2024年9月8日付ブログ「研究活動あれこれ」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=8518&action)の派生で、久しぶりにマレーシア関連の過去の出来事を振り返ってみたい。
返す返すも、本当に今でも不思議なのは、なぜ主人があんなに応援してくれていたのか、ということだ。
こんなテーマを仕上げてみたからとて、全部自腹を切ってやっていることであり、いわゆる社会的地位にも収入上昇にも繋がることはないのに、である。
但し、昨今、日本でもSNSで拡散されている外国人労働移民、ムスリム墓地、イスラム過激派の事件、欧米のキリスト教文化の崩壊等は、実はかれこれ二十数年以上も前から、私のテーマと間接的に繋がっている諸問題でもあった。ようやく日本で周知されるようになってきたか、というところである。だから、目の付け所としては悪くはなかった。
尤も、主人がそこまで意識していたかどうかは不明である。
かれこれ27年程も前になる。初めて名古屋で出会った日、朝10時から夕方6時までの8時間(正確には、実は私が10分遅刻したので、7時間50分ぐらい)があっという間に過ぎて行った。名古屋駅から栄までの地下鉄二区をまっすぐ歩き、テレビ塔に上って、今は取り壊された中日ビルの回転レストランでずっとお話をした。
それから名古屋駅に戻り、地下街で「味噌カツ定食」を食べた。「僕、食べるの早いんです。ゆっくり食べてください」と言いながら、その頃、京都の桂にあった社員寮に住んでいたので、「これから新幹線で京都まで帰ります」。そして、私が食べ終わった頃、改めて背筋を真っ直ぐにして「今日は本当にありがとうございました。これからも、ご連絡させて頂いてもよろしいですか?」と言ってくれた。(来た来た!)と、私は内心思った(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20080320)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20091214)。
だが、私にとっては、まずはマレーシアのリサーチが終わっていなかったことが気掛かりだった。
「あのぅ、私、本当は結婚前にマレーシアの研究テーマを終わらせたかったんですけど、資料不足でまだ終わっていないんです。もしよろしければ、結婚してからも、続けさせていただいてもいいでしょうか?それが条件なんですけど」と、半ば賭けのような気分で言ってみた。すると、さっと顔が明るくなり、「あ、女性はむしろ、それぐらいの方がいい。僕、勉強する女性が好きなんです。マレーシアなら近いし、一ヶ月でも半年でも、何なら一年でも行って来たらいい。僕だって、勉強したくてアメリカに行ったんだから、自分の妻になる女性にやらせないという筋合いはない」と、勢い込んで言ったのである。
その言葉に嘘はなかった。二ヶ月後、同じく名古屋駅で父が会ってくれたが、「結婚前提の交際を認めていただけないでしょうか」との後で、「僕、勉強する女性が好きなんです」と、大真面目に言っていた。父は「結婚するのに勉強なんて….」と不思議がっていたが、「ま、真面目そうな男じゃないか。自分がよければ、お父さんは反対はしないよ」とあっさり許可が出た(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20170828)。
それからも、(もう、こんなめんどくさいテーマ、やめようかな)と躊躇する私をいつでも鼓舞してくれたのは、主人だった。
先のブログでも書いたように、あの当時のマラヤ大学博士課程は、最大でも十年間は在籍することができ、しかも、マレーシアに住む必要もなかった。つまり、(あの頃は国際郵便を通して)通信のみの指導で、論文さえ仕上がればいい、という(安直な)仕組みだった。それで、政府の仕事でレッキとした所属があった間に、マラヤ大学に書類を申請してあっさり合格し、その後の十年間を、センシティブで神経をすり減らすばかりの「リサーチ」に費やしたのだった。
今ならインターネットがあるので簡単だが、あの頃は、現地に行かなければ何もわからず、現地資料が入手できただけでも、学会で拍手喝采、という時代だった。だからこそ、現地の協力がなければ、日本の肩書を振り回したって、うまくいくはずがない、と見込んでいた。そのためにマラヤ大学の所属を決めたのである。
指導教官は二人とも女性だった。なかなかのやり手で、受賞歴もあり、その後も素晴らしく出世された(http://jams92.org/pdf/NL28/28(31)_tsunashima.pdf)。
私が学んだのは、途上国と呼ばれている国の人々が、個人としていかにしたたかに立ち回るか、ということだった。むしろ、途上国の方が、出身階層によるが、日本人よりも有利に扱ってもらえるルートが欧米諸国との間にできていた。
ともかく、リサーチ協力を依頼する指導教官からの「レター」をあちこちの関係者に見せて、身元を明らかにし、こちらを信用していただいて、文献資料を集めたり、機密文書のコピーをいただいたり、指導者層との面談を許可していただいたりしていた。
結婚後、マレーシアへ行ったのは単独で、主にリサーチ目的であった。1998年から2003年までは毎年6月に、大学の登録更新手続きを兼ねていた。大抵、往復を含めて、五日間から一週間、あるいは最大、十日間の滞在だった。
