戦前戦中のマレー語学習書

伊丹市立博物館は、昭和47年に設立されましたが、この度、縮小されて統合移転し、今年4月22日に市立伊丹ミュージアムとしてリニューアル・グランドオープンされる予定です
(https://www.city.itami.lg.jp/SOSIKI/TOSHIKATSURYOKU/BUNKA/1601879955430.html)。

その移転計画に先立ち、私は前もって博物館友の会に2020年7月から入会し、活動に加わってきました。

友の会だより』には、これまで四度、拙文を掲載していただきました。本ブログ(http://itunalily.jp/wordpress/)の2021年11月11日付「伊丹と島本-むかしのくらし展を機縁として」では、伊丹市立博物館友の会の会報『友の会だより』第66号に掲載された拙稿を注付で、再掲させていただきました。

最新号の第67号(令和4(2022)年2月26日発行)には、「神戸における戦前戦中のマレー語学習書について」が掲載されています(pp.13-15)。紙面の都合上、元原稿にあった注が削除されておりますので、写真【a】から【g】を除き、ここに全文を投稿いたします。
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伊丹市立博物館友の会『友の会だより』第67号原稿(2022年1月29日提出済・2022年2月4日-3月3日注釈追記)
                                    
令和3年9月25日、総合教育センター2階研修室において、「神戸におけるマレー語学習について~戦前・戦中を中心に~」と題して研究発表をさせていただいた。まず、こぼれ話落穂拾いとして、発題設定の動機に関するエピソードを添えたく思う。

(1) 岡山県真庭市にあるJR久世駅構内の貼り紙【写真a】
私事で恐縮だが、令和2年8月中旬、主人の母方の里である久世町を10年ぶりに訪問した際、従来にはなかった「久世駅の思い出」と題する貼り紙を見つけた。そこには、大正12年生まれの当時94歳の男性の手記が掲載されており、「技術者だった兄」が「久世駅からマレー作戦に参加し勝利しました」と記されていた。(その二か月後、友の会の西田会長さんより研究発表のご依頼があった。)

(2) 伊丹市役所一階にある「遺児巡拝」ポスター【写真b】【写真c】
東京の九段南にある日本遺族会の事務局が作成したもので、政府補助を受けて、平成3年から毎年、父等を国に捧げた戦没者の慰霊追悼を各地で実施している。「ボルネオ・マレー半島」は四番目に列挙され、令和2年度、3年度共に9月29日から10月8日までの日程が予定されていた。

(3) 伊丹市平和都市推進協議会が平成5年と平成8年に編纂発行した『今、語り継ぐ市民の戦争体験』の二冊には、シンガポール、マレー半島、ボルネオ島等での戦時状況も具体的に綴られている(1)。

 後日譚を書き添える。発表の翌月中旬、芦屋市の谷崎潤一郎記念館を初訪問したところ、館内には、昭和16年(1941年)12月8日の真珠湾攻撃とマレー戦を大きく報じた、翌12月9日付『大阪朝日新聞夕刊』が拡大パネルで展示されていた。令和3年(2021年)はマレー戦勃発の80周年に当たり、時機が到来したともいえよう。

 ところで、昭和45年3月に出された『兵庫県海外発展史』という本には、金井元彦兵庫県知事が「神戸という開港地を擁して進取の気性に富む兵庫県人」と序文に書かれている(2)。「マライ半島への移民」については、明治18年に始まるシンガポールでの日本人商店の嚆矢等が綴られ(3)、兵庫県民の「マライ半島」での足跡も紹介されている(4)。
 
 発表者は、平成2年4月から平成5年4月までの三年間、国際交流基金の日本語教育専門家としてマレーシアのマラヤ大学予備教育課程に勤務していた。学生のべ300名は全員マレー・ムスリムであり、当時の国語普及キャンペーンから、マレー語学習が業務上も生活上も必須であった。その経緯から、日本国内でのマレー語学習書の状況について関心を持ち、帰国後、戦前から発行されたマレー語の辞書や文法書等の学習書を調べるようになった。(従来は「馬來語」「マライ語」「ムラユ語」等の呼称もあり、現在では国名を冠した「マレーシア語」が広く用いられているが、本稿では、言語学上の呼称として「マレー語」を用いる。)

 発表者の関心事は、出身地の愛知県では殆ど見つからなかったマレー語学習書が、なぜ神戸の公立図書館にまとまって保存されていたのか、ということである。20年以上前にも図書館職員に尋ねたが、「わからない」との回答だった。恐らくは、上記本にもあるように、「ミナト神戸」と称されるコスモポリタンな港町の神戸と関連があるのだろう。

 本発表では、結婚後に移り住むことになった関西での資料収集の経験談を中心に、約20年のスパンを経て、アメリカや旧ソ連の公文書館の資料が公開されたことにより(5)、現在では先の大戦の解釈が変化しつつあること、それに伴い、ほぼ忘れられた感のあった戦前戦中のマレー語学習書の資料を巡り、ここ数年、急速に研究が進展しつつある現象を、実物を回覧していただきながら、レジュメ資料で説明した。

発表者が初めて神戸市立中央図書館を訪問したのは、平成10年3月だった。当時はまだ、軍部の暴走を止められなかった日本政府の責任を追及し、反戦平和を唱道する風潮が主流であった。そのため、書庫から順に戦前戦中のマレー語学習書を出していただき、必要箇所を複写したりノートを取ったりしながらも、(このような資料は過去の遺物でしかないのだろうか)と暗澹たる気分だった。また、マレー語学習書の執筆者の背景を知りたくとも、まだインターネットでの情報検索が発展途上であり、調べる作業は困難を極めていた。

 その状況は平成17年頃まで続いていた。今回、友の会での発表依頼を機に、もう一度、資料確認の目的で神戸へ行ったところ、何と今では、神戸大学が新聞記事のアーカイブを作成しており、パソコン検索が可能であると、神戸市文書館で教えられた。また、夭逝して既に「過去の人」だと思われた『標準馬來語大辭典』博文館(昭和18年7月発行)【写真d】の執筆者の一人である奈良の宮武正道氏が、ここ数年の間に複数の研究者によって詳細に調査され、ご遺族提供の一次資料を基に、論文や一般向け書籍まで出版されていることが判明した(6)。さらに、本発表の5ヶ月前に、学術資料出版大空社の『アジア学叢書』から、戦前戦中期のマレー語学習書全5巻の復刻版が12万円台で発行配本されたのである【写真e】(7)。

 さて、神戸市立中央図書館には、近畿地方の各公立図書館に比して、戦前戦中のマレー語学習書がまとめて所蔵されている。その冊数は、博文館系列の戦前戦中の資料を収集した私立三康図書館を凌駕している。日本国内でのマレー語学習は明治期に始まっているが(8)、神戸市立中央図書館には、大正5年12月発行の中條駒三郎『最近馬來語會話』(岡崎屋書店)を嚆矢とする計4冊が書庫にあった【参照a】(9)。そして、昭和前期には4冊の字典や学習書が所蔵されていたが【参照b】(10)、大東亜戦争期に入ると突如、19冊ものマレー語の会話教本、文法書、講座、辞典等が発行されて【参照c】(11)、後に図書館に保管されたのである。

 戦前の日本では、世界情勢から資源獲得の競争に勝ち抜くため、南洋開拓と経営に関して、経済戦における兵器としてのマレー語学習が必須とされながらも(12)、現地の言葉を高度な水準で研究する機関の進展は微々たるものであった(13)。戦争が勃発すると、国運をかけて外国語学習に「馬来語」が奨励され、官立の外国語学校や高等商業学校等を中心に、各地でマレー語講座が開かれた(14)。その勢いは、戦中期には東京のみで50機関以上であり(15)、マレー語専攻者は開講された外国語科目の中で最多であったと記録されている(16)。大阪外国語学校のマレー語専攻志望者は、定員25名に対して、昭和13年には104人志願、昭和17年には578人志願と、凄まじい熱気であった(17)。全国で、マレー語履修者は万を超え、一冊数千部から一万部以上ずつ発行されたマレー語の辞書や参考書は、飛ぶように売れたらしい(18)。

 発表者の学生時代には、戦前戦中の日本軍政によるマレー半島での文教政策をほぼ全否定するべく批判的に語られ、そのように学校でも教わっていた。だが、新資料の開拓により戦時期の解釈が変化してきた昨今、もう一度、当時の資料を虚心坦懐に見つめ直す作業が必要なのかもしれない。

 最後に。伊丹市内の猪名野神社境内には護国神社がある【写真f】【写真g】。筆者は、平成31年4月23日の午後三時から、護国神社における英霊慰霊祭の神楽奉納を拝見した。玉垣には、昆陽口、港町、本町、外城町、堺住地区、北河原、猪名寺の各遺族会が刻まれている。このようなテーマを語る場合、お祀りされている魂の見守りとご遺族の感情を充分に意識することが大切だと、常に肝に銘じている。

《脚注》

(1) 『今、語り継ぐ市民の戦争体験-平和な明日への思いを込めて-』(平成5年5月)は、いずれも西宮市在住の方が綴っている(pp.21-22, 46-51)。『今、語り継ぐ市民の戦争体験Ⅱ-過去から明日へのメッセージー』(平成8年5月)は、戦後の現地での戦争裁判通訳者としての経験を詳細に記している(pp.119-133)。

(2) 『兵庫県海外発展史』兵庫県海外発展史編集委員会(編)昭和45年3月, p.1.

(3) 同書pp. 337-341.

(4) 同書pp. 611-613.

(5) ミトロヒン文書(1992年)、ヴェノナ文書(1995年)、フーバー米大統領『裏切られた自由』(2011年)、若杉要『米國共産黨調書 外務省亞米利加局第一課』(昭和16(1941)年2月)(2021年)等、アメリカや旧ソ連の公文書館の資料が公開されたことにより、明らかになった事実が次々と公刊され、現在、邦訳も精力的に出版されている。それによれば、旧ソ連の左翼勢力スパイによる民主党のルーズヴェルト政権内部での工作や暗躍があり、日米対立や日華戦争を煽ったのだという。
「ミトロヒン文書(1992年)」については、原書 Christopher Andrew/Vasill Mitrokhin “The Mitrokhin Archive II: The KGB and the World” Allen Lane, 2005. “Mitrokhin Archive: The KGB In Europe And The West” Penguin U.K., 2006. “The World Was Going Our Way: The KGB and the Battle for the Third World” Basic Books, 2006.を参照のこと。
「ヴェノナ文書(1995年)」については、原書 John Earl Haynes/Harvey Klehr “Venona: Decoding Soviet Espionage in America (Yale Nota Bene) ”, 2000.を参照のこと。
「フーバー米大統領『裏切られた自由』(2011年)」については、原書 George H. Nash “Freedom Betrayed: Herbert Hoover’s Secret History of the Second World War” Hoover Institution Press Publication, 2011.を参照のこと。その他、若杉要『米國共産黨調書 外務省亞米利加局第一課』(昭和16(1941)年2月)(2021年)江崎道朗(編訳)扶桑社 2021年5月も発行されている。

(6) 黒岩康博「宮武正道の「語学道楽」趣味人と帝国日本」京都大学『史林』第94巻第1号2011年1月, pp.125-153. Kuroiwa Yasuhiro, “Military Mail for a Linguist: Soldiers Who Support and Profit from the Language Studies of Masamichi Miyatake”, “ZINBUN” Vol.43, March 2012, pp.35-50. 黒岩康博「宮武正道宛軍事郵便-インドネシア派遣兵士と言語研究者-」天理大学『天理大学学報』第66巻第1号 2014年10月, pp.103-122. 舟田京子/工藤尚子「日本におけるインドネシア語教育の先駆者-宮武正道の辞典に関する考察-」神田外国語大学『神田外語大学紀要』29号2017年3月, pp.85-112. 工藤尚子「宮武正道とインドネシア語研究-軍事郵便を中心として-」日本インドネシア学会『インドネシア言語と文化』第23号 2017年, pp.101-118. 上田達/James T.Collins/Karim Harun「宮武正道によるマレー語辞書の特徴に関する覚え書き」摂南大学外国語学部『摂大人文科学』第25巻 2018年1月, pp.137-158. 安達正興『奈良きたまち異才たちの肖像』奈良新聞社(2019年10月)には、ご遺族との面談や数多くの写真が含まれている。大内泰夫(天理教語学院)「日本語教育と海外伝道(24)歴史の中の留学生③『グローカル天理』Vol.21 No.7, 2020年7月.

(7) 第49回配本(バチー・ビン・ウォンチ/平岡閏造『馬来-日本語字典』・増淵佐平『実用馬来語辞書』・上原訓蔵『最新馬来語教本 附馬日・日馬・小辞典』・宇治武夫『馬来語広文典』・鶴岡一雄『標準マライ語文法』)の全5巻である。

(8) 釣田時之助(編)『馬來語集』三光堂(明治45年2月発行)

(9) 【参照a】中條駒三郎『最近馬來語會話』岡崎屋書店(1916年)・柴田善次郎『馬來語獨習書』大日本図書(1917年)・菊池惠次郎『初等:馬來語獨習』博文館(1919年)・徳川義親『馬來の野に狩して』坂本書店(1926年)

(10) 【参照b】村上清『馬來民謡:南洋民族性の観察 附:爪哇影繪』正々堂・大阪(1933年)・上原訓蔵/バチー・ビン・ウォンチ(校閲)『馬來語教本(Pimpin bahasa melajoe)』新生堂・大阪(1935年)・平岡閏造/バチー・ビン・ウォンチ(共著)内藤政廣(校正)『馬來-日本語字典』臺灣総督府・南洋協會臺灣支部・臺北(1935年)・徳川義親/朝倉純孝(共著)『馬來語四週間(Bahasa Malayu dalam ampat minggu)』大学書林(1937年)

(11) 【参照c】竹井十郎『最新馬來語速習』太陽堂(1939年)・武居喜春『實用馬來語會話(Perchakapan Bahasa Melayu yang berguna)大学書林(1941年)・上原訓蔵『馬來語要諦:最新』誠美書閣(1941年)・上原訓蔵『最新馬來語教本(Pemimpin Bahasa Melajoe)』新生堂・大阪(1942年)・薗田顯家/宮武正道(共著)『標準マレー語講座』(1巻/2巻/3巻)横浜商工会議所・横浜(1942年)・宮武正道『標準マライ語第一歩』青木學修堂(1942年)・山路廣明『馬來語の研究』三省堂(1942年)・武富正一『馬來語大辭典』旺文社(1942年)・武村進『再販 実用馬來語入門:スグ間ニ合フ実用馬來語入門-単語より会話まで-』大和出版社・大阪(1942年)・宮武正道『大東亞語學叢刊 マレー語』朝日新聞社・大阪(1942年)・太田榮三郎『實務マレー語辭典』櫻木書房(1942年)・若林文次郎『活用馬來語』湯川弘文社・大阪(1942年)・上原訓蔵『標準上原マレー語』(別タイトル:『標準上原マライ語』)(1巻/2巻/3巻/4巻)晴南社(1942年)・朝日太郎『馬來編年史:スチャラ・マラユ 附録:馬來物語(ラフルズ写本第18号梗概)』東亜研究所(1942年)・監出眞澄『馬來語新聞の讀み方』螢雪書院(1942年)・宮武正道『文化科學叢書 南洋の言語と文學』湯川弘文社(1943年)・竹井十郎『最新日馬辞典』太陽堂書店(1943年)・鶴岡一雄『標準マライ語文法』南洋協会(1943年)・小林新『マライ語商業文』三省堂(1945年)

(12) 大阪外國語學校の中目覺は、大正11年(1922年)7月11日付で、ワシントン会議により、この先十数年あるいは数十年は戦争の惨害を見ないで済むかもしれない、と希望を寄せ、八方に敵を有する「經済戰に於ける兵器」は「敵國の語に通ずる」ことだと述べる。(臺北に置かれた臺灣総督府の南洋協會臺湾支部発行の平岡閏造/バチー・ビン・ウォンチ(共著)内藤政廣(校正)『馬來-日本語字典』(1935年8月31日発行)の「序」)

(13) 「馬來語研究の機關に至りては遺憾に堪へぬ狀態にある」(同書)。

(14) 小林和夫(創価大学文学部教授)「大東亜共栄圏構想と国民のアジア語学習-馬来語の事例-」『社会学評論』275号 第69巻3号 2018年 pp.338-354.

