裂になり、衝動的かつ突発的に行動を起こしていたのだった。しかも、口をパカっと開けたまま、涎を垂らしつつ、左に傾いてよろよろと歩きながら、それでも自分のずれた意志を通そうと頑張るのである。
主人にとって、こんなトラブルも含めてお馴染みだったお店が、これでまた一つ消滅することになった。
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このお店では、主人の終末期に、ちょうど主人の勤務先の会社である三菱電機の掃除機が突然壊れてしまったため、初めて私一人で新しく掃除機を買い求めた思い出がある。
注文してから数日後、ちょうど主人が亡くなる日の昼間に、自宅まで届けられたのだった。その日の朝、川西市の協立病院にお見舞いに行き、観察室で声掛けをさせていただいた。その日の夕方にはコロナ第一次緊急事態宣言が発出されるということもあり、短く15分程だったが、それでも、「うちの掃除機ね、壊れちゃったの。だから私、自分で三菱の掃除機を新しく注文したの。これからも、心配しないで。私、家のことも大丈夫、自分一人でできるから」等と話したのだった。聴覚は最後まで残るという話を頼りに、人工呼吸器をつけて目にはタオルを掛けられたままの主人に、一生懸命、大きな声で、私は語りかけた。
夕刻になり、安倍晋三首相による第一次緊急事態宣言の生中継の説明を自宅のパソコンで見終わり、お茶でも飲もうかと思った途端、病院から電話がかかってきた。「急いで、安全な方法で病院に来てください」。それが最期だった。2020年4月7日、午後9時13分。
若い頃は、大学院を首席で修了し、会社でも同期より早く昇進し、米国留学や駐在も経験させていただいて、結婚当時は意気揚々としていた主人。その末路は、古い病院の壁に囲まれ、たった一人で淋しいものだった。
その掃除機は、今でも私が大切に使っている。
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パソコンの設置や故障の修理等は、結婚以来、ずっと主人が一人でやってくれていた。だが、私にはお手上げである。主人がいなくなってから、自宅にあったパソコン数台が一気に壊れて動かなくなってしまった。
既に放送大学大学院の科目履修を始めていたので、これではどうにもならない。
このお店に駆け込み、どうしたものかと相談したところ、「今はコロナだから、パソコン修理の店もなくなった」とか何とか言っていたが、そこを一押しと頼み込むと、別の店員さんが小さな紙を持ってきて、「ここに連絡してみたら?」と教えてくれた。
そこは、神戸の兵庫区に店舗を持つ、パソコン修理の出張サービスだった。連絡を取ってみると、案外に対応がしっかりしていそうだった。
それ以来、計6回、合計4人による出張修理サービスのお世話になってきた。パソコンのデータが大量にあり、主人のものも合わせると膨大になるが、それも時間をかけて「工場」でデータ復旧をしていただき、今では何とか画面で復元できるようにはなった。(但し、時間の関係で、まだ全部をチェックできたわけではない。また、主人のマイクロソフトのアカウントのナンバーが、どこを探しても全く不明で、それも保留のままである。)
恐らく、神戸の出張サービスの店は今後も続くだろうが、マツヤデンキ店あってこその連携であり、そこが安心感、信頼感の基でもあったのに、と残念である。
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2014年に、マツヤデンキがテナントとして阪急伊丹駅のリータに店舗を構え、その4年後に我々が伊丹に転居した。主人は比較的、新しいお店に好んで通っていたことになる。
悲喜こもごも、さまざまな思い出があるのに、コロナのためか、少子化のせいか、どんどん閉店や閉鎖が続いていくのは、何ともやるせない。
掃除機、パソコンのプリンターインク、毎朝のフレッシュジュース作りのためのミキサー(2回)、放送大学大学院用のZOOMの小道具、扇風機、iPhoneのケースやカバー…..私自身がこのお店で購入したのはこの程度だが、返品騒ぎ等、特有の思い出が付着した場所が、主人と共に、また消えて行く…..。
(2024年8月2日記)
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2025年4月30日追記:
上述の「マツヤデンキ」の跡地には、今日知ったのだが、デイリーファッション・パレットという衣料品店が入った。
(2025年4月30日記)