2000年には一ヶ月半、クアラルンプールの中流ホテルを仮宿にして、集中してリサーチを進めた時期があった。
その時に集めたものを元に、2004年から教授の突然のご依頼により、同志社大学神学部神学研究科でマレーシア事情を教えることになった際、英語で論文も出せた。自分で和訳した版はこちらにある(https://www.cismor.jp/uploads-images/sites/2/2014/01/JISMOR1_tsunashima.pdf)。ちょうど9.11同時多発テロの前だったので、時期的にも最初で最後のリサーチ滞在だった。(9.11テロの秘密会合はクアラルンプールで開かれていた。)
2003年以降は三年に一度、2006年、2009年、2012年の三回、マレーシアを訪れた。この辺りの記録は、過去ブログ(https://itunalily.hatenablog.com/search?q=マレーシア)に詳細が綴られている(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20091028)。なぜ三年毎だったかと言えば、マラヤ大学で教えていた頃の給与を貯金してあった、今はなき東京銀行(Bank of Tokyo)の定期預金の手続きが、「三年に一度は来店すること」という規定だったからだ。
銀行手続きだけなら日帰り強行ということもあるのかもしれないが、第一、気候が異なるため、余裕を見て、一回につき十日から二週間程度の滞在であった。せっかくの訪マなら、研究会や学会での発表用にリサーチも詰め込んで予定を立てなければ勿体ないし、行かせてくれる主人に申し訳ない、という気分だった。
マレーシアは日本と違い、定期預金の利率が6%と高かった時期もあって、それなりにまとまった金額でもあった。また、日本にいながらにして、リサーチに必要なマレーシアの現地文献を入手するにも、マレーシアの銀行の小切手をフル活用していた(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20071004)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20071220)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20140519)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20171128)。だから、大切な預金口座であった。
2012年になると、「これからは、三年後ではなく七年後の手続きでよろしい」と、クアラルンプールの銀行から通知された。その頃の主人の病状の進行状況を思うと、期間が延びてホッとした。
実際のところ、七年後の2019年には、1月の阪大病院での検査入院、8月23日からの近畿中央病院の救急搬送、9月30日からの伊丹せいふう病院(回復リハビリ)の入院等、ドタバタと続いていたので、気が気ではなかった。海外どころではない。
ところが、偶然にしては出来過ぎな程、2019年秋に入った頃、先方の東京三菱UFJ銀行クアラルンプール支店から電話と郵便の連絡があり、「今後は邦人口座を閉じることになった。預金全額は円建てにして日本の口座に送金する」。つまり、入院中の主人を置いたまま、飛行機に乗ってマレーシアで銀行手続きをしなくてもよくなったのだ。
願ってもみなかった幸運である。やり取りにはもどかしい日本語であったが、無事に全額、日本に戻って来た。入院中の主人に伝えると、ほっとしたように喜んでいた。
この辺りの経過を振り返ると、つくづく不思議である。
最初に名古屋で出会った頃、主人は一ヶ月か二ヶ月に一度ぐらいの割合でアメリカ出張に行っていた。最先端のデジタル技術を扱っていたので、やりがいもあっただろうし、内なる自信を秘めて落ち着き払い、かつ意気揚々としていた。本人は自分がまさか神経難病に罹患しているとは、つゆ思ってもいなかった時期だった。京都の北山での結婚披露宴では、会社の同僚の方達が、「人遣いの荒い職場だ」「アメリカ出張の合間に、名古屋でデートしていたのか?」と冗談を言い、笑いを取っていたぐらいだったが、本人は嬉しそうにニコニコしていた。
「自分だってやってきたのだから、やれる間にユーリにもやれることをやらせたい」と、いつでも言っていた。ある場合には、リサーチ協力者へのお土産として、おしゃれなボールペンやサリーのブラウス用の布まで、どこで見つけたのか、主人が買ってきてくれていた。
「私を一人マレーシアに行かせて、心配じゃないの?」と尋ねてみたことが何度かあったが、「リスクを気にしていたら何もできないよ。何かあったら、僕が助けに行くよ」と鷹揚としていた。それに、「ユーリの暮らしぶりを家で見ていたら、わかるよ。家事もやっているし、本当によく勉強するし、ちゃんとした場所で仕事もやってきたんだろう?現地リサーチと言ったって、大学に繋がっていて、図書館で資料を調べたり、教会の指導者層に話を聞いたり、後は昔の知り合いに会ったりしているだけだろう?」と、信頼し切ってくれていた。だからこそ、こちらも一生懸命、裏切らないように、時間や機会を無駄にしないように、事故や病気に遭遇しないように、と必死で過ごしてきた。
また、帰国後は、大量に撮った写真の現像や焼き増しの手続きを主人にやってもらい、私がどのように現地で過ごしてきたかをわかってもらうようにしていた。
