有岡城の散策と「荒木村重」展

(https://twitter.com/itami_museum/status/1593837905704648704)

市立伊丹ミュージアム@itami_museum

本日より、リニューアルオープン記念「信長と戦った武将、荒木村重」展を開催します。有岡城を拠点に、信長の重臣として摂津国を治めていた村重は、突如として信長に反旗を翻します。いまだ謎多き村重の数奇な運命を、豊富な作品資料とともにたどります。ぜひお越しください。#市立伊丹ミュージアム
2:25 PM · Nov 19, 2022

(https://twitter.com/ituna4011/status/1593924703642865665)
Lily2@ituna4011
早速行ってきました。たくさんの資料が展示されていて、伊丹在住4年目の今、荒木村重に関して最も充実した企画だと思いました。
8:10 PM · Nov 19, 2022·

(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima/posts/pfbid028p48ArWpCjzPWY5cmo5xU1CpgryRGh6hmG67Tqs884Ce85VAECpAaQ3TZrikkWsXl?notif_id=1668917863494804&notif_t=feedback_reaction_generic&ref=notif)

2022年11月19日投稿
本日は、朝から午後までお世話になり、ありがとうございました。ミュージアムの展示、大変充実していました。

(2022年11月20日転載終)
………..
毎年11月恒例の伊丹市文化財保護啓発事業として、今月は毎週のように行事が目白押し。2022年11月11日と11月14日付の過去ブログに(http://itunalily.jp/wordpress/)、その一端を綴った。

今年のテーマは、有岡城主だった荒木村重がメイン。というわけで、上記のツィッターとフェイスブックを転載。

昨日は朝9時から11時まで、まずは歴史散策。今日のように冷え込んだ曇り空とは違い、晴天に恵まれて幸いだった。

有岡城史跡公園のカリヨン前に集合し、「8時45分から受付開始」と、申込み時に電話で聞いていた。

前の晩から支度はしておいたのに、例によって例の如く、私は自転車で出発のギリギリ1分前に到着。遅刻癖、というのではない。普通は大抵間に合っていて、余裕で着席している。だが、例えばカレンダーに「10時15分」と前から書いておき、そのつもりで準備していたところが、途中でいつの間にか「10時半」と脳内転換してしまい、(あら?)となってしまう、そんなことがなぜか増えた。

確か、最初の頃も場所に迷って、どなたかが道案内してくださった記憶がある。(ご縁がないのかしら)とも思うが、初回に参加した頃から今やすっかり顔見知りの職員さんが手招きしてくださり、博物館友の会の知り合いの方もいらして、どこか同好会みたいな雰囲気ではあった。
。。。。。
文化財ボランティアの会の方がよく準備されていて、有岡城跡の惣構(約4キロ)を18名程で歩いて回り、11時にはミュージアムに到着。

この行路は、以前にも街歩きで通ったことがある。こういう歴史散策は、一度で全部が把握できるものではなく、繰り返し時間を重ねつつ、知識を上塗りしながら深めていくものであろう。今回は、破戦道(ハセンドウ)と北ノ口(北本町の治郎ヶ坂)が新鮮だった。特に後者は、空き地のような小公園となっているが、普段は滅多に通るところではなく、言われなければ何なのか全く知らないままだっただろう。

足腰を鍛えるにもいいし、気分転換にもなり、居住地に対する理解を深めるには、一石三鳥で大変よい試みだと、毎回のように思うところである。
。。。。。
ミュージアムに着いて、25分程休憩。

その後、これまた顔見知りの学芸員さんから、階段を上り下りしながら確か5部屋ぐらい、45分間解説されつつ、ざっと展示を見て回った。11時25分に開始して、12時10分に終了。

あっという間だったが、これまで伊丹で見聞してきた荒木村重に関する講演や展示の中では、最も充実した資料が並んでいた。さぞかし準備が大変だったことだろう。というのは、今年4月に博物館からミュージアムに統合移転した時点で、スタッフがかなり縮小され、誰がどう見てもまるで人手不足。それにも拘わらず、案内の学芸員さんによれば、資料を「30ヶ所から借りた」そうだ。

パネルによれば、リニューアル・オープン記念として、芸術文化振興基金の助成による企画。カトリック大阪大司教区や徳川美術館や名古屋市立博物館をはじめ、石川県、愛媛県、広島県、滋賀県、大阪府、京都市、尼崎市、茨木市、高槻市、大垣市等の公立博物館や諸大学、そして、茨木神社、伊居太神社、大徳寺、本興寺、本山寺等、計46の機関の協力と計54名の専門家の結集による資料展示だ、という。

但し、徳川美術館等の資料は実物を拝借したのではなく、写真をパネルにして掛けてあるだけ、というものも含む。(こういう宣伝性がいかにも「伊丹」らしい、と気づく。最初の頃は何も知らなかったために、名古屋や大阪や京都の展示と同次元だと思い、子供のように真に受けていた。)

学芸員さんの解説は企画側であるだけに要領を得ているが、理解が追いつくには、やはり自分のペースで展示を見てみるしかない。そこで、1時35分まで続けて部屋を再び廻り、1時間25分間、資料を眺め直した。ビデオは、内輪の自分達だけで盛り上がっている感じで、今一つ。それで省略。
。。。。。。
その後は、近くのタリーズで熱い紅茶とクロワッサンを一つ。

2時5分前には、すぐ隣の長寿蔵での90分の講演会「有岡城と同時代の城と町」に出かけた。
こちらは、ずっと後ろで立ったまま聴くつもりでいた。午前中は歩き回り、午後は立見席で講演を聴く、というのも、悪くはない。
だが、「前方に席が空いている、申し込み人数分の席が用意してある」とのことで、結局は座ることに。
。。。。。。
今年の11月は、茶人でもあった村重にまつわる「安土・桃山 伊丹の陶器」が科学館近くの埋蔵文化財センターで展示されているので、それを見る作業が残っている。無料なのはいいが、土日が休みというのが残念だ。

今日は大阪市内で全く別の予定があったが、コロナ感染が第八波に突入した今、スケジュールに余裕を持たせて、あまり体力を消耗しないようにしようと思って、キャンセルに。それで正解ではあった。

これまでの限られた経験によれば、伊丹では、主眼となる歴史文化の話題が大抵決まっているような印象がある。例えば、御願塚古墳、伊丹廃寺、行基菩薩と昆陽寺その他、西国街道、有岡城と荒木村重その他、伊丹の清酒と酒造家、俳人鬼貫、近衛領と猪名野神社等、古代から明治維新の前で終わっている。

以前は、白洲次郎に関する講演会を開催していたようだが、どういうわけか、この頃はなさそうだ。その他、明治維新から戦前までの変遷と、占領期のイタミ・エアベースや自衛隊駐屯、企業誘致等、考察すべきテーマは、まだ盛りだくさんあるが、それは今後、より深まっていくことだろう。

ともかく、同じトピックを毎回、多彩な角度、さまざまな専門家から、いろいろなレベルで繰り返し学び続けることは、いいものだ。島本町に暮らしていた頃は、大阪や京都や神戸の大きな展覧会ばかりに行っていたが、まずは身近な地元を固めて理解することから始めなければ….。
。。。。。
ところで、今年の文化財のパンフレットを見て驚いた。令和4年10月15日付『広報伊丹』(第1480号)では、白黒写真のために全く気付かなかったが、9月24日に博物館友の会の例会でいただいたカラーのパンフレットを、今このブログを書くために見ていたところ….

11月19日の「守ろう村重の城~信長の攻撃に備えよ!」と題する歴史散策の写真に、何と私が写っている。ふと、その下を見ると、「きらら日本酒学講座」の写真にも、昨年11月26日に参加した私が小さく入り込んでいる!
いずれも、それぞれ別の日だったはずなのに、同じ赤いジャンパーを着て、同じような髪型に同じマスク姿で、熱心そうに資料を見ながらメモを取っている姿勢が、まるで私そのものなのだ。
ついでながら、ミュージアムのカレッジ講座の写真にも、後ろ姿の私が写っていて、ホームページに掲載されている。

新参者で余所者のはずだった私も、4年目に入った今、すっかり伊丹市民として溶け込ませていただいている。

会社都合により伊丹への転勤に同意して、2018年9月末、意気込んで転居した主人が一緒だったら、さぞ喜ぶことだろう。

実を言えば、3年前の今頃から12月下旬にかけて、市内の病院やクリニックのお医者さんや看護師さん方、警察や救急隊員、市の福祉課の職員さん達、ケアマネさんや包括さん達には、主人の病気のことで大変ご迷惑をかけていた。また、私一人では到底なし得なかったことを、たくさん助けていただいた。

その後、自分にできるボランティアか何かで、一人残された私が伊丹市に何らかの償いをしたいと願ったことは、もしかしたら、このような形で実現しているのかもしれない。

(2022年11月20日記)
………
おまけ

残念ながら、このような催しものへの参加は、今年が最後であろう。来年の今頃は、二つ目の修士論文の締切間際で、とてもじゃないが、参加できそうにない。
場合によっては、博物館友の会も一年間、お休みすることになるかもしれない。

2019年から、いたみホールでの大森亮尚先生による「万葉集」講座と、ことば蔵での「やさしい古文書教室」、2021年度はサンシティ・ホールでの和久一美先生による「大鏡」講座等にも出席していた。そして今年4月からは、「鬼貫を読む」カレッジ講座に月一回、参加している。
「万葉集」と「古文書」のクラスの頃には、主人に頼まれたお見舞い品その他をリュックに詰め込み、受講後にバスで病院へお見舞いに行っていた。そんな切羽詰まった重苦しい日々の気分転換には、本当にありがたい各種の講座教室だった。

また、コロナ問題のせいで延長や中止になったプログラムを見込んで、2020年10月から、放送大学大学院の単位取得を半年に6科目ずつ、計一年半で全18科目、先に済ませておいて正解だった。それに、放送大学大学院の印刷教材には、思いがけず、伊丹の柿衛文庫の資料写真が掲載されていたりもした。

このように、家にいるだけでは滅入りそうな日々を、伊丹市の社会文化活動のお蔭で、近距離でお安く、気軽な学びの時間として充当できたことは、何物にも代え難い。

(2022年11月20日記)
……….
2022年11月21日追記

一つ大切な事柄を書き忘れていた。

伊丹の歴史文化に関する一般市民向けの啓蒙パンフレットは過去から現在まで多数発行されているが、時々、発行年月日が印刷されていないものがある。
今回、配布された複数の発行物も、そうだった。
「〇〇部発行し、一部に△△円かかっています」という一文が印刷されているのをよく見かけるが、公的な印刷物では、それ以上に大切な情報は発行年月日のはずだ。

しばらく前に、市役所まで電話をかけてお願いしたが、まだ直っていない。

以前、知り合いのご年配の女性から「もう要らないから」と、たくさんの伊丹市発行の啓蒙パンフレットや冊子をいただいた。眺めていると大変に勉強になり、また興味深いのだが、やはり肝心な情報は、「いつ発行されたのか」である。

伊丹市では、そういう教育を公務員(職員)に施さないのだろうか?

(2022年11月21日記)
……….
2023年7月17日追記

上記ブログで、市の印刷物や施設関連のホームページに、いつの間にか写真で私が登場している由を記述した。

1.2022年11月19日の「守ろう村重の城~信長の攻撃に備えよ!」と題する歴史散策の写真
2.2021年11月26日に参加した「きらら日本酒学講座」の写真
3.市立伊丹ミュージアム(I’M)の公式ホームページにある柿衛文庫系列カレッジ講座の受講生としての写真

それに加えて、今度は何と、『兵庫県プレミアム芸術DAY』に後ろ姿の私が登場する運びになったのだ!

背景事情を説明すると….

今日7月17日は「海の日」のために連休。市立伊丹ミュージアムの「戦争と伊丹の人々」の展示が展示室4にある、という記事を最新号の『広報伊丹』で読み、行けるうちに出かけて行こう、と思った。
展示そのものは旧博物館で並べられていたものと同じで、よりコンパクトな印象。その後、ついでにと言っては何だが、元からある伊丹の歴史を解説した展示も眺めていた。
すると、男の人から突然、声がかかったのだ。最初、人の気配に振り返った私に会釈した後、他の方へ出て行ったので、そのまま伊丹の荘園のパネルや尼崎にある本興寺の古文書の掛け軸を眺めていたら、また戻って来て、「あのぅ、広報担当なんですが、個人が特定できない形で閲覧中の写真を撮らせてもらいたいんです」と。

「え!だったらもっとお化粧してくればよかった」と返答すると、「後ろ姿だけだから」と。

そこで、持っていた手提げ袋を見えないところに置き、再び眺めているうちに、後ろから写真が撮られた。

メールアドレスと名前をメモ用紙に書いて渡したところ、ミュージアム職員の名刺をくださり、お喋りしているうちに、何と博物館友の会の会員さんでもあることが判明。一度、例会の時に簡単な自己紹介でお目にかかったことがあるのを思い出し、広報用のこの写真にも友の会会員同士という根拠(エビデンス)が与えられ、お互いに安心した、という次第。

早速、送っていただいた写真を確認してみると、いかにもヤラセ風では全くなく、(この女性は本当に真剣にまじまじと古文書を理解しようとしている)という雰囲気が漂っているところが、我ながらおもしろかった。

髪の毛は後ろにシニヨン風にまとめて、黒いリボン風ゴムでぐるりと巻いて留めておいた。眼鏡をかけてマスクをして、ゆったりとした夏服の上着にたっぷりしたゆとりあるスラックス風のズボン姿。体型がわからないようになっていて、いかにも年齢不詳に見える。

はい、私です!

