窮地に陥る博物館?

(https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD041ZC0U2A300C2000000/)

「博物館・美術館の収入6割減、中小は閉館も 連携が急務:コロナ3年目のミュージアム(上)」

2022年3月29日

《新型コロナウイルスの感染が拡大して3年目を迎える。休館や入館制限を余儀なくされた博物館や美術館では中小施設を中心に閉館の動きも出始めた。新たな運営体制の構築が不可欠だ》

《2020年の収入は19年比6割減、感染対策でコストは増加――。日本博物館協会(東京・台東)が21年に実施したアンケート調査で、全国の博物館や美術館の厳しい経営状況が浮かび上がった》

《入館者数は現在もコロナ前の水準に遠く及ばない。経営体力はじわじわ削られ「このままでは中小館は持続的な運営が難しい」》

《21年12月、インドや中東の染織品約8千点を収蔵する国内屈指の専門館、岩立フォークテキスタイルミュージアム(東京・目黒)が一般公開をやめた。開館当初から赤字が続いていたが、コロナ禍で来館者数が激減する一方、事前予約制度の導入などでコストがかさみ、たち行かなくなった》

《企業の苦境が直撃した美術館もある。愛知県出身の西洋画家、故・杉本健吉の作品を展示する杉本美術館(愛知県美浜町)だ。運営母体の名古屋鉄道が21年3月期にコロナ禍で287億円の連結最終赤字(前の期は288億円の黒字)に転落したのを受け、21年10月に閉館した。杉本が寄贈した作品など約9000点の保存管理は当面継続する》

《イタリアの現代具象彫刻家ジュリアーノ・ヴァンジの個人美術館、ヴァンジ彫刻庭園美術館(静岡県長泉町)は公的支援を求めた。来館者数の激減で閉館せざるを得ない状況にあるとして21年10月、静岡県に支援を要請。建物などを無償譲渡し、県に運営を委ねたい考えだ》

《19年度に49万人だった来館者数が20年度に6万人まで落ち込んだ、ひめゆり平和祈念資料館(沖縄県糸満市)。沖縄戦の悲惨さや平和の尊さを伝える施設として、修学旅行生の来館も多かった。損益分岐点の40万人を大きく下回る苦境が続く中、20年11月にコンテンツの配信を始めた。ひめゆり学徒の体験者の証言映像を使った平和講話や、展示室のガイドツアーなどを配信する》

《日本博物館協会の半田専務理事は「博物館や美術館の運営は、新型コロナへの応急処置から中長期的な展望を考える時期にきている」と話す。鍵は「『公共財』という意識の共有と、それを支える地域や国全体のネットワークの構築だ」(半田氏)》

《入館者数や事業収入などの定量的な評価指標だけでなく、「どの程度社会に役立っているか、人々に文化的な豊かさを与えられているかという定性的な評価がされていく必要がある」(同氏)。単館で事態の打開を模索するのは限界がある。今後、収蔵品の管理や修復、教育プログラムの準備や配信設備の導入などで複数の館が連携して補完し合う相互支援の仕組みが求められそうだ》

(https://www.nikkei.com/article/DGKKZO59493600Z20C22A3BC8000/?unlock=1)

「コロナ3年目のミュージアム(下) 脱「入館料頼み」 広く出資募る支援者拡充へ魅力発信を」

2022年3月30日

《「代々受け継がれてきた大名道具を絶対に散逸させたくない」。尾張徳川家ゆかりの品を所蔵する徳川美術館(名古屋市)管理部の吉川由紀氏は力を込める。徳川美術館が2021年に始めたCFでは約3000万円が集まった》

《コロナ禍で入館料収入が激減し、2021年11月、クラウドファンディング(CF)を始めた。目標の1千万円はわずか2日で達成。最終的に1カ月半で3千万円弱を集めた》

《美術館の間でCFに注目が集まっている。大手のREADYFOR(レディーフォー、東京・千代田)によると、21年の文化関連全体の支援総額は20年の1.5倍、博物館・美術館関連に限れば7倍に上る。調達金額の合計は4億5千万円に達した》

《「博物館や美術館は公的収入、寄付、事業収入と3つの収入の柱を、バランスよく持っているのが理想」。実際にはチケット収入に依存していたため、コロナで多くが危機に陥った。》

《徳川美術館も年間に必要な3億3千万円の収入のうち半分以上を入館料が占める。経費削減と預金の取り崩しでしのいできたが、それだけでは限界がある。既存の会員組織「友の会」では取り込めていなかった若年層にもアピールできる手段としてCFに目をつけた》

《永青文庫(東京・文京)は21年7月、日本画の修復のために初めてCFを利用し、約1500万円を集めた。旧熊本藩主細川家伝来の美術品などを所蔵する同館には刀、武具、能面など早急な修復が必要な文化財が多い。修復には1件当たり数百万~数千万円かかるものもある。国宝や重要文化財は国や自治体の補助が受けられるが、施設の費用負担は大きい》

《収入の8割を入館料に頼る大原美術館(岡山県倉敷市)だ。来館者数30万人が運営維持の最低ラインだったが20年度は約6万人に落ち込んだ。新館建設にも着手したばかりで借金は2億5千万円。20年10月に始めたCFで約2350万円を調達した》

《「日本には寄付文化が根付いていない」と指摘するのは、兵庫県立美術館(神戸市)の蓑豊館長だ。シカゴ美術館など米国での勤務が長く、帰国後は大阪市立美術館(大阪市)や金沢21世紀美術館(金沢市)の館長を歴任。金沢は開館初年度に年150万人もの来館者を記録し、人気美術館として注目を集めた》

《支援者のもとで「良い作品を収蔵し、企画展だけでなく常設展で親と子、孫へと長く親しまれる存在にならなければ」》

《文化庁によると、1980~90年代に建てられた館の多くは老朽化が進み、整備が必要な時期に入る。資金需要は膨らむばかりだ。入館料頼みを脱却し、収益源を多角化することが欠かせない》
。。。。。。。
という淋しいニュースが、最近の日本では流れている。第一の要因は資金不足だが、そもそも博物館や美術館には相当のお金と人件費がかかることは、最初から分かり切っていたのでは?ついでながら、バブル時代に次々に建てたホールや施設等が、今や老朽化している、とも聞く。

だが、海外の博物館では、こんな感じだった。

(www.facebook.com/ikuko.tsunashima/)

2022年3月28日投稿

イスラエルの博物館は最高です!
灼熱の砂漠の太陽の下で、どっしりと西洋風に建っていながらも、雰囲気にどこか東洋風のしっとりとした深みと落ち着きが感じられ、しかも、最高の学術団による精密かつ高度な仕掛けが展示に現れています。
若い頃に、多少背伸びしてでも良いものに触れるチャンスを逃さず、鋭く繊細な感性を磨きたい……
(但し、下の写真の右側の二つの人形みたいなのは、台無しだ。)

(転載終)
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今日は午前9時半頃、駅で待ち合わせをして、お昼過ぎまで、伊丹市の博物館友の会の方々と一緒に、尼崎市立歴史博物館と令和元年に再建された尼崎城を見学した。

一度は見ておきたかった尼崎の博物館とお城だった。以前から計画されていたが、コロナ問題のため、延期に次ぐ延期で、やっと実現。

曇り空から小雨そして多少大降りになったが、桜は今日が満開のようだ。

「世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」

会長さんが、前半を唱えていらしたが、傍にいた私は、なぜか急に頭に血が上ってド忘れ。情けない…..。

尼崎での私の行動範囲は、JR駅と阪急塚口駅ぐらい。半年に一度の400ml献血に行く程度だ。
尼崎市は人口55万人と、伊丹市(人口約20万人)よりも遥かに広くて大きい都市だが、名古屋っ子だった私の子供時代の印象では、高度経済成長期の尼崎と言えば、阪神間の代表格として、何となく怖い感じだった。

だが、「今の尼崎は居住選択地として人気ナンバー1だ」と、兵庫県への転勤が決まった2018年7月半ば頃、不動産屋さんが言っていた。

ともかく、印象論ではなく、何事も史実に基づいて理解することが大切。とはいえ、なかなか一人では行けない。だから、機を狙って、ご一緒させていただいた次第。
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略年表によれば、以下のようである。

昭和37年6月に尼崎市史編集事業が開始され、その4年後に『尼崎市史』第1巻が刊行された。また、昭和46年10月には研究紀要『地域史研究』が創刊された。
平成7年1月の阪神・淡路大震災により、地域研究史料館も大きな被害を受けたが、その翌年、市制80周年記念として新『尼崎市史』編集事業が開始された。
平成13年頃から、ウェブ版で「尼崎の歴史」サイトが公開されたのを皮切りに、ウェブ版の尼崎地域史事典 “Apedia”や、古文書や近現代文書類の目録等がPDF版で公開された。
そして、令和2年10月に市立歴史博物館が開館し、地域研究史料室も開室した。

何だか、伊丹市よりも勢いがありそうな略年表である。

別の年表によれば、平成25年に「国の環境モデル都市」に尼崎が選ばれ、平成30年には「本当に住みやすい街大賞2018 in 関西」で尼崎が一位に選ばれた、とあった。

あらら?それは初耳。伊丹でも「住みやすい街づくり・選ばれる街づくり」と連呼されていて、私はすっかり……(以下省略)。

閑話休題。

伊丹では、尼崎市のことを「あま」と呼ぶ人がいるのに気づき、なぜなのか気になっていたが、今日初めて瓦解。
縄文時代、この辺りは海で、海で働く人のことを「尼」と呼称していた。また、海岸線から「御崎」つまり岬があり、そこから「尼崎」と名付けられたという。
それに呼応するのか、尼芋を貴布禰神社に奉納した写真があった。

古代史に目を向けると、飛鳥時代の7世紀に巨大寺院の猪名寺廃寺が造られ、天平勝宝8年(756年)に猪名の地が東大寺領となり、猪名荘が成立した、という。また、藤原摂関家領の橘御園等、寺社や貴族の荘園が設けられた。
この猪名寺廃寺は、奈良の法隆寺と同じ伽藍配置の寺院で、塔の礎石や大量の瓦、鴟尾の断片が出土されている。

伊丹にも伊丹廃寺があり、史跡公園として整備されているが、尼崎の歴史と対比すれば、もっと理解が多角的に深まっていくことだろう。

東大寺の荘園と言えば、2021年11月11日付・2022年3月13日付の本ブログでも記述したように、水無瀬野にもあった。かつて21年も暮らしていて、東大寺の荘園は水や空気のように当たり前だと思っていたが、ここ尼崎の猪名にも東大寺領があったということは、東大寺が相当な勢力だったことをうかがわせる。

約一時間、幾つかのセクションを見て回った。伊丹市の「ミュージアム」にも、これぐらいの領域が確保されていたらいいのにな…..。「博物館」の機能を縮小して統合してしまうのだから、本当に残念だ。
。。。。。。。
10分程歩いて、今度は尼崎城へ。ここは、櫻井松平氏の4万石、摂津の尼崎城であった。

尼崎城の再建については、平成30年頃、阪急塚口駅のチラシで見ていたが、確か当時は寄付金を募っていたと記憶する。今日受け取ったパンフレットでは、家電量販店の旧ミドリ電化の創業者である安保詮氏が約12億円の私財を投じたという。

城内のパンフレットによると、尼崎城を拠点とする尼崎藩は、摂津国川辺郡、武庫郡、莵原郡、八部郡(現在の尼崎市・宝塚市・西宮市・芦屋市・神戸市南部・伊丹市の一部・川西市・猪名川町の南部)の主に沿岸部を領した藩で、西は現在の神戸市須磨区辺りまであった、という。

私が注目したのは、何といっても、城郭画家の荻原一青氏による、名城手拭の展示。10日前に二泊三日、滞在した名古屋のお城の注染染め。「鴟尾から鯱へ」という会話がメンバーから聞かれたが、名古屋城の近くで生まれ育った私には、最初から鯱。鯱とは、想像上の怪魚で、海に住むので防火の意味を込めて、屋根に据え付けられたという。その名古屋城の尾張徳川氏は62万石。加賀の100万石には及ばないが、まずまずの勢力。
そして、美作の津山城。主人の母方ルーツに近いため、この辺りの歴史にも興味がある。
それから、懐かしい摂津の高槻城。ここは永井氏で3万6千石。高山右近を思い出す。
斎藤氏の美濃の岐阜城も、私の父方ルーツにゆかりがある。さらに、尾張の犬山城。ここはなぜか「美濃」とも表記されていた。(二歳九ヶ月ぐらいの頃、母方の叔父と叔母に連れられ、犬山城へ。小さいクマちゃんのぬいぐるみを小脇に抱えた写真が残っている。)
信濃の松本城は、戸田氏の6万石。いつでも郷愁を呼び起こす信州松本だ。
最後に、豊臣氏の大坂城も「摂津」だとは、私の鈍い感覚では改めてちょっと新鮮。

徳川家康公の等身大風の蝋人形があった。昭和60年作。これは、福山城の展示から借用したもののようだ。
その解説によれば、当時の政治の中心だった京都、大坂に隣接する尼崎は、徳川家康によって西国大名や物流を抑える重要な拠点だったという。そこで、尼崎に築城を命じ、普請をしたのが小姓の戸田氏鉄。江戸時代に今の兵庫県内で天守を持った城は、姫路城と尼崎城のみだったそうだ。(姫路城は、高校の修学旅行で行った記憶がある。名古屋城を見慣れていたせいか、城壁が急勾配だと感じられた。)

個人的に興味を引かれたのは武家の女性の服装で、大奥上や中臈の正装や将軍御台所の礼装が「おすべらかし髪」だったことだ。現在、皇族女性の儀式で見かける髪型とは異なるが、これも「おすべらかし髪」だという。

また、刀剣や銃のレプリカを持たせてもらい、結構な重量感に驚いた。昔の武人達は、小柄であっても相当に心身を鍛え抜いて土地の平定や天下統一に従事していた様子に感銘を受けた。

『尼崎市史』第二巻による戦国時代の松平氏分家の地図では、突然、愛知県の三河地方(尾張や加茂郡も含む)が出てきた。岡崎の南西方面に下ると、桜井という地名が見える。矢作川に沿った地域だ。小学校の授業を思い出し、何とも懐かしい。
。。。。。。。
一時間程で外へ出て、それぞれに解散。最初は、尼崎の方がごちゃごちゃしているのかと思っていたが、城内の訪問者の入り具合やスタッフの対応は、天候の悪さとは対照的に、明るく活発で元気そうだった。

黒い碑があった。『万葉代匠記』の契沖を研究する会が、創立二十周年記念碑として頌歌を刻んだものである。

寛永時代、城内に生まれた契沖は、11歳で妙法寺に入り、生涯を仏に仕えると誓った。高野山で修行した後、学問の道へ。40歳の頃、徳川家康の曾孫である徳川光圀の依頼により、論証による万葉集の研究をし、これが近代を開くことになった。本居宣長も契沖を「古学の祖」と仰ぎ称えたが、契沖は円珠庵に隠居して、定家仮名遣いを正して『和字正濫鈔』を記した。元禄6年(1693年)のことである。光圀の死に殉じて、62歳で生涯を閉じた。

