まずは、過去ブログから。
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20070903)
《あの桐島洋子さんが書かれた『聡明な女は料理がうまい』という本は、実家にいた頃、私もしばらく手元に置いて愛用させていただきました。父がそれを見てニヤニヤ笑っていましたが、こちらとしては必死でした。》
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20080319)
《昔、桐島洋子さんの自叙伝風エッセイを読んでいた時、想像するだけなら一見うらやましい人生だけれど、私には到底ご免だわ、と感じたのと同じです。普通の女性には不可能な人生だからこその付加価値に過ぎず、万人に対して共感をもたらす普遍性に欠けるからなのです。ご本人は未婚のまま産んだ三人のお子さん達のことを上手に表現されていましたが、それも収入に結び付けるための演出だったと知ったのは、つい最近のことです。一番上のかれんさんがテレビで「私は不安定な家庭に育ったので、自分は家庭を大事にしたいと思った」などと発言されているのを聞き、(やっぱりな)と思いました。真ん中の娘さんと末の息子さんは、確か離婚経験者だったように、どこかで読みました。》
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20120313)
《桐島洋子さんが『淋しいアメリカ人』を書いて話題になったのは、はるか昔のことでしたが、もっと別の深い意味で、それを地で行くような、そんな印象さえ持ちました。》
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20130208)
《社会の一般通念に逆らって新たな生き方に挑戦する「飛んでる女」みたいな…。(ちょうど、日本女性で言えば、桐島洋子さんやオノ・ヨーコさんのようなタイプでしょうか?)》
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20130629)
《アメリカ人の不安定さと言えば、桐島洋子さんの『淋しいアメリカ人』(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120313)を即座に思い起こします》
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20140923)
《確か桐島洋子さん(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070903)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080319)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120313)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130208)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130629)の娘さんが書いていたかと思うが、特に子どもが小さい頃は、自分の名前が本になったということで単純に喜んでいたとしても、後に社会生活を送るようになると、それが自分の人生を開くことにも閉ざすことにもなる可能性がある。》
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20170106)
《作家の桐島洋子だって、今でいう年収1千万円は軽く超えていたろう》
(2022年9月16日転載終)
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(https://twitter.com/ituna4011/status/1570036028437831680)
Lily2@ituna4011
真の自由求めて生きた母子の記録…認知症で執筆中断の桐島洋子さんの思い受け、3人の子が書き継ぐ : 読売新聞オンライン
10:05 PM · Sep 14, 2022
(https://twitter.com/ituna4011/status/1570061723029340161)
Lily2@ituna4011
知らなかった。 自由奔放に生きて、新しい生き方をネタに書いたり喋ったりして、それが稼ぎになり、 数年前までは、格好良く老いる勧め、みたいな本を出していた。 影響された女性達、人生棒に振っていない?
11:47 PM · Sep 14, 2022
(https://twitter.com/ituna4011/status/1570063030238711811)
Lily2@ituna4011
人と違う生き方が売り物だった。 後半は健康志向も売り物に。 老後は子供の世話になる、と宣言した挙句が、こうだったなんて….。 三人の子に七人の孫、とはいえ、本人の一方的な書きぶりだけでは、事実は不明だった。 娘さん達、何だか気の毒。世代が同じだけに、ひとしお。
11:52 PM · Sep 14, 2022
(2022年9月16日転載終)
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(https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220613-OYT1T50038/)
真の自由求めて生きた母子の記録…認知症で執筆中断の桐島洋子さんの思い受け、3人の子が書き継ぐ
2022年6月13日
未婚のシングルマザーとして新しい女性の生き方を探った作家の桐島洋子さん(84)が15日、家族について書いたエッセー「ペガサスの記憶」を小学館から出す。アルツハイマー型認知症の悪化で執筆中断後、長女でモデルのかれんさん(57)ら子ども3人が書き継ぎ、真の自由を目指して生きた母と子の苦闘を刻んだ。
桐島さんは高校卒業後の1956年、文芸春秋に入社し、編集者などを務めた。既婚の米国人男性との間に64年、かれんさんが誕生。次女でエッセイストのノエルさん(56)、長男で写真家のローランドさん(54)を出産した。その後、男性と別れて作家になり、72年に「淋しいアメリカ人」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。
出版される「ペガサスの記憶」
今著は当初、自身の半生記の予定で、2016年5月から雑誌に連載を始めた。だが、その前から旅行中にホテルで部屋が分からなくなるなど異変が現れ、認知症と診断されていた。10か月でエッセーは止まり、かれんさんは「面白いのにもったいない」と、子どもたち3人で書き上げることに決めた。
70年代以降、桐島さんは自由な生き方が注目され、執筆活動やテレビ出演に忙しくなった。子どもを連れて渡米生活を送った時期もある。かれんさんらは今回、原稿を書き継ぐうち、自分たちが抱えた葛藤と向きあうことになった。
ノエルさんは<いつもお洒落 で、 颯爽としていて、どんな男性とでも対等に話をする母を誇りに感じていました>と振り返る反面、友達の家で母親がケーキを出してくれたのがうらやましかったという。
かれんさんは仕事などで運動会に来ない母親に代わり、早起きして妹や弟の弁当を作った。だが、かれんさんはモデルや母として4人の子育てを経験し、<自分らしく、何が幸せなのかを考えて人生を歩んできたのは、母のおかげ>と思うようになった。
かれんさんは「出版は私たちから母への恩返し。母がいつも生き生きしていたので『早く大人になりたい』と自立できた。若い方や女性に勇気を出してもらえる本だと思う」と話す。
(2022年9月16日転載終)
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(https://news.line.me/detail/oa-shujoprime/fc086e76e96a)
桐島洋子さん「80代をどう生きるかという研究は面白い」
2019年1月27日
アメリカ退役軍人男性との間に三人の子をもうけ、未婚のまま一人で育て上げた桐島洋子さん(81)。作家・評論家として活躍していた40歳を前に、突然「人生の休暇 生命の洗濯」と称してアメリカのイースト・ハンプトンへ家族で移住。
当時幼かった子供たちは今や立派な大人になり、各方面で活躍しつつ、それぞれの家庭をしっかりと築いている。
「イースト・ハンプトンで暮らした頃はまだ小学生だった子供たちが、もう全員50歳を越えたのだから、私も年をとるわけよね(苦笑)。
長女のかれんはモデルをやりつつ、世界中の美しい雑貨を集めたショップ『ハウス オブ ロータス』をプロデュースしています。写真家の夫と一男三女をもうけ、子供の数では私を追い越しました。
次女のノエルはフィトセラピスト(植物療法士)。ヨガにも精通しており、カナダで一人娘を育て上げました。文章がうまくて、エッセイや翻訳も手がけています。
長男ローランドは二児の父であり、写真家の枠におさまらないマルチクリエイター。バイクで砂漠を疾走するパリ・ダカール・ラリーに突然挑戦したり、六年前には参議院選挙に出たり。“冒険好きは母親似”なんて言われているようです。