(2023年7月17日記)

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御成敗式目第一条

(https://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/goseibaishikimoku/index.html)

「御成敗式目」

第1条:「神社を修理して祭りを大切にすること」

 神は敬うことによって霊験があらたかになる。神社を修理してお祭りを盛んにすることはとても大切なことである。そうすることによって人々が幸せになるからである。また、供物は絶やさず、昔からの祭りや慣習をおろそかにしてはならない。関東御分国にある国衙領や荘園の地頭と神主はこのことをよく理解しなければならない。神社を修理する際に領地を持つ神社は小さな修理は自分たちで行い、手に負えない大きなものは幕府に報告をすること。内容を調べた上で良い方法をとる。

(抜粋終)

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連合艦隊

メーリングリストの要約から。

伊藤正徳『連合艦隊の最後』

・250余隻、106万トンの連合艦隊が出撃し、戦い終わるや、戦艦0、重巡0、小型空母1、軽巡3、潜母1、特務2、駆逐艦30、潜水艦12、合計49隻しか残っていなかったという惨敗を、開戦の前後に何人が予想したであろうか。

・連合艦隊は葬式を出していない。一個人の死が新聞の記事になり、本願寺や青山斎場の行列を見ることを思えば、410隻が沈み、2万6000機が墜ち、40万9,000人が斃れた「連合艦隊の死」を、お葬式なしに忘れ去るということは、余りにも建忘症でありかつ不公平でもあろう。

・私が海軍のフレンドとして、その国防史の一つのブランクを埋める役目を買って出たようなものだ。私が海軍担当の記者として勉強したのは、大正3年から6年までの3ヵ年に過ぎないが、その因縁の糸が40年近くも切れなかったのは、一つの運命なのであろう。

・連合艦隊の最後は、哀れという文字の代表でもあった。その敗北は、惨憺という表現の極地であった。

・この小さい島国が、開国50年にして世界五大国の一つに位した驚異の躍進と併行し、海軍力の躍進が一層の華々しさを誇った歴史は消えるものではない。

・大正の末期、我が海軍は既に世界三大海軍の一つに列なり、昭和16年の実力は、イギリスと第2位を争う程度に充実していた。それほどの立派な連合艦隊は、ことごとく日本国民が造り上げたものであった。我が民族の財力と智力とが生んだ以外の何物でもなかった。

・連合艦隊とその人々。艦隊は再び還らないが、日本と日本人とは残った。本書は唯だ海戦を出来るだけ正確に調べて、一記者としての批判を書いたものに過ぎない。連合艦隊の最後を弔ったまでである。

・太平洋戦争の戦史最初の50ページは、未曾有の華々しさをもって染められる。陸軍は満州と支那大陸に大兵力を割かれたので、南方作戦にはわずかに11個師団、700機、船舶390万トン(海陸軍あわせて)を動員したに過ぎない。

・菊水作戦の決行。全幹部の反対を排して。日本の世は末となった。昭和20年4月、桜の花は散りそめた。わが海軍の運命をとらむらうごとくである。その4月6日に、いわゆる「菊水作戦」の命令が、第二艦隊(当時生存した主力)の上に下された。

・この日、連合艦隊参謀長草鹿中将は、豊田司令長官の指示を懐にして、旗艦「大和」に伊藤整一中将を訪ね、命令を手交するとともに、「特攻」のやむべからざる理由を縷説して、中将のけつきを懇請した。示達された命令は、「第二艦隊は4月4日払暁、沖縄島嘉手納沖の敵泊地へ突入すべし。燃料は片道分とす。特攻作戦と承知ありたし」

・伊藤中将は、開戦時すでに軍令部次長の要職にあった海軍屈指の人物であったから、海軍のおかれた立場から、この無謀きわまる作戦にも、心底の不満を現さずに、静かに呑み込んだ。

・果然、その日旗艦「大和」でひらかれた各司令や艦長の会合では、「大和」艦長有賀大佐の終始沈黙微笑するほかは、ほとんど全員が激越な口調をもって反対した。

・冷静で有名な「朝霜」艦長杉原中佐は、「途中でかならず撃沈される作戦は否定する。国民の最後の財産を自棄することは絶対反対」と叫んだ。

・駆逐隊司令小瀧大佐は熱血漢で皮肉屋だったが、「連合艦隊司令部は日吉台の防空壕の中に住んでいる。国家興亡の大決戦を何と思っているのだ。東郷元帥を見よ、ネルソンを見よ。穴から出て来て直接に指揮してもらいたい」と叫んだ。

・こうした激論の会議は、日本の海軍においては、初めにしてまた終わりでもあった。

解説文(村松剛)

・「聯合艦隊」。このことばがそのむかし国民のあいだでもっていた重みを、若い人たちにどうしたらわかってもらえるだろうか、と思う。

・大正から昭和にかけての日本は、英米とならぶ三大海軍国のひとつだった。つまり海軍に関するかぎり、掛け値なしに一級の国家として扱われていたのである。

・日本がもしも日露戦争に負けていたら、この国が近代国家として生き延びることは不可能だったと思われる。東郷平八郎の聯合艦隊が対馬沖でバルチック艦隊を全滅させたとき、ロシア皇帝ニコライ2世は極東支配の夢を棄て、「猿」と彼が呼んでいた日本人との講和の受諾を、決意するのである。東郷の聯合艦隊が演じたのは、周知のように戦史に例を見ないパーフェクト・ゲームだった。

・日本の海軍は防御のための海軍であるべきだと、軍令部長時代の東郷はいったという。聯合艦隊は国の巨大な楯として国民から信頼され、かつ高価な芸術品のように愛されて来た。

・伊藤正徳が『連合艦隊の最後』を執筆したのは、終戦後10年を経た昭和30年だった。空襲の焼け跡がまだ方々に残っていた時代であり、経済の高度成長ははじまっていない。軍人たちの回想録は雑誌などに掲載されていたが、まとまった戦史は伊藤氏の著作が最初だった。

・「戦艦大和が比類なき大艦であったように伊藤正徳は、比類なき大海軍記者であった」(小泉信三)
伊藤の前に伊藤なく、伊藤の後に伊藤なしとも小泉はいっている。この大記者の才能は晩年の8年間において、とりわけ爆発的に開花したのである。

(転載終)

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This is Malaysia!

経済的には急激に発展し、今や日本も顔負けなぐらいポストモダンな高層ビルが連立しているマレーシア。それにも拘わらず、私にとっては懐かしいぐらい飽き飽きした事例が、再び登場。2000年時点のクアラルンプールの国立図書館での私のアーカイブ調査では、この種の話題は1980年代から始まっています。つまり、先祖返りというのか、40年以上経っても、何も意識は基本的に変わっていないという…….。(Lily)

1. The Star(http://www.thestar.com.my/news/nation/2022/11/18/muhyiddin039s-christianisation-agenda-claim-is-dangerous-says-ccm?fbclid=IwAR0MojF3PHHS3uwRb7NhFDZ-4F9l_VZwbt12FENXrW5_rDhEhtaw3kFZczI#.Y3dY8dv76FU.facebook)

Muhyiddin’s Christianisation agenda claim is dangerous, says CCM
18 November 2022

PETALING JAYA: The Council of Churches of Malaysia (CCM) has condemned a statement made by former prime minister Tan Sri Muhyiddin Yassin accusing Christians to be in cahoots with a group of Jews to promote and Christianise Malaysia.

CCM general secretary Rev Jonathan Jesudas said the statement was not only untrue but also irresponsible for a politician of his standing to make such a statement on social media which can be viewed by the public.

“We live in a multi-religious and multiracial country and the sensitivity of each community must be taken into account when addressing public forums.

“Such statements, carelessly uttered, have a tendency to create racial and religious tension and strife,” said Jesudas in a statement on Thursday (Nov 17).

He added that the authorities should address the remarks.

“This is to ensure that such a blatant disregard of the truth and of the sensitivities of the various religions are not condoned or repeated,” said Jesudas.

In a video posted on TikTok, Muhyiddin could be seen giving a speech where he told the public not to vote for Pakatan Harapan as the opposition was being backed by a group of Jews and Christians which were pushing for a Christianisation agenda in Malaysia.

“Pakatan Harapan is a huge danger.

“I saw a video where a group of Jews were talking about Malaysia and were praying for the country to fall into the hands of the opposition, which has been sponsoring these groups of Jews and Christians.

“For me this is dangerous. Is a Christianisation process going to happen?” Muhyiddin said in the clip.

(End)

2. Herald Malaysia(http://www.heraldmalaysia.com/news/christians-shocked-and-appalled-by-christianisation-allegations-of-a-former-pm/68705/5)

Christians shocked and appalled by “Christianisation” allegations of a former PM
The Christian Federation of Malaysia’s Statement on “Christianisation” Allegations made by a Former Prime Minister.
18 November 2022

The Christian Federation of Malaysia representing the majority of churches and Christians in Malaysia view with grave concern the statement by the former Prime Minister, Tan Sri Muhyiddin Yassin, associating Christians with a group of Jews who he claims are promoted by the opposition in trying to “christianise” this country.

In the midst of campaigning, statements made by politicians must not stir up strife and cast aspersions which are seditious in nature in order to win support from a particular race or religious group.

Any seditions statement which has the effect of disturbing the peace, harmony and wellbeing of all citizens in our beloved Malaysia must be dealt with by the authorities swiftly and effectively so that it is not repeated.

We are shocked and appalled that such statements could come from a former Prime Minister and hope the authorities will take appropriate action so that such irresponsible statements are not made to the public at large again.

God bless Malaysia in GE 15.

(End)
……….
2022年11月19日追記

1.Malaysia Now(http://www.malaysianow.com/news/2022/11/18/speech-on-christian-agenda-taken-out-of-context-to-tarnish-my-image-says-muhyiddin?fbclid=IwAR19X2SX0U2U7qq-zVziEMmvPRM-Tc3j-bYDl5TxFZiHzBtypezxSDYCNvE)

Speech on ‘Christian agenda’ taken out of context to tarnish my image, says Muhyiddin
He says he was commenting on a video clip circulating during the election period.
18 November 2022
by Staff Writers

Perikatan Nasional (PN) chairman Muhyiddin Yassin today said his comments on Christians in a recent speech had been taken out of context, adding that they were in reference to a video clip making the rounds on social media.

“For the record, I was commenting on a video clip that was circulating during this election period where a foreign religious group specifically appeared to be praying for the government to fall in the hands of the opposition.

“PN stands for stability, fairness to all and being corruption-free,” Muhyiddin said in response to a Malaysiakini report which quoted a speech he recently gave in Muar, Johor.

In his speech, he said he had watched how a group of worshippers in a church were praying for the opposition in Malaysia to come to power.

But Muhyiddin said the remarks were taken out of context and circulated by PN’s rivals “specifically to tarnish my image and to create a false narrative.”

“My entire speech was approximately 55 minutes long. This clip that is circulating on TikTok and social media is a limited one minute and 35 seconds out of the whole speech,” he said.

He said he had also spoken about the need for political stability and for DAP to show restraint and respect the “rights of all races in Malaysia including the special rights of the Malays and the Malay rulers.”

“I said: ‘Everybody must prosper. Malay, Chinese, Indian must share together. So that our nation’s prosperity can be shared by all races’,” he added.

(End)

2.Free Malaysia Today(http://www.freemalaysiatoday.com/category/nation/2022/11/18/prove-your-christianisation-claim-muhyiddin-told/)

Prove your ‘Christianisation’ claim, Muhyiddin told
18 November 2022
by FMT Reporters

PETALING JAYA: Lim Kit Siang has told Perikatan Nasional (PN) chairman Muhyiddin Yassin to produce evidence to back his claim that Pakatan Harapan (PH) was involved in an agenda to “Christianise” the country.

The DAP veteran questioned if Muhyiddin could back his claims, adding that the former home minister similarly could not prove that two DAP members had links to the now-defunct Liberation Tigers of Tamil Eelam (LTTE).

“Muhyiddin has resorted to lies and falsehoods when he alleged PH was an ‘agent of Jews and Christians’ out to colonise Malaysia. He also claimed a group of Jews and Christians were plotting for Malaysia to be ruled by their proxy – PH.

