4月23日の午後、大阪のシンフォニーホールで開催された「卒寿 外山雄三&レジェンド」に出かけた。
本来ならば、昨年の5月10日に予定されていたのだが、コロナ感染症問題の影響で、延期に延期を重ねていた。一時は「予定は未定です」と言われていたが、ようやく満を持して、この日になったのだった。
私は3月中旬にA席のチケットを入手して、二階バルコニー席を確保。ここへは20年以上前から何度も来ているが、いつでも大抵、ほぼ満席だったのに、今回は6割強の入りか。仕方がない。コロナで演奏会の目安が立たない上、経済的にも困窮している人々が増加している昨今、ホール運営だって危げなのだ。
外山雄三氏はN響アワーでおなじみだったが、演奏会場でお見掛けするのは、実は二度目。最初は、ずっと前に大阪の梅田芸術劇場でN響定期公演があった際、「聴けるうちに行っておこう!」と思い立ち、一人で出かけた時の指揮者だった(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20120423)。端正ですっきりとした演奏ぶりで、いかにも日本を代表する楽団かつ指揮者だ、と思った。
勿論、その頃には70代でいらしたが、今回、「卒寿」ということで、これも「今しかない!」と思い立った。
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それに、共演者の前橋汀子さんのことも思い出深かった。
今年、演奏活動60周年を迎えるそうだが、実は10年前の2012年6月、50周年記念の演奏会のため、主人と一緒に同じくシンフォニーホールへ来たのだった(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20120609)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20120610)。
この10年前のブログを読み直してみると、ついこの間のことのような気がしてならない。
主人との「芸人」口論を思い出すと、つまらない言い争いではあったが、やはり神経難病特有のこだわりや固執が現れていたな、と今更にして思うところである。当時は、まだ自由にどこへでも歩けて、食べたいものも制限がなかった上、会話そのものが何とかなっていたので、私も真正面から言い返していたが、こういう日常の意地張りが緊張を生み、脳化ストレスにつながったのではないか、と愚考する。通常ならば、「あ、そう?」で済む話が、延々と定義や解釈や上下関係に結び付いた口論になるところが、病的と言えば病的だ。
但し、この頃には、翌日に「反省」して、話によりを戻そうとしていた点、主人にもまだ柔軟性が残っていたのだ。
それに、この時の舞台裏でのサイン会も印象的だった。道路沿いにずらりと並んだ列に連なり、やっと自分の番になったら、いつの間にか主人が気を利かせて、自分のスマホで写真を撮ってくれていたのだった。前橋さんの方が気づいて、ポーズを取ってくださった。残念ながら、感度が悪くてぼわぼわの写りだった上、その後、パソコンが故障してしまったので、今やどこに存在するかは不明となってしまった。
その5年後、再び、同じホールで開催された55周年記念の演奏会に、二人で出かけて行った(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20171017)。
さすがに5年も経つと病気がかなり進行していて、2017年からは徐々に話がかみ合わなくなり、ぶつかることが増えてきた。例えば、この時にも、本人は「昼食のカレーを食べてからでも充分、間に合う」と言い張っていたが、私の即断で「それじゃぁ、間に合わない」と言い放ち、早々とタクシーを捕まえて、ギリギリ何とか演奏開始直前に間に合った。これとて、「本人の意思を尊重」「寄り添う」等していたら、到底、間に合わなかった事態だった。子供の頃からのピアノその他の演奏会に行き慣れていたことも、幸いした。
そのような経緯があってのことだったので、私なりに思い入れが深かった。前橋さんも80歳近くになられたが、今もお元気で舞台に立ち続けていらっしゃる。この丹力と精神力と訓練の賜物は、並々ならぬものがある。
主人はいなくなったのに、前橋さんも私も生きていて、同じホールで演奏を通して時空間を共にしている。この不思議なご縁は、一期一会として本当に大切にしたい。
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その他には、ピアノの清水和音さん、チェロの堤剛さん、若い指揮者の太田弦さん等、楽しみな出演者ばかりだった。
大阪交響楽団によるプログラムは、以下の通り。
外山雄三:前奏曲(改定版)
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲 第1番 変ロ短調 作品23より 第1楽章
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 ロ短調 作品104より 第3楽章
《休息》
外山雄三:管弦楽のためのラプソディー
メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64より 第1楽章
ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲
(アンコールなし)
言うまでもなく、サイン会もなし。
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外山雄三氏は、頭がやや前に下がり気味なのを除けば、ご挨拶のお声も張りとユーモアがあり、笑いを何度も取っていらした。ゆっくり目であっても、足取りがスタスタとしっかりされており、指揮中は直立不動のまま、堂々とされていた。楽譜をめくる手はさすがに震え気味だったが、両手を上げて曲と共に指揮が始まると、以前と変わらず、テキパキとされていた。
ラプソディーだけは、若い指揮者が担当され、さすがに生き生きと活発で、最後は楽譜を客席に向けて退場されるなど、茶目っ気たっぷりな様子だった。
ご挨拶で感じたのは、「大変幸せでございます」と感謝を繰り返し述べていらしたこと、今も年齢を忘れて音楽活動に邁進されていること、続けられる限りは継続を志していらっしゃるらしいことだった。
また、真っ赤で華やかなドレス姿の前橋さんを何度も称えていらして、やはり女性ならではの華を添えるにふさわしい方だと改めて実感。
昨年、90歳を迎えられたとはいえ、外山氏にとって、これが最後の演奏会ではない。同時に手渡されたパンフレットを見ていたら、大阪交響楽団の2022年定期演奏会として、6月29日にも予定されているものがあった。
ホール会場で購入したCDは、「外山雄三生誕90年記念最新自作自演集」。
・オーケストラのための「玄奥」(2015)
・沖縄民謡によるラプソディー(1964)
・バレエ音楽「お夏、清十郎」~パ・ド・ドゥ(1975)
・前奏曲(2012/13)
・交響曲(2018 世界初演)
・管弦楽のためのラプソディー(1960)
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次は白寿の話へ。
(https://www.asahi.co.jp/webnews/pages/abc_14746.html)
裏千家の千玄室大宗匠99歳の誕生日に「献茶式」 兵庫・西宮神社
2022年4月19日
商売繁盛の神様「えべっさん」で知られる西宮神社で、神前にお茶を供える「献茶式」がありました。兵庫県の西宮神社で開かれた「献茶式」には、裏千家の門下生や神社の関係者など、約50人が参加しました。
式では神職が祝詞を唱えた後、裏千家の千玄室大宗匠が濃茶、薄茶の順にお茶を点て、西宮神社の主祭神「えびす大神」の神前に供えました。19日、99歳の誕生日を迎えた
千玄室さん(99)は、1964年に裏千家の15代家元を襲名。2002年に家元を譲った後も、国連親善大使を務めるなど茶道を通じて日本文化の紹介を続けています。
毎年、誕生日に合わせてきた献茶式ですが、おととしは新型コロナウイルスの拡大で中止。今年も去年に続き、規模を縮小して行われました。
(転載終)
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(https://twitter.com/ituna4011/status/1520701946042400768)
Lily2@ituna4011
一昨日、数メートル先でご会釈いたしました。 とても99歳にはお見受けしませんでした。 名古屋で裏千家のお茶を習っていた頃は、とても遠い存在で、まさかご挨拶をいただける日が来るとは、想像もしておりませんでした。 これも時代ですね…..