(15) 小林(2018:340, 350)によれば、日本大学・東京農業大学・興亜専門学校(昼間正規)・慶応義塾外国語学校・興南学院南方語学校(講習会)・山口高商・長崎高商・横浜高商・横浜専門・福岡専門・拓南塾・日大・明大・東洋大・農大・東京帝国大学文学部等で開講。

(16) 小林(2018:341-2)によれば、1941年9月に開校した興南学院南方語学校では、馬来語定員は200人と最多。慶応義塾外国語学校が開学した1942年は、開講21言語中、馬来語専攻者は271人で全体の28.7%と最多。

(17) 小林(2018:341)

(18) 小林(2018:341)

《謝辞》(敬称略)

神戸市立中央図書館/神戸市文書館/神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ/三康図書館(東京都)/大阪府立中央図書館/京都府立図書館/奈良県立図書館/同志社大学今出川図書館総合情報センター/大阪府島本町立図書館/伊丹市立図書館(ことば蔵)/戸谷修(三重大学名誉教授)

(以 上)
……………………
PS:謝辞に掲載した三重大学名誉教授の戸谷修先生は、今も御健在です。今年、寒中見舞いをいただきました。

過去ブログをどうぞ。

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20070722)
《名古屋で大変お世話になったアジアエートス研究会(2003年をもって閉会)の戸谷修先生》

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20080325)
《大学間競争は学問の破壊に結び付くと強硬に反対されていた、名古屋の「アジア・エートス研究会」(2003年6月で閉会)のM教授やT教授の含意は、ここにも裏付けられるかと思います(参考文献:あるむ出版社『アジア・エートス研究会―その四十年の軌跡』2003年5月 p.vi)。》

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20090116)
《先生からは、15年以上も、多くのお葉書やお手紙をいただきましたし、古いマレーシア関連の統計や法律の本や地図や辞書など、貴重な資料をどっさり譲っていただきました。》

(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20110217)
《名古屋でお世話になり、マレーシアの古く貴重な資料をどっさりとお譲りくださった国立大学名誉教授からでした(参照:2009年1月16日付「ユーリの部屋」)。》

(リスト終)
……………………….
2022年8月11日追記

上記の戸谷修先生から、昨日、暑中見舞い葉書が届きました。

以前から、細かい字でびっしりと近況等を綴ってくださる先生でしたが、さすがは昭和一桁世代、律儀でご自身を律する姿勢がしっかりなさっています。今もお元気でいらっしゃる由、安心しましたし、大変うれしく思いました。

昨年9月の博物館友の会の研究発表でレジュメと実物で示した『馬來語大辭典』を私に無料でくださったのは、戸谷先生でした。

この先生の研究グループは、平成時代の学的風潮には合致せず、いわば「古い世代」に属するのかもしれませんが、実は本流を歩んでいらしたのです。それを立証したくて、昨年、伊丹市内で発表させていただきました。

貴重な資料の整理はまだ終わっていません。今後、私自身がどこまで取り戻せるかにかかっています。

以 上
…………..
2023年10月11日追記

(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)

マレー半島とボルネオ島です。
。。。。。。
(https://www.facebook.com/izokukai.office)

日本遺族会事務局
2023年10月11日投稿

【戦没者遺児による慰霊友好親善事業】報告

 日本遺族会が厚生労働省から補助を受けて実施している海外への慰霊の旅「戦没者遺児による慰霊友好親善事業」が本格的に再開し、西部ニューギニア、トラック・パラオ諸島に次いで、9月27日~10月6日の期間でボルネオ・マレー半島慰霊友好親善訪問団が派遣されました。 
 A班はジョホールバル、コタブル・テンギラン、パパール、ラブアン島、B班はサマリンダ・ロアバコン市内、バリクパパン(南方方面戦没者慰霊碑、マンガム海岸)の各地で慰霊祭を執り行いました。また各班それぞれの地域で、孤児院や障害者施設を訪問して衣類や学用品をプレゼント、子供たちと親しく交流するとともに、現地の医療機関に車椅子を寄贈するなど友好親善を図り、全員無事に帰国いたしました。
(この事業は先の大戦で父を亡くした戦没者の遺児の皆様が、父の眠る地へ赴き心ゆくまでの慰霊追悼を行うとともに、現地の方々との友好を深めることを目的としています)

(転載終)

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三菱電機「京都製作所」

昨日付『京都新聞』電子版のトップ見出し

三菱電機「京都製作所」の名前、3月末で消える 家電・映像部門の生産拠点

が目に飛び込んできた。

三菱電機は1日、家電・映像部門の主力生産拠点「京都製作所」(長岡京市)を3月末で解消すると発表した。
4月から営業やサービスなどの拠点となり、従業員の一部は配置転換する。収益力の強化に向けた事業構造改革の一環。
かつて花形のテレビ事業を担い、今年で設立60年を迎えた京都製作所の名前は消えることになる。

……..
ここは、2020年(令和2年)4月上旬に亡くなった主人が(https://itunalily.hatenablog.com/entry/2020/09/05/144412)、入社以来、尼崎にある伊丹製作所に転勤する2018年9月末まで勤め続けてきた場所である。
ちょうど私が国際交流基金の派遣専門家として、1990年代初期にマレーシアで仕事をしていた同じ時期に、主人はここから社費で米国留学に出していただき、その後、米国東部での駐在経験もさせていただいた。

三菱電機社史 創立60周年』という厚さ6センチの立派な本が手元にある。
技術分野は日進月歩であり、前進あるのみ。今更、過去の栄光を振り返っても無意味だ、という意見があるかもしれない。
また、昨秋以降の三菱電機の不祥事報道とメディア・バッシング等もあり、もともとこの会社にいい感情を持っていなかった方々も少なくないのかもしれない。

だが、私には決してそうだとは思えない。
この会社が生み出した技術のお蔭で、我々が快適に生活を送ることができたのは、まず疑いがない。
また、少なくとも、今の私の生活が成り立っているのは、この会社のお蔭であることは間違いない。無念ながらも死亡退職になったとはいえ、主人の35年間の勤務の賜物である。それなくして、結婚以来の私は私ではあり得ず、今でも路頭に迷っていたことだろう。

遅々として進まない荷物の整理中だが、「第二の結婚生活」として、還暦前で終わってしまった主人の人生を、私なりに少しずつでも振り返っていきたいと日々思っている。
……..
私達が知り合った頃、主人の経歴はピークだった。

電子メールもアメリカが先導していた頃で、デジタル技術の画像圧縮を専門としていた主人は、会社の主力プロジェクトの若手一員として、意気揚々としていた。

しかも、アメリカ東部に二度も計4年ほど生活していたとはとても思えない程、落ち着いていて柔和な印象だった。同時に、内に秘めた意志が強そうで、すくっと一本筋が通って、いかにも日本男児らしかった。
コツコツと細かい部分も丁寧に積み上げ、ハッタリの利かない分野だったので(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20091214)、根気強く粘りのある地味な主人にとっては、ピッタリの職だと私は思っていた。
おとなしい性格なのに展望の広い勇敢な面もあり、それは主人の母方の士族系の血と三菱精神の影響だろう、と私は解していた。経済的に繫栄していた時代の後押しも大きい。

先端の技術分野を世界トップの大学で勉強させてもらえたことが、いつでも主人の誇りと自信の元だった。
だが、結婚後一年で発症した若年性神経難病のため、徐々に業績が下降し、体力的に低迷し、精神的にも混乱していった主人の姿しか、私は知らない。今や全ては、遠い昔話なのだ。

悲しいことに、家族親戚一同の中では、唯一私のみが、主人の35年の会社人生を知り得る立場にある。母方の祖母、伯父、従妹、叔母と、徐々に人が減ったせいもあるが、その他の人達は、無関心か、理解意欲に欠けるか、自分の家のことで多忙か、とにかく放り投げ状態だ。
母方の田舎は一族全員の墓地がしっかりと整備されているものの、それ以外は、父方のお墓の管理まで、他所から来た嫁の私一人に丸投げして平気である。

第一、結婚式まで挙げたのに、主人の来歴をきちんと知る人が、私側の家族親族にはいなかった。自分の尺度や好みの範囲内で、表面だけで人を判断しようとするから、こういうことになるのだ、と私は思う(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20170828)。有り体に述べると、自分の都合の良いように人を利用しようとする「育ちの悪さ」が、そうさせるのであろう(2022年2月26日付(http://itunalily.jp/wordpress/))。これは、しばしば家の中で主人がつぶやいていたエピソードを思い出すうちに、ここ二年程でようやく辻褄が合うようになり、やっと私が下した結論でもある。

荷物の整理をしたり、結婚前の元気だった頃の主人を知る人々の話を聞いたりするにつれて、主人の神経難病の原因は、恐らく、こういう偏った生育環境や家族関係に起因するのではないか、と私は感じている。三世代前からの両系の家系を辿る作業からも、それが言えそうである。

結婚後に発症したから「難病になったのは、全部妻のせいだ」と言う人も身近に複数いた。義兄と私の母親である。だが、発症の機序や病理を知るならば、無知以上に、とんでもない暴言だ。

そういうこともあってか、最低限の葬儀や法事と毎年のお年賀状交換以外、我々二人は半ば孤立した感じで、会社の仕事と体調を整えることだけが焦点となり、日々の暮らしに精一杯だった。

それでは、お世話になった会社にあまりにも申し訳が立たず、主人の長年の努力も水泡に帰す気がしたので、ここに雑感を記す。
………
当時は、米国出張に来られた上司等が、留学中の主人の様子を写真付きで社内広報していた。また、事務担当の若い女性が、主人宛に毎月、手書きで会社の近況を知らせる手紙を送ってくださっていた。

あの頃、入社した以上は社員一同、家族ぐるみで皆が準家族のような対応で、単独渡米した主人の業務と米国での生活を全面的にバックアップしていらしたことが如実にうかがえる。
米国出張の際には、会社が薬一式(頭痛薬、酔い止め薬、胃腸薬、解熱剤、風邪薬等)まで用意してくださり(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20170828)、「健康に気をつけて頑張ってください」というメモ書き付で送り出してくださっていた。

結婚当初、主人は「うちの同期は仲が良くて、一緒に旅行もしていた」と、嬉しそうによく言っていた。親しく接してくださる恩返しの気持ちもあったのか、旅行企画は大抵、主人が率先して立てていた。

古い写真の整理をすると、二十代の頃は、皆で一緒に、山登りやスキーやテニスをして楽しんでいた様子がうかがえる。主人にとって、もっとも心安らぐ、大切な時間であったはずだ。仕事への意欲や活力を湧き立てられた時期でもあった。

振り返ってみれば、専門性は厳しくとも、あの頃の社風は全体的におおらかで、和気あいあいとした雰囲気が充満していた。だからこそ、生産性も上がったのだろう。
……..
私自身は、35歳から転勤まで、毎年1月8日には扶養家族の健康診断の際、この製作所のはつらつセンターでお世話になった(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20080109)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20150111)。
通常の健康診断項目に加え、腹部や胸部のエコー診断や聴力検査、眼底カメラ撮影等、細かい検査項目があり、しかも初めの数年間は無料だったので、「私にまでそんなに良くしていただけるんですか?」と、恐縮しながらもありがたかった。

最初の頃、結婚前後を巡るドタバタ騒ぎで、花粉症や関節痛や外耳炎や結膜炎や椎間板ヘルニア等、私には何かしら体調不安定な面もあった。だが、毎年の定期健康診断のおかげで、ぐんぐんと元気になれた。私の健康状態が主人の業務成績に関わるとも思えば、病気なんかしていられない、と意識するようになった。
いつの間にか花粉症も椎間板ヘルニアも自然完治(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20080119)(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20130315)、当初抱えていた他の症状も、今やほぼ消滅している。
……..
伊丹への転勤は、所属していた先端総研の統合のためで、会社都合によるものだったが、主人自身の希望でもあった。

だが、若年性神経難病の診断を下されて20年という節目だったので、本人の意識はともかく、会社側は懸念もあったに違いない。伊丹の上司が半年程、京都に来て、面接や参与観察等で様子を見ていらしたようだった。
最初で最後となった家族行事も、私が参加したことで、とりあえず、転勤はゴーサインになった。
……..
国会を通過した難病患者の就労支援の法整備も、私共にとっては実にタイミングがよかった。
当時は2%の「障害者枠」のおかげで、就労義務から会社も支援せざるを得なくなったのである。100人の従業員のうち、障害手帳を保持している者2人を雇わなければならなくなった。

だが、この法律は、雇い主側にとっては大きなお荷物である。生産に逆行する支出負担が大き過ぎるからである。本来、入社当時は健康診断書を提出の上、心身共に健康な人のみが雇われていたはずだったのに、いつの間にか、障害者や病気を抱えた人も雇用対象に含められ、生産性は著しく低下することになった。
会社に来るのはいいが、途中で転倒したり事故に巻き込まれたりしたら、労災の対象。そこでまた、手続きやら支出やらで、煩雑な過程を経ることになる。さらに、職場環境にも配慮しなければならず、そのための予算も組み入れる必要が出てきた。

「働きたい」「働かないと生活できない」という必死な思いは、患者や障害者にとってもっともな叫びである。
だが、客観的に考えれば、生産性が向上してこそ、余剰として福祉に回せる資金が生み出せるはずである。必要な人々には、そこから資金を充当すべきである。

社会福祉を先行させ過ぎると、当事者は助かるかもしれないが、巡り巡って疲弊が大きいことにも充分留意しなければならない。「弱者に寄り添う」「安心して生活する」ことばかり考えていたら、物事の順番が逆転してしまう。
………
主人だって、米国留学や駐在が可能になった頃は、勿論、健康状態は良好で、むしろ「頑丈」とさえ評する人もいたぐらいだった。
だからこそ、この優遇措置は、あくまでも「38歳の若さで神経難病になったのは、業務で無理をさせたからかもしれない」という、元上司の判断と配慮のお蔭であった。

そのように取り計らっていただけたのも、若い頃の主人の頑張りや真面目一本やりの性格のためでもあっただろう。明治生まれの祖父母4人に囲まれて末っ子として育ったので、会社に入っても、どちらかと言えば年長の方達に目をかけられてもいた。

また、どういうわけか英語の勉強が好きで、週末には英語学校にも通い、熱心に勉強していた。そこで知り合った人達からも親切にしていただき、いい刺激を与えられ、社内の英語検定でも高成績を維持していたために、給与への反映につながった可能性も考えられる。

そういうわけで、進行性難病のために業務成績は低下する一途を辿っていたのに、給与は据え置きのままにしていただき、2019年1月に三週間、阪大病院に検査入院する前までは、ずっと同額であった。

その恩恵は計り知れない。

一方、(いつ首を切られても仕方がない)という覚悟で、私自身は、日々、薄氷を踏むような気持で倹約に倹約を重ねつつ、これ以上、病気を増やさないように、トラブルを起こさないように心がけるだけでも必死だった。
福祉制度等、政権によってはいつ終了するか、わからない。「人を当てにするな」という子供時代の両親の厳しい躾は、こういう時に役立った。
………
大企業のため、各地域に展開した製作所によって、かなり事情や職場環境が違う面もあることだろう。だが、謗られるばかりの会社では、決してない。

私と過ごした実質時間以上の長期に及ぶ期間を、この会社の職場で過ごした主人だった。論文も特許もたくさん書いた。数々の賞品もいただいた。神経難病の診断が下されて4年目の2002年の時点で、優秀発明賞までいただいていたことを、私は主人亡き後に知った。

同じ難病に罹患したとしても、中小企業だったならば、ここまでの待遇が不可能だったことも考えられる。こればかりは、運不運の問題でもある。

また、グローバル経済の競争激化から能力成果主義が導入されてしばらく経つが、何が起こるかわからない人生において、改めて、日本株式会社の特質と評判だった終身雇用や年功序列のありがたみを再評価し、再考すべきではなかろうかと、私は思う。

主人の人生を振り返ると、私から見ても無念極まりないことが多々あった。決して本人の責任ではないのに、繋がっている血縁関係や居住環境のために、過度に負担を背負わされ、何かと不利益を被ったことも少なくない。

それにもかかわらず、決して運命のせいにせず、むしろ境遇を克服しようとして、小学生の頃からひたすらコツコツと意志強固に向上心を持ち続けてきたことは、確かである。
田舎の母方の祖父母や伯父さん達が遠くから見守ってくださっていたお蔭で、大阪でも頑張れた(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20151111)。

そのことが、大学や大学院での好成績や、入社後の社内評価につながった面が大きいと、私は信ずる。
………
昨今の風潮として、「後ろを振り返らず、生きている人や今現在の方が大事」という傾向がある。子孫が繁栄して、忙しくも充実した毎日で、幸福感に満ち満ちた人にとっては、恐らくそうだろう。

だが、皇室問題や経済低迷、人口縮小等、今の日本の状態に鑑みて、私は決してそのようには考えない。
本来ならば、かくあるはずではなかったのだ。これは、断固として私は言える。
その原因を探り求め、考えをまとめ、気持ちを整理しようとして、長期に及び、私はブログを書き続けてきた。

病気のせいで、米国時代にかかった多大な人件費やたくさんの恩恵を会社に充分恩返しできないことに対して、「情けないよぉ」と、主人はいつも悔しがっていた。
また、病気が進行するにつれて、退職後の自分の生活が恐怖であるとも怯えていた。
そんな主人を、プライドを傷つけないように最大限、配慮してくださったのは、京都製作所の先端総研であった。

京都製作所と転勤後の伊丹製作所で主人に関わってくださったすべての方々に、心からの感謝と同時に、長年、ご迷惑をおかけしたお詫びを申し上げます。
長きにわたり、本当にお世話になりました。

PS:認知症も含めて、神経難病は、昨今急増中の社会問題である。高齢化社会のみならず、若年性の罹患も増えていることが特徴である。必ずしも、生活習慣病ではない。
これは、患者当人の苦痛もさることながら、家族介護者の人生も大きく揺るがせにする。医療費や介護費もうなぎ上りのため、全体として社会負担が大きい。
「それも運命だ」とか、「自分とは関係がない」という投げやりな無関心ではなく、国民全体に影響を及ぼす多大なる社会損失の角度から考慮すべきである。
私自身は、広い観点での予防医学も含めて、家族看護の立場から、この主人の疾病問題を大学院で考察してみたい。

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大山古墳を巡る議論

2022年2月27日投稿のフェイスブックから。

【仁徳天皇陵は誰の墓?】仁徳天皇の墓とされる『大山古墳』…出土品や没年などから「仁徳天皇の墓ではない」と専門家の間で論争が(2022年2月18日) – YouTube
(https://www.youtube.com/watch?v=k_fHR4lykvo)
(9:54)

ユーリ:そして、ではなぜ仁徳天皇陵だとされてきたのか、の解明もお願いいたします。

ユーリ:古事記・日本書紀にも記述があり、現在の宮内庁の祭祀は正しい、とも語られています。

ユーリ:このビデオでは、誰もが普通に考えそうなことを学芸員がもっともらしく語っている。

ユーリ:20年ぐらい前、自分の研究テーマとの関連で、聖書学の専門書や論文を見ていたことがあった。当然、イスラエルの考古学とも関連。ドイツの聖書学は、あらゆることを理屈で疑って、聖書本文をバラバラにし、権威を落とした。ユダヤ系のイスラエルの学者は、発掘調査と聖書本文の照合をして、学問的には正確に、しかし民族の伝統を壊さないように記述した。我々が学ぶべきは、ここでは?古墳の発掘調査の結果、従来の伝承が間違っていた、と勝ち誇ったように主張する人が時々いる。だが、問題はそこには、ない。唯物史観の間違い。

ユーリ:宮内庁がなぜそうしているのか、背景と理由も考察すべき。批判だけすれば済むものでは、ない。

……
ご紹介いただいた説を以下に。

桜田 和之 | Facebook
2022年2月26日投稿

【大山古墳は仁徳天皇の墓】
またまた神野さんからのご紹介ですが 、

【仁徳天皇陵は誰の墓?】(2022年2月18日)という動画です。https://www.facebook.com/100002059119019/posts/4844098602335396/