“When did Muhyiddin discover that there was a plot by Jews and Christians to make Malaysia their colony? Was it before Muhyiddin approached me in 2016 to ask for DAP’s support for him to become prime minister, or only in the last few days?

“If the latter, how did Muhyiddin discover the plot of the Jews and Christians, when he was unable to discover the plot when he was home minister in the PH government?” he said in a statement.

Separately, DAP central executive committee member Sheikh Umar Bagharib Ali urged the police to immediately probe Muhyiddin’s remarks, describing it as dangerous and irresponsible.

Sheikh Umar warned that the statement could cause tension and disharmony in the nation.

Meanwhile, the Christian Federation of Malaysia (CFM) said it viewed Muhyiddin’s remarks with grave concern. It urged politicians not to stir up strife or cast seditious aspersions against a race or religious group in order to woo support.

“Any seditious statement which has the effect of disturbing the peace, harmony and well-being of all citizens in our beloved Malaysia must be dealt with by the authorities swiftly and effectively so that it is not repeated.

“We are shocked and appalled that such statements could come from a former prime minister and hope the authorities will take appropriate action so that such irresponsible statements are not made to the public at large again.”

In a recording of a ceramah in Johor on Friday, Muhyiddin claimed a group of Jews want PH to win tomorrow’s elections, and alleged that PH was working with Jews and Christians to “colonise” the country.

In the recording which has gone viral, the former prime minister also claimed that there were Malays attending church services in Kuala Lumpur and Petaling Jaya on Sundays.

The Council of Churches of Malaysia (CCM) slammed Muhyiddin over his statement, while PKR deputy president Rafizi Ramli said the party plans to file an election petition against Muhyiddin.

(End)

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一人銀婚式

11月16日は、銀婚式…..のはずだった。

詳細は繰り返さない。25年前のあの日も、一昨日と同じく、秋晴れ紅葉真っ盛りの好天気だった。
あの時だったからこそ、京都の下鴨神社での挙式に親族が集まってくれたのだ。「お、いいとこでやるなぁ」と、父は喜んでいた。「ここは一等地でねぇ」と父方の叔父叔母(父の妹)にも、父は控室で語っていた。「二人だけでよくここまで準備できた」と、主人の伯父は褒めてくれたらしい。

記念写真におさまっている中で、主人側の伯父と私の父は、既にいない。そして、主人も三年前の今頃は、回復リハビリ病院から無理やり退院して、「会社に行く」と執拗にごねたり、勝手にドアの鍵もかけずに夜遅くまで外出(徘徊)したり、なぜか電化製品を次々と買い込み、私が逐一返品しに行ったりして、とにかく大変な時だった。

あの当時、主人側は、母方の祖母、伯父、叔母、従妹が、私の方は、父方の祖父、母方の祖母、叔父二人、父が健在だった。
普段、取り立ててお付き合いがあるわけではなくとも、家族や親族は生存していてこそ意味がある。いつもは特に意識していないとしても、存在感があるだけでも、精神的な拠り所が全く違う。

2022年2月24日付の過去ブログ(http://itunalily.jp/wordpress/)と重複するが、繰り返してみよう。

《我々はギリギリのタイミングで結婚できたと思う。今や、当時は想像もつかなかった事態が次々に起こっている。》

(1)相互に知り合うきっかけを作ってもらった大手の結婚紹介所は、二年前に他社の子会社化した。
(2)初めて出会った日に数時間過ごした、名古屋の栄にあった中日ビルの回転レストランは、既に取り壊しとなった。
(3)挙式から披露宴までの全てをプロデュースした京都ナンバー1の会社は、徐々に業績が悪化し、2020年のコロナ問題でほぼ破産。名古屋の別業者の子会社に。
(4)披露宴をした京都市北部のフレンチ・レストランは、2016年12月までツィッターで広報を頑張っていたが、ついに閉店。
(5)名古屋に来てくれた主人と二度ほど、ボーリングをした名駅近くの「名鉄レジャック」は、2023年3月末で営業終了。
(6)主人がその頃暮らしていた京都市西京区の社員寮だった桂寮は取り壊された。
(7)入社以来、2018年10月1日付で転勤するまで勤務していた長岡京の京都製作所は、2022年3月末に閉鎖。

(以上、要点のみ抜粋)

結婚前の3月頃、まだ肌寒かった名古屋の庄内緑地公園で、持参した私の手作りのツナ・サンドウィッチやミルクプリン等のお弁当を食べながら、お喋りを。「二人で茶飲み友達。一緒に施設に入って、茶飲み爺さん婆さんになるね」と私が言うと、「で、僕が先に逝くね」と主人。その頃から、自分は長生きできない、と予測していたのだろうか?
………
いろいろ振り返ってみても最近の日本の景気は、何だか気が滅入るのみなので、あまり考えないようにしている。毎日一つ一つ、なすべきことをきちんとこなすように心掛け、目の前のことに集中して気を紛らわしてきたが、なんという体たらくだ、と思う。

一つの大きな外因としては、やはり戦後思想、戦後教育の甘さや歪みが反映した結果だろう。また、肝心の国防が疎かになり、勝手気儘な個の重視と人権尊重の行き過ぎが、我儘で甘ったれた人間を創出し続けたということもあるだろう。

また、中国の急激な台頭と、北朝鮮を含めた日本への工作活動も見逃せない。
さらに、途上国や外国人への援助額が、国内で必要とする人々の需要を上回っているという、政策のおかしさもある。

内因としては、衰退する家系の問題もある。自分の問題は自分で責任を負い、解決を自力で求めなければならない。なのに、気に入らない周囲を見下げつつ、他人(嫁)に寄りかかったり、他者を都合よく利用しようとしたりして、利益の分け前に与かろうとする。そんな依存心の強い人が一人でもいたり、非常識で身勝手な縁者がいたりすると、負のエネルギーが前進を阻み、トラブル続出ということになる。

心身共に健康で、明るく前向きに、一人ですくっと立って雄々しく生きていなければ、いざという時に誰も助けてくれない。家の中にちょこんと座ったまま、数十年前の実家の家柄の「良さ」を繰り返し誇ってみても、単に受け身のままでは、問題を招聘するだけである。その人の生まれ育ちにおいて誰と繋がっているか、ではなく、その人自身がどういう人柄で、何ができるのか、に従って、世の中は処遇するものである。どんな家柄であったとしても、時と共にその人なりに成長する努力を怠っていたら、誰も相手にはしてくれない。結局、周囲の対応は自己の反映なのである。

それがわからないまま、自分に同情してもらいたくて、繰り返し同じ愚痴を言い続けるばかりでは、皆が離れて行ってしまう。

そういう教訓を得ている。ふぅ!それにしても疲れたなぁ。
……..
一昨日は、前から行きたかった京都の松尾大社へ行ってみた。ちょうど、毎年恒例の春と秋の非公開文化財特別公開の期間でもある。今回は第58回である。

何よりも、酒造家にとっては大切な参詣地として有名である。江戸時代に清酒の酒蔵で栄えた伊丹市の中心神社である猪名野神社にも、松尾大社から勧請されたお社がある。また、母方の曾祖父母の家業である岐阜の川辺町にある白扇酒造さんが、この度受賞を重ねたのみならず、ユネスコ登録を目指しているということで(参照:2022年11月11日付ブログ「ユネスコ登録を目指して」(http://itunalily.jp/wordpress/))、遠縁の外戚ながら、小さな応援団として、ささやかながらもお願いを申し上げたかった。

嵐山へは、主人と結婚してまもなくの頃、天龍寺の座禅会へ月一度、三回ぐらい通っていたことがある。あの頃は、今よりも世の中がのんびりしていたのか、阪急電車で桂駅での乗り換えも、嵐山線の本数の少なさとのどかさも、全く苦にならなかった。尤も、あの当時の主人は、まだ米国出張をしていたからでもある。「太平洋を越えるよりは近い」みたいなことを口走っていた。若かったなぁ…..。
。。。。。
阪急の「松尾大社」駅に降り立ったのが、午前11時17分。この駅の茶色地の看板には「まつおたいしゃ 松尾大社」と記されていたが、「令和4年度 第58回京都非公開文化財特別公開」のパンフレットには「まつのおたいしゃ」と振り仮名がつけてある。

この辺りは静かで、いかにも本来の京都らしさが残っていて、とてもいい雰囲気だ。朱色の鳥居には「脇勧請」と呼ばれる榊の小枝12を束ねたものがぶら下がっていて、太古の風俗をそのままに伝えているらしい。月々の農作物の出来具合を占ったものだそうだ。

まずは、先に境内のそば処のお店に入って、鰊そばをいただいた。こじんまりしているが、昭和時代を彷彿とさせる、いかにも京都らしい丁重なサービス。それから、資料館へ行き、展示をじっくりと眺めて、ビデオも見た。

酒樽の奉納は、やはり伊丹の「白雪」が目にとまったが、他に灘のお酒である「白鷹」「菊正宗」等もあったし、実家のある懐かしい「清州城の信長鬼ころし」も最下段におさまっていたのを発見。このようにして、神社が地域と結ばれていた歴史や縁を再確認。

おみくじやお守り等が並べられている棚には、昭和52年に発行された『神社神道の常識』という古い本と『わが神主道の足跡』があった。中を見ると、GHQの神道指令によって、戦後、神社神道と最も鋭く対立したのがキリスト教であるらしく、かなり強い非難の言葉が綴られていた。帰宅後、アマゾンで調べてみると、いずれも安くはないが、図書館で借りられるならば読んでみたい、と思った。

醸造祖神の松尾大神御守護「醸酒守」をいただいてきた。中の包み紙の裏には、次のような言葉が記されていた。

「心清く行ひ実なれば人必ず之を仰ぐ。身をつくし、心を正し、業を練り、美酒をかもし出すべし。緩みあれば必ずやぶる。」

境内をぶらぶら回っていると、伊勢の神宮への遥拝所があるのに気づいた。鳥居もお社もなく、四方を注連縄で囲み、大きめの石で榊の数本の木を囲んである質素かつ簡素な場所だった。恐らくは、古代の祭祀は、このような形で始まったのだろうか。

12時50分から神職による文化財の説明が始まるとのことで、受付に10名が5分前には集合した。1分前には、紫の袴姿のなかなかハンサムな神職さんが現れた。
まずはお祓いを受け、二礼二拍手一礼の後、中に入れていただいて、きっちり30分、楽し気かつ丁重な解説をいただいた。
例によって手帖にメモを取っていたら、「紙に書いてありますから、後で読んでください」と。それでも、終了後に丁寧にご挨拶されたので、やはりうれしい訪問客の一人ではあったのだろうか?
この神職さんは、40年程前に松尾大社に入って奉職され、還暦を過ぎたそうだが、40年なんて「あっという間だった」。毎日、神事を行っているが、不思議なことがたくさんあり、お参りする人のエネルギーによってお社が日々「生きている」。

京都最古の神社とのことで、最初は220メートル級の山の「神の御鎮まり」として岩肌を自然崇拝する形でいた磐座。外つ國の仏教が伝来した時の衝撃があまりにも大きかったのであろう、文武天皇の大宝元年(701年)に勅命を受けて、秦氏の秦忌寸都理(はたのいみきとり)によって本殿が創建された。そこで、「お社造り」となった。現在のものは、室町初期の応永初年(1394年~)の建造で、600年以上も前のことになる。もっと古い寺社がありそうに思える京都でも、この年数は古いらしい。

そして、出ました!京都ならではの「先の戦争」つまり「応仁の乱」。西の端にある「松尾大社は焼けず、この近辺の天龍寺は焼失した」との由。

この神職さんは、話し出すと止まらないタイプのようだが、10分か20分で松尾大社について語ってほしい、という依頼は全て断っているらしい。そんな手軽なものではなく、文化の重厚性、それぞれの真実を、それぞれ別の角度から見ることの複雑さを繰り返されていた。まず現地に来て身を置き、感じること、それからネットや本で調べること、その順序や体感が重要だそうだ。「お参りいただくエネルギーで保たれる」ことが大切だと強調されていた。お掃除されていると、「気が違う」。信仰あってこそ、貞永式目のご神徳が増す、ということらしい。

両流造は珍しく、日本国内には、松尾大社、宗像神社(福岡県)、厳島神社(広島県)の三つしかないそうだ。また、菊紋や亀菊、箱棟の屋根、蟇股、檜の木を使った室町時代の彫刻、柱の面取り、向拝、葵を使う鴨居、御手洗川等の見どころをご説明いただいた。そして、平成7年(1995年)1月17日の阪神大震災でも倒壊しなかった松尾大社。