6:49 PM · May 1, 2022
(https://twitter.com/ituna4011/status/1520704580413235201)
Lily2@ituna4011
最大人口を誇っていた裏千家も、今や10万人と、かつての半分以下、しかも高齢化が進み、先細りの懸念もある、という。 しかも、お家元はご長男が継ぐならわしだったのに、ご次男さんが17代になりそうだ。 鵬雲斎お家元の時代には、想像もつかなかった。
6:59 PM · May 1, 2022
(https://twitter.com/ituna4011/status/1520706417162096640)
Lily2@ituna4011
厳しい方かと思いきや、意外に気さくそうな方で、なかなかやり手の社交家でいらっしゃるところが、ご長寿の秘訣か、と。 奥様をかなり前に亡くされ、ご次男の伊住氏も40代の若さで急逝され、驚くばかりだったが、ご本人様は悠然とされ、お元気そのもの。圧倒された。
7:07 PM · May 1, 2022
(https://twitter.com/ituna4011/status/1520724127958863872)
Lily2@ituna4011
白寿。 高齢化社会の問題ばかりに焦点を当てると気が滅入るが、私は結構、お元気なご長寿をよく見かける。 気は持ちよう。
8:17 PM · May 1, 2022
(2022年5月5日転載終)
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4月29日の昭和の日、白寿になられて10日目の裏千家の大宗匠に、なぜ私がお目にかかることができたか。
場所は京都の下鴨神社で、大雨の中、二年続けてなかった市民植樹祭の式典が今年は開かれるということで、理事長から直々にご挨拶を賜ったのだ。
(https://tadasunomori.or.jp/about_foundation/officer/)
世界遺産の保全と保護のお願い
我が国の貴重な世界遺産である「糺の森」は、京都市の中央に位置する鴨川と高野川が合流する三角州の一帯に位置し、3万6千坪・東京ドーム3倍の面積に紀元前3世紀ごろの山代原野の原生樹林と同じ植生が群生し、石器時代からの人々と森林(自然)に関わる遺跡や遺物が現存する、学術的・歴史的に貴重な森林です。また、四季に移ろう林泉の美と幽すいが「万葉集」をはじめ「源氏物語」など、数々の物語や詩歌管弦にうたわれています。樹間を流れる御手洗川・奈良の小川・瀬見の小川・泉川の流水と、貴重な万葉植物や昆虫、小動物などが生息するなど、大都市にあって山代原野の面影を残す唯一の自然林であり、日本の歴史と文化を今日に伝えています。
昭和58年、日本文化の原点として国の史跡に指定され、平成6年には世界遺産条約に基づきユネスコより、顕著な普遍的価値を有する文化財として『世界文化遺産』に登録され、世界人類共通の宝物として未来永久に我が国が正しく次世代に伝えてゆく誇るべき文化財と認められました。さらに「糺の森」には、国宝2棟・重要文化財53棟をはじめとする85棟の建造物群を有するとともに、歴史的伝統祭事の賀茂祭(葵祭)をはじめ日本の歴史資料を数多く保存継承しています。
ところが、近年の急速な都市化により環境と景観に大きく影響され「糺の森」は荒廃を極め、平安時代の優れた伝統の建築様式である国宝、重要文化財等の建造物群の破損も著しく危機的な状況にあります。 何卒、我が国が世界に誇る世界遺産「糺の森・国宝賀茂御祖神社」を後世に受け継ぐため公益財団法人世界遺産賀茂御祖神社境内糺の森保存会(略称 糺の森財団)にご入会いただき、絶大なるご支援・ご協力を賜りますよう、切にお願い申し上げます。
公益財団法人世界遺産賀茂御祖神社境内糺の森保存会 理事長 千 玄室
(転載終)
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ちなみに、私は裏千家の会員証をまだ保持しており、平成9年11月16日に挙式した下鴨神社に連なる「糺の森財団」の一般会員でもある。
公益財団法人世界遺産賀茂御祖神社境内糺の森保存会のフェイスブック(https://www.facebook.com/tadasunomori/)によれば、以下のようにある。
2020年4月2日
「第30回 糺の森市民植樹祭」ならびに「音の森コンサート」に関するお知らせ
4月29日に開催を予定しておりました「第30回 糺の森市民植樹祭」につきまして、今般の新型コロナウイルス感染症の拡大予防により、式典と苗木の植樹は中止させていただきます。
2021年4月28日
明日、4月29日に開催を予定しておりました「第31回糺の森市民植樹祭」につきまして、4月25日より緊急事態宣言が発出されたため、市民植樹祭の式典は中止とさせていただきます。
(転載終)
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昨年は、主人の一年祭に代えて、桂の献木を。そして、今年は三年祭に代えて、また桂の献木をした。苗木は誰もが参加しやすい1000円だが、献木はさすがにランク付けされたお値段が張っている。だが、そうしてこそ、意味があるというものだ。
ネームプレートは私の名前のみ。神社では、亡くなった人は「ケガレ(気枯れ)」とされるため、表向きには伏せるのが通例だと、昨年、下鴨神社の神職さんから電話で教えていただいた。
桂の木にした理由は、私達が知り合った頃、主人は、今は取り壊されて存在しない、京都の社員寮「桂寮」に住んでいたからである(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20160801)。
このようにして、緑のお抹茶にかけて、挙式した下鴨神社で、主人との思い出が、私の名前によって残ることになった(http://itunalily.jp/wordpress/20220224)。
この話は、葬儀でお世話になった伊丹市内の神職の宮司さんも、「それはいいこと」と喜んでくださったので、安心して今後も記念祭に参加できる。
コロナで二年間、式典がなかったとはいえ、今年は直前に大雨となり、散々ではあった。
だが、出席した意義は大きい。献木者の名前が一人ずつ、住所と共に読み上げられ、その度に起立してお辞儀をするのだが、理事長様が一メートル程先から、じっとこちらを見つめられ、一人ずつ確認しながら進められていったからだ。こんなことは、滅多にあることではない。これも一期一会、まさに僥倖である。
それにしても、千玄室様、というよりも、私にとっては慣れ親しんだ「第十五代 鵬雲斎お家元」のお元気で鷹揚闊達なお姿には、本当に感銘を受けた。
白寿の99歳とは思えぬ背丈の高さと背筋の伸びと颯爽たる足運び、そして、大きな声でわかりやすく「私の先祖であります千利休は….」と語られるのを目の前で拝聴すると、場所が京都だけに、なお一層のこと、歴史が現前と息づいているのを感じさせられる。
お茶は健康によい、とはいえども、奥様やご次男様やお姉様を先に亡くされていることから、必ずしも茶道の鍛錬ばかりが長寿の秘訣とも言い難い。やはり、数多くの名誉職の仕事でお忙しくされている日常や、特攻隊の生き残りの語り部としての使命感等、まだまだなすべきことがある、という気概をお持ちだからではないだろうか。
勿論、家元制度が今後どのように続くのかは、頭の痛いところであろう。裏千家は、三千家の中でも戦後、最も華やかに国内外で大きく展開しただけあって、スキャンダルめいた噂も二十代初め頃からよく耳にしていたが、それはそれ、これはこれ、である。
お茶を習いたくとも、私の世代より年下の女性達には、なかなか充分な時間も取れず、えてして茶道教室の負の側面ばかりが目立つきらいもある。その一方で、せっかくの茶道を何とか保持する工夫が、昨今の淡交会には見られる。そういう柔軟性や先進的な新奇性を兼ね添えているのが、裏千家なのかもしれない(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20161030)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20161101)。
…………..
卒寿の外山雄三氏と白寿の千玄室様、お二人を4月の一週間の中で拝見して、圧倒されるやら沈思黙考させられるやら…..。
「長寿考」とタイトルにつけてはみたものの、何ら考察めいたものは、特にない。
ただ、お二人に共通するのは、いずれも古典伝統の重みを、お若い頃から家の継承の中で背負いつつ、現実社会と直面しながら、ご自分の歩みを模索して世の中に広げていかれた、という先見の明と勇敢さと気概である。
しかも、日本の伝統文化、それも高文化(ハイカルチャー)を充分に咀嚼した上で、海外にも飛翔し、成功を遂げられた。これは、並大抵のことではない。
末長く、お健やかでいらっしゃいますよう、心よりお祈り申し上げます。
よい時間を与えていただきまして、誠にありがとうございました。
…………….
2022年6月9日追記:
(www.facebook.com/ikuko.tsunashima)
2022年6月8日投稿
昨日、正式な夕べのお茶会の招待状が届いた。京都の大きな神社 で、一期一会。人数制限内の抽選で、選ばれたようだ。行きたいが、当日は午後4時まで大学院のゼミ発表があり、断念。やむを得ず、お電話を。
次回はきっと!
