不思議なご縁

2024年9月8日付ブログ「研究活動あれこれ」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=8518&action)の派生で、久しぶりにマレーシア関連の過去の出来事を振り返ってみたい。

返す返すも、本当に今でも不思議なのは、なぜ主人があんなに応援してくれていたのか、ということだ。
こんなテーマを仕上げてみたからとて、全部自腹を切ってやっていることであり、いわゆる社会的地位にも収入上昇にも繋がることはないのに、である。

但し、昨今、日本でもSNSで拡散されている外国人労働移民、ムスリム墓地、イスラム過激派の事件、欧米のキリスト教文化の崩壊等は、実はかれこれ二十数年以上も前から、私のテーマと間接的に繋がっている諸問題でもあった。ようやく日本で周知されるようになってきたか、というところである。だから、目の付け所としては悪くはなかった。

尤も、主人がそこまで意識していたかどうかは不明である。

かれこれ27年程も前になる。初めて名古屋で出会った日、朝10時から夕方6時までの8時間(正確には、実は私が10分遅刻したので、7時間50分ぐらい)があっという間に過ぎて行った。名古屋駅から栄までの地下鉄二区をまっすぐ歩き、テレビ塔に上って、今は取り壊された中日ビルの回転レストランでずっとお話をした。

それから名古屋駅に戻り、地下街で「味噌カツ定食」を食べた。「僕、食べるの早いんです。ゆっくり食べてください」と言いながら、その頃、京都の桂にあった社員寮に住んでいたので、「これから新幹線で京都まで帰ります」。そして、私が食べ終わった頃、改めて背筋を真っ直ぐにして「今日は本当にありがとうございました。これからも、ご連絡させて頂いてもよろしいですか?」と言ってくれた。(来た来た!)と、私は内心思った(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20080320)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20091214)。

だが、私にとっては、まずはマレーシアのリサーチが終わっていなかったことが気掛かりだった。
「あのぅ、私、本当は結婚前にマレーシアの研究テーマを終わらせたかったんですけど、資料不足でまだ終わっていないんです。もしよろしければ、結婚してからも、続けさせていただいてもいいでしょうか?それが条件なんですけど」と、半ば賭けのような気分で言ってみた。すると、さっと顔が明るくなり、「あ、女性はむしろ、それぐらいの方がいい。僕、勉強する女性が好きなんです。マレーシアなら近いし、一ヶ月でも半年でも、何なら一年でも行って来たらいい。僕だって、勉強したくてアメリカに行ったんだから、自分の妻になる女性にやらせないという筋合いはない」と、勢い込んで言ったのである。

その言葉に嘘はなかった。二ヶ月後、同じく名古屋駅で父が会ってくれたが、「結婚前提の交際を認めていただけないでしょうか」との後で、「僕、勉強する女性が好きなんです」と、大真面目に言っていた。父は「結婚するのに勉強なんて….」と不思議がっていたが、「ま、真面目そうな男じゃないか。自分がよければ、お父さんは反対はしないよ」とあっさり許可が出た(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20170828)。

それからも、(もう、こんなめんどくさいテーマ、やめようかな)と躊躇する私をいつでも鼓舞してくれたのは、主人だった。

先のブログでも書いたように、あの当時のマラヤ大学博士課程は、最大でも十年間は在籍することができ、しかも、マレーシアに住む必要もなかった。つまり、(あの頃は国際郵便を通して)通信のみの指導で、論文さえ仕上がればいい、という(安直な)仕組みだった。それで、政府の仕事でレッキとした所属があった間に、マラヤ大学に書類を申請してあっさり合格し、その後の十年間を、センシティブで神経をすり減らすばかりの「リサーチ」に費やしたのだった。

今ならインターネットがあるので簡単だが、あの頃は、現地に行かなければ何もわからず、現地資料が入手できただけでも、学会で拍手喝采、という時代だった。だからこそ、現地の協力がなければ、日本の肩書を振り回したって、うまくいくはずがない、と見込んでいた。そのためにマラヤ大学の所属を決めたのである。

指導教官は二人とも女性だった。なかなかのやり手で、受賞歴もあり、その後も素晴らしく出世された(http://jams92.org/pdf/NL28/28(31)_tsunashima.pdf)。

私が学んだのは、途上国と呼ばれている国の人々が、個人としていかにしたたかに立ち回るか、ということだった。むしろ、途上国の方が、出身階層によるが、日本人よりも有利に扱ってもらえるルートが欧米諸国との間にできていた。

ともかく、リサーチ協力を依頼する指導教官からの「レター」をあちこちの関係者に見せて、身元を明らかにし、こちらを信用していただいて、文献資料を集めたり、機密文書のコピーをいただいたり、指導者層との面談を許可していただいたりしていた。

結婚後、マレーシアへ行ったのは単独で、主にリサーチ目的であった。1998年から2003年までは毎年6月に、大学の登録更新手続きを兼ねていた。大抵、往復を含めて、五日間から一週間、あるいは最大、十日間の滞在だった。

2000年には一ヶ月半、クアラルンプールの中流ホテルを仮宿にして、集中してリサーチを進めた時期があった。
その時に集めたものを元に、2004年から教授の突然のご依頼により、同志社大学神学部神学研究科でマレーシア事情を教えることになった際、英語で論文も出せた。自分で和訳した版はこちらにある(https://www.cismor.jp/uploads-images/sites/2/2014/01/JISMOR1_tsunashima.pdf)。ちょうど9.11同時多発テロの前だったので、時期的にも最初で最後のリサーチ滞在だった。(9.11テロの秘密会合はクアラルンプールで開かれていた。)

2003年以降は三年に一度、2006年、2009年、2012年の三回、マレーシアを訪れた。この辺りの記録は、過去ブログ(https://itunalily.hatenablog.com/search?q=マレーシア)に詳細が綴られている(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20091028)。なぜ三年毎だったかと言えば、マラヤ大学で教えていた頃の給与を貯金してあった、今はなき東京銀行(Bank of Tokyo)の定期預金の手続きが、「三年に一度は来店すること」という規定だったからだ。

銀行手続きだけなら日帰り強行ということもあるのかもしれないが、第一、気候が異なるため、余裕を見て、一回につき十日から二週間程度の滞在であった。せっかくの訪マなら、研究会や学会での発表用にリサーチも詰め込んで予定を立てなければ勿体ないし、行かせてくれる主人に申し訳ない、という気分だった。

マレーシアは日本と違い、定期預金の利率が6%と高かった時期もあって、それなりにまとまった金額でもあった。また、日本にいながらにして、リサーチに必要なマレーシアの現地文献を入手するにも、マレーシアの銀行の小切手をフル活用していた(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20071004)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20071220)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20140519)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20171128)。だから、大切な預金口座であった。

2012年になると、「これからは、三年後ではなく七年後の手続きでよろしい」と、クアラルンプールの銀行から通知された。その頃の主人の病状の進行状況を思うと、期間が延びてホッとした。

実際のところ、七年後の2019年には、1月の阪大病院での検査入院、8月23日からの近畿中央病院の救急搬送、9月30日からの伊丹せいふう病院(回復リハビリ)の入院等、ドタバタと続いていたので、気が気ではなかった。海外どころではない。

ところが、偶然にしては出来過ぎな程、2019年秋に入った頃、先方の東京三菱UFJ銀行クアラルンプール支店から電話と郵便の連絡があり、「今後は邦人口座を閉じることになった。預金全額は円建てにして日本の口座に送金する」。つまり、入院中の主人を置いたまま、飛行機に乗ってマレーシアで銀行手続きをしなくてもよくなったのだ。

願ってもみなかった幸運である。やり取りにはもどかしい日本語であったが、無事に全額、日本に戻って来た。入院中の主人に伝えると、ほっとしたように喜んでいた。

この辺りの経過を振り返ると、つくづく不思議である。

最初に名古屋で出会った頃、主人は一ヶ月か二ヶ月に一度ぐらいの割合でアメリカ出張に行っていた。最先端のデジタル技術を扱っていたので、やりがいもあっただろうし、内なる自信を秘めて落ち着き払い、かつ意気揚々としていた。本人は自分がまさか神経難病に罹患しているとは、つゆ思ってもいなかった時期だった。京都の北山での結婚披露宴では、会社の同僚の方達が、「人遣いの荒い職場だ」「アメリカ出張の合間に、名古屋でデートしていたのか?」と冗談を言い、笑いを取っていたぐらいだったが、本人は嬉しそうにニコニコしていた。

「自分だってやってきたのだから、やれる間にユーリにもやれることをやらせたい」と、いつでも言っていた。ある場合には、リサーチ協力者へのお土産として、おしゃれなボールペンやサリーのブラウス用の布まで、どこで見つけたのか、主人が買ってきてくれていた。

「私を一人マレーシアに行かせて、心配じゃないの?」と尋ねてみたことが何度かあったが、「リスクを気にしていたら何もできないよ。何かあったら、僕が助けに行くよ」と鷹揚としていた。それに、「ユーリの暮らしぶりを家で見ていたら、わかるよ。家事もやっているし、本当によく勉強するし、ちゃんとした場所で仕事もやってきたんだろう?現地リサーチと言ったって、大学に繋がっていて、図書館で資料を調べたり、教会の指導者層に話を聞いたり、後は昔の知り合いに会ったりしているだけだろう?」と、信頼し切ってくれていた。だからこそ、こちらも一生懸命、裏切らないように、時間や機会を無駄にしないように、事故や病気に遭遇しないように、と必死で過ごしてきた。

また、帰国後は、大量に撮った写真の現像や焼き増しの手続きを主人にやってもらい、私がどのように現地で過ごしてきたかをわかってもらうようにしていた。

私の場合、論文を書くとなると二ヶ月ぐらいは集中する癖があるので、家庭の事情から口頭発表だけは先にしておこうと思っていた。その研究会や学会での発表でさえ、主人はいつでも喜んでいた。カレンダーに日程を書いておくと、さり気なく、必要なものを買っておいてくれたりした。

こうしてみると、本当に私には勿体ないようなできた夫だったと、つくづく思う。

この辺りの事情は、実はダニエル・パイプス氏が見抜いていた。太平洋を超えて時差もあるのに、2020年4月10日の主人の葬儀のジャスト一時間前に、メールがピンと届いたのである。ご丁寧にも、ツィッターのメッセージで、「メール送っといたよ」と。メールを開くと、「僕は〇〇〇に会ったことはない。でも、僕は〇〇〇を知っている」という書き出して、主人がいかに私を信じていたか、私のすることを全面的に支援し続けてきたかを称える文章だった。

なぜ、このような展開になったのか?