私の場合、論文を書くとなると二ヶ月ぐらいは集中する癖があるので、家庭の事情から口頭発表だけは先にしておこうと思っていた。その研究会や学会での発表でさえ、主人はいつでも喜んでいた。カレンダーに日程を書いておくと、さり気なく、必要なものを買っておいてくれたりした。
こうしてみると、本当に私には勿体ないようなできた夫だったと、つくづく思う。
この辺りの事情は、実はダニエル・パイプス氏が見抜いていた。太平洋を超えて時差もあるのに、2020年4月10日の主人の葬儀のジャスト一時間前に、メールがピンと届いたのである。ご丁寧にも、ツィッターのメッセージで、「メール送っといたよ」と。メールを開くと、「僕は〇〇〇に会ったことはない。でも、僕は〇〇〇を知っている」という書き出して、主人がいかに私を信じていたか、私のすることを全面的に支援し続けてきたかを称える文章だった。
なぜ、このような展開になったのか?
私が1990年4月から三年間、国際交流基金の派遣でマレーシアにいた同時期に、主人の方は、三菱電機の社費で米国のマサチューセッツ工科大学に二年間留学していた(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20120404)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20170804)。そのため、パイプス氏のご実家のあるボストン周辺になじみがあったようである。そして、パイプス氏自身も、日本通とまではいかなくとも、密かに日本に短期調査留学に来ていたこともあって(1986年に三ヶ月)、私家版日米同盟みたいな関係が成立していたからでもあろう(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20120122)(https://itunalily.hatenablog.com/entries/20120123)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20120321)。
2012年の頃までは、インターネット上で「中東フォーラム」や「ダニエル・パイプス」と検索すると、日本語でも悪口散々だった。そのために訳業を依頼されても長らく躊躇っていた私だったが、「アメリカ人なら、はっきり返事しないとダメだよ。それに、パイプス氏、そんなに悪い人じゃないと思うよ」と押してくれたのは主人だった。
パイプス氏が私を「発見」したのも(https://itunalily2.hatenablog.com/entry/20120113)、そもそも、主人が何度も勧めてくれていたブログ書きのお陰だった。そして、パイプス氏のお陰で、私はダグラス・マレイ氏(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20171001)や Dr.Aymenn Jawad Al-Tamimi(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20150413)のような優れた文筆家や研究者であり、昨今のイスラム問題や文明に関する勇敢な発信者と巡り会うこともできたのだった。
フェイスブックに載せた外国人との写真の何枚かは、実はパイプス旅団で知り合った方々である(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima/photos_by)。それも、先方の都合で「日本に行くから会わない?」と連絡が来た時期は、これまた不思議なように、偶然にもこちらの予定が空いていた時だった。
閑話休題。
リサーチ関連に話を戻すと、マレー半島のみならず、ペナン島やシンガポールやサバ州にも立ち寄っていたことがある。そのサバ州だが、今では日本政府から渡航中止勧告が出されている。私が行ったのは2006年の一回きりで、コタ・キナバルにあるサバ神学院のマレー語聖書翻訳者と面会するためであった(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20070713)。観光というわけでは、全くない。勿論、その後は研究発表をした(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20070822)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20070904)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20070928)。
だが、今にしてみると、あの時よく行けたものだ、と我ながら思う。五年後の2011年3月11日に発生した東日本大震災の時には、何とサバで一度きり会っただけの関係者から、安否を問うメッセージが届いた(https://itunalily.hatenablog.com/archive/2011/03/23)。
ある方が、「それは幸せな結婚をしたよ。そこまでしてくれる御主人なら、是非とも研究を完成させないと、御主人がかわいそうだよ」と言ってくださった(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20071203)。言われなくても日々実感していたが、本当の実現は、今後の課題でもある。
まずは、来月のコングレス、頑張らなきゃ!