この動画のなかで、白石太一さんが述べられている見方は正しく、大山陵(大仙陵)古墳は仁徳天皇陵でよいと思います。否定論者の岸本直文教授が言うように、大山古墳は確かに5世紀中頃の古墳ですが、動画の中で紹介されている1枚目のスライド(岸本説に基づく)に書かれた天皇の年代推定は誤っていると思うからです。

【倭王「讃」を応神天皇に比定する説】https://www.facebook.com/100001527825147/posts/5042938965766981/ で述べたように419年には応神天皇はまだ存命されています。

【稲荷山鉄剣と七星連珠】https://www.facebook.com/100001527825147/posts/4783417565052457/ で述べましたが、雄略天皇の十五年は471年です。したがって雄略元年は457年となります。雄略朝以降は『日本書紀』の紀年(元嘉暦による)は正しいです。

となると、仁徳天皇の崩御は419年から457年の間のどこかということになります。この38年間に、応神、仁徳、履中、反正、允恭、安康の6代の天皇がひしめき合っています。したがって仁徳天皇の崩御は5世紀前半から中頃であると推定できます。おそらく440年頃になろうかと思います。これは七支刀という伝世品と、稲荷山鉄剣という出土遺物から導かれる帰結です。

岸本教授が動画の中で指摘しているもう一つの根拠は、民が苦しんでいるから税を3年間免除したという徳のある仁徳天皇には巨大古墳は似つかわしくないというものですが、これについては、【巨大古墳はなぜ造られた?】https://www.facebook.com/100001527825147/posts/5026810024046542/ で書いたように、巨大古墳が造営されたのにはある目的がありました。民が自らの意思で巨大古墳を造ろうとした驚くべき仕組みがそこにはありました。

桜田 和之 | Facebook
2022年2月16日投稿

【巨大古墳はなぜ造られた?】

大仙古墳は仁徳天皇御陵でよいと思うが、それではなぜ民の竈の煙が上がらないことを心配した仁徳天皇が、途轍もなく労力のかかる巨大古墳を造らせたのか?
そこに前方後円墳の意味を解く鍵 がある。
政治権力のモニュメント?
それでは謎は解けないように思います。

(https://www.youtube.com/watch?v=ZkUIMRTEe-k)
#bbcreel #bbc #bbcnews
Japan’s mysterious ‘keyhole’ tombs – BBC REEL
1,893,488 views
Nov 8, 2019

(転載終)

以上、素人のにわか勉強ですが、神野先生、桜井先生、ご教示ありがとうございました。

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徳を積むということ

2022年2月24日付ブログ(http://itunalily.jp/wordpress/)「来し方行く末を想う」に記したように、天皇誕生日に公開された記者会見のお言葉では、特に「徳を積む」話が再び印象的だった。

大覚寺の歴代天皇(嵯峨天皇、後光厳天皇、後花園天皇、後奈良天皇、正親町天皇、光格天皇)による般若心経のお話や、花園天皇が皇太子の量仁親王に宛てた『誡太子書』への言及に示唆され、七名の天皇様の御事蹟について、インターネット情報ではあるが、ざっと学んでみた。

それにしても、まだまだ勉強不足の天皇様がたくさんいらっしゃる。古代史の論争や専門書や論文を読んだから理解できた、とは到底言えない。戦前のように、小学校の頃から「あの天子様は、こういう御代であった」というように、ダイジェスト版で少しずつ学んでいたならば、もっと国体や国史について基本軸がしっかりし、民間防衛の意識を持てたのではなかったか、と思う。
情報操作が最も恐ろしいが、安易に操作に乗るようであってはいけない。時が良くても悪くても、普段の備えが重要だ。
………
さて、「徳を積む」は、「陰徳陽報」や「積善の家に余慶あり」を思い出させる(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20180419)。
だが、尽くす相手を間違えて、とんでもないことになっている場合も時に散見されるので、要注意である。
どう見ても、結果的に人の好さを一方的に利用されるばかりの人も、身近にいた。徳を積んでいるようでいて、実は完全に「搾取」されていたのだった。

例えば、嫁の実家の方が家柄も生活水準も圧倒的に上で、嫁本人が嫌がっているのに親の意向で盲目的に娶せられたケースである。
夫側にとっては儲けもの。本来、「お嫁さん、来ないねぇ」という状態だったのに、田舎のいわゆる良家から、話半分で強引に連れてきた。お見合いどころではない。戦後なのに、日本国憲法の第24条第一項の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有する」等は、どこ吹く風。

それでも、家に上げて「結婚」してしまえばこっちのもの。「うちの嫁は〇〇の出身で」と言えば、世間的に自分の「格」も上がって通りが良くなり、家の中にある不釣り合いに立派な調度や掛軸等は、全て「嫁の実家が送ってきた」と誇らしげに飾っていた。

娘が大切に遇されることを期待して、嫁の実家は毎年のように、上等な着物やきちんとした調度や手作りのお寿司やおいしいお米や孫用の立派な実印等を、誠に律儀に送ってきたようだ。しかしながら、聞く限りにおいて、何ら見返りがなかったらしい。嫁した以上は女中のように扱われ、朝から晩まで働き詰めであった。

それを見て育った孫の一人は、恩返しというものを完全に知らず、一方的にもらいっ放しで平然としていた。今でさえ、そうである。挨拶もお礼も一言もない。

「嫁とは、家の中で利用できる限り利用し、ちょっとした不足や過失を咎め尽くし、とことん虐めるのが普通である」と学習してしまったのだ。戦後の昭和や平成のみならず、令和になってさえも、家の中ならわからないとばかりに、全く勝手気儘だ。

「未必の故意」「認識ある過失」の相違は難しいところだが、まさにそのどちらかに該当するような行為も、平気で行っていた。いわゆる第三者、複数の公的機関もそれを記録している。当事者のみが、ぎゃあぎゃあと喚きたて、言い訳ばかり長々と述べ立て、誰も相手にしないのに一人で憤慨。それでも長年、家の中では通っていたのだろう。

「嫁をもらう」という言葉があるならば、他家からいただいた女性は、妻として大切にしなければならない。「うちに来たのだから、世話してもらって当然だ」と思い込んで当てにしている家は、表向き取り繕っていても、大抵、トラブル頻発。当座はよくても、結局は病人が出たり、次世代にまで影響が及んだりして家運が下がり、衰退して途絶える(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20100209)。全く迷惑な話である。
……..
ところで、2018年1月中旬のこと、会合の後に、たまたま信号待ちで立ち寄った大阪市の区役所の掲示板の前で、思わず足がすくんだ。市役所や税務署や法務局の掲示板にも貼ってある「死亡者の相続人探し」の紙である。
亡くなったのに、家族や親族が一人も現れず、恐らく役所の手によってお焼骨までは終わったのであろうか、孤独死を象徴させる紙切れである。

若い人だと、私の年齢相当の場合もある。本籍と住所が異なることが大半で、本籍は地方出身を示している。どういう暮らしをしてきたのかわからないが、何とも痛ましく、理由や背景を知りたくもなる。
その人自身に原因がある場合もあるだろうが、勝手に無視して放置された場合もあるだろう。利用されるだけ利用され、人嫌いになって孤立してしまったケースもあるだろう。

私もそうなるのではないか、と心配になり、ある公的機関に尋ねてみたことがある。回答は「あなたの場合は大丈夫でしょう。問題ありません」。

本当にそうだといいが。
……..
というわけで、「(陰)徳を積む」という天皇陛下のお言葉について、自分なりに熟考してみた。

人に利用されないためにも、真心の善意のみならず、悪用を撥ね退けるだけの強さを内面に持たなければならない。そして、小さな過失さえも咎められないよう、常に身の回りをきちんとし、道義的にも倫理的にも責められるところのないように生きていなければならない。常に首尾一貫し、己の信じる在り方を貫き続ける。安易に付和雷同しないことだ。

私の対策法は、専ら自宅で読書だった。乱読気味かもしれないが、手当たり次第、硬派の本を次々に読める間に読んでいた。足りない知識を少しでも補い、騙されないためである。

そして、何でもメモを取り、写真や書類の複写で証拠を残し、記録を残し続けてきた。今も、未整理のまま積み上がっているメモの山がある。

また、無粋で要領が良くないかもしれないが、人目を気にせず、ストレートに物を尋ねて、理解に曖昧不明な点を残さないよう、日々心掛けてきた。また、身分不相応の背伸びや見栄を捨て、分に応じて活動するように努めてきた。

堅苦しいぐらいの方が、かえって身を守ることができる。そして、不必要にあちこち出歩かず、守備範囲内で堅実に行動することで、心身の健康と金銭状況を維持する。

その他は、一般常識と礼儀作法に基づいた言動をする。

その上での陰徳だと、私は思う。

この度の天皇陛下のお言葉は、淡々とされていたが、穏やかな中に、凄みや気迫も伝わってきた。長年の鍛錬の賜物であろう。

PS:令和4年の天皇誕生日の記者会見で、般若心経を巡って計七名の歴代天皇について言及されたが、皇太子時代の平成29年の御誕生日記者会見でも、計七名の歴代天皇の般若心経に触れられていた。そこで、重複しない天皇三名である伏見天皇、後土御門天皇、後柏原天皇についても、同じくインターネット情報で簡略ながらも学び直した。

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お酒の歴史のミニ学習

(https://ja.wikipedia.org/wiki/御免関東上酒)

御免関東上酒とは、江戸幕府監督のもと、関東の商人や農民が造った関東産の酒である。江戸幕府はこれを下り酒に劣らぬ品質にすることを目標としたが、結果は芳しくなかった。

大消費地江戸で消費される日本酒はほとんどが下り酒で、さらに下り酒の7割から9割は、摂泉十二郷と呼ばれる、伊丹や灘の周辺地域で産した酒であった。

いっぽう、現在の関東地方とほぼ等しい関八州では、江戸がその中心地で、また幕府の直轄領が多いにもかかわらず、産業収益率が上方や西国に及ばず、また江戸期の日本経済はおおまかには「西高東低」だった。

関東の地酒である地廻り酒は、江戸の消費者にとり「下り酒」の反対語、「地廻り悪酒」などと悪口を叩かれ「安物の酒」とか「まずい酒」といったニュアンスがあった。江戸の庶民は高価でも下り酒を買い求め、地廻り酒は売れなかった。

江戸の商品需要をかように上方からの下りものに頼ると、輸送費がかかる分だけ江戸では消費者物価が高くなる。また大量の金銀が江戸から流出することにも繋がる。このような状況が続くのは、為政者である幕閣にとっても好ましくないため、寛政2年(1790)から「寛政の改革」で知られる松平定信らを中心に改善が試みられた。

幕府は、地廻り酒を下り酒に劣らぬ品質に高めようと計画した。1790年に、下り酒を禁止するとともに武蔵、上総など関東の川沿いの豪商などに酒米を貸与し、上質諸白の日本酒3万樽を造らせた。これが御免関東上酒の始まりである。酒造人は天明の大飢饉などの影響で酒造高を制限されていたため、熱心に取り組んだとされるが、問題が多発した。

日本酒は最終出荷の前に加熱して酵母を殺菌する「火入れ」という作業が必要になる。加熱が弱すぎると、酵母が死滅せず、輸送・保存中に発酵が進んでしまうし、加熱が強すぎると酒としての味を著しく損ねてしまう。温度計などの無い当時は、杜氏が酒に指を入れて温度を見極めるという、経験と勘が必要な作業であった。

御免関東上酒の醸造に携わった関東の造り酒屋は、この火入れのさじ加減をとうとう最後まで体得することが出来なかった。また火入れ後の品質管理が不十分であったとも推測されている。醸造直後にはそれなりに良い味だった酒も、江戸の町に持ち込んで試飲させる頃には品質が変わってしまい、品質の劣る酒ばかり売れてしまったとする記録が残っている。

関東の酒蔵品質が飛躍を見せるのは明治時代後期においてである。

下りものに劣らない品質のものを関東でも生産させたいという幕府の政策は、酒以外の商品でも盛んに試みられた。醤油や木綿など、他の品目においてはあるていどの成功を収めた。特に醤油については銚子、野田、土浦などで、後年大成功を収めた。ちなみに関東の醤油は濃口で、時代が下るにつれ「下りもの醤油」はゼロとなった。一般に関西では薄口醤油を好んだ。そのため今日の関東と関西では醤油の味が違うのだともいう。

吉田元御免関東上酒 – 埼玉の旧家の記録から」『日本醸造協会誌第87巻第2号 日本醸造協会 1992年 116-123頁

(転載終)

上述の「「寛政の改革」で知られる松平定信らを中心に改善が試みられた」について、調べてみたところ、摂泉十二郷よりも規模が小さいが、尾張や美濃も関係があるらしい。
やっぱりルーツと関わりがあることがわかった。

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来し方行く末を想う

昨日は天長節、すなわち天皇誕生日。

今の天皇陛下が主人と同い年生まれで、私は秋篠宮殿下と同年同月生まれ。ということで、一日中、ぼうっとしながら来し方行く末を考えていた。

伊丹市広報課の2022年2月21日投稿によれば、コウノトリが話題になっていた。

【伊丹市に「コウノトリ」が飛来しました】
市内の昆陽池において、国指定特別天然記念物「コウノトリ」が
3羽飛来しているのが確認されました。
エサを啄んでいるようでした。優しく静かに見守りましょう。

(引用終)

そこで私の応答。

(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)
ここにいたのね?
火曜日の午後遅く、見に行ったけれど、場所不明。昆虫館も休館だったし。
(2022年2月24日転載)

「コウノトリ」にせよ、昆虫館にせよ、秋篠宮ご夫妻が自動的に想起されて、何とも複雑な…..。(2022年2月25日追記:コウノトリの餌は「ナマズ」だとも聞いた。)

いつ頃だったか、伊丹の昆虫館を訪問されたそうだが、転居して4年目に入った今現在のところ、知る限りでは市内でまず話題に上らない。つまり、一般国民ないしは市民の反応は、そういうものなのだ。
。。。。。
宮内庁の広報のやり方の問題もあるのだろうが、そもそも突然、国民の意表を突くような形で、仰天するような出来事が次々と発生する宮家の在り方に事の本質が垣間見える。人心が離れ、国内世論の分裂へと誘導されているかのような懸念を抱かせるのだ。

私が真剣に皇室報道を読むようになり、皇統譜の勉強を始めたのは、2017年頃(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20170523)。きっかけは、皇位継承や秋篠宮家の諸問題からである。今も、さまざまな立場や、いろいろな角度からの情報に接しているつもりだが、とにかく、次の天皇家は我々が想像する以上に深刻な難題を抱えているようだ。

例えば、次のような文春報道もある。

(https://bunshun.jp/denshiban/articles/b2506?fbclid=IwAR0IhEvYMzmGsMdOB_bDbO-Zb6WfxFTPd4kakVEK7kbFghUTMxI4vX6l45s)

《学習院の同窓会組織「桜友会」は昨年100周年を迎え、会員数は14万人》
《財務委員長が理事会で規則違反の4000万円の不正支出》
《標的は担当理事の黒川光隆氏(虎屋)》

だから、「皇族は学習院」という図式が崩れつつある、というのだ。
………………
ところで、過去ブログに、我ながら今読むとドキっとする言葉を綴っていた。
「存在する必要のない血は、自然淘汰されていく」(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20180723)。これは、まさに我々のことを指している。

このブログを書いた当時、既に伊丹への転勤が決まっており、今暮らしている住居も一日で見つけて、仮押さえしていたところだった。主人も私も、少なくとも定年までは頑張ろうと思い、主人に至っては、できれば定年後も嘱託として数年は過ごすつもりで、私の不安をよそに、前向きに強気の態度でいた。

だが、現実は予想以上に速く、深刻に進んだ。

我が家の場合、それでも運に恵まれている。50代での新しい土地での再出発は相当なストレスを伴うが、会社の補助制度もあり、若かった頃の主人の努力が認められていたこともあり、充分に援助していただけた。難病患者に対する勤労支援の法整備が施行された頃、実にタイミングよく進行期に入ったため、職場には大変なご迷惑だったとは思うが、結果的に見て、少なくとも我々二人の暮らしは、経済上も空間的にも無事確保されたのだった。

また、主人にとっては不本意だったとしても、コロナ感染症問題や第一次のコロナ緊急事態宣言は、客観的に見て時機絶好のチャンスだった。というのは、いずれにせよ、病院や介護施設のお見舞いは全面禁止になった上、クラスターも発生。昨今では会社も経済面で縮小傾向にあり、我々の転居後一年半で、伊丹市内の社員寮でさえ次々に取り壊され、新たな住宅ゾーンに造り替えられているからである。
仮に何もなかったとして、あのまま、ずるずると会社に留まるつもりで嘱託希望の書類を出したとしても、恐らく上司は、依頼退職の話をするのに苦労したことであろう。

これは大変に感謝なことで、申し訳なくもありがたく感じる。

とはいえ、本来ならば、こんな筈ではなかった。昭和時代に生を受け、高度経済成長期に育った者として、二人とも、コツコツと真面目に努力を続け、誠実な生き方をしていれば、置かれた場所で周囲にも貢献でき、それなりに自己の人生を充実させることができる、人生は自分の努力で切り開くことができると、素直に疑うことなく信じる楽観性が持てた。それが、蓋を開けてみると、びっくりするような展開になっている。

私共だけではない。

例えば、結婚後、21年程暮らしてきた大阪府下の小さな町で、体力づくりのために、最初の4年ぐらい、私は町内の体育館でバドミントン倶楽部に所属していた。顔見知りになった数名のその後を聞くと、ぎょっとさせられる。あの頃、あんなに楽しそうで、私には何となく羨ましかった人達が、マンションを売却して、いつの間にか生活費の安い他県に移住したり、スーパーの前でポン菓子を販売し始めたりしたのだそうだ。新婚当初、家財道具を揃えるのに利用した隣市の店も、次々と閉店した。