その近くには、また黒い碑があった。これは、転封400年を記念して平成29年に尼崎文化協会が建てた戸田左門氏鉄公顕彰碑である。

元和三年(1617年)7月25日、近江国膳所から5万石で尼崎へ転封され、1635年までの18年間、尼崎に在任。その後、美濃国大垣へ10万石で転じた。
海に臨んだ新尼崎城(琴浦城)を築き、都市計画によって、寺町を含む城下町を建設。治水事業として、左門殿川の掘削、万丈堤防の建設等がある。
稀に見る治世の手腕で、近世尼崎の基礎を築いた。
。。。。。。。
阪急バスで伊丹中央まで戻ると、午後1時5分を過ぎていた。三々五々と途中で別れて行き、最後は一人で歩いて自宅に戻った。

現在も進行中のロシアとウクライナの戦争の余波で、クリーニングの汗抜きサービスが、一着100円近くも値上がりするらしい。まるで、「風が吹けば桶屋が儲かる」式だ。
また、以前はよく食べに行っていた阪急駅の上階にあったお蕎麦屋さんでは、いつの間にか、100円から200円ずつ、メニューの料金が上がっていた。

コロナで経済がボロボロになっている上に、戦争が起こると、日常生活にまで影響を及ぼす。

それでも、史実の資料に基づいて、過去をしっかりと学び、理解しておく必要がある。単純な「未来志向」ではダメなのだ。
。。。。。。。
来月、といっても明日から4月だが、下旬にグランドオープンされる伊丹のミュージアムに関しては、正直なところ、楽しみや期待が半分、不安半分、といったところだ。これまでの博物館を縮小して他の施設と統合するからである。

今の文化庁の政策によれば、どうやら博物館を観光とドッキングさせる狙いがあるようで、つまるところ、史実の研究は脇に寄せて、集客力で資金を引き出すために、エンタテイメント性やお楽しみ要素が前面に出ている。時代に合わせて変革する、と言えば聞こえはいいが、本来、博物館の良し悪しは学芸員次第である、とも言える。

伊丹市に関しては、ここしばらく、酒造の話が大々的に宣伝されている。確かに意味があってのことだが、他にももっと研究調査すべき項目が残っているのではないだろうか、といつも思う。旧家のお宝も、大切に保存すべきではないだろうか。

但し、冒頭の日経記事にもあるように、まずは経済第一、という時代背景にあって、闇雲に古いものをそのまま保存すればいい、というものでもない。そもそも、維持費がどこから捻出できるかが問題だ。非常に悩ましい。

本来、伊丹市立博物館が設立された昭和47年当時、神戸市立博物館はまだ存在せず、兵庫県内で唯一、威容を誇っていたそうである。その頃の出版物を図書館で眺めるのが、私には心地よい。本当の学者が凄い人脈と力量で、並々ならぬ成果を上げていらした時代だからだ。その息吹は、今どこに存続するだろうか?

最後に。会長さんから、また博物館友の会でマレーの研究発表をしてほしい、とご依頼があった。
資料整理にも弾みがつくので、本当にありがたい。

(2022年3月31日記)
……………
2042年8月30日追記

上記のブログを書いたのは、放送大学大学院修士課程に正式な全科生として入学する直前の日だった。
2022年4月上旬からオリエンテーションと毎月のZOOMゼミが始まり、二年目の2023年12月中旬には修士論文をとりあえず提出。2024年1月8日には千葉の本部で口頭試問があった。そして、2024ねん3月27日には東京都新宿区で学位授与式が執り行われた。

「また博物館友の会でマレーの研究発表をしてほしい、とご依頼があった」会長さんからは、その後もお声掛けがあり、「御主人の病気のこと、研究されるんですね」等と励ましていただいていた。
最後にお電話があったのは、「2023年8月からしばらく友の会の例会出席を論文執筆のために休会させていただきたい」と、メール連絡した時のお返事だった。

いつも細やかにお心遣いをいただいたおかげで、私は友の会で二度も研究発表をさせていただき、『友の会だより』でも余所者の新参者としての目で伊丹のさまざまな様相を毎号のように綴らせていただいていた。

西田朋一会長さんは、2024年8月5日、肺炎が元でご逝去されました。謹んで感謝と共に魂の安からんことをお祈り申し上げます。

(2042年8月30日記)

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機を逃さず一期一会で

昨晩遅く、4月から受講する放送大学大学院の登録授業科目のテキスト三冊その他が届いた。郵便配達の人も大変で、(ご苦労様)と、いつも思う。

2022年3月27日付の本ブログでも書いたように、3科目のうち2科目は、それぞれ第一期目と第三期目に受講した二人の同講師の復習に相当するが、今年度用に新たに書き直したテキストだったり、従来の改訂版だったりするので、楽しみだ。

第一期目に受講した科目の方は私の指導教授で、テキストをパラパラとめくってみると、確かに書き替えられた箇所があり、新情報も追加されていて、やりがいのありそうな復習形式になっている。先生によれば、現在のコロナ感染症問題の本当の影響は、もう少し先に現れてくるとの見立てだ。

また、2022年1月21日付と2月18日付の本ブログで書いた、第三期目で不満を覚えていた科目の場合、中間の通信指導と期末の単位認定試験の両方ともレポート形式だったが、今度は内容も刷新され、答案がマークシート式に変更されていた。

私みたいな受講生だと、先生もやりにくいのかもしれない。テキストに写真まで掲載されていた「柿衛文庫の展示を過去に複数回、隈なく拝見したが、現在は工事中のために閉館されている」と、受講生から反論されれば、指導のしようもない。ただ、私に言わせれば、「自由に論じてよい」と出題で指示しておきながら、「鬼貫はダメで芭蕉を書け」と低い成績評価にするとは、合格はしたものの納得できなかっただけだ。

とりあえず、初心に戻って、素直に吸収しようと決心している。

第三期目はいろいろ他事で忙しくしており、充分に課題のおさらいができていない。インターネット講義も、iPhoneの音声機能が、何もしていないのに勝手に不可能になってしまったので、第二期目までのように、寝ながら聴講することができず、まだ残っている。さらに、自習問題も全科目が終わってないので、これから取り組む予定。
………….
さて、今日は博物館友の会の方からご連絡があり、4月中旬にリニューアル・グランドオープンされるミュージアムの事前見学のお誘いがあった。また、コロナ問題で延期に延期された隣市の博物館やお城を見に行く予定が、明後日、ようやく実現しそうである。

「できるうちにできることを、機を逃さずに」というのが私なりのモットーだが、博物館友の会の活動は誠にありがたい。私のちょっとした一言でも、おじ様方はきちんとキャッチされて、漏れなく連絡網でコミュニケーションを取ってくださる。

自宅で一人でインターネットに向かって勉強するのは、効率的なようでいて、社会との接点が極度に減ってしまう。これでは、何のためにここで暮らしているかの意味がなくなり、気の巡りも効率もよろしくない。
ということで、今後も無理のないように両立できればと願っている。
………….
3月26日には、3月13日付の本ブログでも綴った水無瀬野の散策との連動で、今度は京都府立京都学・歴彩館(北山)へ、桓武天皇を巡る講演二つを聞きに行った。主催は古代学協会で、「古代宮都歴史散策事業」の第三回に相当する。二週間前の水無瀬野散策は、30名定員に対して70名の応募があり、私は運よく抽選に当選した。そして、講演会の方も100名定員で、参加者多数の三人掛け。中高年中心だったが、皆さんとても熱心だった。

講師のお二人とも、この桓武帝の専門家としてプロ中のプロ、といった感じで、非常に充実した内容を、それぞれ1時間以上、熱く語っていただいた。

水無瀬野で暮らしていた頃は、当たり前のように京都や梅田に出かけて行ったが、兵庫県からは、乗り継ぎもあり、やはり遠い。毎日通勤している主人の会社の人達には、その意味で驚かされる。

北山と言えば、2004年3月に京都コンサートホールにて、当時まだケルン音大生だった庄司紗矢香さんが、ロンドン交響楽団と故コリン・デーヴィス指揮で、シベリウスのヴァイオリン協奏曲を奏でた時を思い出す。今回、本当に久しぶりに前を通ったが、あれから18年が過ぎ、このホールへも案外に行けそうで行けないものなんだ、と思った。

何事も一期一会。そういう意味ではあまり後悔はないが、これからも心していきたい。
。。。。。。。
2022年3月30日追記

(https://www.facebook.com/公益財団法人古代学協会-405359799519678)

公益財団法人古代学協会
2022年3月29日投稿

先週26日(土)京都府立京都学・歴彩館 小ホールにおいて第3回宮都歴史散策事業講演会「造都と征夷」を開催致しました。
80名のご参加をいただきました。
清水みき先生(古代学協会客員研究員)の、関係史料を丁寧に詳細に読み解いた「桓武天皇の長岡京遷都と藤原種継」に続き、鈴木拓也先生(近畿大学教授)「桓武朝の征夷と平安遷都」は語り口も軽快で、これまであまり一般には知る機会の少なかった蝦夷について丁寧に論じられ、桓武朝の征夷の実態についても分かりやすく話してくださいました。
受講者から、「もっと聞きたかった」との感想が多く寄せられました。時間が足らず、講師の先生方にも受講者の皆様にも申し訳ないことをいたしました。

(2022年3月30日転載終)

二枚、お写真を転写させていただきました。いつの間にか、しっかり私が写っています。夢中になって真剣に取り組んでいる時って、私はこんな後ろ姿なんですね?

(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)

2022年3月30日投稿

・古代学協会様からシェアさせていただきました。
私はどこにいるでしょう?

・こちらも転写させていただきました。
楽しげで熱のこもったご講演でした。こういう角度からのお話、新鮮でしたよ。

(2022年3月30日転載終)

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名古屋の神社散策

名古屋に戻る度に新たな発見があり、尽きることがない。

時間が限られているので、毎回、目的や焦点を絞って歩き回っている。ここ数年、名古屋駅から栄までの広小路通等、江戸時代や明治・大正期の当該地域の史実を描いた看板が並んでいる界隈では、逐一立ち止まって写真を撮るのに忙しい。

記憶に間違いがなければ、小中学校で詳しく習ったことはなかった事項だ。恐らく、もしも明治や大正生まれの祖父母達の話をもっとたくさん聞いていたならば、自然と学び、吸収できたことが多かっただろう。

子供時代から学生時代にかけて、人生で最もたっぷり自由な時間があるように見えながら、実は学校の時間割に沿って、部活動や習い事その他の用事に追われ、常に限定された時間と地理範囲内で、忙しく行動していたに過ぎない。
第一、名古屋市内の小中高生なら、街路で遊び回る姿等、まずない。道端でのびのびと走り回っているのは、郊外の子供達だった。
………….
さて、歴史を知るに手っ取り早い方法は、神社である。今回は、どぶ川のように見える堀川周辺の古い神社を4社、見て回った。

神社と言えば、名古屋市内の場合、高層ビルに挟まれて、どこもコンクリート造りで整えられ、人工的に縮小された感が否めない。関西で私共が暮らしていた大阪府下の小さな町の小高い山にある古社や、主人の父方祖母の実家がある岡山の山間部の村社などは、いかにも自然そのままに聳え立つ威風堂々とした造りで、古いものを大切に守り伝える貴重な信仰の場である。

私は両方の経験ができて、誠にありがたい。

神社の良い点は、古刹の寺院と異なり、境内を一周しても大抵、10分から20分程で済むことである。そのように敷地が規定されているのかもしれないが、その後の理解や学びには、また別の努力を要する。
…………..
まずは、福島正則公の立像を。

慶長15年(1610年)、名古屋城を築城する際、熱田の海から物資を運び込む水路として堀川を掘削したのが、武将だった福島正則公だ、とホテル備え付けのプリントに書いてある。

名前は中学で習ったものの、銅像は恐らく私が関西に移ってからできたものであろう。案外に小柄だが、威風堂々とした風格がある。

伊藤正博氏の撰文による石碑の説明を咀嚼してみる。

永禄4年(1561年)、愛知県海部郡(現在「あま市」)で大工の息子として生まれた。若くして豊臣秀吉公に仕え、賤ヶ岳の戦いで七本槍の筆頭の手柄を立て、出世していった。加藤清正公と共に、秀吉公の子飼として活躍。35歳で24万石の清須(清州)城主となった。関ヶ原の合戦では東軍に加わり、40歳で広島等を領有する50万石の大名に。

近くの納屋橋掘割跡の石碑を参照しながら略述する。

一級河川の堀川界隈には、江戸時代に尾張藩の藩倉が建ち並んでいたという。明治40年、国際通商港として開かれた名古屋港には、堀川の水運を利用して輸出品が集結された。輸入品も、堀川を上る船によって運ばれた。荷物の積み下ろしをする拠点として、納屋橋河畔にT字型の堀割が掘削された。水路は石組みの堅牢なもので、昭和20年の名古屋空襲で倉庫が焼失するまで、活用されていたという。倉庫の敷地は、天王崎町、堅三ッ蔵町の一万五百余坪に及んだ。

納屋橋は、子供時代から大学院一年の頃まで、週一回は通っていた界隈だったのに、この歴史を殆ど知ることなく来てしまったのは、一体、どうしたことだろうか?もっとも、アーチ橋は有名で、三大豪傑の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の紋が飾りとして添えられているのは知っていた。

清須城(清州城)から名古屋城に移転するのは大事業だっただろうが、徳川家康の命により、堀川を考案して人員を動員したとは、子供時代には想像もつかないことだった。今回は行けなかったが、堀川を南に下った鹽竈神社は、その築城の安全祈願として建立されたという。

神社とは、例えば公共事業を起こす際に、無事に完成し、工程の安全が守られるよう、さまざまなを祀りと祭りを通して祈願するために建てられると理解しているが、果たして、無事に築城したということは、神社祈願が功を奏したという意味だろう。

堀川は、朝日橋から宮の渡しまでの約6キロメートルが開削され、熱田の湊と城下町を結んだ。洲崎橋付近の水主町(かこまち)は、船奉行や水軍関係者の屋敷が多かったという。橋は七ヶ所に架けられ、「堀川七橋」と呼ばれた。その一つが上述の納屋橋である。他は、五条橋、中橋、伝馬橋、日置橋、古渡橋、そして尾頭橋である。

堀川近辺は、今や煌びやかな高層ビルが所狭しと建ち並んでいるが、その反面、真っ黒な川沿いには、ところどころに、昭和50年代ぐらいの古びたアパートや家屋がまだ残っている。

以下の神社のうち、1⃣から3⃣までは、ほぼ定宿としているホテルのフロントにあったプリントから、所在を知った。ウェブ情報によれば、この名古屋城から熱田神宮へと流れる堀川の領域には「堀川断層」があり、名古屋城、白龍神社、洲崎神社、泥江縣神社、断夫山古墳、熱田神宮と地図上で辿ることができるようだ。

そういう風に学校でも習いたかったな…..。教科書がそうではなかったので、仕方がない。

1⃣ 白龍神社(中村区名駅南)

主祭神:素戔嗚命、高龗神(二柱の総称「白龍大神」)

福島正則公に先立つこと7年、柳橋辺りの村に熱病が流行した慶長8年(1603年)、「此の美しき良きところに大神をお祀りすれば、萬民の苦疫を救い、幸をたれ給う」とのご神示が下った。そこで、江川の柳の木の下に御神木を奉って祠を建てて拝んだことが由来だという。その後、柳の寿命が尽きたため、銀杏の木に遷座された。人々の崇敬が広まり、御神徳があり、二柱の神を「白龍様」「白龍さん」と親しまれるようになったとのこと。

