傍迷惑な思想が出版や映像メディアで喧伝されているのに、その隠された意図にも気づかずに、みすみす望んで影響されて、本来の日本の家庭の在り方を崩壊させているタイプの、今70代から80代ぐらいの日本女性達。私の母親世代だ。
恐らくは、著しく左傾化したテレビや新聞を中心に情報を取り入れて、「今はそういう時代だから」と無理やり納得して、「世の中に遅れないように」とスマホで絵文字を使って、幼い文章を綴っているのではないだろうか?
本当に気を付けなければならない。以下は、戒めとして転載を。
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(https://twitter.com/ituna4011/status/1571711389181546497)
Lily2@ituna4011
以下のブログ・コメント、ほぼ同感。アマゾンのコメントとは違って、読める。
1:02 PM · Sep 19, 2022
(2022年9月19日転載終)
。。。。。
(http://kanon1211sukefuji.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/youko-00e9.html)
桐島 洋子 『渚と澪と舵~わが愛の航海記』
冒険譚としては面白い
我が子ならば母の手記、として読んでも感慨深いだろう
しかし・・・・
アタシ的には、著者の傲岸さ、厚顔さにかなりの嫌悪感を禁じえなかった
身内や親しい友人への私信集だから、この人の偽らざる心象が表出しているのだろうし、だからこそ面白い・・・というのもあるだろうけれど
この人の”無鉄砲”な(好意的にいえば”果敢な”)行動の裏にどれほどの人々の尽力や支援があろうか、と思い至れば、そこになんらの感謝も感慨も感じられず、すべてが”自分の力で”開けているかのような強烈な不遜、傲岸の悪臭に鼻を抓みたくなる
人の親になってもなお自分の親のことを様付けで呼ぶような上流階級に生まれ育っているからこそ、その矜持たるや潔し、と思える部分も多いけれど
自分ひとりの力では為し得ないことに関して、平身低頭して他者に助けを請うところから始める庶民とは懸け離れた”(人を)使い慣れ””尽くされ慣れ”感が「連中」などという言葉に透けて見える
このくらいの年代で、”国際的”と目される女性は、森瑶子さんや兼高かおるさんなどもそうだけれど、恵まれた経済力と家柄とを後ろ盾にしている故に、”上から目線”もむべなるかな・・・とは思うのだけれど
彼女たちは、戦後のこの時期確かに”進んで”いる女性なのだろうけれど、現代的な(アタシの?)価値観から観て、どうも”開けた(=リベラルな)”女性とは思われないのだ裸一貫、だけが”生きる力”とも思わないけれど
女であるからこそ守られていること、を”女だてらに”と大きなカン違いし、させるような風潮は、薄れていってこそ真の男女平等に辿り着くのだろう・・・と思う
まぁ、”個人の生き方”としては、ご自身の責任は(他者がそれとなくフォローしてくれているところも少なくはないとしても)ご自身で負っていらっしゃるのだし、結果的には、まぁ良いんじゃないすか?と思うけれど、この自伝を読んで、軽佻浮薄にも”こんな生き方をしたい””こんな生き方のできる世の中になって欲しい”と思い、表面的な行動を倣う女性が増産されるのはちと厄介かもな・・・と、、、、
ま、それも大きなお世話よね
少なくとも、わが娘達には、この人の生き方の良さと、無責任さ、傲岸さを嗅ぎ分けられる女性であって欲しいと思います♪
(2022年9月19日無断転載終)
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上記のブログのポイント。
《著者の傲岸さ、厚顔さにかなりの嫌悪感》
《行動の裏にどれほどの人々の尽力や支援があろうか、と思い至れば、そこになんらの感謝も感慨も感じられず、すべてが”自分の力で”開けているかのような強烈な不遜、傲岸》
《恵まれた経済力と家柄とを後ろ盾にしている》
《どうも”開けた(=リベラルな)”女性とは思われない》
《女であるからこそ守られていること》
《嗅ぎ分けられる女性であって欲しい》☚ まさにそれ。
(2022年9月19日記)
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(https://president.jp/articles/-/22023)
2017年5月15日
子どもを付属品にせず、個性を尊重 桐島かれんのルーツ「放任主義な母」
各界の著名人が、今も忘れえない「母の記憶」とその「教え」について熱く語る――。
世間のどんな声にも動じず、ぶれない母
・桐島 かれん・モデルハウスオブロータス・クリエイティブディレクター
1964年、作家・桐島洋子さんの長女として神奈川県に生まれる。86年、モデルとしてデビュー。以後、歌手、女優としても活躍。93年、写真家の上田義彦氏と結婚、4児の母。自身で起ち上げたブランド「House of Lotus」クリエイティブディレクター。
母が30代のときに半生を綴った本があるのですが、それを読んだのは私が子どもを出産した後。とても衝撃を受けました。アメリカ人の男性と恋をして未婚の母となり、3人の子を養うため活路を求めてアメリカへ……。やはり母はすごいなと思う一方、私はそこまでできるだろうかと考えました。
当時は世間から、「子どもを預けて仕事をしている」とバッシングされ、いわゆるPTAママにとって、母は敵のような存在でした。かたや恋の噂がワイドショーで報じられ、“飛んでる女”ともてはやされても、母はまったく動じません。ぶれずに生きる母の姿を見ていたので、私たちも多感な時期を難なく通り過ぎることができたような気がします。
母の子育ては見事なまでの放任主義ですが、日本に帰国してからの家族4人の生活には工夫がいっぱいでした。お手伝いさんを雇い、どうしても子どもを預けられない日はちょっと良い服を着せて、仕事場近くのホテルへ連れていく。「おとなしく遊んでいて」と言い、私たちは外国人っぽい顔立ちなので「宿泊客の子どもと思われるわよ」と(笑)。母が仕事をしている間はホテルが遊び場でした。天気が良いと山下公園で過ごし、週末はよくみんなで本屋さんへ行きました。「欲しい本を1冊選びなさい」と言われ、子どもたちをそこで“放牧”。数時間、母は本屋内の喫茶店で原稿を書いていました。
母は小学校の入学式や授業参観に来ることもありませんでした。運動会の日は私が3人分のお弁当をつくります。あの頃は家族でお弁当を食べるのが恒例だったので、妹や弟が独りでいないかと心配で、周りの友だちと食べている様子を見ては、ホッとしたものです。
母は忙しかったし、子どもに寂しい思いをさせているともあまり感じないタイプ。とはいえほかの子と違うことで恥ずかしさもありました。水泳の授業で紺のスクール水着を指定されても、母は海外からビキニの水着と花がついたお洒落な帽子を買ってきます。皆にからかわれ、母にワンピースの水着を頼むと、今度は花の刺しゅうがある真っ白な水着に(笑)。ついに私も仮病を使うようになり、母は「紺ならいいのね」とスカート付きの水着を買ってくれました。
そんな母が急に「アメリカへ行こう」と言いだしたのは、私が小学6年生のとき。彼女自身もメディアで何かと騒がれ、過密スケジュールに追われ、1年間の休暇が欲しかったこと。子どもたちを放任していたので、少し向き合いたいという気持ちもあったようです。
家族4人で、1年間のアメリカ生活をスタート
最初の2日間をロサンゼルスのディズニーランドで過ごすと、母はホテルで地図を見ながら「どこに住もうか?」と聞きます。とりあえずニューヨークへと向かい、たまたま出会った人の勧めでマサチューセッツ州のイーストハンプトンへ。美しい自然あふれる街で暮らし始めました。
アメリカの学校でも母は初日から付き添ってくれず、スクールバスで送り出すだけ。それでも母がいつも家にいて、お料理やチーズケーキをつくってくれるのはうれしかったですね。夏休みには長い旅行へ出かけ、いろんなところへ連れていってもらいました。
日本へ帰ってからも夏の旅行は欠かさず、そのクライマックスが「家族卒業旅行」。弟が大学へ入るときに2カ月かけて世界一周したのです。それまでの貧乏旅行とは違い、一流ホテルに泊まらせてくれ「これが大人の贅沢よ」と。母も子育てから卒業したのです。
私たちは「20歳になったら家を出なさい」と母に言われて育ちました。私も20代はモデルやバンドの音楽活動などの仕事がとても忙しく、母にはほぼ10年ほど会わなかったかな。結婚の報告も前日にしただけ。その後、仕事を辞めて子育てに専念すると、また母とよく会うようになりました。