そもそも、平成の最初の10年ぐらいは、戦前に教育を受けた世代がご健在で、昭和時代の遺産貯金が続いていたので、まだ何とかなっていた。

その意味で、我々はギリギリのタイミングで結婚できたと思う。今や、当時は想像もつかなかった事態が次々に起こっている。

(1)相互に知り合うきっかけを作ってもらった大手の結婚紹介所は、二年前に他社の子会社化した。
(2)初めて出会った日に数時間過ごした、名古屋の栄にあった中日ビルの回転レストランは、既に取り壊しとなった。(但し、何も知らなかった割には幸運なことに、徐々に閉館されていく一年前の2017年7月下旬、二人で思い出の写真を撮ることができた。)
(3)挙式から披露宴までの全てをプロデュースした会社は、その頃、京都では「飛ぶ鳥を落とす勢いだ」と言われたナンバー1で有名だった。私共の挙式一ヶ月前には証券取引所で上場され、何事もスムーズに電話一本で進んだ。ところが、徐々に業績が悪化し、2020年のコロナ問題でほぼ破産。名古屋の別業者の子会社に。
(4)披露宴をした京都市北部のフレンチ・レストランは、2016年12月までツィッターで広報を頑張っていたが、ついに閉店。
…………..
2022年7月2日追記

(3)のプロデュース会社の傘下にあった着付け美容院や貸衣装店は、今も別枠で経営中であることを下記の下鴨神社の糺の森関連のチラシで知った。

(5)知り合った直後の1997年1月から2月にかけて、名古屋に来てくれた主人と二度ほど、ボーリングをした名駅近くの「名鉄レジャック」は、2022年6月30日付電子版『日経新聞』によると、2023年3月末で営業を終える、という。
この建物は1972年に開業し、老朽化しているためでもある。1992年度のピーク時には売上高が39億円ほどあったが、コロナ問題のために、2021年度には10億円まで下がったようだ。あの頃、月に一度はアメリカ出張をしていた主人は、合間の週末をぬって新幹線で京都から名古屋まで来てくれており、夕方は「ここで食べてから帰ります」ということで、レジャックの地下の居酒屋で二人分5000円近くを飲食していた。

これにより、主人がその頃暮らしていた京都市西京区の社員寮だった桂寮の取り壊しに加え、入社以来、2018年10月1日付で転勤するまで勤務していた長岡京の京都製作所も2022年3月末に閉鎖となり、知り合った頃の主人の軌跡や思い出は、確実に消えゆく運命にあることが、より明確になった。

(2022年7月2日追記終)
…………..
2023年2月6日追記

たった今、偶然にも見つけたニュースには改めて驚いた。

令和2年(2020年)4月7日の夜9時13分、3階の観察室にて主人が終焉を迎えた兵庫県川西市の協和会協立病院(私立 313床)は、市立川西病院との統合再編のため、昨年の令和4年(2022年)9月1日付で42年間の歴史に幕を下ろした、という(https://www.kyowakai.com/kr/kr.htm)。

この協立病院は、昭和55年(1980年)に設立された古い病院だった。道路を挟んだ斜め向かい側にあった第二協立病院との連携で、療養型病棟から急性期病棟への転院先として、事前調整で、担当医師との相談を通して予め決めてあった。協立病院のお世話になったのは、正味一週間。最後の三日間は人工呼吸器を入れていただき、私にとっての時間稼ぎを許していただいた。また、第二協立病院から出向して来られた先生にお看取りしていただき、若くしっかりしたナースにも手伝っていただいた。

この西原医師は、「採血を担当するよう、主治医から命じられて、いつも自分がしていたが、人となりを知るにつけていたわしくて…」とおっしゃった。「よくこの細い体で頑張った。もうこれが限界でしょう」と。

その後三ヶ月程して、電子カルテを受け取りにもうかがったので、協立病院の建物は写真に保存してある。ごく短期間だったが、とても思い出深く、一生忘れられない病院だと、ずっと思っていた。
。。。。。。。。
話は前後するが、協立病院に搬送される前の状況を記す。

救急車で搬送されて、2019年12月21日から2ヶ月程入院していた宝塚市立病院から、2020年2月17日の午前10時過ぎ、今度は福祉車で川西市にある第二協立病院の療養型病棟に転院することとなった。

主人は、この第二協立病院で「今度こそはリハビリを真面目にやって会社に戻る」というつもりでいたようだが、既に全身に菌が回って免疫状態がひどく下がっており、筋肉が落ちて歩けるどころではなかった。

病室は大部屋だったが、その日は主人一人で、静かで広々としていた。いきなり、「お財布は?」と主人。「転院先の病院では、みんなで一緒に買い物に行けるんだよ」と宝塚の病院で前日の夜、言っていたことを思い出していたのだった。何らかの情報から、買い物リハビリだと考えていたらしい。

「ここではね、まずはゆっくり体と頭を休めること。買い物はそれからね」と言いながらも、私は胸が潰れるような思いだった。

私が知る限り、生涯を通しての主人の買い物は、「みんなで一緒に」するような類ではなかったはずだ。
一人で電化製品の店やスーパーに行くのが普通で、結婚してからは、休みの日に、せいぜい私と二人で、近隣のスーパーあるいは京都や大阪のデパ地下等で、必要な食品(パン、サラダ、揚げ物、お弁当)を買うぐらいだった。

そんな家庭環境で育ちつつも、自分の人生は自分で切り開くのだと強固に高い意志を持ち続け、勉学と技術者としての仕事に熱中した挙句、結婚後一年で、こんな神経難病に侵されて、最後は一人で寂しく病院のベッドで過ごした主人…。

第二協立病院に転院したその日、私が主治医に中心静脈栄養を懇願することによって、ようやく何とか1ヶ月と18日間、永らえさせていただいた。この病院では、しばらくお互いに静かな時間をゆっくり過ごす予定だったが、コロナ問題のため、一週間ぐらい経った2月25日からは、突如として院内全部、面会謝絶となってしまった。
そこで、週二回(火・金)に洗濯物の交換のために通い、それ以外の日は自宅で荷物の整理をしつつ、昔の主人宛の懐かしい手紙のコピーや私なりの伝言メモを用意した。洗濯物の交換時にナース経由で本人に渡すなどして、意思疎通は図ったつもりだった。だが、本人は「一刻も早くこの病院を出たい」と叫び続けて、主治医を相当に困らせていたらしい。時には、「家に帰ろうとして、足がベッド下の床についていた」と、びっくりした様子で夜勤のナースが電話をかけてきたこともある。

それでも、自宅に戻すことは宝塚の頃から考えられなかった。それは、呼吸器内科の専門である主治医の判断でもあった。宝塚市立病院でも第二協立病院でも、入院期間中に高熱が何度か出て、その度に緊急処置をして助けていただいたのだ。私がいない間のことだった。

自宅ならば、私一人でどうすることもできない。かかりつけ医による訪問看護の話がよくあるが、進行性で肺炎や高熱を繰り返して衰弱していく終末期の神経難病の場合、無理の二乗以上の難題であると思う。
第一、昔と違って、いくら近場とはいえ、開業中のお医者さんは皆、忙しいのだ。わざわざ我が家のためだけに、何度も電話で相談したり、すぐに来ていただいたりする贅沢は許されないどころか、まず不可能だ。病院内ならば、それなりにナースが定期的に見回りをしてくださるし、異常が発見されれば、当直医による処置もできる。必要な薬だって、病院ならば大丈夫だろう。

ということで、本人にとっては実に可哀そうだったが、病状の深刻さと、私一人で新たな土地で孤軍奮闘して手続きをするには、これが精一杯だった。
。。。。。。。。
2020年3月31日の正午頃、自分で作った昼食をいただこうとした途端、第二協立病院の主治医からiPhoneに電話がかかってきた。初対面の2020年1月半ばの面接時から、「いつ何時、緊急事態が発生するかわからない」と申し渡されていたために、覚悟はしていたが、手短に「本日の血液検査の結果、免疫状態は….」と、早口で数値を次々読み上げられた後、「結論を言います。すぐに協立病院に移します。奥さん、何時ごろ来られますか?この病院には来なくてもいいから、直接、真向かいの協立病院へ向かってください」と言われた。

そこで、昼食はそのままにして、準備その他をしてから、タクシーで向かった。

協立病院の一階に到着すると、ちょうど主人は検査中だったが、担当の勤務医らしき若い男性医師から「なぜ、あの第二協立病院に入院させたのか?」と詰問された。そこで、「宝塚市立病院の先生から勧められたので…」と答えると、その先生は黙ってしまわれた。

まもなく、検査を終えた主人が、ワゴン付ベッドで運ばれてきて、メモを取りながら担当医の説明を聞いている私を、大きな目でじっと見つめていた。
顔色が黄疸のようになっていて、ひと目で危なそうだ、と思ったが、私の存在や意向を本当に確かめようという意識は、明瞭だった。

荷物を引き取るように言われたので、その時だけは充分、三階に設定された本人の個室に留まって、二人だけの時間を持たせていただいた。その際、第二協立病院に入院中に手書きで書いたという、8ページの手紙を手渡す前に「自分で読み直す」と言い出した。2020年3月31日午後5時15分時点である。その姿は写真に撮ってあるが、後で振り返ると、とてもその一週間後に亡くなる様にも見えなかった。

手紙は、その翌日に受け取った。概要は、「第二協立病院を一刻も早く出て、また食事療法を試してみたい。ハーバード大学の教授も、その療法の有効性を述べていた」とあり、「お金のことをいつも心配しているようだが、大丈夫、これまでの自分の実績を見てもらえれば、自分が倹約型であることはわかるはずだ。そして、貯金もちゃんとあるから心配するな。」「二人で暮らせば、ケータイ料金はいくらいくら、電気代はいくらいくら、食費もこのメニューならいくらいくら、おむつ代はいくらいくら….」と計算までしてあった。そして、「僕の病気のせいで自分のやりたいことができないなら、田舎の施設に入るから、1ヶ月から3ヶ月ぐらい、一緒に探してほしい」とまで書いてあった。

何日かに分けて書いたのであろう手紙の内容は、自宅にいた頃のように非常に向上心に溢れており、「このようにして、あと十年ぐらい、二人で一緒に暮らす希望を抱いている」という方向で終わっていた。充分、気持ちは痛いほど伝わって来たが、これまでの経過や現状を考えると、何とも切なく、痛ましい限りであった。

最後となった協立病院での直接の担当は、若めの女性医だったが、最初から「厳しい状態」だと率直だった。但し、「頭はしっかりしている」と言われ、意識は晴明だったということらしい。それだけに、なぜ主治医との相談による私の責任で、第二協立病院の療養型病棟に2月17日から3月31日まで入れられることになったのか、主人は全く理解ができなかったようなのである。

協立病院でも、時々、夜勤の担当ナースから電話がかかってきた。「コロナ対策で、個室を空けておくよう、行政から指示が出ているのに、ご主人は『個室がいい』と強く要求されています。割高料金になりますが、どうしますか?」という電話もあった。もう、こうなったら最後の望みは何でも叶えてあげたい、と思い、「大部屋の方が淋しくなく、音の刺激もあっていいかと思うんですが、本人がどうしても、と言うなら、その希望を叶えてあげてください」と申し出た。

ある晩には、「こちらでは今のところ、病状は落ち着いています。微笑みさえ浮かべて….」と教えてくださった。(そのSナースが、最後の死化粧も施してくださったのだった。そういう巡り合わせは、幸いだったとつくづく思うところである。)

とうとう、「死んでもいいから食べさせろ!」と女性医に強く主張した主人が、ようやく棒つきキャンデーを「お遊び程度に」嘗めさせてもらい、恐らくはその時の誤嚥が元で急変した模様である。

最後には、私に手紙で自分の意志を伝えたという安堵感と、比較的新しく広々とした第二協立病院の療養型病棟ではほったらかしだったのに、古びて狭い協立病院の急性期病棟では、医師も看護師も手厚く看護してくださる状態に、少しは満足感が得られたのだろうか?

電子カルテを見ると、亡くなる三日程前には、ナースに「自分はかつて、アメリカにもいたんだよ」と、目を輝かせて話したらしい。
結婚してからは、予期せぬ難病のために、望んでいたことは何一つ実現することなく、不本意にも還暦前で終わった短い生涯の中で、最も輝かしく誇り高かった1990年代前半期の二度のアメリカ留学・駐在時代を、全くの他人である若い女性看護師に語ることによって、惨めな神経難病患者としての自分の生涯に折り合いを付けたかったのかもしれない。
。。。。。。。。。
2018年9月末の長岡京から伊丹への統合に伴う転勤の際も、周囲の心配をよそに、「脳の病気で体が不自由になり、動きにくくなっているだけで、自分の頭はしっかりしているのだ」という自意識やプライドを、主人は保持していたかったのだろう、と想像される。その証拠に、「英語だって書けるし、こう見えても昔は、米国東海岸の世界有数の大学で、先端技術を学びに社費で留学していたんだぞ」と、周囲に承服させたかったのではないだろうか。

かつては、相当の名刺もいただき、海外の知人からもたくさんの季節のカードが送られてきていた。それは、主人という人間そのものに対して、というよりは、恐らくは社名と職階の肩書に対してであったのであろう。その証拠に、発病してからは、一切、その方々からは連絡もなくなった。

それでも、そのような時期が人生半ばに与えられていたことは、少なくとも幸福であった、と私は思う。日本の国力が戦後最高にあった時期に、私は政府派遣で3年間のマレーシア滞在を、同じ頃、主人は二度も米国滞在を許された。そのことが、義母をどれほど誇らしく思わせたか、想像するに余りある。

だが、いずれも家庭環境や生育環境が悪過ぎた。いくら本人が個人として努力して、人生を切り開いたつもりであっても、血族としてくっついている肝心の人間関係が、主人の終末期から最期までを、あまりにも非常識かつ悲惨なものにしてしまったのだ。

何よりも、これほど救急入院や転院を繰り返し、どの医師も「深刻な状況である」と述べているのに、病状を理解しないどころか、「二人は夫婦仲が悪かった」と言って回り、医師から面会謝絶を言い渡されても、平気で病室に押し入って邪魔をしたり、ナースステーションに電話をかけて私がしっかり面倒を見ているかどうかを尋ねたり、あちこちの病院や施設で治療方針をひっくり返したりした挙句、何と、最期のお看取りには、協立病院から呼ばれても来なかった。しかも、コロナ緊急事態宣言下にも拘わらず、会社の関係者が二日に及んでお通夜とお葬儀に多数参列されたのに、挨拶一つせず、御骨拾いもしないで、さっさと帰って行った。

こういう血縁者が一人でもいると、患者本人がどういう心境に陥るか、想像するに難くない。

主人の場合、神経難病の過酷さもさることながら、発症に至るまでの家族環境の劣悪さが発病に加担した面が大きかっただろうことを思えばこそ、私としても何ともやり切れず、黙したままでは許されないという気にもなったのだ。

協立病院様、西原先生、S看護師さん、その他大勢の看護スタッフの皆様方、本当にありがとうございました。建物はなくなっても、あの濃厚な一週間の出来事は、いつまでも一生の思い出です。

(2023年2月6日追記終)
。。。。。。。。
2022年2月24日付ブログの続き

結局のところ、私共が挙式した京都の下鴨神社のみが残っているという、何とも淋しい次第。
それでも当時は、私自身の状況が何かと切羽詰まっていたためもあってか、主人も含めて(1)から(4)の全てが輝いて見え、羨望に満ちていた感があった。あの頃だったからこそ、皆さんが集まって祝ってくださったのだった。

いろいろ考えた末、昨年の4月29日の昭和の日には下鴨神社の植樹祭に参加し、主人の一年祭の代わりとして、結婚前に主人が住んでいた社員寮「桂」に因んで、桂の木を植えてきた。(その社員寮も、数年前には取り壊されてしまい、今や場所もわからない。)

今後の日本の見通しは、かなり暗そうだ。

私見では、普段は殊更に皇室の動向を意識することなくとも、折り目や節目の儀式や行事が滞りなく行われていれば、国民の側も安心して、それぞれの日常生活を営み、仕事や活動に従事できる。昭和時代は、戦前と戦後の二期に及び、いずれも激動と言われていたが、子供時代の私にとって、少なくとも皇室は全体として安泰のように思われた。

平成期、現皇后さまにおかれては、相当な決心をして皇室に入られたのに、予想外の猛烈なバッシングで心を病まれ、今も回復途上にいらっしゃるとのこと。これとて、どなたにとっても「こんな筈では」というところではないだろうか。本当に、日本の国益にとっても多大な損失である。お子様だって、当初、(二三人ぐらいは)と、誰もが自然に期待していたのだった。
……………..
昨日公表された天皇陛下のお誕生日記者会見は、約28分。いつものことながら、原稿を用意され、淡々とゆっくりと読み上げられるスタイル。一見平凡なようでいて、実は安定感がある。だが、お声が緊張して震えているようにも聞こえた。

記者会見の質問は5点。
1.コロナ問題について。2.皇后陛下と敬宮愛子内親王殿下のご近況。3.姪御さんの眞子元内親王と言論の自由について。4.有識者会議と皇位継承について。5.沖縄について。

宮内庁ホームページ(https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/51)より抜粋を以下に。

2について。

《無理をせずにできることを一つ一つ着実に積み重ねていってほしい》
《私たちの団欒は,笑いの絶えない楽しいもの》
《愛子には,いろいろな方からたくさんのことを学び,様々な経験を積み重ねながら視野を広げ,自らの考えを深めていってほしい》
《成年皇族として,思いやりと感謝の気持ちを持ちながら,一つ一つの務めを大切に果たしていってもらいたい》

3について。

《結婚に至るまでの状況を踏まえ,納采の儀などは秋篠宮家の判断で,また,朝見の儀などについては,私の判断で執り行わないこととなりました。今後,幸せな人生を歩んでいってほしいと思いますが,同時に,この間,多くの方に心配をお掛けすることになったことを心苦しく思っています。》

《人々が自分の意見や考えを自由に表現できる権利は,憲法が保障する基本的人権として,誰もが尊重すべきものですし,人々が自由で多様な意見を述べる社会をつくっていくことは大切》
《一般論になりますが,他者に対して意見を表明する際には,時に,その人の心や立場を傷つけることもあるということを常に心にとどめておく必要がある》
《他者の置かれた状況にも想像力を働かせ,異なる立場にあったり,異なる考えを持つ人々にも配慮し,尊重し合える寛容な社会が築かれていくことを願っております》