戦時には、名古屋大空襲を運よく避けられたが、都市計画のために、昭和37年4月、現在地に御神木と共に80メートル遷座されたようだ。疫病を払った地元の守り神として人気があるという。

ウェブ情報で検索したところ、神社巡りでレポートを書いている人がいた。それによれば、「高龗神」は「たかおかみのかみ」と読む。「龗」(おかみ)は「龍」や「水」の古語で、すなわち、龍神の意である。山の上に降る水をつかさどる神だとのこと。京都の貴船神社の主祭神で、大和神社の摂社である高龗神社は、水神の総本宮だったとも言われているらしい。

この神社の御利益は、金運と健康と厄除けだとされる。「仕事御守」が並べて飾ってあった。

奥宮には白龍王初春姫大神を祀り、中社では白徳明王大神と白遍智徳大神を祀っているという。「おもかる石」の貼り紙があった。「軽いと願いが叶いやすく、重いと叶いにくい」そうだが、私はノータッチ。

名古屋には戦前、多くの白龍社があったようだ。次の洲崎神社にも白龍神社があって、この白龍神社と関係があるらしい。

2⃣ 洲崎神社(中区栄)

主祭神:須佐之男命、五男三女神、稲田姫命、布都御魂命

古くからこの地で奉られていた石神の導きで、須佐之男命を祭祀したのが始まりだ、とホテルのプリントにあった。ここは、縁結びの石神様、商売繁盛の白蛇様などの御利益満載とのこと。

白い立看板に「白龍龍壽社」とあった。

ここも疫病退散の神社で郷社。貞観年中の859年頃の創建。社文書には「洲崎神社は往昔出雲国稲田宮の神を移し祭りて洲崎の鎮たりと云」とあるという。明治以前は、廣井天王、牛頭天王社、天王崎神社とも呼ばれ、昔は海に面した洲崎にあったようだ。所蔵の和鏡は、名古屋市指定文化財だという。

名古屋城から熱田神宮までの二本の断層に挟まれた熱田台地には、古代の祭祀場や古墳・古社等が点在するらしいが、その一つに位置する。

境内には、古い文書や新聞記事のコピーや絵図の抜粋がたくさんケース棚の壁に貼ってあったが、よく読めないものもあり、残念だ。

興味深かったのは、毛筆で書かれたガラス張り木枠の標識だ。

この地が廣井城跡であり、「天文年中まで城主中村氏」で、それ以後は「社家が廣井村を支配」した、とあることだった。天文年間といえば後奈良天皇の御代であり、室町の足利将軍時代の16世紀中葉に相当する。
また、文久二年(1862年)に、尾張藩主の徳川慶勝公が建立した「三霊神社遺跡」でもある。これは、全国別格官幣社創建の先駆となったという。孝明天皇の御代だ。
さらに、享保年間(1716年から1736年)に建立された「御舟方役屋敷跡」もあった。江戸幕府の将軍徳川吉宗公の時代だ。
そして、慶長15年(1610年)、この地で祈願祭をした「堀川初開削の地」である。後水尾天皇の御代で、豊臣秀吉・秀頼や徳川家康・秀忠の時代だ。
最後に、天王崎港跡である。

これら一連の記述が、どのような意図で並べられているのか、不明ではある。もっと順序よく時系列に整理していただけると、ありがたい。
と思ったが、想像するに恐らく、この土地の代々の責任者にとって意味を持つ重要性のある出来事から順に並べたのであろう。

境内には「明治神宮遥拝所」の石柱が建てられていたが、どのような祭祀なのかは不明だ。

廣井天王崎祭についての貼り紙には、大意として「昔、この地が名古野山、西南の洲崎にして、阿波手の浦より船の通路があった頃、ここに入津した出崎だったので、天王崎と呼んだ」という。そして、尾張徳川家第七代藩主の徳川宗春公と廣井天王崎祭の古文書コピーも添えられていた。この天王祭は、東照宮の時代祭と共に、江戸時代には二大祭だったようだ。

境内には、他にも「全国道祖神の元神なる洲崎道祖神の猿田彦大神」の石神や、「みちびきの神」があり、織田信長が清須城(清州城)から桶狭間に至るまでに通ったと言われる道の一つの「信長攻略」の置物もあった。

小さな低い石柱には、「天壌無窮」と彫り込んであった。

この近辺には「御船手役所跡」の立看板があり、その解説によれば、「この地は、かつて尾張藩の御船手役所が置かれた」という。つまり、「尾張藩海軍の根拠地」だった。弘化4年(1847年)の記録によると、奉行の配下に、船軍者、船手改役、船手与力、大船頭、船頭、船大工、水主等、合計153名が所在し、代々、千賀氏が船奉行として艦船を掌握。尾張、三河、伊勢、志摩に至る海岸の防衛に従事したという。

3⃣ 泥江縣神社(中区錦)

主祭神:応神天皇、神功皇后、三女神

創建は清和天皇の貞観元年(859年)で、洲崎神社とほぼ同年頃。社伝によれば、豊前国宇佐(大分県宇佐市)の八幡宮の分霊として勧請したという。『尾張本国帳』には「従三位泥江縣天神」とある。清州越し以前から名古屋城下の熱田台地に鎮座。名古屋でも南西角にある熱田神宮に次いで古い神社らしく、昔は、御園町、伝馬町、蔵町、材木町等、名古屋城近辺まで広がる八丁四方の大きな神社だったそうだ。慶長の検地や町割や戦後の道路整備等で減少してきた、と立札にある。

天正の頃から廣井八幡宮と呼ばれ、藩主や民衆の崇敬を集めた。第七代藩主の徳川宗春公の頃には、境内に芝居小屋もあったらしい。祭礼日には、神輿が傘鉾を従え、丸の内一丁目の白山社へ渡御し、山車も出た名古屋名物だった、と書いてあった。

昭和20年3月19日の名古屋戦災で社殿等が烏有に帰し、昭和41年不審火で再度焼失。幸いにも御神体は無事だったので、再興して今日に至る、という。

今や高層ビルに挟まれて、夕方暗くなってから初めて行こうとするならば、見つけにくい。鳥居や燈籠や石柱に刻まれた年号は、それぞれ、明治17年8月、明治39年8月、大正8年9月、大正9年5月、昭和56年5月であった。

4⃣ 朝日神社(中区錦)

主祭神:天照皇大神、天児屋根命

御由緒によると、伊勢の神宮の神領地(御園)だった清須城(清州城)下の朝日郷に鎮座されていたが、名古屋城の築城に伴い、慶長16年(1611年)夏、徳川家康公の請願により、正室の朝日姫様の氏神であるこの神社を、城下町碁盤割の守護神として、氏子と共に、本丸の真南の現在地に移築遷座された。城下町碁盤割の唯一の神社として、清州越しの士民の崇敬を集めたという。

古くは、神明社、広小路の神明宮、広小路の朝日神明宮と称していたが、清州越しを後世に伝えるために「朝日神社」と改称。

万治3年(1660年)の大火により、武家屋敷も類焼して碁盤割が焼失したため、防火帯として、道路の拡幅を行った。これが広小路通の由来である。
現在の広小路通は一大繁華街だが、従来は神社仏閣の境内で行われてきた芝居小屋や見世物や露店が広小路通で奨励されたため、この神社の門前町となった。近くには芸者街があり、検番や置屋が軒を連ねていた。

この神社は、昭和初め頃の4000余の県内神社の調査によれば、参拝者が4番目に多い神社で、名古屋市内では熱田神宮に次いだという。

明治元年3月、明治政府の神仏判然令により、近くの寺の村社だった子守神社や児宮神社を境内に移築し遷座した。村社を摂社にすることで郷社となった。

また、城内から那古野神社、東照宮が旧藩校跡地に遷座されたことで、氏子区域も伝馬町、宮町(飯田街道)まで下がり、東の久屋町、武平町、南は南呉服町、南伊勢町、南大津町、南鍛冶屋町、南久屋町、南武平町、大阪町、七曲町が加えられ、栄町を中心に22町の産土神(総鎮守)となった。

斜め向かいの尾張藩の牢屋敷に引き立てられる罪人を神様に見せないため、不浄除けと呼ばれる透かし塀が江戸中期に建てられ、今も現存している。

戦災により、本殿等の主要建造物は烏有に帰したが、御神体は防災蔵に避難し、一部の宝物と共に安泰だった。その後、昭和28年7月には御本殿、祭文殿、拝殿、末社5社が再建された。また、昭和54年10月には、斎館と職舎が新築された。昭和61年10月には、昭和天皇御在位60年を奉祝して、御本殿、祭文館、拝殿を後方に移築し、神輿庫も建てて、境内整備を行った。
……………
以上、滞在中に撮影した写真やホテルのプリントを参考に、簡単に旅まとめとしての記録を残すつもりだったが、予想以上に時間がかかってしまった。

繰り返すように、この界隈は、父方祖父が岐阜から出てきて裸一貫で本籍を置いた地域だったこともあり、子供時代から馴染みのある場所だったはずである。ところが、どういうわけか、以上の史実を私は殆ど理解していなかったのだった。

私の学生時代には、名古屋を小馬鹿にする全国キャンペーンがメディアを中心に展開しており、自分でも腐った気分でいた。だが、そういう逸脱したネガティブ・キャンペーンは、そもそも史実を知らない人が勝手に作り上げたものである。名古屋史を知らないということは、尾張藩史を知らないということであり、ひいては、天下統一三大豪傑が活躍した尾張地方を起点とする、中世から近世に至る日本の国史が全く理解できていないことを意味する。

つまるところ、私はまだまだ勉強不足だということであった。

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名古屋滞在の補記

一週間ほど前の二泊三日の名古屋滞在の補足として、小学校5,6年生の担任の女性の先生主導による「グループ学習」について、思い巡らしたことを少し記す。

御主人の方は、性格も暮らしぶりも卒業後の進路も全く異なる私達二人の思い出話を聞きながら、その実践の困難さと学習効果の有効性について、いささか疑念を持たれていたようだった。
勿論、私自身、それは承知済みである。ある面で、高度経済成長期にあった時代の公立小学校だったからこそ、思い切った実践が可能になった一種の試みだったかもしれない。

また、私の家については、両系の祖父母が岐阜由来の千種区在住だったので、代々当該区に住み着いていた子孫ではなかった点も、考慮すべきであろう。

確かあの頃、同じ学年は4クラスだったと思うが、4組の中年の女性のN先生は、いかにも古典的な意味での「上品な女教師」風で、まだ30代初め頃の私の担任の先生とはあまりかみ合わない印象が、子供心にもあった。

仮に私が4組に編入されていたとしても、子供ながらに自分なりの適応力を発揮して、そのN先生のご指導下で、一種の「優等生」を目指して、おとなしく几帳面で真面目で従順な自分として育ったに違いない。そして、漢字の書き取りや読書量や算数の問題を解く速さや量は、私の担任の先生よりも遥かに能力が伸び得ていた可能性が考えられる。

但し、その場合、その後の高校までの学校生活で経験したことの雛型だったというだけで、人生途上のワクワク感や面白みや自由闊達な独自性という側面はなかったことであろう。

振り返れば、一定の地区内に居住しているというだけで、社会階層や家庭状況もさまざまな子供達が校舎に集まるわけだ。そして、文部省(当時)のカリキュラムと指導要綱に沿って、同一教科書を配布して、同一給食まで提供して同じ教室内で一斉に指導。その上で、個別に相対評価あるいは絶対評価で成績をつけるという作業は、実に困難を極め、その子の人生を大きく左右するという意味で、責任重大ではある。

結局は、学校教師のみが教育に関与するわけではなく、家庭教育との連携や統合によって、一人の個性や能力が伸ばされたり萎縮させられたり、場合によっては歪んだりもするのだろう。

それに加えて、その子が本来内包している強さ(最近はやりの言葉では「リジリエンス」)や個性や感受性等によっても、その後が規定されることだろう。

私立中学を受験する層は、東京や関西では昔から普通に観察されるが、最近の名古屋でも3割になったそうだ。裕福な階層が進学するのみならず、私学助成が増えたためでもあるようだ。

私の世代では、クラスに一人だけ、名古屋市内の私立女子中高一貫校を受験した子がいて、さすがの先生も、その子には休み時間に算数の問題集の解き方を個別に指導されたりしていた。
その子が、その後どうなったか?それについても近況を少しうかがうことができたが、私とは別段関わりがあるわけでもないため、ここでは割愛する。

私の場合は、小学校6年生の二学期で名古屋市郊外に引越して転校したが、新しい小学校では、いわゆる4組のN先生風の授業が普通でもあった。中学ならば、それぐらいの集団的規範性があった方が、かえって全幅の信頼を持って学校課題に集中でき、名古屋市内の中学生達に引けを取らない成績を上げることができた。

人間的成長としては、名古屋市内の中学生の方が、いわゆる「おませ」ではあった。その代わり、その後の人生にどのように影響するかは、測り難いものがある。

保守的な農村部だから学業が遅れている、ということにはならないことの証明だ。かえって、変な盛り場や遊び場が近くにないため、環境が良く、素直に落ち着いて過ごせるという安心感があった。保護者にとっては最もありがたいことだろう。

中学で「グループ学習」等は、実践し難い。というのは、思春期で些細なことにも感受性が高い時期であり、あっという間に高校進学の進路指導も始まるからだ。悠長に「お互いに学び合い、教え合いましょう」なんて、やっていられない。すぐに始まる、厳しい生存競争の人生の入口に立っているのだ。

私の担任の先生は、その後、隣の区(つまり、先生ご夫妻の居住地)の小学校に転勤されたが、「あなた方の時代が、私にとっても一番印象的だったのよ」と、結婚式にお招きした際、電話で言われた。

思い出深い先生だが、今の私の素地を引き出して、育て導いてくださった大切な恩師であることは間違いない。

先生のご自宅内には、天井近くの二ヶ所の壁に、両系の御両親4人のお写真が飾ってあり、スポーティで颯爽とした雰囲気のショートカットの先生の御遺影が間にあった。これは、昔の和風の日本家屋で通常見られる形態である。そして、二人のお子様と制服姿や大学合格のお孫さん方の大きなお写真が、あちこちに飾ってあった。

御主人は一人暮らしだが、このように思い出に囲まれながら、過ごしていらっしゃるようだ。

どうぞお疲れの出ませんよう、お大事になさってください。ありがとうございました。

2022年3月30日補記:時代の変遷に伴い、日本の国力低下が案じられる昨今、私の考えも伝統的な保守的思考に戻りつつある。

(https://twitter.com/ituna4011/status/1508962153642233858)

Lily2@ituna4011
高校教科書検定、「主体的学び」深化 入試や指導力課題: 日本経済新聞 https://nikkei.com/article/DGXZQOUE25B4U0V20C22A3000000…

⇦ 基礎的な反復学習と暗唱力が先決では?