そんなとき母は必ず「何で仕事しないの?」と聞き、「あなたは才能があるのだから、子どもなんて誰かに預ければ何とかなるわよ」と言うのです。私は子どもと向き合いたいという思いが強く、自分の母性に従ってきました。それでも2人目の娘を産んだ頃から、本来自分がやりたかったことがふつふつと湧いてきたのです。子どもたちを連れて海外に雑貨を買い付けに行き、自宅で紹介する仕事を始めました。
いろんな見方があると決して答えを押しつけない母
子育てと仕事を両立するため母から学んだのは、自分ですべて背負わないこと。子育ては母親一人でするものではなく、周りの人に助けを求めることも大事です。私もいろんな大人に育てられたことで多様な価値観に触れることができたのはよかったと思います。
さらに母が偉いなと感じるのは、子どもを自分の付属品にせず、一個人として尊重してくれたこと。親の価値観を押しつけたり、レールを敷くようなこともしないから、私たちはあまりに自由すぎて時々とまどうこともあったけれど、母は絶対に助けない。世の中にはいろんな見方があることを伝えたうえで、「答えは自分で見つけなさい」と。それでもこちらが倒れそうになると後ろで支えてくれる存在でした。
今、私が手がける仕事も、母と世界中を旅するなかで見いだしたものです。旅先で出合う文化や民族に興味が湧き、日常で使われる雑貨にひかれたことが、お店を始めるきっかけになりました。
母はよく人生80年として、それを時計に置き換えて話します。例えば夜中の0時に生まれたら、50歳はちょうど15時のおやつの時間。だから私のテーマは、それまで子育てや仕事に追われていた50代の女性たちにお茶を飲んでほっとひと息つく時間を過ごしてもらうこと。大人の女性が心地よくくつろげるような生活のヒントを提案したいのです。
私も自分の仕事や趣味をさらに楽しみたいし、80歳になった母にはワクワクするような夜の時間を満喫してほしい。今、母は食後のブランデーを堪能している頃でしょうね。
(2022年9月19日無断転載終)
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上記から。
《個性を尊重》《どんな声にも動じず、ぶれない母》《PTAママにとって、母は敵のような存在》《見事なまでの放任主義》《お手伝いさんを雇い》《子どもに寂しい思いをさせているともあまり感じないタイプ》《「家族卒業旅行」》《2カ月かけて世界一周》《子どもなんて誰かに預ければ何とかなるわよ》《いろんな大人に育てられたことで多様な価値観に触れることができたのはよかった》《80歳になった母にはワクワクするような夜の時間を満喫してほしい》
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(2022年9月19日記)
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(https://www.kikoku-benricho.com/interview-26/)
2018年5月インタビュー|桐島かれんさん「働きながら世界を旅する奔放な母が、私の原点」
2018年10月31日
・桐島かれん(きりしまかれん)
1964年、作家・桐島洋子の長女として神奈川県に生まれる。「上智大学」在学中にモデルをはじめ、その後も歌手や女優としてマルチに活動する。現在は「ハウスオブロータス」クリエイティブディレクターとして、自身が立ち上げたブランドも手がける。1993年に写真家の上田義彦氏と結婚し、4人の子を育てる。
・撮影/浜田啓子(浜田啓子写真事務所)
1964年、作家・桐島洋子さんの長女として生まれた桐島かれんさん。家族で世界を旅し、アメリカの現地校に通った経験のある桐島さんに、お母様との思い出、そして子育てスタイルについてお話を伺いました。
どこまでも自由奔放という言葉が似合う母の存在
母の子育ては「放任主義」
普通の家庭に憧れたこともありました
ーまずは幼少期のお話からお聞かせください。
桐島かれんさん(以下、桐島):生まれは神奈川県のとある海岸沿いの街でした。当時、母・洋子は、東京の「文藝春秋」で編集者として働いていましたが、その頃、女性は結婚と同時に退社するのが当たり前。ましてや子どもを産んで働くなんてことはありえない時代でしたから、母は病気のふりをして少し離れた土地で私を産み、1週間後にはそしらぬ顔で職場復帰をしました。内緒にしてまでも出産したのは…「働き続けたい」から。結婚や出産を理由に大好きな仕事を辞めるなんてナンセンスだと思ったそう。未婚の母として経済的に自立し続けるためにも、自分のキャリアを守ることは必須だったのでしょう。
ーお母様との一番古い思い出はなんですか?
桐島:母は私を産んだ1年後に妹を出産すると、妹を預けて私を連れ、1年間放浪の旅に出ました。ロサンゼルスに着いてから、5日間バスに乗り、ノンストップで東海岸を目指しました。当時、私は3歳でしたが、一度も泣き言は言わなかったと聞いています。それが、私の初めての旅行でした。
ー小学校は公立に通われたとのこと。当時を振り返っていかがですか。
桐島:ハーフでしたし、母は有名人で何かと目立っていましたから、地味でいたい、という気持ちは強かったです。それに仕事一筋の母、そして父親のいない家庭で育ちましたから、普通の家庭に憧れました。母は放任主義で「勉強をしなさい」ということもなければ、運動会など学校の行事にも顔を出したことはありません。習い事もせず「塾に行きたい」と恐る恐る聞いても「学校の勉強で十分」とピシャリ。その代わり、週末は家族で本屋に行き、立ち読みをした後は好きな本を買ってくれました。読書好きになったのは母のおかげです。
私と妹、弟は旅をしながら育てられた
「旅をしながら育てられた」と言っても過言ではありません
ー小学校6年生で、再びアメリカに行っていらっしゃいますが、きっかけは?
桐島:もちろん母の意向です。あまりに多忙になっていた母は、自分のための充電と子どもに向き合う時間がほしいからと、40歳を機に仕事を一区切りさせて、私、妹、弟を連れ渡米しました。母はギリギリまでホテルに缶詰めで執筆をしていましたから集合は羽田空港。長女の私がしっかりしなくちゃ、とスーツケースを引きずって向かいました。
ー現地ではどちらの学校に通われたのでしょうか?
桐島:学校は現地校でした。外国人がほとんどいなくて、入学当日、英語のまったく話せない私たちがやってくると、学校はパニック!もちろん母も付き添ってはいません。そこで学校側から母に「通訳をつけてはどうか」と打診の電話があったそうですが、母は「言葉は湯水のように浴びて初めて身に付くのよ」と、これも一蹴したんだそう。そのおかげで、2年弱ですっかり英語を習得できました。学校では、東洋人だということでからかわれたり、いじめられたりしました。人種のヒエラルキーがあることを肌で感じるいい経験をしましたね。アジア人はその頃から、数学が得意で真面目な「ナード(オタク)」というように分類されていましたよ(笑)。
ー再び帰国されてからは、どのような生活を送っていらっしゃったのでしょう?
桐島:子どもたちの英語をブラッシュアップさせたいという母の思いで、中高はインターナショナルスクールに通いました。それまでの環境とはガラリと変わって、私のような子がたくさんいたから、ここではホッとしましたね。「あ、私なんて全然珍しい存在じゃないんだ」と思えました。大学以降も、変わらず母は放任主義。それ以前を振り返っても、忙しい母と会話するタイミングは少なかったのですが、必ず家族が集まれる機会があって。それが、幼少の頃から母が連れて行ってくれる、毎年一、二度の海外旅行でした。「旅をしながら育てられた」と言っても過言ではないほど、母と私たちの関係に旅の存在はつきもの。夏休みには家族それぞれにエアチケットを取る人、宿を手配する人、と役割を与えていろいろな国を訪れました。そんな家族旅行の締めくくりは、弟が高校卒業時に行った12カ国を巡る世界一周旅行。「家族解散旅行(という名前を母はつけいていました笑)」。それまで、いわゆる民泊がメインの貧乏旅行ばかりだったのですが、この時だけはちょっと豪華な旅だったんです。いいホテルに泊まり、弟が進学する大学のあるニューヨークで現地解散。あの旅で印象的だったのが、母の「これが大人の贅沢よ」という一言でした。また来たかったら自分で頑張って稼いで行ってみなさい、と。自分の足で歩いてきた母らしい、子どもへのメッセージだったと思います。
子どもには期待しない。だって必ず育っていくから
4人の子どもたち どんな人間になっても 「こう育ったか」と受け入れたい
ー3女1男を育てていらっしゃる桐島さんですが、どのような子育ての方針をお持ちでしたか?