皇城鎮護として京都の平安京を守護する社が、宮中は賀茂氏の賀茂両社、国家事業の祭祀は秦氏の松尾社だった。松尾社の弟分に当たるのが伏見稲荷で、商売繁盛の御利益があるとのことで、弟の分際で経済力が凄い、らしい。神職さん曰く、「松尾大社はお金ない」。いえいえ、維持費がかかるというだけで、もっと伸びしろたくさんありそうですよ!何しろ、背後の松尾山(別雷山)を含む約12万坪が境内だ、というそうですから。

平安神宮を中心とすると、京都五社巡りでは、北の玄武が上賀茂神社、南の朱雀が城南宮、東の青龍が八坂神社、そして、西の白虎が松尾大社ということになる。私がまだ行ったことのないのは、城南宮である。次の課題だ。

その後、神像館へ行き、重要文化財の御神像21体を拝見。平安時代初期の一本造りの座像ということだが、これは、大阪府三島郡島本町の若山神社が所有していたという聖徳太子像とも時代や造りが似ているのではないかと思わされた。

それから、松風苑の三つの庭。昭和49年から一年がかりで重森三玲氏が造られたそうで、徳島県から運んだ青石(緑泥片岩)を200個以上使ったそうだ。上古の庭(磐座風)、蓬莱の庭(鎌倉風)、曲水の庭(平安風)と、なかなか壮観だった。

日本建築の美しさ、独自性、古いものを大切に守る精神性は、若い頃にはピンとこなかったが、歳を重ねるにつれて自分なりに感じ取れるものができてくるので、得難い貴重な体験だと思った。

2017年7月から始めた神社検定試験の勉強も、それなりに役立っている。参級は合格しているのだから、一歩一歩学びを進め、深めていこう。

松尾大社では、思いがけず長い時間を過ごした。昼食の15分を含めて、2時間40分滞在したことになる。
午後1時57分に境内の外に出て、阪急の松尾大社駅に戻ったのが2時5分。結構、次の電車の待ち時間が長く感じられた。
。。。。。
その後は、25年前に挙式した京都の下鴨神社へ。阪急で四条まで出て、地下鉄に乗り換え、北大路バスターミナルから市バスで、午後3時12分に到着。

ここへは今年の4月29日、昭和の日に、二回目の糺の森植樹祭に来て以来だ(参照:2022年5月5日付ブログ(http://itunalily.jp/wordpress/)。第一回は主人の一年祭の代わりに、第二回は三年祭の代わりとして、桂の木を植樹したのだった。

結婚記念写真を撮った頃にはしっかりと朱色に輝いていたはずの中門鳥居の足元が、ここ数年、いつ見ても剥げかけているのが何とも……。

「本当は二人で来る予定だったんですけど」とご挨拶してから、早々と河合神社へ。

こちらも非公開文化財の特別公開だが、下鴨神社の方は毎年同じなので、鴨長明『方丈記』完成810年資料展に目を付けたのだ。鴨社資料館秀穂舎へは、主人の入院中だった2020年3月に一度行ったことがあるが、今回は時間切れで取りやめ。
3時半まで入館受付とあったので、(無理だなぁ)と小走りに到着したのが、河合神社の鴨長明資料館で、3時42分。
何と貼り紙には、「無料にて公開」「拝観ご希望の方は、お靴を脱いでお上がりください」と書いてあるではないか!本来なら、500円必要なのに、これまた大サービス。来たかいがあった。

資料館とはいえ、小部屋だったので、展示そのものは15分ぐらいで閲覧できた。この『方丈記』は、天変地異や社会不安になると、よく読まれるそうだ。現在では、コロナ禍によって、社会様相が劇的に変化したため、「人のこころの在り方」を学ぶ教材として読み直されているらしい。

帰りは、新葵橋のバス停から河原町まで市バスで戻り、阪急の株主回数券を使って伊丹まで帰った。暗くなるのがすっかり早くなり、このぐらいが丁度いい。
島本で暮らしていた頃には、主人と二人で、三ヶ所の文化財巡りができたのに、やはり兵庫県ともなれば、地理的距離と時間が叶わない、と思った。本当は大原へも行きたかったのだけれど…..。

梅辻家住宅、晴明神社、清浄華院、霊源院にはまだ行ったことがない。期間中にスケジュールを合わせて行けそうで行けないのが、この春と秋の非公開文化財特別公開である。

(2022年11月18日記)
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2022年11月18日追記番外編

「松尾さん」と呼ばれるお社から派生を。

人名にも「〇尾」という名字が少なくない。一昨年から、毎朝の散歩の時に、住宅街の表札を見ながら、「〇尾」と名のつく家をメモして回っていた。住所ではなく、勿論、名字のみだ。

ノートにリスト化したものがあるが、今は時間の関係で探し出す暇がないので、記憶に基づいて….。

赤尾、秋尾、上尾、朝尾、浅尾、足尾、網尾、荒尾、池尾、石尾、板尾、一ノ尾、糸尾、今尾、牛尾、白尾、妹尾、栗尾、梅尾、枝尾、岡尾、荻尾、押尾、折尾、笠尾、梶尾、柏尾、勝尾、金尾、神尾、菊尾、岸尾、北尾、西尾、東尾、南尾、九尾、八尾、七尾、六尾、三尾、花尾、栗尾、琴尾、米尾、酒尾、芝尾、島尾、下尾、笹尾、椎尾、杉尾、鈴尾、砂尾、瀬尾、関尾、外尾、内尾、滝尾、竹尾、辰尾、谷尾、角尾、鶴尾、鉄尾、寺尾、栂尾、塔尾、殿尾、虎尾、寅尾、中尾、仲尾、永尾、長尾、羽尾、蓮尾、畑尾、浜尾、濱尾、檜尾、桧尾、平尾、広尾、深尾、細尾、堀尾、政尾、松尾、丸尾、水尾、溝尾、宮尾、村尾、桃尾、森尾、守尾、柳尾、山尾、横尾、芳尾、若尾、鷲尾。

他にも、思い付き次第、見つけ次第、追加する予定。

(2022年11月18日記)(2024年6月18日修正)
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2023年5月2日追記番外編追記1

神社の玉垣を眺めながら歩くと、上記の「〇尾」さんの追加事項に気づく。

天尾、栃尾、麿尾。

(2023年5月2日記)
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2023年8月10日追記番外編追記2

他にも見つけました。

月尾、前尾、持尾。

(2023年8月10日記)
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2023年9月21日追記番外編追記3

研究論文の検索をしていたら、見つけました!

福尾。

(2023年9月21日記)
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2023年11月16日追記

今年の結婚記念日は、修士論文提出間際のため、下鴨神社への参拝は欠礼いたしました。また、折を見てご挨拶にうかがいます。
「できるうちにできることを」このモットーに従い、何とか頑張ります!

(2023年11月16日記)
………..
2024年3月3日追記

また見つけました。

斎尾。

(2024年3月3日記)
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2024年3月9日追記

探せばまだあります。

杤尾。

「とちお」と読むようです。

(2024年3月9日記)
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2024年10月3日追記

斎尾 → 斉尾

もあるようです。

(2024年10月3日記)
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2025年1月31日追記

「三尾」とは「みそお」と読みます。

結婚以来、ずっと忘れていましたが、マレーシアにいた頃、工作機械の専門技術者だという日本人男性と知り合い、間を取り持った日本人女性が私のお相手候補としてどうか、と勧めてきたことがありました。その方のお名前が「みそお」さん、でした。

クアラルンプールの内外、どこでもバイクで移動する方で、一度だけ私を後ろにのせてくれたことがありましたが、風を切って高速道路を走るのが怖かったです。マフラーに足がつくと火傷する等、私と生活習慣が全く合いませんでした。

でも、今思い出しても、人間的には温かく親切で気さくな人でした。昨年6月以来、防衛モニターの関係で姫路駐屯地で知り合った、ちょうど自衛官さん達のような印象です。今はどこでどうしていらっしゃるでしょうか?

(2025年1月31日記)

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マレーシア航空機の撃墜

約8年前のマレーシア航空機の墜落事件。

私が政府の仕事でマレーシアのクアラルンプールに滞在していた1990年代前半期の3年間には、殆ど考えられないことだった。当時は、高層ビルが少なく、物価が安く、民族別の学歴や職歴や居住地による「棲み分け」はあったものの、今から振り返ると、かえってその方がスムーズに物事が進んだ面もあった。

以下の事件の約2年半後、今度はクアラルンプール国際空港内で北朝鮮の第2代最高指導者であった故金正日の長男の金正男が暗殺された。2017年2月13日に、ベトナム人やインドネシア人等の関与により、顔面に神経剤「VX」を塗られて毒殺されたという。

非常に物騒になったものだ。私が最後にマレーシアをリサーチ目的で訪問したのは、2012年12月半ばのこと。あれから約10年。もう行く必要はないし、行きたくもない。時代は変わった。

(2022年11月18日記)
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日経新聞(https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB17DTO0X11C22A1000000/?fbclid=IwAR30OcYd4PxqOD51knWbED1JEwKwkF1Yab1l6xHm_KkZ3ViFwun_jHayZSc)

元ロシア軍人ら3人に終身刑 14年のマレーシア機撃墜
2022年11月18日

【ブリュッセル=共同】ウクライナ上空で2014年7月にマレーシア航空機が撃墜され、乗客乗員298人が死亡した事件で、オランダの裁判所は17日、地対空ミサイルを配備したなどとして殺人罪に問われた元ロシア大佐ら4人のうち3人に終身刑を言い渡した。1人は証拠不十分で無罪となった。欧米メディアが伝えた。
事件は親ロ派勢力が一方的に独立宣言したウクライナ東部で発生し、世界に衝撃を与えた。航空機はアムステルダムからマレーシア・クアラルンプールに向かっていた。犠牲者の多くはオランダ人で、オランダが国際合同捜査を主導した。
判決は、親ロ派勢力が発射したミサイルによってマレーシア機は撃墜されたと結論づけた。
判決を受けたのは、親ロ派支配地域「ドネツク人民共和国」国防相を自称した元ロシア連邦保安局(FSB)大佐イーゴリ・ギルキン、元ロシア軍参謀本部情報総局(GRU)幹部セルゲイ・ドゥビンスキー、元同軍特殊部隊員オレク・プラトフ、ウクライナ人の分離独立派レオニード・ハルチェンコの4被告。プラトフ被告は無罪となった。
4人はロシアにいるとみられるが、事件への関与を否定しているロシア政府は引き渡さず、公判を欠席している。
20年3月に初公判が開かれ、その後の公判で遺族らが「ロシアはうそをついている」などと証言。21年12月に検察側が終身刑を求刑した。

(転載終)
………….
マレーシアと私の関係は、あくまで政府系の仕事とリサーチ研究。何も、好き好んで続けてきたわけではない。
ただ、何もしなかったよりは、遥かに自分の人生が満たされたことも事実だ。30年以上も前から交流があった人達も、今だに連絡をくれるし、視野が広がったことは得難い。

どういうわけか、「マレーシアってレベルが低いんでしょう?」と、私の後をついて大きな声で言って回っていた人がいた。また、「ふん、マレーシアみたいな変な国にいたくせに」と、軽蔑のまなこを投げかけた人もいた。
いずれも、英語は話せず、海外に行ったこともなく、大学も出ていない。だから、全く相手にならない。

残念なのは、それが近親者だったということである。このようにして、家運を下げていることに、二人とも全く気付いていなかった。

(2022年11月18日記)
………….
2022年11月20日追記

直近のマレーシア連邦議会下院総選挙の報道を。
97歳と予想以上に高齢のマハティール第4代元首相。結局のところ、落選。それにしても、お元気なこと、お元気なこと。
マハティール氏が与党政権をかじ取りしていた頃、私はマレーシアに滞在していた。今から思えば、あの当時が一番暮らしやすく、安定感があったと再び思うところ。

以下によれば、恐らくはイスラム主義政党が表向きのソフトな装いで覇権を獲得する可能性が高そうだ。
ますます私には、縁が遠のいた国になる。思い出は遥か遠くに。

(https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM194B70Z11C22A1000000/)

マレーシア総選挙でマハティール氏落選 政界引退見通し
2022年11月20日

【クアラルンプール=中野貴司】19日投開票のマレーシア連邦議会下院(定数222)総選挙で、97歳のマハティール元首相が落選した。通算で約24年間首相を務めた大物政治家の政治生活に終止符が打たれる可能性が高い。
選挙管理委員会の発表によると、5人が立候補したランカウイ選挙区でマハティール氏の得票数は5千票弱。2万5千票超を獲得した国民同盟などの候補に大差をつけられ、4位にとどまった。マハティール氏は2018年の前回総選挙でも同選挙区から立候補し、大勝していた。
マハティール氏は8月に新政治集団、祖国運動を結成し、今回の総選挙で100人を超える候補者を擁立していた。マハティール氏以外の候補者も議席を確保できる可能性は低く、大敗が確実だ。
マハティール氏は投開票日2日前の17日、日本経済新聞のインタビューで仮に落選した場合の身の処し方を問われ「引退する。人々がもはや私を必要としなくなった以上、政治に関わりたくない」と答えていた。