9:19 AM · Mar 30, 2022

(2022年3月30日転載終)

(www.facebook.com/ikuko.tsunashima/)

2022年3月29日投稿

出題を見ていないが、平均点は、私の高校時代と比べても低過ぎないか?そういうものだったのかもしれないが。
大学名のみ過去の威信を借りても、内実が…。特に、外国語科目は作為性を感じる。

(2022年3月30日転載終)

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春のお彼岸 in 名古屋

まずは、フェイスブックのメッセージ・リストから転載を。

2022年3月23日 ユーリからS・H様宛メッセージ 

H様、いつもありがとうございます。三連休、名古屋へ行きました。確かに、いろいろと考えさせられることが多く、帰宅後もずっとぼうっとしております。東山動物園、行って参りました。昔と違って、動物の雄叫びや匂いもせず、小ぎれいに整っていました。ゴリちゃんは時間切れで見られませんでしたが、その代わり、絶滅の危機に瀕しているという鳥や動物の檻を見て回りました。スカイタワーへも上り、名古屋の発展ぶりに目を見張りました。大勢の家族連れで賑わっており、名古屋の方が、大阪や京都よりも経済的に活気があるように感じられました。また、人々の服装がきちんとしており、応対が丁重でてきぱきしていることにも気づかされました。また、ブログにでも感想を綴ってみたいと思います。取り急ぎ、ご報告まで。

(2022年3月27日転載終)
……………
かれこれ早くも10日程前のことになる。

3月18日の金曜日の午前中は、主人から引き継いだ証券会社二社に電話で問い合わせ。これが、やたら時間がかかった。

そして午後、曇り空から風雨に変わった中を、主人の実家のお墓参りに。結婚してから年に4回の恒例行事で、かれこれ96回以上ということになるが、こんな雨降りは初めてだった。
家に帰ると疲れ切ってそのまま休んでしまったが、翌朝は早起きして、名古屋行きの準備。

これで4度目になる。春のお彼岸には、父方母方両系の曽祖父母の代からのお墓詣りとして、平和公園へお花を供えに行くことにしている。平和公園の敷地は広々としており、母方が北の方で、父方が南の方なので、歩くと相当な距離になる。だが、最初が大変だっただけで、慣れれば何てことはない。

以前はいつでもどこでも時間節約が第一で、移動は常に新幹線(か飛行機)。でも、このお墓詣りには、お花代にたっぷりと使いたいこともあり、大阪駅から名古屋駅まで高速バスを利用している。決して資金不足ではなく、行路で違う景色が楽しめることこそ、私にとって来し方行く末を振り返る上でも必要不可欠な、大切な時間なのだ。

乗客は大方、若い人中心だが、コロナ感染症問題がある中でも、静かで清潔で、なかなか快適。今回も、二月頃に予約しておいたホテルと高速バスで、スムーズだった。

(帰路のみ注記を。どこも屋根付きで、きれいに整備されたバス停になったものの、本数が極度に減った名古屋の市バス。これが遅れに遅れたため、地下鉄駅の前で偶然にも拾えたタクシーに乗って、宿泊ホテルに荷物を一つ預けてあったのを受け取り、そのまま同じタクシーで駅前の高速バス待ち合わせ場所へ。信号待ちが多くて、結局は出発時間の4分遅刻。もう出てしまっているだろうと、最初は諦めていたのだが、何と、後の高速道路の渋滞にもかかわらず、待っていてくれたのだった。「定刻主義」と運転手さんに注意はされたものの、そもそも、名古屋の市バスが10分以上も遅れたのが原因。帰りしなに、もう一度謝ったところ、気持ちよく笑顔で送り出してくださった。感謝。)
…………….
二泊三日の名古屋のことを書きたいと願いつつも、冒頭のメッセージにも記したように、帰宅後は、どっと疲れて二日程、ぼうっとしていた。考えることが、あまりにも多過ぎて、まとまらなかったのだ。

平和公園へのお墓詣りもさることながら、今回の主目的は、小学校5,6年の時の担任だった女性の先生が昨秋75歳で逝去されたため、ご自宅にお参りに行くことだった。

小学校3年から6年まで四年間、同じ組だった子で、今もずっと市内の同じ区に住み続けているOちゃんへも、昨年11月、喪中葉書が届いた時に長電話をして、私から誘った。

実はOちゃん、私が想像する以上に、最初はためらっていたようだった。昨秋には思い出話が弾み、「じゃ、近所の男の子達にも声かけてみるわね」ということだったので、お年賀状にも「行きましょうね」と私は書いたのだが、お返事はなかった。(あれ?)と思い、こういうことに無理強いは無意味、と一人で行く予定にしていた。

直前になって電話がかかってきた。「ユーリちゃんは絶対行くとわかっているけど」「ユーリちゃんはいいけど」「ユーリちゃんはきちんとしているけど」と、何やら躊躇いがあったようだった。結局のところ、私の誘いが功を奏して(?)、一緒に行くことになった。
京都での私の結婚式に、先生もOちゃんも出席してくれたが、それ以来、24年4ヶ月ぶりの再会になる。

地下鉄の駅で午前9時半に待ち合わせていたが、まさにジャスト・オン・タイム。申し合わせて、二人とも喪服にベージュのスプリング・コート姿だったが、全然変わっていなくて、お互いにすぐに識別できた。
…………….
上述のように、名古屋市内は、市バスの停留所が屋根付きで統一的に整備されるようになって驚いたが、もっと驚いたのは、見た目のきれいさに反比例して、バスの本数が著しく減ったことだった。
そのため、Oちゃんが電話でご主人を呼び出して、車で先生宅近くまで一緒に乗せてもらうことになった。

そのご主人がまた「イケメン」でびっくり。どうやって捕まえたのか、後で聞くと、スキーで知り合ったようだ。Oちゃんは実にお盛んというのか、自分が人生に求めるものには積極的でストレート。活発だったんだな、と改めて感じ入った。

Oちゃんとは、小学校の後は、中学も高校も進路が全く違ったが、時々手紙のやり取りをしていた。私が大学に入ってからも、積極的に「あそぼ」「会おう」と声をかけてくれて、それだけでも私はありがたくて、いつでも同意していた。今回、久しぶりに7時間ぐらい、一緒にいろんなことを喋り続けて、Oちゃんの新たな側面にも気づかされた。

そもそも、Oちゃんには、恩義を感じていることがある。小学校三年生の時だ。算数の授業で二桁の割り算(筆算)がどうしても理解できず、私はテストで悪い点を取った。母に叱られるとびくびくしていたが、それ以上に、その時の担任の女の先生の説明が、どうにも要領を得なかったのだ。

先生もイラついていたが、私はそれ以上にイラついていた。

そこへ、珠算塾に通っていたOちゃんが、休み時間に「先生のやり方ではなくて、こっちの算盤式で考えた方がわかりやすいよ」と、さらさらとノートに書きながら、実に手際よく説明してくれたのだった。
Oちゃん式に従うと、私でも満点がすぐに取れるようになった。

結婚式にお招きしたのも、その時の御礼のつもりだった。なんせ、小3の算数で落第していたら、二十代前半の大学院どころか、私は義務教育も終えられなかった可能性が高い。

誰がどこで自分を助けてくれるか、わからない。友達は大切に。それ以来、私のモットーだ。
……………
Oちゃんのイケメンご主人の車で、約束通り、先生宅近くのバス停から電話をし、直接ご自宅へ。イケメンさんは、私の神戸プリンのお土産を受け取った後、颯爽と帰って行った。ちょうど10時2分着。

ぐずぐず躊躇っていた割には、Oちゃんの方がずっと慣れた風に、先生の御主人と調子よく話し始めた。どうも、いつ頃だったか、(小6の二学期の終わりに私は名古屋市郊外に引越したために誘われなかったが)、随分前に、Oちゃんは数名で「先生とこ遊びに行こう!」と来たことがあったらしい。

それに、名古屋市内で全ての用事が済ませられるせいか、全体的な態度として、名古屋の人は、よそ者には誇り高い雰囲気を漂わせているところがある。まるで、大阪や京都よりも名古屋の方が格段に上等で、何でも揃っているかのような、充ち満ちた自信を醸し出しているのだ。だから、余計に先生の御主人とトントンと相槌が弾んでいるように、私には聞こえたのかもしれない。

閑話休題。

乳がんから転移された先生のことは、御主人が長らくご自宅で介護されていたそうで、今は一人暮らし。10時過ぎから二時間半、三人で思い出話や家族のこと等、自由に話し込んだ。

私が何かを言うと、途中で御主人が「お~い、聞いているか?」と御仏壇に向かって話しかけていたところも、お幸せなご夫妻だったんだな、と思わされた。

名古屋市内の小学校で知り合った教員同士の職場結婚。ご長男だったので、一人娘さんの先生を嫁にもらうことには親御さんが大反対。結局のところ、教員組合の司式による人前結婚だったそうだ。

NちゃんとY君という二人のお子さんの話を、先生はまるで家族のように私達にも話してくださっていたが、今や遠方に住まわれ、お孫さんもいらっしゃるようだ。

御主人には「教員を辞めて、家で子供を育ててほしいと思ったこともある」そうだが、50歳の時、御主人が教育委員会で人事担当になった際、夫婦共に教員では都合が悪いということで辞職されるまでは、三つの小学校で教鞭を執り続けられたそうだ。その後は、スクールカウンセラーとして、引きこもりの親子の相談に従事されていたとのことである。(ちなみに、引きこもりは親に原因がある、とのことだった。)

「愛知の管理教育」とよく言うが、日教組は公立学校の教員は全員加入。だが、メディアがいうほどでもなく、愛知県や名古屋市は「右寄り」だとも、御主人はおっしゃった。
…………….
岐阜県の各務原市出身の先生の御実家は曹洞宗で自衛官だったが、先生は聖書も読んでいらしたとのことだった。

だから、小学校でも大胆に、私達に「マイム・マイム」のフォークダンスや「シャローム・チャベリム」の歌を教えてくださったのだ。『アンネ・フランクの日記』の紹介で、アウシュビッツの話もよく覚えている。
このことをユダヤ系の知り合いに言うと「日本では小学校でマイム・マイムを教えていたのか?」とびっくりされた。先生は、先進的な教育の試みをされたのだった。

ここで、過去ブログを参照。

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20070728)「ギル・シャハムとイスラエルと聖書」

《「マイム・マイム」そのものは、小学校5年の時、担任のK先生から教わり、6年生の終わり頃、転校する私のために開かれたお別れパーティでも、「ユーリちゃんの好きなフォークダンスしようよ」という話になって、クラス中で手をつないで踊ったことは、まだよく覚えています。》

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20120308)「引っ越し記念日」

《転校前のお別れ会で、担任の先生が私に何を望むか尋ねたので、「マイム・マイム」を皆で踊りたい、と(参照:2007年7月28日付「ユーリの部屋」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070728))。フレアースカートをひらひらさせながら、得意顔で輪になって、教室内で踊っていたことを覚えています。ありがたい思い出ですねぇ。クラスのほとんど全員が、色紙に言葉を書いてくれ、その他に、手作りのプレゼントをいっぱいもらいました。》

(https://itunalily.hatenablog.com/search?q=アンネの日記)

https://itunalily.hatenablog.com/entry/20141024

https://itunalily.hatenablog.com/entry/20140513

https://itunalily.hatenablog.com/entry/20140331

https://itunalily.hatenablog.com/entry/20140315

https://itunalily.hatenablog.com/entry/20140306

https://itunalily.hatenablog.com/entry/20140304

https://itunalily.hatenablog.com/entry/20140228

https://itunalily.hatenablog.com/entry/20140227

https://itunalily.hatenablog.com/entry/20140226

https://itunalily.hatenablog.com/entry/20140225

https://itunalily.hatenablog.com/entry/20140224

https://itunalily.hatenablog.com/entry/20140222

https://itunalily.hatenablog.com/entry/20090808

https://itunalily.hatenablog.com/entry/20090803

https://itunalily.hatenablog.com/entry/20081007

(リスト終)

……………..
また、「グループ学習」の実践もあった。今から振り返ると、みんながわかるまで教え合う方式だったので、先生の授業は教科書が遅れ気味。定期試験が近づくと、学年全部が同一範囲から出題されるため、先生はかなり駆け足で間に合わせていらした。

(https://itunalily.hatenablog.com/entries/2008/03/03)

《「答えではなく考え方を教え」、「コミュニケーション力と思考力」が重要視されるフィンランドの先取り教育は、私の5,6年生時でも全く同じでした。教科書はあっても、それは単なるきっかけに過ぎず、国語や社会のみならず、算数まで常にグループ学習やクラス発表が求められたのは、私にとっては楽しくて仕方がなく、学校で過ごす時間は、体育以外、いつでも毎日ワクワクしていました(参照: 2008年2月8日付「ユーリの部屋」)。塾で答えを先に知って自分だけ賢しらに振舞うことを先生は最も嫌われ、「答えが間違っても恥ずかしくない。自分だけ知っているというような思い上がりの方が、むしろ恥ずかしい」「みんなで一緒に考えながら答えを探っていこう」「黙っているのはずるい態度。わからないならわからないと意思表示しなさい」「発言している人の方をちゃんと見て、きちんと話を聞きなさい」と何度も指導されましたが、その方針が私にぴったりだったので、ますます元気になったのです。塾も行っていなかったし、いろいろと考えて発言するのが大好きでしたから。》
《自由で誰も思いつかないような考えを堂々と意見として述べ、しかも実行力があると、通知表かどこかで書いてくださいました。》

上述のように、小学校6年生の二学期で名古屋市郊外に両親が家を建てたために、私は妹や弟と一緒に引越していったが、田畑の広がる農村地帯の保守的な学校の方が、名古屋市内の学校よりも、遥かに算数や国語の授業が進んでいたのも、今では懐かしい思い出だ。
…………..
いろいろな話をしたが、本当は、(大人になって時間ができたら、先生とゆっくり話をしたい)と、子供の頃から願っていた。でも、先生はいつの間にか、知らないうちに逝かれてしまっていた….。

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20080208)

《小学校5,6年のクラスでよい先生に恵まれたために、毎回、授業では真っ先に挙手して発言するのが楽しみでした。人の意見をよく聞きながら、誰のまねでもない自分独自の意見を出すのが、おもしろくて仕方がありませんでした。今から振り返っても、のびのびとした教育を受けられたと思います。》
《社会人になってからは、「人の気づかない点によく気がつくね」とか「普通ならば感じないことも、敏感に感じ取るところがあるね」と、目上の方達に時々ほめられました。》

御主人が繰り返しおっしゃったのは、「時代や教授法が変わっても、変わらない教育の本質は、人をどう見るか、ということだ」。また、中年になった今でも、45年前の小学校の先生のことを懐かしがって、兵庫から名古屋までお参りに来たという私や一緒に来たOちゃんに対して、「しかし、凄い教師だったんだな」と、満更でもなさそうだった。そして、私達二人とも性格が違い、進路も全く異なるのに、それぞれに「強いものを持っている」とおっしゃった。
…………..
一つ、忘れられないエピソードを最後に。

以前にも書いたことがあるが、小・中の義務教育の間、毎年4月に学校で教科書を全教科もらうと、私はその日のうちに全部読み通すのが習慣だった。(さすがに高校に入ってからは無理になったが。)