数年前フロリダを旅行したおり、初めて子供たちの父親のお墓参りに行きました。別れて半世紀近く経ち、今更感傷はないけれど、“あなたのお陰で三人の子と七人の孫に恵まれました。本当にありがとう”と感謝を伝えました。
いろいろあったけど、やっぱり彼と出会えてよかったと思う。もっといい男と出会って、もっと素晴らしい人生を送れたとしても、この十人の愛おしい子孫を別人に差し替えるのは、絶対に嫌だもの。
子供や孫の顔を眺めていると、これこそが私の運命だったのだと、しみじみ納得するんです」
子供に媚びない、でも頼ればいい
かつて「老後は子供に面倒を見てもらう」のが当たり前だった日本で、「老後は子供の世話にはなりたくない」と考える人が増え続けているという。81歳の桐島さんが考える「老後のあり方」とは。
「何年か前にある雑誌で『老後は子供の世話になりたいですか』と質問されてね。居並ぶ人々が皆ノーと答える中、私一人がイエスだったの。
『たとえ周りがすべてイエスでも、桐島洋子だけはノーだろう』と思われていたらしくて(苦笑)、すごく驚かれました。逆に私は、周りがすべてノーだったことに驚いたのだけど。
子供の世話にならず、では誰に頼るかというと、皆さん国家とか公的支援に期待しているらしい。確かにこれまでさんざん税金を払ってきたのだから、その権利はあるでしょう。でも権利というものはできるだけ主張せずに済ませる方が、エレガントな生き方だと思うの。だから私はできる限り自助努力し、どうしても助けを求めるなら、まずは家族からと考えています。
産んで育てて教育を受けさせて、一人前の大人にしてやったのだから……と言ったら恩着せがましいけど、お国や人様の世話になるよりは、自分が世話した子供たちに頼る方が当たり前でしょ。だから堂々とね。大きな、デッカイ面して“頼りにしてるわよ”と言えばいいんです」
乱暴な生き方をしてたどり着いた80代
50歳になる年には「人生の収穫期・林住(りんじゅう)期」を宣言してカナダのヴァンクーバーで晴耕雨読の日々を過ごし、81歳の今は東京と湘南を行ったり来たり。でも80代に続く道は平坦ではなかった。
「インドのヒンズー教には、人生を四季の巡りと捉え、それぞれの季節にふさわしい生き方をする考えがあります。
春は勉学に励む学生(がくしょう)期、これは子供から青年時代ですね。次は懸命に働き家庭を築く家住(かじゅう)期、これが人生の夏。
秋は一線を退き、ゆとりを楽しむ林住期。50歳でヴァンクーバーに家を買った私は、この家を林住庵と名付け、まさしく人生の秋・収穫の季節を味わい尽くしました」
そして最後は安らかな死に備える遊行(ゆぎょう)期。
インドでは俗世を捨て、巡礼に出る人もいるという。
「81歳という自分の年齢を考えると、“よくここまで来られたなあ”と感慨深いものがあります。両親は70代で鬼籍に入ったし、桐島家の女で80代まで来たのは、私が初めてですから。
臨月のお腹を抱えて世界旅行したり、ヴェトナム戦争の従軍記者になって銃弾の雨をかいくぐったり。かなり乱暴な生き方をしてきたわりには、よく無事にこの年まで健康で来られたものです。私は本当に運がいいんです」
80代だからこそチャンスがある
運良く迎えた80代。今後はどう生きていきたいか。
「もうイヤなことはしたくない。つまらない人には会わない。好きなことだけやって、いいとこどりで生きます。80まで来たご褒美だもの。
遊行期は一般的には“人生の締めくくり、知識を世間に返していく”時期らしいですけど、私はそんな殊勝なことは考えません。だって遊行は“遊びに行く”と書くでしょう。“大いに遊びなさい”の意味だと解釈してます。
昔は“80代なんて、死ぬちょっと前”という感じで、この年で何をやるかなんて、あまり語られてこなかった。でも今は普通に生きちゃう人が多いから、80代をどう生きるかという研究は面白いと思う。すごくやりがいがあるわね。
私は70歳になった時“林住期はもう十分楽しみました。これからはエンジンを再始動し、もう一働きします”と宣言して自宅を開放し、大人の寺子屋『森羅塾』を開いたの。たくさん講師と受講生が集まって、70代でも人間力が上がるのを実感しました。
70代でそうだから、80代はもっと自由だと思う。年をとるって、案外いいものよ。現役時代のようなしがらみがなくなって、いろんなチャンスが巡ってくるんです。
こう言うと、“そりゃあなたは健康だから”なんて思われそうですが、私は大病こそ経験していないけど、昔からお転婆で、乗馬中に落馬して腕を折ったり、怪我なら数え切れないほど。
老化だって避けられず、腰は痛むわ、目はかすむわ、記憶力も衰え……(苦笑)。年相応の不自由はありますよ。でもね、だからこそ、あえて“80代が楽しみ!”と言うべきだと思うの。この年になったら、みじめったらしくしない。みすぼらしくしちゃダメ。見栄を張って、胸を張って、上を向いて歩こう! その気持ちが大事なんです」
(取材・文/西出真由美)
(2022年9月16日転載終)
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(https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001754.000013640.html)
執筆中断から5年、桐島洋子の壮大な物語を3人の子供たちがつなぐ。『ペガサスの記憶』
「この伝記を読めば、なぜ私たちが桐島さんにあれほど熱狂したかわかる」――林真理子(作家)
株式会社小学館
2022年7月7日
先行き不透明で何をするにも窮屈な今こそ知りたい「桐島洋子」の大胆な生き方
フリージャーナリストとしてマス・メディアで活躍するかたわら、未婚のまま、かれんさん、ノエルさん、ローランドさんの三姉弟を育て上げた桐島洋子さん。
本書は、彼女が自身の半生を綴る雑誌連載としてスタートしていましたが、認知症の悪化で執筆を中断・・・。それから5年、止まっていた物語を、長女のかれんさんら3人の子がつなぎ、母への思いとともに書き紡ぎました。
«母と私たちの二世代で、八十年を超える母の人生を振り返る作品をようやくまとめることができました。
母が作家としてデビューをした一九六〇年代も、そして今も、母のような生き方をする女性は稀有な存在なのだと、つくづく感じ入ります。
三十代で作家デビューして、若いときには「未婚の母」「飛んでる女」がキャッチフレーズのようになり、スキャンダラスにまつりあげられても、怯むことなく堂々と前を向いて、母は生きてきました。傍目から見ると波瀾万丈な人生を選択しているように感じるけれども、アウトローでありたいと世間から外れることを狙うわけではなく、本人はいたって真面目なのが、おもしろいところです。大胆不敵で聡明で驚くばかりの行動力。お嬢様育ちで女王様のようでもあり、恋をすると熱烈――。
世間の目との戦いもあり、一人で子供三人を育てるのは大変なプレッシャーもあったことでしょう。必死に働いて必死に生きて、でも、生きている限りは必死に楽しもう、というのが母らしさです。お金や物や権力に頼ることには、まったく興味がありません。私もノエルもローリーも敷かれたレールに乗っかる人生やブランドものには興味がなく、それよりも、自分らしく、何が幸せなのかと考えて人生を歩んできたのは、母のおかげといえます。»
(本書「あとがき」より/かれん)
洋子三歳ぐらいのころ、上海で父・龍太郎と母・章子、二人の兄と共に撮影した家族写真。
«昭和十五年(一九四〇)年、三歳の私は、両親に連れられて上海に渡り、ランドマークとしてそびえるブロードウェイ・マンションという高層ホテルのスイートに滞在していた。翌年十二月八日の丑三つ時、突然物凄い轟音に叩き起こされた私は、わけもわからず泣きわめきながら両親の寝室に駆け込んだ。父も母もすでに起きだしてガウンを羽織り、テラスのガラス戸越しに不安げに下界を見下ろしている。すると突然ジャラジャラと異様な金属音が響いて、そのテラスへ上から鎖伝いに降りてきた軍服の男たちに、この部屋は作戦本部に使うのですぐに明け渡せと命じられ、私たちはすごすごと別室に移動した。
父は大陸新報という新聞の社主だったから、そこへ部下や情報もどんどん集まってくる。あの轟音は眼下の河に停泊中のアメリカ艦船を日本の陸戦隊が撃沈したのであり、それと同時にハワイの真珠湾を奇襲攻撃して正式に宣戦布告したということもわかった。»
(本文より)
「女性の自立と成熟」の代名詞として女性から絶大なる人気を集めた桐島洋子さんの最初で最後の本格自叙伝。長年の桐島洋子ファンをはじめ、自分らしく生きることを模索する現代の女性たちに、年代を超えて勇気と元気を与えてくれる1冊。
『ペガサスの記憶』
著/桐島洋子 著/桐島かれん 著/桐島ノエル 著/桐島ローランド
定価:1980円(税込)
判型/頁:4-6/224頁
ISBN978-4-09-388860-8
小学館より発売中(6/15発売)
【著者プロフィール】+α (by Lily)
桐島洋子(きりしま・ようこ)
1937年東京都生まれ。高校卒業後、文藝春秋で九年間勤務の後、フリージャーナリストとして活躍。1970年『渚と澪と舵ーふうてんママの手紙』で作家デビュー。1972年『淋しいアメリカ人』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。世界中を旅しながら、書籍や雑誌の執筆のほか、テレビのコメンテーターとしても活躍。