着付けをしていただける美容院を探さないと。髪の結い上げも、お願いします。そのために伸ばしているのだから。
(追記:場所は下鴨神社の糺の森です。私は糺の森の会員です。)
(転載終)
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2023年4月2日追記:
産経新聞(https://www.sankei.com/article/20230401-IXNUYVHLLNJW3GPBE7CT3CB7NQ/photo/LVQCDYQOQ5OYBLX4O5CFYC4PJ4/)
裏千家前家元・千玄室<1> 起床、体操、座禅、お経…百寿を迎え
2023年4月1日
《まもなく100歳。ピンと伸びた背筋は若々しく、1時間を超える講演も立ったままこなす。人生100歳時代を体現する元気の源は何か。一つは茶道という日本の伝統文化を世界へ、という情熱。もう一つは「海軍の特攻隊(特別攻撃隊)の生き残り」の使命感。茶道の心で世界に平和を―と行脚してきたが、今またウクライナで戦争が起きている。命ある限り、その歩みが止まることはない》
最近、皆さんに「おめでとうございます」と言っていただくことが多いのですが、いやいや、めでたいことなど少しもない。何しろ私は一度、死んできた男ですからね。78年前、先の大戦で。私は海軍の特攻に志願し、多くの友を亡くしました。復員した当時はじくじたる思いでおりました。おめおめと生きて帰ってきたのですから。それが齢を重ね、この4月19日で満100歳になります。
《健康で長生きは、だれもが望むことだが…》
いつでもどこでも、そればかり聞かれるのですよ。健康の秘訣は何だと。でも、別にどうということもないのです。しいていえば、年をとってもその年を忘れているからでしょう。
私の1日は朝4時の起床で始まります。洗面し、そして軽く海軍体操をします。毎日です。足から順にからだを全て動かして、ほら、こうしてね。
《さっと両腕を突き出した動きはとても99歳とは思えない俊敏さ。柔軟運動も柔らかい》
からだは柔軟です。海軍では柔軟でないといけなかった。狭い飛行機の中で操縦するわけですから。体操が終わると座禅をします。毎日だいたい30分くらい。座っているうちに頭がスーッとしてきます。するとだいたい5時前。(千利休の木像がまつられている)「利休御祖堂」へ行きお経をあげます。次に仏間でもお経をあげ外へ出ます。雨が降っても欠かしません、神様がいらっしゃるのです。
私どもの裏千家今日庵には弁天様とお稲荷さんと、お社が2つあります。さらに奥にはお地蔵さんも。その全てのお参りをすませてから朝食となります。私はパン食と米食を代わる代わるいただきます。もちろん、みそ汁ははずせません。パンとミルクと野菜と、別に野菜ジュースも飲みます。コーヒーは飲んだことがありません。お茶ばかりいただきます。あとはヨーグルト。おかげさまでからだの調子はとてもいい。
それから8時ごろ、おはようございますと家族が集まってお茶をいただき、皆が仕事に就きます。私も手紙や書類の決裁、もちろん原稿も書きます。けっこう依頼をいただくのですが、すべて手書きで、パソコンは使いません。携帯も持ちません。原稿は自分の手で書くのが大切で、忘れた漢字はそこで思い出すようにしています。
私の姿勢が良いといわれるのはやはり、茶道のおかげでしょう。茶道では常に「構え」が大切です。千利休居士が大成したお茶は元来、武家のもので、御一新までは武家で茶家でした。京都には利休居士を祖とする表千家、裏千家、武者小路千家がありますが、いずれも通称です。正式には「不審菴」「今日庵」「官休庵」といい、これは各家を代表する茶室の名でもあります。私はその「今日庵」の15代目として生まれました。
【プロフィル】千玄室(せん・げんしつ)
大正12年4月、茶道裏千家14代家元淡々斎の長男として京都府に生まれる。昭和18年、同志社大在学中に学徒出陣で海軍入隊、20年、特別攻撃隊に志願。終戦後の21年、同大卒。39年、15代家元千宗室を襲名した。茶道や日本文化の普及、国際交流に努め、ユネスコ親善大使などを歴任。平成9年、文化勲章受章。14年、長男の16代千宗室氏に代を譲り隠居名千玄室に。号は鵬雲斎。
(2023年4月2日転載終)
昨年の4月29日、大降の雨の下、下鴨神社糺の森での植樹祭で、直にお目にかかった時の打ち震えるような感動というのか、ぞくっとするような歴史の体現は忘れがたい。
三年祭として昨年は参加させていただいたが、名前を読み上げられると、こちらをじっと見つめられた。名古屋で裏千家の茶道を習っていた30歳前後の頃には、想像もできなかった瞬間だ。
(2023年4月2日記)
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2023年4月3日追記:
産経新聞(https://www.sankei.com/article/20230402-6C7YEPT7WNLU3MGH4TVYJQSCOY/)
裏千家前家元・千玄室<2> こびへつらわない利休、茶の哲学
2023年4月2日
《茶道裏千家は、安土桃山時代に織田信長や豊臣秀吉に重用された茶人、千利休を祖とする茶道の家元。京都に居を構える三千家の一つで、正月に京都と東京で開かれる年初の茶会「初釜式」はよく知られている》
利休居士という方はまったくもって偉大なるお人です。そして、なんでもでき、創造性と先見の明のある方でした。
《茶の湯は茶を点てるだけでなく、建築や美術、華道、テキスタイル、空間演出など、さまざまな文化の総合芸術といえる。その大成者の利休は近年、文化芸術プロデューサーとしても高く評価されている》
何より、こびへつらいのない方でした。これなのです。人間というのは生きているとどうしても何か、誰かにこびへつらうものです。ところが利休居士はそれをしなかった。最後には秀吉に切腹を命じられてしまいます。徳川家康や前田利家、秀吉の軍師である黒田官兵衛など名だたる戦国武将が頭を下げてわびるように説得するのですが、断ってしまいました。私は、己の茶の哲学というものを、切腹することで秀吉に教えたのだと思うのです。これはたいへんなことです。だからこそ、後世に茶道が残ったといえましょう。
《利休の没後、徳川の世になり、赦されて孫の宗旦が3代を継いだ。次代、家督はその三男宗左が継ぎ(表千家)、北側の隠居屋敷を四男の宗室が継いで、以降、裏千家は代々千宗室を襲名する》
江戸時代は各家とも、茶道でもってまた武家として大名家に仕官しました。裏千家の場合は、加賀前田家や伊予久松家、尾張徳川家などです。単にお茶の指南役というだけでなく、茶道具から文化全般を取り仕切る武士としての文官で、それによって禄をいただく。千家はれっきとした武門でした。
私の母などは自身も仙台の武家の出身でしたから、「千家は明治の御一新までは武家であり、茶家でもありました。武家としての禄をいただいて藩にお仕えしていたわけですから、文武両道でなければなりません」といって、特に長男の私の教育はたいへん厳しかったものです。
《その大名家が明治維新で姿を消す。政府の欧化政策もあり、茶道はかつてない危機に直面した》
当時の当主は11代玄々斎。10代に男子がなかったため三河奥殿藩主、松平家から養子に入った人でした。この方によって維新後の混乱期を乗り越えられたのです。例えば、明治初期に京都で開かれた博覧会で、外国のお客さまをおもてなしするために、今では一般的になった椅子とテーブルによる「立礼式」を考案しました。この時期、祇園で開かれる「都をどり」も始まり、今も芸舞妓がお客さまに立礼でお茶を差し上げています。先見の明とはこのことでしょう。
《こうした先例にとらわれないチャレンジ精神が同家にはある。伝統と革新があってこそ歴史は積み重ねられていく》
私も若宗匠(次期家元)時代から、「茶道を世界に広めたい」と積極的に海外に出かけました。近年は新型コロナウイルス禍でなかなか、かないませんでしたが少し状況も変わりつつあります。元気なうちはまだまだ続けていきたいと願っています。
私どもの「今日庵」という庵号は「明日を期せず」という禅の教えからと伝わります。今日の出会いが尊いものであるということ。それは両親や祖母から教わりました。
(聞き手 山上直子)
(2023年4月3日記)
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2023年4月6日追記:
産経新聞(https://www.sankei.com/article/20230403-DXK6M2PTBJPYPKX5VPS5IYRMBM/)
裏千家前家元・千玄室<3> 厳しくも、よき両親の元で
2023年4月3日
《父は裏千家14代家元淡々斎、母は仙台藩家老の伊藤家出身の嘉代子。その間に、2人の女の子に続いて生まれた待望の長男だった》
幼名は政興といいます。姉2人と、下に弟が2人の5人きょうだい。生まれたときは、千家を継ぐ子が生まれたと、祖父をはじめ皆がたいへん喜んでくれたそうです。長姉は茶人で冠婚葬祭の著書などでも知られた塩月弥栄子で、すぐ下の弟は、茶道や美術などを主に扱う出版社、淡交社(本社・京都市)を後に設立した納屋嘉治です。皆もう逝ってしまい、残っているのは私だけになりました。寂しいことです。