小5の時、ずっと待っていても、ちっとも授業で道徳の教科書が使われないので、私は不思議に思っていた。
先生は私達を単なる子供としてではなく、あくまで一人格として認め、自分で考えたことを自由に意見として人前で出すことを積極的に尊重する教育方針だった。それに勇気づけられた私は、ある日のこと、トコトコと先生の机まで歩いて行き、「先生、意見があります」と切り出した。

「はい、何ですか?」
「先生、時間割には道徳の授業があるのに、どうして先生は道徳の教科書を使わないんですか?勿体ないから使った方がいいと思います」。

今振り返ると、身も縮むような思いだ。私が教師だったら、(この子の背後には、どういう政治勢力がついているんだろう?)と気が気ではなかったかもしれない。

でも、さすがにそこは先生。

「教科書を使わなくても、私はあなた方にちゃんと道徳を教えていますよ」と、叱りもせず、落ち着いて答えられた。
「はい、わかりました」。

だが、私はあくまで、「勿体ない精神」だけで、わざわざ先生に意見しに行ったのだった。政治勢力なんて、そもそも存在しない。

過去ブログでも、こんなことを書いていた。2015年のことだ。今から7年以上も前である。

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20150221)

《修身と呼ばれた道徳教育は、昭和20年、占領軍が禁止して以降、日本の学校できちんと教える体制はなかったのだ》
《この「道徳教育」の話で思い出すのは、小学校5年か6年の頃(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080303)。教科書のような本は配布されたのに、時間割の「道徳」では、違う内容の授業活動だったので、何と私は、わざわざ担任の先生のところまでノコノコ出かけて行って、「先生、この教科書、せっかくだから、使わないのは勿体ないのではないですか」と生意気にも「提案」していたのだった。
その時の先生の反応も、実に大らかでよい先生だったと思うのは、「道徳については、教科書を使わなくても、ちゃんと授業などを通して、あなた達に教えていますよ」というものだったと記憶している。
体系的な知識としてではなく、実践ということなのだろうか。ボランティア精神などとポスターを作って教室の壁に貼り出し、率先して自分が気づいたことを黙って実行する、という奨励もあった。単純な私は、ぞうきんを並べ直したり、教室のゴミを拾ったり、生き生きと「活動」していたことを覚えている。》

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20150406)

《戦後、「修身」の授業をGHQ(連合国総司令部)が軍国主義に結び付けて禁止した。》

そのことに気づいたのも、大学に入って「道徳教育の研究」という講義をシラバスで知り、どうやら道徳科目について政治論争があるらしいと聞いた時だった。

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20091218)

《教職科目は一つだけ受講しました(「道徳教育の研究」でAの2単位)。》

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20091203)

《「中央教育審議会(中教審)や有識者会議で、道徳を教科として教えるかどうか話し合われていましたが、管理統制につながるなどの理由で反対もあったと聞きます。道徳だとか修身というのは、軍国主義に結びつくからということなのでしょうか。そうではないと私は思いますね」》
《07年に中教審で検討された道徳教育の教科化は、賛否両論を盛り込んだうえ、結論は先送りされている。》
…………..
御主人に、「先生の教育原理は何だったのですか?デューイでしょうか?」と尋ねると、「自分は国語科が専門だったから、大村はまさん、だな」と。

戦後、次々に新しい教育思想が日本に入って来て、学校教師として次世代を育成するという事業に、先生ご夫妻は夢と希望を抱いていらしたようだ。

だが、進歩的というのか先進的な大胆さは、むしろ奥様の先生の方であって、名古屋の熱田神宮近くのご出身だった御主人は、独身を貫いたクリスチャンかつご長寿の女教師である大村はまさんをモデルにされていた。小学校のみならず、後に名古屋市内の中学でも教えられたそうだが、そこは荒れた学校だったため、大村はまさんの実践どころではなかったという。

私達二人の思い出話を聞きながら、御主人はやはり繰り返し「時代や手法が変わっていったとしても、教育の本質は、人をどう見るか、だ」とおっしゃっていた。
……………
今後、ブログは「書ける時に書く」という方針で、不定期に。

2022年3月28日追記

フェイスブックで、上記の過去ブログ「引っ越し記念日」(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20120308)に、コメントがつきました。

Y・T様:マイム・マイム。なるほど。甘酸っぱい匂いが漂う、その情景が写像されます。。

ユーリ:T様、情景までくみ取ってくださり、誠にありがとうございます。

(転載終)

2022年3月29日追記

この「マイム・マイム」の過去ブログは人気があるようで、フェイスブック上で、再びコメントをいただきました。

Y・O様:中学校時代の同級生の女の子と踊ったフォークダンスを思い出します!
密かに憧れている女の子と手を繋ぐ時は、ドキドキしたものでした〜

ユーリ:O様、ありがとうございます。若き日のOさん、ハンサムなお坊ちゃまでしたでしょう?

(転載終)

ちなみに、今日、大村はま新編 教えるということちくま学芸文庫1996/2005年)が届きました。

(2022年3月29日記)

2022年3月31日追記

Y・T: カウントアップするコメント、斬新ですねー

ユーリ:少ないからできることです。以前の版の時は、アクセスカウント、桁違いに凄かったですよ。ノートに書いてあります。

(転載終)

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4月からの放送大学大学院

放送大学大学院に関しては、過去ブログ(https://itunalily.hatenablog.com/entry/2021/12/19/184014)に第一報を記した。その他に、本ブログでも2021年12月20日・12月22日・12月25日・2022年1月9日・1月21日(×2)に経過報告を書いた。

一昨日には、4月のZOOMオリエンテーション資料が封書で届き、本日の午後には、担当指導教授からのゼミ生宛のメールが届いた。

私の場合、昨年8月中旬に大学院受験の書類申請をした際に希望した教授が、そのまま研究指導責任者であり、担当教員にもなってくださった。今年4月から入学するゼミ生は、私を含めて4名。以前取り寄せたパンフレットによれば、この教授は大変熱のこもったゼミで、指導生を夢中にさせるという前評判だった。

なぜ、この先生を希望したか。私が二十代の頃から密かに関心を抱いていた領域で、齢半世紀を過ぎた今、何らかの糸口を見つける手助けを求めたかったことが一番。それ以上に、最初の半年間で受講した先生のインターネット講義(ラジオ版)のゲスト・インタビューで、「自分は科学者なので無神論者だが、患者さんから採血をする時に、念じながらやってみたところ、世界的な発見ができた。その時、目に見えないものの存在を感じざるを得なかった」という意味の話をゲストがされていて、先生がそれを肯定的に受け止めていらしたことがきっかけだった。

つまり、エビデンス流行の昨今であっても、可視化できる領域だけで正答を求めようとする研究論文ではなく、非可視の存在を踏まえたふくらみのある態度が重要ではないかと、私は考えたのだ。

今日は、担当教授の研究業績一覧や著書リストを印刷し、放送大学の映像プロフィールを見て、どんな先生かを理解しようとした。何と、ほんわかしたブログまで書いていらっしゃるようだ。しかも、キリスト教家庭で育った方らしく、従来、私が経験してきたプロセスも無駄にならずに済みそうだ。むしろ、今考えている結論に向かって、随分と話が合いそうな気がする。

また、送られてきたオリエンテーション資料は実に懇切丁寧で、「今の大学は幼稚園みたいだ」と批判するのは(http://itunalily.hatenablog.com/entry/20140323)、もう止めようと思った。しばらく前に届いた別資料によれば、このプログラムでは、予め大学から提示された計画に沿って、指導教授とよく相談しながら作業を進めていけば、必ず二年間で修士論文が仕上がる仕組みになっているらしい。

順調にいけば、二年後には二つ目の修士号になる。だが、勿論、私はそれで終わるつもりはない。
………………
20年以上前から、主人が罹患した神経難病の患者会の会員だったが、今も遺族として会費を払って、患者会から会誌を送っていただいている。

3日前、新しい冊子が届いたが、そこに挟み込まれていたアンケート用紙は、何と放送大学大学院の私のコースに所属している方で、しかも主人の罹患していた神経難病を対象としていた。
そこで、連絡を取ってみようと思い、夜9時前と遅かったが、電話をかけてみた。

その男性は私とは別の指導教授のゼミ生で、もともと理学療法士として働いていたという。以前、大阪大学医学部附属病院で主人の主治医だった先生が阪大退官後に院長をされていたT病院で患者さんを多く見てきて、今は国立機関で働きながら、放送大学の修士課程で研究論文を作成中とのことである。

アンケートは生存中の患者を対象とするため、私は協力できないが、十数分の電話で、私のテーマにも「興味がある」と言ってくださった。

仕事を持ちながらの修士論文作成はきつそうだが、「必要単位が取れていて、外の仕事がないならば大丈夫ではないか」とのことだった。但し、同じ放送大学大学院の同じプログラムでも、担当される教授のゼミによって相当やり方は異なるそうだ。

あと数日で4月の新学期なので、早目にお若い「先輩」のお話が聞けてよかった。
……………….
ここで、もう一度、放送大学との関わりについて振り返ってみる。

2020年6月に主人の荷物の整理をしながら、ふと(放送大学の大学院で主人の神経難病について、家族看護の立場から考察してみよう)と思い立ち、資料を取り寄せた。その年の10月から第一期目の半年間、6科目のみ受講。同じ頃、伊丹市立博物館友の会におけるDVD制作のボランティア活動や古文書クラスがあり、社会参画として同時並行的に取り組んだ。これは、精神的にも心理的にも厄介で負担だった相続手続きを進める上でも、役立った。

半年毎に6科目ずつ受講して単位を揃えていき、一年半で18科目合格。そして、昨年の8月中旬に書類提出をし、一ヶ月後に受理通知が届いた。10月2日には、大阪の学習センターで英語と専門記述の筆記試験。11月13日には、ZOOMで15分の面接試験。試験官は、希望した教授ともう一人の女性の先生、とトントン拍子に進んだ。

この女性の先生は、小学校以降の履歴書と大学非常勤講師の職歴一覧も複写コピーを添えて提出しておいたのに、私がマレーシア関連のテーマで2018年3月まで毎年ずっと学会発表をしてきた「研究者」であることをご存じないようで、「大学院は研究するところであって、勉強ではありません」「冷たいことを言うようですが、ご主人の難病観察は奥さんの主観であって、研究としては証拠にはなりません」と、初歩的な点で突っかかってこられた。こちらの反応を試すためだったのかもしれない。(この女性教員の発言については、あるクリニックで主人の電子カルテを集めていた時、院長先生との面談でも「それはないんじゃない?」という反応だった。)

一方、希望教授の方は始終にこやかで、私に精神的な負担がないかどうかの懸念だけを表明され、後はすんなり話が進んだ。

2021年12月19日には、合格通知が届いた。

一年半で受講した18科目については、オールA以上の成績で揃えようと意気込んでいたが、目標には達せず。大体、全く新しい分野なのに、学部から始めずにいきなり大学院科目から取り組んだのだから仕方がないとも言えるが、一昨日に確認してみたところ、落とした単位はゼロで、18科目中、13科目がAとA+。だから、全体としては悪くはない、と自分を慰めるに至った。

第三期目に納得がいかず不満だった科目については、同じ講師の同系統の新科目を受講することに決めた。そして、私の指導教授が新しく書き直したテキストで、第一期目に受講した同じ科目を復習がてら再履修することになっている。それに加えて、新たな関連科目を一つ。この3科目に合格すれば、6単位が取得できる。卒業の必須条件には、お釣りが出るほど充分だ。

研究指導の他に「アカデミック・スキルズ」という科目が大学側から強く推奨されているため、こちらも1単位履修。この歳になって今更、とも思わないわけではないが、時代も変わったことだし、今後に備えて、ここは初心に戻って素直に従うことに。

まとめると、今までは半年に6科目ずつだったのが、今後は4科目(その中の2科目は、二人の同じ講師の復習に相当)に減った代わりに、論文のための研究指導が加わるわけだ。

「アカデミック・スキルズ」以外にも、90分程度の「研究倫理eラーニング」というコースも受講することが研究レポートの提出要件。時代だなぁ、と思うが、ある宮家でも剽窃作文の受賞という、とんでもないニュースが流れてきた昨今、やはりここでも初心に戻るべし、ということだ。

ここ二日間で、合格通知が届いてから現在までに、研究上の資料集めや準備に何をしたか、箇条書きにしたものをA4一枚(両面)にまとめた。我ながら、ここまで具体的にケーススタディとして実経験と各専門機関からの諸資料が集められたのならば、修士レベルの論文は「楽勝」ではないか、と前向きに感じられた。

1990年代から2000年代にかけて、マレーシア関係の現地調査や国内での研究発表で、どこから手をつければいいのか皆目不明のまま、「センシティブ」だと緊張を常に強いられたり、日本人イスラム専門家の言動「妨害」に長らく悩まされて、鍛えられただけのことはある。

だてに歳を取ったわけではない。

主人もきっと応援して喜んでいるに違いない。第一、小さなことでも、いいことが次々と起こっているのだ。「僕のところに来たら、思いっきり勉強ができるよ」と、出会った初日に名古屋の地下街の食堂で堂々と言ってくれた。あれから25年以上が経った。研究スペースとしての住居も、エネルギーも時間もお金も、確かに充分に残してくれた。

頑張ります!

PS:このブログを書き上げたところで、指導教授から早速、二通目のメールが。既に来月のオリエンテーション時に提示すべき課題が指示されていました。

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敬宮愛子内親王殿下の記者会見

敬宮愛子内親王殿下のご成年記者会見。
従来の恒例通りではなく、諸事情により令和4年3月17日午後二時に延期された。

朝から楽しみにしていたが、何時からなのか不明で、インターネット上の検索でも一週間前の発表しか出てこなかった。勿論、宮内庁ホームページにも公知されていなかった。

昨晩の東北での地震のために、また延期されるのかしら、とヒヤヒヤものだった。

午後4時頃になって、ようやく13分程度の会見前半部が放映されたのを拝見した。実際の会見は30分程だったそうだが、後半部は公開撮影カットで、日経新聞等に「記者会見全文」として文字化されたのみ。

緊張気味ながらも、落ち着いて率直な誠実感溢れる話し方。お声も、平成中期以降には滅多に聴かれなくなったような深い知性のこもった、それでいて気取りも作為もない、非常に素直な印象を受けた。

頬がふっくらと色白で、艶やかなお肌。控え目だがさりげない清潔なおしゃれに、皇后陛下譲りのセンスが光っている。

絢子女王殿下の婚約記者会見に近い雰囲気もあった。また、昭和時代の皇室を彷彿とさせる気品や品格も充分。それでいて、現代風の息吹も感じられた。

残念で無礼だと思ったのは、TBSだったかの映像で、せっかく集中して見ているのに、途中で場違いに大声のバカげた広告が割り込んできたこと。気分は台無しだ。

この日に至るまでに、幼い頃から、メディア・バッシングや学校での虐め等で、どれ程の困難や苦しみを経てこられたことか、と思う。年上の従姉妹さん達とは、小さい頃は確かに遊んでもらっていたのかもしれないが、どう見ても教育上よろしくなく、陛下もご家族三人で距離を取らざるを得なかったのではないだろうか、と思われる。それゆえに、さらに三人で過ごすご家族の時間が大切なものとなられたのだろう。

元々、紀宮清子内親王様の成年記者会見や大学卒業記者会見の頃までは、もっと記者も多く、フランクな形でインタビューされていた。そして、話し方や物腰の丁寧さが、我々の模範でもあった。

残念なことに、秋篠宮家の登場により、全てが崩れていったように思われる。メディア露出が多いだけに、次から次へと目を見張らされるような、仰天するような出来事が報道される。国民の方が迷惑をこうむり、傷ついているのではないだろうか?