(2024年9月10日記)
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PS1:こうして古いブログを検索しながら、アドレスのリンク付きで思い出を綴れるのも、主人が若い頃に取り組んでいたデジタル革命のおかげである。そして、主人が長年蓄えてくれていたもののお蔭もあり、何とか自由に過ごせる環境に置かれている。
結婚後一年で診断を下されたので、私は主人が日々衰えていく姿しか知らない。最初は5秒ぐらいでできたことが、10秒、30秒、1分、5分、10分、30分、一時間、それ以上、と動作が緩慢になっていき、併行してこちらの時間も押されていく。たった一つの行動にも、やたらと時間や心的エネルギーが消耗される日々が、いつまで続くのかと思うほど、永遠に続くのである。その上、さまざまな自律神経症状も増えていく。できたことが徐々にできなくなっていく悲しみや苦しみを抱えている患者と一緒に暮らす家族も、心理的精神的に、平板かつどんよりと、低迷を辿っていく。
若かった頃の主人の勉強ノートや会社の会議メモなどを整理していると、あの当時、将来を生き生きと展望しながら、どのように仕事に励んでいたかがうかがえる。そして、よくこんな細かい計算式を几帳面に書いていたものだ、と驚かされる。だからこそ余計に、改めて不憫だったと思うと同時に、それでも精一杯、私との暮らしを頑張ってくれていたんだ、としみじみ感じる。
三世代同居で育ったためか、今でもご年配の方々から、「エンジニアとして優秀だったのみならず、人間的にもできた人だった」「印象に残る人で、良く覚えている」と言われる。曲がりなりにも最後まで会社に籍を置かせていただけたのも、上司の中に主人の若い頃を覚えている方々がいて、いつでも主人を庇い、人事部とも掛け合って、何かと便宜を図ってくださったからだった。
私との生活も、伊丹に来る2018年の前後三年間ぐらいは、精神症状で崩れに崩れ、突発的な行動異常や会話の不成立で、こちらも疲労困憊と心配や不安の連続だった。それに輪を掛けて、義兄の不可解な未必の故意まがいの意地悪な言動で、生活は滅茶苦茶になってしまった。
だが、周囲の第三者のさまざまなお助けもあり、ギリギリのところで、いつも主人は救われてきた。勝手に家を飛び出して道路で倒れているところを、通りがかった「親切な人」が救急車を携帯で呼んでくださったり、夜中に倒れているところを、どなたかがホテルを探して連れて行ってくださったり、持ち金もないのにレストランでただ食いしてしまったところを、「もう、お代は結構です」と許してくださった店主さんなど、名も告げずに助けてくださった多くの方々に、この場をお借りして心より御礼申し上げたい。
いつでも、私は家でイライラしながら待っているしか方法がなかった。(気分転換に寝転んで本を読んだり、検定試験のテキストを眺めたりしていた。)
繁華街にフラフラ出て行って、一歩間違えたらポケットのお財布や鍵やカード等も盗まれていたかもしれない。たくさんのデータを詰め込んでいた携帯も落としていたかもしれない。線路から足を滑らせて落ちていたかもしれない。階段から崩れ落ちて重傷を負っていたかもしれない。寒い中を凍死したかもしれない。それなのに、すんでの所でいつでもどなたかに助けていただいたのである。まさに、奇跡的であった。
2020年春以降、私は身の回りの小さな事項を一つ一つ積み重ねながら、ゆっくりと日常を取り戻すように専念しつつ、必要な手続きや片付け物等を少しずつ進めてきた。まだ全部は終わっていないが、カレンダーや備忘録にリスト化して、できる時、思い立った時に、その都度、処理していくようにはしている。同時に、できる限り新しいことにも関心を広げつつ、本来の自分自身を取り戻すように心がけてはいる。
主人との約束通り、二つ目の修士号を授与されて五年祭を経た今年、ようやく過去を鳥瞰的に振り返る気持ちの余裕が出てきた。「過去を振り返るのではなく、前を見つめて」というありがたい助言もあるが、自分が膨大なエネルギーや時間やお金を費やしてしてきた事柄を、あっさりと忘却の彼方に押しやるわけにもいかない。折に触れて振り返ることで、足元を固めることもできるし、記憶を補強することもできる。ブログに書き留めておかなければ忘れてしまったことも、何とか思い出せる。それによって、今後の選択にも曇りなき指針が与えられよう。