《父の淡々斎は若くして家元を継承し、海外普及や文化交流に努めた。当時、全国にあった組織をまとめる形で、現在の一般社団法人淡交会を設立。基本的な点前作法を全国的に統一するなど、近代的な組織づくりにも力を尽くした》
父はまさに、生まれたときからのお茶人で、この道一筋という人でした。無口で欲がなく、厳格でまじめで、どこかこう、ピシッとした感じで。子供心にも「ああ、これが家元というものなんだなあ」と思ったものです。その名の通り、いつも淡々とされていました。
その点、子供としてはちょっと近寄りがたくもありましたが、娘である姉2人にはやさしい父親でしたし、息子たちとはキャッチボールをして遊んでくれることもありました。ですが、やはり当主である父の前では皆が一歩下がるというところがあって、普通の家庭とは違っていたと思います。
例えば、千家はお茶の宗家で元来、武家でもありますから、さまざまなしきたりがありました。昔は食事にしても、当主と(跡継ぎの)嫡男だけが一緒にいただくのです。長男には長男の格を持たせようということなのです。母はその場にいて差配はいたしますが、自身は後で弟たちと食べるという具合で、別々だったのです。
母も武家育ちでそういうことは理解していましたが、やはり「子供たちは皆一緒にごはんを食べて、話をするのが一番いいのですよ」といって、後に現代風に改めてくれました。これは家族にとって、幸せなことだったと思います。
母はとてもきれいな人で、祖母がぜひうちにと望んだそうです。仙台の人でしたから、最初は京都のお茶の家に行く気持ちはなかったようですが、相性というのもあるのでしょう。結局、はるばる京都に嫁いできたのでした。すばらしい夫婦でしたし、よい両親の元で育ちました。怒ると怖いし、しつけに厳しい母ではありましたが。
それでいいますと、長男に生まれた私は、必然的にその厳しさを受けざるを得なかったと思います。弟たちにはさほど厳しくはないのです。「僕だけどうして」と聞くと、「あなたはこの家を継がなければならない人ですから。15代目になるのですよ」と言われる。
学校から帰ると弟たちは好きなことをしていましたが、母は私には「お稽古」というのです。すると裏千家の高弟たちが待っていて、茶道の基礎的なことを教えてくれます。
例えば、お茶碗を一つ持たされて「これはどう思われますか?」と聞かれるのですね。そして「これは樂焼(桃山時代に千利休が陶工の初代長次郎に作らせたことに始まる茶の湯の陶器)のお茶碗でしょう? 樂には赤いのと黒いのがありますよ」という具合です。
両親のさまざまな導きで、そうして一歩ずつ、少しずつ、いろいろなことを身に付けていくものなのでしょうね。家元を継ぐということは。そのなかで自覚も生まれてくるのです。
(聞き手 山上直子)
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産経新聞(https://www.sankei.com/article/20230404-6WFUY4ASYJMEHHVRH4T4RWGV3I/)
裏千家前家元・千玄室<4> 家元の厳しさ知った父の一言
2023年4月4日
《長身で堂々とした体格からは想像もできないが、意外なことに幼少期はひ弱な少年だったという》
よく熱を出す、腺病質な子供でした。それでも気は強くて、けっこうわんぱくなところもあって。学校の先生に「千、日本一行儀のええ家の息子がそんなんしたらあかん」などと怒られることもありました。
子供心に「若さん」とか「千家のお坊ちゃん」などといわれるのが、いやでいやで仕方ありませんでした。当時も、学校に行けばいじめもありましたし、それに負けてはいけない、では体を鍛えようというわけで、家ではしつけも鍛錬もきびしかったのです。
例えば朝の6時頃になると、剣道の師範がいらっしゃる。お茶が好きで父の元にお稽古に来られている方で、剣道は七段をお持ちでした。その方がね、竹刀をもって稽古着を着けてこられて、庭先で夏も冬も指導をしてくださるのです。大変でしたが、そのおかげもあってか、だんだん体が鍛えられて丈夫になっていったのだと思います。
《日本の古いしきたりで、習い事は6歳の6月6日から始めるのがよいとされる。一説には室町時代の能の大成者、世阿弥の著書「風姿花伝」に芸事は数え7歳からとあることに由来するともいわれている》
お茶の稽古は6歳の6月6日から始めました。「稽古始め」のしきたりです。父の手ほどきを受けたのですが、記憶はおぼろげです。ほかにも習字に小舞など、稽古ごとは多かったですね。
学校から帰ってくると、こんなこともありました。母が「廊下を歩きなさい」という。長い廊下を歩かされるのです。歩いてみせると、「それは学校の歩き方です。お茶の歩き方はこう、武家の歩き方はこう…」と教えられました。つまり、昔ならあなたは腰に刀を下げていて、元服した年になればその重さというのを感じて歩かなければいけない、でも姿勢をくずしてもいけない…というわけなのです。
ほかに影響を受けたといえば、母方の祖母の存在がありました。残念なことですが、父方の祖父母(13代円能斎夫妻)は私が生まれた翌年と翌々年に相次いで亡くなり、記憶はありません。
母方の祖母は仙台藩の家老の家に生まれた人で、戊辰戦争のときは長刀を持って城に控えたといいます。母も随分厳しく育てられたようでした。お茶が大好きで、仙台からはるばるとやってきて何カ月も滞在するのです。そうして、学校から帰ると待ち構えていて「政興さん」と呼ぶ。私の幼名です。
(代々「政」が付きまして、父の14代淡々斎は政之輔、私が政興、長男である今の家元=16代千宗室氏=は政之、亡くなった次男は政和でした)
呼ばれるとお稽古だと分かっているのですが、でもね、まだ子供ですから遊びたい。たいへんでしたが、それも忘れがたい思い出です。
ただ、本格的に稽古を始めたのは中学に入ってからです。それまでは遊びの延長のようなもので、父が幼い私に厳しく稽古をつけるということはありませんでした。
やがて父に稽古をつけてもらうようになったのですが、当初はなかなかみてもらえず、「どうしてお稽古をつけていただけないのですか」と聞いたことがありました。すると、おまえは父だと思っているが、茶の道では師匠なのだから、自分から「お願いします」となぜ言わないのか、と怒られたのです。なるほどそういうものか、と思うと同時に、家元の厳しさというものも感じたのでした。
(聞き手 山上直子)
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産経新聞(https://www.sankei.com/article/20230405-DAYLA23BUVMCNC2R3TQ4CA2SFQ/)
裏千家前家元・千玄室<5> 乗馬に熱中、世界観広げた学生時代
2023年4月5日
《昭和11年春、京都府師範学校附属小学校を卒業し、同志社中学に入学した。直前に二・二六事件が起き、翌12年には日中戦争が勃発。そんな社会情勢が不穏な時期に、多感な学生時代を過ごした》
本当は、多くの友人たちと同じ京都府立第一中学校に進みたかった。ところが父に呼ばれ、父と同じ同志社に進学するようにといわれたのです。驚きましたが、私どもの家は祖父(13代円能斎)のころより、創設者の新島襄先生夫妻、なかでも奥さまの八重さんと深いご縁がありました。八重さんは女性にお茶を広めるのにたいへん尽力された方です。また父の時代は同志社英学校といい、その教育を受けて父は英語が堪能でした。
《NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルになった新島八重は教育者としてだけでなく、新島宗竹という茶名を持つ茶道家としても知られる。会津出身で、京都府顧問だった兄・山本覚馬を頼って京都に移り、新島襄と結婚。後に円能斎門下、茶道教授となって女性に茶道を教えた》
入学当初はとても戸惑いました。なにしろ毎朝、父とともに利休御祖堂でお経をあげていました。禅宗です。また、屋敷内にはお社もありますから、仏教と神道です。一方で、同志社はキリスト教ですから、入学すると学校では賛美歌を歌ってキリスト教を学び、家ではお経を唱えてお社にお参りする。そんな毎日が始まりました。
でも、こうした経験のおかげでしょう。私はいま、どんな国のどんな宗教でも入っていくことができます。さまざまな国の方々と交流し、イスラム教でもロシア正教でも、あらゆる教会でお献茶をしてまいりました。いずれの宗教にも宗派にも、良いところがあると知っていますからこだわりはないのです。
また、先の戦争が始まるまで、昭和10年代前半ですが、アメリカからいらした先生方もおられて、私たちは英語も学びました。私たちの学生生活は決して戦争や軍国主義だけではなかった。そのことも伝えておかなければならないと思っています。英語も広い世界観も、同志社で学んだことは後の私の活動に生きています。
学生時代といえば、父から教わった乗馬のこともお話ししなければ。父は明治26年生まれで、自身のなかに明治の生活や文化を残しておりました。乗馬もその一つで、ひ弱だった長男を心配したのでしょう。8歳のころ、初めて馬に乗せられました。最初はいやで「なんで馬なんかに乗らなければならないのか」と思っていたのですが、相性がよかったのか、だんだん馬が好きになりました。