そういう国民感情を踏まえた上で、ご親戚関係も配慮しながら、あれだけのお話をされるとは、敬宮様も相当な……。

胆力が必要ですね、皇族の方々には。

敬宮様、おめでとうございます。そして、ありがとうございました。
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2023年8月25日追記

(https://twitter.com/ituna4011/status/1694336330149609588)
Lily2@ituna4011
誠に。 敬宮様のワンピース、シックですね。懐かしい感じがします。
10:10 PM · Aug 23, 2023

(2023年8月25日転載終)
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2024年2月11日追記

(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)
1月22日投稿
素晴らしい!
我も我もと大学院や留学に走る卑しい世相を踏まえ、毅然とした範を示されているのではないか、
と僭越ながらも推察申し上げた。
《追記》
何だかいいなぁ、このニュース。
このようにして皇室の在り方があるべき姿に戻って行く感あり。
いつまでもダラダラと学生時代を過ごさず、きちんとけじめをつけて、ある意味では余裕を持って、無理せず相応しい職場にお勤めしようとされる。さまざまなことがわかっていらっしゃるからこそ、このようにされた。
ご両親に倣って英国留学するだろうという下馬評をよそに、すっきりと、ご自分の道を通される模範。
一つ一つがうれしい驚きの連続で、いつでも楽しみ。
いいなぁ、このような話。これからもずっと、こうであって…..。
。。。。。。。。
(https://twitter.com/ituna4011/status/1755861110409031848)
Lily2@ituna4011
ますます淑やかに内面から輝く敬宮様を拝見して、国民、特に娘さんを持つ親御さんの意識が変わり、 どのように日本女性として女の子を育てたらよいか、再考するようになればと密かに願っている。
4:48 PM · Feb 9, 2024

(2024年2月11日転載終)
………….
2024年3月30日追記

(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240320/k10014396581000.html)

宮内記者会からの質問と愛子さまの回答全文

学習院大学卒業に際しての宮内記者会からの質問と愛子さまの回答の全文です。

宮内記者会からの質問:大学卒業を迎えられる現在の心境はいかがでしょうか。4年間の大学生活を振り返り、特に印象に残った出来事やご友人との思い出、卒業論文の内容や執筆で苦労された点などをご紹介ください。将来的な海外留学や、大学院進学の希望はお持ちでしょうか。

愛子さま 回答全文

回答に先立ちまして、今年1月1日に発生した能登半島地震で多くの方が亡くなり、また、被災され、今も9千人を超える方が避難を余儀なくされていることに胸が痛みます。
亡くなられた方々に深く哀悼の意を表し、御遺族と被災された方々に心よりお見舞いを申し上げます。寒さも厳しい中、被災された皆様の御苦労はいかばかりかと思います。
大変なことも多いと思いますが、今後、一日も早く平穏な日常が戻り、復旧・復興が進んでいくことを切に願っています。

この度、学習院大学文学部日本語日本文学科を卒業するに当たり、まず、お世話になりました先生方や職員の皆様を始め、大学関係者の方々、日頃から温かく接してくれた友人、そして、大学生活をそばで支え、見守って下さった天皇皇后両陛下に、心からの感謝をお伝えしたいと思います。

4年間の大学生活を振り返ってみますと、中学や高校の3年間かそれ以上にあっという間だったように感じられる一方で、一日一日は非常に濃く、学びの多い日々であったことを感じます。

思い返せば、新型コロナウイルス感染症の蔓(まん)延と同時期に始まった大学生活でした。経験したことのないオンライン授業、インターネット上での課題の授受など、最初は操作も分からず、不慣れな手つきで恐る恐る画面を開き、授業を受講していたことを懐かしく思い出します。先生方や学校関係者の方々にとっても、初めての試みで苦労されることも多く、試行錯誤の毎日であったことと思いますが、皆様の御尽力によって、自宅で授業が受けられる環境を整えていただいたことは、とても有り難いことでした。

感染症の流行が徐々に落ち着いてきた中で、4年生からは大学のキャンパスに足を運べるようになりました。
キャンパスでの学生生活では、先生やほかの学生さんたちと、教室で同じ空間や同じ時間を共有しながら授業を受けることや、授業で出された課題に取り組むべく、休み時間に図書館や研究室に調べ物に行くこと、そしてまた、友人たちと対面で交流することができるようになりました。その転換期を経験し、以前は当たり前であったこれらのことがいかに尊いものであるのか、実感することとなった学生生活でもありました。
高校までの友人たちとの嬉しい再会とともに、大学入学後の新たな友人たちとの交流も始まり、学年の枠を越え、友人たちと一緒に授業を受けたり、直に話をして笑い合ったり、学内の様々な場所を訪れたりしたことは、私にとって忘れることのできない一生の思い出となりました。

また、中世の和歌の授業を履修する中で、和歌の美しさや解釈の多様さに感銘を受けたことから、大学における学業の集大成として書き上げた卒業論文では、中世を代表する女流歌人の一人であった式子内親王とその和歌を扱い、「式子内親王とその和歌の研究」という題で執筆を致しました。調べる資料や範囲が膨大で、一つのことを調べていると、次から次へと調べなければならない事柄が出てきてなかなか終わらず、特に締切りが近づいた昨年末は、気が遠くなるような毎日を過ごしておりました。
また、作成する文章の量が、授業で課される普段のレポートに比べて遙かに多かったため、註を付ける作業など、論文としての体裁を整えることにも時間を要しましたが、指導教授の先生からのアドバイスと心強い励ましのお言葉、研究室の皆様の温かいサポートを頂き、無事に提出できた時には、ほっとした気持ちと同時に大きな達成感がありました。
御指導頂いた先生方を始め、関係していただいた皆様に深く感謝しております。

将来の勉学については、現在のところ具体的には考えておりませんが、来月より日本赤十字社の嘱託職員として勤務させていただくことになりましたので、皇族としての務めを果たしながら、社会人としての自覚と責任を持って、少しでも社会のお役に立てるよう、公務と仕事の両立に努めていきたいと思っております。

(2024年3月30日転載終)
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2024年4月14日追記

(www.msn.com)
2024年4月3日
「結婚への意識は変わっておりません」…就職された愛子さま、記者会への回答全文
読売新聞』によるストーリー

天皇、皇后両陛下の長女愛子さま(22)が2日、日本赤十字社就職にあたり、宮内記者会の質問に文書で回答された。全文は次の通り。

卒業後の進路に日赤を選ばれた理由

 問1 卒業後の進路として、進学などではなく就職を選ばれました。社会へ出ることを選択し、その上で日本赤十字社を選ばれた理由とともに、両陛下からそれぞれかけられたお言葉があればご紹介ください。日赤では、どのような活動に携わりたいとお考えでしょうか。

 愛子さま:私は、天皇皇后両陛下や上皇上皇后両陛下を始め、皇室の皆様が、国民に寄り添われながら御公務に取り組んでいらっしゃるお姿をこれまでおそばで拝見しながら、皇室の役目の基本は「国民と苦楽を共にしながら務めを果たす」ことであり、それはすなわち「困難な道を歩まれている方々に心を寄せる」ことでもあると認識するに至りました。
そのような中で、ボランティア活動を始め、福祉活動全般に徐々に興味を抱くようになりました。特にボランティア活動に関心を持つようになったのは、一昨年の成年を迎えての会見でも述べましたように、災害の被災地に赴き、厳しい環境の中でも懸命に活動を続けるボランティアの方々の姿をニュースなどで目にして胸を打たれたことや、中学・高校時代からの親しい友人が、東日本大震災の復興支援にボランティアとして携わってきており、その友人から活動の様子を聞いたことなどが大きなきっかけとなったように思います。
 大学では福祉に関する授業を履修し、福祉活動への関心が増す中で、公務以外でも、様々な困難を抱えている方の力になれる仕事ができればと考えるようになり、大学卒業後は社会に出て、福祉関係の仕事に就きたいという思いを抱くようになりました。
 そのような時期に、両陛下と御一緒に、日本赤十字社からの御進講を受ける機会を頂き、また、関東大震災から100年の節目に日赤本社にて開催された企画展を見に伺うこともできました。展示や説明を通して、国内外の災害救護活動や人道危機に対する救援活動、社会福祉事業を始め、多種多様な日赤の活動について理解を深めると同時に、同社の社会における役割の大きさを実感いたしました。そのことから、社会に直接的に貢献できる日赤の活動に魅力を感じ、両親に相談いたしましたところ、社会のお役に立てるとても良いお仕事なのではないかと背中を押していただき、日赤でお勤めすることを希望いたしました。有り難いことに、日赤側にも御快諾いただき、本年4月より勤務させていただく運びとなりました。
 日赤では嘱託職員として勤務することになりますが、元々関心のあったボランティアに関する業務を始め、赤十字の活動に幅広く触れ、新たなことにも挑戦しつつ、様々な経験ができれば嬉しく思います。
 初めて取り組むことも多いと思いますが、職場の方々に御指導を頂きながら、社会人としての責任感を持って、様々なことを身に付け、なるべく早くお役に立てるようになるよう精進したいと考えております。

成年皇族としての今後の抱負

 問2 卒業後は皇族としての活動に臨まれる機会も増えるかと思います。成年皇族としてこれまでに、新年行事や外国賓客の接遇などに臨まれた感想や、お仕事と両立しながら取り組まれることになる今後の活動への抱負をお聞かせください。

 愛子さま:これまでは学業の状況を見ながら、皇族として幾つかの行事に出席させていただきました。その際には、天皇皇后両陛下や上皇上皇后両陛下を始め、皇室の皆様のなさりようをお手本とさせていただき、所作などで分からない点があれば、事前に両陛下や他の皇族方に伺い、アドバイスを頂きながら取り組んでまいりました。
 新年行事や宮中午餐など、以前は両親から話を伺ったり、ニュースで間接的に拝見したりするだけであった行事に自分が参加しているということに、成年皇族としての実感が湧くと同時に、誠意を持って臨まなければならないという気持ちを持つようになりました。
 2月には、初めて宮中午餐に出席させていただきました。外国の賓客の方とお食事の席を御一緒することには、始まる前は緊張もありましたが、お客様が気さくに話し掛けてくださり、和やかな雰囲気の中で、お互いの国の気候や食文化などについてお話しできたことが心に残りました。そして、このような場は、相手の方の国の風土や文化について理解を深めることができる貴重な機会であるとともに、日本の魅力を外国に発信できる、両国にとって意義深い時間であると身をもって感じました。
 また、先日は、大学卒業に伴って、神宮と神武天皇山陵を参拝いたしました。初めての一人での地方訪問でしたので、無事に参拝を終えることができたことに安堵いたしました。それと同時に、行った先々で多くの方々に温かく迎えていただいたことに感激し、非常に印象深い訪問となったことを心から有り難く思いました。
 今後は、公的な活動に出席する機会が今までよりも増えることになるかと思います。公務と仕事の両立には大変な面もあるかもしれませんが、これまで18年間という長い年月を学習院の温かい環境で過ごさせていただいたことに感謝し、その中で得た学びも活かしつつ、多様な活動に携わることができれば有り難く思います。これからも周囲の方々の理解と助けを頂きながら、それぞれのお務めに誠心誠意取り組んでいきたいと考えております。

ご自身の結婚について

 問3 ご成年の記者会見ではご自身の結婚について「まだ先のこと」と述べられていましたが、理想とする時期やパートナー像、結婚観について現在のお考えとともに、両陛下からのご助言があればお聞かせください。これまでに心を動かされる出会いはありましたか。

 愛子さま:成年の会見から2年が経過いたしましたが、結婚への意識はその頃と変わっておりません。一緒にいてお互いが笑顔になれるような関係が理想的ではないかと考えております。
 両親から具体的なアドバイスを頂いたことは特にございませんが、両親のようにお互いを思いやれる関係性は素敵だなと感じます。
 心を動かされる出会いというと大袈裟に聞こえるかもしれませんが、私にとっては、これまでの出会い全てが心を豊かにしてくれたかけがえのない宝物であり、深く感謝しております。これからも様々な出会いに喜びを感じつつ、一つ一つの出会いを大切にしていきたいと思います。

皇室の将来やご自身の役割

 問4 天皇陛下のご即位から間もなく5年となりますが、安定的な皇位継承を巡る議論は進んでいません。皇族数が減り、公務の担い手が先細ることについて、内親王としてどのように受け止め、皇室の将来やご自身の役割をどのようにお考えでしょうか。

 愛子さま:公務に携わることのできる皇族の数は、以前に比べて少なくなってきていると承知しておりますが、制度に関わる事柄につきましては、私から発言することは控えさせていただければと思います。私自身は、そのような中で、一つ一つのお務めに丁寧に向き合い、天皇皇后両陛下や他の皇族方をお助けしていくことができればと考えております。

(2024年4月14日転載終)
……….
2024年4月27日追記

(https://twitter.com/ituna4011/status/1782903519810642040)
Lily2@ituna4011
春の園遊会、両陛下が招待者と歓談 愛子さまが初参加 – 日本経済新聞 https://nikkei.com/article/DGXZQOUE233QZ0T20C24A4000000/…
← みみさんのお父様。
7:44 AM · Apr 24, 2024

(https://twitter.com/ituna4011/status/1782995870423884182)
Lily2@ituna4011
さりげなく敬宮さま、さらっと交わしていらっしゃる。
1:51 PM · Apr 24, 2024

(2024年4月27日転載終)

Posted in Japanese culture, © 2023 by Ikuko Tsunashima-Miyake, © 2024 by Ikuko Tsunashima-Miyake | Leave a comment

花粉症の季節に….