4について。

《皇位が連綿と継承される中では,古代の壬申の乱や中世の南北朝の内乱など皇位継承の行方が課題となった様々な出来事がありました》
《平成28年に愛知県の西尾市を訪問した折に岩瀬文庫で拝見した戦国時代の後奈良天皇の宸翰般若心経は,洪水など天候不順による飢饉や疫病の流行で苦しむ人々の姿に心を痛められた天皇自らが写経され,諸国の神社や寺に奉納されたものの一つでした。その後,京都の醍醐寺では,後奈良天皇の般若心経を拝見し,奥書に「私は民の父母として,徳を行き渡らせることができず心を痛めている」旨の天皇の思いが記されていました。さらに大覚寺でも,嵯峨天皇のものと伝えられる般若心経や,後光厳天皇,後花園天皇,後奈良天皇,正親町天皇,光格天皇が自ら写経された般若心経を拝見しました。》
《鎌倉時代の花園天皇が皇太子量仁親王に宛てて書き残された,いわゆる「誡太子書」においては,まず徳を積むことの大切さを説かれ,そのためには道義や礼儀も含めた意味での学問をしなければならないと説いておられます。》

5について。

《沖縄学の研究者であった外間守善教授から,沖縄の文化や歴史についてお話を伺った》

(以上、抜粋終)

3に関して、陛下のご判断で「朝見の儀」等が執り行われなかった、という点が初耳だった。つまり、父君の秋篠宮皇嗣殿下による「納采の儀」反対のみならず、国民感情と諸事情を踏まえた、伯父に当たる現陛下自らのご判断が下されたということである。
これは異例中の異例で、皇族の長でいらっしゃる責任感の表れと共に、今後の女子皇族の婚姻に対する一種抑制とも言えよう。
しかし、そのご判断に至るまでの皇室内での水面下の話し合いが、いかに難儀を伴うものであったかも、充分に想像されるところである。
いくら、紀子妃が「娘の意思を尊重したい」と繰り返し述べ、眞子さん自ら「天皇陛下が温かく見守ってくださることに感謝」と一方的に公表したとしても、幼少期から厳しく帝王学の訓練を授けられた現天皇陛下におかれては、そういう言葉上の取り繕いは通用しなかった、ということである。
そして、そのことが我々国民の大半を安堵させた。

4の後奈良天皇の般若心経のお話は、以前も語られていたかと記憶するが、「徳を積むこと」にも既に何度か言及されていらした。何よりも、「道義や礼儀も含めた意味での学問をしなければならない」と述べられた点、単なる高学歴の学位のみならず、その真意と意図が見抜かれていることを示唆するご発言であろう。

令和が平成期以上に長く続くことを祈念申し上げます。
一国民として、仰せの言葉の各要点を心に留めつつ、来たる事態に備えて日々を過ごしたいと思います。
……………..
【参照】

秋篠宮家を中心とした皇室問題に言及した過去ブログのリスト。我ながら驚いたことに、予想以上に時間とエネルギーを費やしている。
淡々と平凡でも安定感があれば、国民の側ももっと自分の課題に投入できたのだが….。無視するわけにもいかなかった。

(https://itunalily.hatenablog.com/)

2008-06-19 「振り返ればもうすぐ一年」
2016-02-14 「日泰倶楽部」
2016-10-19 「情緒的反戦思想」
2017-05-23 「共産思想とキリスト教と皇族」
2017-05-25 「憂慮すべき事柄が山積み」
2017-07-08 「利用され続ける日本」
2017-07-28 「精神面での国防が脆弱に」
2017-08-16 「週刊誌の皇室記事からの孫引き」
2017-08-20 「平成になって変わったこと」
2017-08-21 「三代続けて「キャンパスの恋」」
2017-08-22 「実はぴったりのお相手?」
2017-08-23 「眞子さんの海蛇物語」
2017-09-01 「自己認識の再確認」
2017-09-05 「宮家から世相を学び自分を知る」
2017-09-07 「国家存亡の秋」
2017-09-08 「ツィッターの転載から諸々」
2017-09-10 「悪人正機説とはいうものの」
2017-09-11 「要注意に要注意を」
2017-09-12 「秋篠宮紀子妃殿下のご親戚」
2017-09-13 「世間の大勢とつながる」
2017-09-18 「世間の大勢に戻る」
2017-10-09 「ダメ人間なりに生きる」
2017-10-12 「マレーシアを機縁に」
2017-10-14 「西尾幹二氏のワック本」
2017-10-17 「国民統合を目指して」
2017-10-18 「間に合うかしら?」
2017-11-16 「二十周年記念日に寄せて」
2017-11-30 「奄美大島への旅」
2018-03-13 「国内外の難題山積み」
2018-04-05 「安定した皇統の存続と婚姻」
2018-05-07 「占領政策の名残を払拭しよう」
2018-05-17 「御即位に備えて」
2018-06-29 「高円宮家に関する八幡氏の概説」
2018-07-02 「高円宮家絢子女王殿下の御婚約」
2018-07-08 「深刻な意味合い」
2018-07-25 「皇族方の真実こそ国史の中軸」
2018-08-03 「脇の甘過ぎる秋篠宮家」
2018-08-09 「ノリが軽過ぎる秋篠宮家」
2018-09-23 「北朝鮮・秋篠宮・健康情報」
2018-10-26 「昨今の世相をブログ引用から」
2018-10-30 「明治150周年を彩る御慶事」
2018-10-31 「明治150周年と平成の終わりに」
2018-11-07 「是正には三代かかる」
2018-11-20 「世間は動いている」
2018-11-30 「国民として感じること (1)」
2018-12-04 「国民として感じること (2)」
2018-12-21 「ブログとメモの山は本来不要」

(リスト終)
。。。。
【おまけ】

イギリスのタブロイド紙の“Daily Mail”が、KK夫妻について細かく書いていた。タブロイド紙だからなのか、マレーシアの新聞のように単純な英語で書かれているので、なぜか記事内容にピッタリ合っている。

(https://www.dailymail.co.uk/femail/article-10544443/Princess-Makos-husband-Kei-Komuro-steps-New-York-taking-bar-exam.html)

by Monica Greep for Mailonline
23 February 2022

No pressure! Princess Mako’s ‘commoner’ husband Kei Komuro shows off new PONYTAIL as he leaves SECOND attempt at NY State Bar Exam – months after she quit Japanese royal family to start new life with him in Manhattan

‘He was seen sporting long hair that was tied back in a ponytail; he also modeled a very casual ensemble that included a puffer jacket and faded navy trousers’
‘If he fails again, Komuro will have to wait until July of this year to re-take the exam, which is only offered twice a year, however he is able to take the test as many times as he likes’
‘The couple, both now 30, got ‘unofficially engaged’ in 2017’
‘Komuro was only marrying the princess for money or fame.’
‘’So a marriage is a necessary choice for us to live while cherishing and protecting our feelings.’ ’
‘Only male members of the Japanese imperial family are allowed to marry ‘commoners, so Mako’s decision to marry for love means a whole slew of new things for her.’
‘For a start, she is no longer considered a princess – even if the marriage ends in divorce she can never return to the family.’
‘When he returned to Japan, he was dressed casually and sporting long hair drawn back in a ponytail, setting off a media frenzy because it was deemed ‘disrespectful’.’

(Excerpts)

《略式私訳》

プレッシャーはないぜ!またポニーテールにして、ラフな格好。
二度目の試験にすべっても、受かるまで好きなだけ何度でも受験できるらしい。
実は、2017年に非公式に婚約したという。ただお金か名誉のためにマコと結婚したようだ。
「私達の感情を育み守りながら暮らすために、結婚は必要な選択だ」
男性皇族のみが「一般人」との婚姻を許されるが、マコの決心は全く新たなことだった。
離婚したとしても、マコは皇族には戻れない。
夫の格好は不敬だと見なされた。

(以 上)

皇族離脱したとしても、血縁上は事実として繋がっている。
こんな「姪」と「義理の甥」を持つことになってしまった天皇陛下って???前代未聞の珍事。

(2023年2月6日追記終)

Posted in Childhood memory, Japanese culture, © 2023 by Ikuko Tsunashima-Miyake | Leave a comment

伊丹尽くし

1.伊丹市の見守りカメラ

(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)

伊丹市広報課
2022年2月10日投稿

【本市の施策がThe New York Times(International edition)で紹介されました】

市内に1,200台設置している見守りカメラなど本市安全・安心見守りネットワークの取り組みが、2月5日(土曜日)付けのThe New York Times(International edition)で紹介されました。
詳しくはこちら (https://www.nytimes.com/…/japan-elderly-surveillance.html)
(※一つの端末・アカウントで三回以上閲覧すると有料への案内が出ます)

(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)

2022年2月16日投稿

ここだけの話ですが、時々、散歩がてら、私はミマモルメの下に立って手を振ったり、手持ちのiPhoneで写真を撮ったりしています。
怪しい者ではありません。異常行為でもありません。
自覚はしっかりあります。
伊丹警察はとても優秀ですが、ミマモルメの威力も与っているかも?
御礼かたがた、手を振って挨拶しているつもりです。

2.伊丹の陸上自衛隊第三師団・千僧駐屯地

Lily2@ituna4011
陸上自衛隊駐屯地の創立記念行事に初めて行ってきた。観閲部隊が約800名に車両130両で、壮観。格闘訓練や戦闘訓練もお見事。大勢の人々が集まって「カッコいい!」と写真パチパチ。これが現実。過去に私が目にしたメディア報道や文系大学や学会の一部は、一体何を反発していたのか?
5:14 PM · May 12, 2019

3.伊丹市立ミュージアムと井原西鶴

Lily2@ituna4011
学生時代の西鶴織留の印影本、処分してしまったのが悔やまれる。
当時は、まさか伊丹で暮らすようになるとは想像もしていなかったため。
12:57 PM · Feb 16, 2022

4.伊丹酒と白扇酒造

(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)
2022年2月10日投稿

伊丹酒と共に、こちらも是非とも御贔屓を!
気候と地味が都市部と違うので、味わいが異なります。
簡単に言うと、比べられない。そもそも、比べるものでもない。
伊丹市立図書館の酒造コーナーに並べてある二冊の本にも、白扇酒造は掲載されています。
祖母の前で正座して、何度も長い時間、厳しい昔話を聞かされて育ちました。当時は難しくてよくわからなかったことも、今になって、とても感謝しております。

白扇酒造株式会社
2022年2月10日投稿

今年に入ってからコロナウィルスの感染者が増えております。明るいニュースも少なく蔓延防止等重点措置により制限されている世の中ですが、2月にはビッグイベントがたくさんあります。
オリンピック、クラブW杯、そして白扇酒造蔵出し2022があります!
期間は2月12日土曜日から2月20日日曜日まで。
今回は2月にしぼれたばかりの蔵出し原酒、どろりんの他、毎年恒例のあらばしり、にごり、しずにの生酒三種!
もちろん、みりんや甘酒、人気の酒粕もご用意しております。
その他にも協力業者様の出店や六花亭様のお取り寄せ商品を販売いたします。
ご来店いただいたお客様には、素敵なプレゼントやプレミアム企画で純米吟醸55%や純米大吟醸45%を量り売りでお値打ちに提供いたします。
こんな時に外に出るのは嫌だ!っていう方いらっしゃいますよね!安心して下さい。送料無料キャンペーンを2月12日(土)~2月20日(日)まで行います。
コロナウィルス感染予防も徹底しております。白扇酒造で造ったアルコール75%で隅々まで消毒しておりますのでご安心ください。土日は混み合いますので平日も開催しておりますので心配な方は平日にお越しください。心よりお待ち申し上げております。
まん防で飲みに行けない、仲間とわいわいできない!
こんな時は自宅で黒松白扇を楽しもう!

(2022年2月21日転載終)

白扇酒造については、本ブログの2020年3月25日付「母方曾祖父母の家業:白扇酒造」をご参照ください。

【おまけ】

(https://www.city.itami.lg.jp/SOSIKI/SOMU/KIKIKANRI/sincov/25203.html)

新型コロナウイルス感染症で自宅療養中の方へ食料品等を配布しています/伊丹市 (itami.lg.jp)
「レトルトごはん10パック、菓子パン5個、カップ麺5個、レトルト惣菜、缶詰、レトルトカレー、駄菓子など」

← せっかくだが、駄菓子やカップ麺は栄養的観点からいかがなものか?せっかく市の税金を使うならば、同じ料金内で、せめてクッキーや野菜ジュースやスープやフルーツゼリーやビタミン飲料に交換できないだろうか?栄養つけて免疫力を上げて、少しでも早く回復できるように。
7:58 PM · Feb 18, 2022

(2022年2月24日転載)

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学歴・資格と教養の違い

A宮家とKK・MK若夫婦の話題は、賛否両論いずれも、本当にうんざりさせられる。

こういう時こそ、国民の側がしっかりしなければならない、と自分に言い聞かせている。今の時代、「個人情報法」によって守られ、秘密主義のようでいて、不審な在り方はいずれ何らかの形で外へ漏れ伝わってくる。
国際社会でも日本の評判が落ちる。今後が案じられる。
自分の身の丈に合わせて、その範囲内でコツコツと努力し続けていればいい。そして、日本古来からの徳目が正当に認められる世の中であればいいのに….。

平成の大学改革や事業仕分けの頃から、日本社会の様相が平板で薄っぺらくなり、椅子取り競争意識ばかりが前面に出るような、嫌な風潮になってきた。「多様性」「包摂性」とわざわざ声高に謳っている割には、重厚性や深みがなくなったのだ。そして、神経や精神を病む人々が増え、心理療法士の資格が人気で、心療内科が繁盛しているようだ。こんな病める日本は、正常ではない。

学歴や資格は、要領よくやれば短距離で高いところまでいける。内実を披露しなければ、表面的な条件のみで、世の中の通りが良くなる場合もある。
だが、高学歴で資格をたくさん取得していたとしても、それが教養と直結しない点が人生の妙味でもあり、一種安心できるところではある。

教養とは何か。

まずは一般常識と道義心や倫理観を身につけて、実践できること。これは、幼稚園ぐらいから始まり、生涯続くものである。

次に、自分が所属する国籍の土地の来歴を知り、そこに生を受けて命の流れに連なる者として、続く次世代への責任と義務を果たすべく、古典と歴史を学び続けること。これは、相当な努力がいる。学校の授業で習って試験を受けて通れば済む、という類ではない。時間もかかるし、重みを感じながら学ぶことは、決して「楽しい」ばかりの作業ではない。だが、その過程や終着点に内なる喜びが感じられるところに、意義があるはずだ。

さらに、芸術全般に触れること。文学や美術や音楽等、これも努力しないと難しい。多少のお金もかかる。
平成期以降は、「わかりやすい」ことが揶揄的にもてはやされるような安易な風潮が蔓延しているが、非常に苛立たしいことだ。

小学校高学年から中学・高校生の頃まで、母方の祖母が時々やって来ては私を和室に正座させて、酒造家に生まれ育つことの意味と役割を厳しく話してくれた。
江戸末期から大勢の人を雇ってお酒造りの家業を運営していくだけでも大変な上に、家の中では、女中や料理人や小僧さんや髪結いさんまでいて、ほとんどプライバシーなどあってなきが如し。しかも、五人兄弟姉妹の真ん中だったので、言葉遣いから振る舞い方まで、細かくやかましく躾けられていた、という。
女学校でも成績は優等なのが当然視されるため、試験前は布団の中でも必死だったそうだ。
その他に、書道とお茶とお花とお琴を習い、ついでに三味線も弾ける様にされていたようだ。(三味線は、流しの芸人の技だけではない。念のため。)

娘の教養として一通り身につけさせるには、相当の財産がなければ、岐阜の田舎であっても無理だっただろう。昔は着付けも階層毎に決まっていたので、並大抵のことではない。

そういう話を聞いて育った者としては、A宮家の「自主性を重んじる自由な教育方針」が、いかに視野狭く破滅的かを思わされ、身震いがする。
第一、多くの人々が指摘しているように、いくら学習院とはいえ、職員宿舎のような古い団地からお手伝いさんなしで学生結婚し、婚費を宮内庁や皇室に依存していた辺り、常識外れもいいところだ。
そういう妃殿下が将来の天皇をシャカリキになって育てようとしても、そもそも海外帰国子女であり、左翼風の家で育ったならば、皇統に綿々と続く伝統基盤が欠落していると言わざるを得ない。
一般庶民が実力で人生を切り開こうとして、切磋琢磨して入る国立の優秀校に若宮殿下を入れたとしても、そこで国民の上に立つ意識が養われ、健やかに大成されるとは、到底思えない。
…………………
さて、放送大学大学院の三期目の試験結果が出たところで、ここに一つまとめておく。

過去ブログのリスト:

「放送大学大学院と電子カルテの話」(2021年12月25日)
「放送大学院・長谷川式調査法」(2022年1月9日)
「放送大学院に関する呟き集」(2022年1月21日)← 2022年2月17日付の追記有

(https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)
2022年2月17日投稿・2月18日一部修正

多くの方々に励ましていただきましたので、ここでご報告を。
本日、放送大学大学院の第三期目の成績が出ました。6科目受講して、全部合格。もしも最短距離を要領よく済ませようとするならば、あとは論文指導のみで、既に卒業単位は超えていて、お釣りが出ます。
但し、目指す成績としては不満足。
これまで全A以上を目指していて、まずまずクリアできたかと思っていたのに….。

「鬼貫はダメで芭蕉を書け」と指示を出した先生は、『五輪書』を巡る御著書で、他の研究者から「いかにも尤もらしい説」「根拠のない伝説の延長」「観念論の域を出ない」ことを書いている、と批判されていました。レポート成績が出てから、偶然にも発見。示唆的だと思います。
今日いただいたメールにも「武芸・武道を中心としていたので、論じにくかったかもしれません」とありました。だとしたら、出題の指示に「自分で研究した内容を自由に書いても良い」と書いてあったことは、受講生に誤解を招きます。

ガムラン音楽のレポート科目の成績も、合格ではあれども、勿論、「優」ではありませんでした。テキストを詳細に眺めると、引用文献があるサークル内に閉じられていて、同じ中心人物があちこちで引用されており、「日本初の」「日本発の」と宣伝めいています。恐らくは、担当講師はお弟子筋で、放送大学を通して広めようとしているのだろうと思われます。