私が1990年4月から三年間、国際交流基金の派遣でマレーシアにいた同時期に、主人の方は、三菱電機の社費で米国のマサチューセッツ工科大学に二年間留学していた(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20120404)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20170804)。そのため、パイプス氏のご実家のあるボストン周辺になじみがあったようである。そして、パイプス氏自身も、日本通とまではいかなくとも、密かに日本に短期調査留学に来ていたこともあって(1986年に三ヶ月)、私家版日米同盟みたいな関係が成立していたからでもあろう(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20120122)(https://itunalily.hatenablog.com/entries/20120123)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20120321)。

2012年の頃までは、インターネット上で「中東フォーラム」や「ダニエル・パイプス」と検索すると、日本語でも悪口散々だった。そのために訳業を依頼されても長らく躊躇っていた私だったが、「アメリカ人なら、はっきり返事しないとダメだよ。それに、パイプス氏、そんなに悪い人じゃないと思うよ」と押してくれたのは主人だった。

パイプス氏が私を「発見」したのも(https://itunalily2.hatenablog.com/entry/20120113)、そもそも、主人が何度も勧めてくれていたブログ書きのお陰だった。そして、パイプス氏のお陰で、私はダグラス・マレイ氏(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20171001)や Dr.Aymenn Jawad Al-Tamimi(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20150413)のような優れた文筆家や研究者であり、昨今のイスラム問題や文明に関する勇敢な発信者と巡り会うこともできたのだった。

フェイスブックに載せた外国人との写真の何枚かは、実はパイプス旅団で知り合った方々である(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima/photos_by)。それも、先方の都合で「日本に行くから会わない?」と連絡が来た時期は、これまた不思議なように、偶然にもこちらの予定が空いていた時だった。

閑話休題。

リサーチ関連に話を戻すと、マレー半島のみならず、ペナン島やシンガポールやサバ州にも立ち寄っていたことがある。そのサバ州だが、今では日本政府から渡航中止勧告が出されている。私が行ったのは2006年の一回きりで、コタ・キナバルにあるサバ神学院のマレー語聖書翻訳者と面会するためであった(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20070713)。観光というわけでは、全くない。勿論、その後は研究発表をした(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20070822)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20070904)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20070928)。

だが、今にしてみると、あの時よく行けたものだ、と我ながら思う。五年後の2011年3月11日に発生した東日本大震災の時には、何とサバで一度きり会っただけの関係者から、安否を問うメッセージが届いた(https://itunalily.hatenablog.com/archive/2011/03/23)。

ある方が、「それは幸せな結婚をしたよ。そこまでしてくれる御主人なら、是非とも研究を完成させないと、御主人がかわいそうだよ」と言ってくださった(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20071203)。言われなくても日々実感していたが、本当の実現は、今後の課題でもある。

まずは、来月のコングレス、頑張らなきゃ!

(2024年9月10日記)
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PS1:こうして古いブログを検索しながら、アドレスのリンク付きで思い出を綴れるのも、主人が若い頃に取り組んでいたデジタル革命のおかげである。そして、主人が長年蓄えてくれていたもののお蔭もあり、何とか自由に過ごせる環境に置かれている。

結婚後一年で診断を下されたので、私は主人が日々衰えていく姿しか知らない。最初は5秒ぐらいでできたことが、10秒、30秒、1分、5分、10分、30分、一時間、それ以上、と動作が緩慢になっていき、併行してこちらの時間も押されていく。たった一つの行動にも、やたらと時間や心的エネルギーが消耗される日々が、いつまで続くのかと思うほど、永遠に続くのである。その上、さまざまな自律神経症状も増えていく。できたことが徐々にできなくなっていく悲しみや苦しみを抱えている患者と一緒に暮らす家族も、心理的精神的に、平板かつどんよりと、低迷を辿っていく。

若かった頃の主人の勉強ノートや会社の会議メモなどを整理していると、あの当時、将来を生き生きと展望しながら、どのように仕事に励んでいたかがうかがえる。そして、よくこんな細かい計算式を几帳面に書いていたものだ、と驚かされる。だからこそ余計に、改めて不憫だったと思うと同時に、それでも精一杯、私との暮らしを頑張ってくれていたんだ、としみじみ感じる。

三世代同居で育ったためか、今でもご年配の方々から、「エンジニアとして優秀だったのみならず、人間的にもできた人だった」「印象に残る人で、良く覚えている」と言われる。曲がりなりにも最後まで会社に籍を置かせていただけたのも、上司の中に主人の若い頃を覚えている方々がいて、いつでも主人を庇い、人事部とも掛け合って、何かと便宜を図ってくださったからだった。

私との生活も、伊丹に来る2018年の前後三年間ぐらいは、精神症状で崩れに崩れ、突発的な行動異常や会話の不成立で、こちらも疲労困憊と心配や不安の連続だった。それに輪を掛けて、義兄の不可解な未必の故意まがいの意地悪な言動で、生活は滅茶苦茶になってしまった。

だが、周囲の第三者のさまざまなお助けもあり、ギリギリのところで、いつも主人は救われてきた。勝手に家を飛び出して道路で倒れているところを、通りがかった「親切な人」が救急車を携帯で呼んでくださったり、夜中に倒れているところを、どなたかがホテルを探して連れて行ってくださったり、持ち金もないのにレストランでただ食いしてしまったところを、「もう、お代は結構です」と許してくださった店主さんなど、名も告げずに助けてくださった多くの方々に、この場をお借りして心より御礼申し上げたい。

いつでも、私は家でイライラしながら待っているしか方法がなかった。(気分転換に寝転んで本を読んだり、検定試験のテキストを眺めたりしていた。)

繁華街にフラフラ出て行って、一歩間違えたらポケットのお財布や鍵やカード等も盗まれていたかもしれない。たくさんのデータを詰め込んでいた携帯も落としていたかもしれない。線路から足を滑らせて落ちていたかもしれない。階段から崩れ落ちて重傷を負っていたかもしれない。寒い中を凍死したかもしれない。それなのに、すんでの所でいつでもどなたかに助けていただいたのである。まさに、奇跡的であった。

2020年春以降、私は身の回りの小さな事項を一つ一つ積み重ねながら、ゆっくりと日常を取り戻すように専念しつつ、必要な手続きや片付け物等を少しずつ進めてきた。まだ全部は終わっていないが、カレンダーや備忘録にリスト化して、できる時、思い立った時に、その都度、処理していくようにはしている。同時に、できる限り新しいことにも関心を広げつつ、本来の自分自身を取り戻すように心がけてはいる。

主人との約束通り、二つ目の修士号を授与されて五年祭を経た今年、ようやく過去を鳥瞰的に振り返る気持ちの余裕が出てきた。「過去を振り返るのではなく、前を見つめて」というありがたい助言もあるが、自分が膨大なエネルギーや時間やお金を費やしてしてきた事柄を、あっさりと忘却の彼方に押しやるわけにもいかない。折に触れて振り返ることで、足元を固めることもできるし、記憶を補強することもできる。ブログに書き留めておかなければ忘れてしまったことも、何とか思い出せる。それによって、今後の選択にも曇りなき指針が与えられよう。

それにしても、あっという間の22年4ヶ月と3週間だった。主人方の過去帳も戸籍謄本も全部集めた。最初は、温かくて真面目で堅実な雰囲気が漂い、安心感があった。そのままの調子でいけば、地味でも穏やかで充実した生活が送れるはずだった。

しかしながら、結果的に、我々の暮らしのみならず、社会の環境も徐々に激変してしまっている。

・2022年3月2日付「三菱電機「京都製作所」」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=1976)
・2022年3月13日付「そして長岡京を歩く」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=2183)
・2022年10月20日付「三菱電機の不正報告書」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=3527&action)
・2023年2月6日付「生きた証の消滅」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=4045&action)

だから、過去の一つ一つの時について、それはそれでよかったのだと思わざるを得ない。あの時、しておかなければ、今がなかった。当時は、その他に選択肢がなく、精一杯だった。

主人がいなくなってからの4年5ヶ月で私が成し遂げた履歴は、実は主人と一緒に暮らしていたならば、せいぜい半分程度しか達成できなかっただろうと想定される。というのは、動作に時間がかかり、精神面でも思考緩慢や視野狭窄に陥る患者との暮らしだからだ。

パーキンソン病は、薬をうまく調整して、リハビリをしっかりやれば平均寿命まで生きられる、と一般には言われている。できる限り仕事を続けた方が進行が遅くなる、とも言われる。また、旅行も療法の一種になり、音楽療法も有効だ、とされていた。我々は、(院内でのリハビリを除いて)言われた通り、全てやってきたつもりだ。

恐らく、患者を励ます意味で仰っているのだろうが、共に暮らす家族の人生まで、崩したり奪ったりしてはならない。その辺りの医療福祉の指導が、今一つうまくいっていないのではないだろうか?