(転載終)

(https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM194M80Z11C22A1000000/)

マレーシア下院選、与野党とも過半数獲得できず
2022年11月20日

【クアラルンプール=中野貴司】19日投開票されたマレーシア連邦議会下院選(定数222、任期5年)は野党連合の希望連盟が最大の82議席を獲得する見通しだ。解散前に連立政権の一角を占めていた国民同盟が73議席で続く。どの政党も単独では過半数を獲得できず、主要各政党は20日、連立政権樹立に向けた交渉に入る。30議席の与党・国民戦線、合計で約30議席を得る見通しのボルネオ島の地域政党の動向が焦点となる。

20日午前5時(日本時間午前6時)時点の選挙管理委員会の発表や現地メディアの集計によると、アンワル元副首相が率いる希望連盟が82議席、ムヒディン前首相がトップの国民同盟が73議席、イスマイルサブリ首相が所属する国民戦線が30議席、ボルネオ島の地域政党のサラワク政党連合が22議席、サバ人民連合が6議席を獲得する見通し。マハティール元首相の祖国運動は1議席も獲得できず、マハティール氏自身も大差で落選した。222議席のうち2議席は投票日直前の候補者の死去などによって仕切り直しになり、すぐには結果が確定しない。

希望連盟のアンワル氏は大半の議席が確定した20日未明に会見を開き、他の政党との連携によって過半数を確保したと主張した。ただ、どの政党と連携するかは明らかにしなかった。国民同盟のムヒディン氏も20日未明の会見で、連立政権樹立に自信を示し、地域政党との交渉を急ぐと強調した。

国民戦線や地域政党の取り込みに成功すれば、過半数を確保できることから、両党は重要閣僚ポストを提示するなどして、働きかけを強める見通しだ。

仮に国民同盟が国民戦線や地域政党の取り込みに成功した場合、解散前のイスマイルサブリ連立政権の枠組みに近い組み合わせになる。このうち最大の議席を得た国民同盟が首相ポストを求め、2020年3月から21年8月まで首相を務めたムヒディン氏が復帰する可能性がある。

一方、希望連盟が地域政党などとの連立政権樹立に成功すれば、アンワル元副首相が首相に就く可能性が高い。希望連盟はマニフェスト(政権公約)で、副首相ポストの1つをボルネオ島の政党に割り当てる方針を示し、地域政党との連立で政権交代を目指す姿勢を明確にしていた。

イスマイルサブリ氏が所属する国民戦線は30議席にとどまり、解散前の42議席から後退する見通し。汚職事件で起訴されているザヒド氏がトップにとどまっていることが、支持基盤であるマレー系の有権者の離反を招いた。1957年の独立以来、長期にわたり政権を維持してきた国民戦線だが、退潮に歯止めがかからない。

前回18年の総選挙では、希望連盟が過半数の議席を獲得し、当時希望連盟に加わっていたマハティール氏が首相に就任した。しかし、20年2月に内紛によってマハティール政権が崩壊し、それ以降2度にわたり首相が交代する不安定な政治状態が続いていた。

(転載終)
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(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)

K様、そうだったのですか?私のテーマも、実はその観点からでした。40年以上経った今でも、まだ問題が繰り返し再現しています。

(2022年11月20日転載終)
。。。。。。
上記の続き応答があったので、以下に転載を。

(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)

K様:以前、ご発表を拝聴したときには非常に意義のあるご研究だと感じましたし、ずいぶん、インスピレーションを頂きました。ここ数年は、アカデミックから少し距離が離れてしまいましたが、それにより、むしろ学術知のあり方や、さらには生涯にわたり学習することの重要性を、ビジネスの現場から感じています。

ユーリ:K様、いつも温かいコメントをありがとうございます。大変感謝しております。さすがは、外交官でいらした方だと、改めて思います。是非また、ビジネス知見から得られたアカデミズムのあり方、ご教示ください。

ユーリ:(お名前を)自動的にミス転換してしまいました。大変申し訳ございません。気づくのも遅れました。お詫び申し上げます。

ユーリ:多分、見方が違うのでしょう。

(2022年11月26日転載終)
…………….
英国のロンドンにあるヘンリー・ジャクソン協会(The Henry Jackson Society)のメーリングリストを転載。

On 17th July 2014, Malaysian Airlines flight MH17 was shot down over eastern Ukraine, killing all 298 passengers and crew on board, including 10 Britons. Speculation over those responsible for the downing of the plane erupted immediately, pointing to the Russian military and the Donetsk People’s Republic, while the Kremlin media, officials and social media began a campaign to implicate Ukrainian forces.

>From 2014 to 2016, the investigative team at Bellingcat identified the Bug surface-to-air missile system that struck the plane as belonging to the Russian Federation’s 53rd Anti-Aircraft Missile Brigade based in Kursk. The system was transferred to the Russian-backed separatists and fired from a location not under the control of Ukrainian forces. Subsequent investigations by independent media corroborated the Bellingcat evidence.

The investigation of the Public Prosecution Service of the Dutch Ministry of Justice, together with the joint investigative team involving the Netherlands, Belgium, Austria, Ukraine and Malaysia collected a body of evidence against four individuals identified as responsible for the incident and led to hearings at the District Court of The Hague. The decision of this court is expected on 17th of November 2022.

The Henry Jackson Society invites to you an event that follows the path of the case against those involved in the downing of the MH17 flight. The panel will discuss the strength of the case against the accused as well as the wider impact of the case on countering Russian aggression.

(2022年11月26日転載終)

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庄司紗矢香&カシオーリ

Kitaraワールドソリストシリーズ(https://www.kitara-sapporo.or.jp/event/event_shoji-cascioli.php)

庄司 紗矢香&ジャンルカ・カシオーリ デュオ・リサイタル特集

庄司 紗矢香が、7年ぶりとなるジャンルカ・カシオーリとの日本ツアーで、「ストラディヴァリウスの弦をスチール弦からガット弦に替え、弓もモーツァルト時代のクラシック弓を用いた」古典派の音楽を披露する。カシオーリが弾くのもフォルテピアノ。彼らは今年5月、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ3曲をこの仕様で録音し、今秋CDもリリースされる。そこで同スタイルの意図や魅力について話を聞いた。

─ まずは、ガット弦とクラシック弓を用いた古典派の演奏に至った経緯からお話いただけますか。

ジャンルカ(カシオーリ)とは2009年に出会って以来、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタをメインに共演を重ね、作曲当時の様々な資料を参考にしながら、楽譜からは読み取れない知見に基づくアプローチも行ってきました。今回はそれがさらに深まったということです。私もこのパンデミック中に時間ができたので、おもに17~18世紀に書かれた多くの文献を研究し、今回のスタイルを実践できる段階に来たと思えるようになりました。また、去年あたりから少しずつ、子供の頃に使っていた、金属で巻いた弾きやすいガット弦での演奏もしてきたのですが、それを張ったある時、「このサウンドをずっと探していた」ことに気付いて、「ここまで来たからには裸のガット弦で弾いてみよう」と思ったことも後押ししています。

─ そうした演奏法は、元々ある程度研究されていたのですか?

ベートーヴェンのソナタを録音した頃から数冊の本を所有して、基本的なことは学んでいました。また、ケルンの音大時代に18世紀の演奏法に関する講義をいくつかとっていましたし、室内楽の先生が二人とも古楽奏者だったので、多少の基礎知識もありました。ただ、それを深める時間的余裕がなかったことが、ずっと気になっていたのです。

─ カシオーリ以外の、例えば古楽奏者などとこのスタイルで演奏はしていないのですか?

はい。私はいわゆる古楽奏者の範疇には入らないですし、楽器や形よりも当時の人たちの言説の意味を深く追求していくことを主軸に置きたいと思っています。古楽器にガット弦を張ってクラシック弓で弾いたからといって、正しい演奏ができるわけではなく、その順番が私の中ではとても大切でした。我々が聴いて育った20世紀後半の解釈や演奏法をいかに忘れられるか、本当の意味で18世紀に戻って、当時の人たちの発言を実践するとどうなるのか?に興味があるのです。

─ その先人たち(C.P.E.バッハ、ジェミニアーニ、L.モーツァルトなど)が言及しているのは、主に奏法でしょうか?

彼らが残してくれているのはあくまで“音楽ありき”で、音楽を表情豊かに生き生きと伝えるためにはどのように演奏すべきか?に焦点が当てられています。ですから私も、古楽奏法らしい音ではなく、いかに音楽を生きたものとして伝えられるかを目指しています。

─ 今回のスタイルで、以前と大きく変わる点は何でしょう?

まずはもちろん“弦の響き”。それは艶消しのようなざらっとしたテクスチャーを持った、沢山の倍音が豊かに響く音です。また、マスターするのが難しいガット弦も、正しい弾き方をすれば素晴らしい音が出ますし、間違った弾き方をすれば楽器が教えてくれる。そこから学んだ成果も大きいと思います。あとは、我々も前から目指してきた“制限のない自由”と言いますか、幼少時代から「モーツァルトやベートーヴェンを弾くときにこうしてはいけない」という事項が沢山あったのですが、私はずっと内心それをしたくてウズウズしていたので、18世紀の教科書に「そうすべきだ」と書いてあると、「ほら、やっぱり」と(笑)。そこも嬉しいし楽しい。あとは装飾ですね。今回の録音は、古楽奏者でもあまりやらない装飾で、色々な表情をつけられたのではないかと思っています。

─ こうした古楽・ピリオド奏法の際に話題となるヴィブラートに関する考え方は?

「ピリオド楽器奏者はヴィブラートをかけない」といった固定観念が一人歩きしていますが、ジェミニアーニは「できるだけ全部ヴィブラートをかけよう」と言っていますし、レオポルト・モーツァルトは「あまりかけ過ぎると悪趣味だから、全部の音にかけるのはやめよう」と言っています。ということは、当時からヴィブラートは存在したわけです。もちろん「かけない方がいい」という人もいますが、それは趣味の問題でしょう。ただ、ヴィブラートの種類が今主流のフレンチ・ベルギー派のものと違うので、そこは考慮しなければいけません。

─ では改めて、ガット弦の最大の魅力とは?

やはり音質です。私が使用しているガット弦は18世紀の製法に一番近いとされているもので、イタリアからオーダーしているのですが、多くの人が使う弦よりもかなり太めです。なので結構パワフルな音が出ます。ただしすごく難しい。弦が太くなるとなかなか音が出ないので、最初は大変でした。でも先ほど話したように、倍音が豊かになり、音の太さやパワーが違ってきます。

─ 今回の録音にモーツァルトを選んだ理由は?

ジャンルカと出会った当初から、直感的に「この人とモーツァルトを弾きたい」との思いがありましたが、これまでは「まだ奥深い部分に十分入り込んでいない」との意識が強かったのです。でも今回時間ができたおかげで実現できました。

─ カシオーリはフォルテピアノをどのくらい弾いているのでしょうか?

彼の先生がフォルテピアノのコレクターだったので、その家で時々弾いていたようです。ただ、彼のアプローチも研究書に基づいており、先生から教わったものや録音で聴いてきたものとも、現在通常耳にするものとも違っています。

─ 今回の日本ツアーもモーツァルトが中心ですね。庄司さんにとってモーツァルトの魅力とは?