桐島:母が反面教師となったのか、私は結婚と同時に仕事を休み、どっぷり子育ての世界に入りました。3年おきに4人の子を産んだので、妊娠ないし授乳をしている期間だけでもトータルで12年間。子どもが小さいうちは大変でしたが、とにかく可愛くて。本などの情報よりも本能に任せ、授乳は3歳まで、小さい頃はできるだけ抱っこをして泣かせないように育てました。でも子どもって、幼稚園くらいになるともう立派な人間になっちゃうじゃないですか。そうすると教育をしないといけないから、困っちゃって。だって、私が野生児みたいに育てられましたからね(笑)。自分が「勉強しろ」と言われて育ったわけではないから、私も子どもにそうは言えませんね。なので、なんとなく気にかけてあげて、何かあれば助けてあげる、といった距離感を保っています。進学も就職も、子どもたちの意思が第一。そう思うと、私も母のような放任主義なのでしょうね。ニューヨークの大学に行っている娘となんてなかなか連絡を取らないものですから、彼女がインスタグラムを更新するのをみて「あ、生きてるのね。それならいいわ」と思うくらいです(笑)。
ー最後に読者の方にメッセージをいただけますか?
桐島:私も日本とアメリカを行き来し、文化の違いや言葉の問題で苦労しましたが、英語を習得できたことはこの上ない財産だと思っています。ただ、大学時代に日本語も英語も中途半端だということにコンプレックスを抱きました。その際、片っ端から日本の古典文学を読み漁ったことが、その後生きました。完璧なバイリンガルになるのは難しいので、日本語でも英語でも、第一言語となる言葉に重きを置くようにするといいと思います。言葉というのは所詮ツールです。言葉の背景にある文化を知ることにこそ意味があると思うのです。私は海外での生活や旅を通して、世界のさまざまな文化に深い関心を持つようになりました。それが発展し、今では、世界の民芸や雑貨を扱う店を開いているんですよ。不思議なものですね。
桐島かれんさんの1問1答×10(注:ユーリ抜粋)
❷ 嫌いな言葉は?
「癒し」
★最近の人は癒しを求めすぎ?
❹ どんなときにゲンナリする?
「人種差別などのニュースを見た時」
★偏見のある世界を見ると気持ちが落ち込みます。
❺ 人生でピンチを感じた時は?
「日々ピンチです」
★毎日いろんなピンチの繰り返し!
★Life is like riding a bicycle. To keep your balance you must keep moving.というアインシュタインの言葉があります。人生、倒れないようにするには、走り続けるだけです。
(2022年9月19日無断転載終)
……………….
上記から。
《大好きな仕事を辞めるなんてナンセンスだ》《自分のキャリアを守ることは必須》《私を連れ、1年間放浪の旅》《普通の家庭に憧れました》《「塾に行きたい」と恐る恐る聞いても「学校の勉強で十分」とピシャリ》《母はギリギリまでホテルに缶詰めで執筆》《英語のまったく話せない私たちがやってくると、学校はパニック!》《母は「言葉は湯水のように浴びて初めて身に付くのよ」と、これも一蹴》《アジア人はその頃から、数学が得意で真面目な「ナード(オタク)」というように分類》《変わらず母は放任主義》《「家族解散旅行(という名前を母はつけいて(ママ)いました笑)」》《子どもには期待しない》《本能に任せ、授乳は3歳まで、小さい頃はできるだけ抱っこをして泣かせないように育てました》《私が野生児みたいに育てられました》《大学時代に日本語も英語も中途半端だということにコンプレックス》《第一言語となる言葉に重きを置くようにするといい》
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これなどは、待合室に置いてある雑誌の記事みたいな軽い話だ。但し、長女さんが慎重ながらも、少しずつ正直に告白しているところは、うなづける。だが、桐島洋子さんの文章だけを鵜呑みにして、「憧れる」「真似してみたい」等という女性層が存在した、いや、今でも存在する、というところが、何とも…..。
上記の長女さんによる二つのインタビュー記事は、それぞれ2017年と2018年の同じ5月に構成されている。「2016年5月から雑誌に連載を始めた。だが、その前から旅行中にホテルで部屋が分からなくなるなど異変が現れ」アルツハイマー型認知症と診断された、ということだが、偶然にも5月で一致している。従って、ここ数年は、長女さんが、これまでの内実を一生懸命に訴えている、と読めなくもない。
この「家族解散旅行」という破壊的な左翼リベラル思想のために、「家族なんて鬱陶しい」「子供さえいなければ、私だって….」という身勝手な母親世代が登場するようになった。また、「生前葬」「樹木葬」「散骨」等、奇妙な風潮が平成の半ば頃から流行り始めた。
(その後、草の根レベルで根強い抵抗があったため、しばらくして、郵便受けのチラシ広告にも掲載されなくなり、チラシ配布が中止になったりした、と聞いている。確か、桐島洋子さんのたった一度の結婚相手だった勝見洋一氏が、晩年ALSで亡くなったのだが、再婚の正妻を差し置いて(か何なのか)、「自分が介護した」と称して、世界中、二人で回った思い出の場所それぞれに散骨した、とどこかで読んだ記憶がある。長女さんや次女さんの話では、大変な「義父」だったらしく、長年別居だったので面倒を避けた、ということであろう。結局のところ、お墓を建てずに樹木葬にする、散骨にする、というのは、「残された遺族に負担をかけないため」と尤もらしく言っていても、故人に対する忘却の意図があってのこととしか、考えられない。)
では、人より先駆けてその流行にまんまとのせられてしまった人の子供世代、孫世代は、一体どうすればいいのだろうか?
また、桐島洋子さんが、世界旅行をするのに愚かにも堂々と「家族解散」と名付けた割には、認知症になった今、しっかりと三人の子供達に新たな負担を押し付けて迷惑をかけ続け、未だ依存関係にあるという無責任さを、どう処置したらよいのだろうか?
あの時、家族を解散したのではなかったのですか?