ということを、来月のコングレスの発表では訴えたい。

(2024年9月10日追記)
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PS2:マレーシアのリサーチに関して、道が見えかけて来たのは、9.11同時多発テロの一年前、2000年の一ヶ月半の滞在期だった。やはり、一週間程度では、予定していた項目のよくて7割強、大抵は半分ぐらいしか済ませることができないお国柄だった。ある程度、まとまった日程を取らなければ全貌をつかむどころではなかった。

それに、マレーシアの国立図書館と言えば、見かけは立派で聞こえはいいが、何台もあったコピー機も殆どが壊れて使い物にならなかったし、途中で止まってしまったりして、常に図書館の閉館時間ギリギリ前におさまったことがなかった。マイクロフィッシュも使いにくかったし、本や新聞の資料等も乱雑そのもの。ぐちゃぐちゃに置いてあり、調べるにも一苦労だった。

その点、マレーシアのキリスト教神学院のオフィスは、カトリックでもプロテスタントでも、かつての西洋人宣教師の指導が入っていたためか、あるいは、華人が多いためか、ごく整然としており、スタッフと顔見知りになって話さえ繋がれば、簡単に資料を入手することができた。さらに、シンガポールに立ち寄れば、二日程で大半の資料が手に入ったのである。

こういう話を、帰国後、私が自宅で夕食の時に夢中になって話すと、主人はおもしろそうに聴いてくれていた。「もう、そんな変な研究なんて止めてしまえ!」等と、一度も言ったことはなかった。むしろ、「人が何と言おうと発表するんだよ」と励ましてくれていた。(それも不思議と言えば不思議である。)

今、洋間の二部屋に積み上がっている段ボール箱には、あの頃、夢中になって集めていた資料が眠っている。早く整理しなければと思いつつも、いろいろな思い出が錯綜して、いわば思い出に圧倒されて、なかなか進まなかったのだ。

あの大量の書籍や資料等は、マレーシアでキリスト教の果たした役割等について、さまざまな文献資料を読み、メールで関係者に質問を繰り返しながら過ごしていた証である。主人の進行性難病のことがあったからこそ余計に、主人が会社に行っている昼間は私一人の自由時間として、思い切って気分転換とした証拠でもある。

2004年から三年間の同志社大学での一連の経験は、日本人イスラミストのN教授の下でひどく緊張を強いられて大変だった(https://itunalily.hatenablog.com/entries/20141010)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20141011)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20141012)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20161205)。

だが、その後の2006年から2009年ぐらいまでは、焦りもあったが、今思えば、私にとって最も張り切って、充実した楽しい時間ではあったのではないか?治療薬を飲みながらも、主人が何とか開発研究グループに所属が許されていたのは、その頃までだった。(このまま進行が止まってくれたらいいのにな)という気持ちで、毎日を過ごしていた。研究会や学会でも、「今しか、ない」という気持ちで、夢中になって発表をしていた。

自分を鼓舞するものに触れられた喜びもあった。主人に勧められてブログも書き始めたし、長岡京のプールにも通い始めた。イスラエル旅行にも行かせていただき、中東のキリスト教やユダヤ史の方にも手を広げ、クラシック音楽の一流以上の演奏会に行くようになった。

そして、あの期間には最盛期であった日本聖書協会のセミナー事業からも、たくさんの貴重な知識や情報が得られた。(兵庫県に転居した2018年秋以来、全く行くこともなくなった神戸バイブルハウスは(https://itunalily.hatenablog.com/search?q=神戸バイブルハウス)、連絡も途絶えており、統計を見ても、今や金銭的にかなり落ち目である。)

あの頃、ムスリムとの国際結婚で密かに悩んでいる日本女性達のことも、ウェブ上で知ることができた。(だから今の状況に、むしろ落ち着いていられる。)

…..こうしてマレーシアのリサーチを巡る思い出を振り返ると、何とかやっていた頃の日々が呼び起こされて、それなりに元気づけられる。ちょうど、放送大学教養学部で、二十代の頃に学んでいた古典文学やドイツ語、その後に始めたフランス語を、復習がてら履修していると活気づけられる今と重なる。

(2024年9月10日続記)
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PS3:今日、2018年3月以来、6年ぶりでもあり、初めての分野でもある学会(コングレス)発表となる来月の下準備として、注文した名刺が届いた。自分で印刷業のホームページを探して、レイアウトを考えて申し込んだだけだ。一番シンプルな形にしたので、作業は年賀状並みだった。

名刺入れケースを探していたところ、伊丹市に引越後の2018年10月中旬に「未整理」と付箋をした名刺類が出てきた。

すっかり忘れていたが、転居前に21年程暮らしていた大阪府島本町で二つ目の住所を記した名刺が、四種類も見つかった。その中の三種類は、主人が「かえるちゃん」「若葉マーク」と言いながら、リサーチ途上で知り合った方々に渡せるように作ってくれていたものだったことを思い出した。

同志社大学で教えていた頃にも、肩書をつけたシンプルな名刺を作ってくれていた。そういうことが好きだったのかもしれないが、あの頃は、いっぱしの「研究者」として私の「売り込み」を手伝いたかったのだろうか?

メールアドレス、「はてなダイアリー」の英語版と日本語版のアドレス、そして、今のWordpressに変わる前の個人のホームページのアドレスまでついていた。裏側には、アルファベット表記もつけた。若葉マークの方は少ないが、青いラインの入った名刺は相当余っているので、あまり使わなかったようだ。

家計簿を調べないと正確なところは不明だが、恐らくは2010年より前に作ったものだろう。つまるところ、上述のPS2のように、リサーチや勉強に熱の入っていた2006年から2009年頃までに作った名刺に違いない。確かに、同志社にいた頃、日本聖書協会のフォーラムでも、盛んに名刺を渡していた。本当に必死で、何とか自分の居場所を作らなければと思い詰めていた。

2012年3月からはパイプス訳業が始まり、国内での必死な名刺配りにはすっかり熱が冷めてしまった。その後は、名刺を受け取るばかりになっていった。

主人亡き後の4年5ヶ月で、私が履歴書に書き加えることができたのも、一つは伊丹市のテンポが私自身に合っているということが挙げられる。以前の島本町は、静かで空気も良く、名水も出て環境は抜群だったが、よろずテンポが緩やかで、知的刺激に欠けていた。伊丹への転居は、以前にも書いたように、主人の勤務先の統合によるものであったが、何よりも主人自身が希望したことでもあった。結果的に、益したのは私自身であった。

もう一つは、放送大学のお蔭である。インターネットで隙間時間に勉強するといううたい文句だが、案外に印刷教材とは異なる内容を講師が語ったり、ロケのビデオを見せたりする講義(授業)もある。一瞬止めてテキストに書き込んだりしていると、1.5倍速で30分程度だったはずが、あっという間に一時間半から二時間もかかってしまうことがある。また、インターネットで試験があるため、時間や締め切りには敏感にならざるを得ない。これが、自宅で過ごす時間の長い還暦前の私のような女性には、必要な訓練ともなっている。

名刺から、忘れかけていたさまざまなことを思い出した。

(2024年9月10日続々記)
(2024年9月11日一部修正)
…………….
2024年9月26日追記

「2000年には一ヶ月半、クアラルンプールの中流ホテルを仮宿にして、集中してリサーチを進めた時期があった。」と上記に述べた。ところが今、別件で過去ブログを調べていたところ、正確な事実が判明した。

正確には、2000年には3月と6月と10月から12月までの計3回、マレーシアを訪問。最後の晩秋に、一ヶ月半のリサーチ滞在もしたのだった。

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20080307)

《2000年には、3月、6月、10月から12月までと、3回もマレーシアに滞在したのでした。ところが当時、いくらこちらが頑張ってみたところで、少なくとも首都圏では、責任者の一部のみが密かに議論して対処していた様相だったので、大司教にまで面会を許されたにもかかわらず、目指す結果を出すことがそもそも困難でした。》

この間、主人が用意してくれたミニ・ノートパソコン(ちょうどこの追記を書いている日からちょうど6年前の2018年9月26日が居住の最終日だった島本町で処分)を駆使して、それまで連絡が不自由極まりなかったマレーシアでの指導教官との連絡にも活用できた。

今、私が使っているメールアドレスは、実はこの時、主人が申し込んでくれたものである。かれこれ24年にもなろうか。それ以前には、feemailやanet等を使っていた。あの頃は、自宅でのパソコンもプリウスを使用していたのではなかったか?勿論、主人が設定から接続から何でも、得意げにやってくれていた。

一ヶ月半の滞在中、主人との連絡は、電話以上に、その頃はまだ普及していた国際簡易書簡を使っていた。便箋一枚程度しか書けないが、三つ折りにたたんで糊付けすれば、切手も印刷されていたので楽だった。日記代わりにその日の細々したことを書き連ねて、クアラルンプールの中央郵便局から投函していた。途中の紛失を恐れて、カーボン紙にコピーを取り、投函順に番号を振っていた。一種のリサーチ記録のつもりでもあった。

主人にとっては、仕事が終わって帰宅しても、郵便受けに私の手紙が入っていれば、それなりに安心したようだ。

帰国後、尋ねてみると「うん、よく書けていると思うよ」と言ってくれた。そして、家計簿をつけている私のために、留守中の買い物レシートは空き箱に入れてあった。

2001年9月11日に米国同時多発テロが発生したことを思えば、あの時に三回も訪マできたことは、実にタイミングとしてはよかった。最後のギリギリのところだったと今でも思う。

実は、テロのためにハイジャックされた4機のUnited Airlineの一つは、うちの主人が米国出張でよく利用していた路線だった。「よかったじゃない?病気のために出張がなくなったから、今でもこうして暮らせる。病気じゃなかったら、テロに遭遇して、私がアメリカまで行かなければいけなかったじゃない?」と私は言ったが、どこかで未練があったのだろうか、主人は無言のままだった。

(2024年9月26日追記)

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10月7日の悲劇その後

(https://x.com/ituna4011/status/1832808119556259909)
Lily2@ituna4011
www.youtube.com/watch?v=O7F7Pq-XI40
One Year Since October 7th – with ‪@douglasmurray‬
Sep 8, 2024 Call me Back – with Dan Senor
凄く白髪が増えましたね….。
12:48 AM · Sep 9, 2024
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Since October 7th, on this podcast we have tried to present Israel’s dilemmas and challenges as Israel responded to a genocidal attack from Gaza and what is now a multi-front war. We have tried to do this by talking to Israelis – Israeli journalists, political figures, historians and other thought leaders, and different people from Israel’s civil society. We have tried to provide historical context and perspectives from various actors in the U.S.-Israel relationship from both sides of that relationship.

We did not think we would still be recording these episodes – with this focus – for one year. And yet, here we are — approaching the one-year anniversary of October 7, which will be regarded as one of the darkest days in Jewish history (and one of the darkest days in the history of Western Civilization).

Most of our episodes have been shaped by weekly and daily news developments. But as we approach the one-year anniversary, we wanted to take a step back, and spend extended time with a few of our previous guests and thought leaders who are not our go-to analysts.

We asked each one of them to take a longer horizon perspective, to look back at this past year and the year ahead. In each conversation, we will try to understand the larger lessons these guests have learned as we approach this grim milestone. If you are listening to this episode on a podcast app, please note that this series was filmed in a studio and is also available in video form on our YouTube channel.

We begin this series with a conversation with Douglas Murray – war journalist, columnist, and bestselling author. We will be dropping one of these long-form conversations with a different guest each week between now and the first couple weeks after 10/07.