桐島かれん(きりしま・かれん)渚(Zoe)
1964年神奈川県生まれ。学生時代にモデルの仕事をはじめ、女優、歌手、ラジオパーソナリティなどマルチに活躍。写真家の上田義彦氏と結婚後は四人の子供を育てながら日々の暮らしを提案し、現在、ファッションブランド「ハウスオブロータス」のクリエイティブディレクターも務める。
桐島ノエル(きりしま・のえる)澪(みお)フランソワ・ジャクリーヌ
1965年神奈川県に出生届。テレビ番組『OH!エルくらぶ』司会者としてデビュー。エッセイストとしての執筆活動に加え、テレビ、ラジオ、翻訳などで活躍。1997年バンクーバーに移住。カナダと日本を行き来しながらヨガインストラクターとして活動中。
桐島ローランド(きりしま・ろーらんど)舵(かじ)ローリー/象太郎
1968年神奈川県生まれ。ニューヨーク大学TISCHスクールオブアーツ写真科卒業後、フォトグラファーとして、ファッションやポートレートを中心に雑誌、広告、TVCM、プロモーションビデオなど幅広く活躍。最先端のデジタル・テクノロジーを駆使したビジュアルクリエイターとしても活動の場を広げ、現在、CG制作の株式会社Cyber Human Productions取締役。
(2022年9月16日転載終)
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桐島洋子さんに関しては、『淋しいアメリカ人』『聡明な女は料理がうまい』に加えて、『50歳からの聡明な生き方-しなやかに人生を楽しむ37章』を読んだことはある。
筆が立つというのか、文章力があって、ストーリーはそれなりにおもしろいので読んではみたが、私には規格外だった。
でも、バブル経済高潮期で、何となく余裕があった時代には、桐島洋子さんのような奔放で自由な生き方に憧れていた女性達も少なくなかっただろう。
上の娘さん達が、ちょうど私と同世代なので、若い頃の過ごし方として、いろいろと思うところはあった。生まれてすぐに、人に預けっぱなしだったり、国内外を旅と称して連れ回して、学校も家庭も落ち着きがなかった割には、三人とも落ち着くところに落ち着いた、というのか、収まるところに収まった、という感じ….。よくぞ、病気や事故に遭遇せず、育ったものだと感嘆させられる。
だが、凡人が安易に真似をするものではない。最近では、シングルマザーが増えて、どういうわけか公的資金で生活助成する制度までできているが、本来ならば、あってはならない家族形態だと思う。
桐島洋子さんがあのようにできたのは、そもそも経済大国ニッポンだと自他ともに認めていた頃だったからだ。また、表に出さずとも、恐らくは先祖代々の遺産相続の分け前があったからだろうし、文筆だけで生計を立てるなど、独身のフリーランサーでさえ大変なのだから、余程の裏技を使ってきたに違いない。
また、「作家」と称していても、きちんと資料を集めてコツコツと読み解いてから書く文章ではない。台所で原稿執筆、という写真を見たことがあるが、それとて、経験談を基に、思い付きで書き流すからこそできる芸当だ。
雑誌の連載等や書下ろしを綴って、一定期間が経つと本にまとめて、売り出す。昔出した本の再版もしたたかに売り込む。そして、テレビ出演や講演やインタビュー等でも、稼ぎに稼いだ。後は、旅やホームパーティーや洒落た住まいで、「女性の生き方」指南のような雑誌で、ゆったりと優雅にファッションモデルのような生き様を見せる。
生き方そのものが売り物、つまり生計の糧だったのだから、相当に大胆不敵かつ疲れるライフスタイルだったに違いない。
その証拠に、下の二人はいずれも離婚を経験している。私と同い年の真ん中のノエルさんが一番不安定な印象で、何が言いたいのかわからない、変な文章を平気で書く人だ。
また、一応はきちんとした結婚をして、子供を4人も生んで育てた長女のかれんさんだって、学歴はいずれも中途半端。どこでも退学のオンパレードなのだ。
末の長男さんは、タレントと結婚し、すぐに離婚。また、9年程前、参院選に出馬して、見事に落選。有権者は意外と堅気なのだ、ということにどれほど意識的だったか?
それでも、強気で出て来て、微笑み写真を売り物にしている家族だ。孫七人とはいえ、それほど親しく交流しているわけでもなさそうだ。第一、それぞれの配偶者が一緒に出ている写真は、今まで見たことがない。
何だかなぁ…..。文章は常に一歩前に出ているのに、実態がこれでは……。
「自分で稼いだお金を自分のために使って何が悪い?」と開き直り、印税で一年間、子供三人を連れて「ちょっとアメリカへ」。その滞在記がまた、次の物書きのネタになっていた、という…..。
お母様がいなくなられたら、お子さん三人は、どうされるつもりなのだろうか?幼少期から露出度が高かったから、今更引っ込みもつかない。つまり、桐島洋子あっての子供の人生だったのであって、子供が全く個別に自立しているわけではない。
文章に表れていない部分を憶測しながら読むべきだ。
それにしても、あの文章に影響されて、人生を棒にふった日本女性がどのぐらいいることだろうか?
身の程の範囲内で、無理せず、見栄を張らず、地道に手堅く生きるのが一番。つくづく、今回そう思った次第。
(2022年9月16日記)
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2022年9月17日追記1:
まだ続きがあった。このブログを書く案を練っていた昨日、ウェブ公表された記事だ。
(https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/fujinkoron/life/fujinkoron-6608)
桐島かれん×桐島ノエル「母・洋子の認知症を公表するのは最後まで悩んだ。同居が始まった頃、被害者意識が募った時期も」
『婦人公論.jp』
2022年9月16日
6月に刊行された家族での共著『ペガサスの記憶』では、母・桐島洋子さんが認知症であることが公表されています。診断から現在までの7年間、どんなことを話し合い、どのように母をサポートしてきたのでしょうか(構成=山田真理)
<前編よりつづく>
父親のような母と母親のような姉
かれん:認知症だとわかってからは、家族の誕生日や旅行で集まったり、ほかにも3人で定期的に会って母のことを話し合ってきたつもり。でも、ノエルが「カナダに帰りたい」というほど追い詰められていたとは、なかなか気づけなくて本当にごめんね。
ノエル:私たちは基本的に、プライベートな打ち明け話をするのが苦手でしょう。これは絶対、母の影響だと思う。「家族で何か問題が起きた時、私はまずそれを胸の中の箱にしまうの。数日経って開けたら、だいたいの問題は消えてなくなっているものよ」って。一人で問題を抱え込んで、外へもらすことが不得意なの。
かれん:いわゆる普通の母と子の関係とは違って、ベタベタしたところがないのよね。たとえば、夫は病気の義母に会う時、愛おしそうに頬ずりしたり髪をなでたりする。私たち家族は、そういうスキンシップや愛情表現がないわね。
ノエル:「なにそれ気持ち悪い」って言いかねない。(笑)
かれん:どちらかというと母は、昔のニッポンのお父さん的存在よね。つねに忙しくて、たまに家にいると子どもたちがピリッと緊張する感じ。かまってくれたり、病気の時に世話をしてくれたりする「母親的な人」は、祖母や書生さんと呼ばれる秘書代わりの女性たち。母とはそうした関係を結ばないまま育ってしまったから。
ノエル:そのぶん、普通のきょうだいより結束は固いかもね。
かれん:親の生き方に翻弄された《同志》というか。戦友みたいなものでしょう。(笑)
ノエル:母との同居が始まった頃、被害者意識が募った時期があったのね。「私はこんなに大変なのに、かれんやローリーは自由に生きていてずるい!」みたいな、負の感情に囚われてしまって。でもちょうどその頃、かれんが20代に母に宛てた手紙を、バンクーバーの家で見つけたの。母の結婚相手に私たち3人はひどいことをされていたのだけれど、「あの人と別れないなら、私はお母様の葬式にも出ません」という辛辣な手紙で、びっくりした。
かれん:あの時期、私は母とほとんど顔を合わせていなかった。でもノエルに関することでとうとう我慢が限界に達して、まず直談判で訴えたのよ。そうしたら完全に開き直られてしまって、だからあの手紙を最後通牒のつもりで突きつけた。
ノエル:そのことを手紙で初めて知って、涙があふれて止まらなかった。私やローリーは自由奔放に育ってきたけれど、かれんは「みんなのお母さん」的な役割だったでしょう。あの時も冷静にきょうだいのことを考え、責任感を持って行動してくれていたんだと思うと、心にたまっていた嫌なわだかまりがスーッと消えていった気がした。
かれん:ローリーは末っ子で天真爛漫、ノエルは母と趣味も合って仲よし。私だけ何となく小さい頃から、授業参観にも運動会にも来てくれない母を普通じゃないと感じて、どこか恥ずかしいと思っていた。だから母親の役割を私が担おうとしてきたのかもしれないね。大人になった今も、家族一緒に世界中を旅している。2015年、バンクーバーの友人に会いに
できるだけ正直に家族の「今」を
ノエル:母が病気で中断していた「最後の自叙伝」を私たちきょうだい3人で書き継ごうと考えたのも、長女としての責任感だったの?