それにしても、あっという間の22年4ヶ月と3週間だった。主人方の過去帳も戸籍謄本も全部集めた。最初は、温かくて真面目で堅実な雰囲気が漂い、安心感があった。そのままの調子でいけば、地味でも穏やかで充実した生活が送れるはずだった。
しかしながら、結果的に、我々の暮らしのみならず、社会の環境も徐々に激変してしまっている。
・2022年3月2日付「三菱電機「京都製作所」」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=1976)
・2022年3月13日付「そして長岡京を歩く」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=2183)
・2022年10月20日付「三菱電機の不正報告書」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=3527&action)
・2023年2月6日付「生きた証の消滅」(http://itunalily.jp/wordpress/wp-admin/post.php?post=4045&action)
だから、過去の一つ一つの時について、それはそれでよかったのだと思わざるを得ない。あの時、しておかなければ、今がなかった。当時は、その他に選択肢がなく、精一杯だった。
主人がいなくなってからの4年5ヶ月で私が成し遂げた履歴は、実は主人と一緒に暮らしていたならば、せいぜい半分程度しか達成できなかっただろうと想定される。というのは、動作に時間がかかり、精神面でも思考緩慢や視野狭窄に陥る患者との暮らしだからだ。
パーキンソン病は、薬をうまく調整して、リハビリをしっかりやれば平均寿命まで生きられる、と一般には言われている。できる限り仕事を続けた方が進行が遅くなる、とも言われる。また、旅行も療法の一種になり、音楽療法も有効だ、とされていた。我々は、(院内でのリハビリを除いて)言われた通り、全てやってきたつもりだ。
恐らく、患者を励ます意味で仰っているのだろうが、共に暮らす家族の人生まで、崩したり奪ったりしてはならない。その辺りの医療福祉の指導が、今一つうまくいっていないのではないだろうか?
ということを、来月のコングレスの発表では訴えたい。
(2024年9月10日追記)
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PS2:マレーシアのリサーチに関して、道が見えかけて来たのは、9.11同時多発テロの一年前、2000年の一ヶ月半の滞在期だった。やはり、一週間程度では、予定していた項目のよくて7割強、大抵は半分ぐらいしか済ませることができないお国柄だった。ある程度、まとまった日程を取らなければ全貌をつかむどころではなかった。
それに、マレーシアの国立図書館と言えば、見かけは立派で聞こえはいいが、何台もあったコピー機も殆どが壊れて使い物にならなかったし、途中で止まってしまったりして、常に図書館の閉館時間ギリギリ前におさまったことがなかった。マイクロフィッシュも使いにくかったし、本や新聞の資料等も乱雑そのもの。ぐちゃぐちゃに置いてあり、調べるにも一苦労だった。
その点、マレーシアのキリスト教神学院のオフィスは、カトリックでもプロテスタントでも、かつての西洋人宣教師の指導が入っていたためか、あるいは、華人が多いためか、ごく整然としており、スタッフと顔見知りになって話さえ繋がれば、簡単に資料を入手することができた。さらに、シンガポールに立ち寄れば、二日程で大半の資料が手に入ったのである。
こういう話を、帰国後、私が自宅で夕食の時に夢中になって話すと、主人はおもしろそうに聴いてくれていた。「もう、そんな変な研究なんて止めてしまえ!」等と、一度も言ったことはなかった。むしろ、「人が何と言おうと発表するんだよ」と励ましてくれていた。(それも不思議と言えば不思議である。)