以下のサイトは、多言語主義のコミュニティらしい。私の20代から30歳前後ぐらいには、マレーシアでの経験から、この分野も少しは勉強してみた。今なら、その行き着くところが凡そわかるので、年齢的にも能力的にも、ただ疲労感しかない。
慶応大学三田キャンパスの一室だが、写真を見る限り、参加者が少なめなのも、今時だからだろう。
この時には、講演会を頼まれたとはいえ、既に認知症の診断が下された後であり、一人で話すのは心許なかったのだろう。今度は、長女のかれんさんではなく、次女のノエルさんが付き添い、話の補佐をするという前提で、講演もどきが始まっている。
昔話は、かなり詳しく鮮明に思い出せるのが、この疾病の特徴でもある。だが、この対談の中でも、途中でおかしな箇所が幾つか散見される(ユーリ注:太字で表示)。編集されているが、会場では恐らく、ダラダラと脇道の話にずれていったこともあるだろう。また、ノエルさんが、内心ハラハラしながら軌道修正しようとして、し切れていない様子も垣間見える。
私と同い年の次女さんの疲労困憊度は、プロのヘルパーさんを頼んだという最近の写真でさえ、相当に表れている。心から(気の毒だな)と同情する。
(2022年9月19日記)
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(https://www.chikyukotobamura.org/forum/forum180616.html)
(注:部分的に省略箇所を含む)
2018年度総会記念講演「ふたつの文化の間で育つ―バイリンガルの子どもたち」
日時:2018年6月16日(土)午後3:00-4:30
会場:慶應義塾大学三田キャンパス南校舎445教室
講演者:桐島洋子氏(エッセイスト)
司会:八木橋宏勇ことば村理事(杏林大学准教授)
《講演要旨》
司会:ことば村の活動の中、大きな柱のひとつに「バイリンガルを考える」ということがあり、バイリンガルのテーマを今までに何度か扱ってきました。これまでは元副理事長の唐須教光先生など研究者を中心にお話を伺ってきましたが、今回は桐島洋子さんに、お子様をバイリンガルに育てたというご経験を話していただく機会といたしました。
井上理事長:ことば村村長の井上と申します。今日はみなさんお集まりいただき、ありがとうございます。また桐島洋子さん、そしてノエルさんという豪華な壇上になりまして、楽しみにしております。今日は「ふたつの文化の間で育つ―バイリンガルの子どもたち」というタイトルで、桐島さんがお子さんをバイリンガルに育てたという点、非常に関心がありますが、やはり、「ことば」で生きていらした方、「ことば」でずっと仕事をされてきた、そういう桐島さんのお人そのものにも、個人的に大変関心を持っております。地球ことば村は、キャッチフレーズ的には「家庭のことばから世界の少数言語まで」幅広くいろいろなことばの問題を扱って、文字通りノンプロフィットオーガニゼーション、お金はないのですが、高い志を持っている人たちの集まりで、その活動にご賛同いただけたら、またお越しください。
司会:本日の講演は桐島洋子さんとことば村の小幡監事が昔からの友人であったことからお引き受けくださいました。まずは桐島さんから預かっております紹介文をご紹介します。
桐島洋子さんは1937年東京生まれ、文藝春秋に9年間勤務の後、独身のままアメリカ人パートナーとの間にもうけた三人のお子さんを育てつつ、フリーのジャーナリストとして海外各地を放浪されました。70年に処女作「渚と澪と舵」で作家デビューされ、71年に「淋しいアメリカ人」で第三回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞、以来メディアの第一線で活躍されています。長女のカレンさん、次女のノエルさん、長男のローランドさんはそれぞれのジャンルでご活躍中、お孫さんは7名いらっしゃいます。50代から「林住期」、人生の収穫の秋を宣言してカナダのバンクーバーに家を持ち、一年の三分の一はそこで暮らしていらっしゃいましたが、最近は日本に落ち着いているとのこと。
。。。。。
桐島:初めまして、桐島洋子と申します。寄る年波で、最近は講演もあまり自信がないので、変なことを言ったらノエルにそばでつついてもらいます。(笑)
桐島:多少私の歴史をお話しして、自己紹介したいと思います。私が物心ついたのは上海でした。その頃の上海は、まさに世界一のバイリンガル都市だったと思います。我が家でも、家族は日本人、メイドは上海人、コックは香港人、門番はインド人、隣近所もみんな外国人で、何カ国のことばが混じっているかわからないという環境で育ちました。ですから、私はバイリンガルというより、いくつもの言語がごちゃ混ぜになっているような言語感覚だったと思います。ことばは、文字と合体しないとなかなか維持できないので、しゃべっているだけの言語は、その環境から出るとたちまち雲散霧消してしまいます。ですから日本に帰ってしまうと、英語も中国語も一切覚えていませんでした。その後外国人と・・・彼は何国人だっけ?
ノエル:(笑)スコットランド系のアメリカ人!
桐島:と、いっしょになり三人の子どもを持ちました。子どもたちもほったらかしで自由に育ちましが、一応ハーフなのに英語もできないのでは恥ずかしいかなと、しばらくアメリカで一緒に暮らしたこともあるので、子どもたちは英語はきちんとできて、一応バイリンガルといっていいと思います。自己紹介はこのくらいで。私ももう80になります。80になると本当にがたっと来ますね。
ノエル:母は去年傘寿を祝いまして。
桐島:上海は、いろんな国の人がいましたが、特にその頃はヒットラーの迫害を逃れてきたユダヤ人がいっぱいいました。
桐島:上海は川を挟んで向こう側にはよく写真にもある大きな、ブロードウェイマンションという高層ビルがあって、当時の上海の中心的なホテルというかマンションなのですが、私が上海に行ってすぐの時にはそのマンションに住んでいました。それから橋を渡ってフランス租界のほうへ、西洋人の多い地域に移りました。
桐島:そう、5歳くらいのとき。でも戦争はブロードウェイマンションに居るときに始まったの。すごい爆発音がして、すっとんで起きて両親の寝室に飛んでいったら、大人もみんな起きていた。そうしたら、窓の外に鉄鎖がジャラジャラと降りてきて、それを伝って兵隊さんがドカドカっと降りてきたんです。で、ガンガン窓をたたくの。
ノエル:それは日本兵?
桐島:そう。ドカドカっと入ってきて、これからこの部屋は作戦会議室にするから明け渡せ、と。父が新聞社にいたので情報が早くて、戦争が始まったらしい、とわかり、それからいろんな関係者がゾロゾロやってきて議論が始まったのです。朝日が昇ると、目の前の川の向こうにはイギリス領事館など大使館の類いが並んでいるのですが、イギリスやアメリカなどの国旗が、すごすごと負け犬の尻尾のように下ろされていく。代わりに日本の日の丸がどんどん揚がっていくのですよ。
それを見て、うちの父や仲間は反戦的な、リベラルな人たちなのに、やっぱり、やったやった、なんて手をたたいて。まったく男なんてしょうが無いわね、と母が苦笑していましたけど。
そんなことで戦争が始まってしまって。でもそこでドンパチがあるわけではなく、生活は相変わらず続いていて、かなり豊かな生活を楽しんでいました。日本ではなかなか見られない演劇などがあって、父は特に音楽が好きだったのでしょっちゅう音楽会に行っていました。(中略)ある夜、ヨーロッパから命からがら逃げてきたプリマドンナでしたが、花を受け取ったらそれを横に置いて私を抱き上げ、胸に抱きしめて唄を歌い始めたのです。後で母に聞いたら、それは有名な子守唄だったのですが、それを歌いながら涙滂沱として泣いているのですね。(中略)
ノエル:上海には何年ぐらい?
桐島:3歳の時に行って、小学校2年の時に帰ってきたから何年かしら?
桐島:上海には日本人がたくさんいたから、日本人の第一小学校、第二小学校もあるわけですよ、大抵は橋向こうなのだけど、ひとつだけ私たちが住んでいるフランス租界よりにあって、そこに入学したのだけど、しょっちゅうテロがあるとかで通行止めになっちゃう。そうすると知っていた道を帰れなくて、何回か迷子になって肝を冷やしました。上海で迷子になるのはものすごく危ないことで、誘拐されたら最後ですから今思ってもぞっとしています。