ですが、ほぼ全部が左派系出版物から出ていて、若い人には好まれるかもしれませんが、実際問題として、私は同意できません。

伝統音楽が、精緻で高度な訓練を必要とする西洋音楽よりも精神医療に役立つとするならば、せっかくの邦楽である雅楽や筝曲やお神楽等を中心にすべきだと思います。
講座のBGMには、いつもバリ島のガムラン音楽が流れてきましたが、私など、マレーシアのことを思い出して、やる気をそがれるばかりです。

ガムランがいけないというのではありません。1990年代初期に東南アジアでガムラン音楽に触れた者として、あの人達の発声法はお世辞にも訓練が行き届いているとはいえず、姿勢にも乱れが散見されます。ラマダン期には、断食のために眠くて体力もそがれ、やる気ゼロの人達でした。

日本の文化には、もっと端正な筋が通っているのですから、そこから精神医療に役立つ知見を見出されてはいかがでしょうか、と私は逆に担当講師の先生方に申し上げたく思います。

以前、ブログに書いたことと重複しますが、「日本文学の研究史」「日本史史料を読む」は、一番好きでおもしろく、A+の成績でした。もともと、学部時代からの関心事の応用発展なので、むべなるかな。但し、これを受講したのは、論文のためでは勿論なく、視野を広げるための自分の興味関心の延長です。担当講師も熱心で、きちんとテキストを書いていらっしゃることがよくわかります。誤植等も、即座に連絡がありました。

自分と相性の合いそうな科目や講師を見つけるには、放送大学のシラバスだけでは不十分で、やはり受講してみて初めてわかることもあります。
就職のために必死にならざるを得ない若い世代とは異なるので、これからもさまざまな感想を持ち続けながら、何とか4月からの本格的な院生生活に備えたいと思います。

(2022年2月18日転載終)

PS:戦前に教育を受けた大正生まれの祖母と、戦後に育った昭和生まれの私の比較。

習い事は、お絵描き教室(小1‐小2)水泳教室(小1‐小4(?))珠算教室(小5‐中1)ピアノ(音楽学校)(5歳‐23歳)のみ。
家の近くの公立学校の部活動は、鼓笛部(小5‐小6)軟庭部(中1‐中3)水泳部(高1‐高3)のみ。
都市銀行員のサラリーマン家庭に核家族で育ったので、勿論、お手伝いさんなし。何でも人に頼らず、自分のことは自分でする。
週一の庭掃除と靴洗い、毎夕の洗濯物の取り込み、お風呂の水汲みと掃除、食後の食器洗い、自分の部屋と階段の掃除は、全部私の「仕事」。
ついでに、十歳年下の弟のおむつ替えや、哺乳瓶で果汁を飲ませたり、一緒に遊んだりするのも、小学生だった私の役目。

「基礎体力と規律ある生活習慣を養うことこそが、生涯を貫く財産になる」という両親の考えは、間違っていなかったと今も感謝しております。
茶道や華道や書道や和楽器演奏の不足は、昔も今も痛感しつつ、何らかの形で吸収できればと、日々営為努力のつもりです。
………….
2022年2月21日追記

フェイスブックにコメントがつきました。

Music Arena様:教える方は楽ではないですね。学生が書いた内容を全方位から俯瞰した上で全て深く理解し、その上でなんらかの特性・形質、また強点・弱点を把握した上で考察し、適切にアドバイスせねばなりまん(ママ)。特にLilyさんのような博識な相手ならばその難易度は如何許りかと拝察します。

ユーリ:私は博識ではありませんよ!今回の件は、仕方がないこととして、諦めます。一応は全部合格できたので。今後とも、応援お願いしますね!

Music Arena様:博識かどうかは自己及び他者評価では違いますね…。ま、私は、Lilyさんは学術的で博識な人と評価しています。それはもうやめますが、今後も全力で取り組み、全優評価を得られんことを祈念します。。

ユーリ:ありがとうございます。今、オンライン講義の薬理学の復習をしていたところです。秋頃はアップアップでしたが、今になると、すっと入ってきますね。よく工夫された講義だと思います。先生も御熱心で、密やかなるファンでした。

(2022年2月21日・22日転載終)
………………
2023年8月20日追記

(https://twitter.com/ituna4011/status/1693106370814603320)
Lily2@ituna4011
脳神経外科の手術で有名な福島孝徳氏によると、
ミケランジェロの言葉として
Ancora Imparo.
世のため人のため、生涯学び続けることが大切だ、と。
← 自分の栄誉のための勉強ではない。
12:43 PM · Aug 20, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1693107508020396108)
Lily2@ituna4011
認知症予防のための勉強
or
仕事の昇進昇格のための学び直し
ではない。自己目的の学習は、行き詰まりが確実。 世のため人のため、社会貢献のために、勉強を継続する。
以上
12:47 PM · Aug 20, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1693103489386422711)
Lily2@ituna4011
プレモダンの私。 前近代人。 自慢じゃないけれど….。
12:31 PM · Aug 20, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1693134436374892756)
Lily2@ituna4011
自分が無知であること、無教養であること、野卑であること、
が、如何に周囲の足を引っ張り、迷惑をかけることか。 そして、ひいては国力低下に繋がる。
どこまでも、いつまでも、世のため人のために学ぶ理由の大前提。
以上
2:34 PM · Aug 20, 2023

(https://twitter.com/ituna4011/status/1693144301289844881)
Lily2@ituna4011
昭和時代には、人様に迷惑をかけないように、国を発展させるために勉強する、が常識だった。 平成のいつ頃からか、自分のため、他人を見下げて批判するために勉強する、に変化。 どちらが徳目として上位にあるか?
3:13 PM · Aug 20, 2023

(2023年8月20日転載終)
…………….
2023年8月23日追記

(https://twitter.com/ituna4011/status/1693276672668422473)
Lily2@ituna4011
この福島先生、過去にはミスやうまくいかなかったこともあったようだが、いかにも昭和の日本人って感じで、私は尊敬する。 患者はもっと強く賢くならなければならない、薬の出し方一つでも、命を預けているんだから。ダメな医師とは、自分からさよならしましょう。 全く同感。いい助言だ。
11:59 PM · Aug 20, 2023

(2023年8月23日転載終)

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国際交流基金が支えた美術家

昨日の続きです。
長谷川哲様の国際交流基金との関わりを示す過去の記録を再現させていただきます。

2022年2月17日追記:(1)の記述について、長谷川様よりご指摘を受けましたので、時系列が前後して恐縮ですが、ここに本日付で訂正いたします。なお、インターネット上の音声を確認したところ、私には「ギュール」と聞こえましたが、現地にいらした長谷川様の表記では「ジュール市」となっています。長谷川様によると、「ハンガリーのジュール市立美術館での個展は国際交流基金の援助は受けていません。この時は確か野村国際財団の援助を受けたと思います」との由。記述が重複しますが、再度、経過を辿りますと、「2003年にエジプト国際版画トリエンナーレの審査員としてカイロに行きました。そこにハンガリーのジュール市立美術館の館長のJuriaさんが来ていました。シンポジームもありお互いに意見を述べました。彼女は僕を評価してくれたのでしょう、彼女がディレクターをしている展覧会に招待してくれました。それが縁でハンガリーとのお付き合いが始まりました。2005年にはその国際展において特別展という位置づけで私の個展が開催され、そこで講演もしたわけです。」とのことでした。以上、昨日時点で公表したブログ記事内容に齟齬がありましたことを、ここでお詫び申し上げます。)

(1) 2005年、ハンガリーのギュール市美術館での講演記録

(https://www.facebook.com/Page-of-Work-introductionSatoshi-Hasegawa-104177617943118/?modal=admin_todo_tour)

Page of Work introduction, Satoshi Hasegawa
2020年5月2日投稿

Lecture manuscript at Gyor City Museum in Hungary, 2005
Artist’s Creative Statement
Satoshi Hasegawa

I studied law and civil litigation in university, graduating in 1970. Nine years later I made the heady decision to give the life of an artist a try. This sudden decision was a serious issue for me, as all the artists of my generation had entered the fine arts field in the mid-1960s to 1970s, while I found myself with no connections whatsoever to the art community. In fact, only in the 1980s did I begin to establish contacts in the art world, which I believe to have contributed to my lingering detachment from the happenings in the art world.

Lacking any formal training in art, I turned to voracious reading to learn about post-war Japanese fine arts and arts knowledge from the 1960s and 70s. In addition, as all creative pursuits require certain technical skills, regardless of media, I relied entirely on my own explorations. My earliest silkscreens were learned from a book, even using tools I fashioned myself.. Still, one can only gain so much from books, so I made a lot of wrong turns along the road, and often went to the printing house seeking advice. Despite numerous setbacks during the process of self-exploration, looking back at those failures it is clear that I managed to learn a great deal.

Starting around May 1979, I tried my hand at assorted lines, making collages or recording my thoughts, and frequenting used bookstores as well. The used bookstores offered a lot of illustrated magazines, which I bought in large quantities. Referring to the pictures I reproduced collaged works, or painted over the pictures in the magazine pages with colored ink. For me this was all very natural, as I found the magazine pictures both real and beautiful. Our daily lives are surrounded by the images of photographs and television, yet I don’t find it unnatural at all; rather, I am strongly affected by the authenticity therein. The massive dissemination of imagery by capitalist society’s consumption mechanism reveals the environment in which the individual exists. Consequently, these images demand to be observed and investigated.

From the very beginning I made a very natural decision to forego the reproduction of any external objects in my art. More than strict depiction, my art is an attempt to interpret the meanings of many different images. The interpretation relies not on language, but on conscious and subconscious physical movement, placing the results of interpretation on a two-dimensional plane. The bombardment of images produced by the consumer society is intended to stimulate the consumption drive. Both a massive undertaking and the product of considerable brainpower, it is cleaver and ingenious, as these images often capture our mind s or even exert power to direct the ways in which we live. Consequently, with the development of the consumer society the role of fine arts-to create images-must take on different meaning.

The title of my debut work, dating from 1980, is Vision Path(fig.1), a work in which I was aware of the focus of my sight on the one hand and executed the vision in lines on the other hand. Naturally, this represents artistic thinking, as opposed to scientific thinking based upon so-called objective observation. Although the lines are related to the objects in my sights, but rather than “faithfully describing the object” they hint at the connections between subject and object. Further, the objects alluded to here are not living models but images seen in photographs or printed materials. For some time thereafter, I became absorbed in the production of silkscreens (figs.2-3).

During this period I also worked with photographs. Using different plates, my print works increased in complexity (figs. 4-6), yet achieved more direct expressive development.

Around 1985, in the search for more direct expression, I began working on a “light drawing” series (figs.7-9). For these, I would set up a camera across from the model in a completely dark room. From the camera, I then projected slide projector light through a pinhole on to the model.

Using this method resulted in zero diffusion of light, resulting in sharper apertures. The camera recorded the movements of light on the model’s body, and the objects in the light’s path were revealed. The extension of Vision Path, these works treated a woman’s body or other objects like a canvas, on which I painted. This series ultimately developed into a series of self portraits, finally concluding in 1995 (figs. 10-11).

The year 1996 marked a major turning point for me. That March I resigned from my teaching position, signifying my becoming a full-time artist. At this time I lost interest in participating in exhibitions at galleries or art museums, immersing myself instead in a climate completely devoid of art information. I would go to the library, thinking about certain things as I read (as odd as that might sound). I believe it was in October or November of that year that I had a certain dream. As that dream is related in a way to the HOME series on which I am still working I would like to recount that dream here:

In the dream a former colleague asks me to go and view some of his works. I enter a dark room with him. Three works stand in a row at the very front of the room. My eyes become transfixed on the works. Due to the lack of the light it is impossible to see them clearly, but they appear to show human faces. Moreover, these works are striking in their originality. In my dream, thinking that these works are “amazing” I began to feel a sense of jealousy. At this time, he mumbles to himself, “But there are other roads.” I take this to mean that there are other possibilities for my art.

This is where I woke up. The next year, 1997, I began working on my HOME series, which I continue to this day.

Since the fall of the Berlin Wall in November 1989 and the dissolution of the Cold War order, many major changes have taken place in numerous ways around the world. Of course, the drastic changes in values have altered basic individual perceptions. In Japanese society, the end of the Cold War era and the bursting of the “bubble economy” brought about many changes in society and the unraveling of various value systems, so that people must face a vexing and most basic issue: how to preserve self-existence through self-consciousness.

My response to these convulsive social changes was to decide to leave the organizational unit of the university. Alone and unfettered, no longer going to art galleries or museums, I temporarily placed myself outside the environment of the art world, relinquishing the title of university professor in favor of unemployment. In this state, I began to appreciate how that title and the sense of responsibility that came with it had restricted my feel will. The late modern composer John Cage once had a brilliant dialogue with the late Japanese modern composer Toru Takemitsu, in which Cage likened artists to the unemployed. He said: “Unemployed means not being under the dominion of anyone. For an artist, this state is especially important. If you can attain this mental state, you can produce and obtain good inspiration.” This statement really knocked me out.

I felt as if I had been awakened from a long dream of many years. I started to re-evaluate and contemplate what people should live for. Including ourselves, we all appear in this visible world, or on society’s stage, where we go through all sorts of ordeals. Then one day we are about to exit the stage, and subsequently this visible world keeps carrying on is if nothing happened at all. I began to seriously ponder the fact that you and me, the earth, the grass and houses are just ephemeral blips in the ongoing march of time. With this understanding, I began to treat the things and scenes around me that I had previously overlooked from my art, and this helped bring about the genesis of the HOME series.

Broadly defined, “home” refers to one’s domicile, place of origin, and family. Every family home in my works has a distinguishing trait, that these homes were not placed in my works because they are just homes. These should be the vistas we see around us. I photograph the homes around me, and process the developed prints using other media. Then I scrape off the signs indicating where the homes are located, thereby removing the fixed nature of the “home,” and rendering it anonymous. Through this anonymity the homes in the pictures take on certain universality. For the viewer, it is “home itself,” while I see the “home phenomenon” through my connection with it, making it the object of contemplation of each viewer.

《写真》
中央:Director Julia.N.Meszalos
右:長谷川哲氏
左:通訳者

(転載終)

長谷川様のお考えは、1987年10月30日付朝日新聞夕刊(東海版)に掲載された以下の投稿文にも表れています。

(2) 1987年10月30日付朝日新聞夕刊(東海版)

(https://www.facebook.com/Page-of-Work-introductionSatoshi-Hasegawa-104177617943118/?modal=admin_todo_tour)

Page of Work introduction, Satoshi Hasegawa
2020年5月5日投稿

新聞への寄稿

「消費者社会でのアート
広告が溢れる日常 独自の視点どう設定」

1987年10月30日 朝日新聞(東海版・夕刊)
長谷川哲

 ここわずかな年月の間に、各地に美術館が次々と開設された。そして、それらが様々な問題を抱えながらも、各種の大型の企画展やら公募展が積極的に開催されて、現在の日本の美術状況は活況を呈しているように見える。けれども当然の事ながら、美術館が増え、画廊が増えれば、日本の美術の質が向上する、というほど単純かつパラレルに事は運ばない。

 芸術的営為は個人の内面に帰する事柄であり、物質的な環境面が整えば、それで芸術的主体の内面整備が出来るような性質のものではないからだ。現代美術の状況の中に身を於いている一人の作家として、内側を眺める限り、ここ何年間かの奇妙な停滞と生命力の低下は、恒常的な霧のように立ち込めて、それぞれの作家の内面は見通し不明のままに手探っている、というのが現実であるように感じられる。

 しかし、このことは美術創作活動に携わる人々に特殊な問題なのではなく、私たちの現在の文化構造に密接な関連を持っていると考えられる。ここでは私たちの社会が現在、多極的に説明される中で、とりあえず「消費者社会」という側面に限定し、その中にアートを投げ込むことによって、この社会の中での美術表現活動について考えてみたい。

イメージ過剰社会

 ここで言う消費者社会とは、生産効率が上がり、そこで剰余価値が独占ではなく、公平に分配されるにつれ、大衆が能動的な消費者となり、消費が文化の理想となるにつれ、それまでの社会と比べて様々な局面で質的変容をきたした社会、と意味しておく。

 現在、私たちの社会の中では、日々、マスメディアを通じて、おびただしいイメージ(マスイメージ)が、商品広告という形で吐き出されている。消費者社会は、イメージ過剰社会でもあるわけだ。このイメージ過剰社会の中でのアートの反応の仕方を、米英など先発消費者社会の歴史のうえで見てみると、それに積極的に反応していったのが、日常的なイメージを積極的に主題として取り入れた「ポップアート」であり、もっともネガティブに反応したのが「ミニマルアート」であった。

 この両者は消費者社会の中で、次々に生み出される魅惑的で、革新的なイメージの圧倒的な量にショックを受けたことを物語っている。商品の獲得が一部のエリートを意味する時代が去り、消費が社会全般に行き渡ったとき、マスイメージは単に商品の紹介にとどまらず、人々のライフスタイルを方向づけ、ひいては文化の方向づけにまで指導的役割を担うことになった。

 そのとき、相対的にアートの持つイメージが社会の中で有効性を減少してゆき、「イメージ」というキーワードを中心に、ポップアートは積極的にマスイメージの取り込みを行い、ミニマルアートはイメージの否定の方向に動いたと考えてよいだろう。

アメリカのポップアートの先駆的引き金となった、イギリスの「インディペンダント・グループ」の一員、リチャード・ハミルトンは自分のポップアートについて、「簡単に忘れられ、大衆的であり、制作費が安く、大量生産ができ、セクシーであり、そして大儲(もう)け出来ること」といった言葉で定義している。

精神の自由を確証

 これらの定義は、殆ど現在の商品広告そのものにオーバーラップする。それではポップアートは、マスイメージと同列なのだろうか。それは単に商品広告から商品説明のコピー文を剥(は)ぎ取っただけなのだろうか。私は決してそうではないと考える。

 彼の作品を見れば、そこには醒(さ)めた距離とでもいうべき感覚を見て取ることができる。

大儲けできるといっても、よもや自分の作品をレディーメードと同一視し、消費さるべきものと考えたわけではあるまい。消費という生命過程を離れて社会を見つめたが故に、社会そのものが客体化されたのであり、他の人々もそれを通して自分が投げ入れられている社会を客体化することが出来たと考えられる。