LINKS:

On Sunday, September 8, Douglas Murray will kick off his first ever US Tour with Live Nation. Long before Oct 7, Douglas was a widely read journalist, bestselling author, and one of the most prescient intellectuals in the world. Since Oct 7, he has also become one of the strongest voices for Israel and the Jewish people. Douglas will be sharing experiences from his time in Israel post October 7, including never before seen footage from his time in Israel. On September 8, he will be at the Parker Playhouse in Fort Lauderdale. On September 10, he’ll be at the Fillmore Miami Beach. On September 11, the Warner Theatre in Washington DC. On September 23, The Wiltern in Los Angeles. On September 29, the Beacon Theatre in New York City. And on October 13, Paramount Theatre in Denver. The evening will be filled with great pride for am yisrael and hope for the future. Some shows are sold out or very near sold out. Tickets can be purchased through Live Nation’s website: https://shorturl.at/yilaw

NEW YORK CITY — September 24 — Join us for the first major live recording of Call Me Back, held at the Streicker Center, co-sponsored by UJA Federation of NY, and featuring Amir Tibon on the official launch date of his book The Gates of Gaza: A Story of Betrayal, Survival, and Hope in Israel’s Borderlands. In his new book, Amir tells the gripping story of the Tibon family’s ordeal at Kibbutz Nahal Oz on October 7 and the heroic rescue by Amir’s father, retired General Noam Tibon. Woven throughout the book is Amir’s own expertise as a longtime journalist in Israel and in Washington, the history of Kibbutz Nahal Oz, and the conflict between Israel and Gaza. We are excited to bring this program – with our partners at The Streicker Center and UJA Federation of NY – to the Call Me Back audience. To register, please go to: streicker.nyc/events/tibon-senor

PHILADELPHIA-AREA — September 9 — Join us this Monday night in Lower Merion, just outside of Philadelphia, for a discussion about Israel, the Middle East and the U.S.-Israel relationship with combat veteran and national security expert Dave McCormick, who is running for U.S. Senate in Pennsylvania. Dave grew up in Bloomsburg, PA, attended West Point, fought in the Gulf War with the 82nd Airborne, then ran a tech software business in Pittsburgh before becoming CEO of Bridgewater Associates. Dave has emerged as one of the strongest pro-Israel voices and allies of the Jewish community this election cycle; his wife Dina was a deputy national security advisor in the White House and one of the architects of the Abraham Accords. We are going to have a fascinating conversation about his trip to Israel in January, what he’s seen on the campaign trail and how his experience as a combat veteran informs his perspective on the war in Israel and America’s role in the region. To register, please go to: Dan-and-Dave.eventbrite.com

(2024年9月9日転載終)

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もー、パイピシュ先生ったら!

噂をすれば何とやら、ですよ!
今日は重陽の節句ですが、ダニエル・J・パイプス氏の75回目のお誕生日でもあります。

元訳者として、短い定型のお祝いをツィッターのメッセージで朝8時25分に送ったところ、約3時間半後には早速、「ありがとね」。それだけではなく、こんなリンクまでくっついていました。

(https://www.danielpipes.org/22349/at-75-staying-healthy-is-my-new-career)
At 75, Staying Healthy Is My New Career
Financial, emotional, mental, nervous and physical requirements lie ahead
by Daniel Pipes
Washington Times
September 9, 2024

全くもう、抜け目がないというのか何というのか…..。

但し、書いてある内容は、長寿国の日本人の大半にとっては至極常識的な内容で、何ら目新しいものはありません。(エヘン!)

お父様のリチャード先生が94歳、お母様のアイリーンさんが98歳とご長寿だったので、自分も「新しいキャリアとして」、従来の活動の比重を転換させて、今後ますます意気盛ん、といったところでしょうか?お父様の生まれ変わりだと自他ともに自負されていただけあり(参照:”Vixi“)、お父様の最後の執筆が93歳だったことから、「あと18年ある」と。(頑張ってね!)
ヘブライ語の読める方ならご存じであろう、数字の「18」には“chai”(「生きる」の意味)が込められている、とも付言されています。

新情報としては、1971年7月20日付で、カイロ在のスペイン大使館経由で、米国の権益部から「イスラム史の学徒である」という証明書をいただいた証拠が掲載されていたことです。

(2024年9月9日記)
…………….
2024年9月11日追記

(https://x.com/DanielPipes/status/1833331208807502243)
Daniel Pipes دانيال بايبس @DanielPipes

On my birthday today, I offer a personal reflection, “At 75, Staying Healthy Is My New Career.” “I mark this birthday by starting a new career: that of extending my health-span. This goal may sound obvious, even banal, but this new career has its own distinct character, with specific challenges.” https://danielpipes.org/22349/at-75-staying-healthy-is-my-new-career
11:26 AM · Sep 10, 2024

(2024年9月11日転載終)

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研究活動あれこれ

ここ数年、2003年に始まった大学改革の弊害、というよりも負の側面が、SNS等を通して一般に広く周知されるようになってきた。

たまたま目にする個人ブログでも、せっかく優秀な成績を残し、受賞歴もあり、順調に博士号まで授与された若手でも、大学に残ることに魅力を感じず、民間の研究所に就職して、むしろ幸せに暮らしている、という事例を目にするようになった。

文系などでは、博士(後期)課程まで進んでも、若くして「奨学金」という借金の返済に追われ、最大でも5年までの任期制の非常勤職しか見つからず、とても結婚どころではない、という悲惨な話は、随分前から問題になっていた。ひどい例では、「高学歴プア」とまで呼称されている(2015年4月5日付「高学歴プア」の問題について(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20150405))。

日本のみならず、米国などでも同様らしい。後ろ盾なしにPh.Dを取得しても就職に直結しないために、自宅をオフィスに立ち上げて、雑誌記事や本を書いたり、テレビやラジオに出演したり、講演して回ったりして、生計を立てている人々が少なくない、と米国留学と駐在経験のあった主人がよく言っていた(2015年8月10日付「沈思黙考」(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20150810)。

2012年3月に突如、私に「自分の書いたものが日本語になるのを見たい」と訳業を依頼してきたダニエル・パイプス氏だって、実はその口である(2012年3月30日付「新たな頼まれ事について」(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20120330)(https://ja.danielpipes.org/art/year/))。親子二代でハーヴァード大学の博士でありながら、お父様の時代にはできたことが、息子さんの時代になると、左翼がアカデミアを占拠しており、「あのような政治思想を持つと、いくら優秀で資格があったとしても、大学に残れないのよ」と、中東フォーラム主催の旅団でご一緒したユダヤ系アメリカ人女性から教わった。2016年秋のベルリンにおける、夕暮れ時のカフェでのことである(2016年10月16日付「欧米はどこへ向かうのか?」(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20161016)。

うちの主人に言わせると、「だけどパイプス氏、あそこまでできたなんて、大した人じゃないか」と。それには私も全く同感で、あれから書き下ろしの新書まで出版されたのだから、やはり「書くこと」の才能に並外れて恵まれているのだろう(https://ja.danielpipes.org/article/10910)。

彼とウェブ上で知り合ってメール交換の後、2年後には米国(2014年4月上旬から中旬)、3年後にはイスラエル(2015年4月下旬から5月上旬)、4年後には欧州(2016年9月下旬から10月上旬)、6年後には東京(2018年2月中旬)と、場所を変えて過去4回もお会いしたが、知的刺激には全く衰えがない。パイプス氏はうちの主人のこともよく覚えていて、さり気なく気遣いを示してくださっていた。(明日は、パイプス氏の75歳のお誕生日である!)

放送大学大学院の勉強と研究課題は、主人の罹患データが新しいうちに始めたもので、勿論、マレーシアの研究テーマは、今後、論文にまとめていく予定ではある。

まずは、洋間二部屋に積み上がっている資料や本の整理から始めなければならないが、今のところはまだ、医療福祉の分野で精一杯だ。

そもそも、「資料が置けるように」と、今暮らしている住まいを見つけてくれたのが、他ならぬ主人だったのだ。2018年7月中旬の暑い最中であった。そして、転居してから、私の外出中にも、いつの間にか本棚を注文して、動かない手足を一生懸命に動かして、(少し歪んでいるが)本棚を組み立ててくれていた。また、段ボール箱から自分の荷物を取り出して、緩やかに押し入れ棚に並べてあった。

断捨離と言うものの、さまざまな思い出が濃厚に付着している物の片付けは、そんなにさっさとできるものではない。まずは、主人との約束であった二つ目の学位を五年祭までに仕上げることが課題だった。それは、今春、果たすことができた。そして、まだ残っている手続きなどが幾つかある。
。。。。。。。。。。。
それでは、主人がいなくなってからの私は、ブログ書き以外に何をしていたのだろうか?以下に、ワードに作成してある履歴書から、覚え書きとして、該当箇所を抜粋してみよう。

【学歴】

2020年10月 放送大学大学院修士科目生入学(生活健康科学プログラム)
2022年4月 放送大学大学院文化科学研究科修士全科生入学(生活健康科学プログラム)          
2024年3月 放送大学大学院文化科学研究科修士全科生修了(生活健康科学プログラム)(学術修士)
2024年4月 放送大学教養学部科目履修生入学(6科目 + 5科目)
2024年4月 放送大学大学院文化科学研究科修士選科生入学(2科目 + 2科目)

【研究発表】

・伊丹市立博物館友の会例会・研究発表「神戸におけるマレー語学習について-戦前戦中を中心に-」(2021年9月25日)
・伊丹博物館友の会例会・研究発表「相互理解か宗教的不寛容か?マレーシアのイバン語訳聖書を巡る過去の事件とその余波」(2022年8月27日)
・第5回JPC日本パーキンソン病コングレス(於:東京浜松町コンベンションホール)(主催:順天堂大学医学部脳神経内科内・日本パーキンソン病コングレス(JPC)後援:一般社団法人 全国パーキンソン病友の会) ポスター発表「配偶者から見た若年性パーキンソン病患者に伴う諸問題-プラミペキソールの副作用としての衝動制御障害を中心に-」(2024年10月13日予定)

【掲載原稿】

・「全国パーキンソン病友の会 会報『きずな』大阪府支部だより」No.114(2020年7月)投稿「若年性パーキンソン病患者の友とご家族へ」(https://www.osaka-pda.com/)pp.42-43.
・伊丹市立博物館友の会『友の会だより』令和2年(2020年)10月24日 第63号「新入会員紹介」p.3.
・伊丹市立博物館友の会『友の会だより』令和3年(2021年)2月27日 第64号「むかしのくらし」動画撮影秘話(その2)pp.15-16. 
・伊丹市立博物館友の会『友の会だより』令和3年(2021年)10月30日 第66号「伊丹と島本-むかしのくらし展を機縁として」pp.10-12.
・伊丹市立博物館友の会『友の会だより』令和4年(2022年)2月26日 第67号「神戸における戦前戦中のマレー語学習について」pp.13-15.
・伊丹博物館友の会(改称)『友の会だより』令和4年(2022年)6月25日 第68号「護国神社の英霊慰霊祭から祝日の改称を再考する」pp.13-14.
・伊丹博物館友の会『友の会だより』令和4年(2022年)10月29日 第69号「二つの石の話:行基石と鯉石」pp.13-14.
・伊丹博物館友の会『友の会だより』令和5年(2023年)2月25日 第70号「なんでも発表:相互理解か宗教的不寛容か?」p.14.
・伊丹博物館友の会『友の会だより』令和5年(2023年)6月24日 第71号「一住民から見た千僧今池の変遷」pp.16-18.
・伊丹博物館友の会『友の会だより』令和5年(2023年)9月23日 第72号「千僧の旧地名や古絵図そして子供神輿」pp.18-20.
・産経新聞社『月刊正論』令和5年(2023年)8月号 日本工業新聞社「編集者へ編集者から」欄 p.298.
・放送大学大阪学習センター『みおつくし』2024年4月 No.93「卒業・修了生からの喜びの声」p.9.