かれん:というよりも、途中まで進んでいた原稿が非常に面白くて、本にしないのは単純にもったいないと思ったの。私たちの記憶を紡いでいけば形にできるんじゃないかと。
ノエル:私は最初、「桐島洋子賛歌!」みたいな本をイメージしてた。私たちのパートも、子どもの頃から何百回も書いてきた「お約束の話」を書けばいいのかなって。ところがかれんが最初に書いてきた文章を読んだら、想像以上に激しい内容で。「え、ここまで書いちゃっていいの?」と衝撃を受けた。
かれん:ふふふ。
ノエル:だって私たち、子どもなりに周りの空気を読んで「桐島洋子」のイメージを守ろうとしてきたじゃない。そこから外れる内容を明かしてしまっていいものか、しかも母が自分で原稿を書けない状況で――と、ずいぶん悩んで原稿もなかなか進まなかった。
かれん:ノエルはすごく慎重だったね。ローリーは「いいじゃない、オッケー!」って軽く受けてくれたけど。(笑)
ノエル:やっぱりローリーがきょうだいにいてくれてよかったと思う。(笑)
かれん:ただ、母の病名を明かすかどうかは最後の最後まで悩んで、3人で時間をかけて話し合ったのよね。
ノエル:母は人に弱みを見せるのが大嫌いだから、たぶん病気のことを公表されたくなかったと思う。あとがきのパートで病名を明かしたことに、今も私は激しい罪悪感があるの。でも同時に、もしこれが遺作になるのだったら、何か意味のあるものにしたかった。
かれん:それはきょうだいみんな、同じ気持ちよ。
ノエル:母は、これまで自分の生き方を通してたくさんの女性に夢や希望を与えてきたでしょう? でもこれだけ情報過多のネット時代に人が求めるのは、夢よりも真実じゃないかって。
かれん:そうかもしれない。
ノエル:考えてみれば私たちはずっと母の本の登場人物だったけれど、自分たちの物語を完全には書いてこなかったのよね。だからこの本ではできるだけ正直に私たち家族の「今」を書いたつもり。泣きながら書いたパートもあって、それが自分のセラピーにもなった気がしてる。
かれん:原稿は母にも全部目を通してもらったけれど、認知症だと公表する部分を読んだ瞬間は「何でこんなことが書いてあるの」と、ムッとしてたわね。普段は認知症だということを忘れているから。でもその後あらためて会いに行った時に、「あなたたちが病気だって言うなら、そのまま書けばいいわよ」って。
ノエル:誇り高く潔い、母らしい反応だと思う。
かれん:ある意味、母の病気のおかげできょうだいの結びつきを再確認できた7年間だったかもしれない。
ノエル:そうね。私自身、家族の間でも本音を言えずにため込んでは爆発するというコミュニケーションの癖を見直して、自分が思っていることを素直に伝える練習ができたと思う。それが今、娘や周りの人たちとの関係にも役立っている気がする。
かれん:母は昔から、自分の親族や身の回りの困っている人を全力で助けてきたでしょう。そうした部分を尊敬していたし、自分もそうありたいと思ってる。ノエルも、カナダでもし困ったことがあればいつでも私を呼んでよね。
ノエル:お互いもっと年を取ったら、「昔はあんなことも、こんなこともあったね」って穏やかに振り返れたらいいな。
かれん:美味しいワインでも酌み交わしながら、ね。
(2022年9月17日転載終)
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2022年9月17日追記2:
上記の二人のお嬢さん方の会話記事は、それなりに読める。さすがに、私と同世代だけある。いつまでも虚勢を張って虚飾で生きられるほど、人間の神経や精神や心はタフではない。ネットで情報が顕わにされる昨今、本音を優先した正直な選択には同意する。
《私たち、子どもなりに周りの空気を読んで「桐島洋子」のイメージを守ろうとしてきたじゃない》
《母は、これまで自分の生き方を通してたくさんの女性に夢や希望を与えてきたでしょう?》
《でもこれだけ情報過多のネット時代に人が求めるのは、夢よりも真実じゃないかって。》
つまるところ、「新しい(身勝手な)女性の生き方」雑誌の典型のような『婦人公論』にしてからが、老いと病(神経難病)には降参するしかなかった、という告白記事でもある。
学生時代から、『婦人公論』や『クロワッサン』等の女性雑誌は、新聞広告を見るだけでも嫌だった。あんな浮いた草の様なものに人生を委ねるなんて、という…..。なぜ、憧れる女性達がいたのだろうか?単に、芸能人や女優やタレントのように、身を削って、根拠なき夢というのか、幻想というのか、ファンタジーを切り売りしてきただけでは?
今、手元に、稲木紫織『日本の貴婦人』知恵の森文庫(2004年)という本がある。徳川喜和子さん、酒井美意子さん、冷泉布美子さん、井上喜久子さん、石井好子さん、朝吹登水子さん等、本流の上流階層の日本女性達のインタビューをまとめたものである。元は1999年に発行されたものらしいが、今は亡くなった方も少なくないから、時期的にもタイミングよく発行された企画だと思う。
2020年初頭以来ずっと、コロナ問題で殺伐とし、浮き沈みがあり、感染者数に振り回されている昨今。無理矢理「すべての人々が輝いて」「元気印」を振り撒くように政府自ら国民に仕向け、そうしなければ経済的に立ち行きそうもない今の日本の状況から振り返ると、まだ多少は余裕のあった時期だ。
こういう方々と桐島洋子さんとは、明らかに風貌からしても一線を画している。どちらかと言えば、アウトロー的な、イデオロギー的には左派リベラル崩れのフェミニスト成層圏に属するのが、桐島洋子さん、ではないだろうか?
ホームパーティ等で気の合うお仲間や友人に囲まれて、写真だけ見ると楽しそうだったが、その人間関係だって、いつまで永続しているのか、殆ど保証のない危さを感じていた。第一、住処をあちこち変え過ぎる。
上野千鶴子や田嶋陽子なら、軽い話題が満載の雑誌の対談相手としては格好の組み合わせだったかもしれないが、さらに年上で93歳ぐらいの佐藤愛子さんが、今も着物姿でピシッと出て来られると、やはり世代差を感じる。
(注:ちなみに、うちの主人はずっと前、何かの拍子に「佐藤愛子は嫌いだ」と言っていた。関西人だから、何かと感じる所があったのだろう。私は高校時代のクラスメートから勧められて、暇な時に佐藤愛子さんのエッセイ風の本をしばらく読んでいた時期があった。サトウハチローや遠藤周作等を知ったのは、そこからである。本を紹介してくれた友達とは、授業の合間の休み時間によくお喋りしていたが、結局は高校一年で退学し、湘南だったか、親戚のツテで関東へ行ってしまった。大学も一浪だったかと思うが、その後の詳細は不明のままだ。)
桐島洋子さんに比べると、佐藤愛子さんの方が余程どっしりと肝が据わっている。別れた夫が抱え込んだ膨大な負債を自分の筆一本で返済し、子供は娘さん一人にとどめて、無理せず、それなりに世間に受容される生き方のように見える。
桐島家の娘さん達が、この場に及んで内実を曝露しているところが、むべなるかな、といった感じではある。逆に、表向き許可を取ってはあるらしいが、認知症になった母親には極めて残酷な人生の仕打ち、とも思えなくもない。月100万円とか聞く大金をかけて、他人であるヘルパーさんに始終面倒を見てもらう暮らしが、今後もしばらくは続くのであろう。いつまでかはわからない。
(2022年9月17日記)
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2022年9月17日追記3:
こんなことを書くのは、繰り返しになるが、上の娘さん二人が私と同世代だったから、ということもあるが、桐島洋子さんの4歳年下である実家の母親が、愚かにも桐島洋子さんがテレビで話したり、雑誌に書いたりしていることを鵜呑みにして、「私も離婚して、家族から離れて一人で自立して生きていく!」等と宣言し、亡父を筆頭に、私達子供三人がえらく迷惑したからである。
それは、私がマレーシアでの任期が終わって帰国した1993年頃から始まった。父は55歳で定年退職をし、その後は第二、第三の職場で嘱託のような仕事をしていた。これからようやく夫婦でゆっくりできる、と思った時期に、妻たる母親が唐突に突飛なことを言い出したのだから、父の狼狽とショックは、想像するだに今でも本当に可哀想だ。
私達が学校に通っていた頃、母親は自宅で近所の子供にお習字や簡単なピアノを教えて、なにがしかの収入を得ていた時期があった。ピアノは、私が幼稚園の頃から教え始めた。音大卒でもないのにそれが可能になったのは、取りも直さず、母親自身が当時のあの世代では一割程度の四大卒だったということと(それとて、祖父母の理解と財力のおかげである)、たまたま名古屋市内の密集した住宅地や郊外の田畑が広々と残っていた小さな田舎町で暮らしていたこと、それ以上に、名古屋では有名だったが今は統合されて消滅してしまった都市銀行の管理職として亡父が毎晩遅くまで働き、堅実な家庭を維持してくれていたことが、要因として考えられる。そして、私達子供三人が概ね健康で、真面目な態度で学業や部活動に励んでいたからだ、と母方の祖母は私に言った。
ところが、そういう周囲の諸要素を勝手に剥ぎ取って、あたかも自分一人の力だけで稼いでいるかのような錯覚を、うちの母親はいつのまにかテレビや新聞等のマスコミによって洗脳的に植え付けられてしまったようだ。「女性の自立」「個性を生かした生き方」が殊更に喧伝されていた時代だったからでもある。桐島洋子さんが、たまたまベストセラーになって入った印税その他を持参して、一年間、子供三人を連れてアメリカ移住した話でも、「お金がなくなったら、また仕事を探して働けばいい」みたいな軽薄な言葉遣いに、すっかり乗せられていたらしいのだ。
実に罪深い風潮だったと思う。
その結果はどうだったか?