 美術家は作家である以前に、社会に同時的に投げ入れられている存在である。その於かれた社会と時代の中で、まずもって自分自身の精神の自由を確証するために内省し、思考し、それを物化するという活動がある。そうだとすれば、ポップアートの作家たちがマスメディアの産みだす日常的なイメージを、あるときはほぼそのままの形で、あるいは叉それを用いて別の文脈に置き換えるといった形で、時の社会に積極的に反応していったのは、むしろ素直な展開であったと思われる。

 私たちの消費者社会が持続的に拡大し、その中で人々が物そのものの所有にではなく、物のシンボルの所有にリアリティーを感じ、そのシンボル連鎖で各々(おのおの)が世界を構成してゆくとすれば、そこでの世界は物の所有を目指しながら、むしろ物の基板を離れ、各々が自分自身の無意識を投影した流動的世界の集合体へ変容してゆくかもしれない。

作家の内部を侵食

 それが社会の中で一層共通項をなくすることだとすれば、作家個人もまた社会的空間の内部にリアリティーを見出すことが出来ず、一層自閉的空間の中に陥る危険性が存在する。加えて潜在的欲望を掘り起こすために、映像メディアなどを通じて、私たちの無意識領域へ働きかける方向でイメージが多用されることになれば、マスイメージの側からのアートの積極的な取り込みがさらに進み、両者の境界はより曖昧(あいまい)になるだろう。

 このようにして、この消費者社会の中では、アートが実に多様で多彩な展開を示すにもかかわらず、マスイメージとの関連で絶えずその「自立性」が脅かされることになるのである。

 マスイメージは常に現在を演出し、社会を変容させてゆくであろうが、社会そのものを問題にし、見据える地点には立ち得ないと私は考える。アートは、マスイメージとの不可避的な相互交渉の中で、それと異なった視点の場をどのように設定するかが今後の重要な課題であり、それはまた、この不可解な現代社会をいかにつかみ取るか、ということにほかならない。  

(転載終)

英文もあります。

(3) Contributions to newspapers

(https://www.facebook.com/Page-of-Work-introductionSatoshi-Hasegawa-104177617943118/?modal=admin_todo_tour)

Page of Work introduction, Satoshi Hasegawa
2020年5月5日投稿

Art in a Consumer Society
How to set up a unique perspective on the daily flood of ads

October 30, 1987 Asahi Newspaper (Tokai edition, evening edition)
Satoshi Hasegawa

 In just a few short years, museums have been opened all over the country. In spite of these problems, the situation of art in Japan today seems to be booming, with a variety of large-scale exhibitions and public exhibitions being actively held. However, of course, it is not so simple and parallel as to say that more museums and galleries will improve the quality of art in Japan.

 This is because artistic work is a matter attributed to the personal innermost being, and it is not of a nature that can improve the innermost being of an artistic subject once the material environment is in place. As an artist in the context of contemporary art, as far as I can see from the inside, the strange stagnation and declining vitality of the past few years seems to me to be a constant fog, with each artist’s inner life groping around with an unknown outlook.

 However, this is not a particular problem for those involved in art creation, and it seems to be closely related to our current cultural structure. While our society is currently being explained in a multipolar manner, I have limited myself to the aspect of “consumer society” for the time being, and by throwing art into this aspect, I have considered art expression activities within this society.

society with an overactive image

 The consumer society here means a society that has undergone qualitative changes in various aspects compared to previous societies as the masses have become active consumers and consumption has become an ideal of culture as production efficiency has increased and surplus value is distributed fairly rather than monopolized.

 Today, in our society, an abundance of images (mass images) are spewed out in the form of product advertisements through the mass media on a daily basis. The consumer society is also an image overload society. If we look at the way art has responded to this image overload in the history of consumer societies such as the United States and the United Kingdom, the one that has responded positively is “pop art,” which positively incorporates everyday images as its subject matter, and the one that has responded most negatively is “minimal art.

 Both speak to the shock of the overwhelming amount of captivating, innovative images being produced one after the other in our consumer society. When the era in which the acquisition of goods meant the acquisition of some elites has passed, and consumption has spread throughout society, the mass image has gone beyond the introduction of goods to play a leading role in orienting people’s lifestyles and, by extension, culture.

 At that time, the image of art became relatively less effective in society, and with the keyword “image” at the center, Pop Art actively incorporated mass images, while Minimal Art moved in the direction of denial of images.

Richard Hamilton, a member of the British Indy Pendant Group, a pioneering trigger for American pop art, defined his pop art as “easily forgotten, popular, inexpensive, mass-producible, sexy, and lucrative”.

Confirmation of mental freedom.

 These definitions almost overlap with current product advertising itself. So is pop art on a par with mass imagery? Is it simply a ripped-off copy of the product description from the product advertisement? I think that is never the case.

 If you look at his work, you can see a sense of enlightened distance.

Even though he could make a lot of money, he did not equate his work with ready made and consider it to be for consumption. It is thought that society itself has been objectified because it has left the life process of consumption and looked at society, and other people have been able to objectify the society in which they are thrown through it.

 Before being a writer, an artist is a being who is simultaneously thrown into society. In this society and age, the first activity is to reflect, think, and materialize in order to affirm one’s own spiritual freedom. If that is the case, it seems to me that the Pop Art artists reacted positively to the society of the time by taking the everyday images produced by the mass media and replacing them with other contexts, sometimes almost as they were, and sometimes as they were.

 If our consumer society is expanding continuously, and people feel the reality of owning the symbols of things rather than the possession of the things themselves, and each person composes the world with the chain of symbols, then the world there, aiming at the possession of the things, may leave the substrate of the things rather than the possession of the things, and be transformed into a collection of fluid worlds in which each person projects his or her own unconsciousness.

Encroaching on the writer’s inner workings

 If this means that there is no more commonality in society, then there is also the danger that the individual artist will not be able to find reality inside the social space and will fall further into an autistic space. In addition, if images are used extensively in the direction of working on our unconscious realm through visual media and the like in order to unearth latent desires, there will be more active incorporation of art from the side of the mass image, and the boundary between the two will become more ambiguous.

 Thus, in this consumer society, art’s “independence” is constantly threatened in relation to its mass image, even though it represents a very diverse and varied development.

 I believe that mass images will always produce the present and transform society, but they will never be able to stand on the ground of looking at society itself as a problem. In the inevitable mutual negotiation with the mass image, an important issue for art is how to set up a field of different perspectives, and how to seize this enigmatic contemporary society.

(End)

もう一つ、日英両文の随筆があります。キーワードは、「読書、対話、夢」でしょうか。

(4) 「HOME」シリーズの由来

(https://www.facebook.com/Page-of-Work-introductionSatoshi-Hasegawa-104177617943118/?modal=admin_todo_tour)

Page of Work introduction, Satoshi Hasegawa
2020年4月23日投稿

HOME Series

私の友人に岩田正人という人がいた。惜しくもまだ若かった時に亡くなった。彼は自分の家に伝わる古美術を展示した「岩田洗心館」の館長をしていた。訪れる客は少なく、彼は毎日読書に明け暮れていた。1996年に私は私が教えていた大学を辞めてフリーになった。そしてその年の一年間は僕は岩田氏の博物館に通い続けた。私たちは、様々なことについて話し合った。延べにすると年間50回以上の対話になったのではなかろうか。長い時には私たちは10時間以上にわたる長時間話をしたのである。岩田氏は、博学でもあったが、ジャック・ラカンの研究者でもあった。

彼は格別西洋哲学を勉強していたが、同時に日本の禅にも精通していた。もちろん美術に対してもよき理解者であった。

おそらく私は彼との対話を通じて、自己分析をしていた。かなり心の深いところで。主に私たちは西洋哲学、心理学、芸術を通してはなしをしていた。岩田氏は僕の話にじっと耳を傾けて、慎重で的確な答えを返してくれた。そしてその年の暮れだったろうか、私は象徴的な夢を見た。夢の中で友人が自分の絵が出来たので私に見てほしいと言う。それで私は彼と一緒に、ある部屋に行った。私たちは扉を開けると壁に3枚の絵が縦にかけられている。やや薄暗いその部屋の中で私は目を凝らして絵を見つめた。顔が描かれているように思われた。そしてその絵が非常に深く本質を描いているように感じられて、夢の中で私の心に彼に嫉妬する感情が生まれた。けれども彼はぽつんとつぶやいた。「まだ他の道がある」

むしろそちらの道のほうが良いのだという雰囲気が夢の中で感じた。

それから間もなく私は「HOME」シリーズを始めることになった。

(転載終)

One of my friends was Masato Iwata. Unfortunately, he died when he was still young. He was the director of “Iwata Senshinkan,” which exhibited antique art transmitted to his home. There were few visitors, and he devoted himself to reading every day. In 1996 I quit the college I was teaching and became free. And for the whole year, I continued to visit Mr. Iwata’s museum. We talked about various things. I think the total number of dialogues was more than 50 times a year. On some days we had more than 10 hours of discussion. Mr. Iwata was both a learned man and a researcher of Jack Lacan.

While studying exceptional Western philosophy, he was also familiar with Japanese Zen. Of course, he was a good understanding of art.

Perhaps I was doing a self-analysis through dialogue with him. In a very deep heart. Mostly we talked about Western philosophy, psychology, and art. Mr. Iwata listened carefully to my story and gave a careful and accurate answer. And maybe at the end of the year, I had a symbolic dream. In a dream, a friend made a picture of himself and asked me to see it. So I went to a room with him. When we open the door, three pictures are hung vertically on the wall. In the slightly dim room, I squinted and stared at the picture. The face seemed to be drawn. And it felt like the painting was so deep and essence that in my dreams my heart was jealous. But he mumbled. “There is still another way”

I felt the vibe in my dream that it would be better to go that way.

Shortly thereafter, I started the “HOME” series.

(End)

(5) 長谷川様とのフェイスブック交信で知り得た、2001年と2003年のエジプト・カイロでの個展批評の詳細を以下に。

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Page of Work introduction, Satoshi Hasegawa

《写真》

2001年、カイロのゲジーラアートセンターでの個展(国際交流基金カイロ事務所、エジプト文化省、ゲジーラ・アートセンター主催)
記者会見の写真:左から国際交流基金カイロ事務所所長、遠藤直氏、台湾のダンサーJessie Fan Koさん、
長谷川様、ゲジーラアートセンター館長

(注:2020年5月2日付投稿から、ユーリによる写真説明。文意を変えずに、語句を一部変更)

2001年と2003年のカイロでの展覧会の様子が記されています。

(https://www.facebook.com/Page-of-Work-introductionSatoshi-Hasegawa-104177617943118/?modal=admin_todo_tour)

Page of Work introduction, Satoshi Hasegawa
2020年5月2日投稿

Criticism of a solo exhibition catalog in Cairo, 2001

East Asia’s New Spirit of Representing the Idea
written by Chu Ko, Art Critic and Painter, Taiwan

Satoshi Hasegawa’s ‘Home’ series has the following features:

1.It evokes the 10,000-years-old traditional culture of Europe-microcosm of decadence and rebirth.

2.Poised between motion and stasis, void and substance, it is suffused with the philosophical thought that underlies East Asian art to a concept derived from traditional Chinese painting, namely, that the artist represents his idea of the subject, not its external reality.

(1) Throughout his career, Satoshi Hasegawa has incorporated photographic media into his art. Photographic media into his art. Photographic technology originated in societies whose tradition of painting is realistic, as part of an ongoing quest to reproduce the principles of nature ever more faithfully, more economically, and instantaneously.

To put this another way, photography is a product of science. Science itself could be characterized as ‘visual experience governed by principles of realism’. It is a logic generated according to principles of proportion. In a quest that encompasses both the arts and the sciences, Europeans have spent over 16,000 years seeking more accurate ways of representing physical reality. The process of cultural maturation that began with the Renaissance led to the ‘Triumph of European civilization'; realistic painting matured as part of this process, together with art education.

Eventually, the quest led to the invention of a time-and labour-saving device for producing realistic images: the camera.

It was this very success of realism that ultimately caused the collapse of the Western tradition of realistic painting. Why spend a lifetime busily drawing still lives, figures, and, and landscapes, if the camera can reproduce reality with a click of the shutter? The recognition that there was no need for artists to do what the camera could do better gave rise to the antitraditional modernist movement.

Today, barely a century later , modernism is still very new compared to the Western tradition, or to realism with its 16,000 – year history. The painters who turned against the European realist tradition were influenced not only by photography, but also by primitive sculpture, and by the culture of ‘representing the idea’ which had developed in East Asia. In the years since the realist tradition was destroyed, European painting has had no alternative but no depend on modernism for its rebirth. It will take another five to ten centuries before it becomes clear what was gained and what was lost thereby, but to depend on modernism for its rebirth.

Satoshi Hasegawa’s artworks have their basis in photography.

He takes a photographic negative and uses engraving tools to scrape away much of the image and then add new lines, until he has eliminated the elements of vagueness that were present in the actual scene. In this way, he infuses new life into it. The value of Hasegawa’s originality quickly becomes apparent.

His prints are made by photographing scenery, then scraping away parts of the image to produce a new work. One could almost say that each finished work has retraced the history of art through the ages, from the times of ancient Greeks, or even from the time of Cro-Magnon Man, tens of thousands of years ago.

(2) The ancient Greeks established the science of logic under the influence of visual experience that lay within the European cultural tradition of realism.

Positivism, the natural sciences, and evolutionary theory followed. Photography is simply one of the offshoots of logic.

In contrast to the European tradition of realism, or the representation of external reality, East Asia has produced a culture of ‘representing the idea’.

On the East Asian mainland, where that culture originated, there is a form of plastic art based on knocked cords. Prehistoric Japan, too, had its cord-marked Jomon pottery. The Chinese word for ‘cord'(Sherng)is quite similar in pronunciation to the word for ‘god'(Shern). The important point here is that this term refers not to a transcendent god in heaven, but to an object of worship that was symbolized in the human world by the cord (or snake) motif, in a process also known as Fong Shen or deification. ‘God’, in the broadest sense of the term, is thus an artistic and idealized plastic form in the world of human activity.

To East Asians, the earliest artworks were ‘god-woks’. By scraping away and engraving lines into scenes reproduced on film, Hasegawa has breathed new life into them.

The spirit of those cultures whose art represents the idea of a thing rather than its external reality is expressed in such illogical formulae as ‘Being arises from nonbeing’, ‘ A way that cannot be a way’ , ‘Alike in appearance, unlike in nature’, ‘Meaning beyond words’, ‘ Action amid stillness’, ‘Truth in falseness’. The artist of these cultures do not depict objects perse. A painting of a waterlily, for example, depicts the purity and tranquility with which the lily rises from the mud.

Artists influenced by East Asia’s culture of ‘representing the idea’ cannot fully accept objective realist art. By photographing a scene and then scraping the negative and engraving lines into it, leaving mere traces of a roof, a window, a shadow, Hasegawa creates something that is ‘ like in appearance, unlike in nature’. Such ‘false resemblances’ are the principle at the heart of the I Ching.

Hasegawa takes realistic representations of scenes and, with his engraving tools, makes them less clearly reflective of reality. His is a quintessentially East Asian aesthetic: ‘Being resembles nonbeing, and ‘Meaning beyond words’.

The engraving is done with a sense of speed resembling that of the Earth’s rotation, so that the viewer feels as if he is riding in a train or car. The lines are of many kinds-thick and thin, scattered and dense. With their intense, lively motion, they call to the photographic images of buildings and natural features to wake up. ‘Come on,’ they cry, ‘the new century is here!’

(3) The countertradition of European modern art is not rooted in the Western tradition. Modern art would probably never have come into existence without colonialism, for 18th-century Western colonialists brought back African sculpture, Indian totem poles, Polynesian weaving, and finely detailed East Asian artworks which represented the idea of the subjects. The invention of photography added a further stimulus. The art capitals of Europe were astounded by the array of plastic arts that existed in the world, each with its own vitality and philosophical depth.
Herein lie the true roots of modern art,. Few other theories of its origins have been able to provide more than a partial explanation which fails to address the essence of the question.

Although modern art and the East Asian plastic arts are different in form, the spirit of ‘representing the idea’ is common to them both. It was only with the rise of modern art that the spirit of East Asian culture came to be known in the West, but its influence has been good. Having been ruled for too long by realism’s objectivisation of nature, Europeans tend to think of themselves as the center.

The artist’s self-awakening is fundamental to the culture of ‘representing the idea’. Instead of merely copying the subject or providing visual gratification, the painter expresses his spirit or that of the subject as he conceives it. In the agricultural societies of East Asia, this expression of spirit is typified by the poetic sentiment seen in landscape paintings. For example, in rendering bamboo, the bamboo to express human emotions and poetic associations, such as a sense of detachment, an awareness of the season, or the feeling of a cool breeze. East Asian landscape painters do not depict actual scenery; they paint a mental state-perhaps a contemplative mood inspired by the mountains’ depths, or a feeling of losing oneself in admiration of an ever-changing vista of dark ravines

In a similarly associative state of mind, but one suited to the 20th century or the contemporary era, Hasegawa expresses ‘likeness in appearance, unlikeness in nature’ in his prints by reshaping landscapes; that already have a fixed form. They don’t behave as one would expect of landscapes; they sing songs of praise which unite self and subject amid truth and falseness, motion and stillness.

There is much that future artists can learn from the principles of ‘representation of the idea’ in East Asia’s modern art, as demonstrated by Satoshi Hasegawa
(together with the region’s other outstanding modern artists). An artist who bases his work on Western photographic technology has developed original modern prints by adopting anew the spirit of ‘representing the idea’. That East Asian spirit can accommodate many more artists -including you, perhaps? Each of the various trends of modern art, such as installations, abstraction, or antipictorial art, has a pre-existing theoretical standpoint. But trends that originate in a theoretical position generally become a trap and an obstacle to artists, holding back the genesis of new art. Only the East Asian spirit of ‘representing the idea’ allows artists to create as they please, without any constraints.

East Asia’s alternative to realism can lead to possibilities for creative work that is active, vital, and liberated. It allows us to envision a world of truly free art, and a still brighter future for humanity.