中学2年からは東山のふもとにできた「銀鞍会」という乗馬クラブに入り、当時、最年少でしたので、先輩方にはとてもかわいがられたのを覚えています。学校が終わるとクラブに行き、愛馬と過ごして帰るという毎日でした。先輩が卒業され、京都を離れるのを機に「千早」という馬を譲っていただき、よき相棒となりました。今から思えばずいぶん高価で、両親には申し訳ないことでした。
《乗馬との縁は深い。日本馬術連盟会長を長く務め、馬術振興に力を入れている。アジア馬術連盟名誉会長も務める》
同志社大学でも馬術部に入って大学対抗のリーグ戦に出場しておりましたが、戦争が始まり部の馬まで徴用されるようになりました。私自身も出征し、愛馬「千早」も徴用されたと聞きました。戦後また馬に乗るようになり、国体にも2度出場しています。今も続けており、昔から「趣味は」と聞かれると、乗馬と答えております。
(聞き手 山上直子)
(2023年4月6日転載終)
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2023年4月9日追記:
産経新聞(https://www.sankei.com/article/20230406-APLKIBGWUBNWPNOZFIVVT6MJCE/)
裏千家前家元・千玄室<6> 徴兵召集…仲間と覚悟の茶会
2023年4月6日
《茶家で武家。その矜持を持つ千家では15歳になると元服したとみなされ、公式な行事に出るようになった。大人の仲間入りである》
15歳になり、昭和13年12月に行われた北野天満宮(京都市上京区)のお献茶式では、元服を兼ねて父の後見のもと、お点前を披露いたしました。全国から集まった皆さんの前で、いわばお披露目のようなものです。
15年、中学5年生のときには、この年は「皇紀2600年」を迎えた年でもありましたが、千利休居士の三百五十年御遠忌法要が大徳寺で営まれました。私も家元世嗣としてお献茶式に参列させていただきましたが、このころは学生生活にお茶にと、とても忙しかったのを覚えております。
卒業が近くなると、次の進路を考え始めましたが、実は東京に行きたいと思っていました。将来はお茶の道に進むのだから、大学くらいは京都を離れて自由に過ごしてみたかったのです。都会へのあこがれもありました。
《受験先を学習院か早稲田と定め、準備を始めたものの、両親にはなかなか言い出せずにいた。その矢先、東京行きを計画していることを友人を通じて母に知られてしまった》
「そんなに東京に行きたいのですか」と母に問いただされました。「行かせてください」と頼みましたが、理路整然と諭されてしまいます。家を継ぐ身で京都を離れてはいけないこと、戦争が始まっているときだからこそ長男として父の元で学ぶべきであること…。茶家には年間を通じてさまざまな行事があり、家元はそれらを取り仕切らなければなりません。まったくその通りでぐうの音も出ずといったところで、東京行きはあきらめて私は16年の春、同志社大学の予科に進んだのでした。
《その年の12月8日、旧日本軍による米ハワイ・真珠湾攻撃で日米開戦を迎えた》
翌17年9月、予科から法学部に進学いたしましたが、それは学生が早く出征できるようにと、半年繰り上げられたためです。法学部を選んだのは、茶道とは異なる分野を学んでみたいと思ったからでした。お茶は文学や歴史など、どちらかといえば文学部とかかわりが深い伝統文化です。けれど、実際に大学で勉強できたのは短い期間でした。戦況厳しく、学生の徴兵猶予がなくなったのです。
18年になり、大正12年7月生まれまでの二十歳以上の法学部系の大学生が一斉に検査を受けました。私は12年の4月生まれで二十歳になったばかりでした。乗馬に剣道にと、さまざまなスポーツで体を鍛えてきたおかげで一発合格です。このとき、家に帰る前にその試験官に、確か陸軍の方でしたけれど「千政興(私の幼名です)、現役として徴兵召集する」といわれました。こちらは感謝して「ありがとうございます」といわねばなりませんでした。
このころ、京都・東山の桐蔭席(父、14代淡々斎のもと数寄屋の名工が手掛けた格式の高い茶室)で同志社の仲間たちと釜をかけました。釜をかけるというのは、お茶会を開くということです。いつどこに召集されても「お茶を点てる」という覚悟は忘れないようにしようと皆で誓いあったのです。
《一方でその年の4月、学校の掲示板にある募集が出ているのを見て興味を持った》
海洋飛行団水上機訓練第1期生の募集でした。滋賀県の琵琶湖畔にあった天虎飛行訓練所で水上機の飛行訓練を受けるのです。これが飛行機との出合いとなりました。
(聞き手 山上直子)
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産経新聞(https://www.sankei.com/article/20230407-DQ7BBI7AW5NMJKZM4C6IBBNC7Q/)
裏千家前家元・千玄室<7> 背面飛行で目を回し でも楽しかった
2023年4月7日
《昭和18年の春、大学の掲示板で見つけた海洋飛行団水上機訓練第1期生(天虎飛行訓練所)の募集。天虎飛行訓練所(研究所)は、滋賀県大津市の琵琶湖畔に創設された民間の水上機訓練施設で、後に逓信省航空局の乗員養成所となり、昭和18年からは海軍予備学生の養成にあたった》
剣道部の親友が「千やん、千やん、一緒に飛行機乗ろうや」と言い出しました。乗馬もできなくなり、いずれ軍に入らなければならないのだから水上機の訓練もいいかと思い、「そうかあ、やってみようか」となったものの、学生ですから親の承諾書が必要でした。
そこで母に、「こういうご時世になりました。いつなんどき軍に呼ばれるかもわかりません。陸軍でしたら私は乗馬をやっております。近衛騎兵くらいにはなれるかもしれません。ただ、これからは飛行機もやらなければと思っています。ちょうど琵琶湖でグライダーの訓練がありますから行ってみたいと思うのですが…」と噓をついて頼みました。
母は疑わしそうな顔で「本当の飛行機に乗るのではないでしょうね」と言いながらも、渋々はんこを押してくれ、承諾を得たのでした。
それで試験を受けたのですが、同志社から私を含めて5人が合格しました。ほかに京都大学など他の大学の生徒もおり、全部で20人くらいだったと思います。このとき実は、ちょっとしたいいこともありました。
当時はだんだん戦況も厳しくなってきたころで、学校でも授業が終わると教練があったのです。学校に配属される陸軍の配属将校というのがいまして、授業が終わると武装して軍隊と同じような訓練を行うのです。勉強は午前中だけで、そうですね、だいたい午後2時くらいから1時間ほどだったと思います。それが終わると運動部などは部活をするわけです。
ところが、われわれ海洋飛行団に受かった者たちは、大津の天虎飛行訓練所に行かなければなりません。そのために、教練は免除ということになり、とても助かりました。夕ご飯もあちらでいただくことになっていて、それが目的の学生もいました。このとき初めて飛行機に乗ったわけですが、結局それが海軍にいく足掛かりになったのでした。
水上機訓練は楽しかったですね。最初は背面飛行などで目を回したものですが、慣れてくると大空を飛ぶ爽快さがあって気持ちが晴れ晴れとしました。訓練所の創設者でもあった藤本直教官(所長)らにたたき込まれ、4カ月ほどで単独飛行ができるようになりました。
《後日談だが、戦後に産経新聞社の航空部長となり、民間航空会社・日東航空を立ち上げた藤本教官と、大阪・八尾の飛行場で再会する。訓練を受けてセスナ機操縦を楽しんだ》
その経験があったものですから、徴兵検査を受けたときに「陸軍か海軍か、どちらを志望するか」と聞かれ、「海軍であります」と答えたのです。すると、試験官が「ああ、あなた、水上機をやってたんだな」と言いました。私の経歴が手元にあったのですね。「陸軍にも特別操縦見習士官制度ができたが」と言われたのですが、「伯父が海軍でありますから」と答えました。母の兄が海軍軍人だったのです。希望通りになるかどうか心配でしたが、その後、海軍入団の通知が届きました。
その当時は軍隊に入ることの不安よりも、海軍に決まったうれしさの方が大きかったように思います。そういう時代でしたから、訓練をしてきたことで国のために働けるのは、とても名誉なことだと思いました。
(聞き手 山上直子)
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産経新聞(https://www.sankei.com/article/20230408-3CFPYF4HOROTFIIS5JBMR7DDTQ/)
裏千家前家元・千玄室<8> 海軍入隊 厳しい「修正」に負けじ魂
2023年4月8日
《昭和18年10月、学生の徴兵猶予を取り消す勅令が公布され、12月に海軍に入隊した。学徒出陣である》
私も12月10日、舞鶴海兵団に入隊しましたが、その前日のこと。夕食後、父に茶室「咄々斎」に呼ばれました。6歳のときに稽古始めをしたお茶室です。
《裏千家今日庵の「咄々斎」は11代玄々斎が天保10(1839)年、千利休250年忌に際して造った茶室である。その後、利休の孫、3代宗旦の200年忌に改修され、その号をとって「咄々斎」と改められた。家元が稽古をつける「稽古の間」とされる》