(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)
2022年3月16日投稿

ここ数日、急に暖かくなり、花粉症の季節到来。
花粉症は必ず治ります!
私は18歳の頃から症状が出ましたが、実はピーク期の数日のみ。薬は基本的に飲みませんでした。
ここ10年近く、薬なしで徐々に軽減。数年前から自然完治しました。今は全く快適生活。
大事なのは、充分な睡眠。冬も夏も、とにかく体を冷やさないこと。(夏でも熱いお茶のみ。)そして、バランスの取れた栄養。肉類や油物は控えて。勿論、お酒も。青野菜や根菜類を多めに。
普段から、血流をよくするために、生姜とニンニクをたっぷり目に入れた煮物や汁物や炒め物を。
極めつけは玄米食。主人が大好きだったので、我が家は結婚当初から玄米。ここ二年程は、ちょっとアレンジして、小豆を混ぜて炊いています。炊き上がったら、黒ゴマと赤紫蘇を振りかけ、梅干しを二三個入れて、おしゃもじでよく混ぜておきます。これで、夏場も持ちますし、炊き立ては本当においしいですよ。
その他、白砂糖は厳禁。我が家はずっと黒砂糖のみ。醤油等も有機の薄味に。辛い刺激物はなし。
以上、薬膳漢方検定合格者の独り言でした。ご参考までに。

(転載終)

(後記)ありがたいことに、賛同者複数マークがつきました。

H様:素晴らしいですね、全て理にかなってますね

ユーリ:H様、ありがとうございます。

ユーリ:O様、ありがとうございます。

ユーリ:N様、ありがとうございます。

ユーリ:T様、ありがとうございます。

T・S:治癒されて何よりです!自分も悩みの季節です。
鼻の中にワセリンなどクリーム系のものを綿棒で塗ると花粉を吸着してくれるようで効果があります。納得しましたので実行し、以来、症状が軽くなりました。

ユーリ:T様、ありがとうございます。ワセリンも、良さそうですね。工夫して、何とか乗り切りたいですね。

ユーリ:Y・T様、S様、ありがとうございます。

(2022年3月17日転載終)

上記を記すに至るまでの経緯を、過去ブログからリスト化。

(https://itunalily.hatenablog.com/search?q=花粉症)

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20070903)

《(1) どんな一品でも、何種類もの野菜をたっぷりと多目に使うこと。
(2) 味付けは極力薄めにすること。
(3) 場合によりレトルトやインスタント食品を利用することがあっても、必ず自分で食材を追加して栄養のバランスを考え、オリジナルな味を出すこと。
(4) 塩、醤油、砂糖、味噌などの基本的な調味料は、梅干しと同様、なるべく自然食品の店で良質なものを揃えること。特に、粗塩や黒砂糖を用いること。
(5) 主食は玄米(できれば有機が望ましいが、少なくとも減農薬のもの)を毎日の中心に据えること。炊き上がったごはんに空気をしゃもじで混ぜる時、場合によっては、紫蘇の粉末と白胡麻と鰹節を混ぜ込み、そのまま翌朝のおにぎりやお弁当にすること。(これにヨーグルトと野菜ジュースを添えることで、最低限の栄養が取れ、簡単でも立派な食事になる。)
(6) ほぼ毎日の夕食に出す味噌汁は、だしに昆布と鰹節(とミキサーで砕いた煮干し粉)の二種類を使い、必ずワカメを入れること。その他に、具を5.6種類はたっぷりと含めること。(例:玉葱、馬鈴薯か薩摩芋、椎茸、しめじ、榎茸、葱、豆腐などは定番。季節によっては、茄子やオクラも入れることがあり)
(7) 圧力鍋を極力活用すること。ガス代と時間の節約になる。また、料理を作りながら、同時に洗い物を兼ねると素早く片づく。
(8) コーヒーや紅茶には砂糖は一切入れないこと。冬場の朝の紅茶には、生姜粉末を入れると体が温まり、目も覚める。
(9) 炒め物や煮込み料理には、ニンニクを常にたっぷりと使うこと。ただし、いただくのは昼食以降で、外出しない時に限る。
(10) 体を温める食べ物と冷やす食べ物(注:料理の温度ではない!)のバランスを季節毎に調節する。》
《花粉症は18歳の沈丁花の時期から始まり、毎春は、気分的にも体調的にもぐしゃぐしゃの日々を送っていました。それが、三十代に入り気がついてみたら、肌がつやつやになり、吹き出物もほとんど消え失せ、風邪もめったに引かなくなりました。外耳炎や花粉症とは、ここ何年も無縁の生活です。薬を服用するという習慣が全くなくなり、おかげさまで、というところです!!》

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20090313)

《この花粉症。気づいたのが18歳の大学入学時から。当時は、(なぜ沈丁花の咲く頃になると、いつも鼻風邪を引くんだろう)と不思議に思っていて、それでも、あまり薬を飲むものではない、ときつく言い渡されていたため、ティッシュペーパーを一人でさかんに消費していたのでした。
朝、目覚めると鼻がつまって起きられなかった結婚当初の数年よりは、症状はかなり軽くなっているのですが(参照:2007年9月3日付「ユーリの部屋」)、確実に、花粉の飛ぶ時期が長くなったこともあり、どうもいけませんね。》

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20120319)

《ここ数年、徐々に花粉症がおさまっています。今年も、この時期に及んでも、多少、思い出したように、時折くしゃみが出るのと、目元に軽いかゆみがあるぐらいで、何ともありません(参照:2007年9月3日・2008年3月5日・3月14日・3月16日・2009年3月13日付「ユーリの部屋」)。》

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20120323)

《“花粉症が消えかかってきたと喜んでいたのに(参照:2012年3月19日付「ユーリの部屋」)、今日は朝から、くしゃみ、鼻水、涙目、という典型的な症状が出てしまいました。集中力に欠け、疲れやすくなるので、何かと能率が落ちます。”》

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20130315)

《耳鼻科で血液検査をしてもらった結果、「原因はこれですね。一生そのままですよ」と脅された花粉症なるものが、毎年軽減され、今では何もしないのに全くと言っていいほど症状が出ないのです!(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080316)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090313)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120323)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120410)》

(以上リスト終)

2022年3月17日追記:上記ブログで、フェイスブック(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)に、過去ブログ(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20070903)を掲載したところ、何と、12件のアクセスがフェイスブックに付きました。このブログを書いていた時には、4件アクセスだったのに、いつの間にか三倍に。15年前の古い記事でも、今も有効であることを示します。
コメントまでいただきました。

O様:私も随分以前にヤバイと気になる時がありました。
を飲んだり、を打つのは嫌だから、色々な手段を試しました〜
その中でタブン効き目が有ったのが、鼻うがいが良かったのではないかなと思ってます!
そのお陰かズッと花粉症の影響は無いようです!

ユーリ:Oさん、それは良かったですね。鼻うがい、試したことはないですが。

O様:大阪などのゴミゴミした所へ行った後、帰宅してから、鼻うがいすると、凄く汚れているのが、よく分かりますよ〜

ユーリ:そうかもしれませんね。その点、伊丹はいいですね?

12

(転載終)

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Irene E. Pipesさんの手記

ちょうど10年前の今頃を思い出す。

ダニエル・パイプス氏が私の英語版ブログ(と言っても、マレーシアの研究テーマを巡るニュース・コレクション)を見て、2012年1月中旬に引用された。

(http://www.danielpipes.org/blog/2007/09/john-esposito-and-me)

《Jan. 13, 2012 update: From a blog, Lily’s Room, by Ikuko Tsunashima-Miyake, reporting on a talk in Kyoto in an entry titled “Dr. J. Esposito and Dr. D. Pipes”:
On 20 December 2011, I went to listen to Prof. Dr. John L. Esposito’s two lectures (altogether for three hours) under the titles ‘The Role and Future of Religion in Global Politics’ and ‘The Role of Religion in American Politics’ held at a private university in Kyoto, Japan.
Before and after that event, I have been all the time speculating about why I felt something significant seemed lacking in his talks and what went wrong in these discussions of Muslim-Christian relations reflecting on my past teaching and research experiences in Malaysia and at the university concerned.
Writings by Dr. Daniel Pipes offered me indirectly very insightful cues to ponder this issue through his official website. Actually, Dr. Pipes was critically mentioned by Prof. Esposito in his talk of the second session in Kyoto, but I thought that Prof. Esposito had failed to explain more in detail to us why he verbally attacked Dr. Pipes everywhere.
Comment: Funny, that’s the same question I asked above, in the May 15, 2010 update.》

(転載終)
。。。。。。。
その後、2ヶ月程メール交換が続き、驚いたことに、ダニエル・パイプス氏からウェブ上での翻訳を依頼されたのだった(https://ja.danielpipes.org/art/year/all)。

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20120330)

《「新たな頼まれ事」については、恐らくは、賛否両論あるかと予想はしていますが、迷いに迷い、難しい決断を迫られ、しかし、断ち切るにはもったいないような部分(それは決して、功名心や金銭面ではなく、マレーシアとの関連で重要な意味を含むもの)に惹かれて、思い切って始めることにしました。》

パイプス家の実家があるボストン・マサチューセッツ州は、1990年代の初期に主人が留学していた地域。だから、私よりも主人の方が、訳業には乗り気だった。
その頃から徐々に主人の神経難病が進行期に差し掛かっていたため、その後の丸6年、家の中で私なりに士気を維持するには、もってこいの作業だった。

2年前の宝塚での入院中も、「パイプス氏の翻訳、また始めたらいいじゃないか。お金にはならないかもしれないけど」と、主人は言ってくれた。
そして、パイプス氏の方からも、主人の葬儀の始まる直前に、メールとツィッター・メッセージの両方で、温かいメッセージを寄せてくださったのだ。

こういう予期せぬ奇遇のようなタイミングは、私には時々起こる。

パイプス氏のお父様のリチャード先生は、ご長寿ではあったが、晩年の数年間、主人と同じ病気だった。そして、実家の父も最後の7年間、同病だった。また、父方の叔母の御主人が今、闘病中である。

パイプス訳業を始める直前、私は英国のマーガレット・サッチャー氏の映画を見ていた。サッチャー氏は晩年、アルツハイマー病に罹患されたが、穏やかな時期を過ごされたように描かれていた。そして、意外なほど、まるで引き寄せられたかのように、それまでの日本のメディアや大学では否定的、揶揄的に語られていた側面や事象が、突然、精彩を帯びてきたのだった。

今、振り返ると、全ては示唆的である。この世の出来事は、見えない糸のように結びつき、必要に応じて顕現化するのであろうか?
。。。。。。。。
昨日の午前中、ダニエル・パイプス氏のお母様であるIrene E. Pipesさんの1975年7月の手記 “Fleeting thoughts on a Moscow Summer-Sardines cans in the freezer.”を読んだ。

(https://twitter.com/DanielPipes/status/1502621645999071234)

Daniel Pipes دانيال بايبس @DanielPipes

I have just discovered that my mother, #IrenePipes, charmingly if dismayingly wrote up her experiences on a 2-month long academic visit to Moscow in 1975. I have now posted “Fleeting Thoughts on a Moscow Summer: Sardine Cans in the Freezer” on my website.
www.danielpipes.org/19116/my-disastrous-meeting-with-the-soviets#Irene
9:24 PM · Mar 12, 2022

(転載終)

全部で76ページのタイプ打ちである。ところどころに、手書きで修正や書き込みが施されており、本来ならば、どこかに投稿する予定だったのかもしれない。
。。。。。。。。。
このお母様は、ポーランドの首都ワルシャワの裕福なブルジョア家庭のご出身で、非常に知的な美人かつ賢夫人で賢母。しかも、世俗派だが敬虔なユダヤ教の信仰を受け継がれている。情報通でもあったために、戦時下でナチ迫害を運よく逃れた。米国に移住された後も、冷戦下の共産ポーランドの民主化と自由化のために、時々故郷のワルシャワを訪問して、主に文化振興の援助をされてきたようだ。

この手記は、モスクワ到着後の6月2日に書き始められ、ソビエト滞在最終日の7月25日で終わっている。注釈ページは5ページに及んでいる。リチャード・パイプス教授が旧ソ連の学術機関である科学アカデミー等に招待されたので、文献調査も兼ねて、ご夫妻で訪問されたのだ。

ここでは、何をしていたのか不明の日本人が一人、登場する(p.9)。

また、盗聴器が宿泊所のここかしこに設置されていた旧ソ連のこと、アメリカから持参のカセット・レコーダーにささやきながら、文書館での調査時にノートを取っていらしたようだ(P.26)。

イスラエルに移住したがっているユダヤ系と度々出会ったこと等も記されている。

さらに、モスクワよりもレニングラード(現:サンクトペテルブルグ)の方が、もっと自由があったようだ。

7月25日に引き続き、7月26日から数日間、「西洋」において過ごした総まとめの感想が、1ページ半にわたって綴られている。その率直な物言いが大変興味深く、信頼できる。

つまるところ、モスクワでもレニングラードでも、ご夫妻にとっては、
“surrounded by bugging devices, loud traffic, pushy and impolite people and nowhere to breath.”
ということだったようだ。
。。。。。。。
こういうご両親に育てられたダニエル氏が、旧ソ連の影響下にあった中東イスラム地域に関して、率直な目で観察した次第を論文や著書に次々とまとめられたのは、ごく自然な成り行きであろう。

それにも関わらず、ソ連や中共や中東の日本人研究者や大手メディアや文学者達は、表向きの幻想を我々一般国民に語り続けてきたのだった。学校の教科書にまで文章が掲載されていた。その影響は、現在にも及ぶ。

このお母様の手記を読んでいると、ソビエトでの2か月間の経験を書き記すだけでも、心理的に相当きつかっただろうと想像される。まるで、英領マラヤ時代のキリスト教宣教師達の手記を読んでいるかのような錯覚を覚えた。

ちなみに、キリスト教文献が精彩を帯びていたのは、私の見るところでは1980年代までだ。その後は、マルクス主義思想の内部浸透により神学が変容し、おかしな方向に衰退していった。

(2022年3月16日記)
………………….
2023年9月2日追記

上記のブログを書いた1年4ヶ月半後に、アイリーン・パイプスさんは、7月31日午前10時45分、98歳で静かに亡くなられたとのことです。
(She died peacefully at 98 years this morning: at 10:45am, July 31, 2023.)

(https://www.danielpipes.org/21862/irene-pipes-1924-2023#obituary)

Irene Pipes (1924-2023)
An Appreciation
by Daniel Pipes
DanielPipes.org
July 31, 2023

I would like to tell you about my mother.
She was born Irena Eugenia Roth in Warsaw on Nov. 28, 1924. Her father was a businessman with I.G. Farben, the largest company in Europe; her mother was a renowned beauty and the first female automobile driver in Warsaw. Her sister Hanna came along two years later. The family lived in downtown Warsaw, close to her maternal grandparents, owners of a leather-goods store.
As this family sketch suggests, Irene had a good life in Poland. Photographs attest to the elaborate skits she performed with her sister. She enjoyed after-school treats with her grandmother at an elegant pastry shop. Her parents attended white-tie parties boasting an elegance we hardly can imagine nearly a century later. When she compared notes with her future husband, Richard Pipes, who lived not far away and whom she later met at Cornell University, they found they had attended the same birthday party.
A 1930s Warsaw party. Both my maternal and paternal relations attended.
Then, of course, it all came crashing down. The Nazis invaded Poland on Sep. 1, 1939, when Irene was 14. Her father was arrested (ironically) as a German citizen and the family fled by car to the northeast. Miraculously reunited with him, they flew together to Stockholm and from there, took a ship to New York City, landing on Jan. 27, 1940. After spending an eye-opening weekend on Ellis Island, they entered the United States.
Thanks to a brother of her father who had the foresight to get out before the invasion, the family had the means to set themselves up, first on Drummond Street in Montreal and then on Central Park West in New York. With astonishing speed, the family learned English and entered American life. To give you a sense of their assimilation, I’d like to read the full text of a telegram sent by my grandfather and two of his brothers on Nov. 6, 1940, a day after Franklin Delano Roosevelt was elected to the presidency for the third time:

To President Roosevelt, Washington. Dear President, We, victims of the aggressors who were obliged to leave behind us our beloved fatherland Poland, our homes and families, congratulate you on your reelection, seeing in its result a light ray for the whole of humanity. May God bless you and your dear family.