These impressions are offered as an introduction to the world of Satoshi Hasegawa’s prints, a world of ‘representing the spirit’.

(End)

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Page of Work introduction, Satoshi Hasegawa
2020年5月2日投稿

Lecture manuscript at the 2003 symposium in Cairo

The print design as contemporary method of social communication
Satoshi Hasegawa

We are a social existence and are closely related to social changes. Since art is not a separated and isolated existence within society, it also is influenced by social changes.

When we discuss the theme of this symposium, we must look back and think about history. What comes to mind first is the tremendous development mass media made within the mass society of the 20th century. This is the era in which product consumption spread from a privileged class to include the general public. This was in the late 1940’s. In the history of art, if we look at the so-called era of “pop art” within art history, this movement started in independent groups in England, but truly blossomed in the United States.

It is safe to say the characteristics of the mass media are its tremendous funds and the group of experts who gather and think hard to link consumers with products. The mainstream mass media at the time was graph magazines, and seductive advertisements and images flooded the pages. As a result, the image of art started losing its appeal.

This is when artists split into two sides against mass images: one confirming mass images and the other denying them. Pop art confirmed these mass images while minimalism denied them. Of course, this is a very rough generalization, but consider this as an introduction to this Symposium’s theme. I would like to show how art and social changes are closely related.

The society we currently facing could be called the era of informational revolution and the era of globalization, which are closely interlinked and which started to stand out in the latter half of the 20th century. The development of the digital techniques is really astonishing. Nowadays, we can take a picture with a home-use digital camera, and we can digitally edit the picture with a computer. The quality of the image does not drop because the editing is done digitally. The evolution of the hardware is amazing. Today, individuals can take high-quality pictures, add music and edit all by themselves. I have a hunch that, perhaps from now on, multi media contents will consist of many good moves produced on an individual level. As a result, many personal movies will be produced.

Let’s compare the digital picture as a stationary picture with prints made with conventional media and think about the differences.

First, I will show you some slides.

These images are based on Fractal mathematics invented by French mathematician, Dr. Mandel Blow. This piece was created by a Japanese artist Kiyoshi Iwata, and it is based on his own algorithm. He claimed that he applied rigorous mathematical principles to this picture. I think this picture is very beautiful from the standpoint of the art as well. We can say this image is attainable only with digital means because we cannot create this with our hands, and cannot even imagine the results.

We can raise the lack of corporeality as a shortcoming of the digital pictures.

What I mean by the lack of corporeality is whatever we create, either a woodblock paint, a copperplate engraving, or a lithograph, we directly get involved with wood, copper or rock and we use our hands to draw lines on them. In other words, artist’s thoughts are conveyed through a body part called the hands, and emerge in various ways as a collaboration of wood, copper or rocks. Therefore, artist’s corporeality appears.

On the contrary, digital pictures are a media with which it is very difficult to express this corporeality.
When we look at it this way, there aren’t a whole lot of images that can be expressed only digitally. In the future, image made with a computer and print art created by incorporating processed images into traditional media is sure to increase. On the other hand, just like the fractal picture I have shown, I think work simply created by drawing the image with the computer following an algorithm will develop in a separate field. In fact, this is already being called “algorithm art”.

Let’s think about the diversification of media and the fluctuation in the concept of print art next. Because of the diversification of the media, produced will also be diverse. It is so diverse; for example, photocopy machine, digital printer, photographs, or combination of these. Whether we should include these plane works in the concept of prints is an issue. In my opinion, the point is whether the work must pass through a medium, or whether the work attains a uniqueness when passed through a medium.

When creating work with new media, acknowledgement of the necessity of media processing is sure to be the merkmal (landmark) of print art. For example, if a piece is created with photographs, and the negatives are thought of as the print’s plate, I do not think that we can consider this to be a print just because multiple prints can be made.
My work that won the grand prize at International Print Triennale in Egypt was a combination of drawings and photographs.

*Work Slides

I have a hard time accepting the reality of photographs in the original state, so I created this piece by adding drawings. * (Slide 1) Here are the original photographs. * (Slide 2) Here is the piece created by adding drawings.

Mr. Chu KO, a Taiwanese artist whom I admire, pointed out the subconscious impulse that existed in me when he saw my work. He said, “people, who grew up with an East Asian aesthetic feeling, cannot accept the reality of photographs.” According to him, the essence of East Asia’s aesthetic feeling and its reality is to reflect “will” in the work. He, then named my work “New Picture-Will Art.” I deeply pay my respects to the panel of judges who acknowledged and highly valued my work as print art.

I would like to think about the influence of globalization on individual consciousness. Although the word, “globalization,” already existed in the 1980s, it was at the Economic Summit held in Lyon in 1996 that “globalization” was confirmed to be decisively important for the future of world economics. Though people seemed to begin to talk about the globalization as the solution to problems mainly in the economic field, I would like to think about the problems globalization causes in terms of culture, and I would like to question the future role of art.

In terms of economy, “globalization” aims to allow funds and people to come and go freely, by establishing an economic activity structure and set a global standard for these activities so as to make the world one big economic market. This in turn forces a country’s structure, customs, and even culture to be standardized on a global level.

When I think instinctively about the situation of the world to which this idea will lead, I feel a great danger. I think there is a risk of banishing distinctive cultural styles that exist on earth. I think the world is better off when filled with diversity.

Individual egos are a complex existence deeply connected to their own thought forms, aesthetic feeling, and spatial awareness shaped by cultural spheres over a long period of time. If globalization is an inevitable stream that progresses worldwide, individuals will internally experience a breakup between the surface of conscience and the cultural distinctiveness that remains within subconscious in rapid social changes. In fact, this problem is not unique to the globalization era. This is the problem Japan had in the Meiji era, in which Japan had to modernize, and has had ever since. I think that this can be said not only for Japan but also for all over Asia where countries had to modernize after other cultures.

We have taken a general view of the new media produced within rapid social changes we face today, various images resulting from this new media, and their characteristics.

In such era, what roles can our print art play as a method of social communication? What I would like to point out first is that the image produced with new media emerging in each era cannot be a superior image just because the media that produced the image is new.

The important issue is that whichever media an artist uses, how deeply he can think in the relation to the media. Before he is an artist, the artist is a person who is thrown to the same time and space and exists. Within the era or the society he belongs to, recognize his own existence, social or world problems as his own problems with the instincts as an artist, and then creates an image in relation with the media. If that can be accomplished, the image will send, to the people living in the same era, a message from other dimensions that cannot be provided through a mass image.

In turn, the image that art produces, will have depth and a mysterious element, and will carry the meaning as a text.

(End)

最後に、二日前と今日、長谷川様から個人的にいただいたメッセージを私がリライトしたものを、以下に掲載させていただきます。それにより、民主党政権の国際交流基金に対する事業仕分けが如何に馬鹿げたものであったか、十数年後の今、判別ができるのではないでしょうか。

・2001年の長谷川様のエジプトでの個展は、国際交流基金カイロ事務所が主催したものだった。換言すると、その後の事業仕分けで事業制限や経費削減が求められたため、海外事務所主催事業は極めて困難になった。実質的に、あれが最後だったと言えよう。

・経緯を辿ると、2000年の一月だったか、突然ファックスがエジプト文化省から届いた。内容は、長谷川様が「トリエンナーレでグランプリを受賞したので表彰式に招待する」というものだった。カイロの日本大使館にファックスで問い合わせをすると、確かに「グランプリを受賞した」という返事が届いた。賞金はトロフィーの送付などもあるので、以後、国際交流基金カイロ事務所に引き継ぐとあった。その後、基金事務所から連絡があり、やり取りが始まり、「今回の受賞が歴史的な記念すべきものであるので、記念の展覧会を企画したいがどうか」との問い合わせがあった。もちろん承諾。出来るだけインパクトのある展覧会にするべく、台湾のダンサーとのコラボも取り入れ、「東洋からの緑の風」というタイトルにした。

・台湾には打ち合わせで2回ほど行ったが、台湾でも大きな話題になった。

・この展覧会は実に大きなインパクトを与えた。その結果、2002年のアレキサンドリアでの世界最古の図書館の復元事業(ユネスコが中心)、その完成記念の展覧会、Imagining the bookでアジア地区のコーディネーターの長谷川様への依頼、そして2003年の国際版画トリエンナーレの審査委員長の委嘱、と続いた。

・台湾在住50年の日本人の友人の紹介で台北で会った美術家は、台湾の現代美術の第一世代であり、台湾美術界を作ってきた一人の重鎮であるソカ(Chu Ko)さん。亡くなった時、葬儀には李登輝さんが出席された。

・ソカ(Chu Ko)さんは、「東アジアの美意識の中で育った人間にとっては写真のリアリズムをそのまま受け取るのは難しい」と言った。だが、長谷川様の作品は「意を写すという水墨の精神を体現している」と言った。そして、「新写意芸術」と名付けてくれた。

(以上、加筆訂正を施した抜粋引用終)

日本の美術家が、国内よりも海外でむしろ高く評価され、台湾との協力も得て、エジプトで三年連続、影響力を及ぼした背景には、かつての国際交流基金の尽力があったということです。

付け加えさせていただきますと、私は2015年春、ダニエル・パイプス氏が率いた中東フォーラムの研修旅行でイスラエルのネゲブを訪問しましたが、途中で英語圏の参加者と一緒にヨルダンのペトラも観光しました(https://itunalily.hatenablog.com/entry/20150810)。ここの観光地化の整備は、日本の三菱が関与しており、石碑が立っていました。

このように、日本の底力、日本人の能力の高さと他国への貢献度には目を見張るものがあり、中東でも私は確かに感じることができました。その特質はイスラエルのユダヤ系の人々も承認しており、テルアビブやエルサレムでも、「日本人は賢い」と、わざわざ私に言ってくださった方々もいました。我々の先祖の弛みない努力と遺産によるものだと、私は感謝しております。

以上、イデオロギーや近視眼的思考で、我が国の誇るべき文化を破壊することの愚かしさと危険性を、私がかつてお世話になった国際交流基金を題材に、ここ三日間のブログで考察いたしました。

末筆で誠に恐縮ながら、長谷川哲様には、このような省察の機会を与えていただき、重ねまして感謝申し上げます。

PS:ただ今いただいたメッセージによれば、長谷川哲様のいとこ様が、私と同じ高校卒だそうです。以前、長谷川様から「〇〇高校卒ですか?」と尋ねられたことを覚えています。これも何かのご縁だと思います。
…………….
2023年5月5日追記

(https://www.facebook.com/satoshi.hasegawa.1420)

2023年5月4日投稿

ユーリ:長谷川様、お誕生日おめでとうございます。

長谷川 哲:ユーリさん、メッセージをありがとうございます。77歳になったのです。医学の進歩は有難いもので、私はすでに2回にわたって命を長らえました。今後寿命は限りなく100歳に近づくでしょうね。長く生きて日々の喜びを感じ、未知という世界に思いをはせることはやはり素晴らしいと思います。

ユーリ:ご丁寧なお返事、誠にありがとうございます。どうぞ、末長くお健やかに….。

(2023年5月5日転載終)
………….
2023年5月24日追記

下記の名古屋市千種区にある「ちくさ正文館書店」は、私の母方祖母の家の近くです。一度だけ、学生時代に本を買ったことがあります。(ユーリ記)

(https://www.outermosterm.com/hasegawa-satoshi2023-shobunkan/?fbclid=IwAR02DZpqzcXONJJ2pRDth1_AZ58Mc4VBpA0AjGuBRflMe39dIQZN1JowDFA)

長谷川哲 ちくさ正文館書店本店 2023年5月4-25日

2023年5月13日
井上 昇治
1964年、名古屋市生まれ。1989年、新聞社に就職。2002年10月、名古屋で芸術批評誌REARを有志で立ち上げ、2011年頃まで編集。2019年6月にWEBサイトOutermostNAGOYAを始めた。

長谷川哲さんは1946年、愛知県稲沢市生まれ。1970年に慶応大学法学部を卒業。1979年から創作をしている。
1988年、名古屋市芸術奨励賞受賞。現代日本美術展などでの受賞歴も多く、2000年には、第3回エジプト国際版画トリエンナーレでグランプリを獲得している。
2002年には、稲沢市荻須記念美術館で「INAZAWA・現在・未来展(5) 長谷川哲・三輪美津子」が開催された。2019年にギャラリーA・C・S(名古屋)で開かれた個展のレビューも参照。

長谷川哲さんの作品は、風景などを撮ったモノクロ写真のイメージを素材に、荒々しいストロークのような痕跡によって加工した作品などが知られる。イメージ、あるいは意味の世界と、おびただしい線の関係が、長谷川さんの作品では注目されるところである。

 つまり、ストロークの線の向こうには、かき消された世界=イメージがあった。そうして消えたイメージと、侵食され、分断され、孤絶化されつつも残るイメージの断片が、強く、現代の混迷、孤独を浮かび上がらせる。

言葉から、あるいは言葉に向けて

 今回、長谷川さんは、F3のキャンバスにドローイングをした13点を画廊空間ではなく、書店の中に展示している。
最初、筆者は、作品が書店内の小部屋のような空間に壁掛けしてあるのかと、勝手に思い込み、作品を探したが、見つけることができなかった。
 書店の人に聞いて分かったのだが、作品は、本に交じって、書店の各所に1点ずつちりばめるように展示してある。
 作品のサイズが本や雑誌の大きさと、さほど変わらないこともあって、紛れ込んでいるのが面白い。
最初、筆者は、作品が書店内の小部屋のような空間に壁掛けしてあるのかと、勝手に思い込み、作品を探したが、見つけることができなかった。
 書店の人に聞いて分かったのだが、作品は、本に交じって、書店の各所に1点ずつちりばめるように展示してある。
 作品のサイズが本や雑誌の大きさと、さほど変わらないこともあって、紛れ込んでいるのが面白い。
陳列棚に並んだ本の表紙の間に立て掛けてあるかと思えば、平置きされていたり、レジの付近に忍ばせてあったりと、探して歩くのが楽しいのである。
 筆者は、あらかじめ、長谷川さんの作品を見る目的で書店を訪れたが、知らずに来た人はまた違う印象をもつだろう。
 作品は、黒地に、這うような白の細線がぎっしり引かれたドローイングである。
 長谷川さんによると、この作品は、言葉の機能を離れていくような考え方で制作されている。一見、横書きの文字のようにも見えるが、無軌道な線は意味内容の世界を離脱し、線は線でしかない。 
どの言語にせよ、文字は、点や線の組み合わせで記号化され、意味内容を伝えるが、長谷川さんの作品は、それを攪乱するような線の連なりである。
 本は、情報伝達、表現のためのメディアであり、電子媒体がどれだけ進化しようとも、人類にとって欠かすことのできない手段であり続けている。
この書店のさまざまな分野の専門書のタイトルを見るだけで、日々、どれだけ多くの、世界への解釈、記録、伝達、表現がなされているのかと思う。
 線がランダムに、繊細にかかれたオールオーバーな小品。この充実した書店は、意味と解釈の世界で生きる人間世界の象徴でもあろう。長谷川さんの作品は、そんな書店に不意に現れた、意味の空洞である。

 最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

(2023年5月24日転載終)

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その後の国際交流基金は….

昨日の続きです。

2022年2月14日付のブログで転載したフェイスブック交信のやりとりで、長谷川哲様が、
「国際交流基金は民主党が政権をとって、例の仕分けでターゲットにされたのです。1000億円の基金財産でしたから。そこで半分持って行かれて、その後の文化支援ができなくなりました。」
と述べられています。

以下の資料をご教示いただき、改めてびっくりした事業仕分け。ちょうどこの頃、大学改革以降の動向に同意できなかった私は、乱読気味の読書三昧に、クラシック音楽や世界のイスラム潮流やマレーシアのリサーチ・テーマに没頭しながら、専ら自宅で過ごしていました。ニュースで騒ぎは知っていましたが、これほどまでに雑だったとは…。

(https://www.meti.go.jp/intro/koueki_houjin/downloadfiles/ai_04_02_03.pdf)
「独立行政法人の事務・事業の見直しの基本方針
平成22年12月7日 閣 議 決 定」

135ページ中、26ページ目に「外務省 国際交流基金」の「見直し」と「講ずべき措置」がリスト化されています。
昨日付ブログでも書いたように、長谷川様のエジプトやインドでの記念すべき展覧会や、私のマレーシアでの仕事は全て、それ以前の「古き良き時代」の国際交流基金による事業でした。

長谷川様の関連では「文化芸術交流の促進」が該当しますが、何と「原則として国内事業は実施しない」とあります。だから、基金の知名度が落ちて、普通の国際交流団体だと間違われることが増えたのですね?

私の昔の仕事関連では、さらに驚くべき裁断となっていました。

・「関西国際センター」での「日本語研修」について、「アジアユースフェローシップ(高等教育奨学金訪日研修)の廃止」「在日外交官研修プログラムの廃止」
・「海外の日本語教師に対する日本語研修」は、「博士課程プログラムの新規採用休止」「修士課程プログラムの新規採用半減」
・「研修手当(交通費、書籍購入費等)の現金支給は廃止」

これでは、愚民養成講座とでも?文化は高めていくものであり、放っておけば低きに流れる。だからこそ、お金は必要な人材には潤沢に投資すべきなのに、何を考えて?

「不要資産の国庫返納」という欄を見ると、アメリカや中国との関連以外の「運用資金(基金)342億円は国庫」へ返せ、となっています。さらに、「8億円」も「国庫納付」せよ、とあります。合計すれば350億円ですが、長谷川様によれば、基金の財産は942億円だったそうですから、約37%も返金するよう指示されたわけですね?

ついでに、「職員宿舎も返せ」と述べています。

ウィキペディアの「事業仕分け」に関する項目(https://ja.wikipedia.org/wiki/事業仕分け_(行政刷新会議))を見ると、『ネイチャー』誌の462巻7272号(2009年11月26日号)の389ページには、「数年で事業仕分けも落ち着くべき所へ落ち着くかもしれないが、今のままでは今後数十年にわたって壊滅的な影響を及ぼす可能性をはらんでいる」と書いてあったそうです。

事実、アントニオ・グラムシ流の文化的破壊の様相を呈していると私は思っています。

長谷川哲様の展示等については、明日以降、続きを書きます。

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