上海ではいろいろな経験をしました。ちゃんとボーイフレンドもいて、金髪の、ドイツ人だったかな?ある日彼が貯金箱を持ってやってきて、うちの父と母の前で神妙に、僕はこれだけのお金を貯めました、これでもって洋子を売っていただきたい(笑)、とプロポーズされたのです。両親もかわいくて笑っちゃったのですが、それが私の人生の初めてのプロポーズだった。甘酸っぱい思い出になっています。
ノエル:上海では普通の日本語学校に通っていても、マルチリンガルな世界に触れてはいたのですよね。
桐島:ええ。日本に帰ってもまだ戦争は終わってなくて、東京の家は危ないというので葉山の別荘に居たのだけど、そこも敵前上陸があるだろうと。父はそういう(用心深い)ところがあって、まぁ、子どもが三人もいたらそうならざるを得ないだろうけど。
桐島:それでどこに疎開したらいいだろうと。その時も父の発想って面白くって、地図を広げて、海から一番遠いのはどこだろうって探すのですよ。で、木曽の中の妻籠というちいさな町になったのです。島崎藤村がいたところだということですが。当時まだお金持ちだったので、豪勢な庄屋さんの家を借りて生活をはじめました。ただ庄屋さんが母だけはそのままに居させて欲しいというので、お母様だけ二階にいらした。そのかたはとても上品なおばあさまで、おゆうさまと呼ばれて藤村の初恋の人という噂でした。教養も高く、お手玉やおはじきなど日本の遊びも教えてくださって、それまで上海にいてあまり触れることのなかった日本の古典的な文化を私に伝えてくれました。とても贅沢なことだったと思います。
桐島:いえ、それは学校でも家でも日本人の生活をしてはいましたよ、日本料理もなんでも作れたし。だからあまり外国にいると言う感覚はなかった。フランス租界などに行けば俄然フランスだったけどね。
ノエル:そこから一気に木曽って。(笑)
桐島:そう!それもいい経験でしたよ。それで忘れもしない8月15日、真っ赤に日の照る中、今日は重大な放送があるからと集められて、天皇の声を初めて聞きました。戦争をここでおしまいにするということですね。広いお屋敷の中でかくれんぼなんかして遊んでいたのですが、天皇がお泊まりになった部屋があって、そこは線香くさいようなところで、なんとなく、天皇は幽霊のようなイメージだった。ところがラジオでいきなり天皇の声がして現実的な話があって、とても不思議な感じがしたのを覚えています。で、もう木曽に居る必要がなくなったので葉山の家に帰りました。
桐島:そうそう。もうお金は無くなっちゃって、売り食いの生活ですよね。毎日のようにお蔵の物を出しては買いに来る人に売って。方々で破産してしまった家があるので、それがわかっている商人が買いに来るのね。二束三文で骨董も着物も食器も、みんな売ってしまいましたね。時代がそうだったのでどうしようもないのですけど。
葉山には斜陽族の家が多くて、その中で英語やダンスの心得のある奥様方は駐留軍のパーティーに重宝されるのです。友達のお母様にそういうかたが多くいて、お家にいくと冷蔵庫に一杯駐留軍のおみやげの食品が詰まっている。私はそれがうらやましくて、「お母様も駐留軍のパーティーに行けばいいのに」と言ったら、パシっと頬をたたかれ「卑しい!」と言われました。母は卑しいことが大嫌いで意地汚いことをすると厳しく叱られたものです。今は、あの痛さがとてもなつかしいです。あんな風に本気で叱ってくれる親って、今はいなくなったのではないかと思います。
やがてその葉山の家も売って、東京に移りました。葉山の時は清泉女学院というカトリックの学校に通って半分はカトリックに傾倒し、半分は反抗して・・・。外国人のシスターがいたので英語はかなりよくできるようになりました。東京に引っ越して普通の区立中学に入ったときは断然英語ができて先生のごひいきになり、入った途端に子ども都議会の代表に選ばれたりしました。その子ども都議会の議長だった人は日比谷高校の秀才でしたが、彼が開会を宣言してもシーンとして誰も手も挙げない。彼が困って目を白黒させているので、私が助け船を出して、何か言って、窮地を救ったのです。そうしたら、帰り際に彼が追いかけてきて、「桐島君、さっきはありがとう!」と御礼を言われ、ふたりで帰った。それはそれっきりのことでしたが、その後、40代の頃、私は熱烈な恋愛をしました。その恋人が我が家に遊びに来て古いアルバムを見て、あ、これ僕じゃないか!と指さしたのが、その少年だったのです。不思議な縁があるものだと思いましたけどね。
桐島:そう、駒場高校に行った。その前に、ある雑誌から高校の合格者座談会というのに参加を頼まれたのです。まだ試験も受ける前なのだけど、必ず合格すると思われたみたい。で、駒場高校に受かったという記事が出て、実際にも受かったので、本当はあんまり行きたくなかったのだけど、行かざるを得ないわけ。しぶしぶ行ったのだけど、行ってみたらいい友人がたくさんできて、それまでにない財産になりました。同志がたくさん居るんだなということがわかって楽しかったし、隣に東大があって、東大にも入り浸って一緒に学生運動なんかもやって。良い高校生活だったと思います。
家の経済状態もあったから、公立大学に入れればいいけれど私立はきついだろう、と。公立は8科目も受験科目があって嫌いな理数科まで受けなくちゃいけないから、大学に行く気が無くなって、行かないというか行けないというか・・。
永井龍男さんのお嬢さんが当時の親友で、よくはがきで近況報告していたのですが、永井先生が郵便箱から手紙などを取り出すと私のはがきが載っていてちょっと読んでみる、すると、この子はなかなか文章がうまいじゃないか、私のはがきの愛読者になってくださった。で、私が大学を諦めていることがわかって、文藝春秋社を受けてみたらどうだろうと・・・。そのことを友人から聞いて、文藝春秋なんて、入れれば素晴らしいけれど、本当に高卒の女の子なんか採ってくれるのかしらと言うと、高卒を数人採る、と。応募の期限は過ぎていたのを永井先生の口利きで受験資格を与えてもらい、また、その受験科目が英語と作文だけ。私にとっておあつらえ向きで、トップで入ることができたのです。
ノエル:お母様がそこまで英語を身につけられるようになったのは高校での教育で?
桐島:それ以前に、父は十分できたし母も簡単な童話の翻訳ぐらいはできていたわね。
桐島:えーと。それで文春に入りましたが、高卒だと最初から編集者になれるわけじゃなくて、送稿とか販売部とかつまんないところに配属されて嫌になって、もうやめようか、と思ったけど、親を心配させてもいけないと我慢して・・・。そのうちに、文春の中で文春句会というのがあって、社長さんから小使いさんまで誰でも参加できる民主的な句会なの。俳句なんてやったことがないけど入るとおいしいお弁当が出るし、賞品も出る、そこで欲のために行ってみたら、意外に面白かった。行く度に入賞しては賞品を稼いで、そうすると幹事にもなれて次回の賞品も好きな様に選べる。またそこであの子はなかなか言語感覚がある、と偉いかたの目にとまる。それで、やがて編集部に移ることになりました。
編集部に移る前、受付の時代がありました。受付は来訪者の応対だけでなく、全国から届く質問状や批判など山のような手紙に返事をかかなくてはいけない。大変な作業なのですが、私は筆まめなので、いつでもちゃんと返事を書きました。それが非常に評判が良くて、その後私がある程度名前が出てからも、日本のあちこちから、文藝春秋に手紙を出したら懇切丁寧なお返事をいただいた、それが桐島さんという方だったと思いますがあなた様でしょうか、なんて手紙をいただいたりしました。うれしかったですね、やっぱりいい仕事をしておくべきだと思いました。
文春のころ、日活アパートに部屋を借りてくらしていましたが、土日は湘南の父母の家に帰る。週末だけ貸そうと思って、外人記者クラブに公告を出してもらった。で、やってきたのがローランド・グールドというイギリス人の記者で、いろんな事をいっしょにできる素晴らしい友達になりました。彼のおかげで私の生活もどんどん国際化して。ちなみに息子のローランドは彼の名前をもらっているのです。そのうちに恋人ができ、けしからぬことに子どもまでできちゃって、20代の終わりくらいにカレンを産みました。
桐島:もちろん!会社に知られないように。親にも知られないはずだったのだけど、ある日、私が大きなおなかで横になっていたら、母が、近くまで来たからと突然現れて、ギャッと叫んで。こっちもギャッと叫んで。(笑)当時ほんとにショックだったと思います。
ノエル:ダディと付き合っていたことは知っていたんでしょ?