色々な表情が人生そのもののように全て出てくるところでしょうか。また、私はどうしてもオペラの観点で捉えがちなのですが、そうした歌唱との繋がりはとても意識しています。あとは遊べるところ。共演者や聴衆を驚かすことができる楽しさがありますね。

─ 最後に総括的なコメントをいただけますか。

19世紀のロマンティック・アプローチが極端だったため、20世紀の演奏家がそれにトラウマがあって、いわば無愛想な表現が主流になってきました。そうした中で、我々は古典派を演奏する時の禁止事項を教わってきたのですが、その価値観を持ったまま古楽器を弾くと、余計無愛想で冷たい演奏になる危険性があります。しかし先人たちは、“音楽の表現ありき”で色々な規則を語っています。音楽を表情豊かに生きたものとして表現するためにはどうすべきか、どうすればより美しくより心に訴える演奏になるかを、C.P.E.バッハ、L.モーツァルト、ジェミニアーニやトゥルクといった人たちが皆切々と語っているのです。皆が口を酸っぱくして言うのは、「どうしたら人々が眠くならずに楽しんでくれる演奏、人々の心を動かすような演奏ができるか」。そこに戻ると、冷たい演奏は一番かけ離れています。ルバートはすべきであり、全ての音は均一であってはならず、全ての拍はピッタリと揃えるべきではなく、テンポは常に一定であるべきではない。こう考えれば、より人間的、より感情的な演奏ができるのではないかと思っています。

─ 長時間ありがとうございました。CDもコンサートも楽しみにしています。

(2022年11月15日転載終)
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(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)
2022年11月14日投稿
紗矢香さんのインタビュー記事は、毎回新しい視点が入っていて、とても勉強になります。つまり、紗矢香さんがあらゆる面で成長し続けている証拠なのです。

(2022年11月15日転載終)
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カシオーリ氏と庄司紗矢香さんとのデュオに関する過去ブログはこちらを。ちょうど時期が今と重なっていることもあり、なんだか懐かしいです。あれからさまざまなことが起こったけれども、音楽会はついこの間のことのように、鮮明に思い出される点、行けるうちに行っておいて本当によかったと思います。

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20101105)
《今夜、いずみホールでの庄司紗矢香さんとカシオーリさんのベートーヴェンのリサイタル、楽しみです。一足早い誕生日プレゼントのつもりです。彼女だって相当な読書家で、いろいろなものを読んでいます。だから、毎回のインタビューや演奏会が、新鮮でおもしろいのです。前例に囚われずに、新しいことにチャレンジし続ける若い彼女から、多くを学び、励まされています。》

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20101106)
《『音楽の友』2010年11月号の103ページに掲載されていた庄司紗矢香さんの、カシオーリ氏との出会いの喜び、そして彼の家で一週間ほど過ごした音楽三昧の至福の日々を読んでいたので、チケット購入は8月でしたが、とても楽しみにしていました。
舞台でのカシオーリ氏は、いかにもインテリ風で、どこか繊細で神経質そうな風貌。》

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20111018)
《現在録音が進行し、昨年日本でも演奏したジャンルカ・カシオーリ(ピアノ)とのソナタは、遅めのテンポでじっくりと弾かれた印象がある。》

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20121105)
《プロコフィエフの書いた日記などを読むと、本心が書かれているため、とても興味深い。いつも最後にはひとこと皮肉めいたことが記されていて、性格が現れています」》

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20121109)
《11月3日のホテル・ニューオータニでの昼食、いずみホールでの「ウィーン国際音楽祭イン大阪」と庄司紗矢香さんとカシオーリ氏のデュオ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121104)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121105)》

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20121231)
《昼食時、何とカシオーリ夫妻が、すぐ隣のテーブルに我々の後から来て座られた。奥様はサラダのみ、カシオーリ氏はトマト・スパゲティ風を注文していた。黒いジャンパー風の上着を羽織り、やや猫背だった。
実は、夫妻にお目にかかったのはちょうど2年前の同じ大阪いずみホールで、同じく庄司紗矢香嬢とのリサイタルの時だった。》

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20181119)
《庄司紗矢香さんの方は、テミルカーノフ氏との記念盤や、カシオーリ氏との色違い協演シリーズ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%A5%AB%A5%B7%A5%AA%A1%BC%A5%EA)》

(2022年11月15日転載終)
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2022年11月17日追記

(https://www.cdjournal.com/main/news/shoji-sayaka/100656?fbclid=IwAR1tfniqx_PNOhJBtHtbjUHPtJhdC45Vs2TISk4nR_J3q4Gs9seCp0crPSA)

庄司紗矢香、ジャンルカ・カシオーリと録音したモーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ集を発表
2022年11月16日

ヴァイオリン奏者の庄司紗矢香が、ピアニストのジャンルカ・カシオーリとふたたびタッグを組んで録音した新作『モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ集 VOL.1』を11月16日(水)に発表しました。2022年5月、イタリア・モンドヴィの教会「Sala Ghislieri」でのレコーディング時に撮影されたヴァイオリン・ソナタ第35番第2楽章のショート・ミュージック・ビデオがYouTubeで公開中です。

 コロナ禍でコンサート活動がままならなかった時期に庄司はモーツァルトをはじめとする18世紀の古典の文献を研究。その探求の旅を経てレコーディングに臨んだ庄司は、古典派当時の楽器に倣い、ガット弦とモーツァルト時代のクラシック弓を使用し、カシオーリはフォルテピアノを演奏しています。とはいえ、けっして懐古的ではなく、モーツァルトの音楽を表情豊かに、いま生まれるものとして伝えることを主眼として制作されました。

 また、本作は通常盤CDのほかSACDハイブリッドでも発売され、ハイブリッド盤のSACD層にはステレオ音源と4.0chのサラウンド音源が収録されています。

 さらに、庄司とカシオーリは12月1日(木)の京都・青山音楽記念館バロックザール公演を皮切りに、7年ぶりとなるデュオ・リサイタル・ツアー〈庄司紗矢香&ジャンルカ・カシオーリ デュオ・リサイタル〉を全国8ヵ所で開催。新作収録曲も披露する予定です。

(2022年11月17日転載終)
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2023年4月21日追記

(http://twitter.com/ituna4011/status/1649356286084157441)Lily2
@ituna4011
庄司紗矢香 Ⅰ 16歳のバイオリニスト 前編 https://youtu.be/rtoUFuwal0c via
@YouTube
懐かしい!テレビ録音して、繰り返し見ていたのはいつの日か?
7:15 PM · Apr 21, 2023

(http://twitter.com/ituna4011/status/1649363975770091520)
Lily2@ituna4011
庄司紗矢香 Ⅲ I am music 前編. https://youtu.be/JGDeQCLwkM0 via
@YouTube
☚ この映像も懐かしい。テレビ録画して、何度も見ていたのは、自分への勇気づけと鼓舞のためだった。
7:46 PM · Apr 21, 2023

(https://www.youtube.com/watch?v=ZhwoKYegNOc)

☚この映像は2009年のことだったのですね?
確か平日の夜だったと思いますが、勿論、大阪フィルとのリゲティのコンチェルトを、大阪のシンフォニーホールまで一人で聴きに行きました。その後、テレビで放映された東京でのリゲティの演奏会も録音して、何度も繰り返し見ていました。

あの頃は、マレーシア研究テーマも、資料だけは先に集めて本も読み込んで、口頭発表だけは毎年続けていたものの、論文書きまでいくには反応がいまいち、という状況。早く論文をまとめて落ち着いて家庭生活を送りたい、と願いつつも、なかなか….。主人の病状はまだ何とかなっていたものの、焦りと葛藤と鬱屈と緊張と不安の連続で、毎日がのっぺりと平板に下降していく心境。

そんな自分に刺激を与え、奮い立つためには、庄司紗矢香さんが一番しっくりしていた。小柄な若い日本女性が果敢に自分の道を切り進み、常に新鮮で柔軟な視点で勇気をもって大胆に前進している姿を繰り返し映像で心に焼き付けていたのだ、と思う。

実際に、これまで関西での演奏会に何度も行き、目の前で紗矢香さんにおめもじする機会もたくさんあった。ある時には主人がチケットを用意してくれ、一緒に出掛けた。また、ある時には「行っておいで」と、寛大にも夜10時近くに帰宅するような演奏会行きを自由に許してくれた。

紗矢香さんは、1999年に16歳でパガニーニ国際音楽コンクールの日本人初の優勝者として脚光を浴びたニュースの時以来、我が家にとってなくてはならない演奏家の筆頭格となった。CDも大半は揃えたし、彼女が読書好きだということも励みになったし、インタビューで話していた本、とりわけミラン・クンデラの数冊を夢中になって読んだことも思い出深い。

同時代に生き、同じ演奏会場で同じ時を紗矢香さんの音楽と共に何度か一緒に過ごした主人は、今や姿が見えなくなって3年以上になる。一方、紗矢香さんはますます深化し成長した演奏を国内外で順調かつ活発に繰り広げている。そして私も、思い出を一つ一つ塗り重ねながら、慰霊の旅としての暮らしを同じ地で続けている。

(2023年4月21日転載終)

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伊丹で高槻・茨木の史実を学ぶ

毎年11月は、伊丹市文化財保護啓発事業として、総合教育センターやことば蔵や長寿蔵や埋蔵文化財センター等で、講座や講演会や展示や市内散策等の企画が目白押し。

私にとっては2018年9月28日に伊丹市に転入して、家の片付けもそこそこに、広報伊丹で知った街歩きのプログラムに参加。昆陽寺での講演会の時、ケーブルテレビで取材を受ける等、伊丹での暮らしの導入としては随分タイミングよく、想像以上に充実したチャンスに恵まれました。

今年で早くも5回目になります。

11月12日には、「荒木村重と摂津の武将-高山右近vs中川清秀」と題する講演会に出席。
高山右近については、高槻城とキリシタン大名で有名ですが、キリスト教側の語りと世俗的な歴史学の語りは当然異なっていて、前者は比較的つまらないです。マニラに追放された高山右近なので、為政者に敵対的な態度が貫かれており、本当のところはどうだったのかが曖昧になっているからです。

ともかく、伊丹に来たら広い兵庫県内の話ばかりなのかと思いきや、案外に結婚以来21年以上暮らしていた島本町(大阪府)や関わりのあった隣接都市(高槻市・茨木市)の歴史がこんなに学べるとは、予想もしておりませんでした。逆を言えば、島本に留まっていたとしたら、相変わらずのっぺりとした時空間をゆるゆると漂っていただけに終わっていたことだろうと思うのです。島本を離れたからこそ、逆に相対的な目で外からも内からも学べるというわけで、伊丹に居を定めて正解だった、とつくづく思っております。

転勤が決まった頃、最初は西宮市の阪急西宮北口に接するタワーマンションを会社の社宅として勧められ、7月半ばの酷暑に、他の社員の方達や主人と一緒に、見学に行きました。
ホテルのように洒落た造りで、きれいでしたが、案外に狭く、壁が丸くなっていて、家具を置くのに不安定だったことと、やはり家賃が折半とはいえ、今暮らしているところよりも5万円程高かったので、遠慮しました。仮にそこに住むことになっていたとしたら、今頃、私の生活はもっと単調だったことでしょう。例えば、買い物は出かけるのではなく、生協の車が届けに来て、ただエレベーターで降りて受け取るのみ、あるいは、いきなりショッピング・モールで華やかな買い物のみ、あとは家で荷物の整理だけで終わっていただろうと思うのです。せいぜい、近くの芸術文化センターへ演奏会に行く程度だったろうと思います。

西宮は伊丹よりも面積が広いこともあって、伊丹のようにコンパクトにまとまり、凝集した形で歴史を隈なく学べるというわけではなさそうです。

本当にいい時間の過ごし方が見つかって幸いです。

最近、入手した資料一覧を以下に。

歴史街道推進協議会事務局街道ウォーキングマップ 西国街道
島本町教育委員会島本町文化財調査報告書 第21集 離宮八幡宮社家 松田家文書調査報告書』(平成24年3月
島本町教育委員会島本町文化財調査報告書 第38集 離宮八幡宮社家 藤井家文書調査報告書』(令和元年度
大山崎町歴史資料館特別図録 山崎合戦』(平成31年3月
大山崎町歴史資料館第28回企画展 描かれた山崎合戦~秀吉・光秀と合戦像の変遷~』(令和2年10月
大山崎町歴史資料館第29回企画展 大山崎神人と豊臣秀吉~『井尻家文書』の世界~』(令和3年10月
大山崎町歴史資料館第30回企画展 古絵図の魅力-地図で旅する大山崎-』(令和4年10月

以 上
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2022年11月15日追記

(https://twitter.com/ituna4011/status/1591437723566764032)
Lily2@ituna4011
はい、島本には潜在力があります!
11:28 PM · Nov 12, 2022

(https://twitter.com/ituna4011/status/1592176994741280769)
Lily2@ituna4011
過去20年以上、暮らしておりました。史跡遺産の啓発活動、よろしくお願い申し上げます。
12:25 AM · Nov 15, 2022

(2022年11月15日転載終)

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アーユルヴェーダのムクナ豆

(https://twitter.com/ituna4011/status/1591722621359788033)
Lily2@ituna4011
ちゃつみさん、ムクナ豆をご存じですか? ドパミンを含む食品で、古代インドのアーユルヴェーダでも使用されていたそうです。 今、有機粉末がアマゾンでも買えます。 今年5月から、私は毎朝のコーヒーに黒ゴマと小さじ半分のムクナ豆粉末を入れて飲んでいます。 憂鬱感や疲労感が全くなくなりました。
6:20 PM · Nov 13, 2022

(https://twitter.com/chatsumi6151/status/1591731037318844416)
chatsumi(ちゃつみ)@chatsumi6151
Replying to @ituna4011
はい! パーキンソン病を知るまで全く縁遠くに思っていました。むくなまめを食べるときエルドーパ系の薬の効き目がなくなると言われています。そうかこちらに効果があるのですか?
6:53 PM · Nov 13, 2022

(https://twitter.com/ituna4011/status/1591732768404541440)
Lily2@ituna4011
御主人がムクナ豆を試すならば、まずは主治医と相談です。 Lドパのパーキンソン薬で副作用が出て困っている患者さんには、食品であるムクナ豆を代用している例があるそうです。但し、友の会で聞いたところでは、ムクナ豆で頭痛がする、という人もいました。 私は患者ではないので、粉末を少々、毎朝。
7:00 PM · Nov 13, 2022