【検定】

2021年2月  一般社団法人日本漢方養生学協会 第12回薬膳・漢方試験合格
2021年11月 第1回茶道文化検定 Web版3級合格
2022年11月 第15回適塾講座「洪庵の取り組んだ薬学―その発展」課程修了
2023年1月  日本園芸協会「薬草ガーデン講座」の「薬草コーディネーター」資格認定

【社会活動】

・伊丹市教育委員会 義務教育諸学校等教科用図書選定委員会委員(市民代表)(令和2年度(2020年度)5月29日委嘱)
・伊丹市上下水道インターネットモニター(令和4(2022)年度8月・11月)
 伊丹市上下水道インターネットモニター(令和5(2023)年度8月・11月)
 伊丹市上下水道インターネットモニター(令和6(2024)年度8月・11月)
・伊丹市保健医療推進協議会委員(市民公募)(令和5(2023)年10月1日~令和7(2025)年9月30日)令和5年9月30日付藤原保幸・伊丹市長委嘱(伊健保健第884号)
・公益社団法人 近畿地区不動産公正取引協議会 消費者モニター(令和6(2024)年4月1日~令和7(2025)年3月31日)
・防衛モニター(令和6(2024)年4月1日~令和8(2026)年3月31日)陸上自衛隊中部方面総監証明書 第6-178号(令和6年6月21日 姫路駐屯地にて委嘱状)

【ボランティア活動】

・献血(半年に一度の400ml全献血 2015年1月-2022年6月 計15回)
・伊丹博物館友の会で地域の古文書のラベル貼り作業(月一回1時間半 2022年6月-2023年7月・2024年1月-現在)
・伊丹博物館友の会「むかしのあそび」(2023年2月・9月/2024年2月3日・2月17日)

【趣味の投稿文】

「日々勉強!」『ステーションCO・OP』 2020年6月号 通巻380号 p.37.
「夢の中で一生懸命」『ステーションCO・OP』 2021年4月号 通巻390号 p.67.
「ひとりごと」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2021年5月号 No.395, p.4.
「ファミリー川柳」『ステーションCO・OP』 2021年7月号 通巻393号 p.37.
「犯人は誰?」『ステーションCO・OP』 2021年9月号 通巻395号 p.67.
「学び続けること。」『ステーションCO・OP』 2021年12月号 通巻398号 p.37.
「今年いちばん!心に残ったできごと」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2021年12月号 No.402, p.2.
「祖父のお豆で豆まきを。」『ステーションCO・OP』 2022年2月号 通巻400号 p.66.
「効果てきめん!」『ステーションCO・OP』 2022年4月号 通巻402号 p.40.
「コツコツがんばります。」『ステーションCO・OP』 2022年5月号 通巻403号 p.40.
「伝言&いろいろ」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2022年6月号 No.408, p.4.
「先生への感謝。」『ステーションCO・OP』 2022年7月号 通巻405号 p.38.
「♪毎日を元気に!私の健康法♪」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2022年8月号 No.410, p.2.
「長い間、勘違いしていたこと」『ステーションCO・OP』 2022年10月号 通巻408号 p.38.
「おしゃれな父の思い出」『ステーションCO・OP』 2022年12月号 通巻410号 p.40.
「青汁の手軽な飲み方&アレンジ」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2022年12月号 No.414, p.3.
「家族への手紙。子どものころの、わが家の暖房にまつわる思い出」編-「古き良き時代。」『ステーションCO・OP』 2023年2月号 通巻412号 p.70.
「ひとりごと」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2023年3月号 No.417, p.4.
「家族への手紙。勉強机にまつわる思い出」編-「一緒に歩んだ机。」『ステーションCO・OP』 2023年4月号 通巻414号 p.71.
「ひとりごと」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2023年7月号 No.421, p.4.
「教えてください」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2023年11月号 No.425, p.3.
「ひとりごと」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2024年2月号 No.428, p.4.
「ひとりごと」(生活協同組合『えるクラブ通信』)2024年4月号 No.430, p.4.
「家族への手紙。夏の夕立とカミナリにまつわる思い出」編-「お姉ちゃんの機転。」『ステーションCO・OP』 2024年8月号 通巻430号 p.44.

以上、相違ございません。

(2024年9月8日記)(2024年9月9日・9月13日一部修正)

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マレーシアへのリサーチ旅行

昨日のブログの続きとして、最後となったマレーシアへのリサーチ旅行について、過去ブログから抜粋を。

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20121225)

2012年12月25日「降誕祭の日に寄せて」

12月7日から20日までのマレーシア(クアラルンプール・セレンバン・(6年前に市に昇格したという)プタリンジャヤ・クラン・ペナン)とシンガポールの二週間の旅は、22年前からの家族ぐるみの友人の長男(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091016)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091026)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091028)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091102)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120127)の結婚式(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121109)、18年前からお世話になってきた華人の友人が昨年12月20日に亡くなったので(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071220)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080214)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110323)そのお墓参り(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120607)、学会発表させていただいた植民地時代の宣教師達のお墓参り(ペナンとシンガポール)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100408)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100712)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100724)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100810)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100811)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100912)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110920)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111013)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111026)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120320)、クアラルンプールとシンガポールの国立図書館での資料収集、クアラルンプールと国際空港にある大書店での書籍購入、その合間に、メール・インタビューを私に申し込んできたマラヤ大学法学部の女子学生さん(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120412)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120422)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120429)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120819)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120926)やリサーチ関連のインフォーマントとの面会、最終日には、これで三度目の面会となったクアラルンプール・カトリック大司教(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070703)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070725)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071004)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071018)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080116)(http://jams92.org/pdf/NL21/21(22)_tsunashima.pdf)(http://jams92.org/pdf/NL24/24(06)_tsunashima.pdf)(http://jams92.org/pdf/NL26/26(10)_tsunashima.pdf)(http://jams92.org/pdf/NL27/27(24)_tsunashima.pdf)との急遽1時間半に及ぶ面接など、予定は毎日目白押しでした。

結局、出発前には書いておこうと思った三つの演奏会の記録は(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121125)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121126)、ワードに下書きが残ったまま見切り発車。事前には、実家の父が入院したとの由で、何かあれば途中で帰国する覚悟で出発しました。当然のことながら、主人の健康状態や日々の生活と仕事のことは気になっていましたが、出発を延期したからといって解決する種の問題ではなく、一期一会で機を捕えなければ、永遠に逃してしまうと思い、決行することに。独身時代や二十代の頃には(また行ってくればいいよね)みたいな感覚がどこかにあったのですが、年を取れば取るほど、(もうこれが最後かもしれない)という血相で重い荷物を抱えて出発することになります。観光客よろしく、おしゃれなんてどことやら、なりふりなんて構っていられません。

(抜粋終)
。。。。。。。。。。
我ながらびっくりするが、二週間でマレーシア(ペナン・クアラルンプール・プタリンジャヤ・クラン・セレンバン)とシンガポールを、実に忙しく訪問していたのだった。

正味二週間とはいえ、片道飛行機で6時間ぐらいはかかり、気候も真冬と灼熱と正反対のために、移動や休息も含めて、実質12日間の活動だった。

今となっては、どうしてこのようなことが全て可能になったのか、不思議でならない。12年前だから、まだ40代の私は若かったのかもしれない。でも、本当に(今しかない)という切羽詰まった気分だった。

飛行機やホテルの予約は、どういうわけか、いつでも主人が全部やってくれていた。病気の夫をほったらかして、勝手に一人で海外に出て行ったのでは、全くない。むしろ、「自分が出来なくなった分、ユーリはできるんだから、できる間にどんどんやったらいいよ」と、喜んでいた。

父の入院は心配だったが、お見舞いをしたからとて回復するとも言えなかったし、あの時を逃したら、本当にマレーシアどころではなかった。尤も、「親が入院したのに海外旅行なんて、恩知らず」という声も、一部にはあった。(帰国後、年が明けてから、確かに私はお見舞いに病室を訪れた。)しかし、私に言わせれば、学会発表前の大変な中、わざわざトラブルを起こしたりして邪魔をしてきた過去は、一体どうなるのだろうか?