桐島:それは知っていたし、彼も湘南の家に遊びに来て「ママのシチューは最高だ!」なんてゴマすって。彼女に気に入られていたのだけど。でも20いくつも歳が違うし娘の婿になるとは思っていなかったのですよ。でも子どもなんて生まれてしまえばかわいいものらしくて、母はたちまちメロメロになっていたし。そして翌年ノエルを。で、カレンの時は会社を維持していたのだけど・・・。
ノエル:でもそのころ、日本には渡航制限とかあった。
桐島:そう、簡単ではなかったけど、お金と目的がちゃんとあれば大丈夫だった。
桐島:いくらでももっともらしいことを言えるから。六ヶ月ほど行きたいって言ったのかな、そうしたら二週間なら休暇をやると。二週間じゃ子どもを産めないじゃない(笑)、それでかくなる上は、と泣く泣く辞表を書いたけれど予定通り出発して。旅をするなら楽しもうと、船でウラジオストックへ行き、汽車で大陸を横断して、世界一周の最後、香港から日本へ向かう船の中であなたを産んだわけ。朝産んで、夕方に到着したの。なかなか計算したってそうはいかないくらいうまく行っちゃったのね。
ノエル:だって妊娠8ヶ月とかでしょう?当然1ヶ月のクルーズには乗せてくれないじゃないの。隠してむりやり乗って、途中でいろんな人にチクられて、船から降ろされそうになったりしたんでしょ。(笑)だってこんな大きなおなかで、エジプトでラクダに乗っている写真とかあるんですよ!(笑)ちなみに私が中に入っているわけですけど。で、マダムが大きなおなかでラクダに乗っていたとキャプテンにチクリが入ったとか。(笑)
桐島:そう。神戸に着いて私の父や子どもの父親もドヤドヤやってきて。お祝いだ!って歓迎されたわけですよ。
ノエル:で、私はおばあちゃまの家に預けられたのよね。お母様は小さいカレンだけをつれてアメリカに行って、カレンを知り合いの家に預けて、アメリカ中放浪して本を書いていた。
ノエル:で、祖母の家に預けられていた私が、アメリカに会いに行ったのだって?カレンはそれを覚えているの。初めて自分の姉妹に会えるって興奮して。で私が来たら私は日本語しか話せない、カレンは英語しか話せない、で、自分の姉妹とことばが通じないことにものすごいショックを受けたのだって!私は全然覚えていないのだけど。
桐島:ともかくスッチャカメッチャカの放浪生活だから病気一つしたらおしまいだけど健康だけは恵まれました。葉山での生活と両親に感謝ですよ。
ノエル:それからしばらくは、私たちは日本で育ったわけじゃない。私はちょっとだけ、幼稚園から小学校2年生までアメリカンスクールに行っていたけど。カレンは幼稚園だけアメリカンスクールに行って、普通の日本の学校に入学した。私も途中から日本の学校に転校した。ローリーは最初っから日本の学校に行っていたかな。そして、私が小学校5年生の時にアメリカに行くことになった。
桐島:そうね。みんなハーフだし英語ができないのは格好がつかないし。(中略)アメリカのどこに行くかは決めていなかったのです。着いたらまず二日間ディズニーランドでしっかり楽しんで、作り物の世界はもうこれでいいでしょう、これからは本当の生活をしましょう、と。どこにしようかと探しながらアメリカを歩き、たどり着いたのがイーストハンプトンという場所、お金持ちの避暑地で、それは私の趣味ではないのだけど、行ってみたらそういういやらしさが全然無くて。いいとこだったわよね、イーストハンプトンは。
ノエル:うん!私にとって心のふるさとみたい。70年代後半当時のアメリカは面白いいい時代だった、今思えば。
桐島:その家の主人はハーバード出の役人だったらしいのだけど、引退していて、すごいケチな人でうるさかったわよ。電気代だとか、家具に傷をつけたとか。ガラクタしかないのに。
ノエル:でもすてきな家だったじゃない。イーストハンプトンは私たちが初めての日本人で、私と姉は公立のミドルスクール、弟は小学校に入りました。私たちは英語をすっかり忘れていて・・・。
桐島:しかもタダでね。税金で運営されていたから。
ノエル:今はそうじゃないよ。カナダのパブリックスクールでも外国人を受け入れるけど、結構高い学費を取るの。ウェルカムなんだけど、それで稼いでいる。(笑)当時はね、タダだったからねぇ。しかも私たちひとりひとりに特別のティーチングアシスタントを付けてくれて。すばらしかったよね、アメリカは豊かだったからね!あの頃は。(笑)学校の最初の日に、母は車の運転はしたことがないので、学校へはスクールバスに乗るしかないんですよ。バスに乗る前に、母に、学校に着いたらこれを偉そうな人に渡しなさいって、紙切れを渡されて。で、カレンとふたり、手を握り合って、どうしよう・・・(笑)と言いながらバスに乗って、学校に着いて大人の人にその紙切れを渡したんですよ。
桐島:ひとつだけ英語を教えたのよ。“Where is the principal’s office?”って言いなさいって。
ノエル:そうだっけ?その紙にそう書いてあったのね。校長先生のところに連れて行かれて、もう、先生たちパニック!(笑)ひとことも英語話せないんだから。最初はカレンと私と同じ学年に入れられて、まったく話せない状態から、6ヶ月くらいで、まぁ話せるようになったんだよね。
桐島:二週間後くらいに、学校から喜び勇んで電話がかかってきて、「今日ノエルちゃんが初めて“I forgot my homework”って、ちゃんとしたセンテンスの英語を話しました」って。(笑)何度も言ってごらんと教室を連れ回したって。
桐島:一回宿題を忘れただけなのに、何度も言わされたってぶーぶー言っていたわよ。(笑)ひとことそのようなきちんとしたことばが出ると自信がついて、だーっと進歩するのですよ。それからはもう、一瀉千里という感じで、毎日のようにことばが増えていきましたね。私はことばのことは全然心配しませんでした。私が追い抜かれるのもすぐだなと覚悟していましたし。
ノエル:ローリーは2ヶ月くらいで日本語を忘れはじめたね。
桐島:忘れたって心配することないのよ。日本に戻ったらすぐ思い出したしね。
ノエル:私とカレンはなんとか日本語を維持できたのよ。本当は一年だけで帰るつもりだったのだけど・・・。
ノエル:それで子どもたちだけ残ったのよね。一年間。私の小学校の先生の娘さんがベビーシッターみたいに一緒に生活することになって。ほかに何もチョイスがない、という環境で私たちも早く英語を覚えたのだろうけど。学校の先生は家でもできるだけ英語で、と言っていたのね。
桐島:そう、でも私は日本語も大事だから、と、家では日本語で。英語はしゃべらせなかったけどね。
ノエル:で、2年後に日本に帰って横浜に住んで、アメリカンスクールに三人とも入学した。
桐島:せっかく身についた英語を、日本の学校に入ったら失うのではもったいないから。ちょっとお金はかかるけど。良かったでしょ、それで?
ノエル:まぁね。(笑)私は2年間日本の小学校に行ったので、多少読むこともできて。(中略)姉も小学校での読み書きの基礎が残っていて、日本語を維持できた。私もエッセイを書いたりしていますが、パソコンで漢字を選ぶことはできる。カレンは6年間行っていたからね。問題ない。ローリーはどうなんだろう。
桐島:まぁ、問題なく暮らしているんじゃないの?あんまり文字は必要ない仕事だし。
桐島:まぁ、そういうわけで、ともかくバイリンガルにはなったから良かったですね。(笑)日本にいて普通のひとが子どもをバイリンガルにとしようとしても簡単ではないでしょ?
ノエル:今、カレンの子どもは4人全員アメリカンスクールに行っています。私は結婚してカナダに移住して娘を産んで育てました。娘は小学校の時に5年くらい日本に戻って、インターナショナルスクールに行っていた時期もあって、大分日本語が上手になって、読み書きも私よりうまくできるようになったのですけど、その後カナダに戻ったので、やっぱり・・・。娘が嫌がったので日本の補習校に入れなかったのですね。今は怪しい日本語を話す程度で、読み書きはほとんど覚えていないみたい。弟の子どもたちは幼稚園から日本の学校に通っているので、逆に英語は全然話せない。(笑)
井上:1年間、アメリカにお子さんを置いていかれたわけですよね。ベビーシッターもアメリカ人で。日本語については何かされていたのですか?
ノエル:母はものすごい量の本を読むんです。家には本があふれていました。母が読むような本ではないですけど、私も小学校のころから週刊文春とか(笑)雑誌は結構読んでいましたし、漫画は大好きでしたから。
桐島:文才って、踊る才能とか歌う才能と同じように、ある程度生まれつき備わっているものではないでしょうか。それに環境が加わったのでしょうね。父が大変文化的なひとだったから、本だけはいくらでも買ってくれたし、家にも山ほどあったし。勉強しろなんて言わないひとでしたが、英語ができないととても不便だよ、学校の教科書がつまらないなら、面白い本を読めばいい、と愛読書“My life and love”を出してきた、すると母が、娘にポルノを読ませるなんてって。(笑)古めかしい英語なんで私もこれはだめだといったら、ジュール・ヴェルヌの「80日間世界一周」の英訳を持ってきて、読んでごらん、と。80日間で読めたらご褒美をあげる、と。それから毎日夕食の時に、今日はどこまでいったかねと、父のリサーチがはいるわけです。父は世界中旅行しているから、インドの話でもアラビアの話でもちゃんとわかるわけですよね。それで、70何日かで読了してしっかり賞金ももらったし。今でも私の部屋に飾ってあるマチスのリトグラフはそのときの賞品なんです。
井上:お話を聞いてよくわかりました。ヴェトナムにも行かれましたね。世界中を回ったお父様の影響なんですかね。冒険好き・・・。
桐島:父はそれほど冒険屋ではないけど、私は昔から冒険が好きですね。危ないことを怖がらなかったし。ヴェトナム戦争は、今思えばぞっとする経験でしたけどね。目の前でどんどん人が死んでいく。目の前で若者が死んでいくのを見て、つくづく反戦的になりました。
井上:僕はたくさんお書きになって生きている方に憧れるというか・・・。ああいうエネルギーは、文筆そのものにあるのか、それとも書きたいものが先にあって、それをことばにしないではいられないような・・・?