私達子供三人が同居していた頃までは、殊勝にも自宅へピアノやお習字を習いに来る人々がいた。それとて、帰宅した私のことを「あの人誰?」と習いに来た人から尋ねられても、「知らない」と他人事のようにあしらい、せっかく苦労して働いて貯めた一年分の給与の貯金通帳をいつの間にか私から取り上げ、「あんた(私)さえいなければ家の中が平和だ」とばかりに、家から冷たく追い出すような形で無視し続けた。
その挙げ句、何とか私が結婚した後は、まるで葉っぱが枝からハラハラと落ちていくように、次々に「生徒さん達」がやめるようになった。
亡父が時々、私に電話をかけてきて「あんな教え方でよくつとまるなぁ」と嘆いていたが、ある日の電話で「結局、皆がやめていった」。
それはそうでしょう?「あれ?一番上の娘さんは?」と尋ねられても、「知らない」「勝手に家を出て行った」みたいな話をすれば、誰だって驚愕して恐れをなすに違いない。大体、あの辺りの風習では、嫁が出る家の屋根に身内の誰かが上って、近所の人達にお菓子を投げ与え、皆でお祝いするのだ。ところが、(自分の思い通りにならないから)と勝手に追い出して、自分だけが悦に入っていたら、そんな身勝手な真似は、誰もが許すわけがない。
それでも、新聞投稿で自分中心の話をこしらえて、「原稿料(?)をもらった」と嘯き、親戚の人達には、私の存在をまるで無視したような、ありもしない作り話みたいな悪口を、手紙で書いたり電話で話したりしていたらしい。ある時には、二つの金融機関から、それぞれに電話が突然かかってきた。私名義の通帳や、本来は私のものであるはずの預金の手続きを、親権を盾に(!)母親が拒み通して困っているということだった。営業妨害にもなると、被害者たる私の方が言われてしまった。
以下に、過去ブログを抜粋しよう。
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20150114)
《「結婚時に渡すから」とのことだったが、結婚相手が気に要らないからとか何とか、結局は全額取り上げたままである。
それどころか、子どもが職についてからも、給与を勝手に管理して貯金通帳を取り上げた挙げ句、子の配偶者が盗んだと触れ回っているのも知っている。
なぜ、お金にこだわるかと言えば、お金があれば自由選択で行動範囲が広がるので、それを阻止して、いつまでも自分の管轄下に置きたいからなのだろう。》
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20160228)
《祖母等からのお祝い金も渡さず、過去に私の貯金通帳をごそっと盗み、預金からほぼ全額を下ろされたりしたことが思い出され(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160221)、総計すれば相当額になることから、その腹立たしさは尋常ならぬものがある。貸し借りの行為ではない。金庫に入れておいた私自身の給与通帳を、結婚前に盗み取ったのだ。父の場合も銀行員ゆえ、手帳に細かく記録をつけていたが、それも文字通り墨塗りで消された。父と私は、真面目に暮らしていても、そのようにして、何ら落ち度なく自らの勤労の果実を取り上げられたのである。》
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20170114)
《私が働いて貯めた一年分の貯金通帳さえ、いつの間にか取り上げられている。祖母からのお祝い金も全部取り上げ。ちなみに、晩年の父と、結婚後一年で診断を下された主人は、同じ難病患者。父は「ユーリのところは大変だから、悪いようにはしない」と電話で言ってくれていた。2008年より前には、時々父から電話やメールがあり、「連絡をくれるのは、ユーリだけだ」とも書いてあった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141224)。記録済み、保存済みである(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151216)。》
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20171116)
《妹は父の株手帳を私の目の前で受け取っておきながら、私は取り上げられている。金融機関が証明している。それどころか、祖母からの長年のお祝い金や私の一年分の給与貯金通帳まで、気がついたらごっそりと下ろされていた。それにも関わらず、妹は法定相続人の私に向かって「あんた遺産欲しいの?」「気がつくのが遅い」などと抜かした(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140128)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141224)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160221)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170105)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170201)。》
内実が親戚筋に明らかになったのは、母方の祖母が亡くなった約二年後に実家の父も亡くなって、その翌年の2014年ぐらいからである。同居だった親戚の叔母と、滝のように電話で自由に話すようになってからだ。私の話には、いつでもびっくり仰天されていた。
もっと話が通じるようになったのは、21年以上の若年性神経難病を経て主人が亡くなった、2020年春を過ぎてからだ。父方の叔母達三人と初めていろいろと電話で話すことができ、「兄(私の亡父)からも断片を耳にしていたから」と、私の話を信用してくださった。
いずれも、「ちょっと理解できない話。もっと早くから知っていたら、助けてあげられたかもしれないのに、本当にごめんね」とは言ってくださった。
第一、主人のことだって、発病後、母親からはお見舞い一つなかった。経歴だって仕事の内容だって、結婚前に主人が「きちんと説明する」と何度も言っていたのに、一切知ろうともせず、表面だけ見た自己判断に基づいて、歪んだ主人像を作り上げて勝手に思い込み、私達が「ボロ安アパートでゴミ屋敷の中で暮らしている」と言わんばかりに、周囲に悪口を広めていたらしい。第一、それでは主人と主人の家系の人々、そして、最期までお世話になりっぱなしだった勤務先に対して、失礼極まりない。そもそも、社会常識に反することである。
ブログを私が書き始めたのは、2007年6月のこと。いつも繰り返しているように、ブログ用のソフトまで買い込んで、主人が度々勧めてくれたからだ(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20151111)。
最初は、生活記録と勉強ノートのつもりだった。2013年2月に亡くなるまでの数年間、亡父が読んでくれて、「やっとマレーシアや関西での暮らしぶりや研究内容がわかった」と電話で言ってくれたこともある。
そうでもしなければ、主人の会社の人以外に、私達の暮らしがきちんと伝わらない可能性が大きかったからだ。
情報を遮断し、歪曲していたのは、母親だった。
なぜそうしたのか?恐らくは、娘の私をいつの間にか「ライバル視」していて、「絶対あの子には負けたくない」みたいな、変な妄想を抱くようになっていたからではないだろうか?