父と向かい合って座りますと、一振りの刀を置いて拝見するようにといわれました。それは利休居士自刃の刀として伝わる脇差し(左腰に差すよう作った短い刀)の「粟田口吉光」でした。わが家にとって非常に大切なもので、長男の跡取り息子である私も、このとき初めて拝したのです。ただただ圧倒されて見つめていました。
なぜ出征を前に刀を拝見するようにいわれたのか。このときの私は、父の思いにまで考えが至りませんでした。必ず生きて帰り、利休居士からの茶の湯を受け継いでいかなくてはならないということを伝えたかったのかもしれません。一方の母も、口に出すことはありませんでしたが、入隊が決まってからはたいへん気落ちした様子でした。
《入隊の日、今日庵の象徴ともいえる兜門の前で壮行会が開かれた。家族一同がそろう写真、旭日旗や日の丸で飾られた兜門を背景に、たすきをかけて両親や兄弟とカメラに向かう写真などが残る》
生まれて初めて家を離れ、舞鶴海兵団に入りました。すぐ海軍に採用されるわけではなく、1カ月半ほどさまざまな訓練を受けるのです。手旗信号や数学、物理などの学術試験もありました。真冬でしたので、カッターという手漕ぎボートの訓練は特につらかった。寒い上に、摩擦でお尻の皮が擦りむけてしまうのです。トイレ掃除もつらく、口ごたえをすれば殴られました。それを「修正」といい、口の中が切れて食事をするのも一苦労といったこともありました。日常生活の訓練もまた厳しく、例えば、寝るのは艦上と同じハンモックでした。この頃、ひそかに手帳に記した歌があります。
修正で顔の型も変わるなり
これぞ海軍負けじ魂
《訓練を経て合格し、昭和19年、第14期飛行専修予備学生として茨城県の土浦海軍航空隊に配属となる》
このとき初めて士官の軍服を身に着けました。土浦では士官としての基礎的な教育を受けたのですが、操縦、偵察、そして飛行に適さないと判断された人は地上勤務に分けられました。奇妙なことですが、当時、海軍では、顔や手相をみて判断し、配置を決めていたのです。私はその結果で戦闘機ではなく偵察機になったのですが、水上機の経験で操縦ができましたから、自分では当然、戦闘機だと思っておりました。悔しく残念でしたが、生きて終戦を迎えられたのはその判断のおかげだったかもしれないと、今では感謝しています。
軍隊生活はつらいものでしたが、得たものもありました。その最たるものが友人です。舞鶴海兵団からずっと生活をともにした親友が、後に俳優になり、2代目水戸黄門役を務めた西村晃です。小柄な彼と、長身の私とは、まさに凸凹コンビでした。
(聞き手 山上直子)
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産経新聞(https://www.sankei.com/article/20230409-3HZ244I5CFMANHDJROU47ZAUTI/)
裏千家前家元・千玄室<9> 特攻「熱望」「希望」「否」のいずれかに
2023年4月9日
《昭和18年12月、学徒出陣により、舞鶴海兵団に入隊。厳しい軍隊生活のもと、親友との交友を深めていった》
水戸黄門役で知られた名優、西村晃とは、舞鶴海兵団からずっと一緒に過ごした親友です。厠(トイレ)掃除でともに上官に殴られた仲でした。
というのも、掃除ができましたと分隊(海軍では小隊のことを分隊と言いました)の下士官に報告に行きますと、「きれいにできたのなら、小便器をなめてみろ」と言うのです。ためらったら何をされるかわかりません。仕方なく従うと、「なめ方が足らぬ!」と整列を命じられ、思い切り殴られる。そんな肉体的、精神的にも試練だったときを共有し、懐かしい家族を思って涙し、慰め合った友人だったのです。
彼も私と同様、学徒動員で、日本大学在学中に出征したのですが、私とは違い、すでに結婚していて、奥さんのおなかには子供もいました。それもあってか、妻子のためにも「死にとうない」などと言うものですから、上官に聞かれはしないかと心配したものです。
海軍少尉に任官後のことですが、彼は徳島でお寺の離れの小さな家を借りて、妻子を呼び寄せました。いつ出撃となるかもしれない身でしたから、その前に家族水入らずの生活をしてみたいと。そんな、まことに切なる願いをかなえたのでした。
《西村氏とはその後も土浦、徳島と行動を共にした》
土浦航空隊で、戦闘機ではなく偵察機に振り分けられたいきさつはお話ししましたが、納得できずにいた私は隣のハンモックにいた西村に「どうしようか」と相談した覚えがあります。そのときの彼の答えは明快で、「しょうがないやないか。わしも偵察や。死なばもろとも、一緒に行こうよ」と言ってくれた。この一言で私も、「よしこいつと一緒に行こう」と腹を決めたのでした。
《偵察士官となり、19年5月、徳島海軍航空隊に転属となった。海軍少尉に任官する》
徳島航空隊は松茂(現松茂町)というところにありました。とても環境のよいところで、外出(「上陸」と言っていました)が許されるとバスで徳島の町まで出かけ、父から紹介された地元の方の家で過ごさせていただくこともありました。奥さまが裏千家の茶道教授をされていたので、うかがうたびに西村やほかの仲間がついてきて、神妙な顔をしてお茶を一服頂戴するのです。面会に来てくれた母やきょうだいと過ごさせていただいたこともありました。とてもお世話になり、ありがたいことでした。
一方、徳島での訓練はたいへん厳しく難しいものでした。士官といってもついこの間までは学生だった私たちです。ここで偵察の訓練を受けたのですが、目的地までの航法はもちろんのこと、通信や暗号解読、射撃に爆撃、写真撮影などを1人でこなさなくてはなりません。その上で、雲を見、風を読んで操縦をするのです。航法というのもこれがなかなか難しく、巡航速度に高度ごとの風向き、目的地の緯度などを調べて計算せねばなりません。その計算ひとつにしても、地上では簡単にできることが空の上では頭の回転が鈍ってしまいます。高度が高くなると、ついうとうとすることもありました。
《昭和20年春。戦況はますます厳しくなり、徳島にも出撃のうわさが入り始めていた》
武者震いと、もし出撃命令が出たらどうしようかという思いと。言いようのない気持ちになっていきました。
3月、私たち飛行隊全員に紙が配られました。特別攻撃隊の編成に備え、「熱望」「希望」「否」のいずれかに丸をつけよと命じられたのです。
(聞き手 山上直子)
(2023年4月9日転載終)
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2023年4月11日追記:
産経新聞(https://www.sankei.com/article/20230410-L4OK5MNG6VLY5LPKDEOIZQR4JE/)
裏千家前家元・千玄室<10>出撃命令…21日は私の命日 友との再会
2023年4月10日
《昭和20年春。徳島県松茂村(現松茂町)の徳島海軍航空隊でも特別攻撃隊の編成が始まった。白菊特別攻撃隊である。隊員全員に紙が配られ、「熱望」「希望」「否」のいずれかに丸をつけるよう命じられた》
記名です。本人の意思を尊重しているようですが、当時のことですから「否」としたら、かえって真っ先に出撃させられるかもしれません。親友の西村晃とともに「熱望」に丸をつけましたが、結局、全員が特攻隊として出撃することになりました。
それからは特攻隊の訓練に明け暮れました。愛機は偵察用の「白菊」というかれんな名前のプロペラ機でした。重い爆弾を積んで目標に向けて突っ込む訓練や、速度が遅いので夜間飛行の訓練などを何度も行いました。鹿児島・鹿屋の海軍基地から敵に見つからないように夜間、沖縄まで約4時間半かけて飛ぶための技術だったのです。
いよいよ出撃が近づき、私は友人らと白菊の前で簡単な茶会を開きました。それまでもたびたび、休憩時に皆にお茶を振る舞うことはありました。茶道では、野点といって野外で茶会を楽しむときや旅先でお茶をいただくとき茶箱という携帯用の道具を用います。小ぶりの茶碗や茶筅(抹茶と湯をかき混ぜる竹製の道具)など、お茶を点てるのに必要な茶道具一式を箱に仕組んだものです。私は茶の家の子ですから軍隊でもいつも茶箱とともに移動しておりました。
その日は皆が車座になって座り、私は配給のようかんを配って茶を点て、皆に振る舞いました。仲間の一人がしみじみと「千よ、生きて帰ったらほんまものの茶室で茶を飲ませてくれよ」と言ったのを忘れることができません。皆、死ぬことを覚悟していました。私は無性に母に会いたくなり、立ち上がって京都と思う方向に向き、「お母さーん」と叫びました。繰り返していると、自然に涙があふれてきます。驚いた様子の仲間たちもそのうち、それぞれの故郷に向かって同じように「お母さーん」と叫び始めました。互いに顔を見合わせ、少し、晴れ晴れとした気持ちになったのでした。
《徳島海軍航空隊にも第一次特攻隊の出撃命令が出た》
出撃があるときは、夕食後に皆の前で発表されました。その出撃メンバーの中に西村が入っていました。ところが私の名前がありません。西村は「お前はうそつきだ。一緒に死のうと言ったやないか」と責めるのです。そこで私は分隊長のもとに行き、特攻隊に加えてほしいと頼んだのですが、聞いてもらえませんでした。