(https://twitter.com/chatsumi6151/status/1591737660124835841)
chatsumi(ちゃつみ)@chatsumi6151
Replying to @ituna4011
薬でドーパミンを増やすよう働きかけるところを同じドーパミンを増やす効能があるむくな豆を使うとかえってドーパミンが増えなくなってしまうそうで。ムクナ豆はパーキンソン病になった当初に深海水と同時に話題になったものです。豆の栄養素は朝採りで30分以内に茹でないと効果が出ないと聞いています
7:20 PM · Nov 13, 2022

(https://twitter.com/ituna4011/status/1591741032508821504)
Lily2@ituna4011
さすがは詳しいですね。 私は、今年になってから知って、主人に試してあげればよかったかしら、と思いました。 私には有効です。ただし、朝のコーヒーに小さじ半分以下です。豆ではなく、粉末です。 ドパミンを体内で作る食品もありますね?うちは、チーズをおやつにしていました。
7:33 PM · Nov 13, 2022

(2022年11月14日転載終)
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埼玉にご在住の「ちゃつみ」さんとは、2019年12月半ば、うちの主人が隣市の病院に救急入院した頃にブログ上で見つけ、それ以来、ツィッターで交流させていただいています。
大変に頑張り屋さんで、いろいろと不自由な中、コツコツと勉強して資格を次々取得されています。パーキンソン病に関する情報は、彼女の方が速く、新しい知識が多いです。
私も励まされつつ、頑張りたいと思います。

(2022年11月14日記)
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2023年8月19日追記

(https://twitter.com/ituna4011/status/1692860159939502355)
Lily2@ituna4011
いろいろ症状出ていますね? 人それぞれですが。 ちゃつみさん、どうかお疲れの出ませんよう。
8:24 PM · Aug 19, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1692861318418821487)
Lily2@ituna4011
DBSですね? いろいろ副作用が出るそうです。 どうぞお大事に。
8:29 PM · Aug 19, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1692861904895819938)
Lily2@ituna4011
頑張り過ぎないよう、休憩も入れてくださいね。
8:31 PM · Aug 19, 2023

(2023年8月19日転載終)
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2023年8月20日追記

(https://twitter.com/ituna4011/status/1693028779126620486)
Lily2@ituna4011
遠くから見守っています♪
7:34 AM · Aug 20, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1693085618539262012)
Lily2@ituna4011
励まし合っていきましょう! ちゃつみさんは有資格者の介護プロ中のプロ、そして実践者として…..。 私は過去の経験から、ちょっとだけお先に「先輩づら」して….
11:20 AM · Aug 20, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1693259733010985084)
Lily2@ituna4011
ちゃつみさんは頑張り屋さんです。
10:52 PM · Aug 20, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1693260738155188701)
Lily2@ituna4011
私、三年以上経った今でも思いますけれど、PD関係者はご本人も家族も皆、声を上げないと、なかなかわかってもらえない面が大きいです。病名が知られていても、現状はわかった気にされているだけだ、と思います。 普段から緊張度の高い生活をされているし….。 イラっと来るのは当然ですよ。
10:56 PM · Aug 20, 2023

(2023年8月20日転載終)
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2023年8月23日追記

(https://twitter.com/ituna4011/status/1693497756286161293)
Lily2@ituna4011
大変ですが、無理せず、できるところから。
2:38 PM · Aug 21, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1693545134678561179)
Lily2@ituna4011
そうですね。長い目で見て、無理せず。 言われないとわからない人も増えてきました。
5:46 PM · Aug 21, 2023

(2023年8月23日転載終)
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2023年9月15日追記

(https://twitter.com/ituna4011/status/1701917786069692584)
Lily2@ituna4011
大変ですね。読ませていただきながら、かつての自分達を思い出しています。うちは、遥かに軽度でしたが。
8:16 PM · Sep 13, 2023

(2023年9月15日転載終)
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2024年3月11日追記

(https://twitter.com/ituna4011/status/1767039090007106009)
Lily2@ituna4011
そうですね。PDって、周囲のちょっとした一言や雰囲気で体の動きがガラッと変わってしまうんですよね。だから、周りの不用意な一言で急に体が固まってしまうなど。逆に言えば、楽しみや好きなことを増やせば、自動的に動くようにもなる、ということでしょうか。食べられるうちが肝心です。
1:05 PM · Mar 11, 2024

(2024年3月11日転載終)

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極左と学園紛争

(https://www.npa.go.jp/hakusyo/s63/s63index01.html)

昭和63年 警察白書
「テロ、ゲリラ」の根絶を目指して

第1節 極左暴力集団等の変遷
 1 極左暴力集団の草創期(昭和32年ころから41年ころまで)
  (1) 極左暴力集団の誕生
  (2) 高揚する学生運動
 2 活発な街頭武装闘争(昭和42年ころから46年ころまで)
  (1) 暴走する極左暴力集団
  (2) 荒れる学園
。。。。。。
第1節 極左暴力集団等の変遷

1 極左暴力集団の草創期(昭和32年ころから41年ころまで)

(1) 極左暴力集団の誕生

 極左暴力集団は、現在では、多数のセクトに分かれているが、これらは、その成立の経緯や指導理論等から、革共同系、共産同系、革労協系、構造改革派系、親中共派系の主要5グループと、アナーキストグループ、ノンセクト・黒ヘルグループに大別される。このうち、主要5グループの源流である革共同(革命的共産主義者同盟)、共産同(共産主義者同盟)、革労協(革命的労働者協会)、構造改革派、親中共派は、昭和32年から41年の間に相次いで生まれた。

ア 革共同、共産同の誕生

 日本共産党は、終戦後、「愛される共産党」を標ぼうするとともに、占領下での「平和革命」への可能性を主張し、戦後の混乱期に乗じて勢力の拡大に努めた。しかし、この主張は、25年、コミンフォルムから痛烈な批判を受け、これに端を発する党内分裂後再び党の統一を回復した26年には、第5回全国協議会を開催して、平和革命論を否定し暴力革命唯一論を採る「51年綱領」を採択するとともに、軍事方針を決定し、軍事組織の結成と暴力的破壊活動の展開に力を注いだ。
 しかし、その後、日本共産党は、武装闘争戦術の行き詰まりとこれに対する反省から、30年、第6回全国協議会を開催してそれまでの戦術を自己批判し、戦術転換を図った。
 また、31年には、ソ連共産党第20回大会において、スターリン批判が行われるとともに、米ソ平和共存路線が打ち出され、これを契機に、ポーランド暴動、ハンガリー暴動が発生した。
 これらの出来事を通じて、日本共産党の軍事方針を忠実に守り、火炎びん闘争等の前面に立ってきた党員やその同調者の間には、絶対無誤謬の存在とされていた党に対する不信が生ずるとともに、マルクス・レーニン主義への懐疑から、スターリンの対立者であったトロツキー(注)を評価する気運が生じた。また、日本共産党を唯一の前衛党とする従来の考え方が根底から覆され、独自の前衛組織を作ろうとする運動論が主張された。
 こうして、32年1月、トロツキズムを信奉する元日本共産党員らが、我が国初めてのトロツキスト組織として、日本トロツキスト連盟を結成し、同年12月には革共同に改称して、学生運動の中に浸透を図っていった。

(注) レオン・トロツキー(1879~1940)は、レーニンとともにロシア革命の指導者であるが、レーニンの死後、スターリンとの権力闘争に敗れ、国外に追放され、1940年8月、メキシコで暗殺された。スターリンの一国社会主義革命論に対し、永続革命(世界革命)論を主張した。

 また、全学連(全日本学生自治会総連合)は、23年の結成以来日本共産党の指導、影響下にあったが、このような中で、日本共産党の路線の変更等に不満を持つ党員が主流派を占めたため、ことごとく日本共産党中央と対立するようになった。そして、33年6月には、党中央が招集した全学連大会代議員グループ会議において、全学連主流派党員が会議を制して党中央委員全員の罷免を要求するなどし、対立は決定的となった。これを契機に、多数の全学連主流派党員が日本共産党から除名され、あるいは自ら離党するに至ったが、これらの学生活動家は、部分的にはトロツキズムを評価しながらも革共同には参加せず、33年12月、独自に共産同を結成した。

イ 構造改革派の誕生

 日本共産党は、第6回全国協議会後、新しい綱領作りをめぐって激しい論争を続けていたが、36年7月、構造改革路線(注)を主張する少数派が党を離れて、新組織を結成し、さらに、その後、当時の中ソ対立に際し、中国共産党寄りの路線を採った日本共産党中央の方針に反対して除名された元中央委員らも、この一部と合流して、新組織を結成した。これらの組織は、当初構造改革路線を採っていたことから、構造改革派と呼ばれていたが、44年ころから、その多くが、若手急進派の台頭により、過激路線に転換した。

(注) 構造改革路線とは、イタリア共産党のトリアッチ書記長が唱えた革命路線であり、民主主義の拡大、経済の民主化を通じて、社会主義への道を切り開くという考え方である。

ウ 親中共派の誕生

 いったんは中国共産党寄りの路線を採った日本共産党も、40年のインドネシア共産党の武装蜂起(「9.30事件」。中国共産党の強い指示の下に計画され、実行されたと言われる。)と政府軍による鎮圧に強い衝撃を受けた。その後、ベトナム戦争が激化し、また、中国において「文化大革命」が進行する中で、ソ連との関係、あるいは日本における革命の手段、方法等をめぐって中国共産党と日本共産党の意見対立が深まり、ついに、41年春の宮本顕治・毛沢東会談の決裂により、日本共産党は、中国共産党との関係を断絶し、「自主独立」路線を採るに至った。
 この路線転換を批判して除名された元日本共産党員らは、41年以降、各地で新組織を結成した。これらの組織は、中国共産党や毛沢東思想を支持していたところから、親中共派と呼ばれた。

エ 革労協の誕生

 35年に日本社会党の指導により結成された日本社会主義青年同盟(社 青同)には、共産同系の活動家が「加入戦術」(注)に基づいて多数潜入していたが、これらの活動家は次第に勢力を伸ばし、40年には社青同解放派を組織して共産同から独立し、さらに、44年には革労協を結成した。

(注) 加入戦術とは、トロツキストが自らの組織を作るに当たって、初めから一つの党派を標ぼうしても多くの同志を結集できない場合、まず、他の政党、大衆団体の中にもぐり込んで、次第に勢力を広げ、ついにはその組織を乗っ取るか、その組織から出て自らの独立した組織を結成するという戦術である。

(2) 高揚する学生運動

 誕生後間もない極左暴力集団は、学生運動の中に次第に勢力を拡大し、昭和33年、全学連の主導権を握った。極左暴力集団に指導された全学連は、社会主義実現を目指す闘争を重点に活動するようになった。特に、実力行動を重視する共産同が主導権を握った34年からは、翌年に予定された日米安全保障条約の改定を「本格的軍事同盟への改変」ととらえ、その反対のための闘争を「日本帝国主義に対する闘いであり、社会主義革命への突破口をなすものである」として、これに強力に取り組んでいった。  

2 活発な街頭武装闘争(昭和42年ころから46年ころまで)

(1) 暴走する極左暴力集団

 「革命の起爆剤」を自認する極左暴力集団は、昭和40年代には、45年の安保改定に照準を合わせ、世界的なスチューデント・パワー(注)の高揚とベトナム戦争をきっかけにした反戦、反米気運や、学園紛争の中から生じた反体制ムードの高まり等を背景に、一般学生や青年労働者等を巻き込んで長期にわたる過激な「70年闘争」を展開した。

(注) 43年から44年にかけては、フランスの5月危機を招いたパリ大学生の学制改革への参加要求闘争、米国のカリフォルニア大学を中心とした反戦、反軍、反人種差別闘争をはじめ、英国、イタリア、中南米諸国において学生による激しい闘争が展開され、それぞれの国の治安を揺さぶった。