私の場合、何度かの海外のリサーチ旅行も、いつでも家で待っている主人のことを思い、一期一会だからと、必死で資料集めやインタビューや現地観察をしてきた。決して、気楽にお遊び気分で家を抜け出したのではない。第一、飛行機や宿泊ホテルも、大抵は主人が喜んで予約をしてくれていた。その方が、私の行動過程の把握もでき、安心だったのだろう。それに加えて、リサーチをした証拠として、ブログで経験記録を公表したのみならず、必ず研究会や学会で口頭発表を継続してきた。費用は自分持ちだが、していることは全部、公的な意図を持っていた。
一方、母親の方は、私の公的目標や主人の寛大な程の支援を全く無視して、晩年は同じく神経難病を罹患した父を、無理やり車椅子で海外旅行に連れ出したり、介護が終わってからは「世界旅行をする」と言い出して、私を除く親戚中に、万が一の用心(?)として、チラシ入りの手紙で知らせていたらしい。
他方、私がしてきたことは、資料上の制約と現地でのセンシティブな問題の性質から、神経を使う苦労の連続であり、それなりに認められてきたから、主人も応援してくれたことなのである。何も好き勝手に「海外旅行」を楽しんできたのではない。自分の目に映る私の表面的な行動だけで、勝手に解釈して、私を上回る大胆な行動を取ろうとした節がうかがえる。全く困ったものだ。
だが、そういう自己中心的な視野の狭い母親は、時々いるらしい。娘の方が、さまざまな苦労を抱え込みつつも、離れた地で、案外にまっとうな暮らしを営んでいるパターンが少なくないことも、特徴的である。
母親世代は、型にはまった人生を「押しつけられて」、生まれた家と嫁ぎ先という二つの家の中だけにいて、世間の厳しい風に当たることなく長年過ごしてきたから、それでも通用すると思っていたのかもしれない。
とりあえず子供さえ産んでおけば、後は世間で形式的には通用するから、ありもしない「娘が」「息子が」「嫁が」「孫が」という誇張した話で、他人と幸せ比べをしつつ、何とか自分の存在意義を確認しながら生きてきた世代なのかもしれない。
戦前に生まれていても、その行動様式は、いかにも突然降ってわいたような「自由」な戦後思想の世代、である。年甲斐もなく、年齢不相応に元気そうに若作りして振舞うのも、この世代の女性達によく見かける。スーパーでも動作が緩く、うろうろして平気でぶつかっても、一言も謝りもしない。
振り返ると、その上の世代の方達は、もっと地味でもしっかりとされていた。わきまえがあったと記憶する。
桐島洋子さんは、さすがにもっと洗練されて上手に立ち回っていたと思う。第一、桐島家の家系が三菱財閥であったから、持てるものが最初から段違いに異なる。それなのに、どういうわけか安易に混同して、「自分だって男(夫)に依存せずとも、自分の才能と才覚で人生を切り開けるんだ」と思い込む辺り、本当に傍迷惑な風潮だったと感じる。
朝日新聞の家庭欄や「女の気持ち」みたいな投稿欄も、人生を誤導する甘い囁き記事を連発していた。
これは全部、マルクス・エンゲルス・レーニン主義やグラムシやアリンスキー流の家庭崩壊思想から来ているのですよ!最近の孤独死や個食、孤食の風潮、50代のひきこもり層、人口縮小や経済低迷の原因は、そこに帰する。政府がいくら、お見合いパーティをお膳立てしたり、給付金をばらまいて一時的に「支援」したつもりになったとしても、政策として根本を正さなければ、延々と問題が拡張し、浸透するだけである。
(2022年9月17日記)
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2022年9月17日追記4:
前後が逆になるが、上記の転載の前半部分を以下に。
(https://news.yahoo.co.jp/articles/5cee8339a951097e9aade423d9275daeaf5b9c7a)
桐島かれん×桐島ノエル「母・洋子が認知症に。聡明だった母は自分が自分でなくなる不安に取りつかれ、精神的にもひどい状態だった」
介護はプロに任せたほうが甘えやすい。「鈍感さ」も実は大事<前編>
桐島かれん 桐島ノエル
『婦人公論.jp』
2022年9月16日
6月に刊行された家族での共著『ペガサスの記憶』では、母・桐島洋子さんが認知症であることが公表されています。診断から現在までの7年間、どんなことを話し合い、どのように母をサポートしてきたのでしょうか(構成=山田真理)
◆急激に進行した母の症状
かれん:「お母様の様子がおかしい」と、ローリー(弟で写真家・クリエイターの桐島ローランドさん)を含めたきょうだい3人で話したのは、8年前のこと。
異変に気づいたのは、私の誕生日に合わせてみんなでスリランカを旅行した時だったね。ホテルの部屋をいったん出ると自分で戻れなくなったりして、「最近、忘れっぽくなっているんじゃない?」と。
ノエル:その少し前、私の住むカナダのマンションに滞在した時に「ここはどこだったかしら」と言っていたから、心配になってバンクーバーの医療機関で検査を受けてもらったの。でも、単語を覚えて復唱するようなテストだと、母は言語能力が高いからけっこうできちゃうのよ(笑)。結果は認知症ではなく、「MCI(軽度認知障害)の初期」だった。
かれん:おかしいと感じていても、まさかあの聡明で元気な母が認知症なんて信じられないというか、信じたくない気持ちが強かったね。
ノエル:母の元夫が病気で亡くなった頃だったから、その看病疲れやストレスで一時的に不安定になっているのかも、とか。私たち自身が現実から目をそむけていたのかもしれない。
かれん:当時、母は友人家族と東京の一軒家で同居していたのだけれど、その方からも「洋子先生が心配だ」と言われて。日本でもう一度検査を受けてもらった結果、アルツハイマー型認知症と診断されたのよね。ショックが大きかったし、あの時はきょうだいみんなパニックになっていたと思う。
ノエル:そうね。だって、まだ連載や書き下ろしの仕事をたくさん抱えて、バリバリ働いている状態だったでしょう。母の仕事相手や幅広い交友関係の人たちに、病気のことを公表すべきかどうか。そうした悩みがまずあったかな。
かれん:その頃の母を支えてくれたのがノエル。バンクーバーの家へ呼んで、連載の原稿を書くサポートもしていたよね。
ノエル:私の仕事は時間に融通が利くから。それに離婚してシングルマザーになってからは、精神的にも経済的にもいちばん母の援助を受けてきたわけだし。だからバンクーバーで同居して、穏やかに老後を過ごしてくれたらと思っていたのだけれど、思った以上に大変で……。
かれん:私たちみんな、認知症という病気について知識が足りなかったものね。特に母の場合、初期にものすごく急激に症状が進んだから。
ノエル:自分が自分でなくなる不安に取りつかれて、精神的にもひどい状態だった。やっぱり住み慣れた日本で暮らすのがいいのかなと思って、私も一緒に帰ってくることにしたの。
◆2人きりの同居生活に限界がきて
かれん:ノエルはカナダのヨガ教室を大きくしようとしていたタイミングだったし、娘の大学受験もあったから、バンクーバーの生活を手放すには勇気が必要だったでしょう。
ノエル:かれんはかれんでファッションの仕事を本格化したところで、ローリーも会社を立ち上げたばかり。3人それぞれ自分の仕事を広げている時期ではあったのよね。
かれん:だからノエルが帰ってきてくれるのは、私もローリーも「すごく助かる」と思った。それで最初は、私の家にほど近いマンションに2人で住んでもらって。
ノエル:そう。でも、私がどうしても自然が多い場所じゃないと暮らせなくて、しばらくして鎌倉へ引っ越すことになったんだよね。
かれん:症状が進むにつれて私たちの知っている「お母様」ではなくなっていく過程を間近に見るのは、心の負担が大きかったと思う。私も仕事が忙しくてあまり手伝えなかったから、せめてノエルの話を聞いて精神面をサポートしたいと思っていたけど……。
ノエル:私は一言「ありがとう」と言ってもらえるだけで、すごく救われた。それにかれんとは昔から、子育ての大変さを語り合っていたものね。
かれん:子育てと介護はもちろん全然違うけど、「24時間、目の離せない存在と暮らす」という点では同じだから。弟のローリーは鈍感というか楽観的というか。(笑)
ノエル:カナダでは子育てに参加する男性が増えているけれど、彼らを見ていて思ったのは「鈍感さ」も実は大事なんじゃないかってこと。女性はいろいろ先回りして考えすぎるから、イライラする面もあるんじゃないかな。それは介護でも同じ。だから私、母と一緒に暮らすのはローリーのほうがよかったかもって思うことがあるのよ。
かれん:そうかもしれない。実際ローリーは母の世話をする時、ストレスを感じているように見えないんだもの。(笑)
ノエル:気を使わないし、特に何か頼まれない限りは母を放っておけるのよね。私はそうはいかなくて、「退屈してるんじゃないか」「お友だちを呼んだら楽しいかも」といろいろ先走って、期待した反応が得られないとガックリ落ち込む。同居生活の最後の頃は、そんなこんなで相当疲れきっていたと思う。
◆プロに頼ることですっかり元気に
かれん:ノエルが精神的につらそうだというのは感じていたし、私自身、母のことをすべて任せきりなのは申し訳ないとずっと思ってた。だからノエルに「同居を解消してカナダに戻りたい」と相談された時は、すぐに賛成できたの。
ノエル:介護って、先が見えないつらさがあるじゃない。私も50代半ばで、何かまた新しい生活を始めるなら最後のチャンスかもしれないと思って。
かれん:1歳違いだから、その気持ちもすごくわかった。
ノエル:ちょうど横浜に私たちが子ども時代を過ごしたマンションが残っていたから、母はそこに住んでもらうことにした。荷物を片づけて、バリアフリーにリフォームして。できるかぎりの準備をし、カナダに戻ったのは昨年の暮れ。おかげさまで、私はすっかり元気になった。
かれん:いずれは施設に入ることになるかもしれないと考え、一緒に見学に行ったりもしたよね。でも、母にはなるべく最期まで本人が心地よく過ごせる空間……、集めてきた骨董や絵画に囲まれた、母の美意識が詰まった部屋で過ごしてほしい。
ノエル:そうね。
かれん:ローリーは「ノエルがカナダに帰るなら、僕が一緒に住むよ」と言い出して、葉山に建築中の家に母の部屋を用意したみたい。同時にお料理教室にも通い始めたというのが、何でも楽しもうとするローリーらしさ。(笑)
ノエル:気持ちは嬉しいけど、おすすめはできないかなあ。私が6年以上同居した実感として、やっぱり家族がすべてを担うのはとってもストレス。母の場合は、プロに介護してもらったほうが甘えやすいと思う。子どもの前でも格好つけてしまうし、「なんであなたにそんなこと言われなきゃいけないの」と意地を張ったり、逆に遠慮が出てしまったり。
かれん:もともと誇り高く、負けず嫌いで、人に弱みを見せたがらない人だものね。
ノエル:私の心の中にも、どこかで「自分は子どもなんだから、本来は親が面倒をみてくれるものじゃない?」という気持ちがあって、それが自分を苦しめていたのかもしれない。
かれん:今は、ノエルがカナダに戻る少し前からお願いしているとても優秀なヘルパーさんに常駐してもらって。母はとても穏やかに暮らしている。たぶん事情をよく知らない人が会ったら、病気だということもわからないんじゃないかしら。
ノエル:幸せそうだよね。そのせいか、前よりきれいになった。(笑)
(2022年9月17日転載終)
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2022年9月17日追記5:
なぜ、このような話を長々と綴ったか?