桐島:もちろん、何もないところで何かをひねりだそうとはあまりしないですね。書いている内にまた書きたいことがどんどん出てくることはありますが、何かきっかけがないとね。
桐島:7歳では無理です。読み書きでもってかなり固定されるけれど、7歳ではまだ読み書きがあまりできないでしょう。読み書きはとても大事だと思います。
ノエル:7歳では難しいと思います。維持していくのに、ものすごく親の努力と援助がないと。カナダでも、日本人の友達はお子さんをカナダの普通校に入れて、日本語の補習校に通わせ家でもサポートして。そうしていても日本語を維持していくのは大変なことです。
1年2年と海外に留学して日本に戻ってきて、それから英語を維持できるかというと、親がそれを援助しないと。子どもは基本的に周りの友達と同じでいたい、という意識が強いと思いますね。(中略)姉の子どもたちは東京のインターナショナルスクールに幼稚園から通っているんですね。その学校では1日に1時間、日本語の教科書を使う授業があるのです。そこで中学校を卒業した子たちは、周囲も日本語を話す環境だし、かなり日本語が話せる。英語も話せるようになるし。でも学費はすごく高い。それをサポートするのは親だから。(笑)
でも、そういう彼らがアメリカの大学に留学して、アメリカで育った子たちと対等に話せるかというと、結構めげて帰ってくる場合も多いのですね。英語がペラペラでも。だからことばだけじゃないと思うんですね。バイリンガルであっても、バイカルチュラルではないから。(中略)日本のアメリカンスクールに毎年何百万も学費を払って子どもを通わせている親御さんが増えていると聞きますが、それがどこまで意味のあることなのか。私にはちょっとわからない。
井上 日本では、自己主張するより相手をわかってあげるところがある。バイカルチュラルのほうが壁が高いのですかね。
参加者B:イギリスの文学、例えばジョージ・オーウェルがビルマやインドでの生活について書いている。しかし、中国についてとなると「アカシアの大連」など、思い出みたいに書いているものだけですものね。
桐島:私も上海について書かれているものを読んでみたいですね。
ノエル:お母様はいつも「太陽の帝国」を見ると、子ども時代の上海を思い出すって、言っていたわね。
桐島:そうね。ごらんになりましたか?面白い。長い映画だけど。(注:日中戦争当時の中華民国上海で生活していたイギリス少年の成長を描いたスピルバーグの映画。イギリスの小説家G・バラードの自伝的小説がもとになっている。151分。1987年公開。)写実的にその頃の上海が描かれています。
桐島:そう。うちはすごいリベラルな家で。父は三菱財閥の大番頭の一人息子として厳しく育てられて、自分は絵描きになりたかったのに、とんでもないと、東大から会社に押し込められて、自由が無かった。だから祖父が死んだとたんに、俺はもう自由だと、仕事はほったらかして上海で財産を使いまくって好き放題した人なんです。
桐島:私あんまり子どもって好きじゃないから。(笑)子どもと話したって面白くないじゃない。子ども言葉は使えない、子どものレベルに降りていくのはどうも、ね。
ノエル:さんざんネタに使われて。(大笑)はい、すごい不良娘だった。基本的に、ほんとに放任でした。
井上:お孫さんとはどうですか?英語しか話せないお孫さんもいる?
ノエル:私の娘が一番怪しいのですけど・・・。
桐島:英語だけっていうのはいないわよね。でも関心事が違うから。話が弾むことは少ないですね。
ノエル:子どもに興味がないんですよ、私たちにも興味なかった。(笑)たぶん孫の名前、全部覚えていないですよ。
桐島:同世代の、友達の方がやはりいいですよ。でもこの歳になると友達がどんどん死んでいくから淋しいですね。
参加者C:初めまして。桐島さんのご本を読み、カレンさんやローランドさんのSNSなど拝見しているのですが・・・。
桐島:カレンやローランドの何ですって?
ノエル:SNS。フェイスブックやインスタグラムとか。
桐島:何?SNSって?
ノエル:It’s OK!(笑)
参加者C:みなさんすごく日本語がお上手で、語彙が多いと思うのですが、もともと英語と日本語って発想の仕方がちがうじゃないですか。敬語とか。バイリンガルでありながら敬語などの考え方をどうやって身につけていったのか。
桐島:あぁ、そう聞くとなんかほっとして・・・。英語のほうは私の役ではない。私は日本語についてはうるさく言いましたけど。
ノエル:カレンは日本で一番長く教育を受けたからだと思います。でもローリーも、フェイスブックとか結構書いていますよね。でもあの二人は基本、日本で社会に出て仕事して、人と係わっているうちに身についたのじゃないかと思いますね。姉の長女も大学生だったころからインターンをして会社で電話の応対とか、だんだん身についてきた。インターナショナルスクール出の子は敬語を使えない子が多いですからね。あとは・・・、私たち結構本を読んでいたかもしれませんね。私の娘は日本語が話せたときも日本語の本はあまり読まなかったので、日本的な表現は今もわからないみたい。
ノエル:私はSF好きだったので。(笑)小さい頃は、毎週日曜日は家族で食事に行っていたのですが、しゃぶしゃぶを食べた後必ず有隣堂に連れて行かれるのです。
桐島:二時間ぐらい放牧して・・・(笑)
ノエル:そこではいくら買っても怒られないから・・・。あの時代は「なかよし」とか「りぼん」とか。それからは小松左京とかアシモフ、ハインラインとか、古典的なSFを結構読んでいました。
桐島:どっちがいいとは一概には言えないわね。私は日本にいるほうが落ち着くから日本に住んでいますが。でも向こうの文化も好きだし。だから、いいとこ取りするのが一番いいと思いますよ。(笑)
ノエル:私は小学校5年生の時アメリカに行き、ものすごい開放感を味わいました。それまで横浜の小学校に行っていましたが、私たちはハーフで・・・その頃はそんなにいなかったから。毛唐とか言われていじめられたりして。そういう時代だったんですよ。また、その頃には母が段々知られるようになっていたので、いい意味でも悪い意味でも差別、区別があった。そういう・・・、自分ではなくて、自分にまつわる周りのいろんなbaggage、重荷のようなものが、アメリカに行ったら全て消えるわけです。アメリカは本当に個人主義的な国で、日本だったら「あなたはどちらのかた、親はどういう仕事で」と、周りから入ることがある。(中略)ノエルはどういう子?何がしたい?何が好き?と、私自身にフォーカスを当ててくれたことがすごくうれしかった。私にとって初めて個人の自由を味わった感覚があったのですね。でも、姉は全然違う体験をしているんです。姉は白人しかいない町でアジア人に対する差別を微妙に感じとっていたみたい。一歳の違いでも印象や体験は全然違っていておもしろいですよ。私は日本には以心伝心みたいな美しさもあれば、それがものすごい重荷のときもある。20年近くカナダに住んで、今年戻ってきたのですが、やっぱりそれが重い。時々ハッキリ物を言ってひんしゅくを買ったり(笑)・・・。私の娘も日本に来るとちょっと窮屈さを感じるみたいです、でもみんなすごく親切だし。思っていることを汲み取ってくれる、それはすごいなぁと思いますね。
桐島:日本は楽な国だよね。
ノエル:そうかなぁ・・・。
ノエル:弟は生まれて1年間愛育病院に預けられていたんですね。私は祖母の家に、姉はアメリカの知人の家に、とバラバラの状態で。不思議な家族関係だよね。日本では私たちはみんな横浜のアメリカンスクールに行っていたんですが、英語と日本語をちゃんぽんに話す。母にはいつも怒られていたのですが。ミーがねぇ、みたいな。(笑)
桐島:私はインターナショナルスクール語と言っているんですがね。独特なのね。くるっくるっと変わっちゃうの。
ノエル:It’s so 寒い today、とか。(大笑)アメリカンスクール同士すぐわかるんですよ、アメリカンスクールでしょう!って。そういう話し方すると、戦後のパンパンみたいだからやめなさい!って。(笑)なに?パンパンって?って。(笑)
井上:それはコードスイッチングと言って、この場合バイリンガル同士がスイッチし合う。
参加者E:昔帰国子女の結婚式に行ったときに、仲間が自虐ギャグとして、三つの困りごとがある、ひとつは漢字が読めない、二つ目は敬語が使えない、三つ目を忘れたんですが、三つ目は何だったのでしょうね?(大笑)
ノエル:空気が読めない?