今、洋間の二部屋に積み上がっている段ボール箱には、あの頃、夢中になって集めていた資料が眠っている。早く整理しなければと思いつつも、いろいろな思い出が錯綜して、いわば思い出に圧倒されて、なかなか進まなかったのだ。
あの大量の書籍や資料等は、マレーシアでキリスト教の果たした役割等について、さまざまな文献資料を読み、メールで関係者に質問を繰り返しながら過ごしていた証である。主人の進行性難病のことがあったからこそ余計に、主人が会社に行っている昼間は私一人の自由時間として、思い切って気分転換とした証拠でもある。
2004年から三年間の同志社大学での一連の経験は、日本人イスラミストのN教授の下でひどく緊張を強いられて大変だった(https://itunalily.hatenablog.com/entries/20141010)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20141011)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20141012)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20161205)。
だが、その後の2006年から2009年ぐらいまでは、焦りもあったが、今思えば、私にとって最も張り切って、充実した楽しい時間ではあったのではないか?治療薬を飲みながらも、主人が何とか開発研究グループに所属が許されていたのは、その頃までだった。(このまま進行が止まってくれたらいいのにな)という気持ちで、毎日を過ごしていた。研究会や学会でも、「今しか、ない」という気持ちで、夢中になって発表をしていた。
自分を鼓舞するものに触れられた喜びもあった。主人に勧められてブログも書き始めたし、長岡京のプールにも通い始めた。イスラエル旅行にも行かせていただき、中東のキリスト教やユダヤ史の方にも手を広げ、クラシック音楽の一流以上の演奏会に行くようになった。
そして、あの期間には最盛期であった日本聖書協会のセミナー事業からも、たくさんの貴重な知識や情報が得られた。(兵庫県に転居した2018年秋以来、全く行くこともなくなった神戸バイブルハウスは(https://itunalily.hatenablog.com/search?q=神戸バイブルハウス)、連絡も途絶えており、統計を見ても、今や金銭的にかなり落ち目である。)
あの頃、ムスリムとの国際結婚で密かに悩んでいる日本女性達のことも、ウェブ上で知ることができた。(だから今の状況に、むしろ落ち着いていられる。)
…..こうしてマレーシアのリサーチを巡る思い出を振り返ると、何とかやっていた頃の日々が呼び起こされて、それなりに元気づけられる。ちょうど、放送大学教養学部で、二十代の頃に学んでいた古典文学やドイツ語、その後に始めたフランス語を、復習がてら履修していると活気づけられる今と重なる。
(2024年9月10日続記)
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PS3:今日、2018年3月以来、6年ぶりでもあり、初めての分野でもある学会(コングレス)発表となる来月の下準備として、注文した名刺が届いた。自分で印刷業のホームページを探して、レイアウトを考えて申し込んだだけだ。一番シンプルな形にしたので、作業は年賀状並みだった。
名刺入れケースを探していたところ、伊丹市に引越後の2018年10月中旬に「未整理」と付箋をした名刺類が出てきた。
すっかり忘れていたが、転居前に21年程暮らしていた大阪府島本町で二つ目の住所を記した名刺が、四種類も見つかった。その中の三種類は、主人が「かえるちゃん」「若葉マーク」と言いながら、リサーチ途上で知り合った方々に渡せるように作ってくれていたものだったことを思い出した。
同志社大学で教えていた頃にも、肩書をつけたシンプルな名刺を作ってくれていた。そういうことが好きだったのかもしれないが、あの頃は、いっぱしの「研究者」として私の「売り込み」を手伝いたかったのだろうか?