実は、今月3日の放送大学大学院のZOOMゼミで、指導教授から「僕の予想だけど、ユーリさん、これ(放送大学の修士論文)が終わったら、次は闘病記書くでしょ?」と言われたことと通底する。
(注:8月のゼミは、パソコンの突然のルーター不調で、神戸から修理屋さんに二度、自宅に来てもらって直した。それに、第一回目のレポート提出もあったために、欠席させていただいた。)
即座に、「書きません」と私。
いくら何でも、主人の難病実態を、本人の許可なく、わざわざ披露するなんて、あまりにも….。これまでのように、社会風潮に絡めて、ブログで問題意識として綴るだけで充分だ。但し、論文の他に、元気だった頃の主人のあるがままの姿を知ってほしいと思い、お世話になった知人友人に向けて、誕生期からの経歴と生涯をまとめた小冊子を写真入りで作ることは、前から考えていた。
論文では、私が収集した医療福祉の記録データに即して事実報告を出すことで、我々が遭遇した問題に対する解決への小さな糸口になれば、それが一つの社会貢献になれば、と思って、ごく狭く絞ったテーマを文献中心にまとめる予定だ。
病を抱えた夫婦の私情なんて、いくら私が綴ったとしても、あくまで私の見方でしかない。それこそ、エビデンス不在なのだ。
ただ、我が家の場合、最初から食事やお金の使い方等の基本的な価値観が非常に似ていたのと、主人が自分のことは基本的に何でも自分でするタイプだったので、その意味では大変に楽だった。
これまで、ブログに綴ったような時折の海外リサーチやスタディ旅行等も、演奏会に行ったり、各種の講座を受けたり講演を聴きに行ったりすることも、主人の方が「行って来たらいい」「やってみたらいい」「できるんだから、できるうちにやりたいことをしたらいい」と賛成したり、勧めてくれたことばかりだ。反対されたのは、たった一度だけで、それは「イギリスで英領マラヤ時代の文献資料を見てみたい」という願いだった。薬さえ飲めば、主人がまだ何とか普通に動けた2006年頃のことである。それだけは、どういうわけかダメだと言われたので、私もあっさり引き下がった。それ以外は、主人の同意や奨励あっての私の活動であり、隠すことは何もない。
会社の人達も「奥さん思いだ」と、よく言ってくださっていた。
今の放送大学だって、いつ頃だったか少なくとも数年前に、「放送大学はどうか?」と、主人がいつの間にかBSアンテナを買い込んでベランダに自分で取り付けて、ひかりテレビに切り替えていた。但し、その頃は興味のある科目がなかったので、流れてしまっただけだ。
恐らくは今、私が主人の難病をテーマに論文を書こうと思って、2020年10月から放送大学大学院の科目履修生になり、少しずつ準備を進めて今年4月から本格的に院生として受け入れられ、今に至ることを、きっと喜んでくれているに違いない。
だからこそ、このように安心してブログが書ける。
闘病記は、読んで重苦しいばかりで楽しくもない。正直なところ、他人の事例はあまり参考にはならない。難病に関しては個人差もあり、家庭環境の違いが大きく出るため、疾病の最小公倍数だけを基軸に、社会文脈における最大公約数を略述できれば、それで充分だ。
患者会でも、闘病記を本にまとめて受付に置いてあることがあるが、残念ながら、私も含めて手に取って読んだり、購入する人は殆どいない。つまり、大抵の人は、お医者さんも含めて、他人の人生にはあまり興味がない、というのが実情だ。せいぜい、お涙頂戴風になるか、「病気と闘う」みたいな戦闘的な論調になるか、やたら「感謝、感謝」と宗教調になってしまうか、いずれにせよ、無責任な他人に体よく利用されるがオチである。
一方、少なくとも、論文は違う。経験を基に、勉強と文献研究を通して論文を公表することによる、一種の社会貢献だ。国内では二つ目の大学院、国外も含めると三つ目の大学院生活となるが、基本的な姿勢としては、違いはないと考える。
何よりも、1996年12月下旬、名古屋で出会った初日に「僕は勉強する女性が好きですから」と大真面目に言ってくれ、翌年の2月に父に「結婚前提の交際を許していただきたい」と挨拶した時にも、「勉強する女性が好きです」と、これまた大真面目に言ってくれた恩に報いたい。父の方は「結婚するのに勉強と言ってもなぁ」と戸惑いつつも、「真面目そうな男だ。大事にしてくれるならいい」と、許してくれた。
過去ブログが、それを証明している。
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20080320)
《実家の父は、私が結婚する直前も、そして今でも、「仕事は続けろよ」「大学の方はどうなったのか」と言ってきます。
さらに、主人とて一度も、私のマレーシア行きや勉強を続けたいという希望を阻止したことはありません。何しろ、初めて名古屋で会って食事や散歩をした後、「これからもご連絡させていただいてもいいですか」と言われたので、おずおずと「あのう、結婚後もマレーシアの勉強を続けたいんですけれど…」と申し出たら、急にうれしそうな表情になって「僕、そういう女性の方が好きなんです。何か一つテーマを持って勉強している人の方がむしろいい。僕のところに来たら、自由にのびのび勉強できるはずだ」と言いました。そして、父から結婚前提の交際許可をもらう時にも、大真面目で「勉強する女性が好きなんです」と言っていました。亡くなった主人の母方の伯父も、「誰が何と言おうと、自分はユーリさんの味方だ。学問する人を尊敬する」とこれまた大真面目に、電話で何度も言ってくれました。》
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20091214)
《それまで真面目一筋の表情をしていた彼の顔が、急にうれしそうになって、「実は僕、むしろ女性はそうであってほしいと思っていたんです。僕も勉強が好きだから、そういうことをわかってくれる人の方がいいんです。僕だって、好きでアメリカまで勉強に行ったんだから、女性が結婚したからといって、それを妨げる筋合いはない。マレーシアなんて、近いから、一ヶ月でも半年でも行ってきたらいい」と、勢いづいて言い出しました。私の方も慎重になって、「だけど、結婚前なんて、男の人は何でも言いますよねぇ。目的のためには手段を選ばないって」と畳みかけると、「いや、本当に僕、その方がいいんです」。「じゃ、何か裏でもあるんじゃないですか?」「え?どうしてそうとるかなあ。全然、信用されていないんだなぁ」。
この会話は、私の方がよく覚えていて、主人の方は忘れていました。ただ、うちの父に結婚前提の交際を許可してもらうために名古屋駅まで来た時、彼は本当に大まじめに言ったのです。「僕、勉強する女性が好きなんです」。家に帰ると、父がぼそりと言いました。「まじめそうな男だなあ。年いっているだけあって(注:私より5歳上)、落ち着いてるなあ。まあまあの人じゃないか。ま、自分がよければ、それでいいよ」。弟も、別の日に会った時、言いました。「まじめな人だねぇ」。血のつながった男の4つの目で見ても、そういう風らしいです。それでも私は、最初の頃、ずっと身構えていました。
さて、その結果はいかに?今までのところ、その言葉に裏切りはありませんでした。》
ところで、先月下旬、市内で研究発表をした。昨年9月に引き続き(参照:https://itunalily.jp/wordpress/ 2022年3月3日付ブログ「戦前戦中のマレー語学習書」)、今回は第二弾で、今年の春頃、まだ肌寒かった時の博物館友の会の会長さんからのご依頼による。
再びマレーシア関連の話で恐縮だったが、「現地経験が先にあり、20代の頃からずっと続けてきたので、このテーマならば自信を持って話せます」と前置きして、許された2005年の論文を元にした話をした。
その時、「あまりお勧めできない退屈なテーマではあるが、なぜこのようなリサーチを続けてきたか」を申し添えた。