遅れて5月21日、私にも出撃命令が出ました。ところが直前で取り消され、松山海軍航空隊への転属命令が出たのでした。愕然としたのは言うまでもありません。西村も先に行き、死ぬことばかりを考えておりました。どうすることもできず命令に従うだけでしたが、21日は私の命日だと思っています。
これはよくお話しするエピソードなのですが、徳島で別れたきりの西村に復員後の21年5月1日、ばったり再会したのです。東京の文部省(当時)の前で、戦後初めてのメーデーで行進する人をぼんやりと眺めていたときでした。「せーん」と私を呼ぶ声が聞こえたのです。行進の中から人をかき分けるようにして手を振り、駆け寄ってきたのが西村でした。列の中に飛び込み、抱き合いました。私たちはどちらも相手は死んだものと思っていたのです。
彼は予定通り出撃しましたが途中で飛行機が不時着し、無事に帰ってくることができたのでした。同期14期生の戦死者は四百有余柱。その御霊安かれと祈るとき、「待っていてくれ。いずれそちらに行くから」と語り掛けております。
(聞き手 山上直子)
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産経新聞(https://www.sankei.com/article/20230411-C6A2PQAGHFMNHMS4POT6SPUFNY/)
裏千家前家元・千玄室<11> 父と米兵…気がついた私の使命
2023年4月11日
《松山海軍航空隊で待機していた昭和20年8月15日、終戦を迎えた。同月、海軍中尉に任じられている》
8月の終わり頃でした。南方の兵を帰還させるための輸送機でしたか、機長を務めるよう命令を受け、他の士官らとともに大阪の陸軍飛行場(現在の伊丹空港)に向かいました。ところが、そんな命令は受けていないという。どこもとても混乱していたのです。松山に帰ることも難しくなり、ひとまず皆が国元に帰ることになりました。
《終戦から20日あまりたった9月5日、無事に復員した》
ようやく家の前にたどりつきました。出征したときと同じ、こけむした裏千家の兜門です。出たときは二度とくぐることはないだろうと覚悟しておりました。盛大に見送られて出たものの、生きて帰ってきたことが申し訳なく思われてなりません。無意識のうちに軍刀を置き、門の前で正座をして手をついておりました。
ようやく門をくぐり「ただいま! 千海軍中尉、戻らせていただきました」と申しますと、すぐ下の弟、嘉治(後に納屋姓となる)が顔を出して「生きてた、生きてた」と叫びました。陸軍の特別操縦見習士官となっていたのですが、先に復員していたのです。私の顔をみるなり「ああ、よかった~」とほっとした様子で胸をなでおろし、「だって、これであとを継がなくてもよくなったもの」と泣き顔でいうのでした。
母は腰を抜かさんばかりに驚いて、「よく帰ってきた!」と何度も繰り返すばかりでした。家族皆、涙を流して喜んでくれました。
2年ぶりに戻ったわが家でしたが、その後はしばらく、ぼーっとして過ごしました。大きな虚脱感にとらわれていたのです。そんなとき、進駐軍の米兵がジープで兜門の前に乗りつけ、お茶を飲ませてくれと上がりこんでくるのをたびたび目にしました。亡くなった仲間を思い、生きて帰ってきた己の情けなさを感じ、とても不愉快に思いました。あちらにしてみれば日本文化に触れようということだったのでしょうが…。向こうは勝者、こちらは敗者で、国は占領下です。
そんな私の思いとは裏腹に、父は来るもの拒まずと、迎え入れておりました。同志社で学んだ流暢な英語で、日本の礼儀作法も知らない米兵に堂々と応対しています。そんな父に相手もかしこまった様子でしたが、中には行儀の悪い者もおりました。すると父は「ゲラウェイ(出ていけ)」としかりつけて追い返してしまうのです。父の威厳に驚いて逃げるように出ていく米兵らを見て、私は納得したのでした。
戦争は終わったのだと。そして、戦争はもういやだということも。お茶をもって平和を説く、世界の人たちにお茶の心を伝えていくことが、生き残った私の使命であり、やらなければならないことなのだと気づいたのでした。そう思ったとき、米兵への不快感もなくなり、私は立ち直ることができました。これが私の再出発点となったのです。
今では戦争を知る人も少なくなりました。最近は残った人間の務めと、講演会などでもお話をさせていただいております。気にかかるのが、特攻隊のことを「テロと一緒だ」という人がいることです。ですが、無差別に人を狙うテロとは全く違うのだと、私どもは強く反論いたします。当時の日本はアメリカと戦争をしていたのです。国と国との戦いで兵士は国民の命や財産を守るために戦った。その区別がつかない人が増えています。私は戦争経験者として、現代のそんな風潮をたいへん憂えております。
(聞き手 山上直子)
(2023年4月11日転載終)
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2023年4月11日追記:
(https://nordot.app/977857866110320640)
茶道家・千さん特攻訓練体験語る 99歳「77年じくじたる思い」
2022年12月20日
太平洋戦争中に特攻作戦の訓練を経験し、出撃前に終戦を迎えた茶道裏千家前家元の千玄室さん(99)が20日、大分県宇佐市で講演した。同市にはかつて宇佐海軍航空隊があり、千さんの同期生の出撃拠点だった。多くの仲間を失った千さんは「77年間じくじたる思い」と胸中を明らかにし、地元の高校生ら約800人が耳を傾けた。
講演は市の平和事業の一環。千さんは茶道の浸透と平和の実現に向け世界各国を巡ってきた。
海に散った仲間を拝む時「おーい、千よ!」と呼ばれる声が聞こえるといい「77年間、じくじたる思いで亡くなった一人一人を思い浮かべてきた」と話した。
© 一般社団法人共同通信社
(2023年4月12日転載終)
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(https://news.yahoo.co.jp/articles/4470d4b359deb6cfe1b10a49b282e8340c59fc1c)
千玄室さんに総理大臣顕彰 茶道で国際交流に尽力
2023年4月11日
松野博一官房長官は11日の記者会見で、茶道裏千家前家元の千玄室さん(99)に内閣総理大臣顕彰の授与を決めたと発表した。4月20日に官邸で顕彰式を実施する。千さんの功績を巡り「半世紀以上にわたり、日本文化の精神を世界に広め、茶道を通じた国際文化交流の発展に尽力した」とたたえた。「平和外交の推進に多大に貢献した」とも語った。
(2023年4月12日転載終)
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2023年4月21日追記:
(https://twitter.com/ituna4011/status/1649351986859606016)
Lily2@ituna4011
誠におめでとうございます。昨年、糺の森でおめもじできた光栄をしみじみ思い出しております。
6:58 PM · Apr 21, 2023
(2023年4月21日転載終)
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2023年5月4日追記:
連休中の2023年5月4日(木曜日)の午後2時から3時まで京都市上京区堀川通寺之内にある茶道資料館を訪問し、「令和五年 裏千家十五代鵬雲斎百寿記念特別展-鵬雲斎の百年」を拝見した。
(https://twitter.com/ituna4011/status/1654038222606061568)
Lily2@ituna4011
日刊工業新聞 電子版(https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00441431)
「安倍首相、メイ英首相を表千家に招待」
2017年8月31日 05:00
安倍晋三首相は30日、英国のメイ首相を京都市内の表千家「不審菴」に招待し、就任後初めて来日したメイ首相をもてなした。安倍首相は4月に訪英した際、ロンドン郊外の英首相別荘「チェッカーズ」に招かれた。今回はその返礼で、茶席で親睦を深めた。
メイ首相は30日、専用機で伊丹空港に到着。9月1日までの滞在中、安倍首相との首脳会談や天皇陛下との会見を予定している。
⇦ 先程、行って参りました。これで二度目です。
裏千家の茶道資料館では、検定試験合格証のコピー持参で、鵬雲斎大宗匠の百寿を記念する展示を無料で拝見。こちらも二度目。
5:20 PM · May 4, 2023
(https://twitter.com/ituna4011/status/1654041412667867137)
Lily2@ituna4011
合格証の番号を受付で控えられたので、誤魔かし不可。なんと、結婚前に作った裏千家の会員証カードも持参して見せたところ、今も有効だ、との由。旧姓のままなので、次回、予約を入れて更新して頂くことに。
5:32 PM · May 4, 2023
(https://twitter.com/ituna4011/status/1654042179877371904)