メールアドレス、「はてなダイアリー」の英語版と日本語版のアドレス、そして、今のWordpressに変わる前の個人のホームページのアドレスまでついていた。裏側には、アルファベット表記もつけた。若葉マークの方は少ないが、青いラインの入った名刺は相当余っているので、あまり使わなかったようだ。
家計簿を調べないと正確なところは不明だが、恐らくは2010年より前に作ったものだろう。つまるところ、上述のPS2のように、リサーチや勉強に熱の入っていた2006年から2009年頃までに作った名刺に違いない。確かに、同志社にいた頃、日本聖書協会のフォーラムでも、盛んに名刺を渡していた。本当に必死で、何とか自分の居場所を作らなければと思い詰めていた。
2012年3月からはパイプス訳業が始まり、国内での必死な名刺配りにはすっかり熱が冷めてしまった。その後は、名刺を受け取るばかりになっていった。
主人亡き後の4年5ヶ月で、私が履歴書に書き加えることができたのも、一つは伊丹市のテンポが私自身に合っているということが挙げられる。以前の島本町は、静かで空気も良く、名水も出て環境は抜群だったが、よろずテンポが緩やかで、知的刺激に欠けていた。伊丹への転居は、以前にも書いたように、主人の勤務先の統合によるものであったが、何よりも主人自身が希望したことでもあった。結果的に、益したのは私自身であった。
もう一つは、放送大学のお蔭である。インターネットで隙間時間に勉強するといううたい文句だが、案外に印刷教材とは異なる内容を講師が語ったり、ロケのビデオを見せたりする講義(授業)もある。一瞬止めてテキストに書き込んだりしていると、1.5倍速で30分程度だったはずが、あっという間に一時間半から二時間もかかってしまうことがある。また、インターネットで試験があるため、時間や締め切りには敏感にならざるを得ない。これが、自宅で過ごす時間の長い還暦前の私のような女性には、必要な訓練ともなっている。
名刺から、忘れかけていたさまざまなことを思い出した。
(2024年9月10日続々記)
(2024年9月11日一部修正)
…………….
2024年9月26日追記:
「2000年には一ヶ月半、クアラルンプールの中流ホテルを仮宿にして、集中してリサーチを進めた時期があった。」と上記に述べた。ところが今、別件で過去ブログを調べていたところ、正確な事実が判明した。
正確には、2000年には3月と6月と10月から12月までの計3回、マレーシアを訪問。最後の晩秋に、一ヶ月半のリサーチ滞在もしたのだった。
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20080307)
《2000年には、3月、6月、10月から12月までと、3回もマレーシアに滞在したのでした。ところが当時、いくらこちらが頑張ってみたところで、少なくとも首都圏では、責任者の一部のみが密かに議論して対処していた様相だったので、大司教にまで面会を許されたにもかかわらず、目指す結果を出すことがそもそも困難でした。》
この間、主人が用意してくれたミニ・ノートパソコン(ちょうどこの追記を書いている日からちょうど6年前の2018年9月26日が居住の最終日だった島本町で処分)を駆使して、それまで連絡が不自由極まりなかったマレーシアでの指導教官との連絡にも活用できた。
今、私が使っているメールアドレスは、実はこの時、主人が申し込んでくれたものである。かれこれ24年にもなろうか。それ以前には、feemailやanet等を使っていた。あの頃は、自宅でのパソコンもプリウスを使用していたのではなかったか?勿論、主人が設定から接続から何でも、得意げにやってくれていた。
一ヶ月半の滞在中、主人との連絡は、電話以上に、その頃はまだ普及していた国際簡易書簡を使っていた。便箋一枚程度しか書けないが、三つ折りにたたんで糊付けすれば、切手も印刷されていたので楽だった。日記代わりにその日の細々したことを書き連ねて、クアラルンプールの中央郵便局から投函していた。途中の紛失を恐れて、カーボン紙にコピーを取り、投函順に番号を振っていた。一種のリサーチ記録のつもりでもあった。
主人にとっては、仕事が終わって帰宅しても、郵便受けに私の手紙が入っていれば、それなりに安心したようだ。
帰国後、尋ねてみると「うん、よく書けていると思うよ」と言ってくれた。そして、家計簿をつけている私のために、留守中の買い物レシートは空き箱に入れてあった。
2001年9月11日に米国同時多発テロが発生したことを思えば、あの時に三回も訪マできたことは、実にタイミングとしてはよかった。最後のギリギリのところだったと今でも思う。
実は、テロのためにハイジャックされた4機のUnited Airlineの一つは、うちの主人が米国出張でよく利用していた路線だった。「よかったじゃない?病気のために出張がなくなったから、今でもこうして暮らせる。病気じゃなかったら、テロに遭遇して、私がアメリカまで行かなければいけなかったじゃない?」と私は言ったが、どこかで未練があったのだろうか、主人は無言のままだった。
(2024年9月26日追記)