In 1942, my mother entered Cornell University where she studied architecture. The next year, she met my father on a double-blind date. They married in the Hotel Delmonico on Park Avenue on Sep. 1, 1946 – seven years to the day after the German invasion. Richard immediately started graduate studies at Harvard. I was born in 1949, a stillborn daughter followed, and Steven arrived in 1954.
Although a self-described party girl, my mother fit well enough into the academic life in Cambridge and accompanied my father as he rose over the next decade to full professor. Setting up house successively in Boston, Watertown, and Belmont, they acquired a New Hampshire country house in 1959 and moved into a grand house near Harvard Square in 1964. They owned a house on the Caribbean island of Tortola for two decades and then a small Key Biscayne condo in 2014. The first of four grandchildren was born in 1979; others came in 1985, 1987, and 2000. The first great-grandchild arrived in 2018.
Sabbaticals took Richard and Irene to Paris, London, and Palo Alto. A stint with the Reagan Administration meant living in Washington for two years, 1981-82. Richard retired from Harvard in 1996.
That same year, at a party celebrating my parents’ 50th wedding anniversary, I remarked how they kept going and going, keeping up the social life, intellectual life, and travels. I then repeated that same observation on their 60th anniversary in 2006. And then again on their 70th in 2016.
Richard died of old age in 2018 but still Irene gainfully kept things going on her own, maintaining three residences, the magazine subscriptions, and the friendships. But it was not the same without him. Also, as she reached her mid-90s, she showed great frustration at not having the capabilities of someone about 70: “I am not myself today,” came her ritualistic complaint, “what’s wrong with me?” She tried to assert her independence, an increasingly difficult task. She died peacefully at 98 years this morning: at 10:45am, July 31, 2023.
Some reflections, first about the family and then about my mother:
When I was born, nearly everyone in my family had escaped Poland and the Holocaust. Every adult not only had to become an American and to learn English, but every one of them carried trauma. The elders spoke English with exotic Polish or German accents, the younger ones spoke standard American English with perhaps an exotic hint, but all carried the burden of having come to the United States as refugees.
As the years passed, of course, immigrants died and Americans were born. The death of my mother marks the passing of the very last immigrant who still remembered Poland. Only her first cousin Victor remains, but he left Poland at the age of three. Irene’s passing, in other words, marks the end of an era for the extended family.
The successful transition from refugee status to native-born Americans was inevitable and good, but it also marks a moment of sadness with its loss of experience, color, and memory.
My mother came to appreciate her birth country, returning to Poland first in the 1950s and then, in her later years, spending about a month there annually, enjoying friendships and the arts, proud of speaking a distinctively elegant pre-war Polish. She also served for decades as the president and principal patron of the American Association of Polish Jewish Studies. Interestingly, in later years her friends increasingly tended to be found in Poland, as she felt very much at home in her natal town, delighting in the language, food, and high culture. Her wonderful companion and assistant of recent years, Agata Bogatek, is Polish; I thank her for the great service she faithfully provided.
Finally, about Irene the personality, the friend, the wife, the mother and grandmother.
To start, her personality: My mother was distinctly a character. She would not take no for an answer and wore down innumerable gate agents and park rangers to get her way. Against all odds, she insisted that her many excursions to casinos netted large sums. She officially quit smoking about 1970 but carried on clandestinely for over the next fifty years, to the bemusement of the entire household. At the 70th wedding anniversary, she made sure we all knew that she was still pondering if she had made the right choice in marrying Richard.
As friend: She had a talent for friendships, charming strangers and keeping those close to her by her side. Especially with age, she developed an imperious demeanor that we relatives found a bit exasperating but delighted the outside world. Through middle age, she had friends and correspondences on several continents. As she grew older, though she complained about their disappearing on her, she managed to find new friends, especially in Poland.
As wife: Irene and Richard were married 72 years, or three-quarters of their lives. They were very married, intensely involved with each other. But they also spent much time apart, perhaps because their characters were so different, and they needed a bit of relief. I grew up among constant bickering: heat up or down, lights on or off, turn left or right, too salty or not enough? He was the intellectual, she not; she the social butterfly, he wanting to go home, already. That said, they rounded out each other and had an enviably successful marriage.
As mother: Irene was not exactly a helicopter parent. She had us children when young; being extroverted and social, she preferred that we find our own way in the world. Thus, I changed trains on my own traveling in Switzerland at the tender age of seven. I made my own breakfasts. I learned to swim by being thrown off a float. I got my driver’s permit one day after my 16th birthday. Busy as friend and wife, motherhood was something of a side-activity – which was fine with us, her children.
Grand-motherhood suited her better, coming when she was older and not demanding her full-time attention. I cannot count the times my mother solemnly announced that my having fathered Sarah, Anna, and Elizabeth was the best thing I ever did in my life. She reveled in her granddaughters, perhaps in part seeing them as compensation for the still-born daughter.
Irene at her 90th birthday party with her three grand-daughters (from left): Elizabeth, Sarah, Anna.
conclude by recalling her oft-stated wish to be buried next to Richard with the simple epitaph, “His Wife.” I never agreed to this, hinting that I had something better in mind, and that will be: “Irene Eugenia Pipes, née Roth. 1924-2023. Holocaust Survivor. Wife, Mother, Grandmother, Great-grandmother.”

。。。。。。。。。。
Antony Polonsky, emeritus professor of Holocaust Studies at Brandeis University and chief historian of the Global Educational Outreach Project at Polin (the museum of Polish Jewish history in Warsaw) adds this description of Irene Pipes’ professional work:

Irene Pipes and Polish-Jewish Relations

Irene came from a family that was well integrated in Polish society but retained strong Jewish ties. Irene herself was devoted to her Jewish heritage and was well acquainted with Polish culture. She had a particular love of Polish popular and cabaret songs of the 1930s with which she grew up. She was thus an ideal intermediary in the attempts from the mid-1980s to alleviate the tensions and hostility between Poles and Jews, insofar as these are discrete groups, which is not always the case. She believed that the way forward was for both Poles and Jews to look again at their common history and recognize both its positive and negative aspects.
As President of the American Association for Polish-Jewish Studies from the early 1990s, she employed her considerable diplomatic talents to foster dialogue and discussion in an open manner on difficult and divisive issues. She also played an important role in the production of the Association’s quarterly newsletter, Gazeta, and was a consistent supporter of its yearbook, Polin: Studies in Polish Jewry.

Her enormous contribution to Polish-Jewish understanding was recognized by the award to her by the Polish government of the Commander’s Cross of the Order of Merit of the Republic of Poland. Even as her strength weakened, she remained devoted to the cause of Polish-Jewish understanding and was saddened by the rise of populism in Poland and the threat it posed to an honest and dispassionate evaluation of the complex and sometimes disputed Polish-Jewish past. Until the end she remained optimistic, convinced that people of good will would be able to find common ground and that dialogue and understanding would prevail. She will be sorely missed.

。。。。。。。。。。
(https://twitter.com/DanielPipes/status/1697734817008254978)

Daniel Pipes دانيال بايبس @DanielPipes.
@PennySchwartz wrote a lovely obituary of #IrenePipes in Boston’s Jewish Journal (@jewish_ma), stressing my mother’s role, herself a Sept. 1939 refugee from Poland, in promoting positive Jewish-Polish relations. “It’s a heritage, not just the Holocaust.”
7:14 AM · Sep 2, 2023

(https://www.danielpipes.org/21862/irene-pipes-1924-2023#obituary)

Aug. 31, 2023 update: Boston’s Jewish Journal ran an informative obituary by Penny Shwartz, minutely amended here:

Irene Pipes, 98: Champion of fostering Jewish-Polish relations

By the time Irene Pipes and her husband Richard were starting a family in 1949, the Jewish refugees had become fully assimilated Americans.
It had been only nine years since each had fled Nazi-occupied Poland with their families, who settled in New York. After meeting in college and getting married, the young couple was about to enter the Ivy League world of Harvard and Cambridge, and looked only to a bright future. They wanted nothing to do with the traumas of their past.
The only time their oldest son Daniel and his brother Steven heard Polish was when their family gathered with relatives and when their parents didn’t want them to understand what they were saying to each other.
“Polish was a secret language,” Daniel told the Jewish Journal, in a conversation recalling his mother Irene, who died July 31 in Cambridge at age 98.
Richard, her beloved husband and companion for some 72 years of marriage, died five years ago. The career-long Harvard University professor was a scholar of Russian and Soviet history and an adviser to the Reagan administration on Soviet and Eastern European policy.
In ways Irene would never have imagined, she discovered a level of comfort and pleasure in her native Warsaw, Daniel wrote in a published remembrance. It was a transformation that began in the 1950s and continued for the rest of her life, said Daniel Pipes, president of the Middle East Forum and a prominent commentator on the region.
“She felt very much at home in her native town, delighting in the language, food, and high culture,” he wrote.
Over time, she became an early and influential champion of fostering Jewish-Polish relations and of the re-emergence of Jewish life in Poland.
Her advocacy included serving as president of the American Association for Polish-Jewish Studies since the 1990s and she played a leading role in the production of Gazeta, the association’s notable quarterly journal, Antony Polonsky wrote in a comment to Daniel Pipes’ remembrance. Polonsky is an emeritus professor of Holocaust and Jewish studies at Brandeis University and chief historian at Warsaw’s POLIN Museum of the History of Polish Jews.
“She employed her considerable diplomatic talents to foster dialogue on difficult and divisive issues,” Polonsky wrote.
Her contributions to Polish-Jewish understanding earned her the Commander’s Cross of the Order of Merit of the Republic of Poland, noted Polonsky, who worked closely with Irene at the American Association for Polish-Jewish Studies.
Daniel Pipes realized only recently that his mother’s embrace of Poland stood out among Jewish Polish refugees and survivors, who did not want to visit their native country having survived persecution against Jews and in some cases, the deadly Holocaust.
Over time, Irene began to spend one month every year in Warsaw, Daniel Pipes said. His father was a reluctant co-traveler, being among those who would have preferred to spend less time there. “She was appreciated there as someone who carried this pre-war, pre-fascist, pre-Communist culture,” he recalled about his mother.
There was also a touch of nostalgia, Daniel Pipes said.
Born Irena Eugenia Roth in Warsaw on Nov. 28, 1924, she recalled a happy childhood with her younger sister, Hanna, enjoying a financially comfortable lifestyle. When Daniel Pipes and his family traveled to Warsaw with his mother, she was eager to take them to the pastry shop cafe she had frequented with her grandmother many decades before.
She developed close friendships with college professors and people in the arts, including Krzysztof Penderecki, a prominent classical composer, and his wife, Elzbieta.
Her friendship with professor Józef Andrzej Gierowski, the rector of Jagiellonian University in Krakow, led to her keen interest in the university’s Institute for Jewish Studies. Nearly a decade ago, she established a research center on the history and culture of Polish Jewry and Polish-Jewish relations. She also funded a chair at Bar-Ilan University in honor of her parents, The Marcell and Maria Roth Chair in the History and Culture of Polish Jewry.
She her husband, Richard, and Daniel Pipes were guests at the launch of the center, with a two-day program in October of 2014 that included talks by Richard and Daniel, according to professor Michal Galas, the center’s director appointed from its founding.
Edyta Gawron, a professor at the Jewish Institute, recalled fond conversations she had with Irene over the course of her many visits to Krakow, with Irene speaking in fluent Polish about her favorite food and places she enjoyed visiting.
She was always eager to speak with young people taking Jewish studies classes. “I think she admired their determination to commemorate the Jewish life in Poland,” Gawron said in an email.
Irene stayed up-to-date on current events in Poland, both her son and Polonsky said. Despite being saddened by the recent rise of populism there, she never lost her sense of hope for Poland’s future and in Jewish-Polish relations.
“She remained optimistic, convinced that people of good will would find common ground,” Polonsky wrote. “She will be sorely missed.”

(End)
…………….
2023年9月3日追記

(https://twitter.com/ituna4011/status/1697736475188887681)

Lily2@ituna4011
素晴らしい女性でした。
7:21 AM · Sep 2, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1697906349710217547)

Lily2@ituna4011
お見事な人生を送られた素晴らしい女性です。お目にはかかれませんでしたが、私の存在は覚えてくださっていらしたようです。
6:36 PM · Sep 2, 2023

(2023年9月3日転載終)

Posted in Christianity, Daniel Pipes, Malay studies, research topics, Richard Pipes, Studies related | Leave a comment

水無瀬野の余韻

2022年3月13日付のブログで水無瀬野の話を書いたが、どうやら今後、さらに調査や研究が進展する余地がたくさんあるらしい。

そうだとすれば、これからも、まだまだ勉強すべきことがたくさんある。島本は単なる過去の思い出の地ではなく、時を積み重ね、塗り直していく空間だということになる。
これは、密かに私が望んでいた方向でもある。

島本にいた頃、引越し前の忙しい合間を縫って、町立図書館で『島本町史』という分厚い本のコピーを取ろうとして、二日がかりでページをメモして準備していた。ところが、いざ複写しようとしたら、その本がどこかに消えていたのである。意図的に隠されたのではないか、と今でも疑わしい。
また、家紋や氏姓の事典等を見ていると、即座にカウンターからスタッフが出てきて、「そういう本は一時間以内におさめてください」等と、わざわざ注意をしに来た。その時、他の人も必要としていたわけではなさそうなのに、である。

どういう目的でそういうことを言うのか。

どうやらヒントは、以下の過去ブログにありそうだ。

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20161209)

《先月下旬と今月上旬の二回、町内の歴史資料館を会場に、教育委員会が後援し、退職教職員の会が主催した、蔵書の無料頒布会でいただいた本のリストを列挙する。計28冊だが、希少本も含まれているだろう。古本屋さんで購入したら、かえって高くつくだろうに、町内で私達がいつも選挙投票に行く小学校で元校長だった故人の所蔵だとのことで、全部そのまま自由に選んで持って帰ってきた。》

《天皇制、共産主義、マルクス主義、反戦平和、部落問題、女性問題、歴史などの種類が目立ったのは、この小学校の教員の傾向を表しているとも言えるが、私の世代ならば、一種馴染みのあるものでもある。主人も私も、実家には共産主義やマルクス主義や社会主義の本など一冊もなく、大学に入って読む必要に駆られたというのが実態だが、学校教員ともなれば、さまざまな背景や家庭環境の児童を育てなければならず、幅広く通用する思想としては、社会主義が最も汎用性が高かったとも言える。》
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2022年3月12日付ブログ「学芸員・図書館員への要望」の話に戻るが、博物館であれ、資料館であれ、美術館であれ、文芸館であれ、優秀な学芸員は、あくまで黒子に徹するものだ。

質問にはきちんと応答。わからなければ、「後ほど調べてお答えします」と言うのが本道。何を勘違いしてか、ムキになって質問者に反撃するなど、言語道断。むしろ、興味を持って問いかけがあったことに感謝すべきなのだ。
また、古い写真を見せておいて、「それはいつ頃のものですか?」と尋ねられた時、「さあ、知りません」と言っているようでは、ダメ中のダメだ。
時間が余っているのに、質疑応答もなしにして、完全防衛体制に入っている講座や講演会は、お世辞にも質が高いとは言えない。

伊丹で私がこれまで遭遇した事例には、こういうケースが残念ながらあった。

「楽しさ」や「情熱」や「地域愛♡」云々よりも、まずは、正確さと展示そのものが活かされるように心配りができることが、肝心。

子供騙しは止めてください。
中高年を小馬鹿にするのも、止めてください。

(2022年3月13日記)

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