Lily2@ituna4011
変化の激しい昨今、裏千家のメンバーシップが今も有効、という話には感動。若い時、何でも習っておくものだな、と。 当時は敷居が高くても、最近では近づき易く工夫されているし。
5:36 PM · May 4, 2023
(https://twitter.com/ituna4011/status/1654306321720823809)
Lily2@ituna4011
昨今では、自分の母校が留学生に乗っ取られて、弾き飛ばされた感あり。日本国民なのに、国公立校で居場所がないのだ。 世の中が次から次へと移り変わり、薄利多売の風潮に。 だからこそ、重厚な伝統と歴史が守られている時空間には、ほっと安らぐ。
11:05 AM · May 5, 2023
(https://twitter.com/ituna4011/status/1654347927601704960)
Lily2@ituna4011
伝統文化に関する各種の検定試験や登録証は、私にとってあくまで趣味の一環だが、こういう特典もあるため、馬鹿にはならない。 アンネフランクのお父様が、第二次世界大戦前にドイツ軍の将校だった証拠を見せて、ナチから猶予時間を与えられたエピソードを思い出す。直接の関係は全くないが。
1:50 PM · May 5, 2023
(https://twitter.com/ituna4011/status/1654046177833398273)
Lily2@ituna4011
私にとってのお家元は、習っていた頃の鵬雲斎。昨年は文字通り目の前で拝見した。様々な噂もあったが、やはり圧倒される。何よりも、80代で論文博士号を授与された、と年表にあったのにはびっくり。
5:51 PM · May 4, 2023
(https://twitter.com/ituna4011/status/1654051558513086464)
Lily2@ituna4011
お茶席は満席とのことで、遠慮。お着物のご年配層グループには、安堵。私はスーツだったが、 リュック姿で展示を見に来る人には、さすがに….。 お道具や掛軸やお写真には、昔、淡交会の会誌で眺めていた記憶がよみがえってきた。
6:13 PM · May 4, 2023
(https://twitter.com/ituna4011/status/1654056235614994432)
Lily2@ituna4011
百寿とは思えない程、堂々たる筆捌きの書も。 名古屋で裏千家の許状を一つずついただきながらお稽古に通っていた頃、このような日が来るとは想像だにしていなかった。 長生きはするものだ。
6:31 PM · May 4, 2023
(https://twitter.com/ituna4011/status/1654040418408083458)
Lily2@ituna4011
久々だが、あの辺りは静かで清潔で、観光客が殆どいないので、いかにも昭和時代の良き京都という雰囲気。いつまでも続いていただきたい、と願う。 2年前の今頃、コロナで京都はガラガラ。電車も空いていて、ホームが静かだった。だが、タクシー運転手さんが、
食べることできひんわ、
と。
5:29 PM · May 4, 2023
(https://twitter.com/ituna4011/status/1654044948940070912)
Lily2@ituna4011
タクシーも碁盤の目を文字通り真っ直ぐ走ってすぐに到着。 料金を払うと、運転手さんから、
あー、これで今日一日食べられる、
と、物凄く感謝された二年前。 今日は混み合っていて、悲喜交々。
5:47 PM · May 4, 2023
(2023年5月5日転載終)
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裏千家に関する過去ブログは、こちらを。
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20141123)
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20161030)
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20161101)
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20161118)
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20161121)
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20161217)
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20161218)
茶道資料館に関する過去ブログは、こちらを。
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20161028)
(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20171204)
訪問したのは、上述のように二度目。初めて一人で出かけた2019年5月10日には、まだ会社勤務中ではあったものの、主人の健康状態が常に心配で不安が絶えなかった。あの頃、(今しか展示を見るチャンスはない!)と思い詰めて、時間をこじ開けるようにして外出した。
今回はそういう不安感が全く払拭されていて、実に新鮮な思いがした。
(2023年5月5日記)
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2023年5月6日追記:
鵬雲斎御家元との接点ないしご縁は、裏千家の茶道だけではない。
1)国際連合英語検定試験:A級までは合格している。
2)靖国神社の遺族会
3)下鴨神社の糺の森会員
(2023年5月6日記)
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2023年7月14日追記:
外山雄三氏が、2023年7月11日に92歳で逝去されました。
日経新聞(https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD064LM0W3A600C2000000/?n_cid=NMAIL007_20230714_H)
「外山雄三さん、死の1カ月半前まで指揮台に立つ」
2023年7月14日
7月11日に亡くなった外山雄三さんは92歳まで指揮台に立った。死の1カ月半ほど前の5月末には、パシフィック・フィルハーモニア東京を指揮し、演奏の途中で体調を崩して退場、それでも、終演後に車椅子で再び舞台に現れ、喝采を浴びた。
1931年生まれで、まだ第2次世界大戦の傷痕が日本各地に残る1952年にNHK交響楽団に打楽器練習員として入団した。54年には指揮構成員となり、さまざまな日本のオケを指揮し…
(2023年7月14日転載終)
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2023年7月15日追記:
(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)
ヒラサ・オフィス Artist Management M. Hirasa Ltd.
【訃報】指揮者/作曲家 外山雄三 逝去のお知らせ
弊社所属 指揮者/作曲家 外山雄三は、令和5年7月11日午後7時2分 慢性腎臓病のため長野県の自宅にて永眠いたしました。 享年92歳。
故人が生前賜りましたご厚情に深く感謝いたしますとともに謹んでお知らせ申し上げます。
前日までは奥様との意思の疎通があったそうですが、11日朝から呼吸が徐々に浅くなり、その後、静かに息を引き取られたそうです。
本人の遺志により 葬儀は近親者のみで執り行ないました。
また、香典 供花 供物に関しましても謹んでご辞退申し上げます。
なお、後日お別れの会(日時は未定)を執り行う予定です。
(2023年7月15日転載終)
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(https://twitter.com/NHKSO_Tokyo/status/1679402403408539648)
NHK交響楽団 NHK Symphony Orchestra, Tokyo
@NHKSO_Tokyo
NHK交響楽団の正指揮者、#外山雄三 氏が7月11日に逝去されました。享年92。 https://hirasaoffice06.com/news/view/454 今年1月に行われた「第70回尾高賞」の選考会では、N響高輪演奏所まで足をお運び下さり、元気なお姿を見せくださっていたのですが… 大きな精神的よりどころを失ったかのような喪失感を、私たちは覚えています。 心より哀悼の意を捧げます。 なお近日中に外山先生とN響の歩みを振り返る追悼記事をN響ホームページにアップする予定です。
5:08 PM · Jul 13, 2023
(2023年7月15日転載終)