「楽しいから、好きだから、面白いからしているのではありません。何よりも、異なる価値観を持つ相手の論理を知らなければ、自分の身を守れないから、なのです」「最近、市内でも外国人労働者が目に付くようになりました。私は一度も賛成していません。誰が入れたんですか?目の前の外国人が、本国でどのようなネットワークを持っているか、こちらにはわかりません。それなのに、コンビニや道路で出会うことになってしまった状況があるならば、こちらとしては、まずは相手の文化を知っておく必要があると思います。その一端としての研究テーマです」という意味のことを申し上げた。
幸いにも、まずます肯定的な反応をいただけて、誠に感謝だった。
以上をまとめると、私自身が学校を出てから30年近くしてきたことは、「自分探し」「自分らしく生きる」「個性重視」「多様な価値観の中で、好きなことをして楽しく暮らす」「いつまでも生き生きと安心して/輝いて生きる」等といったお題目とは、全く無関係だ。むしろ、いつでも緊張感と葛藤の中で、もがきながら模索しつつ、何とか歩を進めてきた感が強い。
来週締め切りの小さな依頼原稿が、まだ二つある。
そして、8月中に複写を頼み、整理しなければならない国会図書館からの文献コピーの封筒が6つ、テーブルの上に載っている。これは、放送大学大学院の論文に使う予定の第一弾である。
いずれも、当然のことながら、自分に向いた路線でやってきたことばかりだが、自分がしたいからする、というよりは、少しでも公の気持ちで、これまで受けた公教育の返済、いただいた恩恵の返礼のつもりでやってきた。そして、今後もそうしていくつもりだ。
桐島洋子さんの話題からすっかり逸れてしまったが、言いたいことは、若い頃から好き勝手な生き方をしていると、お金のことは仮に別としても、結局は何かと無理に無理を重ねることになり、周囲に多大な迷惑をかける、という教訓である。
先の予見もせず、桐島洋子さんから間接的に影響を受けたらしい実家の母親の突飛な行動様式のために、非常に鍛えられた分、私自身は反面教師としたい。そして、地に足をつけて、様々な意味で無理のない、精神的にゆとりのある規律ある生活を維持していきたい。
それこそが、人々が恐れている認知症に対する自己対策の一端を担うことになるならば、と願っている。
(2022年9月17日記)
……
小さな追記:
実家の母親から、こちらの与り知らぬところで、理不尽にも勝手に取り上げられていた金銭の件について、追加事項を記す。
2018年9月下旬、主人の勤務先の統合のために転勤することになり、大阪府下の小さな町から、兵庫県の阪神間の中核都市に居を移すことになった。その年の11月に母親にも転居通知葉書を送ったところ、いつの間にか契約されていた生命保険会社を通じて、年に二回、私宛に一定額が振り込まれるようになった。生前贈与のつもりなのかもしれないが、相続税はかからない程度におさえてある。但し、その原資はどこからなのか、全く不明である。その上、母親が存命中に限る、という条件付きである。
米ドル換算なので、毎月の上限額が決まっている中でも変動があり、増やしているようでいて、結局はプラスマイナス零。手数料だけ引かれて損をしているともいえる。
ともかく、金額の多寡を問題にしているのではない。暮らしに困っているから、このように書き立てるのではない。
問われるべきは、幼い頃から私名義の通帳に積み立ててあったお金や、私が働いていただいた一年分の給与や、母方祖母から長年、お祝いとしていただいていたお金の総額を、遠慮会釈なしに勝手に取り上げたことである。しかも、私の断りなしに銀行で通帳を解約しておいて、後で気づいた私の通帳紛失を、何故か無実の主人のせいにして大騒ぎを起こした。銀行に問い合わせたところ、確かに母親が妹の分と一緒に解約をしたとの返答だった。その頃は、親子であれば通帳の出し入れや解約の手続きなども、本人の証明なしにできたからだった。
その後、親子や夫婦の間でも、本人の承諾なしに勝手に資金を動かせない法律ができたところをみると、こういうことをする事例が少なくないからだろうと思われる。
(2022年9月17日記)
……
《おまけ》
長女のかれんさんは、若い頃のコマーシャル・ビデオを見る限り、キリっとしたクールな美形。確かに美人であることは間違いない。でも、案外に声が低くて、喋らなければもっといい感じがする。その頃には、自活すべく、母親とは距離を置いていたらしい。
かれんさんのみならず、三人ともビジュアル系であって、話したり書いたりしている内容は、年齢から考えても、底が浅く、幼い。もっともらしくその場限りで表現しているだけ、という感じ。それが売り物になっている点、日本は恵まれています、ね?
桐島洋子さんの話も、音声では殆ど聞いたことがない。文章ではキリっとした感じを醸し出していたが、6年前ぐらいの映像では、確かに認知症だとわかるぼやっとした風貌になっていらした。
ところで、ボケ防止、認知症予防には、できる限り知的な活動を続ける方がいい、と10年ぐらい前までは喧伝されていた。本の音読や新聞の天声人語の書き写し(?!)等が効果的だと、根拠なく言われていた。換言すれば、ぼんやり寝転んでテレビばかり見て、食っちゃ寝ぐうたら生活を続けているから、認知症になるのだ、と言わんばかりだった。
だが、桐島洋子さんの場合は、連載の書下ろしを何本も抱えて、確かに知的作業を継続していたとは言えよう。それに、スピリチュアル系にも没頭し、健康志向で食事にもそれなりに気を使っていた、はずだ。歩くことも好きなようだった。人付き合いも、それなりに盛んだった。
それでもこの病気になったということは、何を意味するのか?
(https://ninchi-a.com/contents/about/02/top.html)
《脳内では、なんと発症の25年も前からアミロイドβが溜まり始めている》
《キャリアの人の脳内では、発症の25年も前からタウが増加》
《アルツハイマー病になる人たちの脳では、発症の25年も前から脳の神経細胞がダメージを受け始めている》
《脳の神経細胞がアミロイドβやタウによって破壊されていることは、記憶をつかさどる脳の部位「海馬」に着目》
(https://ninchi-a.com/contents/about/03/top.html)
《死亡したアルツハイマー病患者の脳を解剖すると、そこには通常存在するはずのない、様々な病原体がひしめいています。口内バクテリア、顔や唇のヘルペス、鼻から入り込んだカビ、ダニがもたらすボレリアなど。病原体や有害物質が侵入した時、脳はこれに対する反応としてアミロイドβを分泌します》
(https://ninchi-a.com/contents/about/01/top.html)
《認知症の発症リスクが急激に高まるのは60代からですが、実際発症するかどうかは、40歳頃からの生活習慣によってある程度決まります》
生き方が売り物だったとすれば、いくら元気そうにしていても、長い間に相当なストレスや疲労が溜まっていた人生だったのではないか、と想像される。周囲がもてはやせばもてはやす程、仕事がらみで引っ込みがつかなくなる。
三人の未婚の母のみならず、事実婚の噂も昔からあった。つまり、人間関係が正妻との間で常に複雑だったということだ。また、1982年、45歳の時に12歳年下の古美術商の勝見洋一氏と正式な初婚をして、お茶会でお披露目をしたとも、昔の本で読んだ記憶がある。どういうわけか、2002年には円満離婚。そして勝見氏は、神奈川県横浜市内の病院にて筋萎縮性側索硬化症による呼吸不全のため64歳で死去した、という。世界中、二人で回った思い出の地に散骨をした、ともどこかで読んだ。
とても真似できる生き方ではない。また、凡人は凡人らしく、真似すべきでもないと思う。
文筆活動をしていた人が、必ずしも認知症になるとは限らない。脳のお掃除をする充分な睡眠をとり、食事や運動等、生活が不規則にならないよう、若い頃から気を付けるべきだ。
そのためには、ある程度は身の程をわきまえて、落ち着いた真っ当な暮らしが必要だと私はつくづく感じた。
(2022年9月17日記)