そうは雖も、今から考えれば危機一髪というところで、もし万が一のことが発生したら、という不安感と紙一重ではあった。

12日間で8つの活動やイベントをこなしていた。お相手のあることなので、こちらの都合通りに進むとは限らない。結婚式やお墓参りや現地での要人との面談等、移動距離に車を出してくださった方々のお蔭でうまく運んだ出来事でもあった。

・植民地時代の宣教師達のお墓参りについては、ペナンは現地を確認できたが、シンガポールは納骨堂に納められているという話しか聞くことができなかった。

・クアラルンプール国立図書館とシンガポール国立図書館での資料収集

・1990年6月頃からセレンバンでインド系の家族ぐるみのお付き合いが続いていたが、そこの長男さんの結婚式に招待されて出席。(そして、御主人は今年7月20日に亡くなった。)

・1994年から知り合いだった福建系の国会議員のEdward Leeさんとは、長い間メールのやり取りがあり、私のリサーチに関して何かと便宜を図っていただいていた。議員在任中に癌に罹患し、そのまま亡くなった。次男さんとお嫁さんの車でクランにある墓地まで連れて行っていただき、お墓参りをした。

・マラヤ大学法学部の華人系女子学生さんが、私の英語版ブログ(と言ってもニュース・コレクション)を引用して卒論を書いたとのことで、メールでインタビューを申し込んで来たので、マラヤ大学で落ち合って面会。(彼女はその後、結婚した。)

・広東系プロテスタント神学者のDr.Ng Kam Weng のプタリンジャヤのオフィスで何度目かの面会。(メールのやり取りは今でもあり、神学論考を週一度ぐらいの頻度で送ってくださっている。)この1時間か2時間程の面談の間に、私が2012年3月下旬より、アメリカのDr. Daniel Pipesからのご依頼で拙いながらも邦訳を開始したことを伝えると、「パイプス博士か!あの人は、本当にいいイスラム学者だ。彼の書いていることは、本当だ。あんたが知り合いになれたなんて、凄い話じゃないか!」と喜んでくださった。

・最終日には、インド系のクアラルンプール・カトリック大司教との1時間半に及ぶ即席面接があった。(先代の大司教は、しばらく前に癌で亡くなった)

・クアラルンプールと国際空港にある大書店での書籍購入

あれ以来、欧米やアフリカや南アジアでは、イスラム過激派によるテロが局地的に頻発した。日本人も巻き込まれて犠牲になる事件も発生したため、マレーシア渡航の危険度が高くなり、これを最後としたのは正解だったと思う。

(2024年9月8日記)(2024年9月14日一部修正)

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Wong Kim Kong(黃錦光)牧師

私が最後にリサーチ目的でマレーシアを訪れたのは、2012年12月のことだった(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20121225)。

主人がペナンの宿泊地に豪華なスウィートルームを予約してくれ、私一人では到底、部屋が余って仕方がなかった。だが、ここで私は、ようやく英領植民地時代のペナンでのキリスト教宣教師達の墓地を探し当てた。また、著名な英国風教会も見学することができた。

その後、飛行機で首都圏へ飛んだが、Rev. Wong Kim Kongが代表を務めていたNECFのオフィスへは立ち寄る時間もなく、毎日、限られた滞在期間をフルに行使して、あちこち回っていた。

あの頃は、父も終末期に差し掛かっていて、いつ何時、何が起こるかわからない時期だったので、余計に、(今しかない!)と思い詰めていた。主人の方も、「できるうちに、できることは何でもしておいたらいいよ」と、一見寛大だが、切羽詰まった健康状態でもあった。

Rev. Wong Kim Kongについては、個人的に頻繁にお話をしたわけではなかった。1999年か2000年の頃、一度だけ、リサーチの目的を問う英語での10分程の面談があったのみである。

そこで私は、もともと1990年4月から政府の仕事でマラヤ大学で3年間教えていたこと、その間にリサーチに繋がる疑問点に気づいたこと、その後、マラヤ大学博士課程に入学が許されたことなどを包み隠さず話した。

(この博士課程は、必ずしもマレーシアに滞在する必要がなく、年に一度、更新手続きに訪マするのみでよかった。しかも、所属期間は最大10年であった。私がここに所属を決めたのは、日本に全く一次資料がなかったこと、指導教授が日本で見つからなかったこと、この種の調査は時間がかかるだろうと見込んだことによる。)そして、指導教授からの公式書簡(レター)を見せて、是非とも必要な文献資料を教えていただきたい、とお願いした。

すると、Wong Kim Kong師の秘書だった福建系女性のMs. Lim Siew Foongを紹介され、センシティブだと言われていた(今も未解決のまま)諸問題についてのリサーチ許可が与えられた。彼女は私とほぼ同い年で、なかなか有能だった。何年かはメールでもよくやり取りがあったが、しばらくしてNECFを辞めて、手話の仕事に移って行った。それからは、あまり連絡が取れなくなってしまった。

久しぶりに思い出したNECFだが、あれから私にもいろいろなことが起こり、苦労して集めた資料は、洋間にファイリングとして積み上がったままである。勿論、口頭発表は2018年3月まで毎年のように続けて来たが、話が単純な割に堂々巡りを繰り返しており、解決には程遠い。だから、このまま一生これで終わりたくない、という気持ちが強かった。ここ数年になってようやく、日本でもこの種の問題が一般国民の間に周知されるようになってきたが、何事であれ、先鞭をつけるとは、非常に犠牲を伴うものである。

そして、一昨日、フェイスブックでWong Kim Kong(黃錦光)牧師の訃報に接した。

不思議なことではあるが、長らく音信不通だったリサーチ協力者の訃報を私が知るのは、ほぼ間違いなくフェイスブックである。何もしていないのに、ふわぁっと浮上してくるのだ。
。。。。。。。。。
(https://www.facebook.com/kimkong.wong/videos/482016977985135)

Dear Family and Friends,
With deep sorrow, Rev. Wong Kim Kong was called home to be with the Lord on 4th September 2024.
Details of the memorial services are shared below.
Facebook Live will be available on this page during the Wake services.
With love, family of Rev. Wong
。。。。。。。。。
詳細は不明であるが、1951年生まれのWong Kim Kong(黃錦光)牧師の葬儀は、ビデオでライブ放映されたようである。こういう点、日本よりもマレーシアの方が遥かにデジタルツールの活用が上手である。

センシティブだと言われたマレーシアのリサーチは、日本の学会で発表を続けてきても、インテリだと自称するような人々によって傍流に置かれたり、平然と無視されたりして、なかなか厄介であった。

だが、マレーシアに行ったこともない主人がいつでも応援し、物心両面で助けてくれていた。尤も、いつまでもこんなことで人生を潰すつもりはなかった。このようにして、いつの間にか、いろいろと貴重な情報や資料を手渡してくれたマレーシアのリサーチ関係者が物故していく。その前に、是非とも論文として完成させたかったのだが、如何せん、こちらののっぴきならない事情もあり、なかなか思うようにはいかなかったことは返す返すも残念である。
。。。。。。。。
過去の英語ブログに掲載したWong Kim Kong(黃錦光)牧師のコメント抜粋を。

(https://itunalily2.hatenablog.com/search?q=”Wong+Kim+Kong”)

(https://itunalily2.hatenablog.com/entry/20170927)
2017-09-27 “Show proof”
《Christians For Peace and Harmony in Malaysia president Reverend Wong Kim Kong noted that Malaysia was “very sensitive” in the multiracial and multi-religious context.He said there should be more religious acceptance when it came to religious practices.》

(https://itunalily2.hatenablog.com/entry/20110724)
2011-07-24 “Christians in Malaysia”
《This weekend, former NECF secretary-general Rev Wong Kim Kong is giving a talk titled “Christian response in the midst of political confusion and uncertainty”.》

(https://itunalily2.hatenablog.com/entry/20080304)
2008-03-04 “Church and Elections in M’sia”
《”I would say that the feel of subtle, backdoor Islamisation of the national life is a major concern,” said Wong Kim Kong, Secretary-General of the National Evangelical Christian Fellowship Malaysia.
Although there is no official policy to discriminate against any religious minorities, the government has been unable or unwilling to deal with violations, he said.》

(https://itunalily2.hatenablog.com/entry/20080130)
2008-01-30 “News on demolished church”
《The Rev. Wong Kim Kong, secretary-general of the National Evangelical Christian Fellowship, responded by writing two separate letters to local authorities, citing the villagers’ constitutional right to construct the church building under Section 2, 6(1) and 7(1) of the Orang Asli Act 1954.
Despite these protests, local authorities tore down the church building last June 4.》

(https://itunalily2.hatenablog.com/entry/20071231
2007-12-31 ““Herald” issue was resolved”
《National Evangelical Christian Fellowship secretary-general Wong Kim Kong welcomed the Government’s approval of the permit.》

(https://itunalily2.hatenablog.com/entry/20071206
2007-12-06 “Issues of Christian identity”
《The NECF chief has this to say about the many errors in the MyKad. Rev Wong Kim Kong had said the situation was serious, as he had recorded a 25% error rate in the samplings he had carried out on church members around the country.》

(リスト終)

(2024年9月7日記)(2024年9月8日修正)

Posted in Christianity, Malay studies, research topics, Studies related, © 2024 by Ikuko Tsunashima-Miyake | Leave a comment

小さな子はかわいい

ご存じのように、フェイスブックでは、定期的に、過去の投稿記事が自動的に上がって来ます。昨日、私は同じ内容を繰り返してみました。記憶は繰り返すものなのですね。
まずは、過去ブログの再掲を。
。。。。。。。
2021年12月4日「幼少時から本物の古典音楽を!」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=1303&action)

(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)

☚ このFBの左側にいる、薄桃色の手作りワンピースを着た小さな女の子「テンプルちゃん」(二枚の写真)は、ピアノと歌のお稽古と同時に、祖母や母に連れられて、名古屋市内のお琴の演奏会へ少しずつ聴きに行き始めました。
「テンプルちゃん」とは、母方の叔母が独身時代に、私の髪型を見て名付けた綽名。犬山城へ連れて行ってもらいました。小さなくまちゃんのぬいぐるみを小脇に抱えた写真もあります。

(2021年12月4日転載)

2021年12月4日追記:幼児期に一緒に遊んだ、布製の赤いおべべの抱き人形。祖父母の家では、「あかこちゃん」と呼び、自分の家では「ドールちゃん」と名付けられました。世代が違うと、昭和時代には西洋化した呼称を。親の意気込みがわかります。

(2021年12月4日記)
。。。。。。。
そして、同じ年の3ヶ月前には、こんなことをフェイスブックに書いていました。

(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima/posts/pfbid022zJrwZ6qxkWdEY9bF2ujPUZnfXLZ1gq3wUApaUYdWHNMohv7wBD5k8WG3VCYMny3l?notif_id=1725439725079202&notif_t=feedback_reaction_generic&ref=notif)

2021年9月4日

この女の子は誰でしょう?
ヒント:三歳四ヶ月です。ピアノと歌の発表会。
    ちょこっとお澄まし顔。
    だってお姉ちゃんになったんだもん!

(転載終)
。。。。。。。
昨日、突然、投稿が再び浮上しました。

(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima/posts/)

ユーリさんが過去の思い出をシェアしました。

2024年9月4日

我ながら、かわいい昭和の子どもでした!
少しくせ毛で、「テンプルちゃん」と叔母に呼ばれていたそうです。
一人っ子の間、いつも遊んでいた赤い抱きぐるみの人形は、祖母宅では「あかこちゃん」、自宅では「ドールちゃん」と呼んでいました。

(2024年9月5日転載終)
。。。。。。。
おまけ:

(https://www.youtube.com/watch?v=ehNnyyrOMl0)

しゃぼん玉石鹸1

実は、生まれた頃の私は、このしゃぼん玉の赤ちゃんにそっくりだったそうです。
よく笑い、よく泣き、元気いっぱいの子どもでした。気分がころころ変わるので、周囲の大人達はたいへんだったようです。

(2024年9月5日転載終)

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自衛隊体操!