 
(2) 荒れる学園

 昭和40年1月、慶応大学の授業料値上げ反対闘争に始まった学園紛争は、43年には、全国大学377校中116校に波及し、44年には、379校中173校を数え、そのうち149校でバリケード封鎖や施設占拠が行われた。
 学園紛争は、もともと「学園の民主化と改革」をスローガンに、授業料値上げ問題や学生寮、学生会館問題等学園内の個別的要求の実現を目指して始まった。ところが、42年の明大紛争、法大紛争等を契機に、極左暴力集団が、学園紛争を革命闘争の一環として位置付けて、本格的に介入し始めたことから、学園紛争は、特に、43年の東大紛争、日大紛争以後、「70年決戦に向けて大学を解体していく」ことを主眼に、その本質を一変させ、全国に波及していった。また、紛争形態も、極左暴力集団の革命の論理と暴力至上主義に立った指導の下に、バリケード封鎖や施設占拠といった過激なものに変容していった。
 学園紛争は、その多くが、紛争の過程において既成のセクトや自治会の枠を超えて自然発生的に生まれた共闘組織である大学単位の全共闘(全学共闘会議)により担われていたが、この中から、既成のセクトに属さないノンセクト・ラジカルズと呼ばれる新たな極左暴力集団が生まれた。
 このような全共闘運動に対し、既成の極左暴力集団各派は、積極的に介入、浸透を図り、次第にその主導権を握った。44年9月には、革マル派を除く主要8派が全国全共闘連合を結成し、その名の下でノンセクト・ラジカルズと共闘していった。
 また、学園紛争は、折から高揚する「70年闘争」に出撃拠点を提供する役割をも果たした。
 極左暴力集団は、「学園紛争を、学園バリケード、学園管理で闘いぬき、学園を70年安保・反帝闘争の陣地に転化しなければならない」と主張し、学園を「城砦」化するなどの「陣地戦」を繰り広げ、さらに、これを出撃拠点や武器庫として学外の「街頭戦」を展開した。当時、紛争大学の校内には、石塊や火炎びんだけでなく、鉄棒、竹やり、投石機や塩酸、硫酸等の劇薬類も隠匿、貯蔵されていた。
 「陣地戦」と「街頭戦」を結合したものとして、44年1月18、19日には、東京大学安田講堂の封鎖解除に対する「安田城死守」戦と、これに呼応した神田駿河台一帯での「カルチェ・ラタン闘争(パリの学生街カルチェ・ラタンで行われた解放区闘争を模倣したもの)」を展開した。
 しかし、警察が極左暴力集団に対する強力かつ徹底した取締りを実施したこと、大学の著しい荒廃に対して国民の批判が高まり、44年8月に「大学の運営に関する臨時措置法」が施行されたこと、これに伴い、大学当局も学園正常化のため大学の管理に乗り出し、警察に対する学内出動を要請するに至ったことなどにより、学園紛争は急速に鎮静化し、極左暴力集団の「城砦」は相次いで崩壊した。

3 孤立化、先鋭化する極左暴力集団(昭和46年ころから54年ころまで)

 「70年闘争」は、学園紛争とあいまって、政治や社会の現状に不満を抱く多くの学生や労働者を巻き込み高揚した。しかし、極左暴力集団に同調したこれらの者も、警察の強力な取締り、火炎びんや爆弾まで登場して闘争が際限なくエスカレートすることへの危ぐ、革命を叫ぶ極左暴力集団との意識のギャップ、あるいは繰り返される派閥抗争への失望等から次第に脱落していき、極左暴力集団の勢力は、昭和44年をピークに漸減していった。また、世論の批判も厳しさを増し、極左暴力集団は、社会的にも孤立化していった。

(2022年11月13日転載終)
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2022年11月17日追記1

昨日、古本でアーサー・G・ギッシュ(著)榊原巌(訳)『新左翼とキリスト教的ラディカリズム平凡社1973年)が届いた。
アナバプティストという再洗礼派の日本人研究者が訳した本で、発行年から学生運動の余波が残っていた時代である。

これを入手した遠因は、私がマレー語訳聖書の問題を研究テーマとしていて、話の繋がりそうな場や人を探し求めていた頃、カトリック・プロテスタント問わず、キリスト教が著しく政治的に左傾化していること、あるいは元学生運動家が牧師となって社会変革を試みている動態に気づいたことである。近因は、キリスト教系大学の神学部の教授だった知り合いの人達が、退職した今でも、反体制派の少数派として、新しい肩書をもとに、神戸や東京で活動を続けている実態を知ったことである。

この人達は、とにかく議論好きで対決志向。オルグを作って次々と思想活動はするのだが、私には全く合わなかった。恐ろしいと思っていた。

私の研究が現実のマレーシアに根付いた問題であり、現地資料もインタビューも重ねた上での発表内容なのに、黙って聞いてはいても、反応が隔靴掻痒。一向に話が進まないというのか、馬耳東風というジレンマの時を長らく過ごしていた。30代の頃は私の力不足なのかと思っていたが、むしろ、イデオロギー的にそのような人々にとって都合が悪いか、無関心だったことが理由だった。

うちの主人や亡父は、そんなことも知らずに、私の大学での非常勤の仕事が2003年に舞い込んできた時、本当に喜んでくれていた。
もっとも、二人とも大企業の専門職としての勤務だったこともあり、「基督教の人は変なことを言っている」と父は言っていたし、「なんか共産党みたいなこと言っていて、気が抜けるなぁ」と主人は言っていた。でも、関西で仕事が見つかったことは、私の今後にとっても道が開ける吉報だ、と思っていたのだった….。

では、私のような立場の研究は、本来、どこで発表すれば通用したのだろうか?
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本書の「付録(三)訳者跋文」(pp.252-271)には、今も「現役」として活動している学生運動世代のキリスト教の実態が垣間見える。

・内ゲバの頻発で混乱の極に達している日本基督教団内の指導的な信者層の一グループから、混乱の真相を聴取する(p.256)
・SCM(学生キリスト者運動)は、当時のキリスト教界の社会的保守主義に対する青年たちの抵抗運動であった。(p.256)
・YMCA同盟出版部(p.256)
・この対立、睨み合いが、はからずもエスカレートして、爆発、炎上したのが教会の万博参加の是非を論ずる論争であり、しかもそれが、民主的な話合いを排して暴力に訴え、無理やり、礼拝を妨害し、教会の存在を危殆におとしいれ、教団総会の開催を阻止するところまでいってしまったのである。これが、日本基督教団の現状といってよい。(p.257)
・暴力行使が、学生運動におけるゲバ活動の影響をうけて、いまや教会内にまで浸透して来ている(p.257)
・WCCなどは、いまでも、キリストはこの世の主であるといった標語をかかげて、沢山のキリスト者を動員している。(p.265)
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原著者のアート・ギッシュ(本名Arthur G.Gish)は1939年生まれで、2010年7月にオハイオにある自分の農場のトラクターに轢かれて死亡している。ベトナム戦争とイラク戦争に反対した他、1995年からイスラエルの西岸ヘブロンにあるイスラエルの戦車前で立つ等、反戦平和主義の社会運動家のようである。何冊か本を出しているが、アマゾンによれば、あまり賛同者がいないようで、コメントもない。

訳者は、明治31年生まれで平成6年(1994)の逝去である。明治、大正、昭和、平成と激動の日々を経済学者として過ごされた。青山学院大学名誉教授で、社会党から出馬して落選。妻は、社会党の衆議院議員で、フェリス和英女学院や『婦人の友』とも関わっていらしたらしい。

その息子は、2016年に逝去されているが、ヒッポファミリークラブの設立者。東京神学大学を中退して、言語の活動で身を立てていらしたようだ。東京言語研究所を設立し、初代所長には音声学の服部四郎、そして、ローマン・ヤーコブソンやノーム・チョムスキーを招待された。

その孫娘は、四人の女性の名を一つにしたペンネームの一人で、「朝鮮語を学び、1989年新潮社より『人麻呂の暗号』を刊行し、『万葉集』は朝鮮語で読み解けると主張」したが、「中西進、西端幸雄、安本美典らの批判を受け、遂に「トンデモ本」と認定された」と、ウィキペディアにある。
。。。。。
このように、私の学生時代には勢いのあった社会党だが、今やさまざまな事態が明らかになり、すっかり少数派に転落している。もともと理論そのものが間違っているのだから、そこに若いエネルギーを投入してしまうと、本当に人生、路頭に迷うことになる。

だが、今も活動を続けているキリスト教系の人達は、私が想像するに、恐らくは韓国経由で北朝鮮と繋がっていたり、中国人脈と繋がっていると思う。
敗戦は、この種の人々には「日本を社会改革する」ための良い契機であった。
少数派であることは、国民の大半に受け入れられていないということである。しかしながら、この人々は、そこに「真理性」を見出しているかのようである。

(2022年11月17日記)
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2022年11月17日追記2

上記本の最も典型的な記述は、スポック博士にある。

「かれらは40年代の末期と50年代に成長し、民主的な家庭で育てられた。かれらはみなスポック博士(Benjamin Spock)の子供だといってよい。この民主的な道具立ての中で、両親の権威に挑戦することをさえ自由だと感じており、しかも、これがしばしば成功したのであった。」(p.18)

「ドクター・スポック Dr. Benjamin Spock。1903年生れの医師で、教育者。育児に関する最高の権威者である。その公刊した数々の育児書は、アメリカの母親を魅了し、その信仰とさえなっているといってよい。日本訳もある。その印税は莫大な所得の源泉となり、今日では、大統領選挙へのかれの出馬説さえ、ゴシップの種となっている。」(p.230)

一方、拙ブログでは、このスポック博士の育児書に関する日本発の反論を記した。フェイスブック上の「share」は結構高い。

2018-05-13「スポック博士」の育児書(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20180513)

《皇后陛下が「ナルちゃん憲法」の参考にされたとも見聞したが(河原敏明『美智子さまと皇族たち』講談社プラスα文庫(1993/1996年)pp.88-89, 友納尚子『雅子妃ー悲運と中傷の中で』文春文庫(2008年)p.45)》
《1960年以来、暴力犯罪率は3倍以上になった。アメリカでは、一世代前には聞いたことのなかったような凶悪犯罪が毎日のように報道》
《私たちの国は深刻な道徳的衰退状態にあり、その退廃傾向には停止する気配がない。》
《スポック博士の解決策は人間の本質を全面的に無視したものであり、子どもたちの自尊心を過剰なまでに増長させるものだった。家庭は自己陶酔と権利者意識と犠牲者意識の温床となった。》
《スポック博士自身も学生運動に参加し、1968年には逮捕されていた。1972年、社会主義的傾向の強い人民党の候補者としてスポック博士は大統領選挙に参加した。このときスポック博士の偏った育児論が問題視された。》
《1946年以来、自己愛と反権威主義を助長する子育て論が標準的な規範として高学歴社会に受け容れられていった。アメリカの快楽主義の根源をたどっていけばスポック博士に行き着く。》
《権力に対して反抗的な態度をとる大人を育てることこそがスポック博士の目的だったのである。》
《スポック理論に共産主義の臭いを感じるのは私だけでしょうか。》
《『スポック博士の育児書』の日本語版が出たのは、昭和41(1966)年だった。全国の大学で学園紛争が広がる3年前であった。この本は『育児書』と銘打ちながら、反戦・平和、フェミニズムの擁護、資本主義への懐疑など政治的主張が書かれており、当時の反体制的雰囲気にアピールしたのである。》
《スポック博士の育児論は、ジョン・デューイの教育思想を具体化したものだが、デューイ自身がスターリン独裁化のソ連を旅して、浮浪児たちが収容学校で共産主義を叩き込まれる姿に感銘を受けるような人物》
《昭和41年に『スポック博士の育児書』がわが国で東大医学部の高津忠夫教授(当時小児科)によって翻訳され、医者やインテリ層の子どもがこの育児書で一斉に育てられました。》
《55年には、厚生省が小林登東大医学部教授(当時・海軍兵学校七十二期出身)の指導のもとに『スポック博士の育児書』を100%母子健康手帳に導入しました。その二年後の57年から急激にアトビーなどの難病が増えており》
《美智子(当時の)妃殿下は、スポック博士の育児書に従って、今の皇太子殿下を教育なさったそうである。このスポック博士は、わたしのこどものころ、実によく流行したので、覚えている。晩年は、あれだけ世界中に本を売ったのに、貧窮して、この世を去ったという報道が数年前になされていた。》
《スポックは、彼の育児書を「自信を持ちなさい」ということばで書き始めている。皮肉にも、彼が実際に母親たちを指導すると、母親たちはすっかり自信を失ってしまったのである。さらに、子どももまた問題を抱えて育つことになってしまった。》

(2022年11月17日記)
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2022年12月5日追記

上記のスポック博士の育児書について、「皇后陛下が「ナルちゃん憲法」の参考にされたとも見聞した」と記した。勿論、美智子上皇后陛下のことである。
奥野修司(著)『美智子さまご出産秘話』朝日文庫(2019年10月)によれば、以下のように記されている。

「美智子妃は育児書のバイブルともいわれた『スポック博士の育児書』も読んでいたという。この育児書が日本語に翻訳されるのは昭和41年だから、このとき美智子妃が読んでいたのは原書である。」(p.217)

(2022年12月5日記)
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2024年10月8日追記

(https://x.com/ituna4011/status/1843033480260915621)
Lily2@ituna4011
日本赤軍とWCC.
5:59 AM · Oct 7, 2024

(2024年10月8日転載終)

Posted in Christianity, Japanese culture, research topics, Richard Pipes, © 2024 by Ikuko Tsunashima-Miyake | Leave a comment