ノエル:私が最初に行ったときは、自分を卑下するような話し方をしたりしていました。謙遜しているつもりで。でも向こうの人は、なんでノエルはそんなことを言うの?って。なんであやまるの、はしょっちゅう言われる。Don’t be sorry!って。
井上:時間が大分過ぎましたが、お差し支えなければ、洋子さんの今後の執筆予定など・・・。
桐島:怠け者だし、もう用はないとおもっていますので、今特にプランはないですが、一応死ぬ前に、死とは何かという本を書きたいと思っています。
(拍手)
文責・事務局
(2022年9月19日無断転載終)
…………………….
結局、こうなってしまったわけだ。残念だが、長女さんと次女さんが本当に気の毒だ。お二人とも、プロがお化粧しているはずなのに、今や相当に疲れ切って澱んだ表情で写真に出ている。もう無理しなくてもいいのに。
こんなことに時間を費やしたくはなかったが、長らく影響されて振り回された、実に傍迷惑な日々を振り返り、全てはこれが元凶だったのだ、と厄払い。
(2022年9月19日記)
………………………
2022年9月20日追記:
母親世代が、メディアを通して「新しい風潮」等と、好き勝手なことを吹聴していても、その娘世代になると、親が外向きに美化した話の裏側や内実が曝露される。
以下は、今年5月の対談で、樹木希林の娘さんも登場している。実家の母親は、これまた「樹木希林が大好きだ」「夫なんてお荷物だ」みたいに、傍迷惑にも同調していた時期があった。
(http://www.tfm.co.jp/curators/index.php?catid=4545&itemid=187386)
孤独だった幼少時代
桐島かれん(モデル)×内田也哉子(文筆家)
2022年5月20日
《桐島:自分で切り開いていくしかない。だからレールみたいのが全くなくて、それは自由だけど、一番過酷なのよ。普通は家庭があれば、例えば、ボーリング場のガーターに落ちないように親がしてくれるけど。だから、不安はあったと思う。》
(http://www.tfm.co.jp/curators/index.php?catid=4545&itemid=187480)
桐島かれん(モデル)×内田也哉子(文筆家)
2022年5月20日
《桐島:まったく興味ないし。名前も覚えないし。会話が成立しないの。せっかく洋子さんのような素敵な女性がいるので、孫たちにいい影響を与えてほしいから、うちにご飯に来て、交流して色々教えてもらいたいけど、会話ゼロ。旅行にも連れて行っても子どもたちも怖くて近寄らないし、母は子供を無視。興味ないし。》
(2022年9月20日引用終)
………………..
特に、孫の「名前も覚えない」「母は子供を無視」「興味ない」のくだりは、桐島洋子さんの「私は夫無しでも孫7人」「愛おしい子と孫の10人」みたいに吹聴している文章は、まるで意味をなさないことが明らかだ。
名前も覚えず、会話がゼロの孫に対して、ただ人数だけを自慢げに……。
こんないい加減な女性の発出するものに、なぜ「尊敬する」「憧れる」等と靡く世代があったのだろうか?
…………………
(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1905073748&owner_id=7049076)
母親は、傲慢・自分勝手で他人に迷惑かけ通しの桐島洋子
2013年6月19日
《桐島洋子は、その迷惑デタラメな生き方で、団塊世代のフェミ女の憧れ的存在だったが、もう過去の人。おまけに老人期に入ってからは、スピリチュアリズムに傾倒している。
もちろん、子育てもいい加減で、ほぼ育児放棄。たまに、気が向くとこどもとすごしていた。
これは憶測であるが、まあ、ろくな子供が育つわけがない。》
(2022年9月20日引用終)
…………………..
2022年10月26日追記:
1ヶ月程前に書いた二日にわたるブログ(2022年9月16日・9月19日)の元となった話題の本『ペガサスの記憶』小学館(2022年6月20日初版)を市内図書館の予約で借りた。待ち人数が複数ある、とのことで、現在の深刻な社会問題である認知症を抱える家族にとっては、一つの参考になるかも、という期待が込められているのかもしれない。だが、本には病気の状態や家族の困惑については、殆ど書かれていない。今は信頼できる他人に世話を頼み、穏やかに過ごしている、らしい。
著者は、桐島洋子・かれん(長女)・ノエル(次女)・ローランド(末子長男)で、カバー写真は長女の夫君さん。つまり、それぞれ独立して孫もいるが出発点だった元家族ぐるみの作品、というわけだ。恐らくこれが、1937年生まれで、2014年頃から認知症を発症された桐島洋子さんの最後の著作、ということになるだろう。
正直なところ、二時間もかからずに読み終わってしまった。母の代わりに書き継いだと称する子供三人の文章は、想像するに、自分達で書き綴ったというよりは、思い出話を喋ってゴーストライラーが書下ろし風にまとめたもののように見える。そして、結局、なんだかんだ言っても、母親あっての自分達の半生であった以上、(今も現実にはそうなのであるから)、何だか褒め殺しみたいな変な内容になっている。
生き様が売り物だったわけで、これこそ文字通りの売文業。母親の洋子さんの書いた部分は、子供達よりは多少濃い文章になっていたが、それも文藝春秋勤めの頃だけで、こちらが知らなかった初期の経験談が綴られていたからに過ぎない。最後のフランス船内でのノエルさん誕生の箇所は、昔読んだエッセイにも全く同じ文章を記憶しているために、もう書けなくなったのだろう。そこで筆が折れている。
手にして面白かったのは、昔の写真ぐらいだ。それも、繰り返しになるが、こちらが知らなかったからに過ぎない。
随分年下の骨董美術商と中年になってから結婚したことになっていたが、実は虚言壁がひどくて、子供達にとっては大変なタイプだったらしい。
だが、私が覚えている限り、あの頃に書かれたエッセイでは、「お母様も、もうそろそろ誰かいい人と結婚しては、と言っていたじゃない?」「そして、これがそのグルーム?」みたいな子供達のあっさりした賛同があってのことだったように描かれていた。早速、息子さんに実の父親代わりができた、みたいな….。
婚姻届は、確か同じマンションの隣の人に「結婚するんで、こことここにサインしてください」と、強引かつ無防備な頼み方だったようだ。そして、結婚式の代わりに友人知人を招いて「お茶会」をするということで、一応はそれらしい「会記」まで添えられていた。
今年の7月に亡くなったバイオリニストの佐藤陽子さんと内縁関係だった池田満寿夫氏も「へぇ~お茶会というからティーパーティかと思った」と気楽に来たらしい様子も書かれていた、と記憶する。
結局のところ、没落した斜陽家族とはいえ、三菱財閥系の家系に連なる出身だということと、戦後思想の「個人主義」「自由主義」という時代の後押しもあり、経済的に日本が急上昇していた余裕のある時代だったからこそ、あのような奔放な生き方が一種の「憧れ」を作り出し、売り物になったのであろう。子供達も「母の仕事」と呼んでいるが、その陰で不倫関係をかなり続けていたというのだから、要するに「あばずれ」でしかない。
現在のシングルマザー(最近では「シン・ママ」と言うらしい)あるいは一人親家庭は、経済的に公的援助に頼っているそうだ。世代も時代背景も違うのに、桐島洋子さんの本を読んで「勇気づけられました」「生き方がかっこいいです」等と無邪気に感想を述べている人達は、全く失礼だが、まるで外れている、ということになる。
子供達は、恐らく言えないこと、言わないこと、言いたくないことがかなりあるだろう。本書には、次女のノエルさんが大人になってから発達障害(ADHD)だと診断された、とある(p.191)。これとて、家庭内では大変な問題なはずなのに、桐島洋子さんは、少なくとも私が昔読んだことのある限られた三、四冊ぐらいの本には、全く触れられていなかった。
繰り返すように、私が桐島洋子さんの本を読んだのは、娘さん二人が同世代だったため、ということと、社会勉強のためだった。でも、大変に申し訳ないが、私にとっては何ら参考にもならず、特に平成期に入ってからの「失われた20年」に育った斜陽国日本しか知らない年下の世代にとっては、何ら意味もないだろう。
(2022年10月26日記)