(https://x.com/ituna4011/status/1830490831679316289)
Lily2@ituna4011
究極のエクササイズ!? 5分で有酸素運動の効果もある「自衛隊体操」とは|さんたつ by 散歩の達人 https://san-tatsu.jp/articles/42579/
← モデル体操は、きっちりと隅々まで手足を動かしている。これはキツそう。ラジオ体操に似て、どこまで自分で意識するか、だ。
3:19 PM · Sep 2, 2024

(2024年9月2日転載終)
。。。。。。。
今日は、以下の本が届いた。

渡部悦和・下園壮太自衛隊式メンタルトレーニング:折れない心を育てるワニ・プラス/ワニブックス2024年1月

「誰もが人知れず様々な悩みを抱えて生活し、自衛隊に勤務している」(p.20)
「自衛隊という組織は特殊なようでいて、実は一般社会の縮図でもある」(p.29)
「日本中のあらゆるところから、あらゆる境遇下で人生を過ごしてきた人たちが入隊してきます」(p.29)

防衛モニターとして、自衛隊に関する外側のみの理解に留まらず、あるがままの自衛隊の内部状況を直視しつつ、一国民なりに外側から物心両面で支えられるよう、備えをしていきたい。

(2024年9月2日記)(2024年9月3日一部修正)
………….
2024年9月3日追記

何とも痛ましい事故が福知山駐屯地で発生した。

(https://news.yahoo.co.jp/articles/c7aace5e7acfb259f821bfdc1c24b3612ecc017c?source=sns&dv=sp&mid=other&date=20240903&ctg=dom&bt=tw_up)

陸自訓練で20代の陸曹死亡…福知山駐屯地、他4人も体調不良で入院
2024年8月30日

陸上自衛隊福知山駐屯地は29日、第7普通科連隊に所属する3等陸曹の20歳代男性が訓練中、体調不良を訴えて入院し、28日に亡くなったと発表した。  
発表によると、3等陸曹は屋外のレンジャー教育訓練に参加していた21日、体調不良を訴えて離脱し、翌日も療養。23日に急性腎不全と診断されて入院したが、5日後に亡くなった。  
3等陸曹以外にも、21~23日に4人の隊員が体調不良で搬送され、熱中症や急性腎不全と診断されて入院中。訓練は12月14日まで続く予定だったが、駐屯地は事態を重くみて訓練を中止し、発症原因などを調べる。

(転載終)
。。。。。。。。
この事故報道に関連して、21歳の時にレンジャー訓練を経験した30代の「けるび」君がYou Tubeで発信した。彼は、数年の勤務後、思うところあって自衛隊を一旦退職。すぐさま、今度は予備自衛官として登録された。靖國神社に定期的に参拝し、毎年元旦には遺書を書いている、と述べていた。

(https://x.com/ituna4011/status/1830587741865914830)
Lily2@ituna4011
自衛隊での事故を踏まえて、報道や自衛官の待遇について僕の考え。
https://youtu.be/cqyXSHttS5M?si=PkF8yBzAwJ31cB2i… via @YouTube
9:45 PM · Sep 2, 2024

(2024年9月3日転載終)
……………
2024年9月5日追記

今日届いたもう一冊。

二見龍自衛隊式セルフコントロール講談社ビーシー2021年3月

我々一般人にも実践可能なヒントがたくさん盛り込まれている上、自衛隊の基本訓練の実態の断片がわかるようになっている。
例えば、自衛隊では自給自足で自己完結型の戦闘組織という性格から、隊員一人一人が身の回りのことを何でも自分でできるよう訓練されている、という。掃除、洗濯、アイロンがけ、靴磨き、ベッドメイキング、裁縫等である(p.30)。

やや気になったのは、この本に書かれている項目に関連して、30代ぐらいの元自衛官だという最近のYou Tuber達の発信や視聴者のコメントである。縫物やアイロンがけや靴磨き等に関して、元自衛官が「これで自分は自衛隊を辞めました」「こんなことをやっているから、自衛隊に志願者が集まらない」という、まるで逆行する発信を私は見つけた。正直なところ、非常に不愉快である。見ているこちらの士気まで下がる。

この元自衛官らは、レンジャーや難易度の高い資格等を保持していたのかもしれないが、根本的に、自分のしてきたことの意味や自衛隊という組織の原点が全く理解できていなかったことの証左である。民間人になったら言論や表現の自由があるのかもしれないが、それでも、自衛隊に関心が高い若者、特に小学校高学年から中学や高校の生徒達にとって、潜在意識下に及ぼす負の影響がある。その責任の重さをよく考えていただきたい。いかなる理由であったとしても、退職後も「さすが自衛官だっただけある」と言われるような言動を、是非とも心掛けていただきたい。

あるいは、You Tubeの映像へのコメント欄にも、工作員かと思われるような、甘っちょろい奇妙な発言が散見されることもある。

本書では、「自衛隊に入隊すると訓練期間から、スマホに触れる時間が極端に少なくなります。勤務場所によっては持ち込みすら制限されます。」(p.56)とある。それに対して、You Tubeのコメント欄では、若い隊員であろうか、「スマホを見る時間がほしい」と切願しているような文を見かけた。

私なら、スマホ依存症ではないか、と疑ってしまう。最初から入隊を差し止めるだろう。面接時に確認しておくぐらいがいいのではないだろうか?

「今は時代が違う」「それでは若い人が集まらない」等という理由から、基準値を下げている言論人もいる。一見、自衛隊を応援し、自衛隊の将来を心配しているようでありながら、実のところ、現役自衛官達の努力や苦労を小ばかにしていて、失礼でさえある。

この件については、今年5月以降、かなり気になっている。もう少し観察して、自分なりの対策法を考えてみたい。

(2024年9月5日記)
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2024年9月8日追記

(https://x.com/ituna4011/status/1832652553240375574)
Lily2@ituna4011
自衛隊の仕組みから学んだ点。
1. 入隊すると二人一組のバディを組む。自分だけができてもダメで、相手が終わるまで助け合う。試練を二人で乗り越える。
2. 階級制度によって混乱やストレスを回避できる。
2:29 PM · Sep 8, 2024

(https://x.com/ituna4011/status/1832653277407920594)
Lily2@ituna4011
一時期、中国の人民解放軍が平等の概念を導入して階級をなくしたが、うまくいかなかったらしい。
『自衛隊式メンタルトレーニング』p.98.
2:32 PM · Sep 8, 2024

(2024年9月8日転載終)
…………
2024年9月9日追記

(https://x.com/ituna4011/status/1833006273064825136)
Lily2@ituna4011
階級制度のプラス面、社会主義は断然否定していた。 自衛隊の場合、固定化された階級制度ではなく、訓練して実力をつけ、学科試験を頑張ることで、上の階級にも上がれるらしい。
1:55 PM · Sep 9, 2024

(2024年9月9日転載終)
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2024年9月20日追記

(https://x.com/ituna4011/status/1824433890448248935)
Lily2@ituna4011
私の担当自衛官さんが、写真撮影前に飛び上がって喜んでいらした時、これは自衛隊体操で長年鍛練した成果だ、と私は感じた。
10:11 PM · Aug 16, 2024

(https://x.com/ituna4011/status/1837065218675069192)
Lily2@ituna4011
自衛官は仕事として、自衛隊体操をする。
私は応援団の一人として、8月半ばから毎日、自衛隊体操を励行。
と伝えたところ、私の担当広報官さんが、びっくり仰天。でも、涙顔マークつきで喜んでくださった。
6:44 PM · Sep 20, 2024

(2024年9月20日転載終)

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長谷川嘉哉医師のブログから

岐阜県土岐市で、主に認知症を中心として神経内科を開業されている長谷川嘉哉医師のメーリングリストから、最近のブログで参考になると思われた記事を以下に(無断)転載いたします。

長谷川医師は、私の父方叔母と同じ名古屋の大学医学部のご卒業で、これまでにもサイン入りご著書や桑の茶等をプレゼントしていただいた経緯があります。今年3月に学位授与された放送大学大学院の修士論文を作成する際、関連トピック記事を何本も参考にさせていただき、You Tube発信も欠かさず拝見しておりました。

以下に、過去ブログでの引用リストを。

2023年9月15日「年金からわかる親ガチャ問題」
(http://itunalily.jp//wordpress/wp-admin/post.php?post=5530&action)

2023年9月26日「嫁は介護要員か?」
(http://itunalily.jp//wordpress/wp-admin/post.php?post=5586&action)

2023年11月14日「家族が成否を決める」
(http://itunalily.jp//wordpress/wp-admin/post.php?post=5911&action)

2023年12月23日「転載シリーズ」
(http://itunalily.jp//wordpress/wp-admin/post.php?post=5966&action)

2024年4月30日「再入学した放送大学その後」
(http://itunalily.jp//wordpress/wp-admin/post.php?post=7294&action)

(リスト終)

専門医による現場からの発信は、大変貴重で勇気づけられるものです。特に、患者だけではなく、患者を取り巻く家族の問題にも鋭く的確な見識を提示され、現代日本社会の抱える問題が如実に反映されていると思います。
。。。。。。。。
Toki Naika Clinic’s BLOG(https://brain-gr.com/tokinaika_clinic/blog/dementia-discrimination/drug-induced-dementia/)

服用している薬が認知症を引き起こす!?「薬剤起因認知症」とは
2024年8月26日

認知症専門外来の初診で患者さんを診るときに私は「診断は? 進行度は? 治療方法は?」などと考えます。しかし、一定数、日頃内服している薬が原因で認知症の症状が出現している患者さんがいらっしゃいます。この場合、薬を中止するだけで症状は改善することがあるのです。

もちろんこれらの薬を処方したのは、認知症専門外の医師です。残念ながら彼らは自身の処方している薬の危険性に気が付いていません。そのため、薬剤により引き起こされる認知症を予防するには、患者さん自身が自己防衛するしかないのです。今回の記事では認知症専門医の長谷川が経験した薬剤が原因の認知症についてご紹介します。

1.薬剤が原因の認知症とは?

薬剤が原因で過度に鎮静されてしまったり、逆に興奮してしまったりして、認知症のような症状が出現することがあります。私も所属している日本神経学会が2017年に作成した「認知症疾患診療ガイドライン」でも「認知機能障害を呈する患者の中で、薬剤に関連すると思われる割合は2〜12%」もあると推測しています。

私自身の認知症専門外来の印象でも、薬の整理をするだけでかなり症状が改善する患者さんが10%程度いらっしゃいます。

2.認知症様を呈する抗不安薬・睡眠薬とは

薬剤が引き起こす認知症症状で最も多いものは抗不安薬や睡眠薬です。

2-1.作用時間が長い睡眠薬に注意

睡眠薬を処方してもらっている患者さんにお願いです。一度、主治医の先生に、「私が服用している睡眠薬の半減期は何時間ですか?」と聞いてみてください。半減期とは、おおまかに言うと薬がだいたいの効果を失うまでの時間のことを言います。その質問に、明確に回答できる医師であれば大丈夫ですが、医師の中には明確に答えられない方が結構いらっしゃいます。睡眠薬は、作用時間によって、超短時間作用型(2〜4時間)、短時間作用型(6〜10時間)、中間作用型(21〜28時間)、長時間作用型(36〜85時間)に分けられます。

中間作用型や長時間作用型は、21時間以上効いているわけですから、高齢者がこのような睡眠薬を服用すると昼間も傾眠になります。結果として、まるで認知症になったように見えることがあるのです。具体的には、

• 中間作用型:ロヒプノール/サイレース(半減期:24時間)、ユーロジン(半減期:24時間)、ベンザリン(半減期:28時間)
• 長時間作用型:ドラール(半減期;36時間)、ソメリン(半減期:85時間)

さすがに長時間作用型を一般内科の先生が使用されることはありませんが、中間作用型は結構使われる先生がいらっしゃいます。きっと半減期を知らないから処方できるのだと思います。

2-2.ハルシオンは別格で副作用が多い

中間から長期に作用する睡眠薬は認知症用症状を起こしますが、逆に作用時間が短い超短時間作用型なら安全というわけでもありません。ハルシオンは、作用時間は極めて短いのですが、それ以外の副作用が多く見られます。副作用の中でも、健忘が最も怖い症状です。継続して服用を続けると認知症になる可能性が高いと言われています。高齢者の場合は、絶対に服用をやめてもらいたい薬です。世界的にも処方量が減っていますが、不勉強な日本の医師のため世界総販売額の約6割がいまだに日本で販売されています。

2-3.デパスも1日1回までなら問題ない

デパスはベンゾジアゼピン系に分類される、抗不安薬・睡眠薬になります。筋肉の弛緩作用が強いため、筋肉の緊張が緩み気持ちを落ち着かせます。そのため、睡眠導入薬を初めて服用する患者さんにも使いやすい薬です。私の経験上でも、寝る前に1錠飲む程度では副作用は殆ど見られません。しかし、1日に2回、もしくは3回処方されると、日中も傾眠になり認知症のような副作用が出てしまいます。高齢者の場合は、1日1回寝る前の服用を厳守してください。

3.糖尿病が過剰にコントロールされていないか?

糖尿病の薬にも注意が必要です。この場合、血糖が高すぎても、低すぎても認知症用の症状が出現するために注意が必要です。ただし、頻度的には血糖が下がりすぎて認知症用の症状が出現していることが多い印象です。

最近の糖尿病のコントロールは、75歳以上の高齢者の場合は、若い方と違いコントロール目標を緩める傾向にあります。具体的には、1か月の血糖の平均を示すHbA1cが7.0台であれば問題はないとされています。(若い方はHbA1c 7% 未満をコントロール目標とします。)

4.胃薬が引き起こしている例も

認知症の患者さんは、胃腸症状を執拗に訴えることがあります。「気持ち悪い。胃がもたれる。吐き気がする。」などです。その場合、専門外の先生は、消化器症状を軽減させるために、ナウゼリンやプリンペランという薬を処方します。

若い方も、胃腸風邪で受診するとよく処方される薬です。これらの薬は、短期間であれば副作用は殆どありません。しかし、高齢者の場合は、症状を訴え続けるため、処方が数か月から数年にわたって継続されることがあります。そうなると、これらの薬は「薬剤性パーキンソン症候群」といって、表情が乏しくなり、歩行も不安定になり一見認知症のように見えてしまう副作用が生じてしまうことがあります。単に胃腸薬と思わずに一度確認してみることが大切です。

たかが胃薬と思っても、慢性使用による副作用を生じさせることがあります

5.身近な風邪薬でも

高齢者や認知症患者さんへの風邪薬の処方は注意が必要です。特に軽い風邪症状の際に処方される総合感冒薬は要注意です。総合感冒薬には、眠気を誘発する成分が入っており、高齢者の場合、認知症のような「せん妄症状」を起こすことがあります。また、認知症患者さんでは、大混乱してしまい緊急受診することさえあります。

高齢者は、38度以上の高熱が出ている、食事が摂れないといった症状がない限りは総合感冒薬の服薬は避けるようにしましょう。どうしても服用したい場合は、漢方の葛根湯がお薦めです。葛根湯については以下の記事も参照になさってください。

•葛根湯・医師長谷川が自信をもってお勧めする漢方薬の効果と使い方

6.全身掻痒感に対する抗アレルギー剤にも注意

高齢者の場合、全身の掻痒感を訴えることがあります。通常は保湿剤で対応しますが、効果がない場合は、抗アレルギー剤を使用します。

しかしこの抗アレルギー剤で眠気が出て、認知症用の症状が出現することがあります。そのため、服薬後の意識レベルや反応には注意が必要です。もちろん、副作用がなければ継続しても問題はありません。

7.薬剤起因に本当の認知症が隠れていることも

薬剤が原因で引き起こされる認知症は、薬をやめれば完全に回復すると思われがちです。しかし、薬の副作用の裏に認知症が隠れていることがあるので注意が必要です。
薬を中止しても認知症様の症状が残る場合は、もともと認知症があって薬によって症状が強く出現したと考えます。したがって、薬を中止してから抗認知症薬等の治療を開始します。

8.薬剤起因性認知症が引き起こされる大きな理由とは

なぜ、このような薬の副作用によって認知症様の症状が出現する薬を、医師が処方するのでしょうか?
実は、不適切な薬を処方した医師は、副作用が出現したときには関わらないことが一因です。専門外の開業医であれば、自分の処方による副作用が起きていたとしても、知らないうちに患者さんの方で専門医もしくは救急で受診をしているケースが殆どです。そのため、副作用の経験が医師にフィードバックされないのです。その結果、副作用が強い薬が再び処方されてしまうのです。

9.まとめ

• 認知症専門外来では、薬の副作用による認知症様の患者さんが10%程度います。
• 副作用を引き起こす薬は、睡眠薬・抗不安薬・糖尿病治療薬・胃薬・風邪薬・抗アレルギー剤と多領域に及びます。
• ただし、薬剤で引き起こされる認知症様症状の陰に、本当の認知症が隠れていることもあるので注意が必要です。

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(無断転載終)
。。。。。。。。。。
上記ブログのポイントは、以下の通り。

・専門外の医師は、残念ながら自身の処方している薬の危険性に気が付いていない。
・質問に、明確に回答できる医師であれば大丈夫だが、医師の中には明確に答えられない方が結構いらっしゃる。
・中間作用型は結構使われる先生がいらっしゃる。きっと半減期を知らないから処方できるのだろう。
・不勉強な日本の医師のため世界総販売額の約6割がいまだに日本で販売されている。
・不適切な薬を処方した医師は、副作用が出現したときには関わらないことが一因
・自分の処方による副作用が起きていたとしても、知らないうちに患者さんの方で専門医もしくは救急で受診をしているケースが殆どである。

10月中旬の東京でのPDコングレス(学会)での私の発表にも、この「医原病」が引き起こした悲惨な崩壊事例が含まれている。乞う御期待!

(2024年9月2日記)

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大御宝「おおみたから」

メールマガジンからの転載を。

伊勢雅臣『大御宝。日本史を貫く建国の理念』を読み解く

・民を大切な宝物として考え、その安寧を祈るのが、「大御宝」の思想なり。

・神武天皇即位の詔に示され、歴代天皇の責務とされてきた理念が、日本の歴史を支えていた。

・神武東遷がはじまり、神武天皇は各地の支配者と主従関係を結んだり、姫を娶ったりして、同胞感を醸成しつつ、東に向かった。

・そして、河内国の族長などの戦いになんとか勝ち、神武天皇は「建国宣言」をされた。
「恭みて宝位に臨みて、元元を鎮むべし」(日本書紀)
→(謹んで皇位に即いて、民を安んじ治めなければならない)

・民を「大御宝」と考え、その安寧を祈る。それを行うために、神武天皇は皇位に就いたのだ。

・日本列島の各地で、さまざまな部族が今まで群雄割拠していたが、一つの屋根の下での家族のように互いに思いやりを持ち、仲睦まじく暮らすことを理想として、神武天皇は国家を創った。

・各地の部族を婚姻や先祖の系図で結ぶことによって、平和的な共同体を生み出していった。

・民俗学者、柳田國男は、各地に残る民話から、我が国では祖先の霊が、山の高みから我々を見守ってくれている、と信じられてきたことを明らかにした。

・世界の多くの原始部族は、こうした祖霊信仰を持っていたが、近代化した国家で祖霊信仰を持ち続けている点にも、我が国らしさがある。それは聖徳太子が、祖霊信仰を仏教と結びつけたことによって、継承されてきたからである。

・我々を育ててくれた先祖が死後もわれわれを見守ってくれているなら、現世の我々も子孫のためにできる限りのことをしなければ、という心構えになる。

・そしてまずは、子供たちにしっかりした教育を施して、立派な人生を歩ませようと考える。

・教育重視は、我が国の「根っこ」である。江戸時代の就学率は、世界でも群を抜いていた。明治維新後、すぐに公布された学制により全国での大々的な学校づくりが始まった。

・神道を基盤に、仏教も儒教も和して共存しているのが日本の強みであり、このかたちを始めたのが、聖徳太子だった。

・後醍醐天皇とその理想に殉じた楠木正成やその他の忠臣たちの生き様は、清冽な地下水脈のように日本人の心の深奥を潤してきた。

・徳川家康の九男、尾張藩の初代藩主となった、徳川義直は、「王命に依って催さるる事」という言葉を残している。
→ これは朝廷と幕府が対立することになったら、朝廷側につけ、という尊皇精神が込められているとされる。

・「大御宝を鎮むべし」という神武天皇即位の祈りは、清冽な地下水のように、国史を貫いて流れている。

(2024年9月2日転載終)

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